春色とブラックコーヒー
「ヤッホー、ケン兄」
日曜日の昼間、唐突に鳴った玄関チャイムに応対した俺に対して投げられた言葉だ。
玄関先で言葉を掛けてきたのは、桜色のカーディガンをシャツの上に羽織った若い女性。
いや、女性というのはまだ早いか。よくよく見ると顔立ちは少女から片足抜け出た頃だろう、服装や化粧のおかげで実年齢以上に見えるだけだ。
そんな彼女が長い髪を春先の風が微かに弄ばせながら俺に笑いかけてくる。
その表情が、遠い日に見た彼女と重なった。
「……お前、彩花か?」
一瞬の幻視。
しかしそれをすぐに振り払い、現実を正しく認識する。
目の前にいるのは彼女ではない。
彼女であるはずがない。
「そうだよ! なになに、綺麗になり過ぎてて気付かなかった?」
「いや……」
彩花が悪戯っぽく笑いかけてくるが、俺はそれに取り合わず正直に答える事にした。
「葵姉……お前の母ちゃんと見間違えてちょっとびっくりした。ほんと、よく似てるよ」
親子なのだから面影があるのは当然だが、数年見ないうちにぐっと似てきた。
そう言えば、年もあの頃の葵姉と同じくらいだったかもしれない。
「……フンッ」
しかし、そんな俺の言葉が気に入らなかったのか、彩楽は不満げに鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまう。
「なんだよ?」
「……べっつに~」
明らかに「別に」という態度ではない彩花。
何か気に障るようなことでも言ってしまったのだろうか。
「なんだ、彩花は母ちゃんが嫌いなのか?」
似てると言われたことが不満だったのかと思いそう尋ねてみるも、彩花はフルフルと下を向いたまま否定する。
「お母さんのことは嫌いじゃないよ。ただ、葵姉って人のことは嫌い」
俺の認識ではその2人は同一人物なんだが……?
まぁいい。
若い子の考えてることはおっさんには難しすぎる。
俺はそれ以上彩花の言動について考えることをやめた。
「ま、玄関で立ち話もなんだ。とりあえずウチに入るか? ちょっと汚いけど」
なぜだか不機嫌になってしまった彩花を、俺は自宅であるマンションの一室へと招き入れた。
☆★☆
俺こと武仲健也の家族構成は中々に複雑である。
例えば、俺のことを兄と呼ぶ彩花は俺の妹ではない。
彼女との関係を一言で述べるのならば「義叔父」と「義姪」になる。
兄妹どころか、血縁関係ですらない。
彼女は俺の義理の姉、立野葵が生んだ子供になる。
この義理関係というのも面倒で、彼女は俺の兄の奥さんと言うわけではない。
そもそも、この世に俺の血縁関係としての家族は既に存在しない。
両親は俺が5歳の頃に飲酒運転の車に正面から衝突されて亡くなった。
俺の記憶に両親のことはほとんど残っていないが、それでもこの事故の時に彼らが俺のことを命がけで守ってくれたからここでこうして生きていられるのだから、深く感謝している。
祖父母は俺が生まれる前に亡くなっているし、俺は一人っ子だった。
そういうわけで、俺は家族を一度失っている。
今俺が家族と呼んでいる人達は、全てを失った俺を引き取ってくれた人達だ。
血筋的には俺の母親の兄にあたる、つまり血縁関係的には伯父ということになるか。
その伯父一家が俺のことを引き取り、育ててくれた。
叔父夫婦は言うに及ばず、彼らの2人の子供も俺のことを温かく”家族”として迎えてくれ、彼らが俺の新しい両親であり、姉弟になった。
その伯父夫婦の上の子供、それが立野葵。
俺よりも10歳年上の姉であり、俺の初恋の人。
俺がこんな複雑な家庭環境でもグレずに大きくなれたのは彼女の存在が大きかったと思う。
事故後の自分の内に閉じこもっていた俺に彼女が優しく接し、導いてくれたおかげで俺は義家族と本当の意味で打ち解けられ、立ち直ることが出来た。
彼女――葵姉についての思い出を語り尽くすことなどできないが、俺の少年時代は彼女と共にあった
。
そんな葵姉が高校卒業と同時に結婚し、その2年後に産んだのが、今回訪ねてきた彩花というわけだ。
だから一応”姪”ということになる。頭に”義”はつくわけだが。
☆★☆
「で、なんだっていきなりうちに来たんだお前は? あ、牛乳か砂糖いるか?」
