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第二楽章 独りぼっちの心

 咲希(さき)は家を出た。時間は朝の七時。

 五月も終わりに向かい始めて、朝の七時という時間でもそれほど冷たさを感じなくなってきている。そろそろ梅雨の季節になるのだろうが、未だに雨は数えるくらいしか降っていない。そのせいか、朝の空気はとても清んでいて肌に優しい。

 しかし咲希の表情は清々(すがすが)しいものとはほど遠い色をしていた。

 どこか陰鬱(いんうつ)で、どことなく不満そうな。

 誰もいない静かな住宅街の中で、咲希の不機嫌そうな表情だけがとても異質なものに感じられた。

 住み慣れた住宅地を抜けて、大通りにあるバス停まで五分もかからない。朝早いこの時間では、バスを待つ人の姿は一人も見られない。

「……」

 いつものように、咲希は静かにバスが来るのを待つ。

 ――ぶおおお…………。

 数分もしないでバスが来ると、咲希は慣れた手つきでバスカードを機械に読み取らせて、黙ってバスに乗り込んだ。咲希はいつも、一番後ろの、右側の席に座る。そして、終点の駅に着くまでの間、ずっと黙って窓の外を眺めている。

 高校に入ってから一ヶ月以上が経過して、それまでずっと続けてきた高校までの通学の行為に、今さら戸惑うこともなければ、迷うこともない。間違えるはずもないし、今日に限ってその行為を変える気なんて全くない。早すぎる通学時間は、咲希が決めたことだから、咲希自身も不満がない。

 それなのに咲希の顔は不機嫌そうな色をしている。

 ――ぶおおお…………。

 終点について、咲希はバスから降りた。

 駅に着いてからの咲希の動きも決まっている。

 まずバスを降りたら歩行者用の通路を通って駅へと向かい、階段を上がって、改札口にいる駅員に定期券を見せて、駅の構内へと入っていく。

 咲希はいつもの定位置で足を止め、電車が来るまで何をするでもなく、黙ったまま突っ立っているだけ。

「……」

 このときの咲希も、どこか不機嫌そうな顔をしている。

 咲希は毎朝、同じ電車の、同じ車輌に乗る。

 ここ一月の電車通いの経験から、この時間の一番後ろの車輌には、ほとんど人が乗らないことを咲希は知っていた。加えて、咲希の通う高校に向かう生徒の大半は、先頭の車輌に乗車するということも。

「……」

 電車が来ると、咲希は最後尾の車輌の、さらに奥、一番後ろの二人用のシートに座る。これも今まで続けられてきた同じ行為。

 今時の女子高生としては珍しく、不要なものは一切見当たらない、黒を基調としたショルダーバックを、車掌ボックス側に投げ置いて、自分の体を(わず)かに手摺(てす)りに当てて、深く座席に腰掛けた。そのまま黙って窓の外を眺めていた。

 毎日続いた電車通学のおかげで、咲希はすっかり電車の外の景色を覚えてしまった。

 初めは空き地だらけの真っ平らの景色に、突然工場のような建物が姿を現す。まだ使われているようなのだが、細長い煙突の先から煙が上がるところを、咲希はまだ一度も見たことがなかった。

 工場を過ぎて、さらに平地と川を過ぎると町らしい風景が見えてくる。

 ここが一番華やかな場所だ。校内の生徒たちの話によると、カラオケやゲームセンターなどの娯楽場所が集中しているらしいが、咲希は実際にそういった場所に行ったことがないのでわからない。

「…………」

 咲希の無機質な目がいっそう冷たい光を放つ。

 咲希はこの町が嫌いだった。

 ――塾のある町。

 各駅停車のこの電車は、この町に停車する。人が乗り込んでくる気配を咲希は感じる。大きな町だから、特に人の出入りが多い。

 とはいっても、車内にはまだ空いた座席が見られ、一人でボックス席を占拠していても、十分他の人が座るだけの余裕がある。

 ――所詮、ここは田舎だ。

 咲希は思う。

 人々が行きたがる娯楽場所なんて、都会には当たり前のようにあって、そのときの気分によって店を選べるくらい、無駄に存在している。

 ショッピングセンターと呼ばれる場所も、大きいと言っても、それは田舎のことしか知らない人間の尺度に過ぎない。都会に行けば、もっと大きくて、もっと多くのビルが、ひしめきあって混在しているはずだ。

 そもそも、畑が存在する地域が田舎でないはずがない。

 咲希は都会と呼ばれるところに今まで行ったことがなかったが、ここが田舎であるということだけは確信している。

 不意に声をかけられたのは、電車が動き出してすぐのことだった。

「あれ?咲希じゃん」

 自分の名前を呼ばれて、咲希は窓の外に向けていた視線を車内へと向ける。

「あっ、本当だ」

 最初の声に続くように別の声がして、咲希は二人の人間が自分のほうへと向かって来ていることに気が付いた。咲希と同じ、松風(まつかぜ)高校の制服を身につけた彼女たちは、咲希のクラスメイトだ。

「おはよう」

「おはよう」

 二人の挨拶に、咲希は同じ挨拶を返す。

 二人は咲希の目の前の席に腰を下ろした。二人とも妙に息が上がっていた。

「ふー、間に合ったー」

 おおかた、電車に乗り遅れそうになったのだろう。俗世間で言うところの駆け込み乗車だ。しかし咲希は二人の行為に特に気にすることなく、彼女たちの後ろに流れる外の景色を眺めていた。町を離れると、景色は森のように木々が広がる田舎の風景になる。

愛子(あいこ)が遅いからだよ。危なく乗り遅れるところだったよ」

 最初に咲希に声をかけてきた女子生徒が、隣に座っている女子を軽く睨む。

 隣で不作法に足を投げ出している髪の長い女子生徒は、不服そうに唇をすぼめる。

「別に次でもいーじゃん。間に合えばいいんだし」

「ダメだよ。そう言って、いつも愛子は遅れるんだから」

「ハイハイ、智恵(ちえ)さまの言う通りでございますー。私がワルーございましたー」

 髪の長いほうの女子は隣の女子生徒を見ずに言った。大袈裟な謝罪文句からは少しも悪びれた様子が感じられない。

「…………」

 咲希の意識はすでに正面に座る二人から離れていて、窓の外を流れる景色にのみ目を向けていた。

「咲希、昨日はどうしたの?」

 声をかけられて、咲希は視線を僅かに二人の女子のほうに向ける。左目の斜め上の髪を二つのヘアピンで留めた、どちらかというと童顔系の女子生徒が訊いてきた。

 咲希は適当に答える。

「ちょっと風邪。もう大丈夫」

 咲希はすぐに少女たちから視線を外した。あまり長く彼女たちと関わっていたくなかったからだ。

 それでもなお、智恵は咲希に訊ねる。

「でも、一昨日の塾も咲希いなかったよ?」

 咲希は少し驚いた。

「智恵もあそこに行ってるの?」

 咲希の質問に、智恵は当然のように頷く。

 初耳だった。

 塾の教室はそんなに広くない。学校の教室を少し小さくした程度の大きさで、その中に人を無理矢理押し込めるから、とても窮屈に感じる。

 咲希はいつも、扉側とは反対側の一番後ろの隅の席を自分の席にしているから、ちょっと眺めれば、どこに誰がいるかはすぐにわかる。それに、塾に通う各学校の生徒たちは自分の学校の制服を着てくるから、咲希と同じ学校の生徒がいることも、咲希は簡単に把握することができる。

 しかし、咲希は今まで塾の中での智恵の存在を認識していなかった。それは単に、咲希が周りを見ようとする行為を放棄していたに過ぎないのだが。

 智恵は言葉を続ける。

「いつもの場所にいなかったし、他の席見てもいなかったから、一昨日の塾は休んだんでしょう?」

 確かにその日、咲希は塾に行かなかった。

「ちょっと気分悪くてさ」

 咲希は適当に答えた。

「おやおや」

 今まで静かだった愛子が唐突に口を開いた。

「お二人さんとも塾に通っていなさるとは、真面目なことでございますねー」

 大袈裟なセリフを吐いて、愛子は天井を仰ぐ。

 愛子のこの言い様から、愛子のほうは塾に行っていない、ということが咲希にはすぐに理解できた。

 智恵が慌てたように手を振る。

「そんなことないよーっ」

 智恵は必死に取り繕うとしている。しかし智恵の童顔に浮かぶ困惑の表情は、見るものに哀れとは異なる感情を呼び起こす。

「こんのお嬢様がーっ!」

 愛子は智恵の頭を腕で抱えると、もう片方の手で智恵の頭を無茶苦茶にかき回す。

「ひゃあ~」

 智恵は悲鳴とは違う奇声を上げた。身動きがとれずに困惑している智恵の顔は、どこか愛らしかった。

「…………」

 咲希は二人から完全に視線を外した。

 咲希は一昨日の塾には行かなかった。いや、行けなかったといっても、ほとんど間違いではない。

 一日学校を休んだ今でも、できることなら思い出したくない。

 あの日の記憶。

 その出来事。

 化物に襲われたことなんて。

 あの日、あの時、あの場所で、咲希は確かに見たのだ。

 現在の地球上では存在しえない、身の丈三メートル近くを有する黒い怪物。

 その化物に、確かに咲希は襲われた。

 しかしその後のことを、咲希はよく覚えていない。

 化物がいなくなって、周りが暗くなって、ぼんやりと帰らなければと思って、気付けば自分の家に帰っていた。

 そこまでの記憶が妙に曖昧で、いつものように電車とバスを使って帰ったのだとは思うのだけれど、その過程を正確に思い出すことができない。

 ただ、はっきりしていることもある。

 それは、自分が化物に襲われたということ。

 そして、自分が一人の少年に助けられたということ。

 そのときの情景だけは異様なまでに強力に、異常なまでに鮮明に、咲希の記憶の中に残っている。化物の奇怪な容姿から少年の身に付けていたものまで、全てを正確に思い出すことができる。

