第四楽章 仮面の裏側
今日という日がなくなってしまえばいいのに。
そうすれば少しは晴れやかな気持ちで周りを見ることができるのに。朝からこんな沈んだ気持ちにならずにすんだのに。
「おっはよー、咲希ぃー!」
教室の席に座っていた咲希の背中を勢いよく叩く者がいた。しかし、不意にあった出来事にもかかわらず、咲希は特に気にする素振りもなく、一拍置いてから落ち着いた様子で振り向いた。
「おはよう真奈」
咲希が言うと、真奈は笑った。
「あれ?」
真奈は気づいたように咲希の机を覗き込む。
咲希の机の上にはB5のノートと、それよりも一回り大きい問題集のようなものが広げてあった。
真奈が興味ありげに訊ねる。
「なにぃ咲希、塾の宿題?」
「そ」
咲希はそれだけ言って机のほうへ視線を戻す。
「たいへんだねぇ」
真奈の明るい声が返ってくる。
――うっとうしい。
咲希はもう返事はしないで、手にしたシャーペンを動かしていた。真奈が自分の席へと向かって行く。
あと、一分もすればチャイムが鳴るだろうと咲希はぼんやりと思っていた。
真奈はいつもそのくらいの時間にならないと登校して来ない。今までの経験から、咲希はそのことを知っていた。だから、朝は大して真奈とは会話をしない。
「なになに?何の話?」
遠くから真奈のはしゃいだ声が聞こえてくる。
――うっとうしい。
あと少しで朝のホームルーム開始のチャイムが鳴り、そうなれば真奈は慌てて自分の席に戻らなければいけなくなる。
咲希がしばらく机の上に並べられた塾の宿題をやっていると、咲希の思った通り、黒板の上に置かれたスピーカーから、聞き慣れたチャイムの音楽が流れ出した。
「あっ!じゃあ、また」
真奈の大袈裟な声が咲希の耳に届いて、その声に続いて真奈が慌てるように走る足音も聞こえてくる。
――別にそんなに急がなくても。
咲希のクラスの担任は、いつでもやって来るのが遅い。それは朝のホームルームもそうだったし、授業に関しても、やって来るのに十分くらいかかるのが普通だ。
担任の遅さを把握しているほとんどの生徒は、チャイムが鳴り終わった後でもお互いの話に夢中になっている。
「おっ、雨宮っ!」
その声を聞き取って、咲希は手を止めて教室の後ろ側にあるドアのほうに首を回す。
開けっ放しになったドアから、普通ならば遅刻扱いになっているはずの、雨宮が教室に入って来た。
「はよっ!」
「おはよう」
林の挨拶に応えながら、雨宮は自分の机にショルダーバックを下ろす。
小柄な雨宮からすると少し大きめのバックだが、その中身を知っている咲希は特に違和感を感じることもなく、すでに雨宮から視線を離して自分の机の上に広げられた勉強道具を睨みつけている。
雨宮の前にある自分の席に座っている林が、席に着いた雨宮に渋い顔を向ける。
「お前いつも遅いな」
「あははは……」
咲希の耳にはこれ以上、雨宮と林の会話は聞こえてこない。他の生徒たちの話し声に掻き消されて、騒音の一部に埋没していく。
加算された騒音に、咲希の重い沈黙が、いっそう冷たいものになっていく。
――うっとうしい。
咲希も、意識して聞きたいわけではないのだが、雨宮の苦笑だけは妙に想像できて、そんな自分に多少の腹立たしさを感じている。
毎週火曜日、咲希にとっては陰鬱な日、塾の日だ。咲希は毎回塾の日の当日になって、ようやく先週に出された塾の宿題をやり始める。
朝学校に来てから、前のうちからやっておけば、と何度後悔しても、咲希は今までその反省を活かしたためしがない。
毎日少しずつやるのが無理ならば、週末にまとめてやるという方法もあるのだが、咲希にとって休日とは、規則的工程に縛られた、強制された集団の中での、学校生活からの一時的な解放を意味しており、その貴重な休息の時間を用いて、社会のレールに定められた、今どきの若者の活動意欲を著しく削り取っていく、勉強などというものをやろうとは、咲希は微塵も思わない。
――塾が火曜日にあるのがいけないんだ。
もしも塾のある日が月曜日ならば、日曜日にやっておこうと思うはずだ、と咲希はたびたび考えるが、そのたびに、それもありえないだろうことは、咲希もわかりきっていた。
どうあっても、休日に机に向かう気は、咲希にはない。
――そんなこと考えていても仕方ない。
咲希は低い溜め息を吐く。
「…………」
その後で、咲希は改めて塾の宿題に意識を集中させる。
塾の日はいつも、咲希は学校の授業中に塾の宿題をやる。つまり、内職をしていることになる。
授業中に内職していたのを注意される生徒は時々見かけるが、咲希は今まで教師に注意されたことがない。
内職をしていることを注意されるような生徒は、注意される危険性があるということを全く考えていないからそういう目に遭うのであって、咲希のように授業を聞いているふりをしたり、教師が近づいてきたときにうまく誤魔化せるように、最低限の配慮をしていれば、注意を受けることはない、と咲希は考えている。
それに、咲希は内職をしていても、黒板のノートを写すということだけはするので、塾と比較して学校の授業の進行具合がどの程度なのかを確認しているので、授業放棄しているという危機感はない。
学校での授業と塾での講義、現在どちらが進んでいるかといえば、塾のほうが学校よりも早いに決まっている。学校の教科書で言えば、塾のほうが学校よりも単元一つ分、先をやっている。
そのため、咲希は特別学校の授業に意識を向ける必要性を感じていない。もちろん、学校の授業を真剣に聞こうなどという気は最初から持ち合わせていない。
だからといって、学校の勉強を心底理解しているとは、咲希も思っていない。自分が勉強をできる人間だとは思っていないが、それでも、自分から勉強しようなどとは微塵も考えていない。
――いつになればこの単調な作業が終わるのだろうか。
塾や学校にいるとき、咲希は時々ふと思うことがある。その後で、そんなことはありえないのだと思い返す。
ちゃんと勉強をして、ちゃんとした大学に入って、ちゃんとした仕事について、ちゃんとした大人になる。
それが社会の風潮だ。
――ちゃんとした人間とは何なのか。
社会で常識と呼ばれるもの。たとえ誰かに教えられなくても、教えられたことがなかったとしても、それを知っていることが当たり前で、常識を知らないことや社会でできないことが罪になること。
そして常識に従順で、常識を知らなかったことを恥じて、常識に添えなかったことを反省して、常識から決して外れることなく生きること。
――そんなことができるのか。
そんなことは不可能だと咲希は思う。
そんな人間など有り得ない。
自分のやりたいことをする、自分の嫌なことはしない。自分の主義主張を掲げて、意志を示して、嫌なことや納得できないことには正面から嫌と言う。
それは必ず、社会とは反する。世間の望みとは合致しない。そんなことばかりしていたら、他人は自分を排斥する。
だから人は仮面を被る。
人と一緒にいる以上は、社会で生きていくためには、本当の自分を抑えて、偽りの自分を演じ続けなくてはならない。
嫌なことでも、嫌と言ってはいけない。
楽しくなくても、笑わなければいけない。
どんなに恨み言が頭の中を巡っても、それを決して口にしてはいけない。社会の中では絶対に爆発させてはならない。
――そんな人間がちゃんとした人間なのか。
社会で生きるということはそういうことだ。
「…………」
咲希は低く溜め息を吐く。
――うっとうしい。
