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DIARY  作者: 深月咲楽
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第2章

「このマー君って子は、今、何をやってるの?」

 しばらくして、夫が顔を上げた。

「それがわからないのよ。あのあとすぐ、転居先も告げずに引っ越して行っちゃって。推薦もダメになっちゃったし、やっぱり近所の目が気になったんじゃないかって、母親は言ってたけど」

 私が溜息まじりに答えると、彼は日記帳を閉じて膝の上に置いた。

「それなら、あかねちゃんのお父さんっていう人は?」

「ああ、5年くらい前になるかな、病気で亡くなられたって。お母さんの方も体調を崩してしまって、どこかの施設で過ごしてるって話」

「そうなんか」

 軽く頷くと、夫は続ける。

「じゃあ、その『たいようタクシー』とやらは?」

「事件のせいで、あかねちゃんの件が公になってしまったでしょ? 『たいようタクシー』の評判、さらにガタ落ちしたらしくて、1年後に廃業したそうよ。親会社の『宝田興産』への打撃もすごかったみたい。今も一応、あるにはあるらしいけど、前よりかなり規模を縮小したって」

「それだったら、あかねちゃんの復讐は一応、果たせたわけだな」

「あかねちゃんの復讐? まあ、たしかに結果的には、あかねちゃんの復讐みたいになっちゃったけど、そんなの、ただの偶然よ」

 私が反論すると、彼は私の方を見た。

「お前、ほんとに偶然だと思ってるのか? それなら、あのクマのぬいぐるみは?」

「あかねちゃんの自殺のことは、近所では有名な話だったのよ。どこかでそれを聞き付けた誰かが、その話を利用しようとして、泥棒を装って盗み出したんじゃないかって。後で弁護士さんが挨拶に来た時に言ってたよ」

「そんな危険なマネをしてか? クマのぬいぐるみなんて、見た目はそう変わらないだろ。幽霊のフリするために使うんだったら、よく似た別のもんを用意したらいいんじゃないのか?」

「それなら、何だったって言うのよ」

 私は少し腹を立てて尋ねた。

「クマのぬいぐるみは、あかねちゃんの家にあったんだよ。誰にも盗まれずにそのままな」

「え?」

「だって、無くなったと言っているのは、あかねちゃんの両親だけなんだろ?」

 いやな沈黙が流れる。

「どうして、盗まれたなんてウソをつく必要があるのよ」

「クマのぬいぐるみが、家に無いと思われなくちゃいけない事情があったんだろう。つまり、あかねちゃんの両親が、幽霊騒ぎを起こしたってことさ。

 大体、何で泥棒が大きなクマのぬいぐるみなんて持ち出すんだよ。そんなカサ高いもんを持って歩いてたら、目立ってしょうがないだろ」

「だったら、堀田探偵を殺したのも、あかねちゃんのご両親だったって言うの?」

「まあ、関わってることはたしかだろうな」

 私は溜息をついた。

「あのねえ、あかねちゃんのご両親にはアリバイがあったのよ。日記に書いてあったでしょ?」

「でも、お前が見たのが、偽物の『堀田一馬』だったとしたら?」

「偽物って?」

「つまり、お前が会ったのが偽物だったとしたら、午前10時から午後1時までのアリバイはなくなるわけだろ? その間に殺された可能性が出てくるじゃないか」

「そんなこと……」

 私は驚いて夫の顔を見た。

「パンチパーマに黒ブチのメガネ、派手なシャツを着て太っていた。そんなもん、誰だって変装できるよ。現に、吉田兼好だって、丸メガネにチョビヒゲでカトちゃんに変身するわけだろ?」

 まったく余計なことまで覚えている男だ。私は反論した。

「じゃあ、誰がその偽物の堀田探偵に化けたって言うの?」

「多分、あかねちゃんのお父さんだろうな」

「あのねえ」

 私は顔を近付けた。

「あかねちゃんのお父さん、もともと細い人なのよ。しかも、あかねちゃんのことがあってからは相当やつれていたって書いてあったでしょ? 体型からして違うじゃないの。それに、あのお父さんなら、子供の頃から知ってるのよ。どれだけ変装してたって、顔も声もすぐにわかるわ」

