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トイレの隙間から人類の終わりを見たのは僕だけだろう

作者: 蒲生次郎

トイレに閉じ込められて一年近くが経とうとしていた。ここは不思議とお腹が減らない。

まったく冗談じゃない、これまで何千回となく感じた憤りに包まれる。

まもなく、人類は終わりを迎える。僕は成す術もなく、トイレの隙間からその光景を見るしかなかった。


僕は一年前、見事な桜が咲く公園に、妻子とともに花見に行った。広場にはレジャーシートを敷いた老若男女の人達が思い思いにお弁当を食べ、酒を煽り、騒いでいる。

私と妻は今年4歳になるわが子の手を握りながら織りなす春爛漫な雰囲気を堪能していた。この公園はS市最大の公園だ。隣の市にいる僕達一家は普段ここまで来ることはないのだが、春の雰囲気に誘われ、ここまで車で繰り出してよかったと思った。

広場を歩いているうちに便意を覚えた僕は、妻子を広場に残し、一人で広場の隅にあるトイレに直行した。

公園のトイレは汚いイメージしかなかったが、ここは案外綺麗だ。きっと手入れが行き届いているのだろう。僕はショルダーバックをかかえたまま、ズボンを下ろし、用を足した。床のタイルには広場からやってきたのか。二匹の蟻が這っている。

僕は便座に腰をかけて、蟻の動きを追いながら、なぜかこれまでの人生を振り返っていた。よりによってこんな場所で人生の走馬灯がやってくるのは奇妙なものだった。

会社の経営に失敗し、様々な職を経験した後、44歳になってようやく結婚した僕は、その後授かった子供を何よりも可愛がった。これまでお世辞にも順風満帆な人生を歩んできたとはいえない僕は、子供のためならばどんな苦労もいとわないつもりだった。

きっとこれからもそうだろう。そう思いながら僕はトイレの中で自分の前半の人生を総括し、家庭を持ったものの幸せをかみしめた。幸い残り少なくなったトイレットペーパーを使い切ることなく終えた僕は気分よくズボンを上げ、ドアを開けようとした。

開かない。がちゃがちゃ、なんでドアノブが壊れているのかびくとも動かない。

薄暗い個室の中で僕は軽いパニックに襲われた。

いつもの癖で顎に手を当て、冷静になろうとしてみる。

外から鍵をかけられたのか、いやそんなことはない。僕はかぶりを振った。普通公衆トイレは内側からしか鍵がかからないはずだ。そんなことをすれば安心して用を足せなくなるではないか。

何度も鍵の位置を確認したが、鍵はかかっていなかった。もしかして地震が起きて扉が歪んだのか、それにしても用を足している最中、地震の揺れが来た覚えすらなかった。

かすかなひらめきにすがるように手繰り寄せる。

そうか!

酒に酔った若者が悪質ないたずらをしているのかもしれない。

質の悪いいたずらだ。

僕は恐怖と怒りに震えて叫んだ。

「こんないたずらはやめて出してくれ!」

何度か叫んだが、何の反応もなかった。

時計を見ると既に30分以上が経過していた。

「あなた、いったいどうしたのよ」

僕の叫びを聞いたのだろう。妻の緊張をはらんだ声が聞こえてきた。 

「あなた、まだトイレにいるの?」

僕は妻の声を聞いて、ほっとした。

「おう和代、ここだ、閉じ込められた。出してくれぇ」

「パパ、トイレにいるの?」

すぐそばで子供の声がする。息子のシグマだ。

がちゃがちゃ

「あなた、ドアが開かないわ。公園の人を呼んでくるから待っていて」

妻子がトイレから離れる気配がした。広場からは変わらず酒席特有のざわめきが聞こえる。

もう大丈夫だ。単なる扉の故障だろう。そうに違いない。

僕はそう信じて再びトイレの便座に腰を下ろし、静かに待つことにした。どうやら誰かのいたずらではないらしい。公園の管理員が来れば問題解決だ。僕は楽観的な気分でスマホのボタンを押した。

画面を見て何かがおかしいことに気づく。

電波が入っていない。トイレの中は電波が弱いのだろうか、インターネットどころか、電話すらできないようだった。きっとトイレの中は電波が入りづらいのだろう。こんな田舎なのだから仕方がないと僕は思うことにし、心を落ち着かせるために深呼吸をした。しかしそればどうみてもため息にしか聞こえなかった。トイレ特有のアンモニアの臭いが鼻を衝く。あまり長居すると服に染み付いてしまうなと心配しながら僕は管理員の到着を待った。

