第24章:兄の背中、あるいは仮面の嘲笑
激闘の余韻が残る喧騒から離れ、シフォンが薄暗い選手控室の廊下を歩いていた時のことだ。
不意に、前方の闇が揺れ、白磁のような無機質な面を被った「仮面の戦士」が姿を現した。
「……見事な一戦だったな、死神。だがあの戦いぶり、お前の手の内はすべて見切らせてもらったぞ」
男とも女ともつかない、歪な声が響く。
シフォンは歩みを止めることなく、ただひたすらに面倒くさそうな視線を向けた。
「……誰の手の者? どこの誰だか知らないけど、……お菓子の邪魔をされるのは、嫌い」
「フッ、誰の手かだと? 素直に答えると思うか。ただ一つ言えるのは……私はお前の主、アリア王女の『敵』になり得る存在だということだけだ」
仮面の戦士が勝ち誇ったように笑みを深めた。
――その刹那。
シフォンの身体には、攻撃の前触れとなる「予備動作」も、闘志という名の「気の起こり」も一切なかった。ただ、コンマ一秒にも満たない「無」の時間の後、彼女の手には召喚された銀槍が握られ、その鋭い切っ先が仮面の喉元を完璧に捉えていた。
「……私の槍を見切った、……って言ったよね?」
シフォンの瞳には、温度の感じられない冷徹な光が宿っていた。
仮面の戦士は息を呑み、僅かに動揺を見せる。この距離を詰められ、反応すら許されなかった事実は、彼の「見切った」という言葉が児戯に等しいことを証明していた。
「な……っ!? ……ハハ、なるほど。これはほんのご挨拶だ。あまり熱くなるなよ――」
戦士が軽口を叩き、逃走の機を伺ったその時。
彼の背後、逃げ道となる影から、もう一つの巨大な圧力が現れた。
「――挨拶程度で済ませてやるほど、俺は気が長くなくてな」
冷たく低い声と共に、仮面の首元に鋭い剣が突きつけられる。そこにいたのは、傭兵団長ヴィクトールだった。彼の瞳には、普段の傲岸不遜な笑みではなく、静かで深い怒りが灯っている。
「部下を何人も暗殺してくれた礼をさせてもらおうか、鼠め」
逃げ場を失った仮面の戦士。降参するかと思われた瞬間、彼の足元で小さな爆発音が響いた。
「――くっ!」
シフォンとヴィクトールが同時に踏み込むが、立ち込めた大量の煙幕が二人の視界を遮る。煙が晴れた時には、仮面の男の気配は、風のように消え去っていた。
「……逃がしたか。小癪な手品を」
ヴィクトールは悔しげに舌打ちし、剣を納めると、改めてシフォンに向き直った。
「災難だったな。だが、奴の言った通りだ。二回戦の相手は俺だ……その挨拶に来たのだが、少々予定が狂ったな」
シフォンはヴィクトールの挨拶を適当に受け流すと、銀槍を消し、冷ややかな視線で彼を射抜いた。
「……挨拶はどうでもいい。……それより、園遊会でのあの態度。……アリアを傷つけるなら、あんたでも、……刺す」
ヴィクトールは一瞬驚いたように目を見開いたが、やがて寂しげで自嘲的な笑みを浮かべた。
「……あれは、俺なりの『忠告』だ。アリアは理想の自分を追い求め、高潔であろうとしている。だがな、シフォン。あいつはまだ甘い。純粋すぎるんだ。政治の闇、腹の探り合い……そんな汚泥の中で泳ぐには、あいつの心はまだ綺麗すぎる」
ヴィクトールは窓の外、王宮の方向を眺める。
「妹のエレナも同じ思いだろう。俺たちは、あいつと一緒にいてやることができない不甲斐ない兄姉だ。だから、あえて嫌われ者を演じてでも、あいつに現実の厳しさを叩き込んでおかなければならない。……せめてもの、手向けとしてな」
ヴィクトールは再びシフォンを見据えた。
「この大会にお前を誘ったのも、お前がアリアを守るに相応しい牙を持っているか、この目で見極めるためだ。……ゆえに二回戦、俺は一切の手を抜かん。俺は一回戦のシノよりも、遥かに強いぞ」
シフォンは数秒の沈黙の後、やはり面倒くさそうに溜息をついた。
「……あんたが何を考えてるか、なんて……どうでもいい。……アリアが無事で、私がお菓子を食べられれば、それでいい」
「フッ……。相変わらずだな」
ヴィクトールは小さく笑うと、背中を向けて歩き出した。
「ならば尚更、俺を倒してみせろ。お前の『平穏』を勝ち取ってみせろ、死神」
すれ違う二人の影。
王家の宿命を背負う兄と、甘味のために最強を振るう少女。
それぞれの決意を胸に、二人は決戦の舞台へと備えるのだった。