「そこが盲点なんだよ」

 夫は私の顔を見た。

「太い人間が一瞬にして細くなることはできない。でも、細い人間はすぐに太い人間になれるんだぜ。身体に何かを巻くとか、含み綿を口に入れるとか。現に、お前が見た男は、暑いさかりに長そでのシャツを着てたんだろ? ポケットに手を突っ込んでおけば、細いか太いかなんてわからないじゃないか」

「でも、声は? すごいダミ声だったのよ。あかねちゃんのお父さんは、きれいな低音なんだから」

「こんな感じか?」

 夫は少し詰まったような声を出した。簡単に変えられるとでも言いたいのだろう。

「パンチパーマと黒ブチのメガネ、派手なシャツに太った身体。そんな目立つ特徴がある人物の、目鼻立ちまではっきり見たとは思えないな。

 それに、当時、近所では『太った中年のチカン』が出るという噂が流れていた。当てはまる人間に声をかけられたら、たいていの女性が恐怖を感じて逃げ出すだろうってことは、容易に想像がつく」

「そんな……」

「お前の頭の中には『あかねちゃんのお父さん=細身できれいな低音の声』という先入観もあった。全く反対の人間を見て、あかねちゃんのお父さんと結び付けることはなかったはずだ」

 説得力のある説明に自信が揺らぐ。夫はさらに続けた。

「それに、同じ時に前後してマー君に会ったっていうのも、ちょっとなあ。そのお陰で、マー君のアリバイまで証明されたわけだからな」

「ちょっと待って」

 私は顔の前に手をかざした。

「じゃあ、マー君も事件に関わってたって言うの? マー君は、自分に会ったことを言わないでくれって言ってたのよ。アリバイ作りに使うんだったら、口止めするようなことはしないでしょ?」

「アリバイに信憑性を持たせるための小細工だとは思わないか?」

 言葉をなくす私を見ると、彼は日記帳を手に取り、ページをめくった。

「俺、日記のこの部分が気になるんだ。

 16日、お前はマー君に『パンチパーマして黒ぶちのメガネかけて、派手なシャツ着たおじさん』と言っている。なのに、容疑が晴れて挨拶に来たおばさんは、マー君は『太ったおじさんに追いかけられた』という話を聞いた、と言ってるんだ。

 つまり、お前が彼に伝えていない特徴を、マー君は聞いたと言っていることになるだろ? おかしくないか?」

「マー君は、私が話をする前から堀田探偵の特徴を知っていたって言いたいの?」

「ああ。多分な。もちろん、お前が日記に書き忘れただけかもしれないけど」

 私は、あることを思い出し、身体が震えてくるのを感じた。

 そうだ、私はあの時、意識的に「太った」という形容詞を抜いて伝えたのだ。マー君のお父さんは、かなりでっぷりしている。そのことを知っていた私は、何となく彼の前で「太った」という言葉を使わない方がいいような気がしたからだ。

「じゃあ、マー君が幽霊騒ぎを起こして、堀田探偵を殺したってこと……? でも、さっきは、あかねちゃんのご両親だって言ってなかった?」

「マー君は、自転車を目撃されてるんだろ? もし、幽霊騒ぎを起こしていたとしたら、道端に無造作に置いておくようなことはしないんじゃないかな。しかも、自分の名前が書かれた自転車なんて、あまりに無防備だ。おそらく、マー君は幽霊ではない」

「じゃあ誰が?」

 私の言葉に、夫は答えた。

「多分、あかねちゃんのお母さんだったんじゃないかと思う。若々しい感じの人だったんだろ? 上手く化粧して髪の長いカツラでもかぶれば、若い女に化けることもできたんじゃないか?」

 答えない私にちらっと目をやると、彼は日記帳に目を落とした。

「タクシーに乗ると、氷を入れた赤ちゃんの靴下を、後ろ手に持っておく。ドアが開いたら、そのままその靴下をシートの上に置いて去ったらいい。お金も渡されているわけだし、『用事があるので』と言われれば、運転手はしばらく待つだろう。遅いと思ってシートを覗き込む頃には、氷は融けて、ビショビショになった靴下だけが残されているというわけさ」

