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第27章:甘美なる誓約、あるいは死神の選択

 

 武闘大会の喧騒は、石造りの壁を隔てた控室まで、地響きのような余韻となって届いていた。

 アリアはシフォンの控室の硬い椅子に座り、兄ヴィクトールから手渡された数枚の紙束を凝視していた。そこには、末弟カイルが国外の勢力や国内の革新派と通じ、現体制を転覆させるための兵站や人員配置が、無機質な数字と共に記されている。

 

 重い扉が開き、シフォンが戻ってきた。

 激戦を終えた直後だというのに、彼女の呼吸は既に平時のものに戻っている。服の端が僅かに汚れている程度で、外見上の損傷は見当たらない。アリアは立ち上がり、安堵を押し殺して声をかけた。

 

「シフォンさん、優勝おめでとうございます。怪我はありませんか」

「……ん。約束、守った。怪我はアリアが治したから、もうない」

 

 シフォンが短く応えた直後、廊下から重い足音が近づき、ヴィクトールが入室してきた。彼は喉元の傷を応急処置の布で押さえ、痛みを堪えるように口角を歪めて笑った。

 

「約束の品だ。受け取れ、死神」

 

 ヴィクトールが差し出したのは、王家の紋章が透かし彫りにされた黄金のカードだった。王都に存在するあらゆるスイーツショップを一年間、無制限かつ無料で利用できる特権の証である。

 シフォンはそれを受け取ると、普段の無機質な瞳に僅かな熱を宿した。指先でカードの刻印をなぞり、質感を確認する。

 

「……今日から、一年間。……食べ放題。……これ、一生大事にする」

「フン、家宝にでもするがいい。……アリア、あとの話は任せた。俺は奴の尻尾を掴むために、少しばかり地下に潜る」

 

 ヴィクトールは妹の肩を一度だけ強く叩くと、治療のために、そして自らの戦いのために部屋を出ていった。

 

 部屋に沈黙が戻る。アリアは手元の書類を握りしめ、シフォンに向き直った。

 

「シフォンさん。……一つ、不味い話をしなければなりません。お菓子の余韻を台無しにするような、重い話です」

「……分かってる。不穏な匂いが、ずっと消えないから」

「はい。王国の中に、血と闘争を望む過激な一派が潜んでいます。そして、その一派には王位継承権を持つ者が深く関与している。……その名前は――」

「……カイル」

 

 アリアがその名を唇に乗せる前に、シフォンが遮るように告げた。

 アリアは目を見開き、言葉を失った。シフォンの視線は真っ直ぐにアリアを捉えて離さない。

 

「どうして、カイルだと? 誰にも、ヴィクトール兄様にさえ話していなかったはずなのに」

「……最初から、違和感があった。あいつ、口は笑ってるけど、目は何も見てない。戦場でよく見かけた、……内側が腐りきっている奴の目と同じ」

 

 シフォンは淡々と、かつ冷徹に分析を口にした。

 

「確証はなかった。けど、私の知り合いに、そういう人の腹黒さや悪意に異常に敏感な奴がいる。……リリィ。あいつも言ってた。カイルの匂いは、どぶ川の泥の味がするって。……だから、ずっと警戒してた。いつ、あいつの首を跳ねるべきか、考えてた」

 

 アリアは、シフォンが自分とは全く異なる「戦士の嗅覚」で、とっくにカイルの本質を見抜いていたことを突きつけられた。自分が「弟」として信じようとしていた時間は、シフォンにとっては「敵」としての観察期間に過ぎなかったのだ。

 

 アリアは一度深く息を吐き、シフォンを見据えた。

 

「ヴィクトール兄様の調査によれば、カイルは近いうちにクーデターを起こすつもりです。王都は戦場になり、これまで以上の危険が貴女を襲うでしょう。……シフォンさん、貴女はガリル様に半ば強引に連れてこられた身です。この政治の闇に付き合う義務はありません。今なら、この任務を降りて村へ帰る手配をします。……私個人の、願いとして」

 

 アリアは、シフォンを血塗られた身内の争いから切り離そうとした。それは彼女なりの、最大限の親愛の情だった。

 しかし、シフォンは黄金のチケットを懐に収めると、感情の起伏を排除した声で即答した。

 

「……断る」

「……危険だと言っているのです。死ぬかもしれませんよ」

「……美味しい甘味をくれる人を、裏切る趣味はない。あんたは私に、……『究極の味』を教えてくれた。その恩は、何よりも重い」

 

 シフォンは腰の銀槍を軽く叩き、アリアの瞳を静かに見つめ返した。

 

「……カイルが蛇なら、私がその牙を折るだけ。……アリアは、何も気にしなくていい。美味しいものを食べて、笑っていればいい。……汚い仕事と、死神の役目は、私が引き受ける」

 

 シフォンの言葉に、アリアは震える手を抑え、ただ一度だけ深く頷いた。

 

「……ありがとうございます、シフォンさん。……よろしくお願いします」

 

 夕闇が部屋を浸食していく中、二人はそれ以上言葉を交わさなかった。しかし、その場にはどの騎士の誓いよりも強固な、甘味と信頼による「契約」が成立していた。

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