今日の授業が終わり、帰りのホームルームが終了し、机を後ろへ運び終えると、咲希は鞄を掴み教室を出た。廊下では掃除をする生徒の話し声や掃除がなくただただ廊下の一角でたむろする生徒の姿があった。
「…………」
咲希は黙ったまま、少し早足で一階の下駄箱へ向かった。
何人かの生徒が下駄箱から自分の靴を取り出して外へ向かって歩いている。咲希も人の波に乗って校門へ向かう。校門から外の道に向かって、二クラス分くらいの大勢の人が歩いていく姿があった。
――今日は……。
咲希も同じように校門を抜けたが、咲希は生徒たちの流れから逸れて、反対方向へと歩を進めていく。
――こっちに行ってみよう。
咲希の選んだ道は、駅から遠ざかる道になる。
多くの生徒は家路に着くために、あるいは大きな町へ遊びに行くために、塾に行くために、駅を利用する。そうでなくても、駅の周りには店屋が密集するため、ほとんどの生徒は駅のほうへ向かう。
しかし、咲希が向かう先には何もない。少なくとも、今時の高校生を魅了してくれるような店は一つもない。
車が多く通る舗装された道だけが近代的な雰囲気を持っていて、あと目につくものといえば一面の緑で覆われた畑が車道から外れたところのほとんどのスペースを占めている。
咲希は、車道のすぐ隣に寄り添う細い歩道の上を、一人で歩いていた。他にここを歩いている人の姿はない。
そもそも、咲希はこの道を今までに通ったことがない。塾の宿題が終わり、塾の開始まで大分時間があったので、試しに来てみただけだ。
普段は、駅の道から少し逸れたところにある無人のビルに行くのだが、数日前に雨宮が言っていた、フラストという化物に襲われたこともあって、そんなところに近づくのはさすがに抵抗があった。
だから、新しい咲希の居場所を見つけておく必要があった。時間が空いたときに一人でいられる、閑散とした空間。誰一人として近づいてこない、近づこうとしない、近づくことを許されていない場所。
――確か……。
この付近に不慣れな咲希は、辺りの様子を入念に確認しながらゆっくりとした足取りで歩いていく。
通学のときに電車の窓から見えた光景だけを頼りに、咲希は目指すべき場所を求めて先へと進んでいく。
――ここだ。
咲希は足を止めた。
咲希の目の前で道が二手に分かれていた。
一つはこれまで通りの大きな車道で、全ての車が一直線にこの道を通っている。もう一つは白線の引かれた車道からそれて、山のほうを上る坂道になっていた。
咲希は坂道を上っていく。
坂道を上ると、大きな建物があることを咲希は知っていた。電車の中から見ただけでは何の建物かまでは把握できないが、とりあえず咲希は坂の上を目指した。
坂道は一応舗装されていて、車二台がギリギリすれ違えるだけの幅はある。山を無理矢理こじ開けて作られたような坂道の周囲には木々が生い茂り、この坂道にやってくる車は一台もない。
坂は咲希の予想以上の急勾配だった。
「…………」
無言で歩く咲希の息は次第に荒くなり、額の周りに汗が滲み始める。
「………………」
息は激しくなっていき、足が疲労を訴え始め、過度な労働に咲希の頭から正常な思考が徐々に薄れていく。
――ここ最悪。
こんな思いをするくらいなら他に適当な場所を探そうか、と思い始めた咲希だったが、それは坂を上り切って建物を確認してからでも、と考え直し、とりあえず建物を目指すことに意識を集中させる。
「……………………」
坂を上り終えた咲希の前に、その建物は何も言わずに建っていた。
最近できた建物かもしれないが、どこか古びた印象を与える、二階建てほどの大きさを持つ建物がそこにあった。
建物の入り口は車庫のように大きく口を開け、裏側には三メートルくらいある大きなガスボンベのようなものがあるから、何かの工場だったのかもしれないと咲希は思った。
しかし建物の中には工場で使われるであろう機材はなく、周りの地面には車の通った跡もない。
咲希はしばらくぼんやりと周囲を見渡していた。
「もったいない」
咲希はぽつりと呟く。無意識のうちに発せられた言葉からは、咲希の感情が如実に表れていた。
――バカだよね。
咲希は密かに思う。
事業拡大から新たに工場を造ってはみたものの、会社の倒産、あるいは経営難のために、多額の費用を賭けて造った工場を手放すなんてことはよくある。
そもそもうまくいっている会社など、名の知れた大手くらいのもの、ほんの少数だ。しかし、有力企業でさえ、安泰とは必ずしも言えない。
中小企業は夢など見ないで、自分たちの持っている力相応に、こぢんまりと働いているほうがお似合いだ。
「まあ」
咲希は薄く笑う。
「私には調度いいけど」
咲希は入り口の手前で突っ立ったまま、何もない工場の中をぼんやりと眺めた。殺風景な建物の中を見る咲希はいつになく落ち着いている。
咲希の肩に不意に触れるものがあった。
「!」
咲希は驚いて振り向いた。
咲希の目の前には一人の少女が立っていた。
咲希と同じ学校の制服を着て、長い髪は胸の位置ほどに垂れ、白粉を塗ったように白い肌、その大きな瞳は不思議と惹き付けられる。
「…………」
咄嗟の出来事に、咲希は何も言えなかった。
少女も、何も言わない。何も言わずに、ただ立っているだけだった。その瞳だけが、異様な力を持って咲希の姿を捉えていた。
ほんの数秒の間止まっていただけなのに、咲希にはとても長い時間に感じられた。
長い沈黙のあとで、ようやく咲希は口を開いた。
「……高峰さん」
高峰はしばらく黙って咲希を見つめる。
長身の咲希のほうが高峰を見下ろす形になっているはずなのに、高峰の瞳は何か強い力を持っているのか、咲希は射竦められたように動けなくなった。
高峰は上に向けていた顔を普段のように正面に向き直すと、咲希の脇を通り抜け工場の中へと向かっていく。高峰は一寸も違はず、工場の中心へ直進する。その精巧な動きは、まるでからくり人形そのもののように咲希には見えた。
「…………」
咲希は高峰の後ろ姿をただ黙って見つめていた。
建物の中ほどまで進むと、高峰は静止して、顔だけを咲希のほうへ向ける。そのまま右手を左肩より少し上のところまで上げて、ゆったりとした動作で手招きをするように、二回手を上下させる。
「…………」
進むべきか、それとも坂道のほうへ引き返すべきか一瞬迷ったが、咲希の体は自然と一歩を踏み出していた。
それを確認すると、高峰は顔と右手を元のように戻して歩みを続けた。
――カン、カン、カン、カン…………。
何もない建物の中で、二つの足音だけが機械的な旋律を奏でている。
それ以外は何もない。
規則正しいリズムは、閑散とした空間の中で異常なほどに沈黙を浮き彫りにして、無に近い音色は無性に耳を痛めつける。
――カン、カン、カン、カン…………。
咲希の心の内はひどい緊張で、体中が熱く火照っていて、自分の鼓動が高鳴っているのが皮膚の上からでも十分にわかる。にもかかわらず、咲希の足取りは不思議なくらい滑らかで、高峰との距離は常に一定だった。
「咲希ちゃんってさぁ」
咲希は足を止めた。
高峰は変わらぬ調子で歩を進める。
――カン、カン、カン、カン…………。
高峰の足音だけが機械的に響いている。一定のリズムを刻んでいくそのメロディーは、とても優しくて、とても破壊的で、愛おしいほどに、狂いだしそうなほど、美しくて、残酷な響きを含んでいる。
硬直したまま、咲希は高峰の後ろ姿を目で追っていた。
――今……。
咲希は後退りしそうになる衝動を必死に押さえた。
――喋った?
