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御影奉伺

作者: あずまるり


「御影奉伺」


 年末の大掃除というのは例にもれず億劫なものですが、蔵や押し入れの埃を払っているうちに偶然見つかった家財などを緒として、その家々の歴史を振り返ることのできる貴重な機会でもあります。



 まだ大学を卒業して数年の頃、青森にある実家にて大掃除を手伝った時の話です。たまには顔を出せという不定期の生存確認により、宇都宮から風花の吹き初めた紺桔梗の東北自動車道を駆けて、一里も見通せぬ深更の中、いつしか車は白河の関を越して数十里。


 郷里に着く頃には大分くたくたになっていたというに、乾雪の空き地に車を留めるやいなや、若い者が戻ってきたというだけで実家も隣家も騒いだように雪搔きを止めて屋根から降りだす始末。顔を赤くした古希還暦の翁たちの雪掻きを支援するという話が、気づけば屋根に乗っているのは私だけというありさまで、専ら羮に懲りてもなお膾を吹きそびれたことを悔やむばかりでした。


 すっかり草臥れて、雑用を恨みつつ力無げに綿棒でクローゼットの上の埃をなぞっていると、中から窓を叩くような音がしました。どうにも小さな雪崩が起きたようです。

 覚悟を決めてクローゼットを開けると、雪崩れて飛び出た衣類と、その上段に静かに佇む金太郎人形が眼に入りました。その金太郎人形は端午の節句に飾るのが宜しいと祖父が弟のために知り合いの人形師から買ったもので、昔はよく桜のに合わせて居間などに飾っていたのですが、七五三を過ぎないうちにそのような習慣もなくなったようで、いつしかクローゼットの深奥で長い眠りについたと見えます。童顔ながらも実に凛々しい顔をしていたので、私は密かに気に入っていたのですが。


「この金太郎、どうするの。」

近くにいた母が私の隣に並びました。

「子供も独り立ちしたことだし、どんとに出そうかね。」

「でもこれ、おじいちゃんがわざわざ知り合いの人形師の元を尋ねて買ったものじゃなかったっけ。」

「あれ、そうだったっけ。」


 どんと、というのはどんと焼きのことを指します。1月15日前後に門松やダルマを焼く風習で全国各地に見られ、地域によっては左義長と呼ばれたりもします。


 起源について調べたところ元は球を打つ杖を指すそうで、中国古書『十節録』や一条兼良の『世諺問答』に記載があると、各地の習俗をまとめた専門書で触れられております。また、「どんど」という名の由来について、同書では鬼車鳥という唐土の鳥から来ているという論を展開しておりますが、あまり他では聞かない話です。それが時代を経ていくうちに、古代中国の粥神事や日本固有の習俗と合わさって今の形となったとありますが、今日までの経緯を書き始めますときりがなくなるのでここでは割愛させていただきます。


 しかしながら、こと私の住む地域においては秋田との県境が近いためか、それらに加えて道の端に鎮座する「鍾馗様」と呼ばれる巨大な藁の人形や家内の人形も焼き上げの対象となるため、近頃巷で流行っている断捨離のような傾向を伴います。こちらも起源はよくわからないのですが、信州から東北へ道祖神が人形の姿を取るにつれ、境界の象徴機能が人形一般にも広がっていったのと、五所川原など津軽地方の虫送りに見られるような穢れの吸着と掃いの民俗知が人形にも適用された結果ではないかと推量しております。あくまでも素人考えの域を出るものではないのですが。


「何かあったか。」

母と私の頓狂声を聞きつけて父もクローゼットの前まで来ました。

「クローゼットから金太郎人形が見つかったんだけど、どんとに出そうかと思って。」

「これ、おやじがわざわざ知人の人形師の元から取り寄せたものだろう。」

「もう子供も独り立ちしたことだし、その人形師さんに頼んで引き取ってもらいましょうよ。」

「とはいえ、今となっては連絡しようにもできんし。」


 父と母の会話を間で聴いているうちに、我が家に金太郎人形がやってきた日の記憶が浮かんできました。思えば、あのときの祖父は金太郎人形をまるで孫同然のように可愛がり、歓待の馳走として人形分を含めた出前の蕎麦を取らせた挙げ句、「飾るときはこの子がいつでも外に出られるよう玄関から直線上の場所に置いてやれ。」などと言い始める始末。鉞の刃の鋭さに気圧されたか、幼かった弟がわっと泣きだしたのを見て、父母が金太郎の手から鉞を取り上げようとした時も、祖父は頑なに反対しておりました。


