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終曲

 咲希(さき)の意識は落ちていく。

 落ちて、落ちて、落ちて…………。

 心の奥底に、意識は落っこちる。

 人には見られることのない心の世界を、自分だけが目にすることができるとき、その空間を夢と呼ぶのなら、咲希は夢を見ていた。

「……」

 夢の中で、咲希は横になっていた。自分の体を丸く抱えこんで、目を閉じたまま横たわっていた。

「…………」

 咲希は静かに目を開けた。そしてゆっくりとした動作で上半身を上げて、しばらくの間、辺りを見渡す。

 そこには何もなかった。

 何もない夢。

 広さも大きさもわからない、ただ広々とした空間に、光だけが煌々と敷き詰められた、色のない夢。空っぽの夢。

「……」

 咲希はもう一度周囲の景色を眺めてから、立ち上がろうと、自分が伏していた透明な地面に両手をあてて力を込める。

 ――サー……。

 咲希の意識に何かが流れ込んできた。咲希は動きを止める。

 その気配は音のようだった。まるでテレビの砂嵐みたいに、優しく、小さくてもしっかり聞こえる、優しい音。

 その音が、光しかない透明な夢の中のあちらこちらから聞こえてくる。その優しい砂嵐が夢の中に、次第に満ちてくる。

 ――サー……。

 夢の中に初めて色を持ったものが現れた。それはテレビの画面に似ていた。黒い砂嵐が咲希の意識に流れ込んできて、黒と灰色を混ぜ合わせた画面が咲希の夢の中にいくつも現れて、幾つもの映像を咲希は静かに眺めていた。

 ――ザー……。

 画面の一つが、どこかの映像を映し出す。それに呼応するように、周りの画面にも映像が映し出される。

 そこに映ったのは、咲希が振った男子生徒だった。

 ――ザー……。

 咲希が振った男子生徒。

 幽霊ビル。

 学校の図書室。

 雨宮(あめみや)の住んでいるマンション。

 誰にも使われていない工場。

 咲希が通っている塾。

 咲希の高校。

 ――ザー……。

 学校の廊下。

 授業風景。

 食事の時間。

 真奈(まな)の顔。

 智恵(ちえ)の顔。

 愛子(あいこ)の顔。

 高峰(たかみね)の顔。

 みんなの顔。

 そして。

 ――ザー……。

 雨宮の顔。

 ――サー……。

 とても不思議な気分だった。

 咲希の心の中に蓄積されていた過去が、一度に咲希の意識の中に次々と流れ込んできて、消えていく。

「…………」

 咲希は声を上げそうになった。

 しかし声は出てこない。もう一度声を出そうと試みたが、何度やっても結果は同じ、声が出なかった。

 音が出ない。

 ――音のない夢。

 咲希の瞳に無数の過去たちが刻まれて、そして新しい過去に塗り替えられていく。古い過去の上に新しい過去が、そして古くなった過去の上にそれよりも新しい過去が、過去の映像が絶えず新しいものに変わっていく。

「……………………」

 咲希の頬を一筋の涙が伝う。

 咲希の意識がポーッと熱くなり、熱を帯びた意識の身体が透明な光の中で、強い光を放っている。

 ――ゴメン。

 咲希の意識の中に声が湧き上がった。

 咲希がハッとして顔を上げた、ちょうどそのとき。

 ――ガラッ。

 夢が崩れた。

 透明な空間はガラスのようにバラバラに砕けて、光のなくなった後には真っ暗な闇が広がっていた。

「……!」

 咲希は驚いて声を上げた。しかし声は聞こえなかった。

「…………」

 咲希の意識は落ちていく。

 落ちて、落ちて、落ちて…………。

 光の通わない闇の中、咲希はどこに落ちているのかわからない。どっちが上で、どっちが下で。

 夢の終わりなのか、夢の始まりなのか。

 そして全てが真っ暗になった。

「……」

 長い間、夢を見ていたような気持ちだ。

 自分の体のはずなのに、自分の意思とは関係なく動いている。思ったことが、誰かによって塗り替えられている。まるで自分の中に自分そっくりな、でも自分ではない誰かがいるような感覚。