高峰が喋った。
そのことを理解するのに、咲希は些かの抵抗を感じた。
高峰の声を、咲希は今まで聞いたことがなかった。高峰が転校してから二週間は経過しているはずなのに、咲希が高峰の声を聞いたのはこれが初めてだった。
――カン、カン、カン、カン…………。
転校初日の自己紹介のときも、高峰は一言も喋らなかった。そのあとで、何人かの生徒が転校生の高峰に出身や趣味などをいろいろ訊きに行っていたが、そのときでさえも、高峰は一言も発しなかった。辛うじて示した意思表示は、首を振る動きだけだった。
お人形さんと高峰が言われる所以が、その寡黙さだ。
咲希が初めて耳にしたその声は、とてもきれいな声だった。頭の中にいつまでも残るような、艶のある、大人びた感じのする声だった。鈴を転がすような声とは、きっとこのことを言うのだろう。
「海斗くんとよく一緒だよねぇ」
高峰は言葉を続ける。
「…………」
咲希は止まったまま、高峰の後ろ姿を警戒した目で見据える。
――カン、カン、カン、カン…………。
咲希の本能が、高峰の存在を危険だと判断する。そのことは、咲希の理性でも十分理解できた。
なぜなら、咲希は学校では雨宮と会話する機会をほとんどもっていない。
普段の雨宮は大概、教室にいる間は大勢の女子に囲まれている。雨宮を好きだという女子たちは、いつもいつも、飽きもしないで、雨宮の傍に行っては、雨宮との他愛のない会話を楽しんでいる。
しかし、咲希はそのメンバーに参加していない。むしろその集団から遠ざかるように、普段は歩きもしない廊下を、最近は頻繁に往来するようになっている。
そんな行動に、全く意味はない。ただ、人が群がる場所の中にいるのを、咲希が極度に嫌うだけだ。
つまり高峰は、学校外でのことを言っている可能性が高い。
心の世界から溢れた怪物、フラストに咲希は襲われて、MASKSである雨宮が、咲希を助けた。
高峰はそれを見ていた。二度目の襲撃で、咲希は高峰の姿を確認している。もしかしたら、最初に咲希が襲われたときも、高峰に見られていたのかもしれない。
「あたしはぁ」
高峰の下撫でするような言葉が、咲希の耳を執拗にくすぐる。
咲希の背筋を嫌なものが走る。
――カン。
足音が止んだ。
咲希は黙っているしかなかった。
「気に入らないなぁ。そういうのぉ」
高峰は回るように振り返る。
高峰の大きな瞳は、哀れむように、笑うように、蔑むように、厭うように、妖しく歪んでいる。
そして、高峰の顔の左半分を覆うように、それが顔の上に被さっている。それを見て、咲希は心臓が止まるような錯覚を受けた。
仮面だ。
|赩《あか》い、仮面。
目や口など、顔の各部位は非常に小さくて、黒い点のような、シミのようにしか見えないほど、存在感がない。
ただ、赩い。
どことなく黒ずんだ、重々しい色をしている。
その赩は、均一に仮面を彩るのではなく、燃えるような、荒く波打つように、仮面全体を侵食している。
――ドクン。
咲希の心臓がいっそう高鳴る。
首筋の皮膚の裏側を通っている血管が激しく波を打ち、鼓膜に伝わる息苦しい動悸に胸が潰されそうになる。
咲希の表情を見た高峰の口元が、あからさまに笑みを浮かべる。
「その顔ぉ」
そう言った直後に、あからさまに高峰の表情が変わる。
さらに微笑っているようにも見える。
けれど嘲笑っているようにも見える。
それは、下等生物を蔑む色によく似ていた。
「嫌いなんですけどぉ」
――ぞわっ!
咲希の体中に嫌な気配が這う。
「……っ!」
咲希は反射的に目を閉じて、身を縮める。
――おおおおおッ!
目を閉じた直後に咲希は強い衝撃を感じ、周囲に異様な熱気を感じた。
「………………」
しかし、この衝撃の感覚を、咲希は以前に経験しているような気がした。咲希はゆっくりと目を開ける。
高峰の姿がぼんやりと見え、その手前、自分の近くに小さな影が映った。
「何をやっているんだ高峰さん!」
咲希は完全に目を開いた。
聞き覚えのある声、その小さな背中、雨宮が咲希を庇うような恰好で、咲希の目の前に立っていた。
高峰の顔が不服そうに歪む。
「ひどい言い草ねぇ」
高峰の表情は目に見えて不愉快そうなものになっていく。
「あなたがもたついているからぁ、あたしが代わりにやってあげているのよぉ。感謝してもらいたいくらいだわぁ」
雨宮は何も言わずに、黙ったまま高峰を凝視する。それを見た高峰は、不服そうな笑みを浮かべた。
「………………」
「………………」
雨宮と高峰はしばらく黙ったまま、互いの姿を凝視している。両者ともに、相手から少しも視線を外そうとしない。
――カンッ!
硬直した雨宮の鼓膜を何かが震わす。
「……っ!」
雨宮は反射的に振り向いた。そこにいるはずの咲希の姿はなく、工場を抜けた方向から駆けるように遠ざかる足音がするだけだった。
「…………」
雨宮は横目で高峰を見る。
高峰は静かに立っていた。そして、いつの間にか手にした扇子を、大きく開く。
「逃がしちゃまずいわよねぇ?」
高峰が楽しそうに笑う。
雨宮は、高峰のほうと咲希の消えた方角を何度も見返してから、高峰に向かって、すがるように叫ぶ。
「僕が何とかするから!」
雨宮は高峰に背を向けると、走って工場の入り口を通り過ぎ、そのまま奥の林の中に消えていった。
――カン、カン、カン、カン…………。
雨宮の走り去った音が空虚な建物の中に反響して、その残響が簡素な空間の中を意味なく漂っている。
「…………」
高峰はただそこに突っ立ったままだった。じっと林の奥のほうを見つめたまま、そのうち所在なさげに片手で扇子を弄び始めた。
「往生際の悪い子ぉ」
高峰の背後で黒い影が燻り始めた。
――何?
咲希は走った、林の中を。
――ガサガサガサガサ…………。
木の葉の擦れる音が咲希の周囲を取り囲む。
それでも咲希はかまわず走り続けた。
――ガサガサガサガサ…………。
目指すところがあるわけではない。急な坂を上った咲希の足は、疲労のために強張っている。本来なら、歩くことさえ、今の咲希には億劫のはずだった。
「はぁはぁ…………」
咲希は息を荒くして、その呼吸ですら所々切れながら、疲労のせいで非常に緩慢な速度で駆けていく。
――何あれ?
しかし咲希の顔は真剣そのものだ。今の咲希なりの全速力を出しているようだった。
――ガサッ!
咲希は何かに躓いたのか、前のめりになって倒れた。
「……っ!」
咲希の口から僅かな声が漏れる。
――ガサガサガサガサ…………。
咲希が倒れた拍子に周りの緑が、互いに合わさって、揺れ動き、その後には妙に清涼とした静けさだけが残った。
「………………」
咲希はしばらく動かなかった。
咲希の口から小さな嗚咽が漏れる。脆弱で、か細い、噎び泣きだった。木々を通り抜ける風の音が咲希の声を掻き消していく。
――何でよ。
咲希は体を丸めて地べたに横たわる。
――どうしてこんな目に会うの?
咲希の頭の中に言葉が浮かぶ。
――どこで道を誤ってしまったの?
生まれた言葉は、滝の勢いで湧き上がり、咲希の頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合って、溢れ返る。
――どこで……。
フラストに襲われたせいなのか。
雨宮海斗に助けられたからなのか。
高峰灯と目が合ってしまったためなのか。
男子を振ったからなのか。
幽霊ビルに行ったからなのか。
さっきの工場に来たためなのか。
塾に行きたくないと思ったせいなのか。
学校に行きたくないと思ったからなのか。
ちゃんと勉強しないためなのか。
――何がいけなかったの?
