第三楽章 MASKS
雨宮海斗が松風高校に転校する前、彼は北海道にある高校に通っていた。雨宮の記憶の中にはすでにその高校の名前はない。正確な場所も完全に忘れている。雨宮が実際にその学校に通っていたのはおよそ一ヶ月しかない。
視覚的情報なら、幾つかの記憶はあった。
雨宮がそのとき暮らしていた場所は旧式の集合団地で、白かったはずのコンクリートは長年の風雨に曝されて、黒に近い灰色に汚れていた。
そこに住んでいた人々のことなど、もちろん雨宮の記憶にはない。そもそも、その団地の住人に出会ったという記憶も危ないものだ。それだけ人気のないところだったということは、何となく記憶している。夜に外を歩くときは、街灯もなくて、真っ暗で、一抹の不安を抱えながら歩いたことを、雨宮はよく覚えている。
雨宮は夜の道が苦手だった。
単純に、誰もいない、暗い道を歩くことに恐怖を覚えるのだ。
高校生にもなって、ましてや男の子であるという身分上、夜道を一人で歩くことが恐いということは、人に知られたくはないし、雨宮自身も克服しなければならないということぐらいは感じている。
でも、ダメなのだ。
どうしても、慣れない。
誰もいない、闇は。
雨宮もできれば夜道を歩くことは避けたかった。しかし、学校からの帰りが遅くなったり、夕食を買いに行くときは、どうしても夜道は避けられなかった。
その当時の雨宮は、松風高校に通っている現在と同様に、一人暮らしをしていた。自主的に料理をしない雨宮は、いつもコンビニなどの弁当で食事を済ませている。だから雨宮にとって、夕食を買いに行くという行為は必須的事項なのである。
夜道が苦手な性格のために、雨宮は用がなければ夜はいつも団地の自室にこもっていた。やることがなければすぐに就寝していたので、高校生としては異常なくらい早い時間帯に床に就くことが多かった。
そんな雨宮海斗の唯一の楽しみは、学校に行くことだった。
今時の高校生で、学校に行くことを楽しみにしている生徒も珍しいだろうが、雨宮の場合はすでに異常の域に達している。
本当に雨宮は学校へ行くのが好きなのである。
正確には、誰かの傍にいることが好きなのである。人の輪の中にいること、人と同じ時間を共有すること、人と一緒に笑うこと、人と楽しみを分かち合うこと、それが雨宮の唯一の楽しみなのだ。
その学校への転校初日は、松風高校の時とあまり変わらない。
「今日からこのクラスの一員になる雨宮海斗くんだ」
そのときの担任も男だった。松風高校での担任よりもずっと若い、そのときの雨宮は、新任の先生だろうかと思うくらいだった。
「みんな、仲良くするように」
「は~い!」
生徒たちの明るい声が返ってきた。松風高校とは違って、元気のあるクラスなのだと雨宮は感じた。
「さ、雨宮も何か一言」
そして、その高校でも自己紹介を言うことになった。
「あ、はい」
転校することになれば、自己紹介をしなければならないことは容易に想像できるはずである。何か特別に言うことがなくても、適当なことを言っておけば済む話だ。
しかし、雨宮はその後の言葉が続かなかった。
「…………」
松風高校のときと同様、ここでも雨宮は自己紹介の言葉を詰まらせた。
全く何も考えていなかったし、咄嗟の言葉も浮かばない。
雨宮はこういう行為が苦手だ。
「……え、えーと…………」
人前に立つと緊張してしまうということもあるが、根本的な問題として、人と話をすることが苦手なのだ。
話が浮かばない。
話す内容が思いつかない。
何を話したらいいのか。どんな話をすればみんなが喜んでくれるのか。どういう話をするべきなのか。
人の会話の輪の中にいることは楽しい。人が楽しそうに話しているのを聞くのは、雨宮も好きだ。
しかし、雨宮自身が、自分から話をしようとすると、うまくいかない。他の人がやっているように楽しいことを言うことができない。他の人を笑わせるような、おもしろい話をすることができない。
そうやって考えている間に、時間だけが過ぎていって、何も言えなくて、結局みんなにつまらない思いをさせてしまう。
「…………」
口下手だとは言われる。
優しい人は、気にしなくても大丈夫だと言ってくれるが、やはりそれが雨宮の欠点である以上、雨宮がそのことを簡単に納得することはできない。何とかしなければ、とは思っている。欠点を克服しなければ、と雨宮自身も思ってはいる。
しかし、なかなかうまくいかない。
「…………よろしくお願いします」
雨宮が精一杯考えを巡らせて、ようやく思いついて、やっと言えた言葉は、たったのそれだけだった。
特別なところは何もない、ありきたりな挨拶。
「………………」
雨宮の簡素な言葉に、当時のクラスメートたちはみんな何も言わなかった。松風高校とは違って拍手は起きず、ただ静かだった。
自分の素っ気ない言葉に呆れられているのだろうと、雨宮の思考はどんどんと悪い方向へと落ちていき、顔を上げていることが耐えられなくなった。
「終わり?」
そのときの若い担任が雨宮の顔を覗き込んできた。雨宮は下を向いたまま、僅かに頷くだけだった。
結局それしか言えない。そんな自分が情けなくなる。誰にも見られたくない、そんな自分なんか。どこかへ消えてしまいたくなる。誰もいないところへ。逃げ出したくて、隠れたくなる。みんなの前にいることが耐えられない。
「ま、転校してきたばかりでわからないことだらけだと思うが、俺でもクラスの連中でも、遠慮なく訊いてくれ」
沈んだ雨宮に対して、担任の声は明るかった。
「みんなも、雨宮が困ってたら助けてやれよ」
「は~い!」
生徒たちの明るい声が返ってきた。
その声たちを聞いて、雨宮は顔を上げた。そのときのクラスの生徒たちの表情は、純朴そうな、晴れやかな顔をしていた。
「…………」
一瞬、雨宮はそんな空気に呆気にとられた。そして、なんだか気持ちが軽くなっていく気がした。ちょっとだけ、救われたような気がした。しかし、その救いは雨宮にとって大きいものであったと、雨宮は自覚している。
――いい場所だな。
雨宮の顔が和らいだ。
今まで緊張のせいで硬直していたのか、急に楽になった気がした。
新しい学校生活がどんなものになるかは全くわからないけれど、少なくともそのときの雨宮は、ここでの生活に期待に胸ふくらませていたのだった。
――がんばろう。
そう、そのときはまだ。
少女は扉を開けた。
――ギギギギギギィ…………。
非常口の扉は不快な音を立てて、外へ向かってその身を投げ出す。外気に直接触れる非常口は、雨や気温の影響によって錆びつきやすい。鉄でできた扉は鉄枠に触れ合って、ギリギリと耳障りなハーモニーを奏でる。
「……」
しかし少女は気にする様子もなく、扉をどけた。室内に閉じ込められていた空気が少女の背後から一斉に飛び出して、空へと消えていく。それにあわせて、少女の髪が風の上で踊っている。
空は濃い夕焼け色をしている。少女がいる非常階段の場所は、校舎の影に遮られて黒ずんだ色をしているが、上空を見上げれば、明るい炎の色とそっくりな輝きを放っている。とても美しい景色だった。
「……」
しかし少女はその景色に見入った様子もなく、夕闇を包む空気のように黙したまま、夕焼けの下を流れる風のように静かに、その歩を進めていく。
――ギィ、ギィ、ギィ、ギィ…………。
少女は非常階段に足を、一歩、また一歩と、乗せる。少女が階段に足を乗せるたびに、小さな振動が音を震わして、空気の中で揺らぎを作る。鉄でできた階段は脆そうに軋んでいる。少女は一定のリズムで階段を下りていく。
一階に到着すると、少女は一階の非常扉に半身だけを出して、足を止める。そのままの恰好で、しばらく建物の中をじっと見つめる。
校舎の中には、何人もの生徒たちの姿があった。学ランを着たまま校舎の中を走り回る男子が一部に見られて、主だった男子生徒や女子生徒は互いの話に夢中になっている。おそらく今は放課後の時間、日が傾くほどの時間になっても、校舎の中にはまだ生徒たちの姿が残っている。
「………………」
校舎の内部の様子を観察した後で、少女は階段を下りるときと同じ足取りで、建物の中へと歩き始める。何人かの生徒がおしゃべりしたり、ふざけあったりしている中を、少女は気にかけることなく通り抜けていく。
