05-3.春代の母親
「私でしたら、耐えられないと思います」
春代は想像すらもしたくなかった。
紅蓮が他所で作ってきた子どもを我が子のように育てるなど考えたくもない。ましてや、その子に見下されて侍女として扱われる日々など耐えられない。
「お母様。私はあなたを母として慕うことができません」
春代は言い切った。
春代がセツに向ける感情は同情だけだ。それから、純粋に札作りについて学びたいと思ったからこそ、声をかけただけである。断られてしまえば、独学で進めるつもりだった。
その程度の感情しか抱けなかった。
「……それでいいのです」
セツは悲しそうに笑った。
許されるなどと夢に描いていたわけではない。
「わたくしのわかる範囲でよろしければ、札作りは教えましょう」
セツの言葉に春代は嬉しそうに笑った。
……先生がいるといないでは大違いですもの。
誰かに教わることに対して強い憧れを抱いていた。
誰も春代に物を教えようとしなかったからだ。
……これで紅蓮様の役に立てます。
誰かの役に立ちたいと思えたのは、ずいぶんと久しぶりだった。紅蓮と出会い、自分自身が大きく変わっていくことを自覚する。
「お願いいたします、先生」
「先生ですか?」
「はい。母としては慕えなくても、先生としてならば慕える気がするのです」
春代の言葉にセツは頷いた。
そして、涙を指で拭う。
「わたくしも生徒として接しましょう」
セツは母であることを諦めなければならなかった。それが幼い我が子を手放した罰だ。しかし、新たな立場を与えられたのはセツにとって幸運でしかなかった。
* * *
「この役立たず!」
静子はセツの腕を叩いた。
セツはすぐに静子の元に戻り、嘘にまみれた状況を口にした。嘘の中に事実を混ぜ、それらしく報告をしたのだが、静子の気に障ったようだった。
静子は怒りを露にする。その態度が春代と正反対だった。
「紅蓮様にわたくしが本当の花嫁だと伝えたのでしょうね!?」
「はい、お伝えしました」
「それなら、どうして、紅蓮様はわたくしを迎えに来ないの!?」
静子はセツを蹴り飛ばした。
壁に衝突したセツはなんとか姿勢を戻す。それすらも気に入らなかったのか、静子はセツを何度も蹴る。
「おかしいでしょう!」
静子はセツに八つ当たりをする。
何度も蹴り、殴る。そうすると少しは気が晴れたのか、静子はセツを暴行するのを止めた。
「どうせ、お姉さまに同情でもしたのでしょう」
「そのようなことは――」
「お黙りなさい! 発言を許可していませんわ!」
静子はセツの言葉に被せるように大声を発する。
静子は用意されている洋風の椅子に座り、セツを見下ろす。
「これだから、母親は信じられないのよ」
悔しそうだった。
静子は実の母親に捨てられたと思っている。陰陽術が優れていたからこそ、神宮寺家に預け、姿を消した母親のことを忘れた日は一度もなかった。
憎かった。ただひたすらに憎かった。
「セツさんも母親なのね」
綺麗に整えられた爪を噛む。
静子の身の回りの世話をする侍女たちは、静子の怒りを恐れて身を震わせていた。
……静子様は春代とは違いますね。
母親を恨む姿は春代には見られなかったことだ。
二人とも母親から見捨てられたというのにもかかわらず、こうも違うものだろうか。
「今度こそ、紅蓮様をわたくしのものにするのよ」
静子は紅蓮ほどに美しい男性を見たことがなかった。
どうしても欲しくてたまらない。
どうしても手に入れたくてしかたがない。
なによりも、春代が手に入れているのが悔しくてしかたがなかった。春代の持ち物はすべて取り上げてしまわなければ、気が済まない。
「最後の機会を差し上げますわ」
静子はセツに命令を下した。
その命令を阻止できるものは誰もいない、ここでは陰陽師として強い者だけが生き残れる場所なのだ。
* * *
セツが春代に札作りを教えることはなかった。
なぜならば、セツは自ら命を絶ってしまったからだ。
「……お母様」
葬儀に参列することさえも許されなかった。
最低限の葬儀だけで済まされてしまったセツの顔を見ることは、誰も許されなかった。
「なぜ、泣く?」
紅蓮は春代に問いかける。
長い年月を生きるあやかしにとって、人の命など瞬く間に消えていくものでしかない。それをいちいち悲しんでいる暇などなかった。
「悲しいから泣くのです」
春代は当然のように答える。
紅蓮には人の心がわからない。
「そうか」
紅蓮は納得したようだ。
それから、春代を慰めるように手を繋ぐ。
「紅蓮様?」
「俺にはわからん感情だ。だが、春代が泣いていると胸が痛くなる」
紅蓮は心が締め付けられるように痛かった。
春代に悲しんでほしくはないと思ってしまう。
「母が恋しいか?」
紅蓮の問いかけに対し、春代は俯いた。
……思い出すのは先日の会話ばかりです。
嘘交じりの会話だった。
それすらも懐かしく感じてしまう。
「わかりません」
春代はセツが料理を並べていた光景を思い出しながら、いつも使っている座布団に座り直す。葬儀に参加することも、祠の代わりである離れの屋敷から出ることも緩さrなかった。喪主を務めた父親はどのような顔をして参列していたのだろうか。
「母を慕っていたわけではないのです」
春代は強がりを口にする。
涙が止まらないのは慕っていた証拠だった。
「母から、愛されたいと、願うのは、やめてしまいましたから」
春代の言葉に紅蓮は我慢ができなかった。
春代を強く抱きしめる。
泣く必要はないのだと思わせるかのような行動だった。
「俺が愛そう」
紅蓮は愛を囁いた。
春代が諦めてしまった両親からの愛の分まで紅蓮が愛すると誓う。
「永久に春代だけを愛すると誓おう」
紅蓮の言葉に春代は耳まで真っ赤にさせる。
触れ合いに慣れていない。その上、愛の言葉まで囁かれてしまったら、真っ赤になりすぎて倒れる寸前だった。
「紅蓮様」
春代はなんとか声をあげる。
「私も、同じ気持ちでございます」
春代は顔をリンゴのように真っ赤に染めながら答えた。