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前編

「これ、お前が描いたんだろう」

 珍しくギリスが部屋まで現れたと思ったら、彼は荷物を持っていた。絹張りの薄板に挟まれたそれは、昔描いたエル・イェズラムの絵姿だった。

 いくらか古びて薄黄色くなった紙に、ペンで引いた黒い線だけで、昼寝をしているエル・イェズラムが描いてある。

 スィグルはその絵を自分が描いたことを、もちろん憶えていた。

 まだ自分が暢気に宮廷を遊び歩いていた子供だったころに、行き合う人々の姿を次から次へと描いてまわっていた。玉座にいる父が絵を誉めたので、毎日届けて喜ばせるために、父のよく知る人物たちから描き始めたような気もする。

 エル・イェズラムは竜の涙の長老会のひとりで、スィグルは子供のころ、彼は族長である父の権限をおびやかす敵なのだと思っていた。イェズラムは父の朝儀に現れなかったし、稀にスィグルが見かける二人は、王宮の通路で早口に罵り合っているように見えたからだ。

 そんな父の敵をからかうつもりで、昼寝しているところを描いてやったのだった。

 その絵を見せにゆくと、イェズラムはなぜか大変気に入り、スィグルの絵を誉めた。大人になったらお前は絵師になるといい、とイェズラムは言った。リューズはたぶん、お前がほかの何になるより、絵師にでもなって、日がな一日絵の具にまみれて王宮の壁に絵を描いて生きるほうが喜ぶだろう、と。

 話してみると、エル・イェズラムは気さくで、父と親しい友人のように見えた。部族でも随一の英雄にほめそやされると、単純に嬉しく、スィグルはすっかり手のひらを返してイェズラムが好きになり、彼の言を真に受けて、王宮の壁を相手に絵の具にまみれた一日を過ごし、その壮大な落書きを見つけた母と侍従たちとに、こってり絞られることになった。

 母から経緯を聞いた父は、部屋で泣きべそをかいていた自分を励まし、大人になってもお前がまだ絵を描きたければ、王宮の壁を一枚やろうと約束した。

 今となっては壁画を描きたいなどとはスィグルは思っていなかった。王族の子が絵師になれるわけもないし、なりたいとも思わない。たぶん自分は沢山いる兄弟たちの中から、スィグル・レイラスは特別だと父に思わせたい一心で、なにか目立つ方法はないか、いつも探していたのだ。

 いかにも子供っぽい感情だ。

 最近では、わざわざ父に絵を届けるようなことは、しようとも思いつかなくなっていた。絵を描くのは今でも好きだが、それは手慰みの落書きだ。独り言を言うのと似て、頭の中にあるものを、なんとなく整理するために描いているだけだ。

 客用の座に座り、胡座した膝の上にイェズラムの絵を広げて見せているエル・ギリスを、スィグルは眺めた。どうしてこいつが、この絵を持っているのだろう。

「イェズの形見だよ」

 尋ねると、ギリスは親しげに答える。

「エル・イェズラムは、この絵をずっと持っていたわけ」

「そう。他より自分に似ていると言っていた。俺もそう思うな。イェズは暇さえありゃあ寝てるしな」

 にっこり微笑んで話すギリスの言葉の中では、すでに墓所にいるイェズラムは、まだ部屋で昼寝をしているかのようだった。

 ギリスは人の死をうまく消化できていないらしい。彼が話すのを聞いていると、死んだ者たちは、なにかの用事でちょっと地下の墓所までおりていき、そのうちふらっと戻ってくるみたいに感じられた。

「ギリス、エル・イェズラムは具合が悪くて寝ていたんだろう。僕はほんとはこんな絵を描くべきじゃなかったよ」

 スィグルはその落書きを気に入っているらしいギリスに、苦々しい気分で教えてやった。人に見せて歩くようなものではないと、彼には理解させておかないとまずい気がする。

「でもみんな、この絵が好きみたいだぞ。お前にもっとちゃんとした絵に描いてもらえるように頼めって、長老会から言われて来たんだ」

 口にしかけた果実水を、スィグルは吹き出しそうになった。

 今日エル・ギリスは、まるで正式な訪問のように、先触れの者に訪れを連絡させてから、スィグルの居室にやってきたのだった。まるでではなく、本当に正式な訪問だったのだ。その可能性に全く思い至らなかった自分が、スィグルには信じられなかった。

 ギリスは自分の英雄譚(ダージ)を持つ竜の涙の魔法戦士で、宮廷ではちゃんとした序列に数えられる立場だった。

 子供のようにふらふら遊び歩いていて、口をきけば馬鹿なことばかり言っているから、すっかりそれを忘れるが、こいつも朝儀の広間(ダロワージ)には自分の席を持っているのだ。王族の部屋を訪問すれば、それなりの礼儀で迎えられる権利を持っている。