咲希は、今まで自分の周りで起こった奇怪な出来事の原因を探し、記憶を引っ張り出して、過去の過ちまでも省みた。
――何が……。
何でもいいから理由がほしかった。けれどその微かな理由すら、明確なものは言葉の中には見当たらない。
――違う。
咲希のもう一つの意識が口を開く。
――そんな、はず、ない。
咲希の目から涙が消えた。
――私の、せいじゃ、ない。
頭の言葉が咲希を勇気付ける。
――私は、何も、悪くない。
言葉は咲希を諭し始める。
――みんなが、悪い、んだ。
みんなが悪いのだ。
みんなが莫迦なのだ。
社会が歪んでいるからだ。
社会が勝手だからだ。
振られる男子が悪いのだ。
自殺した社長が悪いのだ。
咲希に敵意を向ける高峰が悪いのだ。
咲希を守れない雨宮が悪いのだ。
――みんなの、せい。
咲希の口元が僅かに緩む。硬直していた目元も柔らかなものになっていき、自然と笑みがこぼれそうにも見える。
「……」
その表情が再び曇る。
――……あれ?
咲希の理性が口を開いた。
自分は何を考えているのだろうか。
どうして自分をそんなにまで擁護するのだろうか。どうして他人をこんなにまで非難するのだろうか。
――何を考えているの?
そんなに周りが悪いのか。そんなにみんなが悪いのか。そんなに全てが間違っているのか。そんなに誰かを悪く言いたいのか。
「……………………」
声が聞こえたのはそのときだった。
「……さん……」
咲希の耳に遠くのほうから人の声が届いてきて、その音が鼓膜を振動させる。咲希は意識を集中させて、耳を欹てた。
「……うえじまさん……」
咲希は硬直したまま、音を聴いている。
人の声は次第に近づいてきて、風の音以外にも草木のざわめきが聴こえる。きっと誰かが咲希のほうに向かって走っているのだろう。
「上嶋さん!」
咲希の背後で声がした。木々のざわめきが消え、誰かが咲希の後ろに立っているのがわかった。
「…………」
咲希は地べたに座ったまま動かない。
「上嶋さん。大丈夫?」
背後の声が咲希に呼びかけた。心から心配するような、弱く、優しい声。その声を発している人間が今、咲希の後ろに立っている。
「……」
咲希は黙ったまま動かない。
沈黙の間を風が流れていった。静かな旋律が草木を揺する。
後ろからなおも声が続く。
「もう、大丈夫だよ。高峰さんには、僕から話をしておくから。今日はもう、家に帰って休んだほうがいいと思う。ここ最近いろいろなことがあって、上嶋さんの体は思った以上に疲れていると思うから」
「何が……」
咲希の口から言葉が漏れた。
その言葉が聞こえたのか、咲希の背後に立った声が押し黙る。
咲希はゆっくりと体を持ち上げる。疾走した直後の足は疲弊しきり、林の中を駆ける間に体中に細かな傷が無数に浮かぶ。
立ち上がると、咲希はさっと振り返り、雨宮を睨みつけた。咲希の目は涙のために赤く腫れ、その鋭利な眼光に雨宮は何も言わなかった。
「何が大丈夫よ!」
咲希は叫ぶ。
「突然襲われて、何で大丈夫なんて言えるの?私が高峰に何したって言うの?何で私ばっかりこんな目に会わなきゃいけないのよ。私が何をしたって言うの?あんなわけのわからない化物に襲われる…………」
咲希の口の周りに強い力が加わる。上下の歯は互いを強く押し付け合い、あごはその圧力に怒り、頬は強張り、激しい痙攣を伴う。
「あんたに会ってからよ、こんなひどい目に会うのは。あんたが転校したその日に、化物に襲われて、あんたと一緒にいたときにまた化物が現れて」
咲希は雨宮に、怒鳴るように言葉をぶつける。咲希の目には、敵意が込められているように見える。
「今日だって、また。全部あんたのせいじゃない。私は普通に生活していたのに、あんたが来てから全部ぶち壊しよ。本当はあんただって、化物の一味なんじゃないの?あんたが全ての元凶よ!」
咲希は叫んだ。
咲希が心の内を吐き出しきった後も、雨宮は黙ったままだった。じっと咲希のほうを見たまま、視線を逸らさない。
「………………」
雨宮の顔に影が落ちる。
子供が今にも泣き出しそうな、沈んだ顔。あるいは、傷ついたものを労るような、物悲しげな瞳。
「……ゴメン」
雨宮は、肩に下げた少し大きめのショルダーバッグに右手を入れて、それを引き出して、鞄を地面に置く。
左手で自分の顔を隠すように覆ってから、右にずらす。右目の大きな仮面が、雨宮の顔の右側面に現れる。
雨宮の顔に弱さはない。無邪気な子どもの様子ではなく、暗く、強い、決意に満ちた、青年の顔付きをしている。
――ガチャ。
雨宮は真っ直ぐサブマシンガンの銃口を咲希へと向ける。
――おおおおおッ!
深紅の炎が辺りを包む。
建物の内部に広がった炎は、埃だらけの地面を覆い、赤みを帯びた茶色に錆びついた鉄柱にまとわりつき、割れた電球をぶら下げた天井まで埋め尽くしていた。
建物の中いっぱいに広がった灼熱の空気。それが炎となって、目の前に広がっている現実を鮮やかに灼いている。
「やっぱりねぇ」
炎火の中に、一人の少女が立っている。
黒を基調としたセーラー服を身にまとい、胸前には炎の赤よりも黒みの強い、臙脂のリボンが垂れている。
黒の制服から覗く手は、セーラー服の色とは対照的に透けるように白く、今は炎光に照らされて、真っ白は少女の肌は橙の色に染まっている。
少女の右手には飾り物の付いていない、両面ともに、落ちついた色合いの、花柄の扇子が握られている。
彼女の血の気のない唇が薄く笑う。
「あの子が関わっていると見て間違いないはねぇ」
少女は静かに周囲を見渡す。艶美で、柔和な瞳には、深紅の炎が揺蕩う。やや褐色がかった少女の瞳は、今は炎の色に燃えている。
「でも残念、まだ雑魚ねぇ」
少女は手にした扇子を軽く前方へと扇ぐ。それに呼応するように、炎が突如として火柱を上げる。
アアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!
悲鳴が上がった。
悲鳴と言うには、実に奇怪な声だった。
雛鳥が生きたまま業火に包まれるような甲高い鳴き声のようでもあるし、愛しい者の死を目の当たりにしたような悲痛な女性の絶叫のようでもあるし、そして猛獣が死闘に敗れて絶命する間際の重く狂おしい咆哮のようでもある。
時間とともに変化するその悲鳴は、それらのどれにも似ていて、それらのどれとも決定しがたい。
――アアアア…………。
炎の中で、黒い影が深紅に喘ぎながらのたうち回る。
灼かれる影は次第に小さくなり、炎に浸食されていくように萎縮していく。燃えさかる炎の中で、命を持っていた影はその身を全て無機質に変えて、灼熱に輝く深紅の中からその姿を消した。
――おおお……。
影を包んでいた火柱は、力を失ったように地面に倒れて、地面を黒く焦がして空気中に霧散していく。
少女の瞳が侮蔑の色に歪む。
「そろそろいいかしらぁ」
少女はゆっくりと歩き始めた。
少女以外誰もいない、この閉塞空間の中で、火炎の灼ける音と、光炎に照らされた少女の姿が、異様な存在感を放っている。
――アアアア…………。
不意に少女は足を止めた。先程まで影がのたうち回っていた場所で、少女は静かに何かの気配を感じていた。
少女の背後で黒い影が燻り始めた。
地面より湧き出した影は無数に伸びて、人の背丈ほどに成長して揺れている。風になびくススキのように、二拍子のリズムを刻んでいる。
天井からも、無数の影が垂れ下がる。垂れ下がった影が、栓をした蛇口からこぼれる水のように、地面へと落ちた。音のない水滴はとても柔らかく地面に着地して、その得体の知れない感触が背筋を震わす。
――アアアア…………。
影はヒトのような恰好をしている。
だがその形は曖昧で、正確な容姿をなさない。顔のような部分は、顔に見えたり、細長い棒に見えたり、潰れたりする。
手のような部分も、時間が経つにつれ指の数が変わり、腕の太さや長さも変化して定まらない。
足はなく、腕が一本しかない影も何体か見受けられる。
目はなくて、鼻もなくて、口もない。人間で言うところの、顔に相当する場所には、顔らしい特徴が一切見受けられない。
ただ、影のように体中が黒い、異質な存在であるということだけは判断がつく。
――アアアア…………。
とても人とは呼べない異形の者たち。
少女は小さく溜め息を吐く。
「往生際の悪い子ぉ」
少女は振り向きざまに扇子を扇いだ。
――おおおおおおおおおおッ!
