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後編

「うわ、なんだこれ」

 浴室から戻ってきたギリスは、足の踏み場もないほど絵の散らばった部屋に、驚きと呆れの入り交じった声をあげた。描いていた絵から顔をあげて、スィグルは濡れ髪のギリスを横目に見やった。

「エル・イェズラムだよ」

 ギリスはあんぐりと口をあけて、そこかしこにある紙の中にいる、自分の後見人の生前の姿を眺め回している。

 スィグルは今思い出せる限りのエル・イェズラムの絵を描いてみたが、そのどれもが、普段着の略装姿だった。スィグルが知っている竜の涙の長老は、なんとはなしに気怠げに回廊を散歩している姿であり、それはとてもダロワージに飾られるのに適切な姿絵とは思えなかった。

 適当な礼装を着せて描けばいいのだと思ったが、でっちあげでは、どうしても上手く描けない。

 いろいろ苦心して、ふと思いついたのは、父が自分を人質にやる時に、トルレッキオまでの随行を買って出てくれた、華やかな礼装姿のエル・イェズラムだった。

 思えばあれが、宮廷人らしく装ったイェズラムを見た最後だった。

 あれならダロワージから父を見守るにふさわしい姿だ。族長の廷臣らしくあり、魔法戦士たちを率いる長老らしくもある。

「俺が風呂に入ってる間に、これだけ描いたの?」

 びっくりしたという顔で、それでもどこか嬉しそうに、ギリスは床から取り上げた一枚を眺めている。ギリスは微笑んでいた。

「似てるなあ。お前ってほんとに絵が上手いよ」

 スィグルは手放しで絵を誉められても嬉しくはなかった。

「もっと大きい絵にするなら、大きい紙を用意させないといけないよ」

「もらって帰って、長老会で選ばせてもいい?」

 スィグルは頷いた。ほかに何か方法があるとも思えない。

「それはいいけど、俺が頼んだお前の絵は?」

 きょろきょろと辺りを探して、ギリスは尋ねた。スィグルは指さして、その在りかを教えた。

 ギリスは上機嫌にその一枚を拾いに行ったが、取り上げて眺めてから、なにか妙な表情をした。

「小さいよ」

 頼まれた手前、試しに書きはしたが、どうしても気がのらず、紙のすみにぞんざいな線で描いただけになった。自分の顔など描いても、スィグルにはなんの面白みもなかった。

「それにこれ、なんか変だぞ」

 紙の上の絵と、スィグルの顔を、やや離れたところから比べて眺め、ギリスは言った。

「反対になってる」

「鏡にうつったやつだからだろう」

 スィグルの答えに、納得はしたようだったかが、ギリスはまた、がっかりしたという顔をした。

 自分の顔を鏡を介さずに見る方法はない。スィグルには、ギリスが見ている自分の顔がどんなか、知る方法はなかった。

 しかし、鏡像からそんなに大差のあるものとは思えない。傷もなければ、黒子もないのだし、目立って左右に偏りのある顔でもなかった。双子の弟の顔を見ていれば分かる。母方の血統を受け継いだ、砂漠の薔薇(オズトゥーシュ)系統の典型的な顔立ちだ。

「じゃあ、これでどうだろう」

 ばれやしないと思って、スィグルは弟の絵を描いてやった。自分だと思って描くと気乗りがしないが、昔から、スフィルの絵を描いてやるのは好きだった。弟が面白がって喜んだからだ。

