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DIARY  作者: 深月咲楽
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第1章

1988年7月16日(土)


今日も暑かった。こんな日にまで勉強しなくちゃいけないなんて、受験生はつらいね、まったく。

それにしても、アブナかったー!

今日の古文の追試、がんばって勉強したつもりだったのに、結果はなんと35点。あと1点足りなかったら、夏休みに補習を受けなくちゃいけないところだった。

池谷のやつ、「前回の試験問題をちゃんとやり直しておけば大丈夫」とか言ってたくせに、全然違う問題出してくれちゃって。

大体、追試以外の人は自習とかって、バカじゃないの? みんなが帰った後に時間とって、こっそりやってくれりゃあいいじゃん。それをさあ、授業時間ツブして追試だって。池谷のやつ、残業したくないんだろうね、多分。

自習用のプリント配る時、「森山、お前はこっちな」なんて笑いながら追試の問題渡してくれて。そんなことしたら、みんなに「こいつはバカです」とか、公言しちゃってるようなもんじゃないか。

まあ、私がバカだってことは、みんな既にわかってるだろうけどね。あはは。

って、笑ってる場合か、私。

大体、どうして大学受験に古文が必要なんだか。今は昭和よ、昭和。どこ探したって「春は曙なり」なんて話してる人なんているわけないもんね。バッカみたい。

そうだ、「ミステリー学」っていう科目があったらいいのに。私は海外モノも国内モノもよく読んでるし、犯人だって大体当たる。トリックだって、たいていは見抜いちゃうんだから。

もしそんな科目があったら、私は常に最高点をとる自信がある。うん。


それにしても、今日はほんとにいろんなことがあったなあ。

家に帰る途中、沢田さんとこの家の角で、変なおじさんに声をかけられて。道路の向こう側からだったけど、ビックリしちゃった。たしか、1時ちょっと前だったっけ。

「おい、ネエちゃん」とか、きったない声で。あれってダミ声って言うのかな。この暑いのに、あんな太ったおじさん見たら、余計に暑くなっちゃう。

パンチパーマだったし、コワい人かと思ったけど、あの黒ブチのメガネで違うって確信した。だってダサかったもん。それに、赤と青の長そでシャツだって。あの色合いにもビックリだけど、この時期に長そでシャツってどうなのよ。

「最近、太った中年のチカンが現れるらしいよ」って前にミサが言ってたから、「コイツだっ!」ってピンと来たんだ。

で、すぐに逃げ出した。そしたら、追いかけて来られちゃって、ちょっと怖かった。

まあ、ドスンドスンって感じだったし、余裕で逃げ切れたけど。


それにしても、裏道に逃げ込んで一息ついたところで、後ろから誰かに肩をたたかれた時には、心臓が止まるかと思った。悲鳴上げて振り返ったらマー君だったし、脱力しちゃったけど。

