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第25章:暴風の残響、あるいは神技の代償 一、 臨界点を超えた連撃

 

 コロシアムを埋め尽くした数万の観衆の視線が、中央の舞台に釘付けになっていた。

 そこに立つのは、王国の「野性」を体現する第一王子ヴィクトールと、甘味を愛する「死神」シフォン。審判の右手が振り下ろされた瞬間、世界の時間が加速した。

 

 ヴィクトールが踏み込んだ衝撃で、石畳が爆ぜた。

 傭兵団を率い、数多の戦場をその身一つで潜り抜けてきた彼の剣技は、洗練とは対極にある。それは暴風、あるいは濁流。理屈をねじ伏せる暴力の塊だった。

 対するシフォンの銀槍は、閃光。

 重い金属音の火花が散り、二人の周囲には竜巻のような風圧が発生する。一番近くで見守っていた審判は、あまりの衝撃波に目を開けていられず、まるで暴風雨の真っ只中に放り出されたかのような錯覚に陥った。

 

「――っ、ははぁ! まだまだ上がるぞ、死神ィ!」

 

 ヴィクトールの咆哮と共に、打ち合いの速度がさらに跳ね上がった。

 甲高い金属音の隙間が埋まり、一つの連続した「鳴動」へと変わる。次の瞬間、観衆の目には奇妙な光景が映った。

 

 二人の動きが、止まったのだ。

 

 否、それは停止ではない。攻撃の起こりから打ち終わりまでが、人の視神経が処理できる速度を完全に超越したのだ。静止したかのように見える二人の間で、絶え間ない火花と、空気を引き裂く金属音だけが激しく鳴り響き続ける。

 それはもはや、無詠唱の風魔法を至近距離で叩きつけ合っているような、神話の領域の戦闘だった。

 数瞬の激突の後、キィィンと耳を刺す音が響き、二人が僅かに距離を取った。

 同時に、二人の頬が裂け、赤い血が伝い落ちる。

 

「シフォンさん……っ!」

 

 観客席のアリアが、悲鳴に近い声を上げて立ち上がった。無敵だと思っていたシフォンが、初めて傷を負う姿。隣で観戦していたグレイスもまた、息を呑んだまま動けない。武人として、その領域が自分とはあまりにかけ離れていることに、戦慄と冷や汗が止まらなかった。

 

「……いい。……少しだけ、楽しくなってきた」

 

 シフォンは頬の血を無造作に拭うと、瞳の奥に「死神」の冷徹な熱を灯した。

 再び交錯する二人。だが今度は、ヴィクトールの戦い方が変わった。

 純粋な剣技の合間に、傭兵仕込みの荒々しい蹴りや、肩を使った体当たりを織り交ぜ始めたのだ。騎士の決闘では禁じ手とされる泥臭い打撃が、シフォンの「超速」のリズムを微妙に狂わせる。

 

「……っ、ちょこまかと……!」

 

 シフォンも負けてはいない。小柄な体躯を最大限に利用し、ヴィクトールの巨体をいなし、受け流す。槍の柄で彼の脇腹を突き、内腿を蹴り上げ、変幻自在のカウンターを見せる。

 だが、ヴィクトールは不敵な含み笑いを浮かべた。

 彼はジリジリと移動し、シフォンをある場所へと追い詰めていた。

 シフォンが強烈な横薙ぎを放ち、その打ち終わりに生じた僅か一瞬の硬直。ヴィクトールはその機を逃さず、大きな体躯を活かした全力の体当たりを叩きつけた。

 

「……しまっ、……!?」

 

 意表を突かれたシフォンは回避を試みるが、避けきれない。そのまま観客席と舞台を隔てる高い壁へと押し付けられた。

 そして、その壁のすぐ先には――。

 

「シフォンさん!」

 

 心配そうに身を乗り出す、護衛対象のアリアがいた。

 

「――シフォンッ! 筆頭護衛官なら、命懸けで守ってみせろォ!!」

 

 ヴィクトールの咆哮が響く。それは挑発であり、試練だった。

 彼は壁を背にしたシフォンに対し、退路を断つような、目に見えぬほどの剣の乱舞を放った。

 