下駄箱のある場所までやってくると、少女は一番奥まで入っていき、その中の一つのボックスへ手を伸ばす。下駄箱にはそれぞれ個人を特定するシールが張ってあったが、少女は自分の名前のシールを確認するより先に、下駄箱を開けた。決められた動作のように、下駄箱から靴を取り出し、上履きを下駄箱の中へ仕舞う。柄のない真っ黒な靴に両足を入れると、少女は静かに歩き出す。
建物を出ると、目の前には広々とした校庭が広がっている。校庭の中には黒い制服を身にまとった生徒たちが散らばる。多くの生徒は玄関から校門までを貫き、自然と列が形成されている。
少女はその列に沿うように歩く。列から逸れた隅のところでは、何人かの男子生徒がバスケットボールなどをして走り回っているが、少女の目には周囲の景色と同化していて、彼らの存在など映らない。
少女は校門を抜けた。校門からは大勢の生徒が溢れている。少女はその波に乗って歩く。多くの生徒は連れを伴い、楽しそうに会話をしながら歩いている。少女は誰かと話をする出もなく、関わるでもなく、黙ったまま、人ごみの中を進んでいく。
そのうち、生徒の集団は所々の分岐点で別れ、その数を分散させていく。駅へ向かう者、広い道路へと向かう者、駅とは反対方向に向かう者、それぞれの目的地に向かって帰宅途中の生徒たちは歩いていく。
少女はその流れの一つに流れ込む。生徒の数が少しずつ減っていくが、少女は特に頓着することもなく、変わらない足取りで先へ進む。
少女が進む道の途中で一つのコンビニが目に入る。何人かの生徒がコンビニの周りでたむろしているのが見える。コンビニの中にも制服を着た人の姿が見える。買い物か、立ち読みをすることが主な目的だろう。しかし外でたむろしている生徒たちは何もせずに、ただ店の前で座って互いに話をするだけだった。
「…………」
少女はコンビニの前に存在している生徒たちには目もくれずに、彼女自身の歩行を続ける。少女はコンビニへ向かい、生徒集団の脇を通り、店の中に入っていく。
外からはよく見えなかったが、コンビニの中にいる客のほとんどは制服を身にまとっている学生だった。
「いらっしゃいませ」
レジに立っている店員が明るい声で少女に向かって挨拶をする。
店員の通例的な挨拶に特に反応を示すこともなく、少女は初めから決めていたように雑誌コーナーへと向かう。
そこにはすでに、何人もの生徒たちがお目当ての雑誌を手にとって、立ち読みにふけっている。
少女は生徒たちの間を縫って適当な雑誌を手に取ると、適当なページを開いて、適当な高さに雑誌を掲げる。
「……」
しかし、少女は雑誌を見ようともせず、その視線は窓越しに見える正面の道のほうに向いていた。
コンビニの前にはまだ用のない生徒たちがたむろしている。いや、時間の経過とともにその構成メンバーは変化していき、少なくとも生徒たちの存在が消えることはない。彼らがそこにいる意味はないのだろうが、ただ暇なだけなのか、顔見知りの生徒の姿があったのか、そんな大したことのない理由で彼らは存在しているに過ぎない。
そもそも、コンビニにいる生徒たちにも、深い理由があるわけではいない。たまたま帰宅途中の生徒たちの目に、たまたまコンビニエンスストアが見えただけで、気まぐれで中に入って、そのときの気分で菓子類を購入してみたり、雑誌を立ち読みしてみたり、ついでにその本を買ってみたりするだけにすぎない。
外には生真面目に帰路に向かう生徒たちの姿があった。生徒の列が転々と遠ざかって行く様子が少女の目に映る。道は割と広く、少女から道までは遮るものはなく、外の様子が一望できた。
少女の視線は、道路よりもさらに先にある、一つの建物のほうへと集中していた。
それは古びたアパートだった。
アパートの外装は、今時では見ることの少なくなった、灰色の、コンクリート剥き出しの無機質な壁で覆われていた。几帳面なほどの長方形の箱型をしていて、壁には等間隔に住民用の扉が付いている。
「うわ」
咲希の口から無意識のうちに声が漏れる。
――ボロいな。
そのアパートに対する咲希の第一印象はあまりよいものではなかった。
一昔前に建てられたような旧式の外見に、それ相応の年月を経たであろうくたびれた印象はどうしても拭えない。
「ん?」
咲希の前を歩いていた少年が足を止めた。
「どうかした?」
少年は振り向いて、不思議そうに咲希に訊ねる。どうやら、咲希の声が聞こえてしまったらしい。
咲希は内心驚いたが、それ以上乱した素振りを見せずに、冷静に、静かに、少年の言葉に応えた。
「別に」
咲希は意識的に少年から視線を外す。
「?」
そんな咲希の態度に少年の頭には疑問符が浮かんだが、特に気にした様子もなく、咲希に対して言及の言葉も挙げずに、再び歩き出した。
少年は裏手のほうにある階段を上って行く。咲希も後に続いて階段を上る。階段は金属製で、すでに相当の月日が経過しているせいか、錆びて赤く腫れた金属部分が露出している。階段の足を乗せるところ以外には何も取り付けられていなくて、踏み台と踏み台の間にぽっかりと開いた空間からは真下の地面がそのまま見える。
――ギィ、ギィ、ギィ、ギィ…………。
咲希が階段に足を乗せるたびに、軋んだ金属音が不快な旋律を奏でる。その音が、咲希の鼓膜を不愉快にくすぐる。
少年は二階まで上がると、階段を逸れてそのまま二階のフロアを歩き続ける。一階と同じように、壁には等間隔に扉が貼り付けられている。扉と反対側には落下防止用の鉄柵が備えられているが、鉄柵の隙間からは外の景色がそのまま流れ込み、足を投げ出せばそのまま柵の間を通れるくらいの間隔が開いている。鉄柵の高さも、普通の人の鳩尾よりも少し下の部分ほどの高さしかなく、簡単に飛び越えられそうだ。
少年は、二階の一番奥の扉の前で立ち止まり、ズボンのポケットから鍵を取り出すと、鍵穴の中へ差し込んだ。鍵穴を一度捻って、ドアを開ける。少年が中へ入るのを見て、咲希も扉の取っ手に手をかける。
玄関はそれほど広くはないが、一人暮らしをするのならこれくらいがちょうどいいのだろう。靴が一足、隅のほうで小さく固まっている。
「……」
咲希はその靴を一瞥してから、玄関に足を入れる。
咲希はその靴を避けるように玄関の中へと入り、少年の脱いだ靴と離れる位置で自分の靴を脱いで、少年の住んでいる部屋の中へと上がり込んだ。
咲希は少年の家の中を一望した。
「…………」
細い通路が一本伸びていて、人と人がギリギリすれ違えるくらいの幅があるが、あまり好んで無理に二人同時に通りたくない。通路の横にはキッチンがそのまま置かれていて、狭い廊下の先に少年が立っていた。
少年は通路の咲希にある扉を開けて、咲希が通れるように壁にぴったりとくっついて、扉を支えている。
「とりあえず座ってて、何もないけど」
そう言われた咲希は、通された部屋に腰を下ろす。少年は扉を閉めた。扉越しに物音が聞こえてくる。
「……」
咲希はそのままの姿勢で部屋を一通り眺めてみた。本当に何もない部屋だ、咲希は率直にそう思う。
ポスターや壁掛けの類はもちろん、本棚や机、テレビもテーブルも、ベッドすら、この部屋には存在しない。窓は辛うじてついてはいたが、子供一人が通れるか通れないかくらいの小さなもので、本当に、辛うじてある。こんな生活感の微塵も感じられないところに本当に人が住んでいるのか、咲希は不思議に思う。
「……」
ぼんやりと部屋の中を眺めていた咲希の視線は、扉の近くの押入れで止まった。昔ながらの襖を使った、和風の押入れだった。
――何だろう。
そこになら何かあるかもしれない。
咲希は立ち上がって押入れに近づく。古びた印象はあるが、穴が開いていたり、凹んでいたりするような所は見受けられない。こんな古びたアパートでも、管理のほうはちゃんとしているらしい。
「……」
咲希が襖に手をかけようとする。
――ガチャ。
その一歩手前で、隣の扉が開いた。反射的に咲希の手が止まって、引っ込む。いつもの苦笑がそこにあった。
「ゴメン、何もなかった。途中コンビニで何か買って来れば良かったね」
開いた扉の向こうに、苦笑いを浮かべて、雨宮が立っていた。
「いいよ。別に」
咲希はしれっと言ってから、先ほどの位置に腰を下ろす。雨宮は困ったように笑いながら、中へ入る。
雨宮は扉を閉めて咲希の前に座る。雨宮は苦笑を浮かべて咲希のほうを向いていたが、咲希のほうは横目で睨みつけるように、対する相手を見据えている。
「それじゃ、何から話そうか?」
雨宮の一言に咲希はむっとした。
――なに余裕ぶってるの?
