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第一楽章 小さな転校生

 今日という日がなくなってしまえばいいのに。

 そうすれば少しは晴れやかな気持ちで周りを見ることができるのに。朝からこんな沈んだ気持ちにならずにすんだのに。

「おっはよー、咲希(さき)ぃー!」

 教室の席に座っていた咲希の背中を勢いよく叩く者がいた。

 しかし、不意にあった出来事にもかかわらず、咲希は特に気にする素振りもなく、一拍置いてから落ち着いた様子で振り向いた。

「おはよう、真奈(まな)

 咲希が言うと、真奈は笑った。

 真奈は咲希がこの高校に入って初めてできた友達で、明るさだけが取柄なような子だ。髪を両側で二つに縛り、動くたびにその髪の耳が宙に揺れ、きらきら輝いているように見えて、素直にかわいらしく思える。女子の中では小柄なほうで、いっそうに真奈の無邪気さを印象付けている。

「あれ?」

 真奈は気づいたように咲希の机を覗き込む。

 咲希の机の上にはB5のノートと、それよりも一回り大きい問題集のようなものが広げてあった。

 真奈が興味ありげに訊ねる。

「なにぃ咲希、塾の宿題?」

「そ」

 咲希はそれだけ言って机の方へ視線を戻す。

「たいへんだねぇ」

 真奈の明るい声が返ってきた。

 ――うっとうしい。

 咲希はもう返事はしないで、手にしたシャーペンを動かしていた。真奈が自分の席へと向かって行く。

 咲希がこの高校に入学して一ヶ月ほどは、塾のある火曜日に話しかけられると真奈を怒鳴りつけたりもしたけれど、二ヶ月目に入った今でも、一向に変わらない真奈の態度に、もはや怒る気もなく、心臓に悪いさっきの挨拶にも、変な身構えができてしまったのか、もう驚くこともなくなった。

「なになに?何の話?」

 自分の席に向かったはずの真奈は鞄も置かずに女子たちの話の輪の中に駆けて行く。遠くのほうで女子たちのおしゃべりが聞こえて、そのすぐ後に真奈のはしゃいだ声が咲希の耳に入ってきた。

 ――うっとうしい。

咲希は(うつむ)いたまま、自分の机の上に広げたノートと塾の教材をひたすら見つめていた。それと一緒に、咲希の右手に握られたシャーペンが機械的にノートに黒鉛を刻んでいく。

 腰まで届きそうなくらいに伸ばされた黒髪は、ゴムで括られることなく、真っ直ぐ地面に向かって垂れている。拘束されていない髪はよく手入れされているのか、傷んでいるところなどは見られない。唯一見られる装飾品は、額の少し上の辺りに付けられた白いヘアバンド、そしてその下からのぞく顔はきれいに整ってはいるものの、不機嫌に近い、静寂を帯びた目のせいか、今の咲希はとても近寄りがたい雰囲気を(かも)し出している。

 チャイムの音がスピーカーを通して学校中に響き渡る。

 それと同時に、クラス担任が教室の中に入って来た。薄く青みを帯びたよれよれのワイシャツに、暗緑色のセーターを着た中年の高橋先生は、いつものように日誌と出欠席表を脇に挟んでいた。

 普段と変わらない、どこか疲れた表情で教室のほうを見ると、これまた普段通りに深い溜め息を吐く。

「早く席に座れー」

 やる気のない担任の声を聞いて、立ち歩いている生徒たちはゆっくりと自分の席に着いていく。まだ話をしている生徒も少なくない。

 いつもならチャイムが鳴っても五分は必ず遅れる担任が、チャイムと同時に教室にやって来るなんてことは珍しい。

 しかし咲希は、それ以上気にすることもなく、机に目線を落としたまま、塾の宿題を続けていた。今の咲希の頭の中は、塾の宿題を終わらせることしか考えていなかった。

 全ての生徒がおおよそ自分の席の周りに着いたであろうことを確認して、担任は一人の生徒に視線を送る。

 視線を受けて、その生徒は気怠そうに口を開ける。

「起立っ」

 その声に続くように、ざわざわと生徒たちが立ち上がる。

 とはいっても、起立の号令に従ったのは、すでに着席していた一部の生徒。他の大多数は、すでに突っ立ったままだった。

「礼っ」

 その号令にまともに頭を下げたのは、ほんの一握り。残りのまじめな者は隣人と話をしながらも僅かに首を動かしたが、他は挨拶をする素振りも見せない。

 担任はそんな状況に気付いているのか、いないのか、礼をしたものの、特に注意の言葉を述べることはなかった。

「着席っ」

 この言葉には、さすがに全ての生徒が従った。教室の中にいる生徒たちは全員着席をする。話し声はまだ聞こえるが。

「ほら、静かにしろ」

 担任の注意を促す声がしたが、その声に深刻そうな響きはなく、まるで空気に向かって発せられたようにしか感じられない。

 担任は肩を落として溜め息をつく。しかし、それを気にするような生徒はこの教室には一人もいないようだ。

 担任が朝のホームルームを始める。

「えー、今日はまず転校生の紹介をします」

 その言葉に、ようやく生徒たちの意識が担任へと向いた。しかし、すぐにお互いの話に夢中になる。

「転校生?また?」

「今度も女子かな?」

「そんなわけないでしょ」

「今度は男子じゃない?」

「かわいい女子がいいなー」

「サイテー」

 教室の中ではそんな会話が飛び交っているが、咲希にとってはどっちだっていいことだった。クラスの人数が一人増えようが、これからの咲希の生活にそれほど影響を与えるものではないのだから。

 しかし、一週間前にもこのクラスには転校生が一人来たばかりだった。同じ教室に連続して転校生が来るというのは、少し気になる。

 咲希は僅かに視線を担任の方へと向ける。

「ほら、静かにしろ」

 覇気のない声で、担任は生徒たちに注意を促した。教室のざわめきは、少しも納まる気配がない。

 もう一度同じ注意をする。

 話し声の数は多少減った気もするが、騒々しいことには変わりない。だがそれ以上に注意を促す担任の声はしなかった。進展のない状況に飽きて、咲希は視線を机の上へと戻す。

 担任は溜め息をついてから、教室の外へ顔を向ける。

「入ってきなさい」

「あっ、はい」

 担任の呼びかけに答える声があった。しかしその弱々しい声は、教室の中の騒音に()き消されて、他の生徒たちに聞こえることはなかった。

 開いたままになっていた扉から一人の生徒が教室に入って来た。その姿を認めてか、教室の中にあったざわめきが徐々に引いていく。

 そして、教室中の視線がその生徒へと向けられる。誰一人として、声を発する者はいない。あまりの静けさに、下を向いていた咲希にも、人が入ってくる足音が聞き取れた。

 足音が止んだ。咲希は机の上の宿題に向けていた視線を、目だけ動かして教卓の方へとずらした。

 担任はその生徒の横に立って、前の黒板に白い文字を書き付けていく。下手とも、上手ともとれない文字は、バランスよく男子生徒の隣に記された。

 転校生は、今回は、男だった。

雨宮海斗(あめみやかいと)くんだ。みんな仲良くするように」

 担任は眠そうな顔で言った。

 典型的な言葉に、この担任は教師としてのやる気があるのかと咲希は疑いを抱く。普段から熱意というものを感じない担任だったが、ここまでありきたりな言葉を、やる気の欠けた声で言われると、担任の心中が怪しい。