キッチンの電動ケトルでお湯を準備しつつ、リビングに通した彩花へと問いかける。
今日の彩花の訪問は全く以て予定外だった。事前に話を聞いた覚えなど無い。
しかもコイツ、結構な大荷物を持ってきていた。
招き入れた時は気づかなかったが、彩花の荷物はキャリーバッグと大きなスポーツバッグの2つ。明らかに何泊もする準備を整えてる。
「え、お母さんから聞いてないの? あぁ、大丈夫。ブラックで、うん」
リビングに置かれたソファーへと腰かけたまま、物珍しそうに部屋を眺めていた彩花が俺の問いに問いかけで返してきた。
「は? 何も聞いてねぇぞ」
葵姉と話したのは正月に電話したのが最後だったはず。その時には年始の挨拶をしただけだ。そんな話聞いていない。
彩花の返答に驚いているうちにケトルのお湯が沸き立つ。
俺用と来客用の2つのカップにインスタントコーヒーの粉末を適当に入れ、お湯で溶かす。
インスタントコーヒーの安っぽくも嗅ぎ慣れた香りが湯気と共に上ってくる。
そうしてできた2つのコーヒーの内、自分のカップにだけ牛乳を加えてリビングへと持っていき、そこで自分の失態に気付く。
「悪い彩花。テキトーでいいからテーブルの上の資料適当に退かしてくれ」
ソファーに座る彩花の前に置かれた机にはA4用紙の束やハードカバーの本など、昨夜使った資料がそのまま広げっぱなしでカップを置くスペースすらなかった。
「いいけど、もうちょっと綺麗にすれば?」
言ったとおりに資料をまとめて片付けてくれた彩花だが、その際に余計な一言も足してくる。
「俺だって普段からこんなに散らかしちゃいないさ。今は論文の締め切りが近いんだよ」
以前出した論文の焼き直しだとはいっても、手を加えない訳にはいかない。
その締め切りが一週間後に控えているのだから、家のことまで手が回らなくても仕方ないだろう。
「……いきなり来ちゃって迷惑だった?」
俺からカップを受け取りつつ、彩花が先程と打って変わり恐る恐ると言った様子で訊いてきた。
「いや、昨日あらかた終わった。あとは全体のチェックだけだから別に迷惑なんかじゃない……いきなり来て驚いたけどな」
彩花の座るソファーの机を挟んで向かい側に置いた一人掛けのソファーへと腰を下ろしながら答える。
「そっか、それなら良かった。……うぅ、にがっ」
安心した様子の彩花が手に持ったカップに口をつけるが、すぐさま離した。その眉はつらそうに寄っている。
「なんだ、ブラック苦手だったのか?」
「に、苦手じゃないし! ブラックくらい飲めるし!」
俺の問いへ焦ったように言い募る彩花だったが、無理してるのは明らかだ。
「へ~、ならいいけど。俺はインスタントのブラックなんて不味くて飲めないけどな」
無理してるのは明らかだが、俺はその意をくんで甘やかすことなどしない。俺は個人の意思を尊重する。
それにこんなにデカいんだ、彩花も強がりの代償を覚えてもいい頃だろう。
「え? ってあー! ケン兄ミルク入れてんじゃん!」
疑問の声を上げた後、俺のカップを覗き込み大声をあげる彩花。
「なんだよ、俺は別にブラック飲むとも言ってないし、お前にも入れるかどうかちゃんと聞いたじゃないか」
「嘘! ケン兄はブラック飲むって言ったじゃん!」
「はぁ!? 俺がいつ言ったんだよ!」
売り言葉に買い言葉というわけじゃないけれど、彩花に釣られて俺の声もわずかに大きくなる。
それに、言った覚えのない言葉で嘘つき呼ばわりされるのは我慢ならない。
「言ったし! 高校生の頃『フッ、コーヒーはやっぱりブラックじゃないとな。香りが味わえない』とか言ってたじゃん!」
「オーケー、わかった。牛乳と砂糖を今すぐ持ってこよう。だからその話は忘れてくれ」
全身から嫌な汗が噴き出て、脳裏に忘れていた思い出したくない記憶がフラッシュバックする。
その記憶から逃れるようにキッチンへと向かう。
俺の黒歴史を覚えているだなんて、身内はこれだから厄介なんだ。
当時の彩花はまだ6~7歳だったはずなのによく覚えているものだ。
「はぁ~、でなんだってお前はうちに来たんだよ。葵姉からは何にも聞かされてないんだが」
俺がキッチンから持ってきた牛乳と砂糖をドバドバとカップに投入する彩花を眺めつつ問いかける。