 あんまり突飛な言動に、実の息子である父も今度ばかりはと高齢故の病を疑わざるを得なかったそうですが、祖父はそれ以外のことについては至って何の変哲もなしといった様子であり、私にはその差がひどく不思議に思われてなりませんでした。


「一寸の虫にも五分ほどの魂があるように、人形にも一人前の魂がある。」


 これは泣きじゃくる弟の介抱に追われた両親が金太郎のもとを離れている間、威武猛々しく鉞を構える金太郎人形の顔を呆然と眺めていた私の隣で祖父がぼそっと放った言葉です。もう二十年ほど前の出来事にも関わらず、こうして辛うじて記憶に残っていたというのも、その言葉が単なるアニミズムの延長とは異なった響きを伴っていたからであると今ではそのように思います。


 父の談によれば、終戦後間もなくして生まれた祖父は青森の寺へ養子として迎えられ、そこで少年期を過ごしたようです。雪が地中深くに根を下ろす津軽半島の南部、羽州街道沿いから僅かに反れた山村にその寺はあり、末寺には珍しく人形供養も受け付けているとのこと。


 祖父の一言が無償に気になっていたのでしょう。その寺の名前を調べると、機に恵まれたか数年前から宿坊を始めているようでした。近頃は座敷わらしの出る宿として評判が立ち始め、一ヵ月先まで予約が取れないほどの人気ぶりです。予約表を見る限りどうも世間の休暇事情に合わせて宿坊を開放しているようですが、寒九の頃は寺の行事で忙しいのか予約を受け付けておりませんでした。


とはいえ此方もこの先の休暇が見通せず、今回を逃せば次いつ宿坊に意識が及ぶか分からなかったため、ダメが元々で思い切って電話をかけてみたところ、案の定お断りの一報が告げられましたが、祖父が昔お世話になったというと、特別待遇という扱いで宿坊に泊まれることになりました。



 宿泊当日、青森の日本海側では珍しい晴日でした。参道の両側、嵩を減らした冠雪の底から砂交じりの水が沁み出しています。五重塔の頂から延びたであろう水煙は、永年の吹雪に堪えられなかったのか折れて先が欠けているように見えました。


 旅客が泊まる庫裡は本堂の脇にあり、渡り廊下を通じて本堂と直結しているようです。引き戸が走る敷居は非常に高くなっておりました。これは恐らく豪雪地帯独特の建築様式でしょう。そう感心しつつ戸を閉めた時、戸の向こうに小さな影が立っていたのが見えました。寺僧も同じ出入口を使うのかと、再度戸を開けて外の様子を窺いましたが、見渡す限り人の姿はありませんでした。



 住職は名を大膳と言いましたが、常に寡黙でありつも威厳と慈悲が混在する不思議な方でした。祖父が寺で僧見習いをしていた時、年齢にして一つ下ではありますが数少ない同年代の学僧として蛍窓を同じくし、祖父が寺を離れた後も長く親交を取り結んでいたそうです。つまるところ、今回の宿泊を許可したのも住職の一声であったりします。


 玄関で待つ私の声を聞いて住職が応接間から姿を現わし、多弁代わりの合掌で客人を歓待しようとしましたが、その時住職の片手は裁断された衣服の生地で埋まっており、微笑み交じりの片合掌となりました。宿泊部屋まで案内される道中、暖簾越しに応接間の内部がちらっと見えましたが、部屋の机の上には生地と同じ色合いの服を着た人形が置かれておりました。


 

 庫裡といっても建物自体は相当に広く、合計の面積でいえば本堂の三分の二程はあったかと思います。庫裡の隣には蔵があり、厠へと続く長い縁側に並ぶように建っていました。目地の漆喰で塗られた海鼠壁が残雪の合間に顔を覗かせており、潤沢な歴史を包んでいそうな外貌でした。元々あった地蔵堂を改築して作ったようですが、置屋根式ではないので存外最近建て替えたものであるのかもしれません。


 厠に向かおうと、その縁側を通った時のことです。縁側に添うようにして障子の閉まった部屋が三つほどあったのですが、その二つ目の柱の横を過ぎた辺りで、その和室の奥の方から鋭い視線を感じました。視線はまるで地上から星を見上げるような傾きがあり、見習い僧が油を売って隠れているのかとも思いましたが、子供にしては若さがなく、眦の皺が折り重なって燻っているような奇妙な感があったので、座敷わらしの曰くは恐らくこの視線ではないかと思いました。結局、その視線はその一室を過ぎるまで続きました。


