第22章:甘い誘惑と、弟子の暴走
王都の空は抜けるように青く、コロシアムを埋め尽くした観衆の熱気は、石造りの観客席を震わせるほどの地響きとなって鳴り響いていた。
年に一度、王国最強の戦士を決める「御前武闘大会」。
その華々しい開会式の列に、周囲の猛者たちとは明らかに異質な、小柄な銀髪の少女が立っていた。
「……帰りたい」
シフォンは、深く被ったフードの奥で小さく呟いた。
彼女の表情は、これから死闘に臨む戦士のそれではない。日曜日の午後に、どうしても外せない用事で無理やり起こされた猫のような、この世の終わりを感じさせるほどの「面倒くささ」に満ちていた。
なぜ、自分がこんな砂埃の舞う殺風景な場所に立っているのか。
シフォンの意識は、数日前のあの忌々しくも、甘美な記憶へと遡る。
園遊会での一悶着が終わり、会場が少しずつ落ち着きを取り戻していた頃のことだ。
騒ぎの中心から離れ、シフォンは庭園の隅にある円卓で、崩れ落ちる寸前のデコレーションケーキと格闘していた。アリアの安全は確保され、あとは胃袋を満たすだけ。それが彼女にとっての「平和」だった。
そこへ、一人の男が歩み寄ってきた。
長男でありながら王宮を出奔し、傭兵団を率いる武闘派王子、ヴィクトールだ。
「……何か用?」
シフォンはフォークを動かす手を止めず、視線だけを向けた。
ヴィクトールは、どこか挑発的で、それでいて獲物を罠に誘い込む軍師のような不敵な笑みを浮かべていた。
「いや、先の無礼を詫びようと思ってな。……それと、一つ耳寄りな話がある」
ヴィクトールはシフォンの隣に腰を下ろすと、顔を近づけて囁いた。
「近々、王都で年に一度の武闘大会が開かれる。我ら傭兵団もゲストとして招待されているのだが……どうだ、お前も出場してみないか?」
「……断る。面倒くさい」
即答だった。
シフォンにとって、自分の実力を誇示することなど何の価値もない。そんなことに時間を使うなら、学園の裏庭で昼寝をしていた方がマシだ。
「そう言うな。もし、お前が俺を……あるいは俺の精鋭を打ち破って優勝することができたなら、褒美を取らせよう」
ヴィクトールはそこで一度言葉を切り、シフォンの反応を伺うように目を細めた。
「……王都にある全スイーツショップの『一年間無料・全メニュー食べ放題パス』だ。もちろん、入手困難な限定品も優先的に回すよう、王家の名で手配しよう」
ピクリ、とシフォンの耳が動いた。
脳内に猛烈な葛藤が渦巻く。
(……一年間、食べ放題。……限定品も、並ばなくていい。……でも、戦うのは、面倒くさい。……砂糖か、怠惰か。……究極の、選択)
シフォンが皿の上でフォークを握りしめ、苦悶の表情を浮かべていたその時。
背後から、期待に満ちた元気な声が響いた。
「シフォン様! 受けましょう、その挑戦!」
乱入してきたのは、シフォンの自称「一番弟子」、グレイスだった。
「わたくしの師匠であるシフォン様の槍が、いかに無敵であるか! 王都の人々に知らしめる絶好の機会ですわ! 師匠に恥をかかせるような不届き者は、このグレイス・バイオレットが、……いえ、シフォン様が根こそぎなぎ倒してご覧に入れます!」
「……えっ、ちょっ、グレイス」
「さすがはバイオレット家の息女だ、威勢がいい! では、出場手続きはこちらで進めておこう。シフォン、逃げるなよ? 街中の菓子職人が、お前の勝利を待っているぞ」
ヴィクトールは楽しげに笑いながら去っていった。
なし崩しに決まった出場。シフォンは、キラキラとした瞳で自分を見つめる愛弟子に対し、「……バカ」とも言えず、ただ深く溜息をつくしかなかったのである。
「……というわけで、今ここにいる」
回想を終えたシフォンの視線の先には、最前列で大きく手を振るグレイスの姿があった。
「シフォン様ー! 頑張ってくださいましー!」という声が、コロシアムに響き渡る。
(……弟子に取ったこと、一分くらい後悔してる。……いや、二分かも)
シフォンは手元の銀槍の重さを確かめた。
面倒くさい。死ぬほど面倒くさいが、目の前には「食べ放題パス」という名の黄金の果実がぶら下がっている。
「……早く終わらせて、……パフェ、食べに行く」
開会式の太鼓が鳴り響く中、シフォンの瞳に「死神」の冷徹な光が宿った。
それは対戦相手への闘志ではなく、ただひたすらに、最短ルートで甘味へ到達しようとする執念の輝きであった。
年に一度の武闘大会。
伝説の傭兵が、砂糖のために無双する伝説の幕が、今切って落とされた。