結局、前回は話をし損なった。
二度目の化物の襲撃、咲希は再び雨宮に助けられて何事もなかったが、雨宮のほうはそのために大怪我を負った。
咲希は一刻も早く雨宮から訊き出したいことがあったが、その状態で話をさせるのはさすがに酷に思えて、その日は互いに自宅に戻った。
その次の日、雨宮は学校に来なかった。
化物との戦闘で、体中血だらけになるような大怪我をしたのだから、雨宮が学校を休んでも不自然なことではない。
「ちょっと!」
化物が消えてしまった直後に、雨宮は倒れ込んだ。咲希は若干の躊躇いがあったが、倒れた雨宮のもとへ駆け寄った。
咲希は雨宮から一メートル離れたところで足を止めた。
「…………」
硬直したまま、数秒、咲希は黙って倒れた雨宮の姿を見下ろしていた。
「大丈夫?」
あまりの血の量に足が竦んだということもあるが、もう一つの理由は、雨宮がそのとき、どっちの雨宮なのかわからなかったからだ。
普段学校のときに見るような、大人しい、ひ弱そうな、男の子なのか。
それとも。
さっきまで化物と戦っていたような、口調の荒い、殺気立った、少年なのか。
「………………」
しばらく声が出なかった。雨宮も床に伏したままピクリとも動かない。まるで時が静止してしまったように、静かだった。
「……ねえ」
咲希がもう一度声をかけた。
そのとき、雨宮の体が動いた。咲希は驚いて、反射的に体を後退させた。
「…………」
声が出なかった。
雨宮は静かに体を持ち上げた。上半身だけを持ち上げて、足はまだ床の上に置いたままそれ以上は動かない。
「…………」
雨宮はしばらくの間、黙っていた。その顔は、血の気の失せたように無表情で、その目は精気が抜けたように虚ろだった。
このままでは危険だと咲希は思った。
何か声をかけるべきだと思った。
しかし同時に咲希の本能が告げた。
今、雨宮に関わってはいけない、と。
こいつは危険だ。
こいつは異常だ。
こいつはわからない。
こいつは得体が知れない。
こいつは――。
「大丈夫?」
言ったのは咲希ではなかった。
咲希が視線を落とすと、雨宮は意識を取り戻したのか、咲希のほうへ顔を向けていた。雨宮は気遣わしげに咲希を見ていた。
「怪我とか、ない?」
口から血液を滴らせながら、雨宮は心配そうな目で咲希を見た。
「っ!」
咲希の体中の筋肉が硬直した。
床はもちろん、学ランまで赤黒く染め上げるほどの、大量の血、その血のために、雨宮の顔は赤く塗れて、髪の先まで血の色に汚れていた。気化した血液が醜悪な異臭を放って、咲希の嗅覚を刺激した。
「……………………」
咲希はその異空間に完全な拒絶反応を示していた。
見たくもない光景、嗅ぎたくもない臭い。
「…………」
雨宮の問いかけに、咲希は無意識に頷いていた。それに安堵したのか、雨宮は微笑んだ。
「よかった」
雨宮の口の周りには、幼児がスパゲッティを食べたあとのように、唇よりも紅色をした液体がベッタリと付着していて、その口元から、涎のように、赤い液体が筋を作って、首のところまで垂れていた。
――うっ…………。
咲希の背筋を悪寒が走った。
血まみれの状態で笑われても、気味が悪い。
「…………よっ」
咲希の口がようやく生気を取り戻した。
「よくないよっ!あんた今の自分の状況がわかてるの?」
そう言って、怒鳴りつけた。
あまりにも、変だったから。
――何で雨宮が私のことを気遣うの?
大怪我をしているのは自分なのだから、自分の心配をしていればいいのに。他人の心配なんかしなくていいのに。他人なんて自分とは関係ないのに。
結局。
自分以外はみんな他人なんだから。
咲希は気付いたように声量を落とした。
「…………救急車、呼んだほうがいいよね」
繕ったように落ちついた声で、咲希は言った。
――……何でこうなるの。
雨宮に対して、咲希はいつでも感情的な部分をさらけ出している。あまりにも現実離れしたことばかりが起こっているせいで動揺しているのだろうが、そのせいで子どものように怒鳴ってばかりいる。
――バカみたい。
そんな稚拙な姿を人前に見せるのは恥だ。
「……」
咲希は必死になって高まった自分の気持ちを落ち着けた。無理にでも落ち着けさせようと、意識を集中させた。
「待って!」
直後に雨宮が叫んだ。
雨宮は慌てた様子だった。そしてあまりにも当然大声を出したせいで、しばらく痛そうにむせていた。
少し経って落ちついてから、雨宮は咲希に笑顔を向けた。
「僕は大丈夫だから。これくらいならすぐ治ると思うし」
咲希は冷めた目で雨宮を見下ろした。
「……」
明らかに大丈夫ではない。すぐに治るどころか、全治何ヶ月というレベルの怪我にしか見えない。それを、これくらい、なんて、どう繕っても無理がある。
咲希の冷ややかな沈黙を疑念の目ととったのか、雨宮は慌てた様子で弁解の言葉を並べた。
「本当に、本当に大丈夫だから。薬もちゃんと持ってるし、お医者さんなわけではないけど、使い方だってわかってるし、それに」
そして、次に雨宮が口にした言葉は、咲希にさらなる疑念を抱かせる結果となった。
「僕の体は特別らしいから」
さほど興味なさそうに聞いていた咲希だったが、その言葉を耳にしてしばらく経ってから、ようやく脳が理解をして、反応を示した。
――え?
「特別?」
訊かれた雨宮は慌てたように手を振った。
「あ、いや、それほどすごいってわけじゃないんだけど、うん、ちょっとだけ、ちょっとだけだよ、そんな大したことないよ、全然だよ、僕なんて、全然大したことないから、今もこんなボロボロだし」
必死に言い繕うとしているのが明らかだった。
「…………」
咲希はあからさまに懐疑の眼差しを雨宮にぶつけた。それを受けて雨宮は弁解を止めた。完全に何も言えなくなってしまった。
「……………………」
雨宮は押し黙って、表情を沈めた。
咲希は溜め息を吐いた。
「わかった」
これ以上不毛な会話を続けていても仕様がない。雨宮も怪我をしているし、話をすることもできないだろう。
「そういうことにしておく」
それを聞いて雨宮も安堵したようだ。この発言で本気で咲希が納得したと思ったのなら、それは幸福なことだ。
「そのかわり」
咲希は話を続けた。
「今度はちゃんと話してもらうから」
咲希は冷めた目で雨宮を見下ろした。
その言葉に雨宮は硬直した。安堵の表情は歪に固まって、笑顔だった口元は<span
>僅かに引きつった。
「………………うん」
大分間を置いてから、雨宮は頷いた。
金曜日である今日になって雨宮は学校に登校してきた。
雨宮は朝のホームルームが始まるギリギリまで姿を現さなかった。昨日休んだこともあり、クラスの多くの生徒たちは雨宮が来るのか、それともまた休みになるのか、心配そうに話していた。
何の前触れもなく、転校してきたばかりの雨宮が学校を休んだので、クラス全体として気にかけている様子だった。
咲希はそんな周囲の様子が疑問だった。
咲希は朝一番に登校してくるから、生徒たちの会話は最初から全て聞くことができる。ホームルーム開始のチャイムが鳴る数分前になっても雨宮の机が空のままだと、周囲の雨宮に対する関心がより強くなっていくのを咲希は感じた。
そんな周りの様子が咲希には理解できなかった。
――一日二日学校を休むことの、どこにそんなに驚く要素があるの?