まったく、人騒がせなやつ。肩に手を置く前に、一言声かけてくれたらよかったのに。

そう言えば、マー君の方も、自転車にまたがったままのけぞってたっけ。

「何だよ。ゴジラの断末魔みたいな声上げやがって」とか言ってくれちゃって。

まったくさあ、お年頃の女のコに向かって、ゴジラの断末魔はないでしょ、ゴジラの断末魔は。

いくら幼なじみだって、言っていいことと悪いことがあるんだからね。もう、傷ついちゃう。

おまけに、「パンチパーマで黒ブチのメガネかけて、派手なシャツ着たおじさんに追いかけられた」って話したら、大笑いしちゃってさ。

「最近、そういうチカンがいるらしいよ」ってムキになって言ったら、「チカンがそんな派手な格好しないだろ」だって。

まあ、落ち着いて考えたらそうだけど、やっぱり女のコは色々と心配しちゃうのよ。


にしても、私ってスルドい方だと思う。一緒に歩きながら、マー君が私服着てることに気付いたし。

あの子の高校はうちの高校より遠いもんね。授業が終わってすぐに高校を出た私より、早く帰ってきてるってことは……。

こいつ、サボったなって、すぐにピンと来ちゃった。マー君は「へへへ、自主休校」なんて笑ってたけど。

大学の推薦決まりかけてるはずなのに、大丈夫なのかなって心配になっちゃった。

「夏カゼひいたことになってるから、お前さえ言わないでくれたら大丈夫」だって。口止め料高いぞ。


しかしまあ、マー君のドジっぷりは、子供の頃から変わらない。

カッコつけて片手挙げて「じゃあ」とかウィンクして、さっそうと自転車に飛び乗ったくせに。十字路曲がって姿が見えなくなった途端に、すっごい叫び声とガシャンって音が聞こえてきて。

急いで様子を見に行ったら、道路にマー君が座り込んでた。自転車は電信柱の前に倒れてて。

近づいてみたら、マー君、体のあちこちから血が出てた。ずいぶん派手にぶつかったもんだわ。

頭打ってたらいけないから、救急車呼んだ方がいいのかなと思ったんだけど。マー君、すぐに立ち上がってたし、呼ぶのはやめることにした。あの子、昔から頑丈だったから。

でも、「自転車をそこの自転車屋で直してもらったら、すぐに家に戻るから」なんて、さすがに涙目になってたなあ。

「学校さぼってフラフラ出歩いてるから、バチが当ったのよ」って言ってやったら、苦笑いしながら頭かいてたけど。

マー君、月曜日に高校行って、どうやって言い訳するんだろう。夏カゼで休んでる人が、体中にケガするわけないもんね。


+++++++++++++++++++


1988年7月17日(日)


今日はお母さんの買い物に付き合わされた。

来週、誰だかの家に行くから、その手土産のクッキーを買うとか何とか言って、水浜ショッピングセンターまで遠出。

車はお父さんが接待ゴルフで乗って行っちゃったし、私達は市バスを使うしかなかった。ほんとにゴルフって仕事のうちなんだろうか。楽しんでるようにしか見えないんだけど。

まあ、お父さんもお父さんだけど、お母さんもお母さんだ。別に、買い物なんてひとりで行けばいいじゃん。

あの人、昔から「試験は度胸」が口グセだから、私あ受験生だという認識がないんだろうなあ。


買い物を終えて、帰りはタクシーに乗ることになった。両手に紙袋さげて、市バスはちょっとツライもんね。

っていうか、手みやげのクッキー買うだけだったはずなのに、お母さんが食べるおやつの方が多いってどういうこと?

お母さん、近所の人から近道教えてもらったし、タクシー代が安くなるはずとか言って、自信満々。

平和台公園の中の道を通るんだって。車も少ないし、バスの半分の時間で済むらしいんだけど。

私は、平和台公園の中はカンベンしてほしいなあと思った。公園の一角にある墓地がねえ。お化けが出るとか火の玉が出るとか、ミサから怖い話いっぱい聞いちゃったんだ。

今はお化けの季節だし、しかも辺りは薄暗くなってきてるし。近道か何か知らないけど、見たらいけないものを見てしまったらどうする気なんだろう。

私がイヤがったら、お母さん、「『たいようタクシー』にさえ乗らなかったら平気よ」だって。何でも、「たいようタクシー」に乗って平和台公園を通る時だけ、道端にお化けが立っていることがあるらしい。