 特にひどいのが音だ。

 寝ても、覚めても、現実の音が聞こえていようと関係ない。あの、今まで経験したことのない暴力的な音は、耳鳴りのように、いつまでも咲希の頭の中で反芻(はんすう)している。もうあんな音は聞こえない、幻聴だ、と思っても、かえって意識が過敏になって、咲希は異常な頭痛に吐き気を覚える。

 ――あの騒音のせいで、もし病気にでもなったら、どこに慰謝料を請求すればいいんだろう…………。

 そんなことは実際どうでもいいことだ。少なくても、本質的な問題からは決定的にかけ離れている。

 それでも、そんなくだらないことを考えてしまうのは、少しでも前向きに考えていないと、今の咲希は成り立たなくなる。あまり真剣に考えすぎると、今すぐにでも吐いてしまいそうな気がするからだ。

「…………」

 咲希はちらと前に座る愛子と智恵を見た。

 智恵はまだ愛子に捕まったまま、なんとか手を振り払おうと必死な様子がわかる。しかし、愛子はしっかりと智恵の頭を抱え込んだまま、なおもその大袈裟なセリフを言いながら、智恵の頭をわしゃわしゃとかいている。

 ――学校で具合の悪くなった人とか出ていないかなあ…………。

 二人のことを見ながらそんなことを思っていると、咲希は頭の中に一つの疑問が浮かび上がってくるのを感じた。

 咲希は目の前の二人に視線を向ける。

「ねえ」

 そう言って声をかけたのだが、咲希の呼びかけに二人は気付かなかった。咲希は言葉を続ける。

「一昨日の放課後に変わったことなかった?」

「はい?」

 愛子が智恵の頭をかいている手の動きを止めた。咲希の言葉が聞き取れなかったのか、不思議そうな顔をしている。

 咲希はもう一度口を開く。

「一昨日の放課後、何かなかった?」

「何かって?」

 愛子は咲希の質問の意図が読めずに首を傾げる。抱えられたままの智恵も困惑した表情を見せているが、それは別の理由から来るものなのかもしれない。

 少しストレートだったかな、と思いながら咲希は別の言葉で訊いた。

「ええと、違う。昨日何かあった?」

 愛子が不思議そうに首を傾げる。

「昨日?」

 愛子も智恵もしばらく考え込んでいる様子だった。

「うーん…………」

 しばらくしてから、二人は口を開く。

「別に何もないよ」

 興味のなさそうな顔をして愛子は答える。

「授業が心配だったらあとでノート見せてあげる」

 智恵の返事のほうが、まだ咲希に対しての親身を感じる。

「…………」

 しかし、愛子の答えも、智恵の答えも、咲希の期待していたものとは大きく異なるものだった。

「……うん」

 これ以上追求しても、咲希の求める情報が得られそうになかったので、咲希は適当な相槌(あいづち)を打って話をそれきりにした。

 それと等しい頃に、電車は三人の目的地、松風高校付近の駅に着いた。



 扉を開く重たい音が、何もない廊下の上に広がっていく。

 咲希は教室の中に入ると、同じように緩慢(かんまん)な動きで扉を閉める。レールの上を転がる扉の音は、いつものように重圧な響きを持っていて、咲希の耳には不快に届く。

 廊下と同様に、咲希の入った教室には誰もいない。おそらく、学校中のどの教室を探しても、生徒たちの姿を見ることはないだろう。

 駅で愛子と智恵と別れて、咲希はまっすぐ学校へと向かった。愛子と智恵は、近くのコンビニで昼食を買ってから学校に行くらしい。確かに今の時間は校門が開いてからそんなに時間も経っていなくて、急いで登校する必要はない。むしろ、こんな時間に登校する生徒のほうが稀少だろう。

 咲希は学校に着いてから、まず最初に駐輪場のほうへ行ってきた。そのまま奥にあるあまり使われない校舎のほうにも足を運んだ。

 一昨日、咲希が化物に襲われた場所。

 ついさっきまで、咲希はその場所を見てきたのだ。一昨日のことに関する何らかの証拠を見つけ出すために。

 あの出来事が現実のものである証明なんて、簡単なことだと咲希は思っていた。

 地響きを感じるほどの化物の腕力、化物が腕を地面にたたきつけるたびに感じた衝撃、地面にその跡が残っていてもおかしくない。それに少年の発砲、躊躇(ためら)うことなく放たれた弾丸は、何度も周囲の校舎に命中していたはずだ。

 ――何かあるはずなのに。

 しかし、実際に戦闘が行われた現場へ行ってみると、そこには何もなかった。そこには地面のへこみも、校舎の壁にそれらしい傷もない。変わったところは少しも見られなかった。

 一昨日とはいえ、あれだけの戦闘のあとだ。今まで見たことのない化物が暴れ、初めて見る銃撃戦。そんなものを、一日でなかったことにできるはずがない。

 ――何で……。

 それとも、咲希が見たその出来事が、最初から咲希の勘違いだったのだろうか。咲希の見間違いだったのだろうか。咲希の記憶違いだったのだろう。

 気味の悪い化物も、少年の存在も、騒音に等しい咆哮も、銃声も、全ては咲希の見間違いで、全部が幻だったのだろうか。

「……っ!」

 咲希は首を振る。

 ――そんなはずはない。

 丸一日学校を休んだ今でも、咲希の体からは痛みが引かない。化物に追われる最中に転んだことを咲希はよく覚えている。自転車の中に倒れ込んだこともあっただろうか。そのときの衝撃が、まだ体の中でダメージとして消えずに残っている。

 それに、そのとき着ていた制服は、普段の生活の中ではありえないくらい汚れていた。

 土埃を被ったように汚れが付着していて、裾のほうには何かに引っかけたように、布が裂けていた。

 今日の朝、制服に着替えようとしたときに咲希が気が付いて、今は予備に買っておいた別の制服を着ているが、汚れとあの時の記憶が染み付いた制服を、咲希は二度と身に付けたくはなかった。

 ――確かにあった。

 あの事件はあったのだ。そう咲希は確信している。

 しかし、あの化物の存在を決定付けるものがない。

「…………」

 咲希は自分の机の脇にショルダーバッグを引っかけて、ゆったりとした足取りで窓のほうへと向かう。

 締め切られたガラス越しに外の景色を眺めてみる。だいぶ時間が経ったのか、何人もの生徒たちの姿が、校門を通って校庭の中を歩いている。生徒たちは列をなして、学校までの道のりを進んでくる。

「……」

 咲希は窓の外を静かに見ていた。

「そうだ」

 思いついたように、咲希は呟いた。

 校内に次第に人の気配が満ちていくのを感じる。廊下からは生徒たちの話し声や足音が聞こえてくる。

 咲希のいる教室にも次々と生徒たちが入ってくる。数人の男子生徒は咲希を目にしても黙ったままで、自分の席に鞄を置くと、すぐに教室を出て行った。大方はグラウンドへ行って、サッカーや野球などのスポーツでもして授業が始まるまでの時間を過ごしている。残りの男子は席に座って漫画を読みふけり、教室に入ってきた女子のほとんどは、咲希の姿に気が付くと、適当な挨拶を交わしてそれぞれの活動に移る。

 咲希は数人の女子生徒たちの輪の中へと歩み寄る。それに気付いた女子たちは、咲希に向かって笑顔を向ける。

「おはよう」

「おはよう」

 女子たちの声に咲希も同じ挨拶を返す。咲希が輪の中に入ると、彼女たちは再び自分たちの話に没頭する。

 このグループでは共通のテレビの話題で盛り上がっていた。

 あの番組、あのドラマ、あの俳優がいいなど、そんな内容で真剣におしゃべりをして、心底楽しそうに笑い声を上げる。

「…………」

 咲希は楽しそうに話すそんな彼女たちを、歯痒(はがゆ)そうに見ていた。

「ねえ」

 周囲の空気に耐えかねて、咲希は口を開いた。咲希の声に、女子たちの視線が咲希へと集まった。

「昨日の話で何か変わったこととかない?」

 実際に咲希が訊きたいのは一昨日の放課後の出来事なのだが、直接そんなことを訊いたら、不審がられる可能性があるので、昨日の話題として訊いてみることにした。昨日なら、咲希は学校を休んでいたから、そのことを理由にできる。

「変わったことねー…………」

 女子たちはそれぞれに過去を振り返っているようだ。

「別におもしろそうなことなんてないけどね」

「あ、でもでも」

 そう切り出した女子生徒のほうへ、周りの女子たちの視線が集中する。咲希もその生徒の顔を興味ありげに見つめる。

「昨日、朝のホームルームで担任が授業変更がある、って言ったのに、いつも通りに自分が来ちゃってさ。変更の教師と鉢合わせ。あれはおもしろかったよ」

 その直後、女子の中から吹き出すような笑い声が上がった。

「あったあった」

「バカだよねーあいつ」

「意味わかんないよねー、自分で言っといて」

 女子たちはとても楽しそうに笑っている。

 ただ一人だけ、咲希だけが笑いもせず、周囲の女子にはわからない程度に、不服そうな顔をしている。

 ――……………………だから?