咲希のように、雨宮の怪我のことを知っていれば大騒ぎになっても何の不思議もないけれど、クラスの人間は、いや、咲希以外の人間が今の雨宮の容態を知るわけもない。
家の用事とか、具合が悪いとか、いろいろな憶測が飛び交って、必死に話し込んでる集団もあった。
――そんなに気になるの?
誰かが、「具合が悪くて一人で寝込んでるかも」などと言った瞬間は、教室の中の音がよりいっそう大きくなって、咲希の耳に不快に響いた。
雨宮が一人暮らしをしているという情報は、このクラスの人間のほとんどが知っていることだが、騒々しくなるだけの会話に咲希は苛立ちすら感じていた。
――どうだっていいじゃん。あんな奴。
咲希のイライラの矛先が少しずつ雨宮のほうに向いていく。
そのときの咲希は、学校が終わったら、雨宮の家に直接乗り込むことも考えていたが、転校したばかりの雨宮の住んでいる場所を知るはずもなく、電話番号も知らないので、連絡も取れなくて、仕様がなく、雨宮宅への押し入りは即座に断念した。
ホームルーム開始のチャイムが鳴ってしばらくしたところで、雨宮は教室に入ってきた。そのときの周囲の反応も、咲希の神経をひどく抉った。
休み時間のたびに雨宮の席の周りを何人もの生徒たちが囲んで、安否の声をかけていたが、そこに集まった生徒たちの空気から、雨宮には特に変わったところもなくて、みんなが安堵しているのがわかった。
しかし咲希には不思議でならなかった。
――怪我が、ない。
血だらけの大怪我を負っていたはずの雨宮が、包帯も、松葉杖もなく、本当にいつもと変わらない、健全な状態でそこにいることは、咲希には納得できなかった。
咲希が人数の減る四限の授業終了直後の昼休みに雨宮の席へ行ったら、今度はあっけなく承諾を貰った。ただし、今度は雨宮の家に来ることを求められた。その理由は、再び化物の襲撃を受けるかもしれないということ。
咲希が返答を渋っていると、「僕の家なら安全だから」と言われ、納得しかねても、納得しなければならない気がして、咲希は頷いた。
そして、学校も終わり、咲希は雨宮の家に招かれた。真奈の話から一人暮らしと聞いていたが、男子の一人暮らしとなれば部屋は荒れ放題、準備をする時間はあったから見えるところだけきれいにして、見えないところでは、と思っていたが、予想が外れ、きれい過ぎる雨宮の部屋に咲希はいっそうの不信感を募らせる。
咲希は棘のある口調を雨宮にぶつけた。
「あの化物は何なのか、そしてあんたは何者なのかってこと」
「……ストレートな人だね」
雨宮は苦笑交じりに言ったが、咲希はそれに対して無反応で、何も言わず、ただじっと雨宮を睨んでいた。
静かに、視線だけをぶつけてくる咲希に、雨宮は笑うのを止め、困ったような顔だけを残した後で、口を開いた。
「これから話すことは、僕が教わったとおりのことをそのまま話すから、だから、そういうものだと思って納得してほしい。もちろん疑問に思うことがあったら何でも訊いていいけれど、僕にもわからなくて、答えられないことがあると思うから、そのときは我慢してほしいな」
雨宮は何とか笑顔を作ろうとする。
それに対して、咲希の顔がさらに歪んでいく。
「何それ?」
雨宮の困惑した声が聞こえる。
「だって、上嶋さんは、幽霊を否定するような人なんだもの。だから、その………………、信じてもらえるかどうか」
つっかえながら言う雨宮は、どことなく不安そうな表情をしている。
だが咲希の答えは明瞭だった。
「否定しているわけじゃなくて、信じていないだけ。あんたの言うことは、とりあえず、信じとく」
「…………」
それを聞いた雨宮の口から溜息が漏れる。咲希は雨宮の一挙一動を逃すまいと、じっと雨宮を睨みつけたままだった。
咲希は、最初から雨宮の言うことなど信じるつもりはない。しかし、ここ最近の咲希の身の周りで起こっていることは、あまりにも常識から逸脱している。咲希は少しでも真実に近い情報が欲しかった。
雨宮海斗は咲希を助けてくれた。化物を倒す方法を知っていると言った。そして実際に化物を倒した。
――何か知っている。
そして、それは本当は咲希に知られたくないこと。最初に咲希が雨宮を呼び止めたとき、雨宮が口籠ったことからそう考えられる。だから、雨宮が咲希に真実を話すつもりはないだろうと推測できる。
とはいっても、嘘八百を並べるわけにはいかないだろう。雨宮がこれから語る、近似的真実に少しでも真実をえていくしかない。
一度だけではなく二度までも、雨宮は咲希に化物との戦闘の様子を目撃されている。雨宮は人の良さそうな感じだから、もしかしたら全てを話してくれるかもしれないが、そう思われるであろうことを逆手にとられて話の核となる部分をはぐらかされては困るので、咲希は雨宮を監視する。
雨宮はもう一言だけ、言葉を付け足す。
「あと、このことは他の人には内緒に……」
「わかったから早く答えて」
雨宮の肩が僅かに下がる。咲希は雨宮への視線を外さない。
雨宮は心の中で溜息をついてから説明を始める。
「この世界には、心と体の世界があるんだ。互いの世界はお互いに不可侵で、本来は心の住人も、体の住人も、相手の世界に行くことはできない。でも稀に――と言っても、世界的に見るとすごい数らしいんだけど――心の世界の住人が体の世界に出てきてしまうことがあるんだ。それが、上嶋さんが言っている化物のことで、僕たちはそれを『フラスト』って呼んでいる。欲求不満からきているらしいけどね」
「ちょっと待って」
最初は黙って聞いているつもりだったが、話の途中で咲希は雨宮の前に手を出して遮った。雨宮は驚いたように言葉を飲み込んだ。
「心の世界なんて、本気で言っているの?」
咲希は強い口調で言った。その顔は真剣そのものだった。
――信じられるわけないじゃない。
咲希は迷信の類を信じていない。
幽霊やポルターガイスト、超能力に未確認飛行物体、生まれ変わりや予言、現代社会に溢れている怪奇現象と呼ばれているもの、科学では未だ解明されていないなどと大仰に叫ばれているもの、そんなありえないものたちのことを咲希は信じていない。
――バカじゃないの。
咲希は迷信の類を信じない。
そんなものは所詮、現実に浸りきった人間たちのくだらない娯楽にすぎない。異質な存在を想像することで、謎に包まれた現象を思い描くことで、平凡な現実から解放されようとしている、平坦な日常にスリルを求めている。
――くだらない。
ただそれだけのことだ。
だからそんなものは存在しない。そんな話は信じない。そんなことを言っている奴らなんて認めない。
――誰がそんなこと信じると思ってるの。
咲希には信じられない。雨宮の言っていることなんて。
咲希は認めない。心の世界なんて。
――心の住人なんて。
だったら、あれは何?
「…………」
咲希のもう一つの心が問う。
だったら、咲希自身が見たものは何?
咲希は答えられなかった。
だったら、咲希自身が聞いたものは何?
咲希にはわからなかった。
「………………」
結局、今の咲希には何もない。何もわかっていない。だからここに来たはずだった。雨宮の話を聞くために、ここに来たのだ。
咲希に怒鳴るように言われた雨宮は、驚いた様子で、一瞬口を止めたが、すぐに表情を和らげる。
「だからそういうものだと理解して」
雨宮は笑って言った。
咲希は雨宮の顔をまじまじと見て、それから、手を引っ込めて押し黙る。なんだか自分が子莫迦にされているようで、みっともない。
――何やってるんだろう。
咲希は自分の軽率な行動を呪った。
雨宮の言葉は続く。
「ストレスをためすぎちゃったことからから重い病気になっちゃったりする、って聞いたことない?あるいは、苛々していて周りに対する意識が薄れているときなんかに思いもかけない事故にあうとか?その原因にフラストが関係しているっていうふうに僕らの組織は考えているらしいんだ」
組織って、と咲希は思ったが、先ほどのように子莫迦にされたくはなかったので、話が終わるのを待つことにした。
だが、どうやら顔に書いてあったようだ。雨宮は複雑そうな表情をする。
「組織って言ったけど、僕は組織についてあまり知らないんだ。どれくらいの大きさなのか、全部で何人いるのか、とかね。主たる目的はフラスト撃退と、その被害の軽減、って言ってたかな。組織の存在については、基本的に秘密にされていて、だから僕が話せるのもここまでなんだ。フラストのことが一般の人たちにバレたら、みんなを混乱させるだけだからね。だからこのことは、みんなには内緒だよ」
念を押すように、雨宮は咲希に笑いかける。
自分が小さな子ども扱いされている気分だったが、咲希はここでは頷くだけにとどめた。気が重くなるような表情をしている咲希に対して、雨宮も笑みを浮かべて頷く。
「組織の中でも、僕みたいに直接フラストと戦えて、フラストの被害を食い止めるグループのことを『MASKS』って呼んでいるんだ。だから、僕はMASKSの一人、っていうことになる」
雨宮はそこまで言うと、咲希のほうを柔らかな表情で見つめた。咲希は相変わらずの膨れっ面を向けている。
確かに雨宮は、咲希の質問に対して、正確に答えた。しかし、それは咲希には納得しかねる内容だった。
最初から雨宮の言葉を信じるつもりなどなかった。だが、雨宮の語ったことはあまりにも常識を逸脱する内容だった。信じる信じないという程度の話ではない。
――バカにしているの?
