時空を超えて気づきを与える
ちょっと描写が極端になってしまいましたが、発達障害を揶揄するつもりはないことを記しておきます。
着時ポイントを定めてPC上から人気のない河原に座標軸を移した。そのまま、時間の流れを逆行して、何もない空間をきりもみ状に駆け下りていく。モノトーンの世界のらせん階段は、音も立てずに静かに彼女を移送する。一九八〇年代の東京に降り立つ一人の女性。石綿つかさ、25歳。彼女は政府から依頼を受けた、時空移動カウンセラーだった。川は、異質な人物の登場にも動じず、水面と空気の奏でる音が、車の排気音やタイヤのこすれる音と一緒くたになりながら、街の喧騒としてノイズをもたらす。
二〇一〇年代に増加した発達障害者。多くの者が適切な支援を得られず大人になって就労で躓いている。中でも問題なのがセルフエスティームが低く、癇癪を起しやすいということだった。発達障害の概念が知られていないバブル期、この時代の発達障害者に、自己信頼感と気づきを与えるために、彼女は、バブル前夜の浮かれていた時代にやって来た。
黒いジャケットを白のトレーナーの上に羽織り、ジャンパースカートという平凡な出で立ちで、彼女は道に向かって歩き始める。レイヤードのセミロングがそよ風に揺れる。当時としては珍しい茶髪である。今日は発達障害者らしい青年との待ち合わせだ。もし、この時代の発達障害者にある程度の矯正を施すことができれば、間違った育児や教育などによる二次災害を防ぐ狙いもあった。つかさは、彼の恋人のふりをして、対人関係のミスをそれとなく教えてあげるのが役目だった。
河原の草から離れて、街路樹の下で男が来るのを待つ。名前は小玉風太、外見は当時出始めたオタクのような出で立ちで、ファッションや流行にはまるで興味が無く、職務でなければ、一緒に出歩くのもはばかられるようなタイプだった。つかさは、下唇を噛みしめて、気を引き締める。手を丸めて濡れティッシュの水けを切るように硬く握りしめた。
遠くから、ぎこちなく手を振る姿が見える。やがて上下に激しく弾む走り方で、足の運び方は地面を力いっぱい蹴りつけているが、速さを感じさせず、無駄にうるさいだけの動きにしか思えなかった。ドタバタしたぜんまい仕掛けのエリマキトカゲ。当時、流行していた車のCMに男の走り方の映像が重なる。
オヤジが着るようなワンポイント付きのボーダーのポロシャツに、ジーンズという格好の男がやって来た。手ぐしでまとめた髪型は、整髪料もつけず、今にも崩れそうだ。銀縁のメガネは時代背景を考えても今にそぐわない。真新しい紺色のスニーカーにはマジックペンで書かれた名前が似合いそうだった。
「おう。待ったか」
ぶっきらぼうに返事をする。手の上げ方が大ぶりで、ちょっとした違和感を感じる。何より、女性相手なのに男に声をかけているような話しぶりだった。
「ちょっと、風太くん。女の子相手に『おう』はないでしょう」
「ごめん。ちょっと緊張した」
「どうして遅れたの」
「目覚まし時計を見たらオフになっていた」
ハンカチを忘れたのか、テイッシュで顔を拭いた小玉風太は、息を弾ませながら、にじり寄って来た。吐息と口臭が入り交じり空気を書きまわす。その強引さに、恐怖を感じたので、少し小走りで距離を置く。風太は、おもちゃを取られた子犬のような顔をした。まず、対話の基本から教えないと、謝罪を求めているのに言い訳をしているのだから。
「遅れたら、理由はいいから、まず謝罪」
「厳しいなあ。つかささんは」
風太は照れたような顔をして、声を出して笑った。口を半分閉じていたので漏れ出た空気が唇を震わせていた。まるで豚の鳴き声のような笑い声に、つかさは多少イラっとした。
「待ちくたびれたから少し休もうか」
つかさは相手の雑談力を計るために、どこかの喫茶店で休むことを提案した。風太はひとりで足早に歩く。まるで競歩のようでもあり、何よりつかさのことを配慮していない。しばらく歩くと立ち止まって振り返り「早く来いよ」と誘う。小走りで駆け寄る姿を見ただけで、安心して前に進む。相手のことをちっとも考えていない。つかさは砂を飲むような気持で、ひた走る。
