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第29章:無垢なる捕食者、あるいは死神の不覚

 

 

 甘い香りの余韻に包まれた帰り道。西日に照らされた王都の石畳を、三人の少女が歩いていた。

 シフォンは懐の「黄金のチケット」の感触を確かめながら、次はどこの店の限定メニューを攻略するか、そればかりを考えていた。

 しかし、その平穏は、あまりにも唐突に、そして「無邪気な形」をして現れた。

 

 

「――あ! もしかして、武闘大会のシフォン様ですか!?」

 

 活発な声が響き、一人の少女が三人の前に飛び出してきた。

 肩まで届く金髪に、燃えるような赤い瞳。青いノースリーブのワンピースにロングスカートを合わせ、肩にはケープを羽織っている。頭にはヘアバンド代わりの赤いリボンが結ばれており、その姿はどこからどう見ても、街に溢れる無害で快活な町娘そのものだった。

 アリアとグレイスが顔を見合わせる中、少女――リリエルと名乗った彼女は、顔を輝かせてシフォンに詰め寄った。

 

「やっぱりそうだ! 昨日の試合、一番前で見てたんです! すっごく格好良くて、私、もう大ファンになっちゃって!」

 

 リリエルは屈託のない笑顔で、右手を差し出した。

 

「握手、してもらえませんか!?」

 

 シフォンは一瞬、躊躇した。

 本来の彼女であれば、見ず知らずの者の接近を許すはずがない。しかし、戦争が終結して十年の月日が、そしてアリアやグレイスという「戦い」から最も遠い存在に囲まれた日々が、彼女の研ぎ澄まされていたはずの感覚を、僅かに、だが致命的に鈍らせていた。

 

(……ただの、ファン。……断るのも、面倒くさい)

 

 シフォンは無造作に、その手を取り――直後、背筋を凍らせた。

 

 握られた瞬間、シフォンの手首に、細身の少女のものとは思えない、鉄万力のような力が加わった。

 

「――っ!?」

 

 危機を察知したシフォンが手を振り払おうとした瞬間、リリエルの体が「生物」としての輪郭を失った。

 リリエルの胸部から二本、そして頭部から一本。肉を突き破る音もなく、鋭利な棒状の突起が、触手のように勢いよく突き出してきた。

 

「あはっ!」

 

 シフォンは瞬時に体を捻った。頭部への一撃は紙一重でかわしたものの、手を拘束された状態では限界があった。

 ドシュッ、と嫌な音が響く。

 二本の突起が、シフォンの胸部を容赦なく貫通していた。

 

「……あーあ、急所外した。残念」

 

 リリエルは突起を瞬時に体内に引き込み、元の可憐な少女の姿に戻った。その表情は、射的を外した子供のような無邪気な落胆に満ちている。

 シフォンは傷口を押さえ、後退しながら目の前の存在を凝視した。

 

(……血が、通ってない。……高精度の擬態。……高い知能を持った、スライム)

 

 シフォンが槍を召喚し、反撃に移ろうとしたその瞬間。

 パン、パンという乾いた音が二回響き、シフォンの両膝が弾け飛んだ。

 

「……っ、がっ……!」

 

 足から力が抜け、シフォンはその場に崩れ落ちた。外部からの狙撃か、あるいはリリエルの隠し持った攻撃か。膝を正確に撃ち抜かれ、死神の機動力が完全に奪われる。

 

「さて、トドメ、刺してもいいよね?」

 

 リリエルが軽やかな足取りで、倒れたシフォンへ近づく。

 その時、シフォンの前に一筋の銀光が走った。

 

「シフォン様に、触らせませんわ!!」

 

 グレイスだった。彼女は手にした槍を迷いなく振り抜き、リリエルの胸を横薙ぎに切り裂いた。同時に、背後からアリアの鋭い声が響く。

 

「――『ライトニング・バインド』!!」

 

 アリアが放った電撃の魔法がリリエルの体を直撃し、青白い火花が散る。強固な物理耐性を持つリリエルだが、魔法か電撃に耐性がないのか初めて苦悶の表情を浮かべて跪いた。

 

「……いたたた。あはは、お姉さんたち、意外とやるんだね。槍は平気だけど、電撃は……ちょっと嫌いかなぁ」

 

 リリエルは切り裂かれた胸部をドロリとした粘液で修復しながら、依然として明るい笑顔を崩さない。

 その直後、グレイスが何かに反応し、身を翻して槍を振るった。

 カカカッ、と連続した金属音が響き、彼女の足元に数ミリ単位の微小な金属片が落ちる。

 

「……狙撃!? シフォン様、他にも敵がいます!」

「……っ、アリア、グレイス。……下がって」

 

 シフォンは吐血しながらも、残った魔力を振り絞った。

 

「――煙幕、展開!」

 

 シフォンを中心に、数十センチ先も見えないほどの濃密な白い煙が一気に周囲を包み込んだ。それはシフォンが緊急脱出用に用意していた魔導具の一つだった。

 

「……グレイス、……私を担いで。……アリア、……走って。……ここ、死地になる」

「了解ですわ!」

 

 グレイスは槍を収めると、倒れ込むシフォンの小柄な体を力強く抱え上げた。

 背後からリリエルの楽しげな笑い声と、連続する狙撃の着弾音が聞こえてくるが、三人は煙幕の闇を切り裂き、必死の思いでその場を離脱した。

 西日に照らされた平和な王都の路地裏。

 そこは今、お菓子の香りの代わりに、生々しい血の匂いと、逃れようのない「死」の気配に塗り替えられていた。

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