やっこの決戦(後編)
やつこがきいたことのないくらい大きな声で、紗智は呪い鬼に命じた。するとそれに応えるように、呪い鬼は両腕にかかった見えない拘束を一気に破った。紗智の言葉に返事をするように吼えるその声は、やつこの知る鬼とは全く異質で、まるで獣のようだった。
「さっちゃん、どうして……?」
紗智に追いついて、やつこは困惑したまま、それだけを喉から搾り出した。振り向いた紗智はやつこを睨みながら、吐き捨てた。
「学校なんて嫌い。合唱コンクールなんて大嫌い。何がクラスの団結よ、下手なのを全部わたしのせいにしてるくせに!」
やつこの頭の中に、クラスメイトの声が響いた。紗智を囲んで、声を出さないことを責める言葉の数々が思い出される。
「わたしの他にも、ちゃんと歌ってない子はいるじゃない。それなのに、わたし一人が悪いみたいに言って。……だから神社でお願いしたの、合唱コンクールをなくしてくださいって。いっそ学校ごとなくなればもっといいですって!」
きっとやつこが知らない間にも、紗智は責められていたのだろう。紗智がこんなに追い詰められているなんて、学校が嫌いになるほど悩んでいたなんて、やつこにはこうなるまでわからなかった。神社で願い事をしていたことだって、毎日見回りをしていたはずなのに、ちっとも知らなかった。
「神社でお願いをしたら、叶ったの。吉崎君がもっとわたしに優しくしてくれますようにって願ったときも、いつも八方美人な根代さんがクラスで嫌われますようにって願ったときも、叶えてくれた。今日初めて鬼に会って、わかったの。ずっとわたしの願いを叶えてくれてたのはこの鬼だったんだって。今日も願いを叶えてくれるんだって。それなのに、なんで邪魔するのよ!」
紗智の叫びに合わせるように、呪い鬼はその手で地面をえぐった。海や大助を狙って、今までよりもずっと速く動き、腕を振るっている。呪い鬼との戦いに慣れた二人でも、この状況には対応しきれないようで、ひたすらに、けれどもやつこたちからは離すように逃げていた。
「大助さん、これは良くないです。一旦神社に帰せませんか?」
海が尋ねるが、大助は顔をしかめて舌打ちした。
「この状況で、どうやって帰すんだよ!」
呪い鬼がところかまわず地面をえぐり取るので、逃げられる場所は徐々に減っていく。やつこと、どうやら呪い鬼に関係しているらしい女の子だけでも無傷で家に帰さなければならない。そのためにはやはり、愛さんの力が必要だった。
「まだかよ、姉ちゃん!」
「愛さん、早く!」
海と大助が、切り札の名を呼ぶ。やつこも赤い石をぎゅっと握りしめて、力いっぱい叫んだ。
「愛さん、来て!」
ほぼ追い詰められた海と大助に、呪い鬼は爪を向ける。大助は海の前に出て、覚悟を決めた。貫かれてでも最後の札、呪い鬼を神社へ帰すための札をつきつけてやろうと、ポケットから取り出した一枚を鬼へとかざした。
「待って!」
その声の主がようやくここに辿り着いたのは、まさにその瞬間。両手に一枚ずつ、二枚の札を手にした彼女は、呪い鬼の背にそれを貼りつけた。呪い鬼は一度大きく肩を震わせ、そして動きを止めた。
やつこは安心から思わず頬を緩ませ、彼女の名前を呼んだ。
「愛さん……」
愛さんは申し訳なさそうに、しかし笑みを浮かべて、「ごめんなさいね」と言った。
「準備に時間がかかっちゃって。……さあ、大助、海君。ここからは私がなんとかするよ。今度こそ、失敗しないから」
愛さんは呪い鬼の正面にまわり、その肌にそっと触れた。そして、静かに語りだした。
「あなたが呪いを浄化できなかった理由がわかったの。気付けなくて、ごめんなさいね」
本来ならば、神社に帰された呪い鬼は、神主さんに心の痛みを取り去ってもらう。けれども、この呪い鬼は神社に帰るたびに新たな呪いを背負っていた。神主さんがその帰りを迎える前に、悲しみを増やしては、より負の思いを溜め込んだ呪い鬼として、神社を出ていった。
「あなたは自分の痛みを癒せなかったのね。ずっと、ずっと、抱え続けてしまった。痛みを消したくて、消す方法を求めて、町をさまよっていたのよね」
呪い鬼に寄り添いながら、愛さんは札を一枚取り出した。そして呪い鬼に貼りつけた。すると少しずつ呪い鬼は透けていった。その表情がだんだんと穏やかなものになっていくのを、やつこはじっと見つめていた。
「あなたが溜め込んでしまった痛みは、今度こそ大鬼様が癒してくれるから。もう誰も、あなたに呪いなんか与えない。だから安心して帰っていいの」
愛さんが言葉を紡ぎ終える頃には、もう呪い鬼の姿は消えていた。えぐられた地面はもとのとおりに戻っていて、周囲には自然と生活の音が戻ってきた。海と大助が、一気に気が抜けたように大きく息をついた。