それなのにそれを語った当の本人には余裕があるように見え、嘘を語っているとは咲希には思えない。
――それとも、本気?
そもそも、この気の良さそうな男子が嘘をつけるとは、咲希は思っていなかった。咄嗟の言い訳も浮かばなさそうな、小さな子ども。仮に嘘を言うにしても、もう少し常識を加味した内容を想像していた。
それが、ここまで空想的な嘘を語るなんて、体だけではなく、頭までも幼いのか。あるいは、こんな嘘を言っても平然としていられるほどのやり手なのか。咲希には雨宮海斗の底が知れなかった。
「他に質問は?」
雨宮は苦笑を浮かべて言ったが、咲希にはその言いようが子莫迦にされているようにしか思えなくて、無性に腹立たしかった。こんな子どもみたいな奴にいいようにされるのは癪だったが、咲希には雨宮を言いくるめるような言葉が浮かばない。
「……じゃあ」
だが、このまま黙って終わるのはどうしようもなく自分が惨めなので、ありのままを言うしかなかった。
「その、フラストは、何で体の世界に現れるわけ?」
ああ、と言って雨宮は答えた。
「心の世界は体の世界と比べるととても小さいんだ。体の世界が宇宙と同じ大きさだとして、心の世界は生き物一つ分の容量しかないから、心の中に収まらないくらいの感情が蓄積された場合、一部の心が体の世界に漏れだして、心全体がパンクしないようにするんだ。少しの量なら心の一部は体の世界に対してあまり影響力はないんだけど、そのエネルギーが大きくなるとフラストになって体の世界に害をなすようになるんだ」
「心と体は互いに不可侵じゃなかったの?」
咲希は睨みつけたまま言ってみた。
こんな些細なことを咲希自身が心底気にかけているわけではないのだが、黙って素通りするのは、何となく嫌だった。ちょっとだけ、難癖を付けたかった。
雨宮は相変わらず苦笑するだけで、あまり意味がなかった。
「僕もそう思ったんだけど、僕に教えてくれた人がそう言うから、そう言ったまでなんだけど」
「その人は誰?」
「組織の偉い人、としか言えない」
暖簾に腕押しとはこのことを言うんだ、と咲希は思った。
雨宮の表情はさっきから少しも変わったところがなく、困った様子であるということしかわからない。
一体どれほど追い詰められているのか、どこまで真剣に困っているのか、本当に焦っているのか、そこらへんの雨宮の心境は咲希にはわからない。咲希には雨宮のこの表情が自然体によるものなのか、それとも芝居をしているのか、判別がつかない。なんだか考えるだけ無駄な気もしてきた。
咲希が思考をまとめられない間も、雨宮は言葉を続ける。
「流れ出る程度の小さなものなら問題はない。全く無害というわけではないけれど、そんな小さなものまで処理することは今の僕らにもできないし、仮にできるようになっても処理されないと思うよ。問題はフラストくらいの大きい奴、というよりもフラストかな。間接的な影響、二次影響として人間の精神を乱したり、肉眼では捉えられないくせに、大きくなると直接体の世界に影響を及ぼしてくるから、かなり厄介なんだ」
咲希は雨宮の表情ばかりに注意が向いていて、話のほうは軽い気持ちで聞いていたのだが、その言葉が脳の中に引っかかった。
――肉眼では捉えられない。
そんなはずはないと、咲希の頭が反論を唱える。
咲希は見た。化物の姿を。
フラストという、化物の姿を。
咲希の口から困惑を含む声が漏れた。
「え?ええ?」
その様子を見て雨宮は小さく笑った。
「普通の人にはフラストの姿は見えないし、声も聞こえない。もちろん触ることも。特別な場合を除いてね。たぶん上嶋さんは声まで聞こえていたよね、耳を塞いでいたから。最初の場合は、上嶋さんに振られたショックでフラストが溢れてきちゃったようだから、フラストを抱えていた相手にとって、上嶋さんが近い存在。次の場合は、上嶋さんがあの建物によく行っていたようだったから、上嶋さんにとって近い存在。もう一つ、フラストが現れた理由を挙げるとすると、MASKSである僕が近くにいたからだろうね、きっと」
雨宮は微笑って言ったが、咲希の顔は相変わらず曇っている。
咲希はその時の様子を思い返した。
フラストという化物の咆哮、その強烈な高周波、あの大音量。
もしも普通の人間にあの音が聞こえていたら、騒ぎにならないはずがない。生徒たちの間で話題になるのが普通だ。学校でその話題が上らなかったのは、普通の人には聞こえなかったからだ、と理解できる。
フラストが心の住人、つまり人の心から現れたものであるなら、咲希が見た二体のフラストは、どちらも誰かの心から溢れ出たということになる。
学校の駐輪場で咲希を襲ってきたフラストは、咲希に告白して、すぐ咲希に振られた男子生徒の心だったのだろうか。そして、幽霊が出ると噂されているビルに現れたフラストは、そこで自殺したという社長の心ということなのか。
それに、フラストが消える瞬間に咲希の耳に聞こえたもの、あれはもしかしたら、フラストの、フラストを抱えていた人間の心の声だったのではないだろうか。
――好きなだけなのに。
最初に咲希に告白してきた男子は、咲希に好意を抱いていた。だからこそ、人目のつかないところに咲希を呼び出して、その思いを告白したのだ。
しかし、咲希は断った。残酷なまでに。
咲希に振られたショックで、その男子の心にストレスが生まれて、それが男子の心の限界を超えて、フラストを溢れさせてしまった。
その男子は、本当に、咲希のことを好いていてくれたのだ。その男子が一体どこの誰なのか、今の咲希にはわからないが、一ヶ月と少ししか学校に行っていない咲希に対して、特別な感情を持って、咲希だけを見ていてくれたのだ。
それなのに、咲希はその気持ちを知らないで、理解しようともしないで、思いやりすらかけずに、拒絶した。
――あんたが嫌いなの。
咲希にとって、その男子は好きでも嫌いでもなかった。
今まで咲希はその男子のことを気にかけたことはなかったし、存在すら知らなかった。告白された日が全くの初対面だと言っていい。
だから咲希はその男子のことを知らない。初対面のときも興味がなかった。告白されたときなど、咲希はうっとうしいと感じた。
他人から告白を受ければ、多くの人間は普通喜ぶだろう。その感情を露わにしなくても、気恥ずかしさを覚えたとしても、嫌な気はしないだろう。
しかし、咲希は明らかな嫌悪を抱いた。
――キモイ。
――吐き気がする。
――腐ってる。
咲希が発した言葉にはどれも強い憎悪を感じる。
咲希は極端なほど人を嫌っている。
誰か、特に嫌っている人がいるわけではない。学校の教師や、塾の講師、クラスの中でも好かない人とか、咲希の性格に合わない人もいないわけではないが、友達うちで悪口にするような、他人が口にするほど、嫌っている人は咲希の中にいない。
人という存在が嫌なのだ。
満員電車の中や人混みの中にいるとイライラしてくるのと同じ、人の近くにいることが咲希は嫌いなのだ。それが他の人とは違って、過敏に反応してしまう。自分の近くに一人でも他人を認識すると、途端に居心地が悪くなる。
いや、むしろ孤独を愛しているといったほうが適切だろうか。
――俺の居場所。
幽霊ビルに現れた、おそらく、そこで自殺したという社長の心である、フラストが、最期に発した言葉。最後に、咲希の頭の中に聞こえた言葉。
それは咲希にも通ずるところがある。
――居場所。
咲希は居場所が欲しかった。自分の気の許せる場所。何者にも束縛されることのない自由な空間。
咲希にとって学校は、気の許せる場所ではない。塾も、当然違う。自分の家ですら、自由と呼ぶには程遠い。
