3話 姉妹
『それ以上はライン越えだぜ』
対人関係において、越えてはならない一線というものは確かに存在する。初対面の間柄であれば言うに及ばず。
ズケズケと切り込んでいく、真噛の発言は無遠慮極まる。
然るに、すべてを明かしてはいなかった姉妹ではなく、真噛にこそ非はある。
彼とてそれは自覚していよう。けれど興味関心を捨て置くことは出来ず、立ち止まりはすれども、頭を下げることはない。
姉妹も一線を越えることは許さない。
ゆえの平行線。決着がつかないのだから、一気に冷え込んだ空気を温め直す術はない。電話番号の交換だけを行い、一同は解散した。
そうして場所は変わる。場面は転換する。
虎徹と那珂の姉妹は、滞在中の宿へと戻っていた。
荷物は畳の上へと放り出し、服に皺が出来ることも厭わずに布団へとダイブ。柔らかな寝具に身を預けて一休み。
互いに口を開かぬ静謐の時間。二人の脳裡は大口真噛に占められ、彼との会話を反芻していた。
「姉さん」
「あいつ、信用できると思うか?」
妹の呼びかけに込められた意味を、図り間違える姉ではない。二人の胸の内に渦巻く疑念を、形為すように紡ぐ。
「できる、と思う。……でも、怖いよ」
「それは、信じることが?」
「それでもそうだけど……あの人自体が怖い」
那珂は十余年の半生で、何度か獣人を見たことがある。獣人だとバレてしまった者たちの境遇を見たことがある。
家族に捨てられ、学友に虐められる。職には就くことすら難しい。
誰も彼もが絶望していた。前を向いている者は一人もいなかった。
その点において、大口真噛は異質だ。
過去は置いておくとして、現在の彼は獣人であることが露見したにも係わらず下を向いていない。絶望の陰りを微かにも帯びずに、強かに前を見ている。瞳には輝かんばかりの光を宿し、全身には活力が漲る。
また、彼の手法もまた異質。説明されれば、有用性は認められるが、獣人であることを発信するとは想像の埒外だ。既に秘匿が破られているとはいえ、『人生を左右する秘密』であったものを不特定多数の目に触れさせるなど正気の沙汰ではない。
しかも、狂気に染まったとしか思えない行動で、偶然に助けられた部分はあるだろうが、彼は結果を出している。
獣人の情報発信という目新しさが民草の目に留まらず、情報が上手く拡散されなかったかもしれない。
姉妹が真噛の冒険譚を目にしても偽装等の可能性を考慮し、接触を控えたかもしれない。
だが、現実はそうならなかった。動画は拡散され、虎徹ら姉妹は用心を重ねながらも、直に会うことを選択した。
成功の最大の要因は、守りを度外視した、攻めの姿勢だ。己に石を投げる者すら利用する貪欲さが結果を手繰り寄せた。
「きっと真噛さんにとってはさ、今日の出会いはあってもなくても、どっちでもいいものだったんだよ」
「あんだけ熱のあるやつだからな。駄目なら駄目で別のやり方を模索しただろーな」
一度失敗しただけで、気炎を噴き上げていた男が止まることはないだろう。
代案を即座に組み立てて再度歩み始めるか、何なら既に予備案を用意しているかもしれない。
「だから怖い。
獣人なのに、折れないで、挫けないで、あんなに前を向いている人の心がさっぱり分からないから怖い。
今日始めて会ったのに、この人なら何か変えてくれるかもしれないって思わされそうになったことが怖い」
「あー、そういう見方もあるのか」
「姉さんは違うの?」
「あたしは普通に頼りになるって感じた」
見解の相違は、性格によるところもあるだろうが、立場の違いこそが最大の理由だろう。
守り、導いていく姉。
案じ、支える妹。
どちらが正しい、どちらが上ということもない。ただそれぞれの適性に応じ、自然と振られた役割。この形が、姉妹にとって最適の形なのだ。
虎徹は常に那珂の前を歩く。時には自らの手で道を切り開く必要もあるだろう。それは、真噛の攻めの姿勢にも通ずる。
つまり、ある種の先人だ。彼の大胆過ぎる手法は真似できるものではないが、彼の考え、彼の道行からは学ぶべきものがある。
「苦しいときに下向いてチンタラしてたって何も変わんねー。思い切って前に出なくちゃ逆転できるわけねーんだ。運動も遊びもそうだし、人生もそんなもんだろ」
現に守りに入ってばかりの姉妹は先行き不透明だった。
真噛の行動は多分な危険を孕んでいたが、先を見据えていた、あるいは先が見えていたことは間違いない。
姉妹の選択は負ける確率を下げることは出来るが、勝利に近づくこともない。
真噛の選択は負ける確率は高まるが、勝機も生まれる。
現状への変化を望むならば、取るべき道は一つだけだ。
「だから、あたしは真噛のやり方もありだと思う。頭はイッてるけどな」
「でも」
「理解できないからって遠ざけるだけなら、獣人を見下すやつらと変わんねーぞ?」
姉の指摘に、妹は閉口した。
自分を嫌う者たち。自分が嫌う者たち。知らず、彼らと同じ言動を取っていたことに、瞳を揺らして戸惑う那珂。
大人げない。内容自体は兎も角として、指摘の仕方は意地が悪かったと虎徹は自制する。が、この指摘は必須のことでもあった。
獣人が最後に頼れる相手がいるとすれば、それは同じ獣人だ。獣人を虐げる者たちと同じ思考を持ったままでは、いざというときに手を取り合うことができない。
「責めるようなこと言っちまったけど、那珂の考えを丸ごと否定するつもりはねー」