ややオープンな作りの喫茶店、営業休みのサラリーマンがスポーツ紙を広げる楕円形のテーブルの端に風太は腰を下ろした。椅子を引いてあげるでもないし、大仏のように不動のまま、不思議そうな顔をしている。ボックス席や二人掛けの席を選ぶ気持ちがないのか、ただ自分の疲れを取りたいだけなのか。彼の自分勝手すぎる行動に、軽いめまいを覚えた。
横柄な態度で、ウエィターを呼び注文を告げる。メニューはまず自らが独占し、クリームソーダとサンドイッチを、偉そうな言葉を選んで使う。そのすぐ後に、つかさにメニューを投げ、何を選ぶかを待てないのだろうか、指で軽く机をたたき始めた。つかさが注文をし終えると、風太は口を開いた。
「津田沼しゅんって知ってる」
当時、売り出し中の若手芸人だった。アコースティックギターを片手に、すぐに落ちがつくコミックソングを歌うタイプで、マニアしか知らないような存在だった。つかさは相手の自尊心をくすぐるためにあえて「知らない」と告げると、風太は満足しきった顔をして「やっぱり」と宣言した。その後、風太の講釈が始まり、話の内容を連想ゲーム風にあちこちに飛ばしながら、5分間の疾走は続く。
「彼は、こけし劇団ではリーダーを務めていたんだよ」
津田沼しゅんに関して一般的な誰でも知ってるような知識を、自慢げに語り、周囲の客まで視線を光らせて睥睨する。その醜悪な様に、同席していたつかさは、顔を赤らめ、視線を泳がして他人のふりをする。
風太は、独演会状態になると人を寄せ付けない。つかさの存在を、自分にまとわりつく聴衆のように置き換えているのだろうか、こちらへの配慮がなくなり、一方的にしゃべり倒すだけだった。つかさは自分が防砂林の一つになったような気分がした。思わず口を開いた。
「風太くん、少し喋りすぎじゃないかしら」
「えっなんで?」
自分の話を続けて少しいい気になっているせいか、意外そうな顔をしてこちらを見ている。細く長い目からまつげがこぼれ落ちそうな表情をのぞかせた。
「会話はキャッチボールなのよ」
「僕はそのつもりだけど」
それだけ長時間ボールをキープして離さなければ、あらゆる球技でファールになっているだろう。
不満な表情を露わにした風太は、勢いよくドアを開けると、駅の発車ベルのようなけたたましさで呼び鈴を鳴らしたまま立ち去った。つかさは、店内の人たちに対して頭を下げて、風太を追った。彼が飲み干したクリームソーダのグラスは、白い飛沫が散乱して汚かった。
今後の予定を見て、つかさの頭に不安が、アスファルトに反射された太陽光のぬくもりのように湧き上がってきていた。この後、風太の好きな特撮映画を見る予定になっているが、女性同伴で特撮物を見る神経もさることながら、周囲に気を配らない風太が、何をやらかすのか気が気でなかった。
巨大な宇宙兵器が映画館の看板から立体的なオブジェとしてはみ出ている。そのセットを見て、口泡を飛ばしながら風太は喜んでいた。館内は真っ暗で、風太がなにげなく振り上げた足が、観客が寄せていた空き缶に当たって、スクリーンの下まで転がり落ちていった。つかさは、気恥ずかしさで頭がいっぱいになってしまった。髪の毛が後ろから引っ張られるような感触が頭皮を走った。
映画館を出てから、つかさは入場時間について注意した。風太は目を泳がせながら「早く映画が見たくって」と言い訳をする。
「少しは周りの人のことも考えてよ」
つい口調が荒くなり、すぐに我に返った。ここでは、彼に対して自尊心を保たせたまま、対人関係の瑕疵を正さなければならない。それが自分の使命だったと、彼女は自分の甘さを恥じた。
ふいに、彼女は抱きかかえられた。耳元で熱い吐息が吹きかけられ、質問された。
「キスしていいか」
「だめ。まだ早いし。人が多いわ」
夕日は地平線を越えて裏側へ抜け、周囲はにわかな闇が支配していた。おそらく風太は、青年誌のマニュアルを読んで焦っていたのだろう。記事通りに二回目のデートでのキスを狙ったのかもしれない。
はやる風太を厳しくいなして、つかさは、駅まで彼を送った。鼻息も荒く、名残惜しそうな風太を電車に乗せると、彼は流れゆく車窓に目を奪われて大人しく彼女の目の前から去って行った。
(そういえばこのころは恋愛至上主義的な概念の流行期だった)
つかさは時代性と、対人関係で不器用すぎる風太の相互作用に頭を悩ませたまま、元の時代へと帰還して行った。