 担任は隣に立っている男子生徒に軽く目を向ける。

「雨宮くん、何か一言」

「え?」

 雨宮と呼ばれた生徒は小さく狼狽の声を上げた。どうやら挨拶の言葉を考えていなかったようだ。

 雨宮は教卓の位置から教室の中を見た。そこは全ての生徒を見渡せる場所だが、同時に全ての生徒から注目される場所でもあった。

「……あ…………」

 教室中の視線を浴びて、雨宮は言葉に詰まる。明らかに緊張していることが見て取れた。生徒たちはじっと雨宮を見つめていた。重い沈黙が、さらに雨宮の緊張を加速させる。

 咲希も手を止めて転校してきた雨宮を冷めた目で見つめていた。

 第一印象は、とにかく小さい。

 隣で立っている担任の身長は、その年の日本男性としては平均、あるいは少し小柄くらいだと咲希は認識していたが、雨宮は担任より頭一つ分小さかった。

 今の男子としては珍しく制服をしっかりと着ていて、学ランのボタンは全てとまっている。制服の上に乗っかった小さな頭には、まだ幼さの残る顔があった。制服さえ着ていなければ、おそらく小学生と言っても、みんなが納得するだろう。

 その顔は緊張のためか、少し引きつっていた。

「………………」

 十秒くらい経ってから、雨宮は引きつった笑顔を作って、ようやく言葉を口にした。

「雨宮海斗、です」

 その表情は笑顔というよりは、むしろ苦笑に近かった。

「…………」

 生徒たちはまだ黙っていた。

 当然だ。

 これで自己紹介が終わったなどと考える者は一人もいないだろう。

「え、えーと……」

 雨宮は再び黙り込んだ。

 どうやらそれ以上の言葉が何も思いつかなかったらしい。それとも、緊張のためにど忘れでも起こしたのか。

 十分十秒経ってから、雨宮は苦笑のまま話を終えた。

「よろしくお願いします」

 そう言って、雨宮はお辞儀をする。

 その後で、教室内から拍手があがった。クラス全員が参加する大きな拍手だった。

 形式的だな、と咲希は手を叩きながら思った。

「それじゃ、一番後ろの席に着いて」

 拍手が収まってから、担任は窓側の一番後ろの席を示した。

 雨宮は床に置いていたショルダーバックを左肩に提げて、ゆっくりとした足取りで新しい自分の座席に向かった。近くの生徒たちは興味ありげに雨宮に視線を送る。

「ほら、静かにしろ」

 雨宮が席に着くのを確認すると、担任はそう言ってホームルームを続けた。そのときにはもう、咲希は自分の机に視線を落として、塾の宿題を続けていた。


 その日の昼休み。昼食の時間。

 時間はすでに休み時間の半分を経過して、この時間になると全ての生徒は食事を終えて、男子の半分くらいは校庭に出てサッカーやバスケットなどのスポーツをして、教室に残った一部の生徒は自分の席に座って漫画を読んでいて、残りの大多数は集まっておしゃべりを楽しんでいる。

 授業の合間に訪れる憩いの時間。

 その教室の中に、今日転校してきたばかりの雨宮が入ってきた。後ろの扉から入った雨宮は、そのまま窓際の一番後ろにある自分の席に座った。

 ほぼ同時くらいに、雨宮に声をかける者がいた。

「あっ、雨宮!」

 数人の女子生徒が雨宮の存在に気が付いて、彼の席へと向かう。

 呼ばれた雨宮は声のした方を向いて、自分に声をかけてきた女子生徒を目にすると、軽く会釈した。

(はやし)さん」

 名前を呼ばれた林は嬉しそうに笑った。

 林は、雨宮の座っている席の一つ前の席に座っていた女子生徒だ。前に座っていることもあって、雨宮が転校してから初めて話をした生徒で、そのとき声をかけてきたのも林の方からだった。

 女子の割には短く整えられた髪と、ボーイッシュな笑顔が特徴的な林は、いつでもみんなの中心にいることを、転校してきたばかりの雨宮でもすぐにわかった。

「どこ行ってたのさ」

 男っぽい口調で林は訊ねた。

 最初に林が雨宮に声をかけてきたときもこんな感じで、切れの良い男のような話し方をしていた。

 初めのうちは抵抗があったが、時折見せる純朴(じゅんぼく)な笑顔はとても女の子らしく、ややアンバランスさを感じるボーイッシュな雰囲気の口調も清涼(せいりょう)としていて、それが林の自然体なのだと思い、今の雨宮はそんな林とすっかりうち解けていた。