 咲希の知りたいことはそんなことではなかった。

 咲希の知りたいことはただ一つ、一昨日の放課後、咲希を襲った化物のことである。

 あれだけ大きな、わけのわからない生き物が学校に存在していたのだから、誰かの目についてもいいはずだ。

 それにあの声。超音波のような咆哮、あれだけの大音量だったのだから、そのとき駐輪場にいた生徒、いや、学校中の人間に聞こえていたって、おかしくないはずだ。

 ――噂になっていてもいいはずだ。

 そのときだった。教室の後ろの扉が開いたのは。

 この時間、人が入ってくるのは珍しいことではない。登校の時間なのだから、扉が開く音ぐらいで気にするほうが不自然だ。

 しかしその瞬間、教室の中が静止したような錯覚を覚える。再生中だったビデオを一時停止させたように、教室の中の空気が一瞬止まる。話し声が消えていく。視線が後ろの扉へと集中する。

 入ってきたのは、一人の女子生徒だった。

 咲希はその少女を見た。

 顔の側面から垂れた髪は、左右均等に整っていて、胸の位置まで伸ばされた黒髪は、癖のない美しい光を放っている。少女の肌は限りなく白く、それでも蒼白とは違う、雛人形のような、きれいな白だ。

 しかし彼女の瞳は、平安時代の絵画の細い目の女性とは違って、輝くように大きくて、そのギャップがその少女の存在をいっそう()き付ける。

 クラスの中に小さなさざ波が起こる。

 一人の女子生徒がその少女に向かって声をかけた。

「おはよう、高峰(たかみね)さん」

 声をかけられた少女は、だが声をかけてきた女子を一瞥(いちべつ)しただけで、挨拶を返すこともなく、自分の席へと静かに歩き出す。

 声をかけたほうの女子は、何人かの女友達と一緒に高峰のすぐ横を通って廊下へ出て行った。高峰の後ろで彼女たちが小さく笑っているのに気付いた生徒は、おそらく誰もいない。

「……………………」

 静かだった。

 次第に何人かの生徒は、もとのようにおしゃべりを再開していて、僅かに声を抑えた、(ささや)くような笑い声が教室の中で波打っている。

 そんな空気に気にする素振りも見せず、高峰は鞄を置くと、すぐに教室を出てどこかへ行ってしまった。

「お人形さんみたいな子だよねー」

 高峰がいなくなってから、咲希のいるグループの中でそんな声が上がった。

 別の女子が頷く。

「確かにね」

「転校してきてから一言も口きかないし」

 そうなのだ。

 高峰は、一昨日転校してきた雨宮(あめみや)よりも、一週間前に転校してきた、このクラスで一番最初の転校生だ。

 そして、転校初日から今に至るまで、高峰は一言も喋ったことがない。こちらから挨拶をしても、返事をするどころか、何も言ってこない。

 転校初日の自己紹介の時も、周りの生徒から質問があっても、それに答える高峰の声はない。本当に喋れないのではないかという話も出たが、実際に担任に確認しに行った生徒の話によると、唖子で(それ)はないらしい。

 咲希のグループの中で、誰かが口を開いた。

「なんで喋らないんだろう」

「さー」

 適当な返答が返ってきただけだった。

 転校初日、女子であるという理由でかどうかは定かではないが、クラスの男子の大多数が高峰に対して興味を抱いていたようだったが、唖子(あし)と思われてもおかしくないほどの寡黙な高峰に、男子はおろか、女子生徒の間からも、高峰は一定の距離を置かれている。

「本当に人形かもよ」

 意地悪っぽく誰かが呟いた。

 高峰は、その容姿もあって、生き人形ではないかという噂が、このクラスではまことしやかに囁かれている。中には、高峰本人に、明らかに聞こえているのに、高峰は人形だ、という悪質な女子もいる。

「あの子、絶対人形だって」

「体の中、全部綿でできてんじゃない?」

「やだ、キモ」

「骨とかないから、きっとチョー柔らかいんだよ」

「ウエー」

「今度試してみようよ」

「あっ、それおもしろそう」

「でも呪いの人形とかだったらどうする?」

「あ、それ怖い」

 くすくす、と囁くような笑い声が教室のどこからか聞こえてくる。その中には当然のように咲希たちのグループも入っている。

 だが、咲希だけは浮かない顔をしている。

 ――くだらない。

 人は誰かを(けな)すことで自分を存在させている。誰でもいいから自分よりも劣っているという仮定人物を実際に置くことで、自分個人の優位性を確固たるものにして、そんな自分に<span

>安堵(あんど)する。

 ――バカらしい。

 女子たちの話をこれ以上聞いていても仕方なく、咲希は興醒(きょうざ)めしたように自分の席へ戻っていく。

「…………」

 席に着いた咲希は小さく息を吐く。

 結局、あの化物については何の収穫もなかった。

 話題に上らないはずがない。噂にならないはずがない。あれだけの騒ぎだったのだ。化物があれだけ大声で叫んでいたのだ。銃声だってしていた。

 それなのに、誰も知らない。話題にすら出てこない。

 完全になかったものになっている。

 ――そんなはずないのに。

「おっはよー、咲希ぃー!」

 突然背中をたたかれて、咲希は反射的に席を立ち上がった。振り返ると、満面の笑みを浮かべて真奈(まな)が立っていた。

「真奈、驚かさないでよ」

 咲希は真奈を睨みつけた。

「ゴメーン。もう大丈夫なの?」

 真奈は明るい声で訊いた。

 咲希は最初、真奈の言っていることの意味が理解できなくて、不愉快そうに眉を寄せて訊き返した。

「何が?」

 咲希の拒絶的態度に気付いていないのか、真奈は子どものように膨れた顔をする。

「だから、昨日休んだじゃん。そのこと」

 ああ、そのことか、と咲希はようやく理解した。

 咲希の頭に電車での智恵の顔が浮かんできた。先程の女子たちからは訊かれなかったので、咲希の念頭からはすっかり外れていた。

「大丈夫」

 そう言って咲希は席に戻った。

 チャイムの音がスピーカーを通して学校中に響き渡る。真奈がその音を聞いて、慌てて自分の席へ向かった。

 咲希は真奈を見送った後、後ろの席へ視線を向ける。最後尾のその席には、まだ持ち主の鞄すらない。

 もともとこの教室の担任は、ホームルーム開始のチャイムがなってもすぐに来ることはない。だから、チャイムが鳴ったときにまだ教室に入っていない生徒がいたとしても、珍しいことではない。現に、自分の席を離れておしゃべりに夢中になっている生徒の姿が教室の中には何人も見受けられる。

 ――遅い。

 しかし、咲希は少しイラついていた。

 いつものように慌ただしく教室に入ってくる足音が流れて、授業開始五分前を切ったころに、ようやく担任が教室に入ってきた。そして、いつものようにやる気のない声で生徒たちを座らせる。

 ようやくやって来た担任であったが、いつものように一分もかからずホームルームが終了して、用の済んだ担任が教室を出ると、一校時目の先生が、廊下で待っていたようにすぐに入ってくる。

「……」

 ロッカーへ教科書を取りに行く生徒のざわめきを聞きながら、咲希は自分の席に座ったまま顔を後ろのほうへ向けた。鞄を机の上に置きながら周りと同じようにロッカーへ向かう、その生徒の姿を咲希は見た。