 逃げ場はない。アリアが目の前にいる以上、大きく下がることもできない。

 絶体絶命の瞬間、シフォンは極限まで体勢を低くした。

 

「――消えた!?」

 

 観衆の目にはそう見えたはずだ。シフォンの姿が掻き消え、ヴィクトールの放った剣風が空を切る。

 次の瞬間、ヴィクトールの背後に、音もなく銀髪の少女が立っていた。

 ヴィクトールの動きが、糸が切れた人形のようにピタリと止まる。

 彼は苦しげに喉を押さえようとしたが、その手は届かず、そのまま膝から崩れ落ちて舞台に突っ伏した。

 

「……しょ、勝負あり! 勝者、シフォン殿!!」

 

 呆然としていた審判が、我に返ったように叫んだ。

 一瞬の静寂の後、割れんばかりの、地響きのような大歓声が巻き起こった。

 医務官たちが慌てて駆け寄り、気絶したヴィクトールを担架で運んでいく。シフォンにも医務室へ行くよう促すが、彼女はそれを短く拒絶し、ふらつく足取りでアリアの元へと歩いていった。

 

「シフォンさん! ああ、良かった、大きな怪我がなくて……!」

 

 アリアは観客席から飛び出し、シフォンを強く抱きしめた。

 シフォンはアリアの温もりを感じながら、自らに苦手ながらも治癒魔法をかけ、体中の細かい切り傷を塞いでいく。だが、一つだけ魔法で隠しきれない部分があった。

 

「……アリア。……これ、治して」

 

 シフォンが差し出した左手を見て、アリアは息を呑んだ。

 彼女の人差し指と中指が、第二関節からあり得ない方向――手の甲側へ向かって、ほぼ反対側に折れ曲がっていたのだ。

 

「そんな……! すぐに、すぐに治しますわ!」

 

 アリアが必死に治癒魔法を唱える。柔らかな光がシフォンの手を包み、バキリ、という生々しい音と共に骨が元の位置へと戻っていく。

 

「シフォンさん、あの一瞬で何があったのですか……? 剣の連撃の中を、どうやって……」

 

 アリアが、震える声で尋ねた。

 回復を終えた指を動かすシフォンに代わってその「神技」の内容を察したグレイスが解説を始めた。

 

「……シフォン様は、ヴィクトール王子の剣の隙間を縫うように、敢えて懐へ飛び込んだ。そして、得物である槍を捨て……いえ、槍を囮にして、指先だけで王子の喉を突いたのです。気道を潰し、脳への酸素供給を物理的に断つことで、一瞬で意識を刈り取った。……あの折れた指は、王子の鋼のような首の筋肉に、無理やり指を突き立てた代償ですわ」

 

 アリアは、その壮絶な戦い方に戦慄した。

 槍だけではない。指一本、体一つ、すべてを凶器に変えて標的を沈める。それは正に、戦場を支配した「死神」の戦い方そのものだった。

 

「……槍にこだわって、負けたら……お菓子、食べられない。……だから、勝った」

 

 シフォンは平然と言ってのけたが、その表情には微かな疲労と、そしてアリアを守り抜いたという安堵が滲んでいた。

 

「シフォン様……武人として、武器にすら固執しないその覚悟、感服いたしましたわ。わたくしも、まだまだ修行が足りません……!」

「……グレイス、……あんたは、指折っちゃダメ。……痛いから」

 

 シフォンの言葉に、アリアとグレイスは顔を見合わせ、やがて小さく笑い声を上げた。

 ヴィクトールの仕掛けた「試練」は、シフォンの圧倒的な実力と、アリアへの揺るぎない献身を証明する結果となった。

 

「さあ、シフォンさん。決勝戦の前に、一度ゆっくり休みましょう。……美味しいお茶と、とっておきのケーキを用意させますわ」

「……うん。……頑張る」

 

 シフォンはアリアの手を引き、観衆の歓声を背に受けながら、舞台を後にした。

 その足取りは、先ほどまでの「死神」のそれではなく、ただ甘いものを心待ちにする、一人の少女のそれであった。

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