 略装だが、ギリスは身なりのいい黒の長衣(ジュラバ)を着ていた。半時ばかり前に先触れが寄越されたというのに、だらだらと普段着で出迎えた自分が、スィグルは急に後ろめたくなった。

「……そんなの絵師に描かせればいいだろ」

「さあ、とにかく話は伝えたから、返事をしたきゃ長老会に言えよ」

 もう用事はすんだというように、ギリスは面倒くさげにそう返事をした。餓鬼の遣いか、と、スィグルは悪態をついた。

 長老会が大げさにせず、こいつを遣いに寄越したのは、断りたければ断っていいという程度の軽い頼み事だったからだろう。それでも、できれば描けという意味合いで、正式な遣いとして身なりを整えさせたギリスを部屋に訪れさせたのだ。

 ただ話をすればいいだけなら、ギリスはスィグルとそこらへんで会ったときに、ちょっと言えばいいだけだった。どうせギリスは暇さえあれば自分のあとを追いかけ回しているのだし、それは誰でも知っていることだ。

 大事そうに絵を仕舞っているギリスを、スィグルはどことなくむっとして見守った。

「描いてやってもいいけど、長老会はその絵を何に使うつもりなんだい」

「ダロワージに飾るんじゃないのかな。それが無理なら長老会の広間(サロン)に」

 あっけらかんと言うギリスを、スィグルはまじまじと見た。それは、確かに、もっとちゃんとした絵に違いなかった。そこらの紙に、思いつくまま落書きするのとは話が違う。

「練習しないと無理だよ」

「じゃあ練習しろよ」

 笑って言うギリスの言葉はいつもながら身も蓋もないし、駆け引きもない。

 竜の涙であるギリスが、長老会の命を受けて、王族である自分のところへ、公式でもなく非公式でもないぐらいの訪問をし、本来なら王族に頼むようなことでない絵の依頼をし、その絵がダロワージに飾られるという。ダロワージは父リューズの広間(サロン)であり、長老会がそこに絵を飾るというのは異例であろうし、ましてそれはエル・イェズラムの絵姿で、生前めったに朝儀に現れなかった彼が、この先ずっとダロワージの壁にいて、そこから父の治世を眺めることになるというのは、何やら意味深長だった。

 この依頼を受けてもいいものか。何か不都合が起こるのではないか。まず父に意見を聞くべきではないか。

 スィグルは考えたが、ギリスでは相談相手にもならないと思った。まだスフィルと話したほうが、相手がいっさい返事をしないぶん気が楽だ。

「やってはみるけど、いいのが描けなければ辞退すると返事しておいてくれ」

「いいのが描けるよ」

 悩みのない顔で、ギリスは請け合った。こいつには政治が分からないのだと、スィグルは呆れた。

「お前の部屋に来たの初めて」

 物珍しそうに、ギリスは部屋を見回した。もしかすると王族の居室に入るのは初めてなのかもしれないとスィグルは思った。

 ギリスは派閥争いに感心がなく、スィグルと付き合いがあるのも、後見人だったエル・イェズラムがそうしろと言い残したからというだけで、王族と付き合っているという意識はないに違いない。ギリスは他の王族たちとは全く縁遠かった。

 竜の涙である彼が、王族であるスィグルと親しく付き合うというのは、客観的に見れば、継承争いが始まった時に、ギリスはスィグルを押し立てて争うという意味になる。

 彼を知れば知るほど、そんなことがギリスにできるわけがないと、スィグルは思っていた。だから正式な付き合いにならないように、部屋には来させなかったし、玉座の(ダロワージ)での公式の席ではギリスに声をかけないようにしていた。

 それでも晩餐のときに同席するのだから、そんな小細工は無駄とも言えたが、そこはそれだった。あくまで一人で飯を食うのがいやだったし、スィグルはそのあたりを周囲が自分に都合良く解釈してくれるよう期待していた。甘い考えだとは思うが、ギリスはこんなふうに子供っぽく見えるし、政争に身を投じるようには到底見えない。皆も目こぼししてくれるのではないかと思いたくもなる。