愛さんに微笑みかけられ、やつこもホッとして笑みがこぼれた。あの呪い鬼は、きっと救われるだろうと確信が持てた。
その後ろで、紗智がうなだれていた。彼女はこぶしをぎゅっと握りしめ、小さな声で呟いた。
「何よ、役立たず……」
吐き捨てられた言葉が、やつこの胸に刺さった。紗智がさっき言っていたことは、全て本当のことなのだろう。神社で願いをかけて、出会った呪い鬼に学校を壊してもらおうと思ったけれど、それは実現しなかった。ことが終わって安堵するやつこたちとは違い、紗智は恨みがましく地面を睨んでいた。
「……さっちゃん」
たまらず、やつこが声をかけたときだった。その脇をつかつかと早足で通り過ぎた海が、紗智の前に立った。直後、ぱちん、と音が響いた。
「な……、何するのよ!」
海に頬を平手で叩かれ、紗智は激昂した。突然のことに呆然とするやつこの目の前で、わめく紗智に、海は低い声で言った。
「あの鬼を呪い鬼にしたのは君だ。君が自分のわがままを押し付け続けたせいで、あの鬼はいつまでたっても呪いから解放されなかった」
紗智は意味がわからないという顔をしながら、それでも黙らざるをえなかった。海が明らかに怒っていて、その表情に有無を言わせない迫力が宿っていたからだ。その様子をただ見ていることしかできないやつこにも、それは伝わってきた。
「あの鬼は君の願いを叶えたかったんだと思う。だけどそれがあまりにも汚れた願いだったから、心を痛めて呪い鬼になったんだ。それを、役立たずだって?」
こんなにも怒りをあらわにした海も、こんなにも怯えた紗智も、やつこは今まで見たことがない。どうすればいいのかわからないまま動けないでいると、大助が海の肩を掴んで紗智から引き離した。
「もういいだろ、やりすぎだ。それにそんな話、この子にはわからねぇよ」
それから大助は、やつこに向かって「チビ」と呼んだ。いきなりのことで返事もできないやつこに、大助は一言だけ告げた。
「あとは、お前にまかせる」
そして海を連れて、その場を去っていった。戸惑ったやつこは愛さんを見上げ、やっと「どうしたら」とだけ尋ねた。愛さんは悲しげに微笑んで答えた。
「やっこちゃん、人間も鬼も同じなの。だから、鬼たちの話を聞いてあげていたように、彼女の気持ちを聞いてあげて」
やつこはもう一度紗智を見た。頬を押さえて呆然としている彼女に、どう声をかけたらいいのかわからなかった。だって紗智は、さっき言ったのだ。やつこがクラスで嫌われるように願ったのだと。
「さっちゃん」
やっとのことで名前を呼んだ。反応はなかった。けれどもそこから立ち去ったりすることもなかったので、やつこは思い切って聞いてみた。
「わたしのこと、嫌いだったの?」
答えは、すぐには返ってこなかった。それでもやつこは待った。このまま紗智をおいていくわけにもいかなかったし、呪い鬼の脅威も去った今、時間はたっぷりあった。
しばらくして、紗智はいつもクラスでそうしているように、小さな声を発した。
「ずるいと思ってた」
「ずるい?」
「根代さんは、いつもみんなに頼られて、みんなと一緒に笑ってた。吉崎君とも仲が良かった。わたしにないものをたくさんもってて、ずっと羨ましいと思ってた」
誰ともすぐに仲良くなれる明るいやつこを、紗智は同じクラスになってからずっと見てきた。特に仲の良い結衣香や雄人以外のクラスメイトとも、毎日楽しそうに接しているやつこは、自分から人と関わろうとしてこなかった紗智とは正反対だった。
「わたしは昔から、よく神社に行ってた。みんながわたしに優しくしてくれますようにって、いやなことがなくなりますようにって、お願いしてた」
けれども、願いはなかなか叶わなかった。次第に紗智は、神社へ行っては、どうして願いを叶えてくれないの、と苛立ちをぶつけるようになった。人前で歌うことを恥ずかしいと思うようになってから嫌いになった合唱コンクールも、なくなってほしいとは願ったけれど、どうせ叶えてくれないのだろうとあきらめていた。
でも、その日は突然やってきた。雄人たち男子グループに雑巾をぶつけられたあの日、紗智は神社に来て念じたのだ。
「吉崎君がわたしに謝って、もっと優しくしてくれますように。……まぁ、どうせ叶えてくれないだろうけど。この神社はどんなに願い事を言っても、何一つ叶えてくれたことがないし。本当に、役に立たないところだわ」
ただ、誰にも言えない恨み言を心の中で呟いただけだった。だけど、次の日になって、雄人は紗智に謝りに来たのだ。さらにその後、ほんの少しではあったけれど、初めて話が弾んだ。