消えかけていた炎が勢いよく燃え上がる。建物内部の熱気の密度が急激に上昇して、深紅の色に空間を埋め尽くす。
その直後。
――アアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!
再び悲鳴が上がる。
炎が影に燃え移り、異形の者たちは炎の中に飲み込まれていく。炎風に煽られて、黒い影が次々と灼け崩れていく。
――アアアア…………。
それでも異形の者たちは密閉した空間に溢れ出てくる。床から、天井から、壁からも、黒い影たちが無数に伸びて、影と同じ色をした目を少女のほうに向けている。
「しつこいはねぇ」
高峰は薄く微笑み、炎を扇ぐ。その勢いで、高峰の顔の左側面に飾られた仮面が音もなく揺れる。
――どどどどどどどどどどどどどどどッ!
弾丸が弾け飛ぶ。
咄嗟に横へ飛んで回避する。無数の弾丸が空を切って、林の中に消える。
銃声が止んだ。雨宮の持つサブマシンガンから白い煙が上がる。雨宮の表情は変わらず、鋭い眼光でこちらを見ている。
「何すんのよ、危ないじゃないの!」
叫んではみたものの、雨宮の顔は変わらずに睨み据える。雨宮は鋭い銃口をこちらへ向けたままだった。
幼さを感じられない、険しい顔立ちに備えられた瞳は、決意か、怒りか、激しい殺意に満ちている。
「見えてんだよ」
雨宮が乱暴に言い放つ。
「……?」
最初、雨宮の言っていることが、どういう意味なのかわからなかった。
雨宮は静かに銃口を上げる。
「…………」
もしやと思って、視線を下げる。
地面にそれが見えた。
女の子が一人倒れていた。
黒いセーラー服を着ていて、彼女の近くにはショルダーバッグが転がっている。腰まで届きそうなロングヘアーをしていて、頭に白いヘアバンドをしている。手や足は薄ら汚れていて、所々に小さな傷が見える。女の子は目を開いたまま、精気が抜けたように横たわり、動く気配がない。
それと一緒に奇妙なものが見えた。
「…………」
それは自分の体。
黒々とした肌は地面まで伸び、足元にはたこの足のような触手が何本も見えた。触手の先端付近には幾つかの丸いできものが、いっそう黒く浮かび上がり、見ていてあまり気分のいいものではない。
「…………」
しかし、見ているうちにそれはすんなりと受け入れられた。同時に、変な安堵と喜びに満ちてくる。
「なーんだ」
自然と口元が緩む。
「先に言ってよ」
雨宮に笑っていった。
直後。
――どどどどどどどどどどッ!
銃弾が弾け飛ぶ。
向かってくる弾丸を躱すために、できる限り体勢を低くしながら横に避けて、触手を使って地面を這うように移動する。
銃口がその後を追う。弾丸がこちらに向かって飛んでくる。避け続けるのは困難に思えたので、触手を数本伸ばして雨宮のほうへ向ける。
触手はしなやかなゴムのように伸びて、思いのままに雨宮のところまで向かっていき、それを見た雨宮は咄嗟に飛んで触手から距離を置く。
何本もの触手が地面を抉り、木々を削り、太い幹さえも貫いていく。
――どッ!
銃声が止んだ。
雨宮との距離が大分離れた。
「いきなり攻撃なんて卑怯なんじゃない?」
雨宮の口元が不服そうに歪む。
「話せるのか?」
雨宮は身を屈めたまま、目の前のフラストに訊いた。
人間とは思えない姿をした化物が、人間のように溜め息を吐く。
「あんな餓鬼と一緒にしないでくれる」
「餓鬼、か」
雨宮は体を起こして銃口をフラストへ向ける。
「そうよ、私が育てたかわいい子どもたち」
フラストは、人間のような、楽しそうな表情で語る。
――どどどどどどどどどどッ!
雨宮のサブマシンガンから無数の弾丸が溢れ出す。
フラストは回避するように地面を這っていく。
――心のエネルギーの一部を、他のフラストに与える性質、ってことは、共有か、悪くて支配のイメージを持っている、てことか。
雨宮はフラストに向かって駆け出す。
「そいつらに上嶋を襲わせたわけか」
フラストは触手を用いながら弾丸を交わし、木々の間を縫って、触手を雨宮に向かって投げつける。
「襲わせたわけじゃないわ。あの子たちが勝手に暴走しただけ」
雨宮は触手を躱し、打ち払いながら、フラストに向かって駆け寄る。
「いつかは殺す気だったんだろ」
フラストは触手を用いて雨宮の前進を阻む。
雨宮も銃で応戦はしているものの、何度銃弾で打ち払っても新たな触手が雨宮に向かってきて、またいくら銃で迎撃しても、時間の経過とともに壊れた触手が再生していき、これではきりがない。
――やりずれー……。
雨宮は歯痒い思いを感じた。
「でかくなりすぎた感情は、心から溢れて体の世界に現れる。心から抜け出しては餌を求めて、体の世界を乱し、そこから生まれたものを己の糧とする」
雨宮は両手でサブマシンガンを強く握り締める。
「…………」
フラストは何も言わずに、雨宮の言葉を聞いている。雨宮の言葉は続く。
「だが、どんなに力を手に入れても、フラストが心の世界の住人であることに変わりはない。いつまで経っても、生みの親から離れることはできない。元の命から、心から決別することはできない。心に蓄積された、全てのエネルギーを、フラストレーションを開放することはできない」
雨宮の眼光がさらに殺意の色を帯びる。明らかな怒りを含んだ二つの眼球がフラストを激しく睨みつける。
「…………」
フラストを睨みつけたまま、雨宮はしばらく黙って引き金を引いていた。フラストのほうは自分の触手で何とか雨宮に応戦してはいるが、雨宮の進行を防ぎきれてはいない。互いの距離が次第に縮まっていく。
雨宮の口元が強く引き締められる。
「……だから」
雨宮の口から怒気を含んだ言葉が溢れる。
「だから、フラストは生みの親を殺す」
自殺、他殺、事故死、病死。
その方法は様々だが、自我を持ったフラストが、自分だけの自由を手にするために、生みの親である器を、躊躇いもなく破壊する。
ギリッ、という歯軋りが、雨宮の口から聞こえてきそうだ。
「そうやって心の世界を離れて、さらに力を得て、体の世界を乱す」
笑い声が聞こえたような気がした。
「だってあの子の中は窮屈なんですもの」
フラストの触手が僅かに肥大する。正確には、触手の先端に付いている球状のできものが膨らんだ。
フラストが触手を振る。同時に、肥大化したできものが触手から分離して、黒い弾丸が雨宮に向かって飛んでくる。
雨宮は即座に身を引いて、黒い弾丸を躱す。躱すと同時に雨宮は感じとる、その大きなエネルギー体。
――あれは……。
雨宮の後ろで、黒い弾丸が岩石に衝突する。弾丸よりも明らかに巨大な大岩が軽々と吹き飛んで、石屑くらいの破片が辺りに散乱する。
――やばい。
岩が砕けた。
直後。
フラストの触手が雨宮の体を強く殴りつける。黒い弾丸に注意が向いていたために、雨宮のほうに向かっていた触手に、雨宮は気付かなかった。
「っ!」
怯んだ雨宮に向かって、無数の触手が襲いかかる。雨宮は避けることも、防御することもできず、フラストの攻撃をそのまま受ける。
一本の触手が雨宮の右腕を掴む。
「……ヤローっ」
気付いた雨宮は銃口をフラストに向けようとしたが、続く複数の触手にサブマシンガンごと右腕を抑えられる。
フラストが愉快そうに笑う。
「でも、私じゃあの子は殺せないみたいなの。だから他の奴らで殺そうと思って、私の力を少し分けてあげたの。あの子の感情を昂らせると、私が外に出やすくなって、そのとき私の実を外の世界にばらまくの」
そう言いながら、フラストは自由なほうの触手をひらひらと雨宮の目の前でわざとらしく振ってみせる。それと一緒に、黒い触手の先端に付いている、よりいっそう黒光りしているできものが、軽やかに揺れている。
見ていてあまり気分のいいものではないが、フラストのほうはとても楽しそうな表情をしている。人間とは明らかに異なる顔をしているのに、楽しんでいる、という表情だけは憎たらしいほど理解できた。
「でもみんなあなたに邪魔されちゃったけど」
フラストはゆっくりと雨宮の体を引き寄せる。雨宮は激しくもがいて脱出を図る。しかし、強く締め付ける触手は少しも緩むことはない。
「……っ」
雨宮の学ランの中から何かが出てくるのがフラストに見えた。野球ボールほどの大きさのそれは、雨宮と触手の間の空間に落ちてくる。
――ボンッ!