って、お化けがタクシー会社を選ぶわけないじゃん。


タクシー乗り場に着いたら、「はやぶさタクシー」が待ってて、すぐに乗り込むことができた。クーラーが効いていて生き返った。

あの運転手さん、私と同じ人種だったみたい。

「平和台公園の中を通ってY町まで」ってお母さんが言ったら、泣きそうな顔しちゃって。

「おたく、『たいようタクシー』さんじゃないから、大丈夫でしょ?」ってお母さんから言われて、仕方なくうなずいてたけど。

もうすぐ平和台公園に差し掛かるというところで、運転手さんが声をかけてきた。

「お2人とも、足は付いていらっしゃいますよね?」だって。

運転手さんの話によると、数ヶ月前から、幽霊がタクシーに乗り込む事件が起こっているそうだ。それは、クマのぬいぐるみを手にした、髪の長い若い女性らしい。

乗り込むのは夕方、水浜ショッピングセンター付近が多い。行先はY町近辺で、平和台公園の中の道を希望する。途中、墓地付近に差し掛かる頃、「用事があるので、ここで待っていて下さい」と運転手さんに声をかけてタクシーを停めさせる。そして、ドアが開くと、千円札を数枚運転手さんに手渡し、墓地の方へと歩いて行く。

でも、待てど暮らせど戻らない。

不審に思った運転手が後ろのシートを覗き込むと、そこには赤ちゃん用の靴下が置かれており、しかもそれは、決まってビショビショに濡れている。


そこまで聞いて、背筋が寒くなっちゃった。でも、お母さんは興味シンシンって感じで。

運転手さんの中には、お金を受け取る時に彼女の手に触れた人がいたそうなんだけど。その手は氷のように冷たくて、到底人間のものとは思えなかったんだって。

「いつも被害に遭うのは、『たいようタクシー』さんなんですけどね。いつ他の会社に乗り移ってくるとも限りませんし」なんて運転手さんが言ったら、お母さん、「その女の人は1人なんでしょ?うちは2人なんだから、大丈夫ですよ」とか答えて。

そこでやめておけばいいのに、「なんだったら、足、お見せしましょうか?」って言いながら、太い足を上げようとするもんだから、全力で止めちゃった。

まったく、うちの親のお守りするのって大変。


++++++++++++++++++++


1988年7月22日(金)