紗智はようやく神様が願いを叶えてくれたのだと思った。今なら他の願いも叶えてくれるのではないかと思った。以来、紗智は神社に願い事という名目で恨み言をぶつけ続けてきたのだった。
「今日、初めて鬼を見たとき、これがわたしの神様だったんだと思った。学校を壊してほしいっていう願いを叶えにきてくれたんだって。でも……」
今度の願いは叶わなかった。やつこが、知らない男の子たちが、それを阻止したから。学校はちゃんとあって、呪い鬼がえぐったはずの地面ももとどおりになっている。おまけに、人から優しくしてもらいたいと願っていたのに、初対面の男の子に頬を叩かれた。
「礼陣の鬼は子どもの味方なんていうけど、うそだよ。わたしがどんなに頼んでも、何も解決してくれないんだから」
紗智の言葉が、やつこにはとても痛かった。やつこは礼陣が好きで、鬼たちが好きで、人間が好きだ。紗智のことだって、クラスメイトとして好きだった。でも紗智はそうではなくて、このままではやつこが好きなもの全てを嫌いだと言われてしまいそうだった。
でも、どんなに心が痛くなっても、やつこには言いたいことがあった。これまで鬼の子としてたくさんの鬼と接してきた。そして、愛さんは「人間も鬼も同じ」と言った。だからやつこの中で、これだけははっきりしている。
「さっちゃん。この町の神様は、鬼たちはなんでも叶えてくれる便利な存在なんかじゃない。人間と同じように暮らしているし、役に立たないなんて言われたら傷つくよ。優しくないことばかり言う人に優しくできる自信は、わたしにはない」
きっと誰だってそうだ。ちょっとしたことで傷ついてしまって、けんかになったり、落ち込んだりする。人間も、鬼も、同じだ。けれどもそれをどうにかしようとしないで、ただ拗ねているだけでは何も変わらない。周りの人が手を差し伸べることで解決することももちろんあるけれど、言ってくれないとわからないことだってたくさんある。
なかなか言えないこともあるだろう。やつこだって、抱えた悩みをおばあちゃんやお母さんには言えなくて、家の「鬼さん」にひたすらこぼしたり、そのまま黙ってしまったりすることはある。
できれば他の人を傷つけない形で、悩みや痛みを解決したいと思う。それが紗智にはうまくできなかったのだろう。彼女の痛みを受け止めようとしてくれた鬼は、それをそのまま抱えこみ、呪い鬼になってしまった。どうやら人間も鬼も、そのあたりをうまく処理することは難しいようだ。
だから、人と、鬼と、自分から関わろうとすることが大事だったのかもしれない。自分の味方を自分でつくるということが、きっと紗智には足りなかった。ただ他の誰かに「こうしてほしい」と思ってばかりだった。
それがわかった今、やつこが紗智にできることがあった。手を差し伸べる方法が見つかった。あとは紗智が、それを嫌がらずに受け入れてくれるかどうかだ。
「さっちゃんはわたしのことが嫌いかもしれないけど、わたしはさっちゃんのこと好きだよ。さっちゃんが優しくしてほしいと思うなら、そうできるようにできるだけ努力する」
さっき言ったとおり、いつもそうできるかどうかは自信がない。紗智はやつこが大切に思っている鬼の一人を、無自覚だとしても傷つけてしまったのだから。だけど、それが紗智のもつ寂しさからくるものだったのなら、寂しくならないようにそばにいたい。紗智がこれからは笑顔でクラスにいられるようにしたい。
「……そういうところが、八方美人だっていうのよ」
紗智はうつむいたまま言った。けれども、わずかに見えたその顔は、少し泣いていて、少し笑ってもいた。
「親交はこれから時間をかけて深めれば大丈夫よ、お二人さん。なにしろ、まだ小学五年生なんだからね」
そばでずっと話を聞いていた愛さんが笑顔でやつこと紗智を抱きしめた。やつこは照れてへらりと笑い、紗智は顔を真っ赤にした。
「その第一歩として、お昼は私がおごりましょう。商店街の喫茶店で、とっても美味しいオムライスを出してるのよ」
「本当ですか?」
「……わたしも、ですか?」
「もちろん。やっこちゃんも、それからさっちゃんも、私は大好きだからね」
愛さんが明るく言うと、紗智は嬉しそうに微笑んだ。やつこはそれが嬉しくて、愛さんと紗智をぎゅっと抱きしめ返した。
喫茶店に移動しよう、というときに、紗智が「そういえば」と言った。
「根代さん、どうして学校に来たの?」
「……あ、宿題のノート!」
慌てて学校へ入っていくやつこを見ながら、紗智はくすりと笑って、呟いた。
「ずっとずっと、明るいあなたが羨ましかったんだよ。……やっこちゃん」