「遣いを先に出せば、部屋に来てもいいのか?」

 味をしめたように言うギリスに、スィグルは最上級の渋面を作って見せた。ギリスはそれに、不味い物でも食ったような顔をした。

「どうしてだめなんだよ」

「僕だってお前の部屋にはいかないだろう」

「来ればいいじゃん」

 彼らしいあっさりした解決法を口にして、ギリスは抵抗した。

「王族が竜の涙の部屋を訪問すれば、そこには特別な意味合いが出てくるんだよ」

「そんな難しく考えなくても。俺たち(デン)(ジョット)だろ。族長だって時々はイェズのところに来たぜ。……怒鳴りにだけど」

 ギリスの言わんとする話に、スィグルは唖然とした。

 しばらく口をぱくぱくさせてから、スィグルはやっと言葉を見つけた。

「ギリス、今なにを言ったか分かってるのか」

「……俺いま、なんか言ったのか」

 驚いているスィグルに驚いたらしく、ギリスは叱りとばされる直前の顔をして身構えた。

「イェズラムは父上の家臣だぞ。会う必要があればイェズラムのほうが来るべきなんだ」

「違うだろ。イェズは長老なんだし、族長に仕えてるわけじゃない。それにイェズのほうが(デン)だろ」

 スィグルはとっさに杯の飲み物をギリスの頭にぶちまけた。さすがのギリスも虚をつかれて悲鳴をあげた。

「なにすんだよ、いきなり!」

「お前が妙なことを言うからびっくりしたんだよ」

「びっくりしたらなんで頭から水をかけるんだ」

 滴り落ちてきたものを手で拭って、ギリスは情けなそうにした。

「水じゃない、果実水だ」

「余計いやだよ」

 悄然とするギリスを、スィグルはやや反省して眺めたが、謝罪してやる気にはなれなかった。

「撤回しろ。ありえない話だ」

「イェズは族長の(デン)だよ。ふたりは乳兄弟だろ。イェズのほうが年上だし、族長のほうが(ジョット)だろ」

 ため息をつきながら、ギリスはぼそぼそと話した。

 スィグルはその話にうめいた。

「乳兄弟」

 その話は誰でも知っている当たり前の事実だった。父とイェズラムは同じ乳母に育てられたのだ。それが縁でふたりは同じ派閥に属し、血の繋がった兄と弟以上に助け合ってきた。

 (デン)(ジョット)の関係は、本来そういうものだ。それを性愛を含む意味合いで使うのは、宮廷の隠語だった。

「お前どうせ、色っぽい想像をしたんだろ。やりすぎて頭がへんなんじゃないか」

 言い返してやる言葉が湧かず、スィグルはただ頭を抱えて呻いた。まさかギリスに一本とられるとは想像もしていなかった。意図してやったわけではないに決まっているところが、さらに苦々しく、自分が掘った穴に自分で落ちた事実に、スィグルは身悶えたいのを堪えた。

 ギリスは部屋付きの女官を勝手に呼びつけて、体を拭くものと、紙とペンを、それから間食にする甘いものまで注文した。頭を抱えているスィグルを女官は不思議そうに見たが、無礼だと察したのか、すぐに引き下がっていった。

「部屋に行く行かないぐらいで、いちいち政治の話かよ。お前ら王族は面倒くさいなあ。これが族長になったらどうなんの。俺もお前に会うだけのために、いちいち正装してダロワージで叩頭しなきゃなんないの」

 家臣が族長に謁見するというのは、そういうことだった。スィグルは黙っていた。

「族長にならなきゃいけないもんなのか」

 やめようよ、という意を滲ませて、ギリスは尋ねてきた。

「やめたら先がない」

 スィグルは小声で答えた。

「継承権て、放棄できるんだろ」

 ギリスの言うことは正しかった。族長が継承者を指名する前の段階であれば、継承権を放棄して臣籍に下り、争いから身を引くことができる決まりになっていた。

「でも父上は、臣籍にくだった兄弟たちも、皆殺しにしてしまった。担ぎ出す者がいる限り、継承権を放棄するなんていうのは絵空事なんだよ」

 スィグルはそのことに関わらず、継承権を放棄するつもりはなかった。内心で自分が、父の族長冠を狙っている自覚はあった。将来の玉座に座るのが自分でなければ、自分自身の命が危ういのは当然としても、継承争いに参加するはずもないスフィルも殺されるだろう。それが血筋というものだ。

「ああ……それでか」

 納得したように、ギリスは呟いた。話と相づちが噛み合っていない気がして、スィグルは眉をひそめた。

「不戦のシェラジムを知ってるか、スィグル」

 ギリスはすでに過去の物語となっている竜の涙の名前を口にしていた。

 不戦のシェラジムとは、渾名であるが、それは詩人たちが英雄譚(ダージ)の中で魔法戦士たちに与える類の栄誉のあるものではなく、宮廷の薄暗がりで囁かれる悪名だった。

 暗愚な族長として記憶されている祖父の、一番の腹心だった竜の涙で、シェラジムは戦いを拒み、ひとつとして英雄譚(ダージ)を持たぬまま、宮廷での権力闘争に明け暮れた。権力欲にかられ、祖父を傀儡として、シェラジム自身が陰から、族長位の権力を振るったのだと見なしている者もいる。