いつも仮面を被っている。
この世界から溢れないために、社会から異端視されないために、自分の素顔を見せないように、汚い自己の本性を隠すために、飾り立てられた、重厚な、作り物の仮面を被っていなければならない。
咲希自身の、他人を疎む気持ち、他人を嫌う気持ち、他人を敵視する気持ち、そんな醜い感情は社会に知られてはならない。
決して見せてはいけない、己の醜さを。決して知られてはいけない、己の浅ましさを。決して悟らせてはいけない、己の卑しさを。
だから咲希は仮面を被り続ける。
しかし咲希は仮面を被り続けることができなかった。
息苦しかった。耐え切れなかった。
自分を隠すということは、自分を否定し続けなければならなくて、けれど自分を消し去ることはできなくて、だから自分は常に傍にいて離れようとしない。
表で自分を否認しているのに、裏で自分に頼っている。
その矛盾を心から嫌っていて、そのジレンマに胸が潰されそうになる。
だから咲希は休息の場所が欲しかった。ありのままの自分を曝け出しても誰にも咎められない、自分だけの居場所。
そして咲希は見つけた、自分だけの居場所を。それが幽霊が出ると噂されている、空きビルのことだ。
そこはかなり前から誰も使っていなかったらしい。その間、幾つかの個人企業がビルを使っていたこともあったらしいが、何故かみんなすぐにそのビルから出て行ったという話だ。
こんなことが長い間続いていれば、好奇心のある若い人たちの間では、幽霊が出没するビルとしてささやかな噂話になっても不思議ではない。
それが、本当であろうと嘘であろうと、幽霊の存在を信じていようとそうでなかろうと、そういった怪奇現象系の話は若者の間では嬉々として語られる。
格式張った社会に慣れ切れていない、凡庸な日常に飽きている若い精神は、普通では味わうことのできないスリルを求める傾向がある。
その噂のせいなのか、その空きビル周辺は人通りが少なく、咲希が今までビルの中に入ったときに、誰かに会うことは一度もなかった。鍵がかけられていないという杜撰な管理状態で、近くに住んでいる子どもぐらいは中に入ってきても良さそうなものだが、一人でビルの中にいた咲希の耳に入ってくるのはビルの前の道路を通り過ぎていく車のエンジン音ぐらいだった。
――みんなバカだよね。
幽霊を信じていない咲希には幽霊の恐ろしさなどわからない。実際に見たこともないものに恐怖を抱くのは余計な行為にすぎない。
――一人でいるの、怖くない?
むしろ理解しているのは、人という存在、他人はいるだけで自分に害をなす存在であると咲希は認識している。
故に、独りは恐怖ではない。独りを欲している。
だからこそ求めた、独りだけの居場所を。
そして、誰も寄りつかない幽霊ビルを咲希の居場所にした。
嫌なことを嫌と言える。気に入らないことに文句を付けられる。この世を否定することも、人を拒否することもできた。
咲希の居場所。
そこが彼だけの居場所だとも知らずに。
咲希は侵したのだ、彼の居場所を。そこで自殺したという社長の世界を。だから彼の心は咲希に向かって牙を剥いたのだ。
――私のせい?
咲希の頭の中にゆっくりと自責の念が漂い始めた。
「……………………」
雨宮は、咲希が黙り込んだまま俯いているのを不思議そうに見ていた。
咲希の視線は明らかに下がり、さっきまでの鋭い眼光も感じられない。どことなく沈んだ印象を雨宮は感じ取った。
――どうしたんだろう。
雨宮は心の中で首を傾げる。
だが、雨宮はあることに気付いた。
今の雨宮の説明の仕方では、フラストが現れたのは咲希が関係していたということにならないか。咲希のせいで心にストレスを与えて、そのためにフラストが現れてしまったということになりはしないか。
咲希が自分のせいでフラストが現れたと思って、そのことを咲希は考えているのではないだろうか。
「あっ……、と…………」
雨宮は慌てて言葉を捜した。
「で……でも、別に上嶋さんのせいでフラストが現れたわけじゃないと思うよ。フラストについてはわからないことだらけなんだし…………」
言ってみたものの、咲希の様子は少しも変わらない。雨宮の言葉に対して反応している素振りも見せない。
雨宮は何とか咲希の気持ちを和らげようと、必死の思いで言葉を探す。
「………………」
しかし雨宮はそれ以上の言葉が浮かばなかった。
――どうしよう。
今言ったことは慰めになっていただろうか。逆効果にだけはなって欲しくないと、雨宮は強く思う。
そもそも雨宮は人と話しをするのが苦手だ。
人と向き合うとどうしても緊張してしまう。咄嗟に話しかけられても上手い返しが思いつかない。
だから学校にいるときも、せっかくみんなが話しかけてくれるのに、自分がちゃんと会話に参加できているのか不安になる。自分の言っている言葉がちゃんと会話をつなげているのか心配になる。
雨宮のできることといったら、相槌と笑顔、これが精一杯だ。それでも学校のみんなは、こんなことしかできない雨宮のことを、笑顔で慕ってくれる。それは何もできない雨宮にとって、大きな救いだ。
みんなと一緒にいるのは楽しい。
一緒にいてくれる人のために恩返しがしたくて、雨宮は今MASKSにいる。最初の理由は違うけれども、今はみんなの役に立ちたいと思っている。
今、目の前に困っている人がいる。助けてあげたい。
――どうすればいいんだろう。
でも、咲希はいつも怖い表情をしている。
今こうやって向き合っているときも、学校で話をするときも、雨宮に向ける咲希の顔はいつでも重くて、暗くて、怖い。
雨宮の話している内容が咲希の役に立てていないのか、それとも話そのものを信じてもらえていないのか。
――僕が。
もしかしたら、雨宮が咲希をMASKS側の世界に巻き込んでしまったのかもしれない。いや、きっと巻き込んでしまったんだ。
――僕のせいで。
巻き込まない方法があっただろうか。きっとあったのだ。雨宮自身が未熟なために、巻き込んでしまった。
――僕がもっと早くフラストの気配を感じ取っていれば。
――僕が初めから仮面を外してからフラストのところに行っていれば。
――僕がフラスト退治を優先していれば。
雨宮がへまさえしなければ、咲希は今頃、大勢の人に支えられて、すぐに普段の生活に戻れたはずだ。
しかし、雨宮には咲希を支えることはできない。そんな力も、技術も、雨宮は持ち合わせていない。
――そんな自信、ない。
全てを知ってもらい、納得してもらった上で、フラストの恐怖を知らない、現実の世界に帰すのか、それとも全てをなかったことにするのか。
――組織は何て言ってくるかな。
雨宮も同じように俯いていると、咲希は突然顔を上げた。
「別に私のせいだなんて思ってないわよ。私は被害者なの、わかる?」
咲希は不服そうに眉を寄せる。
雨宮は一瞬身を引いたが、曖昧に笑ってみせた。咲希は目を細め、さも不機嫌そうな顔をして、強い口調でさらに続ける。
「話すって言っといて、あの化物についてわからないことがあるはないでしょ。それじゃ、これからも化物が私の周りに現れるかどうかとかはわからないわけ?」
「あ、それは…………」
雨宮は返答に困った。とても居心地が悪い。
目を逸らしたい衝動に駆られたが、咲希はまっすぐ雨宮を睨みつけ、雨宮はそのまま動けなかった。
「……うん」
ようやくそれだけ言ったが、咲希はよりいっそう不服そうな顔をする。
「そんなんじゃ、ちっとも役に立たないじゃないの」
咲希はもう雨宮のほうを見ていない。しかし、雨宮はなおも睨まれているような気がして、安心できなかった。
――僕がしばらく一緒にいようか?