昨日から、ついに高校最後の夏休みが始まった。

昨日は、弁護士さんにこの日記帳を渡してたから、日記が書けなかった。今日の午後、ようやく戻ってきたお陰で、こうやって書くことができてるんだけど。

本当は今日のことを書かなくちゃいけないんだろうなあ。日記だし。でも、やっぱり昨日あったことを書くことにする。

だって、多分、私にとっては滅多にないようなことが、いっぱい起こった日だから。

弁護士さんのことから書こうかな、どうしようかな。やっぱり朝から順番に書くことにしよう。


えっと、昨日は朝から古文の参考書と格闘してた。「徒然草」だって。なんかウンザリ。

アンタはつれづれなるままに書いたつもりかもしれないけど、そのことがどれだけ受験生に迷惑をかけているか、わかってるのか、兼好さんよう。

肖像画の鼻の下にチョビヒゲを書いて、ほっぺにクルクル丸を書いて、メガネをちょいっと。

ふふふん、カトちゃんペッ! の刑に処してやったわ。ざまあみろ。

などと、私に小学生レベルの行動をとらせたのも、郵便ポストが赤いのも、すべてはこの異常な暑さのせい。大体、私の部屋にはクーラーがないのだ。信じられない。

ダメだ。図書館に行こう。

あまりの暑さに耐えかねて立ち上がり、バッグの中に参考書を放り込んだ時、玄関のチャイムがなった。おおかたお中元かなんかだろう。

そう思いながら部屋を出ようとしたら、いきなり目の前のふすまが開いた。

ビックリして顔を上げた私の前には、いつになく真剣な表情をしたお母さんの姿があった。

「あんた、何かやったの? 刑事さんがあんたに話があるって」

「刑事さん?」

驚いて聞き返しちゃった。そしたら、お母さん、私が手にしていたバッグに気付いて。

「あんた、まさか、逃げる気?」だって。

なんで参考書持って逃げなくちゃいけないのよ。しかも、古文よ、古文。

「図書館に行こうと思ってたとこ。なぜか私の部屋にだけクーラーがないから」って精一杯のイヤミをこめて訴えたんだけど、あえなく無視。

その後すぐ、私は玄関ホールにいた刑事さんのとこに引きずり出された。

いやあ、ビックリしたあ。

刑事さん、どこのアイドルさんですかって感じの、メチャクチャかっこいいお兄さんなんだもん。

私はおでこに貼りついた前髪を手で直しながら、急いでお出かけ用の笑顔を作った。

「森山ミドリさんですね」って確認されて、「ええ、そうです」ってふわふわしながら答えた。

そしたら、「この男性、ご存知ですか?」って写真を差し出されて。

そこには、パンチパーマに黒ブチのメガネをし、派手な色合いのシャツを着た太った男性が写っていた。

「たしか、前に沢田さんの家の角で声をかけてきた人だと思いますけど」って私が答えたら、「えっ、いつ?」とか、後ろに立っていたお母さんが口出してきて。

刑事さん、困った顔してたじゃん。やめてよ、まったく。

「7月16日の土曜日です」って言ったら、「それでは、望月正道さんはご存知ですか?」だって。

マー君の顔を思い浮かべながら、私はうなずいた。

そしたら、「彼とはどういうご関係ですか?」なんて聞かれちゃって。

「どういうご関係って……。幼なじみです。学年も一緒ですし、小学校の登校グループも一緒で」

なんて、ちょっとセリフっぽく答えてみたら、後ろから「書道教室も同じところだったわね」とか、お母さんがまた口挟んできて。

刑事さん、次は「最近、どこかで会われましたか?」って聞いてきた。

土曜日に会ったって答えようかと思ったんだけど、それは口止めされてるし。私の一言で彼の推薦がパーになったら悪いから、どうしようか迷っちゃった。

そしたら、刑事さんから16日の土曜日に、この近くで会わなかったかって聞かれて、驚いた。何でも、マー君自身が私に会ったと言っていたらしい。

自分で口止めしてきたくせに、一体どういうこと?

なんて、その答えは午後になってわかったんだけど、それは後で書こう。

「どうですか? 重要なことなので、正確に答えていただきたいんですが」なんて、刑事さんにじっと見つめられちゃった。

私、ドキドキしながら小さくうなずいたんだけど。そしたら、刑事さん、身を乗り出してきて。

「望月さんに会われたんですね。それは何時頃ですか」って。

私は、「授業が終わってすぐに帰ってきたから、1時頃だと思います」って答えたんだけど。

そしたら、またお母さんがややこしいことを言ってきた。

「ほんとなの? マー君があんたに会ったって言うから、合わせてるわけじゃないのね」なんて。

私は慌てて刑事さんの方を見て、マー君は高校をサボってたんだけど、大学の推薦が決まりそうだから内緒にしてって言われたって話をした。

そしたら、あの写真の男とマー君、どちらと先に会ったかって聞かれて、写真の男だって答えた。

ひととおり話を聞き終わった後、ハンサムな刑事さんはさわやかな笑顔を残して去って行った。

ここのところ忘れてたわ。こういうトキメキっていうの。


で、その後、図書館に行ったんだけど、席は他の受験生達で埋まっちゃってた。部屋にクーラーがある人は出入り禁止にしてくれたらいいのに、まったく。

少し待ってて席が空いたんだけど、すぐ隣が絵本のコーナーで、小さな子供達が大騒ぎ。親は何やってるんだろう。図書館で騒いだらいけませんとか、言わないのかな。イヤになる。

結局、30分ほどでギブアップして、家に帰ることにした。

たしかお昼の11時くらいだったはず。シャワーを浴びてお昼を食べたら、しばらくお昼寝して、夕方涼しくなってから勉強を再開させようっていう計画だったんだけど。

家に着いたら、思いがけないお客さんがいて、すっかり狂っちゃった。


あ、そろそろ寝ないといけない時間だ。続きは明日書こう。


+++++++++++++++++++


1988年7月23日(土)