 真実のところは分からない。

 祖父が死ぬとき、シェラジムは殉死した。だからスィグルは本人を見たことはない。

 その物語は一族の恥だった。王族にとっても、竜の涙にとっても。

「シェラジムが死ぬとき、介錯をしたのは、イェズラムだ」

 ギリスはスィグルの知らない話をしていた。

「イェズが頭をかち割って取り出してやったシェラジムの石を、いっしょに墓所に見に行ったことがある」

 スィグルはその想像に顔を歪めた。竜の涙が没した時に、頭蓋骨を割って石を取り出してやるのは、故人と親しかった者がかけてやるべき情けだ。それをしてやる者が誰もいなければ、族長が行う決まりになっていた。

「小さい石だった。シェラジムは治癒者だったらしい。ジェレフみたいにさ。でもシェラジムは、命を助けるより、とりあげるほうが上手かった」

 シェラジムは自らが主と立てる王族を即位させるため、継承争いが始まると同時に、祖父と争う王族たちをいちどきに全て暗殺した。しかし、そのような汚れた手で掴まれた族長冠に、宮廷も民も、心からは跪かなかった。

 王朝は荒れ、領土は荒廃した。

 父リューズが即位するまでの時代の出来事だ。

 イェズラムは、シェラジムと親しかったのだろうか。介錯を買って出るくらいに。

「イェズはシェラジムから、族長の作り方を学んだんだって言ってた」

 ギリスがなにか壮大な話をしようとしていることは、スィグルにも予感できたが、彼の話には脈絡が感じられなかった。スィグルは注意深く耳をそばだてて聞いた。

「シェラジムはお前のじいさんを即位させたが、そのあと放置したんだ。族長位につけるなら、死ぬまで面倒をみる覚悟でいけとシェラジムは話したそうだ。そこが大事なところさ。即位させなきゃ死ぬし、させたらさせたで戦わなきゃならないし、戦えば寿命は減るばっかりで、最後まで付き合えなくなっちゃうだろ。だからって戦わないと、不戦のシェラジムになっちまう。イェズラムは結局、英雄譚(ダージ)を選んだけど、俺はどうしようか。よく考えろってイェズは言うけど、俺は考えてもわからないよ」

 ギリスは困ったように、相談する口調で話したが、スィグルは答える言葉を持っていなかった。

 彼は竜の涙たちの内輪の話をしていた。彼らの社会は他の者を受け入れず、王族であっても竜の涙たちの長老会に立ち入ることは許されていない。彼らは族長の施政には口出しをするくせに、自分たちでは秘密裏に話し合っているのだ。

「なにが言いたいんだ、ギリス。まるでエル・イェズラムが父上を傀儡にしたような口ぶりじゃないか。シェラジムのように?」

「お前の親父は名君だよ」

 スィグルの不機嫌を察して、ギリスは宥める口調になった。それはますますスィグルを不愉快にさせた。

「でも初めからそうだったわけじゃないだろ」

「そうか。それじゃあ僕も即位したらお前に操ってもらって、いつか名君になろう」

 通じるわけはないと知っていたが、スィグルは怒りで耐えきれず、ギリスに皮肉を言った。彼が父を侮辱しているのだと思った。ひいては、その血統に連なる自分をも侮辱しているのだ。

 ギリスは困った顔をした。

「無理だよ。俺はイェズとは違うもん」

「雲泥の差だよ。父上には優れた腹心がいくらでもいたけど、僕にはお前だけだからな。ギリスが真似できるとしたら、不戦のシェラジムが精々だろ」

 気分にまかせて言い募りながら、スィグルは悲しくなってきた。

 なぜこんな意味のない話で罵り合わないといけないのか。

 女官が命じられものを携えて戻ってきたので、スィグルはやむをえず沈黙した。

 邪魔が入らなければ、自分でも耳をふさぎたいような事を次々ギリスに喚きそうだった。

 大抵、なにを言ってもギリスは平気そうにしていた。たぶん話が込み入ってくると、ギリスはほとんど聞いていないのではないかと思えた。それをいいことに、スィグルは時々、ギリスに鬱憤をぶちまけたが、そのたびに返って嫌な気分になるのが常だった。