「それでは今日の授業はここまで」

 四限終了を知らせるチャイムの音を聞いて、四限を担当していた国語教師は教科書から目線を外した。

「起立っ」

 号令とともに、生徒たちが無秩序に席を立つ。

 短時間ですぐに立ち上がる者は数少なくて、大体は隣人と話をしているか、他愛もない不平不満を述べてみたり、眠たそうに欠伸をしている。

「礼っ」

 号令とともに、これまたバラバラな礼をする。

 数センチメートルでも頭を動かす素振りを見せるだけでも優秀、ほとんどの生徒は立ったままで教師が頭を上げるのを待っている。そうすれば完全に授業は終わったことになり、手に持った教科書類をすぐにでも廊下のロッカーに置きに行く気だ。一部の劣悪種は、起立の時点でもう廊下に出ているか、起立の行為自体を放棄して机の上で顔を伏せたままにしているかのどちらかに分けられる。

 この統一感のない、衰退しきった儀式が終了すると、生徒たちにとって貴重で自由な昼休みの時間になる。

「咲希ぃー」

 真奈は両手で教科書を胸の辺りに抱えて、後ろのほうにある咲希の席へと駆け寄った。

 ほとんどの生徒が立ち上がっている中で、咲希はまだ自分の席に座っていた。咲希は座ったままで呼びかけてきた真奈のほうへと顔を向ける。

 真奈はいつもの笑顔を咲希に向ける。

「手。洗いに行っこ」

「あ、うん。………………と……」

 そう曖昧に言いながら、咲希は視線を僅かに窓側に向けて、何かを確認するとすぐに真奈のほうへと向き直る。

「先に行ってて。確認したいところがあるから」

 咲希の言葉を聞いて、真奈は咲希のほうに向けていた視線を少し下げた。咲希の机の上には、先程までの授業に必要な教材が、まだ開いたままで置かれていた。

 真奈が本当に驚いたような顔をした。

「咲希って熱心だね」

「アハハ……」

 ――そんなわけないでしょ。

「真奈ーっ!」

 そんな二人の会話に声が割って入ってきた。

「早くしないと置いてっちゃうよーっ!」

 その声を聞いて真奈が振り向いた。黒板側の扉に数人の女子生徒が立っていた。いつも咲希や真奈と一緒に手を洗いに行く友達だ。

「待ってーっ!今行くーっ!」

 真奈は咲希の方に向き直った。

「じゃ、先に行くね」

 そう言い残して、真奈は走るように教室を出て行った。

 真奈を見送った後で、咲希は机の上に出しっぱなしになっていた教科書類を自分の鞄の中へとしまい始めた。

 もちろん、確認したいところがあるというのは嘘だ。咲希はそこまで勉強熱心な生徒ではない。

 ただやりたいことがあった。それは真奈に見られると非常に都合が悪い。厳密なところを言えば、他の生徒に見られたくはなかった。

 しかし、生徒がいなくなる状況は大して難しいことではない。ほとんどの生徒は教科書をロッカーに置きにいくし、その上で女子のグループはまず先に手を洗いに行くのが常であるし、大半は購買部に行って昼食を仕入れてくるのだから、四限終了直後が最も教室から人がいなくなりやすい。

 机の上の片付けが済むと、他の生徒がいなくなるのを待ってから、咲希は席を立って教室の窓側のほうへと向かった。窓側にある一つの席へ。

「雨宮くん」

 咲希はその人物へ声をかけた。

 雨宮海斗(かいと)、一昨日の放課後、咲希が化物と遭遇したとき、咲希を助けてくれた転校生。

 確かに彼だ。咲希の記憶の中で、咲希は確かに彼のことを雨宮と呼び、そして雨宮はその名前に応えた。

 呼ばれた雨宮は咲希のほうに目を向けた。雨宮はちょうど昼ご飯を食べるところだったようだ。机の上にはコンビニのビニール袋が置かれていて、彼の手にはまだビニールの包みが残るおにぎりが握られている。

 高校生になった男子とは思えないくらい、柔和な表情に、幼い瞳は、思春期の男子に対して適切だとは思えないが、かわいらしい。

 その顔が、咲希の存在を認めた瞬間、完全に凍り付いた。

「今日の放課後、時間空いてる?」

 人の減った教室の中で、咲希はコンビニのおにぎりを食べようとしている雨宮に向かって言った。

「………………」

 おにぎりの包みを破りかけた手を止めて、雨宮はしばらく黙った。咲希は雨宮を見下ろしたまま動かない。

 廊下からは生徒たちの足音や話し声が、無軌道な雑音となって、教室の中へと流れ込んでくる。

「き、今日は…………」

 そこまで言って、雨宮は僅かに咲希から目を逸らす。ささやかな沈黙が二人の間に重くのしかかる。

 再び雨宮は上目遣いに咲希の表情を窺う。咲希の顔は落ち着き払った、静かで、それが異様なまでの威圧感を持っていた。

 雨宮はおずおずと口を開く。

「ちょっと…………」

 なんとかそれだけ口にしたが、雨宮は後の言葉が続かなかった。咲希は静かな目で雨宮を見下ろすだけだった。

「そう」

 咲希は落ちついた声で言う。

「それじゃ、また今度時間があるときに」

 そう言って、咲希は雨宮に背を向けて歩き出した。雨宮は咲希の後ろ姿をただじっと見つめる。咲希は黒板側の扉を開けて、廊下に出るとそのまま後ろ手で静かに扉を閉め、教室から出て行った。

「…………」

 咲希が完全に教室から出て行ったのを確認してから、雨宮は小さく息を吐いた。

 ――予想はしていた。でもあんなストレートに。

 雨宮は手に持ったままのおにぎりの包みを破りきり、海苔を巻いて、おにぎりの形に整えた。粉になった海苔の破片が、机の上にこぼれ落ちる。

 雨宮は一瞬おにぎりを見た後で一口口にする。ご飯と海苔の味がした。中身の具はおにぎりの中央にあるため、白米の味しか感じず、何を食べたのかわからない。

 味のないものをゆっくり飲み込んだ後で、雨宮はもう一口目を口にしようと口を開けておにぎりを近づける。

 雨宮の肩に突然何かが触れる感触があった。

 雨宮は反射的に前のめりになり、危うくおにぎりを落としそうになった。肩に触れるものを払うように身をよじりながら、振り向いた。

 そこには、いつの間にか、一人の女子生徒が立っていた。

「た……高峰さん…………」

 二人の距離は僅かに三十センチメートルほど、その近距離から見てもわかる、血の気のない白い肌。人形のように表情の乏しい顔。目を背けたくても、彼女の煌々と光る瞳に見つめられると、どうしても逃げられない。

「…………」

 高峰は静かに雨宮を見つめていた。椅子に座っている雨宮は、高峰に見下ろされたまま硬直していた。

「……………………」

 高峰は何も言わずに雨宮を見下ろすだけだった。雨宮のほうも高峰を見上げたまま動けなかった。

「…………」

 しばらくしてから、高峰は雨宮の肩をたたいたほうの手を下げて、反対の手を雨宮のほうへと差し出した。その手には会社などで資料を入れるような、大きめの黄土色の封筒が握られていた。

「…………」

 雨宮は、自然とその封筒へ手が伸びる。雨宮は黙ったまま、高峰が差し出した封筒をしっかりと掴んだ。

 雨宮が封筒を受け取ったのを確認すると、高峰は何も言わずに、黙ったまま、静かに教室を出て行った。

「……………………」

 高峰の後ろ姿を見送った後で、雨宮は手にした大きな封筒にしばらく視線を向けた。

 雨宮の目に映る封筒は、どこにでもありそうな、極ありふれたもので、特にこれといった特徴は何もない。その封筒には何も書かれておらず、汚れたところもなく、使われた形跡すら感じられない、新品同様だった。

「…………」

 しばらくの間、ぼんやりと受け取った封筒を眺めてから、雨宮は慌てて封筒を鞄の中へ放り込んだ。それから、しきりに首を振って辺りの様子を伺う。

 教室に人の姿はなかった。昼食の時間といっても、授業が終わったばかりで、何人かは手を洗いに、何人かは教科書を戻すため廊下のロッカーに、そして大半は購買に昼食を買いに行っている。

 そのため、コンビニのおにぎりで済ませようとしている、雨宮ぐらいしか、教室には残っていない。

 誰にも見られていないことを確認してから、雨宮は小さく息を吐いた。

 ――予想はしていた。でもあんなストレートに。

 雨宮は席に座り直し、手に持ったままのおにぎりを一口口にする。梅干の味がした。梅干の酸味が口の中に広がり、その不快感に自然と雨宮の顔が(ゆが)む。



 ――うるさい。

 一日の学校での授業も全て終了して、生徒たちにとって自由な放課後の時間となった。帰宅のために学校を出た生徒もいるが、まだ教室の中には何人もの生徒たちが残っている。

 生徒たちの楽しそうな笑い声が廊下のほうからも聞こえてくる。

 ――うるさい。

 そんな中で咲希は思う。

 やかましい、と。

 人の声、生徒たちの話し声、みんなの楽しそうな笑い声、その全てがうるさくて、全てがいらないと、心から思う。

 放課後になると、用もないのに人は教室に残る。授業は全部終わったのだから早く帰ればいいのに、教室に残って、学校に残って、意味もなく楽しそうにしている。町の中に楽しい場所があるのなら、何も学校の中なんかにいないで、町のほうへ行けばいいのに。