 今思えばそんな気がする。

「……」

 咲希が目を覚ましたときはすっかり日も落ちて、辺りは暗くなっていた。咲希が体を起こした場所は、コンクリートでできた床の上だった。

 咲希は周囲を見渡した。

 無機質な鉄筋コンクリートの壁がぐるりと囲んでいて、おそらく廃墟(はいきょ)となった工場の中なのだろうと咲希は推測した。

 工場の中で、咲希は一人の少女を見つけた。

 入り口付近の壁に背中を(もた)れかけている少女の横顔が、咲希の目に映った。その少女は、咲希のほうを見るようでもなく、工場の外の景色を見るでもなくて、ただそこでじっと突っ立っていた。

「気が付いた?」

 咲希の背後で声がした。

 咲希は座ったまま咄嗟に振り返ったが、体のあちこちに鋭い痛みが走り、その痛みに顔をしかめながら、後ろにいる人間に顔を向けた。

「無理しなくていいよ」

 その人物が気遣(きづか)うような目を咲希に向ける。

 そこにいたのは雨宮だった。雨宮は、いつものように柔らかな笑顔をしていた。

「もう少し休んでいても大丈夫だよ。帰りはちゃんと送るから」

 雨宮は微笑(ほほえ)んだ。

 声をかけてくれる雨宮が少しも動かないので、咲希は不思議に思い目を凝らす。廃墟となった工場には、当然明かりなどなくて、ものの細部までははっきり見えない。

 次第に咲希の目が暗さになれてきて、そこにいる雨宮の様子が見えてきた。

「……っ!」

 咲希は小さく悲鳴を上げた。

 雨宮の黒い学ランの上に、黒ずんだ染みが光っている。破れた学ランの隙間からは、白いシャツは見えず、代わりに黒く汚れた衣服が覗いていた。特に右肩の部分には丸い穴が開いていて、その付近は暗闇の中でも赤黒く照り返っている。

 咲希の顔が青ざめる。

「――雨宮くん。その傷……!」

 ああ、と雨宮は自分の体を眺める。

「大したことないよ。僕らMASKS(マスクス)の体は、ちょっと特別だからね。こんな怪我でも、すぐに治るよ」

 雨宮は笑った。

「……」

 咲希は硬直したまま、血まみれの雨宮の姿をじっと凝視していた。

 確かに服は酷い有様だが、雨宮の周囲に血の(あと)は見当たらない。どうやら出血は治まっているようだった。

 だが、おそらく大量の血が染み付いているのだろう。赤黒い染みの付いた制服を見ると、とても大丈夫だとは咲希には思えなかった。

「八時」

 咲希は声のしたほうに顔を向けた。工場の入り口で、高峰は壁に凭れたまま、自分の腕時計を見ている。

「もうそんな時間か」

 雨宮が苦笑する。

「あまり遅くなると上嶋さんの家でも心配するだろうし。――上嶋(うえじま)さんは、もう動いて大丈夫?」

 雨宮が訊いてきて、咲希は首を振る。

「今日は私、塾のある日だから、帰りが遅くなっても平気。――また塾に行けなかったから、叱られちゃうかな?」

 雨宮は首を振る。

「そんなことないよ。きっとその怪我を見て驚くだろうね」

「そしたらまた病院行け、学校休めって言われるのかな?」

「親だもの、すごく心配してくれるはずだよ」

 咲希は笑った。

 雨宮も笑った。

 高峰だけは笑わずに、黙って壁に凭れたまま、楽しそうに笑う二人に視線を向けようとはしない。

「あ、そうだ」

 咲希は思い出したように雨宮に訊いた。

「高峰さんもMASKS?」

 雨宮は笑いを止め、困った表情で高峰のほうを見る。高峰は一向に黙ったままで、雨宮のほうを見ようともしない。

「…………」

 雨宮はややあって答えた。

「そう、だね。高峰さんは、僕がミスばっかりするものだから、組織から僕の手助けをするようにって言われているんだ。簡単に言えば、僕の監視役かな」

「へえぇ……」

 咲希は高峰のほうへ振り返る。

 高峰は何も言わず、少しも動かず、同じ場所に突っ立っている。手は真っ直ぐ下ろし、壁に凭れているとはいえ、足を組んだりはせず、直立を続けている。

 咲希のほうへ視線を向けるでもなく、別段不服そうな表情もしない。大きな瞳がとてもきれいで、夜風に揺れる髪は柔らかいんだろうなと、咲希はそんなことを漠然と思っていた。身動きしない高峰は、瞬きをしなければ、本物の日本人形と区別が付かないかもしれないと咲希は本気で思い始めた。