開きかけた口を、雨宮は強く閉じた。
雨宮がいつも咲希の傍にいれば、何かあったときでもすぐに咲希を守ることができる。フラストに対する恐怖も、幾ばくか拭えるかもしれない。
雨宮は心の中で首を振る。
――無理に決まってる。
それはできない。
今こうして話をすることも、本来は許されていない。フラストの存在はもちろん、組織のこと、MASKSのことも口外厳禁。
全ては世間の知らないところで、というのが組織の方針だ。
ここまで禁を犯しておきながら、特定の人を護衛するなんてことは不可能だ。組織のほうでも、見逃してはくれないだろう。
そもそも、雨宮は以前にこれらの秘密が公になりかけた。そのためにこの高校へ転校させられた。
――つまり左遷。
その後、前まで雨宮が通っていた学校、すなわち北海道にあった学校がどうなったのか、雨宮は知らない。
――全ては世間の知らないところで。
組織の方針上、フラストの存在、MASKSの存在が知られかけた、今後知られる可能性のあるところをそのままにしておくはずはない。
組織のほうで、何らかの方法をとっているはずだ、ということは何も聞かされていない雨宮も理解している。
――隠蔽工作。
その方法が何かまでは、対フラスト部隊、MASKSに所属している雨宮の知りうるところではないが、雨宮は今でも自分のそこでの失態に責任を感じている。
ここでまた失態が続けば、組織のほうからどんな処分が下されるかわからない。だからこそ、今度はミスのないようにと気を引き締めてやって来たのだが、転校初日からこの失態。雨宮にはもう後がない。
「そもそも」
追い打ちをかけるように、咲希の言葉が続く。
「MASKS、って何?」
「えっ、だから…………」
雨宮の言葉はすぐには繋がらなかった。咲希は不満そうな目で睨みつけてくる。雨宮はビクビクしながら言葉を選ぶ。
「…………」
ようやく見つかった言葉は、先程の繰り返しだった。
「直接フラストと戦えるグループ」
「そんなのさっきと全く同じことでしょ」
咲希は不服そうに口元を尖らせる。
「何で生身の人間で化物と戦えるのか、ってこと」
「あ、うーん…………」
咲希に睨まれて、雨宮の口がうまく機能しない。
それを見て、咲希は苛立たしげに溜め息を吐く。
「雨宮くん言ってたよね、自分の体は特別だって。それと関係しているの?あと、持っていた銃。あれも化物と戦うために特別なことがされているの?」
咲希はすらすらとそこまで言い切った。雨宮に何かを言う余地はなかったし、雨宮には何も言えなかった。
「こういうことを説明すればいいでしょう」
少し間を置いてから、雨宮が口を開く。
「あ、そうだね」
咲希の口から低い溜め息が漏れる。
咲希の苛立った空気を感じたのか、雨宮は少し緊張した面持ちで説明を始める。
「フラストは心の世界の住人だから、体の世界に溢れても心の要素が強いんだ。だから、フラストと戦うためには、心の世界の一部を開放して相手をしたほうが効率がいい。MASKSは心の世界を解放できるよう訓練されていて、だから心の住人であるフラストも見えるんだ。僕の銃は心から解放したエネルギーを攻撃に変換するためのもの。あの銃は僕専用だけどね。他のMASKSには使えない。人によって個性があって、武器の形体もいろいろと変化するらしいんだけど」
「じゃあ、あの銃には弾切れがないの?」
雨宮は小さく唸る。
「うーん…………。弾切れは、ないってことはないんだけど。僕の心のエネルギーが空になるまで、ほぼ無制限なのかな。リロードする手間もないし、重い銃弾を持ち歩く必要もないから、MASKSはそれだけでもすごいんだって」
「一日であの怪我が治るのも?」
うん、と言って雨宮は頷く。
「心の力と体の力の両方をあわせて使えるから、それだけ運動能力や判断力も上がるし、傷の手当ても、ちょっとした応用ですぐに治るんだって。治療に関しては組織から配布される薬を使っているから、詳しいことはわからないけど」
ふーん、と言いながら、咲希は変わらぬ視線を雨宮へと送り続ける。
雨宮は気まずそうに笑う。
「まー、偉そうに言っているけど、仮面を外しているとき限定なんだけどね」
「やっぱり見間違えじゃなかったんだ」
咲希の言葉に雨宮は首を傾げたが、咲希は相変わらず鋭い視線を送っている。
「あの派手なお面。化物を相手にするときはいつも見えていたし、そのときになると態度変わるし」
雨宮は苦笑する。
「あの仮面が心と体の架け橋になっているのかな。仮面を外すことで心が解放されて、そのせいで人が変わったように見えるみたいだね」
咲希は怪訝そうな目で雨宮を見る。
「外す?」
雨宮か頷く。
「あの仮面は心の世界の一部で、だから普段は見えないんだけど、フラストと戦うときは心の中にある仮面を外す。仮面を外して、心の力を使ってフラストを倒す。それができるのが、僕らMASKSだけなんだ」
ふーん、と適当な反応を示すだけの咲希の目は、相変わらず冷え切っている。
思いつくことを言い終えた雨宮は、ただ黙って次の咲希の言葉を待つだけだった。
「いらっしゃいませ」
レジに立つ店員が明るい挨拶をする。
雨宮は店員を目にすると軽く会釈をする。店員のほうも、自動ドアを越えて店の中に入ってきたのが雨宮だったと認めると、親しげに微笑みかける。
雨宮は家から近くにあるコンビニに夕飯を買いに来ていた。
雨宮の家には包丁や俎板、フライパンやなべなど、調理用品といったものは何もない。調味料なるものももちろんない。それどころか、冷蔵庫すら設置されていない。だから雨宮にとって、二十四時間営業のコンビニが冷蔵庫代わりのようなものだ。
夕飯のメニューはその日の気分で適当に選ぶため、今日も目に付いた料理を手に取り、ついでに紙パックのジュースも掴んでレジに持って行った。
「いつもありがとうね」
レジのおばさんが笑って言うので、雨宮も笑って答えた。
レジを売っている店員の胸の位置にある名札には「斉藤」と書かれている。雨宮はレジの前にお金を出して、斉藤は黙ってお弁当を電子レンジに入れてスタートボタンを押し、ストローを出してくれた。
「たまには野菜も摂らないと大きくならないわよ」
斉藤の言葉に雨宮は曖昧に頷きながらレシートと小銭を受け取った。
毎日コンビニに勤めている人が同じではないが、この斉藤という人は週の半分くらいはレジをやっている。
雨宮が毎日このコンビニを使うので、時間のあるときはよく話をした。今のような夜遅くの時間帯になると、斉藤一人がレジに立っているだけで、他の店員が全く店に立たないことがほとんどなので、こういうときには、雨宮は周りを気にすることなく斉藤と話をすることができる。
最初に話しかけてきたのは斉藤のほうで、朝、雨宮が松風高校に初めて登校する日のことだった。制服を着ていたので「僕、どこの中学校?」と訊かれ、慌てて「高校生です」と雨宮が答えたときには本当に驚いているふうだった。
雨宮は普段から、実際の年齢よりも低い、子どもに間違われる。ほとんどが小学生くらいに見られる。直接口にはしない人もいるが、そういった人たちもおそらくは雨宮のことを小学生だと勘違いしていたのだろう。
雨宮も、自分が年の割には背が低いことを自覚していたが、そのことで雨宮が困ったことは一度もなかった。小さく見られることを嫌だと思ったこともない。
むしろそれがきっかけで人と話ができることを喜んだ。誰かと関わり合いが持てることは、雨宮にとって幸せなことなのだ。
「今日は遅かったわね」
声をかけられて、雨宮は斉藤の顔を見た。
「ええ」
雨宮はそれだけを返した。
雨宮が買った夕食が温まるまで、いつもこうして二人で話をする。話といっても、斉藤が一方的に喋りかけてくるだけで、相手となる雨宮は頷くぐらいの反応を示すだけ、雨宮ができる精一杯のことをするだけで、他人が見ていたら、会話が成立しているかどうかなんて怪しいものだ。
「部活に入ったの?」
雨宮は手を振った。
「あ、いえ」
斉藤は眉を寄せる。