 雨宮が答える。

「ちょっとその辺りを。この学校のこと、まだよくわからないし」

 その言葉を聞いて、林は不服そうに口元を曲げる。

「だったら、あたしに言ってくれれば良かったのに」

 そのときの表情が男子のものとよく似ていて、雨宮は苦笑する。

「でも、お昼ご飯の時間を邪魔したら悪いから」

 そこに別の女子生徒が顔を出してきた。

「そういえば、雨宮くん、私たちがお昼食べるときにはもういなかったよねぇ?」

 声をかけられて、雨宮はその女子の方に顔を向ける。

 それと同時に気が付いた。

 いつの間にか、雨宮の机の周りには相当な人数の人だかりが、男子、女子、入り乱れてできていた。

「お昼は何を食べたの?」

 同じ生徒が雨宮に訊ねる。

「え……」

 大勢の生徒に注目されて、雨宮は一瞬言葉が出てこなかった。

「……おにぎり…………」

 ようやく出てきた言葉は簡素なものだった。

「……一つ」

「え~っ!」

 雨宮の答えた直後に、人だかりの中から悲鳴じみた声が上がった。

 その驚嘆の声に、雨宮は身を縮める。

 林が即座に声を上げた。

「お前、そんなんで大丈夫か?腹減るだろ」

 強い口調で言われて、雨宮は責められた気分になり、さらに身を縮める。

「でも……」

 反射的に、雨宮の口からはとりあえずそれだけ出たが、次の言葉が出てくるにはもうしばらくかかった。

 五秒くらいおいてから、雨宮は言葉を続けた。

「…………もう、おなかいっぱいだから」

「そんなわけないだろっ!」

 林が叱咤する。

「ちゃんとメシ食わないと力も出ないだろ。そんなんじゃ、一生ちっこいままだぞ」

 真剣な表情に押されて、雨宮は怯えたように体を強張(こわば)らせる。その顔は泣き出す前の子どもの表情に似ていた。

 その表情を見て、林は一瞬(ひる)む。

「いや、別に、そんなつもりは……」

 すると雨宮を囲む輪の中から、冷やかすように男子の声が上がった。

「林が転校生泣かした~」

 林はさっと表情を変えて、その男子を睨んだ。

「うっさいな!」

「うわっ!」

 怒鳴りつけられた男子は悲鳴じみた声を上げて一歩下がる。

 その様子を、雨宮は気の抜けた表情で眺めていた。怒鳴られた男子は本当に怖がっているように見えて、怒鳴った林は真剣な表情をしている。

「あはっ」

 雨宮は小さく吹き出した。

 それが聞こえたのか、周りの視線が雨宮に集中する。硬い表情をしていた林も、拍子抜けしたように雨宮を見る。

 その視線を感じて、雨宮は悪いことをしたと思った。真剣に怒っている林を笑うなんて、とても失礼なことだ。雨宮の頬が急に熱を帯びる。

 ――くすくすくす。

 人だかりの中から忍び笑いが聞こえた。周りの人の顔が次第にほころんでいく。それを見て林の顔も緩む。

「あはっ」

 林が笑った。

 それにあわせて、周りからどっと笑い声があがった。

 雨宮は一瞬状況が理解できなかったが、周囲に釣られて雨宮も笑う。

 教室全体が賑やかになった気分だった。

「そうそう、それ」

 ひとしきり笑いが起こった後で、林は雨宮に向かって口を開く。

「もっと笑ってくれなきゃ」

 林は言葉を続ける。

「別にあたしは怒ってるわけじゃないんだから、そんなすまなさそうな顔すんなって」

 言われて雨宮はまたすまなさそうな顔をする。

「うん」

 その様子を見て林は溜め息を吐く。

「雨宮って、男のくせに本当に女みてーだな」

 その後でまた男子の中から冷やかす声がした。

「林は、女のくせに男っぽいんだよ」

「うっせー、バカ!」

「ひゃあっ!」

 林がこぶしを振り上げて男子に向かって威嚇(いかく)する。それを見た男子は、両手を顔の前にかざして、必死に守りの体勢を作る。

 その光景に再び笑いが起こる。

「ねえねえ」

 人だかりの中から女子の声が上がる。

「雨宮くんってどこから引っ越して来たの?」

 笑っていた雨宮が答える。

「北海道のほうから」

 人だかりの中でどよめきが起こる。

「冬とか大変だったでしょう。雪で家が埋まっちゃうんでしょ?」

 もう一人の女子が声を上げた。

「確かに雪はすごかったね。でも、そこには二ヶ月くらいしかいなかったから、詳しいことはわからないけど」

「雨宮くんって転校が多いの?」

 また別の生徒が訊ねる。

 雨宮は一拍おいてから答える。

「そう、だね」

 その言葉を聞いて周囲の話し声が消えた。

 一瞬会話が途切れる。雨宮の周りで聞こえないざわめきが起きた。その沈黙が雨宮に戸惑いを与える。雨宮は暗い表情で周囲の生徒の表情を(うかが)う。

 ややあってから、一人の男子が雨宮に訊いた。

「雨宮は今どこに住んでるの?」

 雨宮は少し安心した様子でゆっくりと答える。

「この近くのアパート」

 雨宮の答えに、周囲の視線が再び雨宮に集中する。

「どの辺り?」

 女子の一人が訊いた。

 雨宮はしばらく考えてからおずおずと口を開く。

「僕も来たばかりだから、この辺りのことはまだわからないんだけど…………」

 そう前置きして、さらに考え込む。

 周囲の視線は、雨宮の言葉を静かに見守る。雨宮は上目遣(うわめづか)いに視線を感じて、素早く視線を落とす。

 ようやく雨宮は答えた。

「コンビニの近く」

「コンビニなんてどこにでもあるじゃん!」

 どっと笑い声が上がった。それに釣られて雨宮も笑う。

「でも、前いたところにはコンビニとかなかったの?」

「うーん……、北海道にいたときは、コンビニを見たことはなかったかな」

 でも、と言って一人の男子が口を開いた。

「今時、コンビニがないところなんてないだろ」

「そうそう。それに転校多かったんだろ。コンビニが珍しいなんてことはないよな?」

「うーん……、結構辺鄙(へんぴ)なところを転々としていたような…………」

 雨宮が返答にあえいでいると、一人の男子が投げやりな口調で呟いた。

「ここも田舎だしな」

 そうだね、と肯定する声が一部に上がった。

 しかしその声はほんの(わず)かなものだった。

 残った大多数の生徒たちは、そんなことはない、と熱く訴えるような声で、先ほどの発言者に反論の言葉を浴びせる。

「カラオケあるじゃん」

「ゲーセンもあるだろ」

「大きな本屋だって近くにあるよ」

「服だって店数多いし」

「レストランもあるでしょ」

 そこに再びツッコミが入った。

「全部娯楽スポットじゃん!」

 どっと笑い声が上がった。それに釣られて雨宮も笑う。

 ちょうどそのとき、昼休みの終わりを告げるチャイムの音がスピーカーを通して学校中に響き渡る。

「いっけない。次の授業の準備しなきゃ」

 その音を聞いて、雨宮の席を囲んでいた生徒たちが次第に離れていく。

「あたしも教科書取りに行ってくる」

 そう言って、林も他の女子たちと一緒に廊下のロッカーに次の授業に必要なものを取りに行く。

 何人かの生徒が教室に入って来て、その女子生徒も扉をくぐる。女子生徒は一瞬雨宮のほうを薄く睨むと、すぐさま視線を逸らして、自分の席に向かう。

 多くの生徒が廊下のロッカーに教科書類を取りに向かう中で、その女子生徒は自分の机から教科書、ノート、筆記用具を取り出して、机の上に放った。

 その後で、咲希が小さく息を吐いたことには誰も気付かない。

「ヤッホー、咲希ぃー!」

 ロッカーから教科書を取ってきた真奈が、咲希の席に向かって駆け寄った。呼ばれて咲希は、軽く視線を真奈へと向ける。

「咲希、どこ行ってたの?」

「別に」

 真奈の質問に、咲希は曖昧に答える。

 真奈はまだ納得しなかった。

「ご飯食べ終わったらすぐいなくなっちゃったんだもん。何か用事?」

 この日、昼食を終えた咲希はしばらく塾の宿題をしていた。塾のある日は決まってそうしていた。

 宿題は毎回出されるので、土日にまとめてやってしまえばいいのだが、今までに咲希がそうしたことは一度もなかった。単純に、休みの日は勉強からは解放されたいという怠惰な理由からだった。

 だから、決まって塾のある当日になって、前回の塾の内容を思い出しながら問題を解いていく。

 この日も、昼休みの間に塾の宿題をやりきるつもりだった。できなくても、授業のある時間までに解ききれるようにやっておくはずだった。

 しかしそれができなかった。

 その理由は、今日の教室がいつも以上に騒々しかったからだ。特に、一番後ろの窓側の席が最もひどかった。

 咲希は集中力を切らして、教室を出ていた。特に行きたい場所があったわけでもないが、何もしないで教室にいるのは咲希には耐えられなかった。咲希は昼休みが終わるまで校内をただ歩いていた。

 そんなことをしていても何か状況の変化が訪れるわけがないことを、咲希は十分認識していた。唯一の収穫は、どこへ行ったって、学校にいる限り、賑やかで、騒々しいということだけだ。

「別に」

 咲希はそれしか言わない。咲希には、それ以上の答えようがなかったし、それ以上答える気もなかった。

 そんな咲希の態度に真奈が訝しんでいると、授業開始の予鈴が鳴った。

 真奈は素早く顔を上げて、最後に一言だけ。

「また後で話するね」

 そう残して自分の席に向かって駆けて行く。

 ようやく真奈が離れていったのを確認すると、咲希は再び小さく息を吐いた。


 ――今日は最悪だ。

 放課後の教室、掃除も終わって、整列された机がきれいに並んでいる。日はだいぶ傾いてきて、西側の窓からは、赤みを帯びた太陽の温かな光が教室の半分くらいを照らし出し、部屋の中でも眩しさを感じる。

 授業が終わったというのに、学校には多くの生徒が残っている。それは特に驚くことのない、いつもの風景。生徒同士、仲間同士でおしゃべりをして、同じ時を過ごして、戯れ合う。そんな穏やかな時間。

 その空間の中に、場違いな存在が一つ混じっていた。

 机に座ったまま、一人だけ、静かに勉強に励む咲希の姿があった。咲希の机の周りだけ、ぽっかりと穴の開いたように、他の生徒を寄せ付けない空気が重く淀んでいた。

 咲希は机の上のノートと塾の教材を睨みつけたまま、黙ってシャーペンを動かしている。その表情は無表情に近いが、どことなく堅い印象を与える。

 そんな咲希を気にする生徒はおらず、周囲の生徒たちは互いのおしゃべりに夢中になっている。

 ――うっとうしい。

 咲希は無意識に手に力を込める。

 その勢いで、ノートに押しつけられたシャーペンから芯が折れた。ノートの上に黒い汚れを作って、折れた芯の先は咲希の机からこぼれて床に落ちる。勢いよく飛んだ芯はもうどこにも見当たらない。

