序曲
闇。
そこは他と隔絶した漆黒の世界。
光を許さない無の空間。
不安。
苦悩。
恐怖。
……………………。
ヒトはそこに得体の知れない力を感じる。
闇は嫌いだ。
真っ暗で、何も見えない。何も見えないから、何もわからない。何もわからないことが無性に心を不安にさせて、真っ暗な闇はいつも心を恐怖させる。
僕は、闇が嫌いだ。
闇の中に何かがいる気がする。自分を襲ってくるかもしれない恐ろしい化物が。そんなものはいないんだと、お父さんとお母さんは言うけれど、僕は怖くて、夜一人でトイレに行けなかった。
いつもそうだ。
闇は何も見せてはくれない。何も教えてはくれない。わかるのは、音と、臭いと、触れる感触。
わからない。
何も、わからない。
だから、考えてしまう。
最悪の物語を。
背後から何かが静かに迫ってくる。角を曲がったところに何かが待ちかまえている。扉を開けた瞬間、何かが現れる。走っても追いかけてくる。
そして。
…………………………。
連れて行かれる。
闇の世界に。
いつもそんな変な考えにたどり着いて、いつも走って闇の中を逃げていく。逃げようとして必死に目を閉じて、耳を塞ぐ。
僕は闇の中に一人でいた。
布団が仕舞ってあるはずの押入れの中は、襖を完全に閉めてしまうと何も見えない。僕はその中で、布団に顔を押し付けて泣いていた。
泣いていたんだ。涙を流して、泣いていた。しゃっくりに似たむせび泣きが、闇の中に存在している唯一の音だ。
お父さんやお母さんに怒られたときや、お友達と喧嘩して涙が出るときは、他の人に見られたくないから、押入れの中で隠れて泣いた。
僕があまりにも強い力で布団を握りしめるものだから、僕が顔を押しつけている布団は皺だらけになってしまい、お日様の光で乾ききったあの柔らかさはどこにも感じられない。冷たくて、少し堅くて、僕の手に捕まれて逃げられなくなった、白い布団。それが目から流れた涙の色に汚れていく。
色はない。
わからない。
でも、きっと汚れている。
僕はしっかりと目を閉じていた。見たくなかった。汚れた布団なんて、見たくなかった。僕が汚してしまったものなんて、見たくなかった。
涙が溢れ続ける。それと一緒に、胸に押し込んでいた気持ちが溢れ出す気がした。自然と言葉が喉の奥から漏れ出てくる。
「……みんなが」
弱い声だった。小さくて、ひしゃげて、脆くなった、か細い声。掠れそうな声には、だが、確固たる感情が根底にあった。
「みんなが悪いんだ……」
光の通わない闇の中で、僕は両親に対する呪詛を唱える。この世の不合理に対する非難を叫ぶ。
いつもそうだ。
認められない、相手のことを。相手のことが。相手が悪いと思う。そう思いこむ。
お父さんが、お母さんが、友達が、先生が。
全ての人が。
悪いのはみんななんだ、と。そう思わなければ、嘘になる。自分が。自分自身が。自分という存在が。自分という意志が。
「何で僕ばっか……」
自分を守りたいわけじゃない。自分が好きなわけじゃない。
ただ相手を認められないだけ。うん、と言えないだけ。ごめんなさいが言えないだけ。自分が間違っていたと思えないだけ。
頑固と言われても、強情と呆れられても、それは相手も同じことなのだと、結局はひねくれていた。
「何で……」
自分の非を否定しようとして言葉に詰まる。相手の正を曲げようとしてあとが続かない。涙が止まらない。闇の中で必死に声を抑える。
「うぅぅ……」
何かを訴えたくても言葉が出てこない。心の中を引っ掻き回して救いを求めてみる。誰か自分だけを助けてくれる人を。決して裏切ることのない天使の姿を。
けれど、頭に浮かぶのはみんなの姿しかない。見たことがある顔ばかりで、淋しくなる。いつも救いはなくて、いつも救いはそこにしかなくて。
「……………………」
光の通わない闇の中、そこは真っ暗で、何も見えない。ただわかることは、声がするだけ。小さくて、ひしゃげて、脆くなった、か細い声。もはや声ともわからないほど枯れた声は涙とともに消えていく。
暴言を吐きつくし、泣き疲れ、僕は両親の言葉を思い出す。
――男の子が泣くもんじゃない。
お父さん。
――男の子が泣いちゃだめでしょ。
お母さん。
ごめんなさい。もう悪いことしないよ。もういけないことしないから。もう泣くのは止めるから。
許してもらえるだろうか。叱られないだろうか。
いつものように頭を撫でてもらえるかな。
いつものように頭を撫でてもらおう。
そう。いつものように……。
最後はいつもそうだ。僕が謝る。まず最初に自分から謝る。自分が悪いことがわかったわけではないけれど、相手が悪くないことがわかったから、だから謝る。
僕はゆっくりと襖を開けて、その隙間に片目を押し付ける。誰にも見られていないことを確認するために。
こんなところは見られてはいけない。襖の奥にずっと隠れていたなんて、そんなことは知られてはいけない。泣いてたなんて、そんなこと、ばれてはいけない。それはとても恥ずかしいことだから。
誰にも見つからないように、静かに外の様子を窺う。
――お父さん?お母さん?
そして見えた。
――なに?
目を見開いた。
動けなかった。
――お父さん?お母さん?
お父さんとお母さんが床の上で寝ている。目を開けたまま。
お父さんとお母さんが涎を垂らしている。真っ赤な涎を体中に。
――なに?
声は出なかった。出せなかったんじゃない。声を出そうとすることさえ浮かばなかった。何からまず言えばいいのか、そんなことすら考えられなかった。
体も動かない。震えすら起きなかった。そのとき物音を立てなかったことは、果たして本当に幸運だったのだろうか。
目だけが異常なまでに開いていた。
――だれ?
そこに誰かが立っているのが見えた。誰かはわからない。どんな格好をしていたのかも、どれくらいの大きさの人なのかも、何もわからない。焦点の合わない瞳はただ漠然と外の存在を映しているだけだった。
ただ一つだけ理解できたことは、その場所だけ、何かが欠けたように闇の色をしていたということだった。
そう。
闇が立っていたんだ。
真っ黒で、大きな闇。
明かりが煌々と輝く部屋の中でそこだけがぽっかりと穴が開いていた。まるで大きな口が全てを飲み込もうとしているようだった。
闇はじっとしていた。まるで時間が止まったようだった。僕が動けなかったのも、もしかしたら本当に時間が止まってしまったからなのかもしれない。
そうなんだ。
きっとそうだ。
壊れたおもちゃと同じだ。止まってしまった時計と同じだ。直せば動く。動き始めればきっと全部が元通りになる。
そうに決まってる。
今は壊れているから、だからおかしいんだ。しばらくすれば、全部直って、全部が元に戻る。いつも通りの世界になるんだ。
それまで待つだけ。それしか僕にできることはない。
ただ、待つ。
動けないから、待つ。
………………。
そう。
…………………………。
まつ。
……………………………………………………。
僕は闇の中から出られず、闇に取り残されていた。