突然ボールが爆発した。
その衝撃で、その周りの触手はバラバラに吹き飛び、雨宮を掴んでいた部分は跡形もなく消え失せた。
「……っ!」
フラストの顔が不快に歪む。その表情もまた、見ていて不快だということが一目でわかる形をしている。
噴煙が上がり視界がとれない。
――どどどどどどどどどどどどどどどどどどどどッ!
噴煙の中で銃声が上がる。
フラストの体に無数の弾丸が飛び込んできて、弾丸が命中するたびに、フラストの体に大きく穴を穿つ。
フラストは正常な触手を使って噴煙から飛び出した。煙が徐々に薄れていき、視界がはっきりしてくる。
間を取って、雨宮がフラストに向かって発砲しているのが見えた。
フラストは弾丸を躱そうとするが、銃弾を受けすぎたために触手の再生が間に合わず、うまく体のバランスがとれない。そうこうしている間にも、フラストの本体の部分が雨宮の攻撃を受けて、少しずつ削れていく。
触手の先端に付いたできものが異常に膨らむ。その直後、黒い弾丸が雨宮に向かって投げ出される。
雨宮はサブマシンガンの銃口をまっすぐフラストに、黒い弾丸に向けたまま動かない。
「ああぁぁぁああ!」
雨宮はサブマシンガンを乱射させる。黒い弾丸に銃弾が何度も当たる。しかし黒い弾丸の勢いは衰えることなく、雨宮の体に直撃する。
――どんッ!
雨宮の体は三メートルほど離れた太い木に衝突する。厚みのある幹は僅かに凹んで、雨宮の体がその勢いで幹にめり込んだ。
衝突の反動で黒い弾丸は弾かれたように消滅し、雨宮の体が地面に落下するよりも速く、雨宮の右肩をフラストの触手が貫いた。
「がああぁぁ……!」
雨宮の悲鳴が木々の間を通り抜ける。
フラストは素早く触手を使って雨宮の両手、両足を木に縛り付ける。雨宮の右手からサブマシンガンが滑り落ちた。
「手榴弾を持ってること、忘れてた」
フラストの体が徐々に修復されていき、黒い肌に付いた傷は次第に癒えて、触手も元のように生え揃う。
「でももう同じ手は使わせない」
フラストは雨宮を木に押さえ付けたままゆっくりと近付く。
「それにしてもよくやるわね。あんな至近距離で爆発されるなんて。あなたの体、もうボロボロじゃない」
フラストは黒い触手で雨宮の頬を撫でる。
「…………」
雨宮は苦しそうな息遣いをしながらも、その鋭利な眼光で目の前にいるフラストを睨みつける。
雨宮の学ランはあちこちが擦り切れて、下に着ているシャツが露わになっている。ズボンも同様にボロボロだ。
顔や手には赤いものが付着していて、それが服を、土と一緒に汚している。触手が貫通している右肩は、特にひどく、赤黒く濡れている。
フラストの口元が愉快そうに緩む。
「たいした度胸ね。そんな体で」
フラストが雨宮の顔を覗き込む。雨宮の目は真っ直ぐにフラストを捉える。その瞳にはまだ殺意があり、鋭利な眼光でフラストを斬りつける。
しかし雨宮の体は少しも動かない。
――体が動かない。
咲希は漠然と理解していた。
意識ははっきりとしている。自分が横たわっている土も見える。木々の間から差し込んでくる太陽の光も感じられる。雨宮の喋っている声や、騒々しいばかりの銃声も聞こえる。自分の体中を覆う鈍い痛みも、なんとなくわかる。
「…………」
しかし、体が動かない。力が入らないのだ。当然喋る体力もない。息をしているぐらいしか、自分が生きているという証がない。
まるで体の中の何かがごっそりなくなったような、今まで咲希を支えてくれたものをいっぺんに失うような、欠乏感。
「…………」
どうして自分は倒れているのか、どうして体が動かないのか。
どうして、という言葉も浮かんでこない。理由を考えることさえもできないくらい、頭の中には何もなくて、何もできない無力な自分を少しずつ咲希は受け入れ始めている。
咲希の体を覆う痛みも、咲希の頭の中では、痛み、という言葉でしか理解していない。
痛い、という感情の判断が欠落している。
体が動かないという事実も、どこか他人事のように感じられて、咲希自身はそれほど危機的には思っていない。
今、咲希の周りで起こっている全てのことが、テレビ画面を通じて行われているみたいで、咲希のいる世界とは違う、どこか別の世界で起きているような、むしろ今の咲希の存在そのものが、空気のように透明になって、意味をなさないものになっているような、そんな不思議な気持ち。
心の中がとても軽くなって、とても乾燥したような、今の咲希の体は中身を失ったさなぎのように弱くなっている。
咲希の耳には周りの音がよく聞こえる。
「そいつらに上嶋を襲わせたわけか」
ひどくぶっきらぼうで、とても乱暴そうな口調。気性の荒い、青年のようなイメージを与える、そんな声。
雨宮の声だ、と咲希にはすぐにわかった。
いつもの、学校にいるときの、おどおどした、優しい、気弱な、明るい、子どものような声とは明らかにかけ離れている。
雨宮が戦っているということがすぐにわかった。
雨宮の喋り方からもわかるが、何より抑制のない、ひどい銃声が林の中に木霊して、咲希の耳にもしっかりと届いていた。
きっと化物がでたのだろう。フラストと雨宮が呼んでいる化物が現れたのだろう。それで雨宮が戦っているのだと、咲希にはすぐ把握できた。
「襲わせたわけじゃないわ。あの子たちが勝手に暴走しただけ」
もう一つ、雨宮以外の声があった。
――誰の声だろう。
その声が誰のものなのか、咲希にはわからない。高峰の奏でた音律とは、異種の音色をしている。
だが、咲希には聞き覚えのある声だった。
「いつかは殺す気だったんだろ」
雨宮の語気は強かった。
「でかくなりすぎた感情は、心から溢れて体の世界に現れる。心から抜け出しては餌を求めて、体の世界を乱し、そこから生まれたものを己の糧とする。だが、どんなに力を手に入れても、フラストが心の世界の住人であることに変わりはない。いつまで経っても、生みの親から離れることはできない。元の命から、心から決別することはできない。心に蓄積された、全てのエネルギーを、フラストレーションを開放することはできない」
雨宮の言っていることが、咲希にはよくわからなかった。意識はあるのに、うまく頭が働かない。完全に咲希の体から力が抜けている。
「だから、フラストは生みの親を殺す。そうやって心の世界を離れて、さらに力を得て、体の世界を乱す」