「ここですか、ドアの不具合というのは?」

年配の男の面倒くさそうな声がする。ようやく到着したらしい。

僕はいらだちと安堵が入り混じった気持ちを抱えながら、

「こちらです、早く開けてください!」と叫ぶ。

妻が僕のいるトイレへ管理員を誘導しているようだ。複数の足音が聞こえる。

がちゃがちゃ、がちゃがちゃ

次第にドアノブから狼狽した雰囲気が伝わる。

「おかしいな、開かないぞ。しかたない。バールで開けてみましょう」

管理員はあきらめたように言うと、工具箱の蓋を開けるような音を出し、扉の隙間にバールのような固いものを突き入れた。

これで出られる。まさかドアの修理代は私持ちではないだろうな。そんなことを思う余裕すら出てきた私は作業員の扉を壊すさまを眺めていた。

そして突然扉がガコっという音を立て、あっけなく外れた。

止む得ないことだったが、仕方がない、しかしこれでようやく自由になれると思った僕は喜んだ。しかし喜んだのもつかの間だった。

「あれっ、トイレがないぞ!」管理員が叫んだ。

「ぱぱがいない」あどけない息子の声が聞こえる。

「きゃあ!」という妻の悲鳴が聞こえる。

僕の目の前には妻と子供、管理員の姿が映っている。彼らは僕の姿に気づかないのか、僕と目を合わせようとはしなかった。

「和子!俺が見えるか!」と叫ぶ。

「いいえ、あなた、見えないわ!」

「こんな半透明な膜ははじめて見ました。押してもこれ以上入れない」

管理員は不思議でならないといった口調で言う。

「ぱぱ、ぱぱ」

「あなた!」

妻子が僕を呼ぶ声が聞こえる。

やわらかな夕方の陽光が僕のいるトイレに差し込む。ドアが取り去られた今、僕からみれば半透明の膜を通して景色を映す。タイルの床と、手洗い台。それらをゆったりと覆う薄暗闇。

まもなく夜になる。パトカーと消防車のサレンがし、トイレの周囲が騒がしくなった。公園側は手には負えないと判断し、警察を呼んだらしい。

何でこうなったのかはわからないが、これで問題は解決するはずだ。 僕はまだ楽観的に考えていた。だが、それは大きな誤りだったことを数時間も経たないうちに僕は思い知ることになる。

「下がっていてください」

何人もの消防員達が電動鋸を響かせ、僕のいる空間を切ろうとした。体に入ったらどうするつもりだ。身の危険を感じ、僕は壁の奥に張り付いた。

刃が入るどころかびくともしなかった。

次にドリルの音がした。おそらく岩盤をも貫く特殊なものだろう。けたたましい音を立てたドリルは空間に挑みかかったが、やがてぼきっという音がし、エンジン音が止まった。

沈黙は雄弁で無駄な試みだったことを告げていた。

さらに周囲が騒がしくなった。ヘリコプターの音まで聞こえる。警察か自衛隊かが出勤したのだろうか。

僕は妻子の名を呼んだが、反応はない。代わりに聞きなれない男の声が聞こえてきた。

「○○さん。聞こえていますか?」

「ええ、聞こえています。いったいどうしたのですか?早く出してください」僕は声の限り叫んだ。

「私は○○県警のテロ特殊班です」

「テロ特殊班?」

「そうです。私たちはテロを制圧する特殊部隊のようなものです」

「いったいどうしたっていうのですか?」

矢継ぎ早に繰り出す僕の質問は、まるで深い井戸に落ちた小石のように手ごたえが感じられなかった。

「聞こえていますか?」怒鳴る僕にようやく男は答える。

「ご不安なお気持ちはわかります。いいでしょう。こういうときのために宗教はあるのです」

わけのわからない男の言葉に僕は言葉を失った。

「宗教?」

「そうです。宗教です」満足そうに男はいう。

「そんなことより早くここから出してください」

「いえ、これから我々のすることを聞けば宗教が必要であることがわかると思います」男はそう前置きすると、「これからこのトイレ周辺を爆弾で爆破します」

「冗談じゃない、死んでしまうじゃないですか⁉」

「まぁ万が一そうであれば、これも運と思うしかないです」

「なんなんだあんたは!」

「まあ聞いてください。いまあなたが閉じ込められているトイレは現代の科学技術を超えたものと我々は見ています。つまりあくまで日本の破壊兵器という意味ですが、あらゆる破壊を試みないとこの壁を壊すことができないというわけです」