 描き上がってゆく絵をのぞき込みにきて、ギリスは一瞬嬉しそうにしたが、すぐにまたがっかりした顔をした。

「これはお前じゃないだろ。弟のほうだろ」

「……なんでわかるんだよ、そんなこと」

「お前はもっと目が根性悪そうなんだもん」

 すぐ横にいるギリスの純真そのものの表情と見つめ合って、スィグルは彼の言っていることが、嫌みでもなんでもないのだろうなと思った。

「根性悪くて済まないね」

 描きかけのスフィルの絵を放り出して、スィグルは筆を置いた。絵の中にいる弟は、確かにどこか頼りなげだ。

「まあいいや、こっちで」

 紙のすみに描かれたほうを、ギリスはまたじっと見つめた。本人の目の前で、じっと絵姿に見入っているのは、何かとても奇妙なように、スィグルには思えた。

「エル・イェズラムの姿絵を、ダロワージに飾っていいか、話が本格的になる前に、父上にご意向を伺った方がいいと思うんだけど」

「うん……」

 どこか上の空で、ギリスは返事をした。

「もしも父上が敬遠なさったら、僕は描かないけど、それでいいよね」

「だめとは言わないさ」

 ぼんやりとした声で、しかし明らかに断言するギリスに、スィグルは不思議になった。

(デン)が死んで一番困っているのは族長なんだから。時々は顔を見たいと思うはずさ」

「父上はそんな弱い人じゃないよ。お前は自分が悲しいから、そういうふうに思えるだけさ」

 腹立ちまぎれにそう言ってから、スィグルは気付いた。

 ギリスには、悲しいという感情がないのだ。本当かどうかは分からないが、少なくとも本人はそう言っている。

 ふと気付いたように、ギリスが持っていた紙を裏返し、灯火に透かしてそれを見た。不意にあの明るい笑みが、彼の顔にひろがるのを、スィグルは眺めた。

「こうすればお前の顔になったよ」

 彼が自分ではないものに、その笑みを向けるのが、スィグルには異様に思えた。

 やる気を削がれて、スィグルはその光景から目をそらした。

 もうすぐ、晩餐のために広間に人の集まる時刻だった。女官に部屋を片付けさせて、自分もギリスも礼装に着替えねばならない。

 根を詰めて絵を描いていたせいか、今日は珍しく腹が減っていた。

 座に寝そべって、スィグルは高坏に盛られた砂糖菓子に手を伸ばした。指先ほどの大きさのそれを、二つまとめて口に入れたが、やはり何の味もしなかった。それでもとにかく、腹の足しになるならいい。

「なあ」

 すぐ横に腰をおろしてきて、ギリスは床に沢山あるエル・イェズラムの絵を見た。

「悲しいって、どんな気分なんだ。俺はずっと、イェズの帰りが遅いなと思ってる。イェズの石も見たし、最後の英雄譚(ダージ)も聴いた。だけど今でもまだ、イェズが帰ってくるような気がするんだ。皆が言うように、泣けもしないし、つらくもない。遺品を見ても、なんとも思わない。イェズが俺の面倒をみてくれて、幸せだったって思うだけで」

「お前はお幸せなやつだよ」

 もうひとつ菓子を貪って、スィグルは毒づいた。

 自分でさえエル・イェズラムの死は悲しかった。いるべき人が宮廷にいなくなったという、空洞感があった。それでも今さら泣けてきたりはしない。恩人だったが、スィグルにとってはイェズラムは他人だった。彼のために泣く者たちは、自分の他にいるのだ。

 たとえば目の前にいるエル・ギリスこそ、大恩ある後見人のために泣くべきだった。

「ギリスは僕が死んだって悲しくないだろう。あいつは根性悪だったって思うくらいなんだろう」

 唇に残った砂糖を舐めとりながら、スィグルは早口にそう言った。

 言葉のとおり、どこか幸せそうにエル・イェズラムの絵を見ているギリスが憎く思えた。こんなやつが、ダロワージに絵を飾って、それを玉座にいる父に見せようとは。いやがらせとしか思えなかった。

 もし自分がその立場にいたら、きっとその絵を憎いと思うだろう。父にとって、イェズラムは最後の肉親だった。その不在を誰よりも身にしみて感じているのは、玉座にいるあの人だ。

「悲しいとか辛いとかいう感情は、口で説明できるものじゃないんだ。自然にどうしようもなく押し寄せてきて、人を苦しめるものなんだ。それが分からないお前は、とことん頭がいかれてるんだ。僕の舌が壊れてるみたいにさ。僕もいっぺんくらいはお前が、悲しくてひいひい泣いてるところを見てみたいもんだよ。だけど、甘さを感じない舌に、どうやったら甘い味を説明してやるれっていうんだ」