最後のほうは叫びに近かった。
「だってあの子の中は窮屈なんですもの」
もう一つの声はとても落ちついていた。
「でも、私じゃあの子は殺せないみたいなの。だから他の奴らで殺そうと思って、私の力を少し分けてあげたの。あの子の感情を昂らせると、私が外に出やすくなって、そのとき私の実を外の世界にばらまくの。でもみんなあなたに邪魔されちゃったけど」
その落ち着き払った声の調子に、咲希はどことなく不自然な感じを覚えた。ゆったりとした口調は、妙な違和感を咲希に与える。
――誰の声だろう。
その声は、咲希の知っている声だった。聞いたことがあるということは、咲希の中で妙に確信めいたものがあった。
――どこかで聞いたことがあるような…………。
どこかで聞いたような気がするのだが、聞き覚えがあるような気がするのだが、咲希はなかなか思い出せない。
――どこだっけ。
不思議に思った咲希の心の中の問いかけに、咲希自身がハッとした。この声をどこで聞いたものなのか、咲希はようやく思い出した。
時折、咲希の頭の中に浮かんでくる声。そして、咲希がいつも口にしている、咲希自身の声。
「…………」
咲希の視界に黒い影が映る。
不吉な色をした黒色の肌は、滑らかなほどその身を包み込み、それは今までに咲希が目にした化物の姿とは明らかに異なる種類のものだった。
体の色は変わらずに、暗黒色。
一目見ただけの大きさは、普通の人の背よりも若干高いくらいの、二メートルほどの高さしか持っていない。今までの化物が、どれも身の丈三メートルもある屈強な巨人だとすると、今、咲希が見ているものは、あまり筋肉質という印象はなくて、その皮膚には軟体的なイメージすら感じられる。
その化物の一番目に付くところは、その下半身、脚だ。
体の半分以上を占める脚部は、イソギンチャクのような、無数の触手で構成されている。通常状態でも、その触手のせいで、下半身は横幅六メートルにも達していて、伸ばそうとすれば、十メートル以上は伸ばせられそうだ。
それらの触手は、互いに意志を持っているように、器用に蠢いて、その見てくれは海中を這いずり回るタコのようで、黒色の肌のせいで、あまりまじまじと見ていると気分が悪くなって、吐き気がしそうだ。
「…………」
咲希は心の中で納得した。
――そうか。
それは諦めに近い、安堵の調べを鳴らしていた。
――あれが、私か。
自分は、化物だったんだ。自分の中に、あんな恐ろしい化物を飼っていたんだ。自分の心は、あんなに醜かったんだ。
みんなの存在を嫌って、社会という枠組みを憎んで、みんなのせいにして、社会を疎んでいて。
――あれが、私の姿。
仮面の裏側に隠れていた、もう一人の自分の顔。心の奥底に宿っていた、自分の汚らしい本性。
――そうか。
咲希は理解する。
化物の姿と声、その言葉、それは化物の意識であると同時に、咲希の意識でもあった。声が同じなのは、きっとそのせいだ。
――そうだったんだ。
咲希は悟る。
咲希が最近ひどい目に会ったのは、自分が化物を作った、自分が化物になってしまったことへの罰なのだ。他人を悪者に考えたり、他人に悪いことを言ったりしたことへの、裁きに違いない。
「それにしてもよくやるわね。あんな至近距離で爆発されるなんて。あなたの体、もうボロボロじゃない」
咲希の視線の先に、ぼんやりと人影が見えた。咲希が目を凝らして注視すると、それは雨宮海斗だった。
雨宮は木に磔にされていた。
雨宮は体中が傷だらけで、血だらけで、磔にされている木の根本の地面は遠目で見てもわかるくらい赤黒く濡れている。
雨宮の手には銃が握られておらず、雨宮の真下には黒光りするサブマシンガンが転がっていた。
そして、雨宮と向かうように、もう一人の咲希が近寄る。化物の本性を剥き出しにした、上嶋咲希が。
「ねえ」
もう一人の咲希が雨宮に詰め寄る。
「あなたを食べれば、あの子も殺せる?」
その楽しそうな声が咲希の耳にも理解できた。
――ああ、やっぱり。
咲希は改めて実感する。
自分は殺されるんだということを、咲希は薄々感じていた。化物を生み出してしまった自分は罰せられて当然だ。
――でも。
咲希の理性が口を開く。
――ダメ!
咲希の理性が叫んだ。
雨宮を巻き込んではいけない。
裁かれるのは咲希だ。咲希だけが裁かれる。他の誰でもない。ましてや、咲希を必死に助けようとしてくれた雨宮を。
「……………………」
咲希は声を出そうとした。しかし開いた口からは息しか出てこない。くぐもった息は、口の周りの地面を僅かに湿らせる程度のことしかしなかった。
<p class=MsoNormaltext-indent:10.1ptpunctuation-wrap:simple
vertical-align:base>――ダメ。
咲希は焦った。何とかして雨宮を助けないと。
でもどうやって。
そんなことはすでに咲希の念頭にはなかった。ただ一念に、声を出すこと、それだけが今の咲希の思考の全てだ。
もう一度声を出してみる。
「…………」
声は出ない。ただ、「ア」の形に開いていた咲希の口が、僅かに「エ」の形に動いただけだった。
――動いた。
だが、確かに動いた。
咲希は体を動かそうとした。
長身の咲希の体は、地面の一部になったように動かない。体から声を出そうとしたとき、咲希の指先にあった土が咲希に向かって跳ね返ってきた。
――動いた。
指が動いた。
もう一度、声を出そうとする。
「……ぁぁ……」
掠れた声が出た。だが、そんな声では二人までは届かない。
「……ぇぇ……」
もう一度叫んでみた。しかし掠れた声にしかならなかった。
――まだダメ。
まだ足りなかった。こんな掠れた、小さな声では、雨宮のところまで声は届かない。もう一人の咲希の動きを止めることなんて、できるわけがない。
「…………」
雨宮と化物の咲希との距離が次第に縮まる。一メートルほど離れた位置で、もう一人の咲希の動きが止まる。
「テメーじゃ俺は殺れねーよ」
雨宮の声ははっきりしているが、雨宮の手に銃は握られていない。
もう一人の咲希の口がゆっくりと開く。口の大きさはどこまでも広がり、人一人丸呑みにできるくらいはある。
黒い塊は再び動き始めた。
――ダメ。
咲希は強く念じる。
――ダメ!