 残る(やから)は大概決まった顔ぶれで、暇人が雑談や遊戯をする場所、それが放課後の教室の意義だ。

 ――うるさい。

 咲希は学校が嫌いだ。昔から好きになれない。なぜなら、学校ではいつも仮面を被っていなくてはならないからだ。

 共同生活という名の牢獄に押し込められている。将来のためと言われる勉強に信憑性(しんぴょうせい)微塵(みじん)も感じられず、意味もなく時間の拘束を強いられている。居たくもない場所に縛り付けられている。

 願わくば、すぐにでもこんな場所から出ていきたい。叶うのなら、この空間そのものの存在の消滅を。

 ――うるさい。

 それでも世間に従順な振りをしていないと、反逆者として非難を受ける。人前ではいい人を演じているのが最良だというのが咲希の考えだ。

 普段ならすぐに下校する咲希は、しかし、今日は自分の席で大人しく座っている。真奈でも捕まえて暇潰しの相手にでもしようかと思ったが、肝心の真奈は教室の一番後ろで他の女子たちと一緒におしゃべりに夢中だ。

 ――うるさい。

 そしてその中心にいるのが、雨宮海斗だ。

 雨宮が転校して来た初日、真奈を含めて多くの女子生徒が雨宮に対して好意を持ったということは咲希も知っていた。一週間ほど前に高峰が転校してきたときも多くの男子生徒が興味を持っていたようだったことから、雨宮のことに関しても、最初のうちは特に不思議には思わなかった。

 しかし、その興味関心というものは、単に転校生だからということであって、転校生だからこそ持つ珍しさにあるのであって、転校してきた本人たちに何らかの魅力があるわけではないと咲希は思っていた。一週間前の高峰の場合、彼女が転校してきた初日には女子も含めて何人かの男子生徒に囲まれていたが、翌日には男子が近寄ったのかもわからず、今では誰も寄り付かない。

 だが今回の雨宮は、転校から三日目の今日になっても、初日の時と変わらない熱気を帯びている。

 ――雨宮くんってかわいいよねぇ。

 咲希は真奈の言った言葉を思い出した。少なくとも、今日雨宮に話しかけた女子や遠巻きから雨宮を見ていた他組の生徒などは、そう思っているのだろう。

 ――どこが。

 しかし咲希にはその感情が全く理解できないでいた。

 かわいいとは、自分より小さいものに対する好意の感情のことだ。

 だが、クラスでの中で一番背が高いといっていいほどの長身を持つ咲希にとっては、目に映るほとんどのクラスの男子は自分よりも小さく見えて、小さいものを見るほうが咲希には普通のことであって、だから咲希は小さいものに対して、特別に好意的な感情を持ったことがない。したがって、咲希には雨宮が小さいからといって、特別かわいいという感情に直結してこなかった。

 実際に何かをかわいいと思うことは、ものの大小などで厳密には決められないのかもしれないが、少なくとも咲希はそういうふうに認識している。そんなふうに考えようとしている節もあるのだが。

 授業が終わって大分経ってから、ようやく咲希はショルダーバッグを掴んで教室を出た。帰りが遅くなることを心配しているわけではなかったが、あの騒々しい教室にあれ以上いるのは咲希には耐えられなかった。

 一階の下駄箱で靴を履き替えると、咲希は図書館とへ向かった。校内の図書館なので靴を履き替える必要はなかったのだが、帰るときにわざわざ下駄箱のある校舎のほうまで戻るのが面倒だった。

 図書館は、校門のすぐ隣の建物の中にある。図書館といっても、所詮は私立高校の中にあるものだから、それほど規模の大きなものではない。その校舎の中の一つのフロアーを占領しているに過ぎない、図書室といったほうがお似合いだと咲希は思っている。

 図書館に入ると、咲希は校門が見えそうな位置にある席を探した。

 咲希が学校の図書館に入るのは初めてであったが、咲希が想像していたよりも生徒たちの姿があったので、少しばかり驚きを感じた。

 図書館の中には人はまばらに座っていて、咲希は二人以上間隔の空いた席を探したが、そんな都合のいい席はなく、仕方なく、仕切りで顔は見えないが、正面に一人座っている席に座ることにした。

 咲希がその席に鞄を置くと、目の前の席の人が顔を上げたようだったが、咲希は気にせず鞄から適当なノートを一冊取り出し、さも勉強しているふうを装った。前の人が視線を机に戻したのを確認すると、咲希はシャーペンを持ったままノートを見ているように角度を調節し、窓越しに校門のほうを見た。

 今日の授業が終わってから大分時間が経ったので、下校する生徒の姿はほとんどなく、咲希としては監視がやりやすい。

 最初のうちは真剣に校門を睨んでいたが、次第に飽きてきたのかシャーペンの頭がふらふらと動き出した。

「……」

 咲希は不意に図書館内に目を向けた。

 咲希の位置からは時計が見えないが――そもそも咲希は図書館の時計の位置を知らないのだが――もう大分時間は経ったはずなのに、図書館内にほとんど動きがない。

「…………」

 静かだった。

 図書館の中は、異様なまでに静かだった。

 図書館内の私語は禁止されているから、誰も喋らないのは至極当然のことで、静かであることは当たり前のことである。

 教室にいれば、ふざけあう男子がやかましく動き回り、女子のくだらないお喋りに、時折耳障りな笑い声が聞こえ、咲希は不快感を覚える。

 ――嫌だ。

 しかし図書館という閉塞空間も、咲希にとっては苦痛でしかなかった。

 人がいるのに、誰も何も言わない。人が密集しているのに、互いに無関係で、関与しないように互いを避け合う。そんなふうに他人の存在を我慢しながら、自分の行動に意識を集中していなければならない。

 みんな、下を向いたまま動かない。ページをめくる音やシャーペンを走らせる音だけが機械的に流れていく。

 どうしてみんなはこの牢獄(ろうごく)に耐えられるのだろうか。どうしてみんなはこの窒息しそうな沈黙に黙っていられるのだろうか。

 ――嫌いだ。

 咲希の本能からは絶え間なく苦痛を訴える悲鳴の声が上がり、理性がそれを必死に押さえて、何とか体をこの場に押しとどめている。

 世界から隔離された空間。

 時間の経過を忘れてしまった世界。

 ――やめてよっ!

 咲希の手の中で振り子運動をするシャーペンが次第に速度を上げていき、咲希の目元が徐々に強張っていくような気がする。

「……」

 突然シャーペンの動きが止まり、するりと咲希の手から滑り落ちた。

 ――やめた。

 咲希は思考を止めた。

 咲希の疑問に誰も答えてはくれない。そんなことはわかりきっている。考えたって無駄なだけだ。

 咲希は不意に視線を窓のほうへと戻した。そこに一人の男子生徒の姿が目に入り、咲希は窓に額を押し付けた。数人の集団が彼の前を歩いていたが、咲希の目にそんなものは入らなかった。

 咲希は急いでノートと筆記用具を鞄へ放り込み、椅子を戻さずに席を立ち上がり、少し早足で図書館を出た。



 角を曲がったところで、雨宮はもう一度振り返った。人気のない道の隅に、その影は身を潜めていた。

「……………………」

 雨宮は立ち止まったまま周囲の様子を見渡した。車がすれ違うほどの余裕のない細い道。静かな住宅街といった感じの、誰もいない場所。

 他に誰もいないことを確認すると、雨宮はその影に向かって呼びかけた。

「隠れなくてもいいよ。わかってるから」

 しばらくじっとしていたが、咲希は電柱の影からそろそろと体を出した。

「…………」

 しばらく黙っていたが、他にこの状況を見ている人間がいないことを理解すると、咲希は独り言を言うような、小さな声で言った。

「……いつから気付いてた?」

 頬を高潮させて咲希は訊いた。

 雨宮は素直に答える。

「校門の辺りから」

 咲希の頭の中に重い衝撃が走る。それに気が付かない雨宮は、いつものように幼い表情をしている。

 咲希が叫ぶ。

「先に言ってよ!」

 咲希の顔がさらに赤らむ。雨宮は驚きのせいで一瞬たじろぐ。まさか怒鳴りつけられるとは、想像もしていなかったようだ。

 雨宮はおずおずと口を開く。

「……だって、その…………」

 なかなか雨宮の口から言葉が続かない。しばらく間をおいてから、雨宮はようやく続きの言葉を口にする。

「…………真剣そう、だったから」

 雨宮の弱々しい声に、咲希が噛み付く。

「変な気を回さないで!」

 咲希は思い切り顔を背けた。耳まで朱に染まっているのがわかる。雨宮は複雑な顔のまま固まってしまった。

「…………」

 何か声をかけたほうがいいのかと、雨宮はいろいろと考えを巡らせてはみたが、いい言葉はそう都合良くは浮かんでこない。雨宮は何も言えず、中途半端に開いた口元は、ただ垂れているだけで何の意味もない。