 怒りにまかせて、スィグルがなじると、ギリスは何も答えず、隣に寝そべって、高坏から自分も砂糖菓子を食べた。

 聞いているように見えないギリスが、スィグルは嫌になった。 

 身を起こして女官を呼ぼうとすると、それを引き戻して、ギリスが口付けをした。まだ口の中に残っていた砂糖菓子が、触れあう舌の狭間でゆっくりと溶けた。ギリスはスィグルの頬を支えて、味わうような長い接吻をした。スィグルには菓子の味は分からなかった。ただ切ない熱を感じただけだ。

「甘いってこういう味だろ」

 彼が言っているのが、接吻のことだといいと、スィグルは思った。だが、そんなはずはなかった。菓子のことを言っているのだ。菓子のことだ。そうなんだろうと、スィグルは彼の目に問いかけた。

 胸の奥の方にわだかまっていた考えが、急に形をとって、スィグルの喉もとに現れた。

「晩餐のときに同席するのは今夜から止そう」

「なんで」

 微笑みながら、ギリスは答えた。話そうとするスィグルの唇の端に、彼はふざけて、ついばむような口付けをした。

「いっしょに食べてると、僕の派閥にいるんだと思われる」

「それがまずいか」

「継承争いに巻き込まれる」

「別にいいよ、そのためにお前といるんだから」

 不思議そうに、ギリスはスィグルの顔を見た。無垢な顔だとスィグルは思った。

「たとえそうでも、僕には無理だよ。なにがあってもお前は平気で、いつでも幸せで、僕一人がつらくて苦しいのか。お前は変わらないのに、僕だけが、醜い兄弟殺しのあげくに、族長冠をかぶった悪魔にならなきゃいけないのか。それでもお前がいなきゃ僕は平気だよ、その絵を眺めて、お前が昔の僕のほうがましだったって言わなきゃな」

 ギリスがいまだに大切そうに持ったままでいる紙を、スィグルは指で弾いてやった。

「お前、自分の絵に妬いてんの?」

 ギリスはびっくりしたように言った。スィグルはむっとした。そうかもしれないと思ったからだ。

「シェラジムみたいになってもいいのか。暗殺なんか仄めかしたりして。そんなことしたら英雄どころか、死後まで罵られ辱められるんだぞ」

「そんなことにはならないって」

 苦笑して、ギリスは明るく答えた。

「俺のはばれないから」

 笑って言う彼の能天気を非難しようとしてから、スィグルは彼の言った言葉の意味を考えた。

「イェズラムのも、ばれなかったろ?」

 シェラジムは暗殺を行った。彼は蛇の毒を使った。彼は治癒者で、人を殺めるための力を持たなかったからだ。

「お前の敵は、この先ずっと、いつのまにか心臓が止まっちゃうんだよ。お前が命じたわけじやない。自然にそうなるんだよ。お前は玉座で、にこにこしてりゃいいのさ。それで時々は、俺を部屋によんで、あいつはむかつくとか、我慢ならないとか、愚痴ってりゃいいんだって」

 そうすれば、その相手を自分が片付けるから。そこまではギリスは言葉にしなかった。でも、彼がそういう意味で話していることは、スィグルにはよく分かった。

「エル・イェズラムは部族の英雄なんだよ」

 心細くなって、スィグルは言った。イェズラムはいつも正々堂々として見えた。

「そうさ。俺もいつかそうなる。族長にとってのイェズラムのように」

 寝ころんだまま伸びをして、ギリスはまたスィグルを抱き寄せようとした。それを拒みはしなかったが、スィグルは彼の腕の下で、なんとはなしに身を固くしていた。

「エル・イェズラムは、どうしてお前を僕のところに寄越したの」

「俺が長生きしそうだからじゃないか」

 肘をついて頬を支え、ギリスはさも当たり前のように答えた。

「シェラジムは名誉を捨てて生きながらえたけど英雄になれなかった。失敗だった。イェズラムは英雄譚(ダージ)を選んで英雄になったが、治世の半ばで死んだ。でも俺はどうだろう。案外いい線行くんじゃないか」

