01.神宮寺家の無能の少女
大正元年、日本には異能力を扱う名家というものが数多く存在する。その中でも神宮寺家は五大名家に数えられるほどの実力者揃いの一族だった。
「無能。雑巾がけをしておいてちょうだい」
「はい」
無能と呼ばれた少女、神宮寺春代は本家筋の生まれだった。
当主の妹が母親であるのにもかかわらず、春代には異能力がなかった。その為、一族の中では底辺として扱われ、侍女に仕事を押し付けられることもよくあった。
春代は指示された通りに雑巾がけを始める。
本来、その仕事をするべき侍女は春代を見て笑っていた。
「埃一つ、残すんじゃないわよ」
侍女は雑巾を絞った桶を手にして、文句を口にする。
「ほら、綺麗にしてあげるわ」
侍女は容赦なく桶の水の春代にかけた。
春代は身震いをした。
季節は冬。外は雪がうっすらと積もっている。
薄着の着物しか持っていない春代は着替えることも許されない。それを知っていて、侍女は水をかけたのだ。
「お礼を言いなさいよ、無能」
侍女は春代を足蹴りする。
「ありがとうございます」
春代は慣れたように言葉を口にした。
それが気に入らなかったのだろう。侍女はつまらなそうな顔をしていた。それでも、蹴るのは止めなかった。
そのやり取りに気づいたのだろう。複数の侍女を連れた春代の異母妹、神宮寺静子が通りかかった。静子に気づき、侍女は慌てて春代を蹴るのを止めて、頭を下げる。
「あら、お姉さま」
見下すような仕草をしながら、静子は春代に声をかける。
「季節に見合った服装ですこと」
春代は笑いながら言った。
季節に見合っていないと皮肉を口にした静子の言葉に対し、侍女たちは同意するように笑っていた。
「体を清めるなんて、まさに生贄にふさわしい姿ですわ」
春代は静子にそう言った。
……生贄?
話の内容が、春代にはわからない。
代々祠を守ることにより異能を授かっている家系だとは知っている。その祠に異常でも起きたのだろうか。
「お姉さまは献身的ですわね」
静子は笑う。
静子は多くは語らない。
濡れている個所を避けるように歩き、膝をついた姿勢のままの春代を見下すような視線を向けた。
「水を被ったところで竜神様のご加護は得られませんわよ」
「……はい」
「わかっているのならば、よろしくってよ」
静子は神宮寺家が誇る異能力者だ。
母方の血である斎宮家の水の異能力者であり、代々火の異能力者を輩出してきた神宮寺家では異質な存在であった。しかし、強力な能力者である為、大切に扱われてきていた。
その為、多くの人が静子には逆らえない。
異母姉である春代もその一人だった。
「あぁ、嫌だわ」
静子はぼやく。
わざとらしく、春代を足蹴りして廊下から庭へと蹴り飛ばす。
「あら、ごめんあそばせ。わざとではなくってよ」
静子は笑いながら言った。
庭に転がされた春代はゆっくりと姿勢を戻す。それから、当然のように土下座をした。
「生贄にお似合いの姿ね」
静子は同情をしない。
それが春代の価値だというかのようだった。
「さようならですわね、お姉さま」
静子はそう言って立ち去って行った。
静子たちが立ち去ったのを確認してから、春代は立ち上がる。そして、廊下に上がり、再び雑巾がけを始めた。
その姿を見ていた侍女はなにも言わなかった。
内心では見下しているものの、無能の一般人に生まれたというだけで使用人以下の扱いを受けているのには、さすがに同情をするしかなかった。
* * *
新月で足元が見えないほどの暗い夜道を歩かされる。
春代は花嫁衣裳を着せられ、いつもならば、許されない下駄もはかされていた。向かう先は神宮寺家が管理している祠である。
昼間、静子が口にしていた言葉は事実であった。
春代は生贄に選ばれたのだ。
それは定期的に差し出されるものではなく、祠の維持をする時間稼ぎだった。
「ここに入れ」
人が一人ようやく入れるほどの祠の鍵を開けるのは、神宮寺家当主の神宮寺大地だった。大地に言われ、春代は覚悟を決める。
役立たずと言われて生きてきた。
生きる価値を否定されて生きてきた。
その使い道が生贄だと言われた時、春代は涙すらも流れなかった。
「はい」
春代は返事をした、
それから、祠の中に入っていく。祠の中にはなにもない。
ご神木が飾ってあるわけでもない。しかし、得体の知らないなにかの視線を感じていた。
春代が座ると扉は閉められた。
なにも見えない祠の中で春代は静かに目を閉じた。
外から足音が遠ざかっていく。厳重に鍵を閉めたのは逃がさない為だろう。
……ここで死ぬのね。
春代は覚悟を決められなかった。
恐ろしかった。
怖かった。
死にたくなかった。
春代は震える体を必死に抱きしめる。
「……死にたくない」
震える声で呟いた。
その言葉は誰にも届かないはずだった。
「助けてやろうか?」
どこからか、男性の声がした。
「誰?」
春代は問いかけた。
それに対し、男性は笑った。
「俺は紅蓮だ。お前の名前は?」
「神宮寺春代よ。ここから連れ出してくれるの? もしかして、祠の神様?」
春代は素直に答えてしまった。
異形の者に名を教えてはいけないと知らなかったのだ。
それどころか、声をかけてしまった。
「春代」
男性、紅蓮は春代の名を呟いた。
それだけで祠の鍵は地面に落ちた。祠の扉があき、外に出られるような環境が作られる。それは人の手では不可能なことだった。
「助けてやろう」
祠の外から手が伸ばされる。
その手を取れば死から解放される。
春代は迷わずに手をとった。名を呼ばれた時から逆らってはいけないと感じていた。
「……あなたは、どこからきたの? 神宮寺の者じゃないわよね」
春代は祠の外に出てから問いただす。
それに対し、紅蓮は笑った。笑う口には人には牙があり、額には二本の角がある、そのことに気づいた春代は慌てて距離を取ろうとして、祠にぶつかった。
祠はボロボロだった。
管理されていなかったのだろうか。
「その祠からだ」
紅蓮は祠を指さした。
「……神様?」
春代は問いかける。
それに対して紅蓮は首を横に振った。
「鬼だ」
紅蓮は短く語った。
その言葉に春代は小さな悲鳴をあげた。
「春代。助けてやっただろう?」
紅蓮は春代に手を差し出した。
その手を震えながら、春代はその手をとった。
「……はい」
春代はいつも通りの返事をする。
「なにをお求めですか?」
春代は代償はなにか問う。
「俺の嫁になれ」
「契約結婚ということですか」
「そうなるな」
祠から連れ出す代わりに嫁にする。
元々祠の神様の花嫁として生贄されたのだ。抵抗はなかった。
「俺は春代を守ってやると約束しよう」
紅蓮は春代を抱き上げた。
「だから、春代は俺の嫁になれ。それが契約だ」
紅蓮は笑った。
契約は結ばれた。あやかしとの契約は絶対だ。それを春代は知らなかった。