 幼子を怒鳴りつけているようなものだ。

 苛立ちを抱えながら、スィグルは自分の口を閉じさせた女官に感謝した。

 ギリスはのんびりと、女官の持ってきた布で、果実水を吸った髪と服とを拭いている。戻って着替えなければ、どうにもなるまいとスィグルは思った。追い出したくてやったわけではないが、いつにない半公式訪問の用件は、もう聞いた。

「今、イェズの遺品を片付けてるんだけど……」

 頭にかぶった布の中から、ギリスが話を続けた。彼の話がまだ終わりでなかったらしいことが、スィグルには意外だった。

「族長の子供のころの姿絵が出てきた。幼髪の。気の弱そうな子でさあ、今とは別人みたいだった。イェズラムはああいうのに弱いよなあ。俺が守ってやらなきゃ、みたいなのにさ」

 布を濡らした果実水の匂いを嗅いでみて、ギリスはこれはだめだという顔をした。

「じゃあ、どうしてそれが父上の絵だってわかったんだ」

「名前が書いてあったもん。リューズ・スィノニム・アンフィバロウって」

「お前が字を読めるなんて知らなかったよ」

 顎を上げて、スィグルは冷たくギリスを見やった。彼が何を言おうとしているのか想像すると、スィグルには嫌な気分がした。このうえ重ねて父を愚弄するなら、もう許せない。

「俺もお前の姿絵が欲しい」

 しかしギリスが差し向けた話は、スィグルが想像していたものとは違った。一瞬きょとんとして、スィグルはギリスと向き合った。

「イェズラムの遺品となんの関係があるんだい」

「お前が名君になっても、正体がどんなだったか、思い出せるように」

 スィグルはむっとして、円座から立ち上がった。また即位の話か。

 ギリスは女官が持ってきた白紙を一枚とりあげて、ひらひらと振ってみせた。

「落書きでいいんだよ」

「僕は自分の絵は描いたことがない。描けないと思う。見たことがないものは」

「鏡で見たことくらいあるだろ」

 ねだる口調で言われ、スィグルはますます苛立ってきた。

 望みをかなえてやれば、ギリスはいつものように、あの満面の笑みで喜ぶだろうと思えたからだった。

 白紙の角で自分の指をつついてくるギリスを、スィグルは横目に睨み付けた。

 我が儘なわけではないギリスが、なぜかいつも強引に感じられる。彼がどこかへ行くといえば、必ずそこへ行くことになるし、手を引いて連れて行こうとするギリスに、スィグルは逆らった例しがなかった。

 どういう訳か知らないが、彼は自分の操縦法を知っている。

 急に諦めがやってきて、スィグルはすとんと元の座に腰をおろした。

 ギリスは満足げに紙とペンとを握らせ、ついでにスィグルの口の中に女官が持ってきた砂糖菓子を入れた。細かな粒子の砂糖を花の形に押し固めた菓子は、簡単に口の中で溶けたが、甘い味がするはずのそれは、どんな味もスィグルの舌には感じさせなかった。

「風呂かして」

「そんなの自分のところでやってくれよ」

 瓶に入ったインクにペンを浸しながら、スィグルは文句を言った。おそらく言うだけ無駄だった。

 先触れとともにやってきて、風呂まで使っていく来客のことを、広間(ダロワージ)で口をきかないからといって、派閥と関わりのない赤の他人だと言い張るのは、政治的に無理があった。

 ギリスはもう一度女官を呼びつけ、入浴する旨と、自分の居室に着替えをとりにやってほしい事を伝えていた。女官は彼に、王族にも引けを取らない儀礼をもって一礼し、部屋から出て行った。

「退屈だし、いっしょに入ろうか」

「次はインクをかけてやろうか。どうせ風呂に入るなら同じだろ?」

 立ち上がって浴室のほうに行くらしいギリスに、真顔でそう言ってやると、彼はそれを本気に受け取ったようだった。もちろん本気で言ったのだ。

 ギリスはがっかりしたように見えた。

 無視して紙に描きはじめると、ギリスは案内にあらわれた女官についていき、部屋から姿を消した。

 なにを描くか決めずに、スィグルはペンを動かしたが、紙の上に現れたのは、つい今し方見た、がっかりしたギリスの顔だった。

 どうせなら、笑っているところを描けばよかった。

 そう思って、出来は良かったその絵を、スィグルは丸めて投げ捨てた。

 ギリスの絵を描くのはやめようと思った。どんなに時がたとうと、彼は今と変わらないだろうし、たとえどんなに変わり果てても、ギリスと違って、自分は彼の正体を思い出すのに姿絵など必要としない。

 満面の笑みだ。子供のような、あの笑顔。

 それを紙に描いて、他の誰かが見るかもしれないと思うと、スィグルにはそれが惜しく思えた。


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