「…………」

 咲希は芯の折れたシャーペンを見下ろした。

 その後で、咲希は顔色一つ変えず、黙ったまま、右手の親指でシャーペンの頭をカチカチと二回押して、再び塾の宿題を始めた。

 その直後に、教室の後ろの席に集まっている集団の中から驚きに近い歓声が上がった。教室の空気が一気に明るくなる。

 ――パキッ。

 再び咲希の持つシャーペンの芯が折れた。

 折れた芯は小さな音を立てて、今度は目の前の席に向かって飛んでいった。

 前の席に誰もいなかったために、数ミリの長さの黒鉛は、汚れのない机の上にきれいに着地した。

 咲希は誰にも聞こえないように、しかし長く、低い息を吐いた。

 ――今日は最悪だ。

 咲希は気を落ちつかせようと、静かに目を閉じた。

 ――うっとうしい。

 塾の日の放課後はただでさえうっとうしいのに、今日のこのうるささには本当に腹立たしいくらいだ。

 その根本の原因は、今日転校して来た雨宮海斗。こいつのおかげで今日一日中、うるさくって仕様がない。

 休み時間ごとに雨宮の席を何人かの生徒たちが囲んで、雨宮に対して幾つかの質問をして、雨宮の返答ごとにいらないリアクションをとる。授業の合間の休み時間は次の授業の準備のみに専念して、みんな大人しくしていればいいのにと咲希は願っているが、その望みが叶ったことは一度もない。

 昼休みのときはもっとひどくなり、他の教室からも人だかりがやって来て、よりいっそうの騒音を()き散らす。

 普段から昼休みというものはやかましいしい時間なのだが、ここまでひどいとイライラしてくる。いや、普段から昼休みは咲希の心を苛立たせてはいたが、それでもいつもなら平常心を装うことができた。

 だが今日は、無理矢理心を落ちつかせて、塾の宿題にのみ神経を向けることすらできなかった。

 放課後になった今でも、雨宮の席の周囲には何人もの生徒たちの集まりのせいで奇妙な膨らみが出来上がっていて、今日何度も行われてきたことを繰り返している。その騒々しさに衰退の様子は見られない。

 そんなに転校生がおもしろいのか、と咲希は不思議に思う。

 確かに転校生というものからは異質な雰囲気を感じるものだが、そうはいっても放課後になれば大部分の情報は聞き出せただろうから、ここまで盛り上がれるのは少し異常だと咲希は思った。

 それに、このクラスでは転校生は初めてのことではない。

 これで二人目だ。そう昔の話でもない。

 このクラスにとって、転校生という話題はそれほど新鮮みをもたず、珍しくも何ともないはずだ。

 それなのに、今この瞬間、瞬間が非常に騒々しく、この空間が憎たらしいほど、咲希にはうっとうしかった。

 そして、

「ねえ咲希、雨宮くんってかわいいよねぇ?」

 今日何度目になるだろう質問を、真奈はまた咲希にしてきた。

 話しかけられた咲希は俯いたまま目を開けた。

「そう?」

 咲希は振り向きもせずに、それだけ言った。咲希の視線は、自分の机の上を真っ直ぐ見据えていた。

「雨宮くんって、転校多いんだって。あと……」

 真奈の報告が始まった。今日は一日中この話題ばかり。

 咲希は手に持ったままのシャーペンを動かし始めた。真奈の話をほとんど聞き流して、咲希は宿題を続けた。

 いつもの咲希だったなら、放課後まで塾の宿題がかかることはなく、この時間はもう学校を出ていることが多い。そうでなくても、勉強道具を机の上に広げておくことなど、まずありえない。

 しかし今日は転校生騒ぎのために、勉強への集中力を損ない、放課後となった今でも、宿題をやりきれてはいなかった。そして放課後になっても、生徒たちの存在が咲希の精神を乱していた。

 真奈の話が続く。

「今はアパートで一人暮らししているんだって。一人暮らしって、どんな感じなんだろうね。憧れちゃうけど、料理とか、洗濯とか、大変なんだろうな」

 真奈はとても楽しそうだった。

 しかし咲希は無表情で黙ったままだった。

 返事はしない。

 返事をしていると、集中力を欠くし、なお且つ、真奈のテンションに拍車をかけるだけだから。

 だが、無返答にもかかわらず、真奈の話に終焉(しゅうえん)が見えてこない。咲希の苛立(いらだ)ちは募るばかりだった。

 ――何でそんなに楽しそうなの?

 咲希は、限りなく無感情の表情で机の上に広げられたノートと塾のテキストを見つめる。静止した表情はとても異質だった。

 ――何で私の邪魔をするの?

 真奈は咲希の心中をまるで理解していない様子で、無遠慮に話を続ける。真奈の弾んだ笑い声は、咲希の心を残酷なまでに抉っていく。

 ――私をイライラさせてそんなに楽しいわけ?

 咲希は必死に力を押さえてシャーペンを動かし続ける。真奈が見ているときに芯が折れるようなことがあってはならない。

 ――それとも私を嘲笑いに来たの?

 塾の宿題は後半の問題になるほど難しくなっていくような気がした。それでも咲希は手を止めることはない。

 ――塾なんかに行っているから?

 今の咲希に問題の難易度など、すでに関係のない次元に達している。そもそも、問題を真剣に読んでいないし、理解しようなんてことは全くしていない。

 ――誰が塾なんか……。

 とりあえずノートを埋めて、表面上やったという痕跡を残す作業に移行している。どうせ塾では宿題をやってきたかどうかをちゃんと確認しない。それでもやっておくのは、塾の先生に当てられたときに答えられるようにするためである。

 ――私の意志だと本気で思っているの?

 咲希はシャーペンを動かしている手を止めた。

 ようやく宿題が終わり、咲希は正面の時計を見た。電車の時間までまだ時間がある。しかし、咲希は机の上のものを急いで鞄の中へ放り込んだ。

「ゴメン真奈、私塾があるからもう行くね」

 咲希は鞄を掴むと、走って教室を出て行った。

 廊下では、複数の生徒が集団を作って楽しげにおしゃべりをしていたが、咲希は気にも留めずにその中を駆けて行き、階段を笑いながら上る女子たちの脇を通り抜け、一階に着いた。それから、呼吸を整えながら――しかし早足で――下駄箱へと歩き出す。

 急ぐ必要があったわけではない。学校から駅までは、普通に歩いても十分以内で行ける。それに電車だって、これから来る電車を逃しても、その次の電車に乗れれば塾の始まる時間までには十分間に合う。

 それでも走って教室を出てきたのは、できる限り早く真奈から、教室から離れたかったからだ。

 塾の日はいつもそうだ。

 行かなくてはならない塾、これから行われる苦痛でしかない拘束の時間。

 それだけが咲希の思考回路を縛りつけ、何もかもが苦痛に思えてしまう。何もない、何も知らない周囲の話し声や笑い声は、咲希の苦痛をせせら笑うようで、うっとうしいものでしかない。

 咲希が塾へ行くのは、親に決められたことだからだ。そうでなければ、咲希が塾に行くはずもない。

 ――何で私が。

 最初は塾に行くことを拒否していたが、咲希の両親は咲希の意見を受け入れてはくれなかった。

 ――塾なんか行きたくないのに。

 むしろ、両親は咲希の発言に激怒した。

 ――私の苦しみを理解していない。

(何を言っているんだ。学校の勉強だけじゃ、ろくな大学に行けないぞ)

(お父さんの言う通りよ。学校には塾へ行っている子もいるでしょ?)

(大学受験は全国が相手だからな。学校で成績がいいだけじゃ意味がないんだぞ)

(ほら、いつまでもわがまま言ってないで仕度しなさい。今から塾の先生に挨拶しに行くんだから)

 ――あんたたちは私の何を知っているの?