えっと、どこまで書いたんだっけ。そうそう、図書館から帰ってきたところだった。

ドアを開けたら玄関に汚い革靴があって、誰だろうと思ったんだけど。出てきたお母さんから「弁護士さんが来てる」って聞いて、ビックリしちゃった。

朝の刑事さんといい、どうにも珍しい職種の人が訪れる日だ。

居間に入ると、中年の男の人がソファに座っていた。刑事さんとは対照的な「どんより」した感じっていうのかな。

あいさつしたら、弁護士さんが向かい側のソファを手で示すから、そっちに座ったんだけど。すぐにお母さんが麦茶を入れた冷茶碗を3つ、お盆に載せて現れた。

お母さんが冷茶碗を並べ終わり、私の隣に座るのを待って、弁護士さんが口を開いた。

「昨夜、平和台公園の墓地で男性の遺体が発見されまして。無縁仏さんの墓石のところなんですけどね」って。そのニュースなら、テレビで見て知ってたから、うなずいたんだけど。

そしたら、弁護士さん、「その容疑者の1人として、望月正道さんが今、警察で話を聞かれておるんですわ」だって。

マー君が? って、思わずお母さんと顔を見合わせちゃった。

なるほどね。今朝、刑事さんが来たのは、そういう理由だったのか。

弁護士さんは、マー君のお父さんと古くからの知り合いらしい。それで、助けてやってほしいと頼まれたってことだ。


弁護士さんの話によると、殺害された男は、堀田一馬という探偵らしい。

解剖やら何やらの結果、16日の午前10時頃から午後3時頃の間に殺されたことがわかったそうだ。

無縁仏さんは、墓地の一番外れにあって、滅多に人が来ない。そのせいで、遺体の発見が遅れたんだって。

その人は、首を刃物でバッサリやられていた。刃物は、堀田探偵本人が持ち歩いていた飛び出しナイフというやつで、指紋はふきとられていて、残っていなかったらしい。

堀田探偵の爪の間からは、ごくごく微量の皮膚が検出された。犯人ともみ合った時に、引っかくかなんかして入ったものだろうってことなんだけど、これがマー君の血液型と一致してしまったそうだ。

A型だし、日本人にはよくある型だから、必ずしもマー君のものとは言い切れないみたいだけど。

で、警察の方では、マー君の体に傷があるかどうか確認したみたい。でも、同じ日に自転車で事故を起こしていたから、体中傷だらけで、否定も肯定もできなかったって話。

たしかに、あの時、あちこちから血が出てたもんねえ。

でも、どうしてマー君が犯人としてリストアップされたんだろう?

私が尋ねると、弁護士さんは答えてくれた。

「それが、その男の傍らに、赤ちゃん大のクマのぬいぐるみが置かれていたんです。殺されたのは遺体発見現場だと見られているんですが、ぬいぐるみに血痕は見られなかった。つまり、殺害後、犯人が何らかのメッセージを込めて、置いて行ったんだろうということになったんですがね」って。

でも、私、クマのぬいぐるみとマー君のイメージとが、うまく結びつかなかった。

何も言わずにいたら、弁護士さんは私の方を見た。

「浜本あかねさん、ご存知ですか? ご近所に住まれていて、3ヶ月前に自殺された方ですが」って言われて、私はうなずいた。

あかねちゃんのお母さんがやっている書道教室に、小学校の頃通っていたから。

そのクマのぬいぐるみは、マー君があかねちゃんの結婚のお祝いにプレゼントしたものだそうだ。あかねちゃんがほしがっていたぬいぐるみで、お小遣いをはたいて、わざわざ特注して作ってもらったものらしい。

あかねちゃんは、私より8歳年上で、みんなの憧れだった。きっとマー君も大好きだったんだろう。

だから、幸せになってほしいと思って、プレゼントしたんだろうな。なんて思うと、ちょっと切ない。

だって、あかねちゃんは、その嫁ぎ先で子供ができなくていじめられて、ノイローゼになって、離婚されて実家に戻ってきて、すぐに自殺したんだから。

そう言えば、お葬式の時、あかねちゃんのお父さん、すっごいやつれてて、骨と皮だけみたいになっちゃってた。痛々しかったなあ。お母さんの方も、見た目が若いので有名だったのに、すっかり老けちゃってかわいそうだった。