 咲希の顔は羞恥心(しゅうちしん)のせいで真っ赤に染まっている。

 ――バカみたい。

 咲希は心の中で呟いた。

 校門の辺りから気付かれていたということは、最初からバレていたということだ。それなのに咲希は今まで雨宮に気付かれないように、ただでさえ目立つ体を、車の裏や電柱の影に隠しながら、必死に雨宮の後を追っていた。バレていないと思い込んで。

 いや。

 ――それは違うか。

 バレていないはずはなかったんだ。そんなこと、薄々気付いていたはずだった。

 雨宮の後を追って、雨宮が振り返るたびに咲希は物陰に隠れていた。そう、雨宮が振り向くたびに。

 人間が普通に歩いているときに、後ろを見るなんて行為はそう簡単にするものではない。わざわざ立ち止まって、背後の様子を知ろうとするなんて、余程のことがない限り、人はそんな面倒なことをするわけがないんだ。

 ――それは。

 何度、何度振り返ったのだろうか。雨宮は、何度振り返ったのだろうか。普通に道を歩いているときも、道を曲がったときも、信号で止まったときも、それこそ何度も。

 そう。何度も振り返っていたじゃないか。

 ――バレていたに決まっている。

 誰かの存在を感じていたのだ。雨宮自身が、彼の後ろに。後ろから彼を追っていた、咲希という存在を。

 ――バカみたい。

 咲希は考える。

 別に咲希自身の存在を隠す必要があったわけではない。正面から、堂々と、雨宮に声をかければ良かったのである。用がある、と。

 た――だ訊きたかっただけ。

 しかし、一度は断られているため、帰り道に雨宮を捕まえて問い詰めようとは咲希も思わなかった。そんなことをすればかえって、知りたいことも知ることができないような気がしたので、それ以上の追求は咲希も避けたかった。

 ――わかっていた。

 だが、断るということは、それは極めて重要な秘密であるということで、なんとしてもその秘密を知りたい、というのも咲希の本心である。このまま雨宮についていけば、何か重要なことに近づけるのではないかと思って、今日、咲希はこっそり雨宮の後をつけていた、というわけだ。

 ――うまくいかないなんてことぐらい。

 しかし咲希の計画はあっさりと失敗に終わった。今から考えれば、どれほど幼稚な考えだったかということはすぐにわかる。

 高校に入学したばかりの身体測定では、咲希の身長はあと少しで一八〇センチになるかという長身だ。身を隠すには不向きな体だということは、本人である咲希が一番良く知っているはずだった。

 ――バカだ。

 そんな咲希が、電柱の影でじっとしている姿は、傍から見て非常に変だっただろう。高校生にもなって一人かくれんぼなんて。

 ――本当に、バカだ。

 そう考えると咲希の頬がいっそう熱を帯びてくる。

「…………」

「…………」

 雨宮も、咲希も、お互い黙ったままだった。そんな空気が、たまらなく居心地が悪い。こんな気まずい空間に誰も来ないのは両者にとって幸いだったが、同時に、会話のきっかけがつかめない。

「今日さ……」

 勇気を振り絞って、先に沈黙を破ったのは雨宮だった。

「用事、なくなったから……その…………」

 咲希は怪訝(けげん)そうな目で雨宮を睨んでいる。雨宮は言葉を捜すように空を仰いでから、おずおずとした様子で言葉を(つむ)ぐ。

「僕の家に、来る?」

 雨宮は苦笑を浮かべていた。精一杯の明るさを表現しようとしているのだろうが、遠目から見るとどうも空回りしているようにしか見えない。

 咲希は少し考えてから簡潔に答える。

「いや」

 その返答に、雨宮の目が驚きのためか大きく開いた。

「こっち来て」

 咲希はそう言って早足に歩き始めた。雨宮が小走りに咲希の後を追った。二人に気付く人は誰もいなかった。



「ここ」

 咲希は建物の前で止まった。

 その建物は町の中にあった。

 車は通っていないが、車道はある。人はまばらだが、全く人気のないところではない。空き地や人気のない建物がそこら辺にある、さびれた場所。

 そんな精気のない場所に、一つだけ、飛び抜けて大きな建物が建っていた。とはいっても、建物自体の高さは三階建てで、色のない薄汚れたコンクリートの色を剥き出しにしている。この辺りでは割と大きいだけで、他の場所と比べればそれほど珍しくはない、ごくありふれた建物だった。

 雨宮も立ち止まってその建物を見上げる。

「ここ……は?」

 その建物を見上げる雨宮の目は、どことなく驚愕(きょうがく)の色を帯びていた。どこにでもありそうな、さびれた建物を前にして、雨宮は身構えるように直視していた。

 しかし咲希は、雨宮の言葉を無視して建物の奥へと進んで行く。建物と隣の小さな建物の間にある細い道を通って、咲希はその建物の裏手に回る。雨宮も、遅れないように咲希の後を追った。進めば進むほど道は狭くなり、様々なものが辺りに散らばっていて足場が悪い。

 咲希は一番奥にある裏口を開けて中へと入って行く。鍵はかかっていないのか、咲希は慣れたように建物の中へと入って行く。雨宮は扉の前で一瞬立ち止まったが、咲希を見失ったら意味がないので、咲希に従って行くしかなかった。

「あ」

 雨宮が一瞬躊躇っている間に、咲希のほうはもうだいぶ奥のほうまで進んでいる。こんな知らない場所で見失ってしまいそうだ。

「待ってよ」

 雨宮は小さく叫んだ。雨宮の声が建物の中に奇妙な反響を作る。それでも咲希は止まるどころか、変わらぬ速度で歩いていく。

「…………」

 雨宮は仕方なく、走って咲希の後を追うしかなかった。

 建物の中程まで行くと、目の前に階段が現れた。学校の階段と酷似している、幅の広い階段。咲希は躊躇うことなく階段を上っていく。雨宮が階段まで追いついたときには、咲希はもう二階にたどり着いて、さらに上へと進んで行くところだった。

 雨宮は階段に足をかけるのを一瞬躊躇ったが、咲希はかまわず上へと上っていくので、仕方なくその後をついて行くことにした。

 階段が途切れた。三階建ての建物の、三階のフロアー、そこは広くて、見晴らしのいい、何もない場所、太い柱が数本だけ存在している、仕切りのない、無の空間。

 雨宮が最初に目にしたのはそれだけだった。

 咲希が一人で立っている。広大な一つの部屋の中でぽつんとただ一人、すでにそこを自分の居場所に定めたように、部屋の真ん中に、立っていた。

 雨宮が不安そうに咲希の背中を見る。

「……ここって…………」

 とても小さい声、けれど、遮るもののないこの場所では、窓に閉じこめられて、雨宮の声はよく聞こえる。

「幽霊が出るって」

 その直後、笑い声が上がった。咲希の子莫迦にするような笑い声が、何もない部屋の中に満ちていく。

「あんた、本気で信じてるの?」

 この建物に入って初めて咲希が口にした言葉は、それだけだった。笑い方も、本気で笑っているふうではない。

 そう。優しく嘲笑(わら)っている。

 雨宮は改めて周囲を見渡す。

 何もない、殺風景な空間。強いてあげるなら柱と窓ぐらいしかない。長く人に使われていないのだろう、全体的に暗く薄汚れた雰囲気が漂う。

 雨宮は立ったまま訊いた。

「何で、こんなところに?」

 咲希は笑いを止めた。

「ここが一番落ち着くの」

 落ちついた声で答える。

「でも……」

 雨宮はまだ納得しかねているようだ。少しの間、視線を床の上に落として、そして、顔を上げて咲希を見る。

「……でも…………仮にも幽霊が出るって、噂のある建物だよ」

「昔ここで自殺した人の霊だってね」

 咲希はさらりと言った。冷静な口調で、簡単に、その言い方はとても冷たい印象を与える。雨宮は黙って聞いている。

「ここで会社を立ち上げた社長が事業に失敗して自殺。それからはその霊の呪いだかなんかでここに来る会社はどこも失敗続きで、今では誰も寄り付かない。夏には肝試しなんかやっているらしいけどね」

 咲希は一呼吸置いてから口を開いた。

「みんなバカだよね」

 咲希は薄い笑みを浮かべて言った。その瞳はまるで何かを見下すような、怪しい柔らかさに溢れている。

「幽霊なんて見たこともないくせに。そんな得体の知れないものがいるなんて噂を信じちゃって、怖がって、近寄れない。おかげで誰も来なくて落ち着けるんだけど」

「……上嶋(うえじま)さんは、怖くないの?」

 咲希はもう一度笑う。

「幽霊なんているわけないじゃない。まさか、怖いの?」

「そうじゃなくて、一人が」

 咲希は訝しそうに雨宮を見た。雨宮は言葉を続ける。

「僕は、一人でいるのは、苦手だ。今、一人暮らししているんだけど、だから学校へ行くのは楽しい。みんなに囲まれて、みんなと話をするのはとても楽しい。一人になる家に帰るよりは学校にいたほうが落ち着く。一人でいるのは、不安な気持ちになる。――上嶋さんは一人でいるの、怖くない?」