 

 夕飯は庫裡もとい厨房から自室へ運ぶのかと思い、厨房の辺りを往来しておりましたが、その住職自ら私の元に赴いて、結果として饗応を受ける形となりました。話の内容はといえば、その殆どが寺の沿革と祖父との思い出についてでした。


 この寺は江戸期の本山末寺制度により、東北の中でも有名な霊山である津軽の鵜蘇理寺を本山として定められたせいか、鵜蘇理寺の慣習や寺行事などを色濃く引き継いでいるそうです。本山修行というのもあり、祖父と住職も修行僧であった時に共に津軽奥の本山まで出向いて勤行に明け暮れたと住職は楽し気に往時を振り返っておりました。そのような今でいう本社研修のプログラムが周到に用意されていたとすれば、次第に色合いも相似てくるものだと考えて不思議ではありません。


 しかしながら人形供養については少々由来が異なっていたようです。鵜蘇理寺も元々は水子供養の古刹としてその名が知られておりましたが、明治から昭和初期へと戦火の影が濃くなるほどに志半ばで夭折した若い兵隊が冥府で良縁に恵まれるようにと、忌中の父母が番いの人形を寺へ持ち込んだのをきっかけとして、そのうちに男女にかかわらず若い故人を模した人形が次第次第に運ばれるようになります。


 史料が僅少でその風習がいつ始まったのかなどは定かではないのですが、いわゆる人形婚については、末寺のある青森から一つ県を跨いだ秋田に「ムサカリ絵馬」という風習がありますので、風習形成に至るまでの土壌は肥沃であったかと思います。この他にも台湾における冥婚等、類似の風習があることから、ある種人間の普遍的な想念によるシステムであると捉えることもできます。そういう経緯もあって、殊に津軽の南端ともいうべき位置にあるこの寺にも夥しい白無垢人形が運ばれ、今では蔵となっている地蔵堂に丁寧に安置されているようです。


「そうして、貴方と重次郎さんとの思い出はどのようなものでしょうか。」


祖父の足跡を追ってここに来ただろうということは、無言の内にも住職に伝わっていたようです。自分だけ思い出を語ってはと、住職はハッと我に返ったように私にバトンを渡しました。


「電話口で申した通りです。思い出と呼べるほどのものではないのですが、家に金太郎人形を迎えた時に

祖父が呟いたその一言が気になって、それでここに来ようと決めたんです。何か関係があるのではないかと。恥ずかしながら、それが祖父との唯一の思い出ですので。」

「ああ、そうでした。それならば、明日の朝にでも彼と会っておかなければなりませんね。」

「彼というのは、、すみません。失礼とは存じますが、祖父がお世話になったという先代の御住職でしょうか。」

「いえ。」

「そうですよね。」

「これについては百聞は一見に如かずです。詳しくは明日に。」



そうしてその翌朝、私は御住職にあの和室へと案内され、そこで彼と対面を果たしました。住職のいう彼というのは先代の御住職でもなければ人でさえない、和室の中央で床に直置きされたガラスケースの中に収まっていた紋付袴の人形でした。凛々しい顔立ちで、切れ長の目に筋立つ鼻は内裏雛を思わせますが、彼の頭上に開いていた絢爛な蛇の目傘が光を遮るせいか、表情に翳りがあるように見えました。


「驚かれましたよね。」

「ええ、まさか人形だとは。」

「そのことなのですが、彼は人形の形をしているものの、人形ではありません。」

「と、言いますと。」

「詳しくは今日の晩にお話ししたいと思うのですが、端的に言うと彼は先代の住職の、つまり私の父と生前知己のあった方なのです。ところで彼を見て、どのような印象を抱かれましたか。」

「何となく悩んでいるように思えます。」

「寺に来たての者は、怖がる者も多いんですよね。」

「そうなんですか。確かに和室の中央の床に人形が置かれているという状況は、なかなか現実離れした光景ではありますが。」



 その日は明日に左義長を控えており、寺僧という寺僧が暦を引っ繰り返して師走に戻ったように慌ただしく、晩飯にもありつけないのではないかという様子であったのが、独り住職のみは昨晩と同様に私と食事を共にしました。


 初めのうちはどうして話を始めようかと住職の顔色が困じていたように思われましたが、先月蔵に運ばれたという人形婚のつがいの話を皮切りとして、彼の生前がさやかに語られました。この度文章を投稿するということで、私としてもなるべく遺漏のないように彼の半生を書き記したつもりですが、あれからもう大分時間が経っておりますので、多少なりとも想像に任せた節や文飾がありますことを予てお詫びいたします。