私は親孝行なんて全くする気はないけど、親より先に死ぬことだけはやめようって思った。


あ、話がそれてしまった。

えっと、そのクマのぬいぐるみは、あかねちゃんが亡くなった時には実家にあった。でも、その後、盗難届が出されたようだ。泥棒が入った時に、金目のものと一緒に盗まれたって話なんだけど、警察は、マー君がこっそり持ち出したんじゃないかと考えているらしい。

マー君は、あかねちゃんのお父さんがやっている学習塾にも、お母さんがやっている書道教室にも通っている。

先生の目を盗んで、こっそりあかねちゃんの部屋に入り込むこともできただろうし、クマのぬいぐるみを持ちだす機会があったってことみたいだ。

それはいいとして、何で堀田探偵の死体の隣にあかねちゃんのぬいぐるみがあったのかってことが問題だ。それについても、弁護士さんから話があった。

なんとあの、平和台公園の幽霊話に関連しているらしい。

「たいようタクシー」は「宝田興産」という大きな会社の系列会社で、「宝田興産」の会長の孫が「たいようタクシー」の社長をしている。で、その会長の孫というのが、あかねちゃんのダンナさんだったそうだ。

あの幽霊騒ぎは、あかねちゃんを死に追いやった嫁ぎ先を逆恨みしたマー君が、営業妨害をするために引き起こしたものではないかと、警察は考えているようだ。

たしかに、マー君は高校で演劇部に所属していて、メイクはかなり得意なんだとか。実際に、女の子の役もこなしたことがあるらしい。ちょっと想像したくないんだけど。

もちろん、マー君が疑われた理由はそれだけではない。

幽霊騒ぎに頭を痛めていた公園の管理会社が、道端に放置されている不審者のナンバーとか自転車に書かれている名前とかを控えていたそうだ。

その中に、マー君の名前が書かれた自転車があった。

マー君は野鳥の観察をしていただけだって言ってるらしいんだけど、双眼鏡も何も持っていなかったらしい。しかも、幽霊が出没したと思われる時間帯のアリバイが、マー君にはいずれも無いそうだ。

「偶然にも、習い事の無い日ばかりで……」って、弁護士さん、困ったみたいに頭をかいてた。

幽霊騒ぎが始まったのは、ちょうど3ヶ月前。あかねちゃんが亡くなった直後からだっていうのも、マー君には不利だ。

幽霊騒ぎで、「たいようタクシー」はめっきり乗客が減ってしまった。その上、乗務員からも、嫌がって辞める人が出てきたらしい。

まさか本物の幽霊のはずはないし、悪質ないたずらとして警察に連絡してもよかったんだろうけど、そうなるとあかねちゃんのことも公になってしまう。それで結局、堀田探偵に真相の究明を依頼することになったって話なんだけど。

15日の夜、堀田探偵は、愛人に「クマのぬいぐるみ様々だ。明日、幽霊と対決してくる。高い金になるぞ」と言ったらしい。そして、その翌日、殺された。

警察は、真相を知られてゆすられたマー君が、保身のために堀田探偵を殺したのではないかと疑っているようだ。

うーん、このままではマズイなあと思った私は、マー君にとって何か有利になることはないかなと考えた。

そうだ、千円札と赤ちゃんの靴下。きっと指紋が付いてるはずじゃん。私ってやっぱり頭いいわ。

と思ったんだけど、それは無理だった。

弁護士さん、「千円札はおつりなどにもよく使われますし、出入りが激しいですからね。それに、最後に幽霊が現れたのは7月15日。遺体が発見されて捜査が始まったのは、昨夜、20日です。幽霊から受け取ったお金は、既にあちこち散ってしまって、追いかけることは難しいでしょうね。その上、赤ちゃんの靴下は毛糸で編まれた、どこにでもあるものでしてね。濡れていたこともあって、こちらからも指紋の採取は無理だったようです」だって。