別にいいが、そんなに入れれば最早コーヒーではない気がする。一応野菜ジュースもあったのだが、そっちにした方が良かったかもしれない。
「あぁ、その話ね。……ところでケン兄、私が4月から大学生になるってのは知ってるよね?」
「いきなり話題変わったな。――でもそうか、もう彩花もそんな年になったのか」
隠そうともしない話題の逸らし方ではあったが、それでも眼前の義姪の成長を嬉しく思い野暮なことは言わないでおく。ここ数年実家に帰っていなかったこともあり彩花が進学するということをすっかり忘れていた負い目もある。
それにこの大荷物だ、もしかしたら進学前の休みを利用して観光にでも来たのかもしれない。それなら数日程泊まらせることも吝かではない。部屋も余ってることだし。
もしも泊まるとなれば事情を聴く時間などいくらでもあるだろうから、別に急かすこともない。今は素直に姪っ子の成長を祝おう。
そう思い直し、彩花の話題に乗ることにした。
「あのよちよち歩きをしていて、俺がおしめも変えてやった彩花が大学生か~。で、どこの大学なんだ?」
「ちょっ! そんなことわざわざ言わなくてもいいでしょ! ……まぁ、大学はケン兄と同じ三星学院大学だよ」
「マジか!? スゲーじゃんおめでとう!」
俺の研究室もある三星学院大学は自慢じゃないが偏差値が高い。入試を突破するのはかなりの苦労が必要だったはずだ、そのことが数年前に実際に体験した俺にはよくわかる。
「ほんと、スゲーよく頑張ったよ」
「えへへ、ありがと」
努力の日々が思い出され、感慨深くなった俺の言葉に少し照れた様子で彩花が答える。
だが、それならば彩花がウチを訪ねてきた理由も大方想像がつくというものだ。
「てことはあれだな、お前の目的も見えてきたぞ。ズバリ大学とその周辺の下見とその案内を俺にさせるためだろう。普通なら親と一緒にか1人で行うことだが、進学先に現役で通ってる奴がいるんだ、そりゃ利用しない手は無いよな」
「え、違うけど?」
しかし、そんな俺の予測はあっさりと否定された。
「違うのか?」
「うん。あ、でも案内してくれるんなら嬉しいな」
「時間はあるし案内くらいならいくらでもしてやるけど――」
「やったー! ホントのホントね、絶対だよ!」
俺の答えに飛び上がりそうなほど全身で喜びを示す彩花。
そんな様子に『それじゃお前は一体何のためにここに来た?』という言葉を続けられずにいると、本日二回目のチャイムが鳴った。
「なんだ、今日は客が多いな。ちょっと待ってろ……っておい!」
玄関へ向かおうとした俺よりも速く、テンションが高いままの彩花が玄関へと向かっていた。
「だいじょーぶだいじょーぶ、多分私の荷物だから」
「はぁ!?」
荷物?
一体どういうことだ。
俺の理解が追い付かない内に彩花は勝手に玄関を開け、これまた勝手に宅配の受領サインも書いていた。
「どうしましょ、段ボール5箱くらいですけど部屋の中まで運びましょうか?」
「いえいえ、ここに積んでくれればいいですよ」
「待て待て待て! 何勝手なことしてんのお前は!? ここ俺の家だぞ!」
「えーと、そう言われても……残り運んじゃダメですかね?」
俺の言葉に困った顔をする宅配の兄ちゃん。
いや、アンタに言ったわけじゃないんだけどな。
「ほらケン兄、宅配のお兄さんを困らせちゃだめだよ」
「困らせてんのはお前だ! てかこの荷物なんだ、何が入ってんだ」
「うーん、普通に服とか生活用品とかだよ」
はぁ!? 生活用品!?
「生活用品ってお前……まさかここに住む気じゃないだろうな!?」
「? そのつもりだけど?」
俺の言葉に疑問の表情を浮かべる彩花。
言っておくがその表情を浮かべたいのは俺だ。
そんな俺達の様子を気にせず、宅配の兄ちゃんは手際よく玄関に段ボール5箱を重ねて颯爽と去っていった。
「ま、詳しいことは母さんに訊いてよ」
彩花はそう言って俺にスマートフォンを差し出し、ダンボール箱をリビングへと運んでいく。
玄関に一人残された俺は、画面に表示された番号――葵姉へと正月振りに電話をかけた。
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