 無痛のエル・ギリスだからさ。いかにも面白そうに、ギリスは付け加えた。

「それでイェズは俺に、お前の(デン)になって、即位と治世を助けろって」

 ギリスの指が、髪を撫でていた。掌中の玉を慈しむような仕草だった。その、どことなく淫靡な気配に、スィグルは胸苦しくなって、彼から顔をそむけた。ギリスは誘っていた。

「エル・イェズラムはそういう意味で言ったんじゃないんじゃない。父上とイェズラムのように、助け合えっていうだけのことだったんじゃないか」

 ギリスが自分に憶えさせたことを考えると、スィグルは恥ずかしかった。そうでなければ、こうも簡単に、彼に操縦されたりしなかっただろうに。

「それにしたって、同じことだろ」

 にっこりと微笑んで、ギリスは逃げようとするスィグルの顎をくすぐった。

「お前の親父はイェズの(ジョット)なんだから」

 唇を合わせるギリスの目と、スィグルは目を伏せずに間近で見つめ合った。色の薄い、ほとんど灰色に見えるギリスの目の中で、蛇のような瞳だけが際だっていた。

「イェズラムの肖像はダロワージに飾らせる。誰がこの宮廷に君臨していたか、よくわかるように」

 スィグルの後れ毛を耳にかけてやり、ギリスはまた微笑んだ。無垢な顔だった。

「俺のこと好きか、スィグル」

 好きだった。

「どれくらい」

 いつも聞くことを、ギリスはまた尋ねた。

「怖いくらい」

 答えながら、スィグルは思った。

 彼はいつも確かめる。言葉にさせて、自分の気持ちを。

 だが、こちらからは彼の気持ちを尋ねたことはない。本当に一度もなかった。彼が自分を好きだということを、疑ったことがなかったからだ。

 その事実を言葉にして聞かされなくても、傍にいれば分かる。彼の接吻が自分に与える、途方もない陶酔。それは愛の味だと、いつも信じていた。彼を失うことを思うと、足が震えそうだった。

「昼寝してる絵でいいんだ、スィグル。そのほうがイェズラムらしいだろ」

 言外にある強引さを、スィグルは感じた。

 ギリスの額を見ると、ほとんど白に近い、氷の結晶のような石が生えていた。

 彼は紛れもなく竜の涙だった。王朝に飼われ、王朝を飼う者たちだ。

 命をかけて編んだ英雄譚(ダージ)で宮廷を酔わす。

「ギリスはどうして、自分の馬に目隠しをするの」

 自分を抱く、ギリスの胸に甘えて、スィグルは彼に尋ねた。彼の数少ない英雄譚(ダージ)の中で、ギリスはいつも軍馬に目隠しをさせていた。巨大な守護生物(トゥラシェ)が守る敵陣に突撃するときに、馬がたじろいで出遅れないようにだ。

「馬が恐れぬように、さ」

 詩人たちの言葉を借りて、ギリスは答えた。

 そして彼は、暖かい手で、スィグルの両目をやんわりと塞いだ。

「今夜はお前にもしてやろうか。俺の部屋に来いよ」

 甘い声で英雄が誘っていた。

 スィグルは返事をしなかった。

 答える必要はない。

 自分はきっと行く。そのつもりがなくても。

 英雄が手綱をとれば、目隠しされた馬が抗わぬように。

「心配するな。継承争いで死んだりしない。お前を殺そうとするやつは、俺が許さない」

 ギリスが自分に目隠しをしてくれていて良かったと、スィグルは思った。彼がどんな顔でその言葉を言ったか、見たくなかったからだ。



 玉座の(ダロワージ)には結局、スィグルが子供のころに書いた手慰みの絵のイェズラムが飾られた。スィグルが新しい絵を描くことを拒んだからだった。

 広間を飾るには小さすぎるその絵は、額に入れられ、特に目立つでもない壁を選んで掛けられた。

 絵の中で、のんびりと昼寝をしているエル・イェズラムは、質素な普段着を着ており、本当にくつろいで見えた。

「いい絵だ」

 何度目ともつかない賞賛の言葉を、スィグルの背後にいる長老会の竜の涙たちは口々に言い交わしている。彼らはもうじき死ぬ者たちだった。父と共に戦い、英雄譚(ダージ)とともに肥やした石によって、殺されようとしている。