 中学生の時も塾に行っていた。その頃から塾は嫌いだった。

 勉強が嫌いだったという理由もある。学校以上の塾の内容は難しく、時々、自分が何をしているのかがわからなくなる。それでも塾の勉強は、常に直進的に進んでいく。

 宿題は毎回のように出されて、学校の宿題もしなければならないから、勉強の苦労は普通の人の二倍。いや、塾で出される課題は学校のものより難易度が高いから、それ以上と考えるべきだ。

 だがそれ以上に咲希が憎んでいたのは、拘束だ。

 塾の宿題を終わらせるのに、何時間も消費して、夏休みや冬休みになっても、講習会に行かなければならない、その時間の拘束。

 行きたくもない塾へ行かされる。遊びたくても塾のせいで遊べない。自分の意志に関わらず、結局塾にいなければならない、存在の拘束。

 塾には大勢の人がいる。狭い部屋の中で限界まで人を押し込んで、そして一人一人が勉強することを強制する。他人は互いに無関心で、それでもそこに存在する煩わしさが、塾という閉塞空間を圧迫する、空間の拘束。

 高校になれば塾は行かなくてもいいと言われていたので、それまで我慢していたが、結局高校生になっても、別の塾に行かなければならない。

 ――最悪。

 咲希は下足ロッカーに着くと、自分の下駄箱を開けて、無造作に手を突っ込んだ。

 指先に靴以外のものに触れる感触があり、咲希は眉をひそめる。

 それを掴んで手を出してみると、くしゃくしゃになった紙切れが一枚出てきた。しばらく眺めてから紙を広げてみると、ノートの切れ端のような薄いラインの上に「駐輪場へ来てくれ」と斜めに上がった下手くそな字で書いてあった。

 紙切れには他に何も書かれていなかった。書いた人物や用件などについて、全く把握できない。

 咲希は不審に思いながらも、時間に余裕があったので、駐輪場のほうへ行ってみることにした。


 日はすでに町の建物と重なって、僅かに漏れた光がほぼ水平に放たれて長い影を地面に映し出している。橙色の太陽は空を夕焼けの色に染め上げて、光を受けた全てのものは赤く燃え上がっている。

 咲希が駐輪場に着くと、そこには一人の男子生徒の姿があった。その生徒以外、誰もいなかった。

 もっと多くの生徒がいるだろうと予想していたので、咲希は軽く驚いたが、授業自体が終わってからだいぶ経っているので、今のような中途半端な時間に帰る生徒はいないのだろうと、咲希は自分を納得させた。

 ――ジャリ、ジャリ、…………。

 咲希が歩くたびに、アスファルトから分離した人工の小石が転がって、地面と擦れて音を出した。

 その音に気が付いて、男子生徒は振り向いた。

上嶋(うえじま)さん」

 咲希を前にして男子は呟いた。

 咲希はその男子生徒に見覚えはなかった。だから自分の名前を呼ばれたとき、僅かな不信感が心の中に芽生えた。

「この手紙」

 歩きながら、咲希は手にした紙切れを男子に見えるようにちらつかせる。

「あなた?」

 咲希は足を止めて訊いた。

 咲希の質問に対して、男子は何も言わない。

 男子はじっと咲希を見つめていた。その顔は夕焼けに照らされて、橙に近い赤の色に輝いていた。

「俺と付き合ってください」

 その男子は、咲希に向かってそう言って、頭を下げた。

 咲希は一瞬、驚いた様子で男子を見た。

 そしてすぐに表情を変える。

 ――なるほどそういうことか。

 ようやく咲希は全てを理解した。

 本当に今日は最悪だ、と咲希は心の底から、今日という日を、そしてこの不幸な運命を呪った。

 咲希は不快なものを見るようにその男子を見下ろした。

「いや」

 咲希は淡泊な口調で短くそれだけ言うと、頭を下げたままの男子に背を向けて早足に歩き出した。

 男子は咲希の返答を聞いて、素早く顔を上げた。そのまま咲希の後ろ姿を目にして、呆気に取られたのか、しばらく呆然と突っ立ったままだった。

 ややあってから、なんとか男子は口を開いた。

「…………ど、どうして?」

 その質問に咲希は答えない。

 理由を説明することが面倒だから。わざわざ理由を説明しなければならないいわれもないし、親切に理由を教える義理もない。

 何も言わず、沈黙を通して歩き続ける。早足の速度を維持したままで、咲希は男子から離れていく。

 男子は置いていかれないように咲希の後を追う。

「誰かと付き合っているとか?」

 咲希は振り向きもしないで答える。

「いいえ」

 男子は咲希の後を追いながら言葉を捜す。

「それじゃ、誰か他に好きな人がいるとか?」

 対する咲希の言葉は素っ気ない。

「いいえ」

 男子は(すが)る思いで言葉を(つむ)ぐ。

「だ、だったら俺と付き合っても……」

 咲希はきっぱりと言い放つ。

「あんたが嫌いなの」

 男子の付いて来る足音が止まった。咲希は立ち止まらずに歩き続ける。二人しかいない空間に咲希の足音がよく響く。

 ――何でこんなところへ来てしまったんだろう。

 咲希は心から自分の愚かさを悔いた。

 ――付き合う?

 冗談じゃない。

 あんな典型的な手紙、どういう意味かなんてすぐにでも気付きそうなものなのに。真っ直ぐ駅へ行っていればよかったのに。そうすれば、今頃、誰とも関わらずに、塾の教室の中で拘束が始まるのを待っているだけで済んだのに。

 ――最悪。

 何もかもが憎たらしく見える。

 咲希は暴れる感情を地面にぶつけながら、もと来た道に沿って足を動かす。コンクリートで覆われた道の上で砂利が嫌な音を立てる。

 男子は困惑したように、視線が定まらない。

「…………そんな……」

 男子の愕然(がくぜん)とした声が漏れる。

 しかし、咲希の足が止まる様子はない。

「まだちゃんと話もしたことないのに……」

 その言葉には、僅かな可能性を望む、悲痛な訴えがあった。立ち止まった男子の背中が哀れに見える。

 だが、その声にさえ、咲希が同情することはなかった。怒気を含んだ不満の表情で、咲希の足はさらに加速する。

「…………」

 男子は俯いた。

 男子生徒の小さな影が、誰もいない駐輪場の中で、夕日に照らされて、今にも消えそうなほど弱々しかった。

「……どうして…………」

 男子は小さく呟いた。

 さっきまでとは違う強い声。

 下を向いたまま発せられた言葉には、夜の闇に半分足を踏み入れた、呪詛めいた響きがあった。

 男子は勢いよく顔を上げた。そこには、真剣な、誰が見ても真剣だと感じ取れる表情があった。

 男子は可能の限りの声を咲希にぶつけた。

「どうしてそんなことが言えるんだっ!」

 男子の叫び声。

 ――うっとうしい。

 咲希は足を止めた。

 そしてそのまま素早く振り向いて、目の前の男子を真っ直ぐ視界に入れて叫び返した。

「そのキモイ顔!鏡で見てみなさいよ。一度見ただけで吐き気がして二度と見たくなくなるから。それに、あんな紙屑!いつの時代の人がやるのって話?バッカじゃないの。あんなんで、自分上出来とか、本気で思ってるわけ?脳みそ腐ってんじゃないの。顔だけじゃなくて、頭の中まで腐ってるなんて、最低。あんたを嫌いにならない理由がわかんないんですけど。一遍、精神科に行ってみたら!」

 毒のこもった言葉が、怒気と侮蔑を含んだ声から、朱色の空に向かって吐き出される。先程までの無関心な冷え切った声とは対照的に、感情を得た、敵意をありありと見せつけるような鋭い声だった。

「…………」

 男子は硬直したまま何も言わなかった。毒気に当てられたように体が麻痺して、思考が停止してしまった。

「…………」

 言い終わると、咲希はすぐに男子に背を向けて、再び歩き出した。男子が付いて来る様子はない。

 ――今日は最悪だ。

 よりにもよって、こんな醜男(ぶおとこ)

 咲希は特に男子の顔を見たわけではない。そもそも、見ようという意識など、情け程度にも持ち合わせていなかった。

 たとえ美男子であったとしても、咲希としては、高校生になってもうすぐ二ヶ月経とうとしている程度の状況で、大して――と言うよりは、全く――知りもしない相手と付き合おうという気持ちには到底なれなかった。それ以前に、今の咲希は、誰とも馴れ合う気持ちにはなれそうにない。

 今の咲希を支配している感情、それは他人の存在に対する不満、怒り。そしてこれから始まる苦痛への苦悩、それだけだった。

 周りは自分にとって、騒々しいだけで、うっとうしい。加えて、自分の苦しみを知らないだけに質が悪い。自分はこんなにも辛いのに。

 ――どうして?