「氷を手に持っていたとしたら、手が冷たかったっていうのも、説明がつくってわけね? でも、あかねちゃんの家から、事件に関係するものは見つからなかったって」

 力なく聞き返す私の頬にそっと触れると、夫は頷いた。

「事件が起こってから発覚するまでに、けっこうな日にちが経っている。処分するには十分だっただろう」

「幽霊騒ぎがあかねちゃんのご両親の仕業だとしたら、堀田探偵を殺したのもご両親のはずでしょ? マー君はどう関わってくるって言うの?」

「俺は、堀田とかいう探偵を殺したのは、マー君なんじゃないかと思うんだけど」

「なんで?」

 驚いて聞き返す。

「両親は、2人ともA型ではなかったんだろ?」

「ああ、そうか」

 私は頷いた。

「まず、気になるのは、幽霊騒ぎに関係のないはずのマー君の自転車が、なぜ平和台公園で目撃されたのかってことだ。まさか本当に野鳥観察してたわけでもないだろう」

 夫が続ける。

「堀田は愛人に『クマのぬいぐるみ様々だ』って言ったんだったな。やつがクマのぬいぐるみから幽霊の正体を特定したとしたら、調査の過程で、それを注文したマー君とも接触したんじゃないかな。

 幽霊騒ぎは、もちろん、マー君が起こした事件ではない。でも、そこにクマのぬいぐるみが関わっているとなったら、マー君はあかねちゃんの両親に思い当たったはずだ」

「そうかもしれないわね」

 私は頷いた。

「自分の習い事以外の日に騒ぎが起こっているということは、彼が通っている学習塾や書道教室のない日ってことだ。つまり、その先生であるあかねちゃんの両親も、自由に動ける日ってことになる。彼は2人が幽霊騒ぎの犯人ではないかと疑った。それで、自分の目で彼らの行動を確かめようとしたんじゃないのかな。その時に、放置した自転車を目撃された」

「でも、それだったら、あかねちゃんのお父さんかお母さんの車が、不審車としてリストアップされてないとおかしいわよね。幽霊として現れている間は、車を放置していたんだろうし」

「いや、あかねちゃんの両親は、車を『放置』してなかったんだ。おそらく、お父さんの方は車に残ってたんだろう。線香の空き箱なり数珠なりを手にしておけば、見られたとしたって、お参りの帰りか何かだと思われるだけだよ。『不審車』として記録に残らなかったとしても、不思議はない」

「なるほどね」

 私は頷くと、事件の核心に迫るべく、夫の顔を見た。

「堀田探偵が、16日にあかねちゃんのご両親と会ったことは間違いないわよね。彼は『幽霊と対決する』って言ってたんだから」

「そうだろうな。マー君が何で16日に3人が会うことを知ったのかはわからない。でも、推薦がかかっているのに高校をさぼったってことは、何かただならぬ決意があったんだろう」

「堀田探偵を殺すってこと?」

「殺すつもりだったかどうかは、わからないけど……。『高い金になる』って言ってたわけだし、堀田は、あかねちゃんの両親をゆすっていたんだろう。そのことに気付いたマー君が、あかねちゃんの両親の力になれたらと思ったのかもしれない。

 だけど、凶器は堀田の持っていたナイフだったわけだし、争った痕もあったわけだし。元々殺す気で、というよりは、もみ合っているうちにはずみで……ってことだったんじゃないかな」

 私はしばらく黙っていたが、やがてあることを思い出した。

「ごくごく微量だったけど、堀田探偵の爪には皮膚が残ってたんだったわね。なんでDNA鑑定されなかったんだろう?」

「DNA鑑定が犯罪捜査に利用されるようになったのは、たしか1992年からだ。事件が起こったのは1988年。当時、DNA鑑定が行われなかったのは、当たり前のことだよ。

 たしかに、後年、証拠品のDNA鑑定が行われた例もある。でも、証拠品がごくごく微量だったとしたら、検査できるだけの量が残っていたかどうか……。現に、証拠品をそれ以前の検査で使い切ってしまって、新たな鑑定ができない例もあったって話、聞いたことあるよ」

「ふうん。そうなんだ。だけど、ごくごく微量だったってことは、マー君はそんなにひどく傷つけられたわけではないんだろうね」

 私の言葉に、夫は首を傾げた。

「どうだろうなあ。あかねちゃんの両親が、堀田の爪をふき取ったのかもしれないぞ。でも、全部は取り切れず、爪の奥の方に皮膚が残っていたとかな」

「ちょうどその日に、傷がわからなくなるような自転車事故を起こしたなんて、出来過ぎよね。あの自転車事故は、堀田探偵と争った時に付けられた傷を隠すために、わざとやったのかな」

