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第9話:毒蛇の哄笑、あるいは守護者の矜持

 

 煌びやかなシャンデリアの光が、大理石の床に鏡のように反射している。王宮の正晩餐会。そこは、甘美な音楽と高価な香水の香りに満たされているが、その実態は、笑顔という仮面を被った者たちが互いの喉元に短剣を突きつけ合う、血の流れない戦場であった。

 

 アリア・フォン・ルミナスは、その場にいる誰よりも鮮烈な深紅のドレスを纏い、堂々と会場を歩んでいた。その一歩後ろ、影のように付き従うのは、騎士風の礼装に身を包んだシフォンである。

 シフォンは、自身の存在感を極限まで削ぎ落としていた。かつて戦場で「死神」と呼ばれた殺気は、今は深い淵の底に沈められている。しかし、その瑠璃色の瞳だけは、絶え間なく周囲を走査していた。給仕の足運び、柱の陰に潜む近衛兵の視線、そして、談笑する貴族たちが扇の裏に隠した言葉の毒。

 

(……空気が、悪い。ここには『平和』の匂いが微塵もしない)

 

 シフォンが内心で毒づいていると、アリアがふと足を止めた。その背中が、一瞬だけ微かに強張ったのをシフォンは見逃さなかった。

 

「……シフォンさん。来ましたわ」

 

 アリアが囁く。その視線の先にいたのは、一人の男だった。

 仕立ての良い燕尾服を着こなし、優雅にグラスを傾けているが、その瞳には爬虫類を思わせる冷酷な光が宿っている。革新派の過激派を束ねる重鎮、カルデナス卿。

 シフォンはその男を一目見た瞬間、傭兵時代の嫌な記憶が蘇るのを感じた。

 それは、自ら剣を振るう勇者ではなく、安全な後方から糸を引き、他人の命を盤上の駒として弄ぶ「策士」の匂いだ。戦場において最も卑劣で、最も厄介な類の人間。

 

「おやおや、これはアリア王女殿下。今宵もお美しさに磨きがかかっておいでだ」

 

 カルデナスが演技がかった動作で一礼する。その喋り方は朗らかだが、どこか薄ら寒い響きを帯びていた。

 

「風の噂で聞きましたぞ。何でも、物騒な暗殺者に狙われたとか……。さらには、バイオレット侯爵家の愛娘までもが洗脳の憂き目に遭い、殿下を襲ったとか。ああ、なんという嘆かわしいことだ。殿下がお怪我をされなくて、本当に、本当に安堵いたしましたよ」

 

 白々しい。その一言に尽きる台詞だった。アリアは表情を崩さず、凛とした声で返す。

 

「ご心配痛み入りますわ、カルデナス卿。ですが、ご覧の通り私は無事です。そして、私の大切な友人も……今は既に、快方に向かっておりますわ」

「それは重畳。……おや?」

 

 カルデナスはそこで初めて、アリアの背後に控えるシフォンに視線を向けた。品定めをするような、舐めるような視線。

 

「殿下、まだそちらの美しいお嬢さんを紹介されておりませんな。王宮の晩餐会に、このような幼い騎士を伴うとは……。どこの名家の息女ですかな?」

 

「彼女はシフォン。私の友人であり、私が個人的に雇用した筆頭護衛官です」

 

 アリアは一歩前に出て、堂々とシフォンを紹介した。その瞳には、深い信頼と誇りが宿っている。

 

「私の知る限り、この世で最も強く、最も信頼に足る人物ですわ」

 

 その紹介を聞いた瞬間、カルデナスは耐えきれないといった様子で吹き出した。

 

「ハハハ! これは傑作だ! 王女殿下、冗談も休み休み仰ってください。この世で一番強い? この、人形のように可憐な少女がですか? いやはや、殿下もお若い方だが、なかなかの諧謔かいぎゃくをお持ちだ」

 

 カルデナスはひとしきり大笑いすると、右手をシフォンの前に差し出した。

 

「失礼した、シフォン嬢。殿下の『最強の騎士』に、敬意を表して握手を求めたい。……受けていただけますかな?」

 

 シフォンの瞳が、僅かに細められた。

 カルデナスの手。それは単なる挨拶ではない。握り込んだ際の指の力、筋肉の反応、それらを通じて相手の技量を探ろうとする「検分」だ。

 シフォンは無表情のまま、カルデナスの目を見据えて答えた。

 

「……申し訳ありませんが、カルデナス卿。私は今、アリア様の護衛としてこの場に立っています」

 

 彼女は右手を胸に当て、非の打ち所のない礼儀正しさで、けれど断固としてその手を拒絶した。

 

「任務中につき、いつ何時いかなる方向から牙が剥かれるか分からないこの場所で、利き手を他人に預けるような迂闊な真似はできません。護衛としての職責上、貴方の非礼には答えられませんが、私の非礼もお許しいただきたい」

 

 カルデナスの笑顔が、一瞬だけ凍りついた。

 単なる「強がり」ではない。シフォンの言葉には、戦場を真に知る者だけが持つ、実戦的な重みがあったからだ。

 

「……ほう。職責、ですか」

「失礼いたします、カルデナス卿。他の方々への挨拶も残っておりますので」

 

 アリアはそれ以上の会話を拒むように短く告げると、シフォンと共にその場を離れた。

 背後に残されたカルデナスは、二人の後ろ姿をじっと見つめていた。その唇が、醜く、ニヤリと歪む。

 

「……面白い。最強、か。あの瞳……確かに、ただの学生のものではないな。あれは、かつて大陸の北で見た……『死神』の瞳によく似ている」

 

 カルデナスは手に持ったグラスを一口で飲み干すと、闇の中に控える部下に視線で合図を送った。

 

「探れ。あのアリア王女が拾ってきた『銀髪の小娘』の正体をな。……もし本物であれば、晩餐会のメインディッシュは予定よりも豪華になりそうだ」

 

 会場の華やかな喧騒を他所に、毒蛇の計画は静かに、けれど確実にシフォンへと牙を剥き始めていた。

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