お母さん曰く、「あんたが思いつくことくらい、誰でも思いつくわ」とのことで。腹立つけど、多分その通りなんだろうな。

黙り込んでしまった私に向かい、弁護士さんは場違いなくらい明るい口調で話し始めた。

「もちろん、私はまだ諦めていませんよ。実は、あなたの証言ひとつで、正道君の無罪が証明されるかもしれないんです。アリバイが立証される可能性が大きいので」だって。

私とお母さんは、同時に身を乗り出した。

私がマー君に出会ったのは16日の午後1時頃。彼はその後すぐに自転車屋に行き、自転車を修理してもらっていた。自転車はひどい状態だったらしく、修理にはかなり時間がかかってしまった。

すべて直ったのは午後4時頃。その間、彼は一度も自転車屋を出ていない。

したがって、午後1時過ぎから午後4時頃までのマー君のアリバイは、カンペキということになる。

一方、死亡推定時刻は午前10時頃から午後3時頃。

問題は、その午前10時頃から私に出会う午後1時までの間のアリバイだ。

弁護士さんは、お尻のポケットから、少しシワになった写真を取り出した。朝、刑事さんに見せられたものと同じ写真。例のパンチパーマの男だ。

この男に会ったのは、マー君に会った直前で間違いないかと確認され、私はうなずいた。

「実は、この男が堀田一馬さんなんですよ」と、弁護士さんは満足げに微笑んだ。

そうか。私が午後1時前にこの人と会ったってことは、彼が亡くなったのはそれ以降。つまり、マー君のアリバイは成立するということになる。これで、マー君は無罪放免だ。

でも、そう簡単にはいかないらしい。

警察は、私が私がマー君の友達だから、証言を頼まれたのではないかと考える可能性があるそうだ。

「堀田さんに会った時、周りにその様子を見ていた人はいませんでしたかねえ」なんて聞かれても、あの時は誰もいなかったしなあ。

と、ここでお母さんが、また余計なことを言い出した。

「日記ではダメですか? この子、小さい頃から、毎日かかさず日記をつけているんです。それも、かなり事細かに書いているみたいで。それを見たら、本当かどうかわかりませんか?」

――とんでもない! なんてことを言ってくれちゃってるんだ!

私は慌てて、お母さんの服を引っ張った。

でも、弁護士さんはすっかり乗り気になってしまい、読ませてほしいなどと言い出した。

「ほら、あんたの日記には、マー君の一生がかかってるんだよ」なんて、お母さんまでせっついてきちゃって。

私だって、助けてあげられるものなら助けてあげたい。でも、あの日の日記には、午前中にあった古文の追試のことを書いてしまっていた。こんなことなら、追試を受けたってこと、お母さんにあらかじめ打ち明けておけばよかった。


私はしぶしぶ立ち上がると部屋に行き、机の引き出しから鍵のかかったこの日記帳を取り出した。

赤地の表紙に、金色の「DIARY」の文字がまばゆい。

それがいけなかった。この高級感が、私のプライドをくすぐってしまった。

これまで通り、エンピツで書いてたらよかったのに、ついついかっこつけて万年筆を使ってしまった。消したくても消せないじゃん。

別の引出に隠してある鍵も一緒に手にすると、私は覚悟を決めて居間へと戻った。

そう、すっごい覚悟を決めて。


2人の前で鍵を開け、16日のページをめくって差し出したんだけど。

読み進めて行くうちに、やっぱりお母さんの顔色が変わってきた。

「あんたはまったく、なんでこんな恥ずかしいことまで書くのよ。『35点』の『3』を『8』に書きかえなさい」とか言い出しちゃって。

でも、弁護士さんは、「書かれている男性の特徴が、堀田さんと一致しますね。正道君との会話もかなり細かく書かれている。これは本当に助かります。それに、このテストの一件も、かえってリアリティがあっていいですよ。他人様に見られることを前提として書いたのではない、ということがわかりますからね」とか言って微笑んだ。

