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第18章:揺れる天秤、あるいは絆の宣誓

 王都を包む秋の風は日増しに冷たさを増していたが、王立リリウム学園の学舎には、変わらぬ穏やかな時間が流れていた。

 地下遺構での激闘、そして「氷姫」リリィとの数年ぶりの再会。

 それらの非日常を終えたシフォンは、再びアリアの傍らという、彼女にとっての「定位置」へと戻っていた。カイル王子はシフォンへの感謝を丁寧に伝えた後、残された課題を片付けるべく、再び留学先の都市へと発っていった。

 だが、シフォンの胸中には、晴れない霧のような違和感が居座り続けていた。

 

「シフォンさん、本当にお疲れ様でした。カイルから聞きましたわ。遺跡の最深部で、とても恐ろしい魔導兵器を倒してくださったとか」

 

 学園の中でも広い中庭

 アリアが淹れた温かいハーブティーの湯気が、シフォンの頬を優しく撫でる。

 隣では、グレイスが羨ましそうに、そして少し悔しそうに身を乗り出していた。

 

「シフォン様! わたくしも同行したかったですわ! その魔導兵器とやら、わたくしの剣で一太刀お見舞いしてやりたかったですのに!」

「……グレイスには、アリアの護衛を頼んでたから。……そっちの方が、大事」

 

 シフォンはそう答えながら、手元のスコーンにたっぷりとクロテッドクリームを塗る。いつもの光景だ。しかし、彼女の視線はどこか遠く、カイルが去っていった門の方向を無意識に追っていた。

 リリィが残した、あの不吉な断言。

 

『――あいつの体の奥底から、ドブのような、腐った魔力の匂いがする。』

 

 シフォンは迷っていた。アリアにとって、カイルは唯一の弟であり、彼女が「自分よりも王に相応しい」とまで信頼を寄せていた肉親だ。その彼に「狂乱の魔石」や闇の世界との繋がりがあるかもしれないなどと、確証もないまま伝えて良いものか。

 もし、リリィの感覚が正しく、カイルが自らの意志で闇に手を染めているのだとしたら。

 それはカルデナスのような「目に見える敵」よりも、遥かに残酷な刃となってアリアの心を切り裂くだろう。

 

「……シフォンさん?」

 

 アリアの静かな声が、シフォンの思考を遮った。

 見れば、アリアはティーカップを置き、真っ直ぐにシフォンの瞳を覗き込んでいた。その双眸には、誤魔化しを許さない王族としての鋭敏な知性が宿っている。

 

「何か、隠していらっしゃいませんか? 遺跡から戻られてから、貴女は時折、とても悲しそうな……いえ、何かを恐れているような目をなさる」

「……っ」

 

 シフォンは一瞬、息を詰まらせた。隠し事は得意なはずだったが、学園での日々を共にしてきたアリアの直感は、シフォンの心の綻びを正確に捉えていた。

 

「……アリア。……一つ、聞いてもいい?」

「ええ、何なりと」

「……もし、あんたの信じているものが、……貴女を裏切るようなことがあったら。……あんたが、一番大切だと思っている場所が、実は闇の入り口だったら……あんたはどうする?」

 

 その抽象的な、しかし重い問いに、場が凍りついた。グレイスも息を呑み、二人のやり取りを固唾を飲んで見守る。

 アリアは一瞬だけ、沈痛な表情を浮かべた。それは、彼女自身が心のどこかで予感していた「最悪」を突きつけられた者の顔だった。だが、彼女はすぐに、いつもの凛とした、慈愛に満ちた表情へと戻った。

 

「シフォンさん。遺跡で、再開したという方から警告を受けたのですね?」

「…………」

 

 シフォンは観念したように、小さく頷いた。カイルの名前を出すことは、まだできなかった。リリィの言葉はあくまで感覚的なものであり、今はまだ彼を「黒」と断定する証拠がないからだ。

 

「……その人は言ってた。……学園も、この国も、私たちの知らない深い闇に飲み込まれようとしてるって。……そして、その闇の種は、私たちが思っているよりもずっと近くにあるって」

 

 アリアは、シフォンの震える指先に自分の手を重ねた。

 

「……覚悟はできていますわ。私は国王候補の一人。この身を国に捧げると決めたあの日から、身内に牙を剥かれることも、信頼した地に裏切られることも、全ては想定の内です」

 

 アリアの声には、迷いがなかった。

 

「たとえ何が起きようとも、私は逃げません。私が守るべきは、王族としての面目ではなく、この国に生きる人々……そして、今こうして私を案じてくれる、貴女たちの未来ですから」

 

 その毅然とした言葉に、シフォンの胸に溜まっていたおりが、少しだけ洗い流されたような気がした。

 

「……そう。……なら、安心した。……護衛の、しがいがある」

 

 シフォンは、いつもの無愛想な、けれど温かい微みを浮かべた。

 

「……何が来ても、私が追い払う。……あなたがどんな選択をして、どんな未来になったとしても……お菓子を食べながら、ずっと見ててあげる」

「まあ、頼もしいですこと。では、国王になった折には私の戴冠式の時に世界で一番大きなウェディングケーキのようなパフェを用意させなくてはいけませんわね」

「……約束。……忘れたら、承知しない」

 

 二人のやり取りを見ていたグレイスが、我慢できなくなったように立ち上がり、拳を胸に当てた。

 

「わたくしもですわ! アリア様が闇に立ち向かうと仰るなら、バイオレット家の剣はどこまでも共にお供いたします! たとえ相手が王室の何者であろうと、アリア様を傷つける者は、わたくしが叩き斬ってご覧に入れます!」

「グレイスさん、頼りにしていますわ」

 

 三人の笑い声が、秋の空に響く。

 カイルへの疑惑、リリィの警告、そして「蛇」の正体。

 不安の種が消えたわけではない。むしろ、本当の嵐はこれから始まるのかもしれない。

 だが、今のシフォンには分かっていた。

 一人で戦っていた「死神」の時代とは違う。

 背中を預ける友がいて、守るべき確かな意志がある。

 

「……さあ、冷めないうちにケーキを食べよう。……これからの作戦会議は、甘いものがないと始まらない」

 

 シフォンは力強くそう言うと、次の戦い――あるいは次のデザート――に向けて、フォークを手に取るのだった。

 たとえ、その行く手にどのような闇が待ち受けていようとも、彼女たちの絆が消えることはない。

 王都の夕闇が迫る中、三人の団結は、静かに、しかし熱く燃え上がっていた。

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