 訊きたいのはこっちの方だ。

 ――どうしてそんなことが言えるんだっ!

 叫びたいのはこっちの方だ。

 そのときだった。

 突然、耳を(つんざ)くような音が辺りに響いた。


 咲希は反射的に両耳を両手で塞いだ。

 頭蓋骨の裏側を削られるような高周波。身体から伝わる音波は、耳を塞いでも、頭蓋の中に浮かぶ脳みそに向かって、信号を送り続ける。その強烈な信号に耐えられず、脳神経が悲鳴を上げる。

 咲希を支える二本の足がくの字に折れる。互いの膝がくっつく近さまで身を屈める。立っているのが辛い。

 咲希は必死で両耳を手で塞いだ。

 脳髄を砕くような、強烈な音から逃れようと、咲希は力の限り両手を耳に押さえつける。圧迫する力は限界を超えて、腕は震えだし、十本の指は、頭皮に食い込みそうな力のせいで、爪の裏の肉が白く変色している。

 ――うっとうしい!

 咲希は無意識に後ろを振り向いた。

 それを目にした瞬間、耳を(ふさ)ぐのを忘れた。咲希の(まぶた)は力を失ったように開いて、見開いた瞳にそれが映る。

 駐輪場の屋根を超え、三メートル近い、化物。

 ヒトのように五体は持つけれど、ヒトとは異なる黒色の皮膚。

 その大きさにふさわしい、屈強な腕と太い足には爪がついておらず、滑らかな指が露出している。

 首のない巨大な頭と顔の大半を埋め尽くす大きな口は大きく開かれ、ヒト一人簡単に飲み込めそうだ。

 この破壊的なノイズが、化物の雄叫(おたけ)びだということを、咲希はようやく理解することができた。

「オオオオオ――ッ!」

 化物は空を仰いだまま咆哮(ほうこう)していた。

 咲希の理性がこの化物の存在を異常だと認識する。この奇怪な現実を危険だと警告する。早く逃げろと咲希の体に指令を出す。

 しかし咲希の体は言うことを聞いてくれない。凍り付いたように動かない。身体の先は、咲希の意志に関わらず震えていた。

 化物が突如として暴れだした。

 化物の腕が駐輪場の屋根や柱を殴りつけ、一歩足を踏み出すたびにアスファルトを埋め込まれたはずの地面が揺れるような気がする。

 周囲の自転車がばらばらと倒れる。

 その音を聞いて、ようやく咲希の体は現実を理解したようだ。咲希は素早く振り向いて、逃げるように走り出した。

「オオオオオ――ッ!」

 後ろから再び化物の雄叫びが響いた。痛ましい高周波に頭が割れそうになり、咲希の視界の鮮明度が急激に落ちる。

「……っ!」

 咲希は片手で頭を押さえる。

 数秒後、足がもつれて咲希は地面に倒れる。

「いっ、たた……」

 倒れた部分を鈍い痛みが覆う。痛みは次第に咲希の体を熱くする。咲希は痛みのためにこのままうずくまっていたい衝動に駆られる。

 地響きが地面の表面を伝わってくる。

 それを感じたとき、咲希ははっとする。

 その直後に咲希の背後で巨大な生き物の足音が聞こえた。

「…………」

 足音が自分の方へと近づいてくるのが咲希にはわかった。それと同時に自分の心臓が熱く脈打っているのが感じ取れた。

「………………」

 後ろを見なければいけないと咲希は思った。しかし振り向けなかった。自分の背後に潜む現実を見る勇気がなかった。

 見なければ、自分の身が危ないということは感じている。けれど、振り向くことに躊躇(ちゅうちょ)していた。それを見たら、自分の一生がメチャクチャになる気がした。

「………………」

 足音はもう近くまで迫っている。

 時間がない。

 ――あんなもの。

 咲希は強く瞼を閉じる。

 ――いるはずがない。

 咲希は目を開いて振り向いた。

 そこには、あの真っ黒な化物が立っていた。咲希との距離はもう僅かしかない。化物の影が自分の体を覆っていることに、咲希は初めて気が付いた。

「オオオオオッ!」

 咆哮と同時に、化物はその巨大な腕を振り上げる。

 咲希は慌てて立ち上がり、再び駆け出した。

 咲希の背後で巨大な地響きが大地を揺さぶり、その余波は空気を震わして咲希の背中に伝播(でんぱ)する。

 咲希は倒れそうになるのを必死に堪えて、その場から逃げるように走り続ける。逃げようとした。

 だが、その直後に咲希の体は何かに吹き飛ばされ、整然と並ぶ自転車の中に突っ込んだ。その衝撃で、自転車が嫌な音を立てて倒れる。

 ――痛い。

 咲希は身を屈めた状態で、自転車の上に倒れこんだ。金属が触れる特有な音が、波紋のように広がる。

 ――何で。

 咲希は泣きたくなる感情を必死に堪える。

 ――何で私がこんな目に会わなきゃいけないの?

 今日は最悪だ。

 何もかもが。

 痛みが体中を駆けめぐる。体から力が抜けていくような、痛みに痺れた体はうまく動かない。咲希は体を丸めて必死に痛みを耐える。

 自転車の上でうずくまったまま、咲希はゆっくりと目を開ける。化物がこっちへ近づいてくる重々しい足音が聞こえる。

 そして化物の黒い足が見えた。上半身は屋根に隠れて咲希には見えない。黒い足は咲希の方へとゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。

 足の動きが止まる。あの化物なら、きっと充分咲希まで手が届く位置だ。

 ――殺される……!

 思って瞼を硬く閉じる。

 咆哮が聞こえた。

 次の瞬間、体が浮き上がり、直後に物凄い音がした。地面にたたきつけられる感触を、咲希は感じる。体と地面との間に摩擦が生じたため、咲希は体中に痛みを感じる。

「いっ、てて……」

 その声を咲希は耳にする。

 咲希ではない、別の人間の声だ。

「…………」

 咲希はゆっくりと瞼を開けてみた。

 人の姿があった。咲希と折り重なるように。そして制服から、この学校の男子生徒であることを咲希は即座に理解した。

 咲希の上に乗っかっていた男子は徐々に体を持ち上げ、咲希の腹部に伏せていた顔を咲希のほうに向けた。

「大丈……」

「触んないで!」

 男子生徒が言葉を言い切る前に、咲希は反射的にその男子の頬を思い切りひっぱ叩いた。

 ぱんっ、という乾いた音とともに、男子の体が横へ飛んで倒れる。

「はー、はー……」

 咲希の呼吸はわずかに乱れていた。荒い呼吸が咲希の体中をまとう痛みを加速させたが、今の咲希にそれを感じ取る余裕はなかった。

「…………」

 しばらくして、咲希は自分のしたことに気がついた。

「ゴメン、つい……」

 咲希は心配そうに横になった男子を見る。

 口説いてきた男子とは違う、見知らぬ男子に向かって平手打ち。混乱しているとはいえ、少し悪いことをしてしまった、と咲希は後悔した。

 倒れた男子は体を起こして、咲希のほうへ顔を向けた。

「アハハ、それだけ元気なら大丈夫だね」

 その男子の顔を見て咲希は驚いた。

 少し癖のある髪はよく見ると薄く茶色がかっていて、幼さの残る顔は柔らかそうな頬を持っている。何よりも、いやに目に付く苦笑が一番印象的だった。

「雨宮くん?」

 咲希は無意識に呟いた。

 そこにいたのは、今日転校してきたばかりの雨宮海斗だった。

 咲希が言った直後に、雨宮の顔から笑顔が消えた。

「何で僕の名前知ってるの?」

 声変わりを迎えていない声で雨宮が訊いた。

 雨宮が心底驚いている様子なので、咲希は正直に答えた。

「私、同じクラスの上嶋咲希」

 雨宮は、本当に驚いているように見えた。それと同時に、なにか困っているようにも咲希には感じ取れた。

 雨宮はばつが悪そうに頭をかく。

 ――アオオオオ――ッ!