 勤行に身を捧ぐこと足掛け八年、黒の法衣に風采宜しい釈氏重兵衛が彼岸に近しき鵜蘇理山の門を潜ったのは、晩秋を間近に控えた刻露清秀の昼下がりのことでした。重兵衛というのは若かりし時の彼の名で、今から半世紀近く前の話にはなりますが、見習い僧の代表として末寺から本山への修学を命じられました。


 鵜蘇理寺の修行は昔から厳しいことで有名で、今では随分穏やかになりましたが、当時は末寺に対しても一向に容赦をせず、陰風が廓寥を駆けて腐卵の臭いを引き連れた湖畔での読経や、湖を覆う外輪山を走る修験道のような修行内容に音を上げる者も多かったようです。


 しかしながら、本山での修行の中で殊に僧坊から最も疎まれたのは、意外にも地蔵堂の掃除でありました。お堂の掃除と言っても、実際は地蔵堂内に安置された人形が床に落ちていないか、また然るべきところに置かれていないかを確認するといった内容で、一見かなり妙ちくりんな話に聞こえます。


 が、それでも週に一回の掃除がしっかりと行われないと、その週はご遺族からの叱咤の声が噴出して、寺としてもその応対で追われて仏道修行どころではなくなったそうです。とはいうもののその地蔵堂の人形というのは法力を味方につけたとてそれがまるで功徳の機を失うが如く大層気味が悪かったので、次第に末寺の修行僧に白羽の矢を立てて掃除の当番をさせるようになりました。


もちろん大変な心労を伴う作業であることは重々承知でしたから、独りではなく二人一組で掃除にあたらせました。この時、彼の相方となったのが先代の住職でした。自ら能動的に口を開くことはないものの、厳しい修行を難なくこなす彼が相方となったことは、先代の住職にとっては非常に幸甚であったようです。

 

 人形の安置場所は地蔵堂の地下にあります。日中でも光が差すことはなく、照明と言えば平笠シェードが不均等に点綴しているだけで、接触が悪くなって意味なくシグナルを繰り返しているものが大半でした。

 

 恐る恐る部屋に入るなり、通路の真中に人形の脚が見えました。床に落ちている脚の上にあったガラスケースは扉が開いておりました。

「厳重に鍵まで掛けられているのに、どうして。」

「どうしても何も、見たままだろう。」

 

 脚の上にあったガラスケースの亭主は扉の前に居て、仁王立ちをしているように見えました。袴の糊付けが何処となく甘くなっています。床の人形は突き落とされた拍子に足を失ったのでしょう。弱冠にして世を去った彼女らは、死してもなお恋慕の情を抱くようで、気づくと隣の旦那が入れ替わっているということもままあったようです。ご遺族からの叱咤というのも、肢体の欠損というよりはむしろ、その監督の不行き届きを詰るものでした。そしてさらに厄介だったのはその色恋沙汰を喜び、何とか嫁や婿に迎えられないかと言い出すご遺族の存在でした。

 

 人形の顔は十人十色で、窈窕夫婦も居れば猿猴月を取ったようなつがいもありました。とりわけ地下室の奥の角にあるつがいの白無垢人形の方は見とれるほどの沈魚落雁の容貌であり、その人形の前を通るたび、先代の住職がすっかり魂が抜け出たようにガラスケースに手を伸ばしそうになるのを、彼は必ず

「おい。」

と手を掛けて掣肘を加えました。

 

 そして何回か地蔵堂の掃除を担当するうちに、次第に先代の住職も耐性が付くようになり、ようやく仏に仕える者として自信が湧き始めた一方で、木鶏と敬っていた彼の様子が徐々に変わっていきました。鵜蘇理湖畔での読経もこれまで難なく唱えられていたのが、今となっては花緑青の鏡面に映る自分の顔を延々と見続けるばかりです。が、本寺の僧侶も見習いも、こんなことは前例がないと心配になって声を掛けると、彼は決して狂い言などは言わず、それどころか整然と返答をするので周りも青年期によくあるコンプレックスだと見なして気に掛けなくなりました。


 彼は常に虚ろといった様子でしたが、唯一地蔵堂の掃除の時だけは往時に戻ったように機敏に働いていたので、周りの末寺の僧はこれを機とばかりに彼に地蔵堂掃除の担当を代行してくれないかと持ち掛けました。それゆえ、同伴者である先代は彼の前で口中の苦虫を嚙み潰さないよう必死でした。