 雨宮が口を開く。

「フラストも散らせたから、僕らの仕事は終了。上嶋さんのおかげで助かったよ」

 咲希は雨宮のほうへ向き直り、慌てて首を振った。

「そんな。私は何も……」

「上嶋さんがフラストを散らしてくれたんだ。ああいう事例は初めて見たけれど、きっと上嶋さんがフラストに打ち勝てたんだと思うよ」

「私が……?」

 首を傾ける咲希に、雨宮は頷いた。

「僕の考えだけど、フラストはその人の幾つもある性格の一つだと思う。でもフラストは心の一部だから、その人に依存していかないと生きていけない。だから、咲希さんに否定されて、あのフラストは存在できなくなったんだろうね」

 笑う雨宮を、咲希は何も言えずに見つめていた。

「八時」

 高峰の声がした。声に怒気が含まれている感じはしないのに、何となく咲希の肩には自然と力が入る。

 雨宮が苦笑を浮かべる。

「用事があるなら先に帰っていいよ。上嶋さんは僕が送るから」

 一間置いてから雨宮が答えた。だが、高峰はそれには何の反応も示さず、じっとしたままだった。

 雨宮は溜息をついた。

「心配いらないよ。僕もあと少しすれば動けるから」

 雨宮の言葉に、始めて咲希は気が付いた。

 雨宮は今、全く動けないのだ。

 おそらくは、フラストとの戦闘で負った傷のせい。

 あれだけ傷だらけで、こんなにも傷だらけなのだから、戦闘の後で疲弊しきっているのはわかるが、体力のほうも底をついているだろうことは容易に想像がつく。

 咲希は慌てて床の上に両手を乗せた。

「私、もう大丈夫」

 咲希は勢いをつけて立ち上がった。立ち上がる瞬間に少しふらついたが、歩けないことはなかった。ゆっくりとした足取りで、咲希は雨宮の元へと近づいていく。

 雨宮の周りに血の痕はなかったが、雨宮からは鼻を押さえたくなるようなひどい異臭がしていた。

 咲希は心配そうな目で雨宮を見た。

「手を貸そうか?」

 雨宮は慌てて咲希の申し出を拒んだ。

「い、いいよ。一人で歩けるから」

 さきが手を差し出しても、雨宮はその手を掴もうとしない。いや、手を上げることができないのかもしれない。

 咲希が何度か手を差し出していると、咲希の横から一本の腕が、音もなく伸びてきた。

 気付くと、咲希の隣には高峰の姿があった。高峰は、地面に向かって垂れていた雨宮の腕を掴んで、工場にあった機材の上で腰掛けていた雨宮の体を無理矢理立たせた。そして素早く雨宮の左脇に自分の肩を滑り込ませる。

 咲希も慌てて高峰の反対側へ回り込む。だが咲希と雨宮には歴然とした身長差があり、仕方なく咲希は雨宮の右腕を抱えるように支えることにした。

「い、いいよ」

 雨宮が照れたような声を出したが、咲希と高峰はその言葉を聞き入れることはなく、雨宮は二人の少女のなすがままに歩かされたた。

 雨宮の歩きは緩慢(かんまん)で、少女たちが歩いてから一歩を踏み出す、といった感じだった。咲希はできるだけゆっくり歩いてあげようと思ったのだが、高峰はそのへんのことに頓着しない様子なので、高峰の動きに合わせた。

「…………」

 雨宮は不平も言わず、黙ったまま二人の少女に支えられたまま歩いた。どこか複雑そうな顔をしている雨宮が、何となくかわいいなと思って、咲希は微笑んだ。

 三人の眼下には、町から漏れる明かりが、星の絨毯(じゅうたん)のように輝いていた。


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