 突然、耳を劈くような音が辺りに響いた。

 咲希が顔を上げると、少し離れたところで化物が顔をあちこちに向けている。何かを探しているように見える。

 そして、咲希と目が合った。

「……!」

 咲希の背筋に嫌なものが走る。

 産毛(うぶげ)のような柔らかいものが、風のように皮膚の上で転がる、異質な感覚。体が強張っていくのが、リアルタイムで認識できる。

 逃げろ、と咲希の理性が叫ぶ。

 それなのに…………。

 ――何で……。

 体が動かない。

 足が、地面から離れない。

 化物の、白熱電球のような、対の目が、咲希を見る。

 これを恐怖というのか。

「………………」

 咲希は硬直したまま、声も出せなかった。

 声が上から降ってきた。

「立って、少し走るけど」

 雨宮はいつの間に立ち上がったのか、咲希の手を掴んで、動けない咲希の体を無理矢理立たせた。

「アオオオオ――ッ!」

 化物の咆哮。

 その直後に地響きを感じる。

 咲希の体が起き上がったのを確認すると、雨宮は咲希の手を強く握って、引っ張りながら駆け出した。

 化物が二人の後を追ってくる。しかし化物の足は思ったよりも遅く、二人との距離はあっという間に離れていった。次第に遠ざかる足音で、咲希は化物から離れていることを理解し、僅かばかりの安堵を覚える。

 走りながら咲希は思った。

 もしかしたら、この雨宮海斗は、先ほど自分が目を閉じている間に、あの化物の攻撃から自分を助けてくれたのではないか、と。そうだとすれば、そんな恩人であるはずの雨宮を殴ってしまい、悪いことをしてしまったと反省し、今も自分を助けようとしていることには心から感謝している。

 ――でも…………。

 咲希には不安があった。

 クラスの女子の中で、咲希は一番背が高い。いや、おそらく男子と比較しても、咲希を超える者はいないかもしれない。

 だからほとんどの場合、咲希の目に入る人間は、咲希の目線より下になる。わかりやすく言えば、咲希にとってほとんどの人間は小さい。

 とはいえ、今、咲希の手を引っ張って走っている雨宮の頭は、咲希の肩よりも下のほうにあった。男子はもちろん、もしかしたらクラスの女子の中で背比べをしても、一番小さいかもしれない。

 それに、雨宮の手は、ゴツゴツした印象のある男子のものとは明らかに異なり、むしろ女子の手と同じように、柔らかくて繊細なイメージを与える。

 ――こんな小さい男子に助けられている。

 こんな小さくて軟弱そうな男子に助けられているということは、咲希にとって納得できないことであり、このまま助けられるのは(しゃく)(さわ)った。

 咲希が訊ねた。

「ねえ、警察呼んだほうが……」

 走りながら、雨宮は咲希のほうに顔を向ける。

「警察じゃ、あれは対処できないよ。心配しなくていいよ。僕はあれの対処の方法を知っているから」

 言った雨宮の顔は笑っていた。

 その柔らかな表情は、かえって咲希の怒気を募らせ、咲希の顔に暗いものが浮かぶ。

 そうこうしているうちに、二人は人気のない所へとやって来た。高校生になってもうすぐ二ヶ月になるが、用事がなければすぐに家へ帰ってしまう咲希には、ここがどこなのか全くわからなかった。

 咲希は無意識に周囲を見渡した。

 三階ほどの高さのある建物がぐるりと周囲を囲んでいる。まだ学校の中なのかもしれない、と咲希は思った。

 しかし、校舎と覚しき建物の中には、人の気配どころか、明かりが点いている様子もない。特別教室か何かのための校舎だろうと咲希は考えをまとめる。

 建物に囲まれた細い道を、雨宮はなおも進んでいく。沈みかけた日の光はこの空間までは届かず、暗い校舎はどこか寂しげな印象を与える。

 急に雨宮が足を止めて、辺りを見渡していた咲希は気付かずに、走っていた勢いのまま雨宮の背中に衝突した。

「なによ、いきなり」

 咲希は反射的に悪態をつく。

 雨宮は掴んでいた手を離して、咲希に笑顔を向ける。

「ここに隠れていて」

 雨宮の笑顔に向かって何かを言いたかったが、目の前の状況に気付いて、咲希は一瞬思考が止まった。

 行き止まりだった。大きなタンクが目の前を塞いでいた。

 しばらくの間、ぼんやりとした気持ちでタンクを眺めてから、咲希は目の前にいる雨宮を睨みつけた。

「どうするのよ?行き止まりじゃない!」

「え……?」

 雨宮はどうやら別のところに意識を置いていたらしく、間の抜けた声を上げた。

 慌てて、雨宮が口を開く。

「だ、大丈夫だから」

「何が大丈夫よ!」

 咲希に怒鳴りつけられて、雨宮の言葉が途切れる。

 硬直した雨宮に追い打ちをかけるように、咲希の言葉が続く。

「行き止まりじゃない!後ろにはわけのわからない化物がいるのよ。これからどうするつもりよ!」

 咲希の威圧に押されて、雨宮は固まったまましばらく言葉を失った。

「…………」

 僅かな間が生まれた。

 空間が止まる気配。

 足音は聞こえない。

 しかし、咲希の脳裏には、今でもあの化物の足音と咆哮が反響していて、日常生活ではほんの僅かなこの小さな間が、うっとうしくて、苛立たしかった。もうすぐそこにまで化物が迫っているような錯覚を咲希は感じていた。

 雨宮は柔和な表情を作る。

「大丈夫。心配いらないから」

 そう言って、雨宮はもと来た道を戻っていく。

 咲希はその言葉が最初、何を意味するのかわからなかったが、雨宮の言葉を思い出して、雨宮がこれからしようとしていることを理解した。

 それと同時に咲希は叫ぶ。

「ちょっと待ってよ!」

 雨宮は言っていた。あの化物の対処の仕方を知っている、と。

 あんな得体の知れない化物を、本当に一人で何とかするつもりなのだろうか。気取るにもほどがある。

 咲希は雨宮の腕を掴もうと手を伸ばした。

「うるせーな」

 咲希の手が止まった。

 周りの温度が一気に下がる。

 手足が凍りつくような錯覚を感じて、咲希は静止する。

 ――え?