「どこかに入ったほうがいいわよ。高校生活なんて、今しかないんだから。今のうちに楽しんだ者勝ちよ。勉強で忙しいかもしれないけれど、やっぱり部活っていいわよ。楽しいし、勉強疲れのいい息抜きにもなるし、あなたは転校してきたばかりで学校のことなんてまだよくわからないでしょ?興味を持って部活に入って、仲間を作れば、きっともっと学校へ行くのが楽しくなるんだから」
一方的に斉藤は喋り抜いた。
「はー……」
雨宮は斉藤の勢いに押されて、息をつくように曖昧に頷く。
こんな無茶苦茶な会話だけれど、斉藤しか喋っていないようにしか見えないけれど、雨宮はそれでも良かった。
力を分けてもらっている感じがする。押され気味な感じもするけれど、雨宮はこの空気を嫌だとは思わない。
電子レンジが終了のベルを鳴らした。その音を聞き取って、斉藤は雨宮に背を向けて後ろの電子レンジへ手を伸ばす。
「あ、そうそう」
電子レンジから温まったお弁当を出しながら斉藤が言った。
「あなたが来る少し前まで女の子が一人いたわよ」
今、コンビニ内には雨宮と斉藤の二人しかいない。この時間は客の数が急に減り、こうして雨宮と店員の二人だけになることはよくあった。
だが決して、他に客が全く来ないわけではない。以前に斉藤と話をしていたときに、雨宮が訊きもしないのに斉藤が勝手に話していたので、雨宮もそのことは把握している。雨宮は斉藤の真意を測りかねて、黙ったまま続きを聞いた。
「今日初めて見る子だったわ。あなたと同じ高校の、きっと一年生ね。六時くらいからずっと雑誌のところにいたわよ。本も替えずにね」
「どんな人ですか?」
やはり斉藤の発言の真意が掴めずに、雨宮は訊ねた。
斉藤は楽しそうな顔をしてその女の子の容姿を思い出していた。
「長い髪の子で、縛ってはいなかったわ。すごくきれいな白い肌をしていて、今時では珍しい、清楚な感じの、目のぱっちりしたかわいい子よ。他の学校の子たちが帰っても、一人だけ残って、ずっと同じ本を見てたの」
雨宮は黙って聞いている。
「ずっとよ、ずっと。一時間以上も同じ本ばかり読んでてね。さすがに変じゃない?ちょっと気になったから、その子のことしばらく見ていたの。そうしたら、ずっと同じページしか見ていなかったの。ずっとよ、ずっと。あれはきっと、最初から同じページしか開いていなかったわね」
斉藤は多少熱を入れて語っている。
「おばさん思うに」
斉藤は一人で話を進めていく。
「あれは誰かを待っていたのね」
あまりにも支離滅裂な話の内容に、普通の人間ならば理解が追いつかず、当惑をするか、斉藤の言わんとすることを察して呆れるか、少なくとも、それほどことを重大にはとらないだろう。
「若いっていいわね~。もうこの年にもなると、人待ちのために一時間も立ちっぱなしなんて、おばさんにはできないわ」
非常におばさんくさいことを言う斉藤に、ほとんどの人はついていけないだろう。
「……………………」
雨宮は斉藤が話している間、ずっと黙っていた。しかしその顔は呆れているわけでも、曖昧な愛想を振りまくわけでもなく、奇妙なくらい真剣だった。
そんな雨宮の表情を見て取って、斉藤は意地悪っぽく微笑む。
「心当たりない?」
斉藤は少し身を乗り出して、雨宮に優しく訊いた。発せられた言葉には、何か含むものが感じられる。
「い、いえ!」
雨宮が慌てて首を横に振ると、斉藤は疑うような目を雨宮へ向ける。雨宮はお弁当の入った袋を手にして、適当に会釈をすると小走りにコンビニを出た。
コンビニには店員である斉藤だけが取り残された。
「…………」
あまりの雨宮の慌てように、斉藤はしばらく呆然とするだけだった。
「……冗談だったんだけど」
一人取り残された店内で、斉藤は独り言を呟く。
――本気にしちゃったのかな?
斉藤は首を傾げる。
「からかいすぎちゃったかな?」
斉藤はコンビニを飛び出すときの雨宮の顔を思い出しながら呟いた。
「かわいいっ」
斉藤は和んだように微笑んでいた。
一方の雨宮は、外の道を歩いていた。コンビニの外は暗く、僅かばかりの街灯があるだけだった。
「………………」
雨宮以外に歩行者の姿はない。
――やだなぁ……。
雨宮は小さく溜め息を吐いた。
コンビニと雨宮のマンションまでは、徒歩五分ほどの距離しかない。そんな僅かな間でも、雨宮は何かに怯えるように頻りに周囲の様子を窺っている。歩を進める足取りは何とか正常を繕うとしているが、顔の筋肉は金縛りにあったように硬直して、二つの眼球はせわしなく闇の中を監視している。
「………………」
雨宮は足を止めた。
そのまま動こうとしない。足も、手も、首も、体のいたる部分を制止させる。呼吸すら闇に掻き消されるほど小さい。
ただじっと、視覚と聴覚を、周囲を感じ取れるあらゆる感覚を駆使して周りの気配を感じ取ろうとしている。
「………………」
しかし、何もない。
そこに誰かの気配はないし、恐ろしい危険も感じ取ることはできない。ただ、静かに道は続いているだけだった。
雨宮は首を横に振った。
――そろそろ慣れないと。
雨宮は再び歩き始めた。
それでもまだ薄暗い夜道を一人で歩くのは心細くて、今の家に着くまでの間に、雨宮は今日の出来事を振り返ってみることにした。
上嶋咲希。
結局最後は咲希の勢いに押され、雨宮はあれから何も言うことができなかった。
咲希が帰ると言ったときも、雨宮は黙って見送った。途中まで見送るくらいはしてもよかったのではないかと今なら考えられるが、あのときの咲希に、たった一言でも声をかけることが雨宮にはできなかった。
――すごい人だったなあ。
雨宮は咲希の強さにほとほと参っていた。
普通の人がフラストに襲われたときの精神的ショックは計り知れない。大概の人はその事実を夢や勘違いだと思い込む。思い込もうと、心が反射的に防衛手段をとって、自分自身を納得させるのが普通だ。
いくら体の世界に出てきたとはいえ、もともとフラストは心の世界の住人だから、肉眼で捉えることはできない。もちろん光学的に物体を捉えるカメラにはその姿は映らない。
白昼夢に近い存在なのだ。
夢を完璧に覚えていられる人はおそらく少ないだろう。それは実際に目で見ているのではなく、脳の中に蓄積された断片的な情報にすぎないからだ。
フラストはそういう存在だから、目という媒体を通さずに直接脳の中で像が結ばれる性質のものだから、どんなにフラストが奇怪な姿をしていて、そんな化物に襲われたとそのときは把握できても、記憶の中では非常に残りにくい。次第に記憶が薄れていって、忘れてしまうのが普通だ。
しかし、咲希は真っ直ぐに雨宮に向かってきた。
雨宮も咲希には何らかの説明をしておいたほうがいいとは考えていたが、咲希のほうから自分に話しかけてくるということは、雨宮は全く予想していなかった。
予想外といえば、今日の咲希もそうだ。
咲希が雨宮を睨むように見ていたのは、正直に言えば雨宮は恐怖を感じていたが、それは咲希がこれまでの事件のために、雨宮に対して警戒心があるためだと雨宮は自分自身に言い聞かせていた。
しかし、咲希が俯いてしまったとき、雨宮は咲希が咲希自身のせいでのせいでフラストを呼び起こしてしまったと感じてしまったのだと思った。自分のせいで他人を傷つけてしまったのだ、と。
だから咲希を慰めようとしたのだが、雨宮のその気遣いがかえって咲希の気を害してしまったようだ。
――私は被害者なの。
咲希の言った言葉は正当性を帯びているような気もするが、雨宮はどうにも納得できなかった。
そしてもう一人、コンビニにいたという少女。
長い髪、色の白い肌、目が大きい、雨宮と同じ高校に通う、一年の女子。
たぶん…………。
雨宮の頭の中に一人の人物が浮上し、雨宮の口から溜息が漏れる。
四時くらいからコンビニにいたということは、雨宮が咲希をマンションに連れてきたときから話が終わってからしばらくはコンビニの中にいたということだ。もしかしたら、雨宮と咲希が学校を出た頃から二人の様子をずっと見ていたのかもしれない。
「……………………」
雨宮は一度立ち止まり来た道を振り返った。誰も通らない道の上には、暗い闇があるだけだった。