 そんな彼が一度、白無垢人形を前にして先代にこう呟きました。

「今度ご挨拶に伺おうかと思ってる。」

それが相談ではなく一種の決意表明であることは、先代の眼にも明白でした。

「う、うん。」

彼の行おうとしていることは正しく略奪と呼べるものでしたが、この場合において生者と同様の物差しで正邪を判断してよいものか、先代には答えが出せませんでした。


 そうして、奥津軽に雪解けの強東風が訪れた頃、彼は忽然と姿を消しました。件の白無垢人形とともに。


 その日の朝、彼の失踪に気づいた先代が地蔵堂の鍵を開けて人形ケースまで駆け寄った時、白無垢人形の姿はどこにもなく、残された婿人形は両手両足が折られていました。

「これは何例目だろうか。」

「仲人役も仲裁役もこれまでは仏様だったから良かったのだがね。」


 人形の偸盗がしきりに離されましたが、白無垢人形を盗んだ犯人は誰の眼にも明らかという反応で、過去にもあの人形を巡って何かしらの厄介事があったという話ぶりです。寺の話し合いの結果、ひと月ほどは彼が改心して帰ってくるのを待ちつつ、その気配がなければ本山に居る僧侶や末寺へ捜索の協力を願い出て、それでもなお消息が掴めなければ彼の生家を訪ねるということになりました。

 

 結局、数月を経ようとも彼の居所は分からず終いで、彼の帰りを一人待っていた先代もいよいよ本山での修行を終えて実家の寺に戻ることになりました。


 そうして半年近く経った頃、本山から彼の消息が掴めたとの一報が届きました。あれだけ雲隠れの状況が続いていたわけですが、本山の和尚が白無垢人形の遺族の元にお詫び行脚へ向かった際、ご遺族の口から、半年ほど前に彼の訪問があったと告げられました。彼は黒衣の姿で現れ、「貴方の娘は旦那の不貞によって酷く悩んでおり、様子を見るたびに麗しい外貌がやつれていっている。このままでは娘様は幸せにはなれない。私はどうしてもその状況を放っておけなかったので、還俗して娘様をここまで連れてきた。」と言うと、大胆にも白無垢人形の父母の前で入籍の許可を乞うたそうです。


 私欲のために拵えた根拠のない出鱈目な話に決まっていると和尚は今にも怒り心頭に発する寸前でしたが、ご遺族の話によれば、今の旦那は生前女癖が大変に悪く、地下室の成り行きで縁を結んだは良いものの常に悩みの種であったそうです。そして何より、彼を謗る和尚にも心当たりがないわけではありませんでした。


 というのも、先に訪れていた旦那のご遺族がこの事件を三行半と勘ぐって頭を下げ返したのですから。それから、白無垢人形の父母はこう続けました。「彼は今では津軽地方で名が立つ人形師のもとに身を寄せており、今回の非礼は一生をもって背負い続ける覚悟もあるだろうから、これ以上の詮索はどうか控えてほしい。」と。



 先代が彼と再会するのは、それからさらに四半世紀が経った頃のこと。あの事件が起こった当時、幼子であったご遺族の弟によって、人形となった彼が先代の寺へ届けられました。この時渡されたガラスケースはいつか彼がご遺族と面会を果たした時に娘を収めていたものでしたが、例の伴侶の姿はどこにもありませんでした。が、その代わりに実に貫禄のある顔をした人形が木箱に収まった状態で

渡されました。そしてその晩、彼を届けた義理の弟によって、謎に包まれた彼の四半世紀が具に語られることになります。

 

 彼が身を寄せた名匠は字を喜三郎と言い、虹彩の動きまで映ると噂されるほどの精緻な技術を持っておりましたが、一生涯を通じて眼を開けたことはなかったようです。伝記では、常絶え間なく人形を片手に、筆や針をもう片方の手に携えて顔に胡粉の施しを、そうでない場合は着付けの直しをしていたと語られています。このように記録越しにも忙しなさが浮かばれる名匠ですが、門を叩いたっきり固まる彼を見るや、「背負っている者を見せなさい。」と一言、そして白無垢人形を抱えるなり全てを悟ったように口を閉じ、その日付けで彼を門弟に加えたそうです。

 