その上、「この日記帳、少しお借りしますね。このページをコピーさせていただきたいので」だって。

ガーン、この場で読まれるだけでも恥ずかしいっていうのに、その上コピーまで? ってことは、警察にも読まれちゃうの? やめてくれー。

お母さんは、最後の最後まで、「私、絶対にバレないように直しますから、『3』を『8』に……」って手を合わせてたけど、ダメだった。

弁護士さんが帰った後は、もう修羅場ってやつ。

やっぱり、日記は、万年筆じゃなくてエンピツで書くことにしなくちゃね、これからは。


+++++++++++++++++++


1988年7月26日(火)


今日、容疑の晴れたマー君が、おばちゃんと一緒に我が家にあいさつに来た。

お母さんは、ずっとうつむいているマー君に、自家製のアイスキャンディーを手渡した。

牛乳と砂糖を混ぜて、プラスチック製の型に流し込んで固めるんだ。砂糖がかたよっちゃって、甘いところとそうでもないところができるんだけど、私はけっこう気に入っている。

私の向かい側に座ったおばちゃんは、泣きそうな顔で何度も私にお礼を言ってくれてた。

「いえいえ、そんな」なんて微笑んでおいたけど、よく考えたら、私、お礼を言われるようなことは何もしてないんだよね。ただ、世間様に自分の恥を公表してしまっただけの話。

警察はあれから、マー君の家の家宅捜索をしたらしいんだけど、幽霊騒ぎに関するものも、堀田探偵殺しに関するものも、何も出て来なかったんだって。でも、警察はご近所さんにも色々聞いて回ったみたいで、おばちゃん、何だか居心地が悪いって言ってた。

そんなこと気にしなくてもいい、言いたい人は何をやっても言うんだからって、お母さんがなぐさめてたけど、私もその通りだと思う。横でうなずいたら、おばちゃん、嬉しそうに微笑んだ。そして、言ったんだ。

「あの時、ミドリちゃんが正道に『太ったおじさんに追いかけられた』って話をしてくれて、本当によかったわ。そのことを正道が思い出したもんだから、ミドリちゃんのあの日記に行き着いて。あかねちゃんのご両親も、アリバイを証明されたのよ」って。

お母さんと一緒に、2人を門まで見送りに出た時、ようやくマー君が顔を上げて私の方を見た。

「ミドリ、ほんとにごめんな」だって。やめてよ、照れくさいじゃん。

私が何も言わずに微笑むと、彼ら親子は深々と頭を下げ、私達の元を去って行った。


マー君のおばちゃんが言ってた、あかねちゃんの両親のアリバイというのは、ざっとこんな感じだ。せっかくだから(?)、一応書いておくことにする。

クマのぬいぐるみの一件で、当然のことながらあかねちゃんの両親にも疑いの目が向けられた。だけど、血液型はお父さんがB型、お母さんがO型だった。

家宅捜索をしても、事件に関連しそうなものは何も出て来なかったらしい。

おまけに、堀田探偵殺人事件(私が名付けた。なかなかカッコイイじゃん)の当日は、1時半から近所の文化センターで行われていた囲碁大会に、開会式から夫婦で出席していたそうなのだ。

文化センターから平和台公園の外れにある殺害現場まで、車で飛ばしても最低20分はかかる。

私が堀田探偵に会った直後に彼を連れていき、殺害したのだとしたら、とても1時半から始まる開会式には間に合わない。

なるほど、アリバイはカンペキ。

つまり、あかねちゃんのお父さんもお母さんも、私の日記のおかげで助かったってわけだ。

だったら、私のかいた恥くらい、どうってことないか。……なんて、思えるわけがない。

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