「新しいのを描いてくれればよかったのに」

 ギリスが隣でどこか拗ねたように文句を言った。彼はスィグルの手を握って立っていた。

「まあ、よいではないか、これで十分だ」

 自分たちを取り囲む大人たちの長身が、手をつないで立つ姿を、広間(ダロワージ)の衆目から隠していた。

「ギリス」

 小声で呼びかけ、スィグルは彼に、自分を見るよう促した。

 表情の乏しい真顔で、ギリスはうつむき、スィグルの目をじっと見つめた。

「僕のこと好き?」

 子供の内緒話のような囁き声で、スィグルは尋ねてみた。面白そうに、ギリスは笑みを浮かべた。

 彼の目が、嘘偽りのない愛で、自分を見つめているのを、スィグルは確かめた。

 ギリスは正装のための豪奢な耳飾りの揺れるスィグルの耳に唇を寄せ、やはり囁くように、好きだと答えた。その甘い声に、スィグルは目を伏せた。

 彼が自分を見る目にあるのが、本物の愛だからこそ、彼は刺客なのだ。

 今さら、誰の目をはばかることがあろう。

 咎めもしない視線で、竜の涙の長老たちが、手を握り合って立つ新しい世代を見下ろしている。

「エル・イェズラムか」

 突然呼びかけられた声に驚き、スィグルは振り返った。

 大人たちが、軽い黙礼とともに、現れた者に絵の前の場所をあけた。

 そこに立っている父に、スィグルは動揺して、ギリスの手を振り払おうとした。しかし彼はそれを許さず、強い力でスィグルの指を握り返してきた。

 父はどこか皮肉な目で、壁に掛けられた亡きものの肖像を眺めていて、そのことに気づかない。

「死してなお、俺の広間(ダロワージ)で昼寝をするとは、さすがは我が英雄よ」

 冗談を言う父に、居合わせた者たちは笑い声をたてた。ギリスは笑わなかった。彼には冗談が分からないからだ。スィグルも、皆が笑っているその話を、少しも可笑しいと思えなかった。

 はじめて気づいたように、ふと父の目がこちらを見た。

 スィグルはふさわしい一礼をするべきだと思ったが、ギリスが手を握っているせいで、その所作は不自然だった。

 父はそれを微笑ましげに見下ろすだけで、咎めはしなかった。

「なるほどな」

 スィグルではなく、長老会の者たちの顔を見て、父リューズは独り言のように呟いた。

 父が察したであろう、諸々のことを思って、スィグルは目を閉じた。恐れる馬を励ますように、ギリスの手がさらに強く自分の手を握り返すのを感じながら。

「イェズラム」

 父はきゅうに、親しげな口調で絵に呼びかけた。

「それで俺に、勝ったつもりか?」

 笑って罵る父の皮肉な軽口に、絵の中の英雄は狸寝入りをしていた。

 一瞥を残して立ち去る父と、その取り巻きの者たちの後ろ姿を、スィグルは黙って見送った。その姿が正装した人々の群れに隠れて見えなくなったころ、スィグルは自分の足がきゅうに震え始めたのを感じた。

 宮廷の、大きな渦のなかにいる。

 これまで、父が唯一の中心であったその渦の中に、自分は新たな小さい渦を起こそうとしている。それを意図したのが誰か、語られることが永遠になくても、とにかく始まろうとしている。

 英雄は、うとうとと微睡みながら、広間(ダロワージ)で繰り広げられる物事を、これからも見守っているのだろう。自分が見込んだ新しい星が、昇るのを。

 その星は、凍り付くように鋭く輝くに違いない。

「ギリス、ずっと一緒に歩いてくれるか」

 そうに違いないと信じながら、スィグルは確かめた。それを言葉にしてほしかったからだ。

 もちろんだ、と答えるように、ギリスはあの微笑みを浮かべた。底抜けに明るい、幸福そのものの笑み。そして彼は秘密めかして囁いた。

「心配するな。俺たち、(デン)(ジョット)だろ」

 その甘い毒が、ゆっくりと効いてくるのを、スィグルは目を閉じて恐れずに待った。彼は自分のための英雄で、恐れることはなかった。命をかけて、彼は守ってくれるだろう。今や一心同体となった新星を、まさに自分の一部として、永遠に愛し続けるだろう。生きている時はもちろん、死んだ後になっても。

 彼がそうだったように。

 目を開いて、スィグルは額の中の男を見やった。

 英雄はそこで、人知れず君臨していた。宮廷に、玉座に、あるいは思い出の中に。



【完】

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