「ダメーッ!」
林の中を一つの声が駆け抜ける。
年若い、少女の声だった。澄んだ声は、きれいなアルトを奏でている。
「……!」
彼女の悲鳴に、人界には存在するはずのない異形の者は動きを止めて、ゆっくりと振り返った。異形の者の目に、一人の少女の姿が映る。
白いヘアバンドが木漏れ日に反射して、腰の手前まで伸びた髪は、彼女の背中で静かに揺れている。立っているのが辛いのか、少女の足は絶えず揺らめき、ぐらついて、そのたびに肩が左右に動く。
「…………」
化物は、ただじっと少女を見ていた。まるで金縛りにあったように、硬直して、動かない。静止したまま少女のほうを見る。
そして、ゆっくりと表情を和らげる。
「あら、お目覚め?」
化物はヒトのように微笑を浮かべ、少女に語りかける。
「王子様のキスはまだでしょ、眠り姫。もう少し待っていなさい」
フラストの触手が諭すように動く。
小さな子どもをあやすように、優しく、穏やかなリズムで、けれど、その黒色の触手は、何本もの異形の触手が揺らめく様子は、あまりにも異質で、奇怪だった。見ているだけで、服の裏側から背筋のほうを、その黒いゴム質な触手が這いずり回るような、そんな気持ち悪さを錯覚する。
続いて、他の触手がゆっくりと木に縛られている少年へと向かう。化物の顔はずっと少女のほうへと向いているが、触手だけは化物とは独立した意識を持っているように、化物のすぐ近くに捕らえられた獲物へと伸びていく。
「ダメ」
咲希の口から言葉が発せられる。
――ぴた。
少年に向かっていた真っ黒な触手の動きが止まる。少女に向けていたフラストの笑みが、僅かに歪む。
「…………」
「…………」
咲希は真っ直ぐフラストを見つめる。
フラストは歪んだ笑顔のままで、しばらく咲希を見た。そして、ゆっくりと表情を和らげていく。
「どうして?あなたの望んだことじゃない」
フラストは笑みを作って咲希に微笑む。その笑顔は心の底から笑っているようで、そして心の中から作られたような、見た目は完璧なのに、何か欠けた印象を受ける。
「雨宮が自分を巻き込んだ。雨宮のせいで自分はひどい目に会っている。雨宮さえいなくなれば」
フラストは流れるように言葉を引き立てる。それは弦の上を滑るように、耳障りな旋律だった。
――違う。
咲希の理性が即座に否定する。しかし、咲希は咄嗟に言葉が出なかった。フラストの言葉はなおも流れる。
「みんなが悪い。社会が悪い。みんな、大嫌いだ。社会に縛られるなんて真っ平だ」
「違う」
咲希の口からようやく理性がこぼれ出た。
「…………」
フラストの口元が再び硬化する。咲希はじっとフラストのほうを見つめていた。睨む色ではなかったが、その雰囲気は真剣な空気を放っている。
フラストの笑みに暗いものがよぎる。
「何が違うの?」
フラストの顔に、笑顔はない。
「あなたの思ってきたことじゃない」
「…………」
咲希は黙っていた。
――確かにそうだ。
フラストの言葉には真実があった。
――私が思っていたこと。
嫌なことがあるたびに人のせいにしていた。悪いのは全て他人だと。他人はいつも自分にとって邪魔なのだと。それが他人で、それが社会で。
人が笑っているのが、無性に嫌だった。人が話をしているのが、何となく嫌だった。人の考え方が、異常に嫌だった。人の存在が、何故か嫌だった。
それを全て、社会のせいにしていた。それを全て、社会なのだと諦めていた。それを全て、社会が悪いと逃避していた。
――排他的絶望。
周りを受け付けなくて、全てを否定して、今の生に悲観する。
「…………」
フラストはもう一度笑顔を作り直して、自分の言葉を続ける。
「私だけがあなたをわかってる。本当のあなたを。だからあなたがかわいそうでならないの。あなたはいつも苦しんでいる。自分の思い通りにならなくて。だから私があなたの願いを叶えてあげる」
フラストの言葉が優しく咲希の頭を揺らす。その異形の姿の化物の言葉に、咲希の心の中に溢れそうになるものを咲希は感じる。
「私があなたを助けてあげる」
フラストの言葉に惑わされそうになっていることを咲希は感じていた。
「私だけがあなたを助けてあげられる」
しかし、フラストの甘い言葉は咲希の頭の中に優しく響いて、振り払いたいのに、振り払えない。聞いていたい。
「私だけがあなたの味方」
拘束されるのが嫌だった。学校に、塾に。
自由なみんなを憎んでいた。互いに笑って、おしゃべりして。
咲希は俯きそうになる。
だけど聞いてはいけない。耳を貸してはいけない。
「だから私が全部あなたの代わりにやってあげる」
許してはいけない。
――でも。
俯きかけた頭を、何とか重力に逆らわせて、咲希は上げ続ける。その目を真っ直ぐフラストのほうに向け続ける。
咲希の口が開く。
「そんなの、ただのわがままだ」
咲希の口から言葉が漏れて、空気中へと流れる出る。それに倣って、言葉が胸の奥から溢れ出てくる。
「学校へは無理矢理行かされているんじゃない。自分が行きたいんだ。友達に会いに、友達とおしゃべりがしたくて」
咲希の学校嫌いは、勉強嫌いからくるものだった。塾の日でなければ、いや、よくよく考えれば塾の日でも、咲希は普通に真奈と一緒に笑っていた。塾に行かなければいけないという苦痛、それに対する気分転換のため、そんなことでも、咲希は誰かを求めていた。他にも大勢の友達と一緒におしゃべりをしていた。
――いつからだろう。
いつの間にか周りが見えなくなって、気付かない間に自分だけの世界ができあがっていた。その世界にくるまれているのが、自分の安息だと信じていた。
真奈は友達だ。智恵も友達だ。愛子も友達だ。他の女子も友達だ。
いつから言えなくなってしまったんだろう。胸を張って言えない自分が、咲希自身が、どうしようもなく歯痒い。
「社会の義務かもしれないけど、そんなことは関係ないんだ。私は学校の中で友達と一緒におしゃべりをしている」
フラストの表情が不快の色に変色していく。
「そんなの本当のあなたじゃ……」
「本当の私よ。それも私。みんなと一緒に笑っているとき、私は着飾りも、偽りも演じていない」
生きていく中で、嫌なことは必ずある。やりたくもないのにやらなければならないことが絶対にある。
だが、それは誰にでもあることだ。宿題を出されれば、みんなで不平を言うし、授業中に指名されれば、誰だって嫌な思いになる。
嫌なことだからといって全てを放り出したら、それはわがままだ。宿題は友達と一緒に考えるし、授業中に答えられないときも、近くの人がちゃんと教えてくれる。
みんなの中にいて嫌なことばかりがあるわけではない。楽しいこと、嬉しいこと、それがかけがえのないときだって絶対にあった。
「楽しいから」
それを、嫌なところしか見ていなかっただけ。暗いところしか見ていなかっただけ。悪いところだけしか見ていなかっただけ。
自分の都合で人を悪者扱いして、それが結局自分だけの正義になるなんて、傲慢すぎる。自分もそんな世界の中で生きていて、その世界の一部に、確かにいる。
「みんなの中にいる」
咲希の口から言葉が流れるたびに、咲希の胸の中は巨大な氷が解けていくように、温かくなっていく。
「私はわがままだった。少し卑屈になって、周りが見えていなかったんだ。みんなを嫌に思ったのは、ただの私の愚痴だ。愚かな私の、ちっぽけな愚痴」
フラストが悲痛な声をあげる。
「やめなさい……!」
しかし咲希は言葉を止めない。
「殺したいぐらい人を憎んだことなんかない」
フラストが何かを言いかけたようだったが、それよりも先に、咲希のほうがきっぱりと言い放った。
「そんなの私じゃない」
フラストは何も言えずに硬直する。
直後。
――アアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!
悲鳴が上がる。
耳を劈くその声は、林の中で暴れ回った。同時に、フラストの体が崩壊を始める。幾つもの触手は乾燥した土のようにボロボロと崩れ落ち、その破片は水中の泡のように音もなく消えていく。
咲希の足は完全に力を失い、意識までも夢の中へと落ちる。支えを失った瞳からは一筋の滴がこぼれ、静かな子守唄が咲希の耳を揺らす。
――ウットウシイ。