 雨宮が心配そうな目を向ける。咲希は睨むように雨宮を見返していた。

 咲希の答えははっきりしていた。

 怖くない。

 ――怖いわけがない。

 咲希は学校が嫌いだ。大勢の群衆が嫌いだ。人の中にいるのが嫌いだ。人と関わるのが嫌いだ。

 行きたくもないのに行くことを強要される。居たくもないのに居ることを強制される。勉強も嫌いだ。それなのに塾へ行くことを命令される。そうやって人のいるところへ押し込められる。

 ――独りは落ちつく。

 一人がいい。一人が好きだ。

 誰もいない。話し声も聞こえない。

 それを求めて見つけたのがここだ。誰も寄り付かない幽霊ビル。ここが咲希の心安らぐところであり、心を開放できる場所である。この場所のおかげで、どれだけ心の苛立ちを吐き出しただろう。どれだけ心が軽くなっただろう。

「私は……」

 言いかけて、咲希の言葉は遮られた。

 耳を(つんざ)く高周波が辺りに響く。

 

 咲希は耳を両手で塞ぎ、目を強く閉じた。

 しかし、どんなに強く耳を押さえていても、肌を伝い、骨を伝い、聴神経を伝って脳に侵入してきた超音波が頭骸骨の裏で凶悪的に暴れ回る。痛ましい音に咲希の体は強張(こわば)る。

「ゴメン、上嶋さん」

 (かす)かに聞こえた雨宮の声。

 しっかりと耳を押さえていたはずなのに、どんな音も鼓膜を通さないようにしているのに、その声は咲希の頭の中で認識された。

 耳を塞いだまま、咲希は薄く目を開けて雨宮を見る。雨宮は先ほどと変わらぬ様子で立っている。

 この音が平気なのだろうか。それとも聞こえていないのか。雨宮は必死になって耳を塞いでいる咲希のほうに視線を送る。

「話はまた今度」

 笑って言った雨宮は、すぐに階段のほうへと目を向ける。咲希も同じ方向を僅かに開けた隙間から見る。

 咲希たちが上ってきた階段、何もいなかったはずのその場所に黒い影が見えた。階段を覆うような大きな影。

 しかし咲希の目はピントが合っていないのか、そのぼんやりした黒い影が何だかわからない。その影をじっと見つめて、二、三度瞬きをすると、咲希の瞳にその正体がはっきりと映って、見えた。

 四メートルほどの高さの天井の位置に頭があり、その表情は固く、痩せているようにも見えるが、その顔はヒトのものよりも遥かに大きい。

 その頭にふさわしい、大きな上半身を持ち、両手を広げて、まるで通せん坊をしているようだった。

 大きな両手にはヒトのように指があるようだが、指と指の間は水掻(みずか)きのようなもので埋められていて繋がっているように見える。

 下半身はヒトのような足ではなく、代わりに蛇のような屈強な尾の形をしている。

 ――オオオオオ――ッ!

 化物が咆哮(ほうこう)する。

 ――あの化物……!

 姿は異なるが、黒色の肌に、脳に響く高音の咆哮。一昨日の放課後に、咲希を襲ったのと同種の化物が、そこにいた。

 咲希の背中に妙な寒気が走る。

 その横で雨宮が顔の覆いを外す。

「黙ってそこで縮こまってろ」

 咲希は雨宮のほうへ視線を戻す。

 そこに仮面があった。右目だけ以上に大きく、右目だけ赤や黄色やオレンジの巨大なまつげで覆われた、奇妙なほどに派手派手しく、けばけばしい、奇怪な仮面。

 一昨日、咲希が見たときと全く同じで、どこから現れたのかわからない。いつの間にか雨宮はその仮面を顔から外していた。

 雨宮の顔の右側面にかかっている仮面が咲希を見つめる。その奇怪な右目に睨まれて咲希の体は凍りついた。

 雨宮は自分のショルダーバッグから素早く銃器を取り出すと、その銃口を化物へと向ける。銃の先端が暗黒の光を放っている。

 銃の形状は持ち手が二本ついているサブマシンガン。雨宮のような小柄な人間には少し大きめな感じがするが、雨宮はそれを右手一本で構えている。

「アオオオオ――ッ!」

 化物が咆哮する。同時に蛇の足をくねらせて二人に向かって猛進する。

 ――どどどどどどどどどどどどどどどどどどどどッ!

 銃声が響く。その小さな銃口から、滝のように銃弾が溢れ出す。

 ――アアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!

 化物が悲鳴を上げる。無数の弾丸が化物の体に命中する。

 手で銃弾を払うようにもがきながら、化物は足元へ身を沈める。あの巨体が嘘のように姿を消した。

 銃声が一時途絶える。嫌な静寂が辺りを包む。

「ちっ!」

 雨宮の舌打ちがはっきり聞こえた。

 雨宮が両手でしっかりと銃を握る。サブマシンガンの先端を前方へ向けたまま、周囲の様子を窺う。

「……………」

 静かだった。さっきまでの銃声も、化物の咆哮もなくなって、騒音の欠落は辺りに異常なまでの静寂を落とす。

 咲希もすでに耳から手を離している。耳を塞いでも防ぎきれなかった騒音が、今は嘘のように聞こえない。耳を解放しても、窓を閉め切った孤立したこの部屋には、空気の流れも感じない。

「……………………」

 雨宮は静かに前方へ銃口を向ける。右へ、左へ、僅かにその先端を変えて、いつ化物が姿を現してもいいように、視線を動かして周囲を窺う。

「ちっ」

 雨宮の舌打ちが聞こえる。

「いい加減出てこいよっ!」

 雨宮が怒鳴り声を上げる。咲希は驚いて反射的に身を強張らせる。普段の学校での様子では想像もつかないような、雨宮の、怒りを含んだ、声。

 自分から何かをするような性格ではなく、人と話をすることが下手で、自己主張の(とぼ)しい、咲希から言わせれば、貧弱な男子。

「こそこそしやがって」

 それが今はどうだろうか。

「いつまで隠れているつもりだっ!」

 ――……雨宮くん?

()るために出てきたんだろ?」

 銃を持って、実際に撃って、得体の知れない化物と戦っている。一昨日もそうだった。あの奇妙な仮面が現れると、まるで人が変わったように、乱暴な言葉を使う。

「逃げんなよっ!」

 その直後、雨宮は足を止めた。

 素早く振り向いて、雨宮が突然咲希に向かって銃口を向ける。

「!」

 一瞬でトリガーを握る。

 ――どどどどどどどどどッ!

 大量の銃弾が発砲された。

 咲希の背後の化物に向かって。

 ――アアアアアアアアアアアアアアア――ッ!

 化物の悲鳴がビルの中を震撼させる。

 雨宮は両手でしっかりと銃を握ったまま、咲希の横を駆け抜けていく。咲希は雨宮の動きを追って背後を振り向く。

 見ようとしたとき、咲希の体は雨宮の体に押されて、その勢いで僅かに後退する。突然の出来事に対応しきれず、咲希の体は床の上に倒れる。

「痛っ……!」

 倒れた咲希の視界で雨宮の体がぶれて、消える。化物の尾が雨宮の体を柱に向かってたたきつけた。

 ――どんッ!

 重厚感のある衝撃音。雨宮の小さな体がコンクリートでできた柱に激突したことを、咲希は視覚的にも理解した。

「……けほっ、ごほっ!」

 雨宮が咳き込むと同時に、雨宮の口から大量の血が吐き出された。赤い液体が埃で汚れた床の上を鮮血の色に濡らす。

 重々しい衝撃音と雨宮の喉から吐き出された小さな声が咲希の耳にこびりつく。雨宮が吐き出したばかりの血を、咲希は硬直したまま視界に捉えていた。

<p class=MsoNormaltext-indent:10.1ptpunctuation-wrap:simple

vertical-align:base>――血…………。

 雨宮の口から吐き出された血は、赤く、きれいな赤い色をしていて、普通の怪我では見ることのない、おびただしい量をしている。

「オオオオオ……」

 咲希の視界に影が落ちる。

<p class=MsoNormaltext-indent:10.1ptpunctuation-wrap:simple

vertical-align:base>――殺される……!

 逃げたい。でも体が動かない。

 叫びたい。でも声が出ない。

 咲希はその非現実な現実から目を背けられなかった。目を見開いたまま、金縛りにあったように動けなかった。

 雨宮が床に倒れた。柱は奇妙な形にへこみひび割れている。

 化物は自分の体を(いたわ)るように手で体を払いながら身を起こす。化物が自分の傷を払うたびに傷口は次第に小さくなっていく。傷が完全に()えきったわけではないが、目立つような傷がなくなっていくと、化物は蛇の胴体をくねらせて、雨宮のほうへと擦り寄り始める。

 雨宮は咳き込みながらも、サブマシンガンから離した左手で体を持ち上げようとする。化物はゆっくりとした動作で右腕を上げる。雨宮は右手を小刻みに震わせながら銃口を化物へと向ける。

 化物は雨宮に向かって、高く持ち上げた右腕を一気に振り下ろす。雨宮の銃から、化物に向かって、弾丸が激しい音を上げて飛び出す。

 ――どどどどどどどどどどどどどどどどどどどどッ!