 名匠の専門は公には雛の頭師ということになっておりましたが、あまりに腕が立ち過ぎたかせいか、常に人形の修繕作業に追われていたようです。顔の抉れた人形が運ばれれば、作業台に刺さった夥しい数の桐塑頭の中から相応しい一つを選び出して、その人形が持った品位を損なわぬように慎重に取り換え、また左義長に並べられることが決まった人形に対しても、その直前まで白粉を施し、着物を直していたという逸話が残っております。そして、施しを受けた人形は面を照らした能面のように晴れやかであったとも。その門弟生活について彼が他者へ語ることは殆どなかったのですが、ある時彼は義理の弟に対し、そこで命の流転を目の当たりにしたと述懐しています。

 

 数年目の正月を少し過ぎた日のこと、それまで「さるぼぼ」に人形の顔を足したような物を渡され、それで彫りや毛描きの練習をするように指示されていた彼ですが、遂に名匠からの許しを得て、初めて人形の切り出しに当たることになりました。切り出しというのは、文字の通り胡粉を塗った顔から小刀で目口鼻を切り出す作業を指します。とりわけ目を切り出す際は、先に目入れで固定させた義眼の黒が徐々に掘り出されるため、俄かに意識あるものとして彫り師と対面を果たすような形となります。その時の緊張感というのは大変に重たいもので、当時の彼に切り出しを成功させるだけの度胸はなかったようです。


 目出しの折、小刀を滑らせて人形の目を刺したっきり固まってしまった彼に対し、その傍で見届けていた人形師が呟きました。

「そのままの技量で自身を彫ってみなさい。きっと逃げられてしまいますよ。」

人形師にとって見れば、彼の目的は一目瞭然であったようです。そして、人形師はこう続けます。

「その人形はもう生まれてしまっているので私の方で預かります。もう貴方には隣室の囁きが聞こえ出したころでしょう。人形師というのは終わりがありません。せめて家の内にある人形を全て形にしてから世を去りたいものです。」

 彼はそのとき玄関の敷居がなぜ高いか、そしてまた近頃、家の内外からこちらを見上げる槍のような視線が強まっている訳を理解しました。


 

 それからややあって、人形師から皆伝を得て独立を赦されたとき、馬のはなむけとして名匠から

人形が手渡されました。

「皆伝を与えたとて、全てを与えられたわけではありません。名匠と呼ばれるようになるまでには途方もない時間がかかるでしょう。それまではこの人形を離れに置くようにしてください。」


 白無垢人形を連れて旧家に戻った彼は、その日から持てる時間を全て自分自身の人形作りに費やしました。無論、人形を作り終えるまでは生きていなければならなかったので、仕方なく近所の人形の修繕をして糊口を凌ぎました。そうして睡眠も惜しんで終日作業に明け暮れたため、日に日に身体は衰弱していきましたが、それだけ彼の分身は彼自身の命を貪って凛々しく、そして逞しく育っていきました。

 

 彼の人形制作も完成間近に控えた夜中のこと。珍しく彼は夢を見ました。遥か昔に修行に訪れた鵜蘇理の湖畔を伴侶の白無垢人形が蛇の目傘を差して歩いている夢です。日差しの薄い曇天にあって、幽明の境はいよいよ怪しく、白んだ岩塊が納骨に収める前の拾い骨のように歪な形をしてあちこちに散らかっております。その傘は伴侶と彼の人形とが内に入って甘風を凌げるようにと彼が作っていたものでしたが、傘の内は白無垢人形一人でした。


 時化空が掻き曇るようにして吉夢が怪訝に覆われた時、湖畔の風車がカラカラと音を立てて傘が翻り、屈んだ傘持ちが姿を現しました。彼は呆気にとられましたが、その風采を凝視しました。ちらりと紋付袴が見えた時点では、彼自身の人形であったかもしれなかったからです。果たして、その傘持ちは彼ではありませんでした。舌を噛んで夢から帰った彼は、怒りのあまり白無垢人形を押し入れに幽閉してしまいました。

 

 その翌晩のこと、彼はまたしても夢を見ました。今度は寺預かりとなる前の桜東風の一幕で、母の為す機織りの音が和やかに響いています。庭先の桜の下には、もうじき父により子殺しの憂き目に遭う兄が居て、落ちゆく花弁を集めています。布団で夢の景色を見つめている彼のもとへ運ぼうとしているのでしょうか、彼は舌を触りつつもなるべく嚙まないように丸めました。それもそのはず、彼にとってその夢とは、もう二度と帰らぬ静穏の日々そのものであったからです。

 

 少し経って、彼は機音の間隔が短く、他方で音自体が大きくなっていくのに気が付きました。そうして、花弁を取る兄の動きにも徐々に無機質さを覚え、気味の悪さから布団を這い出て兄の顔を覗くと、その顔はいつか四肢を折った伴侶の前夫の顔と瓜二つでした。舌を噛むまでもなく彼は眼を覚ましました。