「それで?」そう言って、僕はうんざりしながら続きを促した。

「もうおわかりでしょう?」

男の声には神父のような威厳すら感じさせた。

「僕に死ぬ覚悟をさせるため宗教家を呼ぶということですね。死刑前の囚人みたいに」

「率直に言えばその通りです」

「もし運がよければ助かる、悪ければ死ぬ、幸い我々は話ができる。その心構えだけはしてもらおうという訳です。あなたの宗教はなんですか?」

「わたしは無宗教です」

「ほんとうに?」信じられないとばかりの響きが伝わってくる。

「ああ、仏教でもなければせキリスト教でもなければ、イスラム教でもない」

「じゃああなたは何を信じているのですか?」

「私は何も信じません」

「でもなにかはあるでしょう?」

「強いて言えば家族でしょうかね」

「家族、うん家族、結局は家族が大事であるのは人類に共通していることですな。それで結構です」

「何が結構なんですか」僕は憤然として言った。

「つまるところ、人はいつかは死ぬんですよ。それが早いか遅いかということくらいの差です。地球の寿命に比べれば人の寿命は一瞬でしかない。ご家族の存在があなたの支えになることでしょう」

男はそう言って、「じゃやってくれ」と言った。束の間の静寂が訪れる。

しばらくしてから恐ろしい轟音が鳴り響いた。ミサイルが撃ち込まれたようだった。

僕はついに死んだと思ったが、自分の呼吸音がトイレの中で反響していた。どうやら死んではいなかったらしい。

目の前は焼野原だった。ミサイルがすべてを焼き尽くしたらしい。

先ほどの男が立っていた。

「いったいどうなっているんだ。僕の妻と子供は無事なのか?」

「無事です」

僕はほっとした。「それでどこにいるんだ」

「別の世界で何事もなく暮らしていますよ」

「なんだって」

「宇宙は対になっているのです。あなたは時空のゆがみに入り、別の世界に迷い込んでしまった」

「お願いだ。元の世界に返してくれ」

「残念ながらそうもいきません。もう戻ることはできないでしょう。ただ一つを除いては」

「一つを除いて」

「そうです。一つを除いてです」

「それをすれば元の世界に戻れるんだな。それを教えてくれ。なんでもする」

「本当にいいのですか」

「ああ、後悔はしない」

「いいでしょう。わかりました。それではお教えしましょう。元の世界に戻るには」

「戻るには」

「あなたが死ぬことです。そうすれば元の世界に戻れます。もっとも周りの人間にとってあなたの姿は見えませんがね」

「それでは意味がないじゃないか」

「それか、永久にこの世界にとどまるか、です」

「・・」

「ゆっくり考えてください。いくらでも時間はありますから」


そして時が流れた。およそ一年の間、お腹もすかなかったし、椅子に座って体も痛くはならなかった。

ある日また男が現れ、「どうですか?」と尋ねた。

僕は憔悴しきった目を男に向けた。

「死ぬにはどうすればいい?」

「決心がついたようですね。死にたいと願うだけでよいのです」

「痛いのか?」

「いえ、痛みはありません。むしろ」男は言い淀んだ。「すべてから解放されるでしょう」

「わかった。幽霊になってでも家族に会えるなら、それでいいよ」

「あなたはよい決断をしました。別世界にいればご家族にも会えませんし、いわゆる幽霊になってでも元の世界に戻れば、ご家族を見守ることができます。これも愛情なくしてはできません」

「生きて会いたかったが、仕方がない」と僕はあきらめて言った。

「何事も受け入れれば、悪くはならないでしょう。それはあなたが生きていても同じことなのですよ」と男は意味深に呟き、右手を差し出した。膜を通り抜けたその手を僕は握った。

目が覚める。トイレのアンモニア臭と冬の冷気が体を包み込んでいた。

頭上で野太い男の声が聞こえる。

「あんた、起きてくれよ。もう閉園時間だよ。まったくいい年をした男がこんなところで寝てしょうがねえな。あんたの家族が探していたぞ。早く連絡してやんな!」

どうやら僕は生きて戻ってきたらしかった。

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