 一瞬、別の人間が現れたのかと混乱した。

 しかし(まが)うはずがない。同じ声色だったし、何より他の人の姿もない。だが、突然の口調の変化に咲希の思考が一瞬フリーズを起こしたのは確かだ。

 雨宮海斗の声だった。

 そう言った直後に、雨宮は自分の顔を覆っていた右手をずらした。それと一緒に、どこから現れたのか、それもずれて咲希と目が合う。

 仮面だ。

 人の顔を模した、右目だけ異様に膨らみ、派手派手しい、太陽か花のような、三角形を幾つも右目の輪郭にあしらった奇怪な仮面だった。三角形の飾りは赤、黄色、オレンジで構成された、実にけばけばしい色をしていて、その中央に居座った瞳は黒か灰色の円を何重にも巻いており、目の中で渦を巻いているように見える。

 仮面は笑ったまま咲希の顔を見つめていた。

 射竦められたように咲希の体は硬直した。

 しかしそんな咲希の様子に気にした様子もなく、雨宮は咲希のほうを見ることなく、先程と同じ口調で吐き捨てる。

「黙ってそこで縮こまってろ」

 そのまま雨宮は、自分の左肩に提げたショルダーバックから素早く黒光りする物体を取り出すと、咲希を置いてそこから出て行った。一人取り残された咲希はその場で硬直するしかなかった。

 雨宮は分かれ道の交差するところに立った。

 辺りは、暗い。空を見上げれば茜色の空が広がっているが、今の咲希に体を動かす余裕はなかった。

 辺りは、ただ静かだった。人のいない空間には、どんな音も介入せず、風の音すら聞こえない。

 無風で、無音の、暗い場所。

 微かな震動が地面から伝わってくる。

 地面を揺らして、鉄筋で支えられた校舎にまで伝わって、音はしないが窓ガラスの軋んで震えているのが見えるような気がする。

 それは足音に似ていた。

 大地の揺れは次第に大きくなり、地面に流れる振動が空気中に漏れ出して、咲希の耳にもその音波が聞こえる。

 重量感のある足音だった。おそらくあの化物の足音だ。人気のないこの閉塞空間では、化物の近づく足音がひどくクリアに咲希の耳には届いた。

「来やがったな」

 その声と共に、雨宮の口が動く様子が咲希には見て取れた。

 雨宮の声だった。

 それが雨宮の声だということを、咲希はまだ納得できなかった。

 学校での話し方、さっきまでの話し方。

 大人しそうな、どちらかというとひ弱そうで、真奈の言ったかわいいという言葉の通りに、幼いその風貌。

 ――でも、今ここにいる雨宮くんは……。

 足音が止んだ。

 ――……しん…………。

 一時の静寂。

 息すら飲み込まれそうな沈黙。

「オオオオオッ!」

 化物の咆哮が辺りに木霊する。

 雨宮は静かに前方を見据えていた。そこには先程までの柔らかい表情は微塵もなく、どことなく精悍(せいかん)な顔つきをしている。

 化物の足音。一歩、また一歩と動き出して、その音が徐々に近づいてきて、次第に速度を増していく。

 重々しい突進音。緩慢だが、確実に、こちらに向かって駆け寄ってきている。咲希の鼓動も次第に速まっているのが、耳の裏から伝わってくる。

 雨宮の顔に笑みが浮かぶ。

 それと同時に、雨宮は右手で持っていた物体を両手で構える。

 ――あれは……。

 咲希は目を凝らした。

 雨宮が手にしているものを認識する。

 それは銃だった。

 ――そんな……。

 見間違いかと思った。

 咲希は改めて目を凝らす。

 その直後に、雨宮の姿が咲希の視界から消える。

 次いで、咲希の視界に化物の姿が飛び込んでくる。

 先程まで雨宮がいた場所に、化物は高く振り上げた腕を一直線にたたき落とす。その衝撃波が地面を揺らして、離れている位置から見ているはずの咲希の場所まで、その震動が伝わってきた。

 ――どどどどどどどどどどどどどどどどどどどどッ!

 その数間の後、洪水のように銃声がこの空間に溢れかえった。

 ――アアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!

 荒れ狂う、荒々しい弾丸の「乱射音(エルケーニヒ)」。

 それと混じるように聞こえる化物の「叫び声(オペラ)」。

 空から化物に向かって、無数の弾丸が閃光となって降り注ぐ。

 銃弾を受けて、化物は身を捩りながらもがく。

 化物は腕を盾にして乱射される弾丸を防ごうとしている。

 次第に弾丸の発射される位置が下がっていくのか、最終的に弾丸は地面とほぼ水平に流れていく。

 化物が、弾丸の放たれる方向に向かって駆け出す。それと同時に、咲希の視界から化物の姿が消えた。

 常識を逸脱したボリュームの音響が、空気を震わせて、地面を揺さぶる。破壊的な騒音が、この閉塞空間に満ちていく。

「うるせーな」

 雨宮の、侮蔑も(あら)わな言葉が漏れる。

 轟音(ごうおん)に等しい銃声と、平衡感覚を乱す化物の咆哮。

 これだけの喧騒の中で、咲希の耳には雨宮の声が、何故かはっきり聞こえた。そのことが不思議でならなかった。

「誰のものだって?」

 雨宮は確かにそう言った。咲希の耳はそう聞き取った。

 ――…………?

 雨宮の言っている意味が、咲希にはわからなかった。

 しかし、咲希の関心事はそんなことではなかった。

 この異常な騒音で満ち溢れている、この異常な空間で、雨宮の声が、言っている内容まで、正確に認識できることに、咲希は強い違和感を感じていた。

 騒音の中では人の声が聞き取りにくい。

 工事をしている道や人が密集している場所では、周囲の騒音に掻き消されて、互いの声が認識できなくなる。

 そんな状況下で雨宮の声が聞こえたことに、咲希は鳥肌が立つのを感じて、恐怖に近い感情を覚える。

 ――違う。

 咲希は考えを改める。

 むしろ、この非現実な喧騒こそが幻聴なのではないかと、咲希は思った。そう、思いたかった。

 今まで見たこともない異形の化物、その咆哮。

 日常では決して接することのない銃撃戦。

 夢でなければ、こんなことが目の前で起こるはずがない。

 ――違う。

 しかし咲希の直感が否定する。

 力を失った膝の震え、太ももを伝う砂利の感触。両手は強く己の体を締め付け、頬から首筋にかけてべた付いた汗が這い回る。心臓の鼓動がリアルに聞こえて、これが現実であることを否応無しに理解させられる。

 だが何故だろう。

 咲希には化物の叫び声が悲鳴に聞こえた。

 苦しそうな、痛々しい、悲しい咆哮。それが建物と建物の間に反響して、悲愴の旋律を奏でている。

 襲われているのは自分なのだから、被害者は自分なのだから、それもあんな気持ちの悪い化物なんかに、情けをかける必要はない。

「振られたくらいで、キレてんじゃねーよ」

 それなのに、どうしてこの叫び声が悲しく聞こえるのだろう。どうして自分はあの化物を哀れにすら思うのだろう。どうして雨宮の言葉のほうがひどいと感じるのだろう。どうして雨宮の言い方のほうが理不尽に思えるのだろう。

 ――アアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!

 悲鳴。

 激しい銃声を掻き消しそうな化物の叫び声は、少しずつ咲希の心の中を満たしていく。咲希の心が熱せられたように熱くなる。

「失せな」

 ――ボゴッ。

 鈍い破裂音。圧縮された空気が更に重い負荷をかけられて、堪えきれなくなって崩れるような音。

 ()いで、響く化物のいっそう甲高い叫び声。高く、より高い声は、すでに音としか認識できない。

 悲鳴は建物に反響することなく、真っ直ぐ咲希の脳髄を貫いた。幕引きは実に呆気なく、それなのに、その声は咲希の心にまで届いていた。

 咲希の目から熱い滴が溢れて、すーっと頬を伝って、涙の軌跡を描く。

 その瞬間、自分が泣いていることに咲希は気付かなかった。何故泣いているのかをそのときの咲希は知るよしもなかった。

 その後で、辺りは静寂を取り戻す。

 咲希の耳に一つの音を残して。

 ――スキナダケナノニ。


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