 私は夫の顔を見た。

「アリバイを作るという目的もあっただろうけどな」

 夫はそう言うと、少し間を開けて話し始めた。

「おそらく、マー君の知恵ではないと思う。自分達のために犯罪を起こしてしまった教え子を助けようとして、あかねちゃんの両親が考えたことなんじゃないかな」

「お父さんが、偽の堀田探偵を演じて死亡推定時刻をずらす。そして、彼を目撃した私にマー君が声をかけ、目の前で自転車事故を起こして見せることで、アリバイを作ったってわけね」

 私は頷いたが、新たな疑問が浮かんだ。

「でも、そんなにうまい具合に、堀田探偵に化ける道具を用意できるものかな。事件を起こしてから私に出会うまで、そんなに時間はなかったはずだけど」

「あかねちゃんの両親は、元から堀田探偵のフリをするつもりだったんじゃないのかな。思いがけず、そこにマー君が関わることになってしまったけど、元々の予定を使えば彼のアリバイも証明できるだろ?」

「つまり、あらかじめ用意してあったってわけね? だから、あんなに手際よく……」

 そこまで言って、私は首を傾げた。

「でも、あの時、たまたま私が通ったから予定通りに進んだものの、誰も通らなかったらどうするつもりだったんだろう?」

「お前がその時間にその道を通ること、知ってたんじゃないか?」

「え?」

 私は聞き返した。

「3人のうちの誰かと、そんな話をしたことはなかったか?」

「ああ、そう言えば」

 思い当たることがある。私は夫の顔を見た。

「あかねちゃんの四十九日の時に、『3月に剣道部を引退してからは、学校が終わるとすぐに帰って来てる』って話をしたのよ。駅からうちに向かうのは、あの道が一番近道だし、どの道を使うかは地元の人間だったらわかるはずだわ。

 あの時、マー君がその場にいた。もちろん、あかねちゃんのご両親も……」

 私はそう言って、目を閉じた。

「思い出にもなるし文章力も付くし、毎日細かく日記をつけるといいって話、書道教室に通っていた頃にあかねちゃんのお母さんから教えてもらったの。あかねちゃんもやってるって聞いて、私もつけ始めたんだけど。

 四十九日の時にその話になって……ずっと日記をつけ続けてたのは私だけだった……」

 彼らを救ったというのは私の思い上がりで、実は利用されただけだったのか。言い様のない感情が込み上げる。

 夫は私の気持ちを察したのか、日記帳を閉じてテーブルに載せると、私の頭に優しく手を置いた。

「マー君が挨拶に来た時、ずっとうつむいてたんだろ?」

 私は黙って頷いた。

「でも、最後には言ってくれた。『ごめんな』って」

 目を開けて夫を見ると、彼はそっと微笑んだ。

「『ありがとう』じゃなくて『ごめんな』だった。それが、マー君の、お前に対する精いっぱいの言葉だったんじゃないのかな。俺はそう感じたけど」

「うん」

 かろうじて返事をし、私はソファの背に身体を預けた。

「そんな悲しそうな顔するなよ。こんな考え方もできるよ、くらいのものなんだから」

 夫が、手にしていた日記帳をテーブルに載せながら、私の方を見る。

「そうよね。単なるひとつの推理だもんね」

 自分に言い聞かせるようにつぶやく。夫は頷き、勢いよくソファに身を埋めた。振動を感じつつ、テーブルの上の日記帳を見つめる。すると、夫が静かな声で話し始めた。

「俺、今、ふっと思ったんだけど」

「何?」

 彼の真剣な横顔を見つめ、私は尋ねた。

「もし『ミステリー学』って科目があっても、お前は最高点はとれなかっただろうな。多分、俺の方が得意だと思うから」

「はい?」

 眉間に皺を寄せて聞き返す。

「……って言われたってこと、今日の日記に書いておいたら?」

 そう言うと、夫はいたずらっ子っぽく笑い、ふくらませた私のほっぺを軽くつねった。


<了>

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