 

 機織りの音は押し入れの向こうから聞こえるようです。これまで鼠が屋内を走ることは多々あったのですが、それにしては足の運びにリズムがありません。彼は押し入れに幽閉した伴侶のことを思い出しました。そして夢と同様にして病床を離れて押し入れの扉を開けると、鍵付きのガラスケースに収めたはずの白無垢人形が押し入れの扉前に佇んでおりました。角隠しは膨らんで、袂に忍ばせた懐剣が光ります。

 

 しかし、その時の彼に恐怖の念といったものはありませんでした。それどころか、彼はいつまでも完成しない婿人形に痺れを切らして一連の行いに出たのだと考えたようです。そのため、押し入れを挟んで佇む白無垢人形を前に土下座をして、旦那の完成を約束しました。その五日後、彼はこの世を去りました。彼の枕元には彼の面影をよく写した婿人形だけが、錠前の二つ付いたガラスケースに収まっていたそうです。




 

 こうして民話めいた話を住職から伺った訳ですが、私には今一つ彼の半生を祖父の言動とうまく結びつけることができませんでした。

「凄絶な半生ですね。」

「この話を先代の住職から聞いたのはかなり前のことですが、その時貴方のお祖父さんも私の横に居りました。お祖父さんが金太郎人形を大事に扱われていたのも、恐らくその話が記憶に残っていたからではないでしょうか。」

「それに、ご遺族がこの寺へ子息の人形を運ぶ光景も数えきれないほど見てきたと思いますし。」

「そうですね。」

「ただ、本当にそれだけだとは思えないのですよね。何かが欠けているというか。」

住職は何か考え事をしているように床を見つめておりました。

「それがですね、実は。」


 隠し事を打ち明けるように住職が重たい口を開くやいなや、ご子息と思しき剃髪の若僧が食堂の扉を開けて、こちらにお辞儀をしつつ住職の退室を促しました。左義長を明日に控えているにもかかわらず、昨日今日とかれこれ2時間近くも住職の時間を奪ってしまっていたわけですから、寺の事情は俗世に浸かるこの私にも容易に察せられます。引き留めることはできませんでした。

「明日にはお帰りになりますよね。」

「その予定です。」

「大変申し訳ございません。明日の朝にでも続きをお話しできればよいのですが。」

「こちらこそお引き留めして申し訳ありません。どうかお構いなく。」

 

 左義長といってもこの寺の行事というわけではなく、あくまで地元の人々が主体となって行う季節イベントに参加するといった形で、おそらく参加の理由というのも、門松や達磨のような縁起物や神仏の庇護無しでは処分が憚られる物を焼却する際の頼みとして、毎年お呼ばれされているのだと思います。一方呼ばれる側も、その意図に気づきつつも期待された役割を全うせねばならないということで、結局は寺行事のように主体的に動かざるを得ず、各家庭で眠っていた人形の名やお焚き上げの順序を、これまた道祖神の投げ入れの際の監督を任されている近くの諏訪社の宮司と相談して決めるのだそうです。

 


 精進料理と民話チックな話に満足して自室に戻るまでは良かったものの、ほんの数分仮眠を取るつもりが、ストーブの熱で温まった部屋にすっかり安堵感を覚えて眠りこけてしまった私は、突如土蔵から発されたであろう雪崩の音によって覚醒を余儀なくされました。そして、睡眠という形で誤魔化し続けてきた尿意と共に、あの長廊下と和室の中心に鎮座する彼のことが俄かに思い出されるのでした。

 

 とはいえ、時刻は0時を少し過ぎたばかりで、俗にいう丑三つ時までにはまだ余裕がありました。旅客用の風呂も利用可能な時間帯で、人の往来だって多少はあるはずです。それに古くから精神的な聖域として歴史の表舞台に立ってきた寺院の内部で超自然的なことなど起こりえるのだろうか。気づけかぬうちに根拠のない威信に憑かれて私は縁側へと向かっていました。

 

 大寒の夜半は音を欠いておりました。月は冴えて明るく、縁側の枯木にはもうじき垂雪となって落ちる綿雪がずっしりと乗しかかっています。戸袋はありましたが、雨戸は閉められておりませんでした。縁側が地上からかなり高い位置にあるためでしょうか。夏には爛漫の気色を覗かせるという白詰草も、この季節においては地塗り後の雪華に頭を挿げ替えられています。