 ――オアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!

 化物の悲鳴が部屋の中に満ち溢れる。

 雨宮の銃弾のほうが化物の腕よりも先に命中した。化物の体に無数の弾痕が刻まれていく。

 化物は身をよじりながら、再び影の中に逃げ込もうとする。雨宮は銃口を化物の足元へと向ける。厚みのある蛇の足は銃弾を受けるたびにヒトの頭くらいの窪みを生じ、化物は悲鳴とともに体を僅かに跳ね上げて、影に隠れることができない。

「うるせーな」

 雨宮は両手で銃を構える。口からは血が流れ、口から(あご)にかけて新鮮な血が筋を作り、学ランの上に赤黒い染みを作る。

「それしか言えねーのか?」

 咲希は硬直したまま、両者の闘争を見ていた。床に座り込んだ体は全く動こうとせず、瞳は閉じることも忘れて、目の前の現実を咲希の意識とは関係なく映している。

「だらしねーな」

 雨宮の侮辱的な言葉が漏れる。

「逃げるのかよっ!」

 化物は弾丸を避けるように大きく後退する。しかしサブマシンガンの断続的な砲火から逃れるのは困難を極める。

「結局口だけかよっ!」

 化物はその巨体を柱の影に隠す。雨宮はサブマシンガンの引き金から指を離した。きわどい位置だが、柱が盾になってこのままでは雨宮の攻撃は化物までは届かない。

「だらしねー」

 雨宮の舌打ちが聞こえてきそうだ。

「ここに居たいんだろ?」

 銃声が止んだ空間に、雨宮の声がよく通る。

「誰にもこの場所を侵されたくないんだろ?」

 雨宮は化物に向かって叱咤する。

 ――…………え?

 咲希には、雨宮の言っている意味がわからなかった。

 咲希には、化物の言葉がわからない。ただ叫んでいるだけで、そこに意味があるのかさえ理解できない。そんな相手に、人間の言葉が理解できようとは、咲希の思考ではどう考えても納得ができない。

 しかし、雨宮の喋り方は、化物に向かって確かに話しかけている。いや、そもそも、化物の気持ちを理解しているように聞こえる。

 ――言葉がわかる?

「殺りに出てきたんじゃねーのかよ」

 雨宮は左手を完全に銃から離して、銃を構えることもしないで、完全に無防備な体勢を曝しだした。

「殺るなら、びびってねーで、本気で殺りにこいっ!」

 雨宮が化物の隠れている柱に向かって怒鳴り声を上げた。

 直後。

 雨宮の目の前に化物が姿を現した。床から生えてきたように、音もなく、黒色の肌と、死人のような顔は不気味以外の表現が浮かばない。

 雨宮と化物との距離は二、三メートルほど、化物の腕のリーチならすぐにでも雨宮に攻撃が命中する。

「……っ!」

 雨宮は素早く銃を構える。

「オオオオオ――ッ!」

 だが化物の攻撃のほうが、雨宮が引き金を引くよりも明らかに早い。雨宮の体は化物の腕力に吹き飛ばされて、五、六メートル後方まで転がっていく。

 転がりながら、雨宮は器用に体勢を整えて、床の上に両足を踏みしめると、左手で体を支えながら、銃口と眼光を化物のほうへと向ける。

「やりやがったな」

「オオオオオ――ッ!」

 化物は雨宮に向かって猛進する。雨宮は両手でしっかりとサブマシンガンを握りしめると、トリガーにかけた右手の人差し指を躊躇いなく引いた。

 ――どどどどどどどどどどどどどどどどどどどどッ!

 無数の弾丸が化物の黒い肌に命中して、幾つもの弾痕(だんこん)を刻んでいく。

「オオオオオオオオオオ――ッ!」

 しかし止まらない。化物は、今度は止まらなかった。銃弾が自身の体を傷つけても、守る素振りも見せず、弾丸の雨の中を突っ込んでいく。

 雨宮も、避けようとしない。自分の正面に銃を構えたまま、引き金を引いたまま、動かない。恐怖のために硬直しているのとはまた違う、その瞳には確かな決意が感じられた。

 化物の突進は止まらなかった。その勢いのまま、化物は右腕を振りかぶり、その攻撃は逃げようとしない雨宮の体に、最高の威力で命中した。

 雨宮の体は宙を舞い、部屋の中に立っている柱に向かって飛んでいく。生身の体がそう何度も吐血するほどのダメージを追って無事でいられるはずがない。

 ――危ない!

 咲希は反射的に目を閉じた。このままでは雨宮はコンクリートでできた柱に衝突して、普通ならば無事に済むはずがない。再び血まみれになる雨宮の姿を想像して、咲希は堅く両目を閉じた。

 ――どッ!

 衝撃音が聞こえた。

 だがその音は、人が柱にぶつかるよりは軽い音をしていた。それに、先程の雨宮が柱に激突したときの音とは明らかに違う音をしていた。

 咲希はゆっくりと目を開けた。

 雨宮の体が、柱の手前に浮いている。手前といっても、あと一メートルもしないで硬質の柱に衝突するであろう、ぎりぎりの位置で雨宮の体は止まっている。その直後に、雨宮の体は重力に任せて落下して、両足を床に着けて見事な着地を果たした。

「やりやがったな」

 雨宮は駆け出した。サブマシンガンを両手で掴んで、化物に向かって駆けていく。体中傷だらけで、身に付けている学ランも血で汚れている。それでも、雨宮は戦いから逃げ出そうとせず、その得体の知れない化物に向かっていく。

「アオオオオ――ッ!」

 化物も、自分の傷にかまうことなく突進していく。体の傷はほっといても自然に修復されていくようだが、最初の時とは違い、意識して治そうとはしない。

 両者の闘争心は異様な高まりを見せている。

 咲希は雨宮をじっと見つめていた。

「…………」

 輝いている。

 雨宮の瞳が、輝いているように咲希には見えた。心底、満たされた表情をしている。化物との戦闘に満たされているような気がする。そういうふうに咲希には見えた。

 雨宮の顔の右側面に揺れる仮面の、その巨大な右目も、どこか輝いているように、咲希には見えた。

 雨宮と化物の姿を追っているうちに、咲希の視界に何かが映った。大分離れた階段のところに、それはいた。

 ――……何?

 雨宮たちの戦闘に目が集中していて、遠くのほうにある階段のほうは妙に暗く見える。そこにいる何かも、存在は理解できたが、ただ黒い影が階段のある場所にへばりついている程度の認識しかできなかった。

「………………」

 咲希はじっとそれを見る。見ているうちに焦点が合ってきて、次第に輪郭がはっきりしてきて、それが人であるということまで理解できるようになった。

 ――女の人……。

 その人影は、階段の手すりから上半身だけを覗かせていた。その人間はじっとしたまま、雨宮と化物の戦闘を眺めていた。

 咲希が階段のほうをじっと眺めていると、咲希の視線に気付いたのか、その人物はさっと身を翻して、階段の影に消えた。

 辺りには銃声と悲鳴しか聞こえない。

 ――あれは……。

 咲希の網膜にはいつまでもその光景が焼き付いていた。

 咲希と同じ高校の制服を着て、無造作に垂らした長い髪、大きな瞳、日本人形を思わせるような白い肌。

 お人形…………。

 ――お人形さんみたいな子だよねー。

 誰かがそう言っていたのを咲希は思い出した。それは確か一週間前に転校してきた、少女。

「高峰(あかり)

 咲希の口から自然と言葉が漏れる。

 ――何で高峰さんがここに……。

 階段の方向をぼんやりと見つめたまま、そう考えかけた咲希の耳に、いっそう悲痛な叫び声が飛び込んできた。咲希は反射的にその方角を見た。

 化物の上半身の左側は見事に削げ落ち、その屈強な下半身には幾つかの穴が穿(うが)ち、そこからは黒い液体のような、(もや)のようなものが流れている。

 雨宮は化物に向かって何かを投げた。野球ボールほどのそれは化物の大きく開いた口にすんなりと入った。

「失せな」

 ――ボゴッ。

 鈍い破裂音と共に化物の体は歪に膨らむ。出来損ないの風船のように、醜く化物の体は膨張し、急激に膨らんだ体は、拡散する空気に耐え切れなくなったゴム風船のように、破裂した。

 化物の体は砂のように、泡のように、塵のように、空気中に広がり、消えた。その消えゆく際の音が咲希には物悲しい旋律のようで耳に心地よかった。

 ――オレノイバショ。


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