大口真噛が異常な男であることは、偏見でも何でもなく、純然たる事実だ。初対面のため信頼関係も築けていないのだから、恐怖を感じて当たり前だ。
ただ、そこから先。理解を放棄して遠ざけるばかりでいることは宜しくない、というだけのこと。
「今日明日で結論を出さなきゃいけないって話でもねーだろ。あいつの動画を見るなり、連絡を取って為人を知っていくなりしてから結論を出せばいい」
「……えっと、私も最初からそう思ってたんだけど」
「あれー?」
「今日の感想を聞かれたから、怖かったって答えただけじゃん。怖かった、だから今後も遠ざけるなんて言ってないよ」
「……確かに」
那珂の言うとおりである。
ただ彼女の反応を勘違いし、更に虎徹は早合点してしまったというだけのこと。
「なのに、姉さんはどんどん話を進めるし。何か私が偏見持ってるような言い方するし。思わず口閉じちゃった」
あまりに間抜け。あまりの醜態ぶりに、虎徹は頭痛を覚える程だった。
穴があったら入りたい。
姿勢をうつ伏せに移行し、顔を柔らかな枕に深く埋めた。
「…………ごめん」
視界には何も映らないが、しかし、妹のじとっとした視線が突き刺さっていることは痛烈に感じる。
居た堪れない。
口が災いを招いてしまっただけに、弁明をする気力も湧かない。
口がダメなら逃走する、というわけにもいかない。それを実行したが最後、姉の株価は急転直下の大暴落だ。
「でも、先走ってくれたおかげで、姉さんの意見を知れたことは良かったかな」
「だ、だよな! 悪いことばっかじゃねーよな!?」
那珂のフォローは、場を回すための形だけの慰めだったかもしれない。
それでも、自身の言動が非ばかりでない、と認められたことは救いである。
地獄に垂らされた、一本の蜘蛛の糸。頼りないほどにか細くても、今この時、救いを求める者にとっては飛び付くしかない。
「うん。良いことばかりでもないから、そこはちゃんと反省してね」
ガバリと起き上がった虎徹だが、即座にピシャリと正論で叩き伏せられた。
起き上がった際とは打って変わり、力なく再び枕に顔を沈める。
直感と勢いで妹を引っ張る姉は、だからこそというべきか、しばしば足元を疎かにしがちだ。対して、妹は姉ほど直感を頼りにせず、勢い任せにもしない。
足元がお留守な姉と、慎重に一歩を踏み出す妹。足元を掬われる者がどちらなのかは明白だ。
こと論争において、虎徹が那珂に勝利できた試しは数えるほどしかない。
「……ぁい」
「この話はこれでおしまい」
パン、と那珂は手を叩き、空気を入れ替え、話題を転換させる。
「姉さんは真噛さんの動向を観察したり、人柄をよく知ってから結論を出せばいいって言ったけどさ。その結論を出すまでの期間ってどのくらい?」
問われ、虎徹の頭の中は疑問符で埋め尽くされた。
明確な回答が存在する問とは思えず、意図を測りかねた。
それでも虎徹とて無為に発言していたのではない。胸の内を改めて表出させる。
「? 一週間でも二週間でも。何なら一か月とかそれ以上の期間でも、納得できるまででいいだろ」
「駄目だよ、それじゃあ」
「駄目って何が。人生の分岐点になるかもしれない、一大決心なんだぞ。納得以上に大事なことなんかないだろ」
「それはそうなんだけどさ。前提を間違えてる。世界は私たち二人だけじゃないんだよ」
当たり前の指摘に、虎徹は眉を顰めて唸る。
唸り、頭を捻り、その果てに小さく掠れるような声を漏らしながら解の一端を掴む。
「真噛の仲間になるかどうか。この件の当事者はあたしら二人じゃなくて、真噛も含めた三人ってことか。
納得できるまでなんて、無期限と変わらない見通しは、真噛のことを軽視し過ぎてる」
自分たちに都合が良すぎるということは、相手の都合を無視しているということ。
公平ではない。敬意が無い。
「人生を左右するかもしれない決断だから。
守らなきゃいけない妹がいるから。
理由はいくらでも用意できるけどさ、綺麗な装飾を剥がしちゃえば『勝手』で済まされちゃうよ、こんなの。自分勝手って謗られても反論できないよ」
そして、時間を掛け過ぎてはならない理由は、一つだけではない。
自分たちが考えたことは、他の誰かも考える。自分たちと同じ動きを、他の誰かも取り得る。
属性を端的に抽出すれば、見習い店員と学徒の二人姉妹だ。その思考、行動は唯一無二の特別性を帯びたものではない。
他の獣人もきっと同じ行動を起こすだろう。呑気に構えていては、後から動き出した者に追い抜かれかねない。あるいは、虎徹たちよりも早くに真噛と接触している者が居る可能性も捨てきれない。
一番と二番以下の価値の差は、数字上よりも遥かに大きい。
虎徹が考慮に入れていなかった、『真噛の立場』に立ってみれば明らかだ。真噛が大変な時期には保身のため渦中に飛び込むことはせず、軌道に乗った途端擦り寄ってくる。それでは甘い汁を啜ろうとする害虫だ。
あくまで極端な例ではあるが、構図自体が大きく変わることはあるまい。苦楽を共にした仲間と、楽だけを享受した者たち。二者を並べれば、前者へ信頼を傾けてしまうのが人情だろう。
早期に動き出した優位性を放り捨て、他人に一等賞を譲る義理はない。
「同じ『勝手』ならお互いに利益のある『勝手』にしなくちゃ」
「それが、真噛の最初の仲間になるってことか?」
「うん。私たちは最初の仲間って地位が手に入る。真噛さんは、仲間が欲しいのにいない、一番苦しい時期に助けを得られる。これなら誰も損しない」