 

 昼間とは打って変わって長く感じられる縁側を小走りで駆けた時、相変わらず障子を挟んだ和室の奥の方から発される異様な視線に追われました。あれだけ凄絶な半生を知って同情心に満たされていようと、不気味なものに変わりはありません。寒月の光は頼りなく、今にも後ろに誰かが立っていそうな怪しげな雰囲気が縁側一帯を囲んでいましたが、結局この時は何も起こらず無事に厠まで辿り着くことができました。

 

 問題はその復路でした。往路と同じようにして縁側を駆けた時、ちょうど例の和室に差し掛かる辺りで何かに躓きました。転がりざまに足元を見ると、四方二寸ほどの胡粉の箱が倒れておりました。打ちどころが悪かったか膝に激痛が走り、今すぐここを離れたいというに蹲ることしかできません。床の冷たさが震えを伴って徐々に耳に伝わってきました。やがて夢中に放られた時のように感覚だけが研ぎ澄まされていきます。凍った耳が彼岸の音を捉えました。


 眼前に無音の深雪と清澄な紺瑠璃が広がる一方で、障子を挟んだ背後には和室の内を遅足で歩き回る足音が静かに反響しています。並々ならぬ気配が方向を一点に定めて徐々に近づいてくるようです。須臾にして窓を背にしました。心中を見透かしたように足音が絶えます。身体の震えが強くなりました。二つ息をついた時、障子にさっと影が立ちました。そして一つ息を飲もうとした時、蛇の目の和傘がぐさりと障子を突き刺しました。眼を離さぬうちに和傘はゆっくりと引いていき、破れた障子の隙間から覗いた彼の眼玉がぎょろりと動いて私の眼を凝視しました。この時寒夜の冷えが全身を駆けましたが、同時にようやく姿を現わした彼の眼を見て私は妙な心の落ち着きを覚えました。というのも、名匠譲りの虹彩の煌めきには静物が見る者に与えるような無間の冷たさはなく、むしろ等身大の憂いを伴っているように思われたからで、私の身を支配していた震えも遂に静止の時を得ました。

 

 しかしながら依然として身じろきは取れませんでした。そのうちに、彼の眼は私の眼を離れて蔵の方へ向きました。辛うじて私も蔵の方を見ると、暗夜の中で蔵を取り巻く無数の視線が一挙に彼の眼へと注がれていることに気が付きました。助けを乞うような、それでいて羨望を投げかけるような視線の血走り具合は、まるで登山中に前方で起きた雪崩が今にも迫りくるといった勢いでしたが、しばらく経たないうちに視線は元見ていた蔵の内部へと吸い込まれていきました。一体どうしたことかと彼の方を振り返った時には、破れた障子にはもう彼の眼はありませんでした。


 身動きが取れるようになって乙女座りを直したところで、住職が慌てて私のもとへ駆け寄ってきました。

「大変申し訳ございません。やはりあの時話していれば。」

「いいえ。話さなかったおかげで貴重な機会に恵まれました。」

落ち着き払った私の返答を聞いて、住職から安堵の息が零れました。

「彼、障子から眼を離したみたいですが。」

「ああ、やはり。」

それから住職は彼を宥めるように穏やかな口調で、障子の向こうへこう告げました。

「いつここを去っても構わないのですがね、そうなりますと日々あれ以上の数の人形に追われることになると思われます。今年も彼女の姿はないようですし、また別の機に改めるというのはどうでしょうか。」

銀花しとど降る寒夜の静寂に寄り添うようにして、和室の奥へ歩いていく遅足の音だけがしばらく耳に響き渡りました。

 

 翌日、宿坊を去る前に取った朝餉の場で、あの宥め口上が祖父から住職へと語り継がれたのだと告げられました。少年期の住職が昨日の私と同じ状況に会した時、先代の住職から予て彼の話を聞いていた祖父が駆け付けたと。奇しくも昨日の出来事は半世紀前の再現であり、私は図らずして祖父の記憶をなぞっていたようです。


 それから五年が経った頃でしょうか。落雷によって起きた山火事が飛び火して、彼の寺が全焼したという一報が届きました。炎は風巻を受けて高く舞い上がったそうですが、幸い怪我人は一人も無かったようです。今では寺院の再建も終わり、檀家との折り合いもついてようやく少し余裕が出てきた頃と聞きます。宿坊の経営もこれまで通り続けているらしく、近頃座敷わらしが出る宿坊としてひっそりとまた耳目を集めているとのことです。


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