05-1.春代の母親
「大丈夫ですか?」
春代は食事を運んできた侍女の顔が腫れていることに気づいた。
「問題ございません」
侍女――、セツはいつも通りに食事を並べていく。
春代はセツが母親であると気づかなかった。
……なにか冷やせるものがあればいいのですが。
殴られたのだろうか。
セツの顔は腫れている。動きもぎこちない。
「紅蓮様、腫れを引かせる薬はありませんか?」
春代は隣に座っていた紅蓮に問いかける。
紅蓮の存在に気づいていなかったセツは驚いたような顔を一瞬見せたものの、すぐに元の無表情に戻す。
「ある」
紅蓮は即答した。
「だが、この者には必要ないだろう」
紅蓮はセツの正体に気づいていた。
そのことに春代は気づかなかった。。首を傾げ、紅蓮の言葉の意味を考える。
「春代を虐げた者に慈悲はない」
「私、彼女に殴られたことはございません」
「おや、気づいていないのか?」
紅蓮はおもしろそうに笑い声をあげた。
……気づいていない?
虐げられる日々は日常だった。その中に食事係の侍女もいたのだろうか。
そのようなことを春代が考えている間、セツは冷や汗をかいていた。
……見たことがあるような気がしてきました。
その記憶は虐げられた日々ではない。
幼い頃の日々の記憶が頭を過った。
「それは春代の母親だろう」
紅蓮は答えを口にする。
言われてみて、春代は驚いたような顔をした。
「お母様?」
十数年と口にしていない言葉を口にした。
それに対し、セツは静かに頷いた。それから、そのままの勢いで頭を床につけた。
「申し訳ございません。紅蓮様」
セツは紅蓮に謝罪をする。
「俺に謝ってどうする」
紅蓮は機嫌が悪そうに返事をした。
「春代に謝罪をしろ」
紅蓮はセツに命令を下した。
春代はそれに対し、戸惑っていた。
……謝ってもらうことがありません。
心当たりがなかった。
十数年と会話をしてこなかった。母親だと言われても幼い頃の記憶の中の母親と、目の間にいるセツとでは印象が違いすぎて、心の整理がつかない。
虐げられている子を放置するのも虐待だということに、春代は気づいていなかった。
「春代」
セツは震える声で春代の名を呼んだ。
「お前を生贄に推薦したのは、母である私です」
「え……」
「神宮寺家で生きていくよりは神様の生贄になった方が良いと判断したのです」
セツの告白に春代の心は揺れる。
……どうして。
両親の関心は失った。
しかし、生贄に推薦したのが母親だったと知りたくもなかった。
「本来の生贄は、静子様でした」
セツは嘘を吐いた。
そうするように静子から指示されていたのだ。
その嘘を紅蓮は見抜いていた。
「未来のある若者よりも、才能のない我が子を生贄にと当主に頼み込みました」
セツは頭を下げたまま、言葉を口にする。
嘘が混じった本音だった。
「……本当ですか?」
春代も違和感を抱いていた。
「お母様は私を生贄に選んだのですか?」
春代は問いかける。
それに対し、セツは頷いた。
「そうです。お前を生贄にするように頼み込みました」
セツは肯定した。
「本来は紅蓮様のお嫁様に選ばれるのは静子様でした。それを私の我儘で変えてしまったことを、心より、お詫び申し上げます」
セツは再び紅蓮に謝罪をした。
……静子様が本当のお嫁さん?
違和感の正体はそこにあった。
……彰浩様と婚約をされているのに?
次期当主の嫁候補を生贄に差し出すとは考えにくい。
「嘘でしょう」
春代はセツに声をかけた。
「生贄は最初から私だったはずです」
春代は知っている。
静子が春代のことを生贄だと笑っていたことを思い出した。
「お母様はなぜ侍女の真似をしているのですか?」
「生贄の母親として当然の仕事をしているだけです」
「生贄の母親は殴られないといけませんか?」
春代はセツに同情してしまった。
我が子を放置した母親に対し、怒りの感情はない。虐げられて当たり前の日々は春代から怒りの感情を奪ってしまった。
「お母様は静子様の義母でもありますよね」
春代はセツの手に触れた。
「お母様」
春代は怒っていない。
たとえ、生贄にするように懇願した話が事実であったとしても怒らない。
それほどに今が幸せだった。
「私は生贄に選ばれてよかったと思っております」
「そんなはずは――!」
「そうしなければ、紅蓮様と出会えませんでしたから」
春代は穏やかな口調で告げた。
紅蓮との出会いが春代を強くした。
「……そうですか」
セツはゆっくりと顔をあげる。
その眼からは涙が零れていた。
「紅蓮様、春代をよろしくお願いいたします」
「言われなくてもわかっている」
「いいえ。言わなくてはなりません」
セツは覚悟を決めた。
「静子様は紅蓮様を諦めておりません」
紅蓮の顔をしっかりと見つめる目からは涙が零れ落ちる。それは恐怖によるものだった。