やっこ、初めて鬼追いをする
合唱コンクールが間近に迫り、やつこは忙しくなった。朝は家の「鬼さん」に挨拶をしてから走って学校へ向かい、歌の練習をする。勉強をしっかりして、放課後にまた練習をしてから、急いで家に帰って「鬼さん」にただいまを言う。そうしたあとに、新しい日課が加わった。
愛さんたちの鬼追いを手伝うと決めてから、やつこは毎日、外の見回りをするようになった。もちろん、鬼たちの様子を見るためだ。それまでは、鬼たちとのやりとりは日曜日に神社を掃除しにいくときくらいのものだった。けれども今は、人間の友だちと遊ぶよりも、鬼たちが変わらず平和に過ごしているかどうかが気になる。もしも悲しそうな鬼がいたのなら、声をかけてあげて、呪い鬼にならないようにしなければいけないのだから。
学校のことに、鬼追いのこと。週に何回かは剣道も。やつこの予定は毎日ぎゅうぎゅう詰めだった。
「やっこちゃん。今日の宿題、一緒にやらない?」
結衣香が休み時間に誘いに来ても、やつこは「ごめん」と手を合わせて答えた。
「やらなきゃいけないことがあるの。誰か他の子たちと一緒にやるといいよ」
「うん、わかった……」
残念そうに行ってしまう結衣香には申し訳ないと思うが、やつこには他の子にはできない「使命」がある。愛さんから「他の人には内緒にするように」と言われているので、それを説明することはできないけれど。
宿題は一人で、夜にやればいい。それに結衣香にはやつこ以外にも、たくさん友だちがいるのだ。自分がいなくても寂しくはないだろうとやつこは考えていた。
そうして今日も、やつこは結衣香たちの誘いを断って、礼陣の見回りをしていた。自転車に乗って、自分の住む遠川地区から神社までを往復する。その間にすれ違う鬼たちの様子を眺めて、ときどき話しかける。
「何か変わったことはない?」
『いいや、ないよ』
にこにこと答える鬼たちを見てはホッとする。けれども、ちょっとだけがっかりもしていた。悲しい鬼がいないことはいいことなのだけれど、それではやつこにできることがないのだ。
「毎日見回りしてるんだから、少しくらいは役に立ちたいよ」
このあたりの地域名のもとである川、遠川の河川敷で一休みしながら、やつこは溜息をついた。離れたところで、中学生と思われる男の子たちがボールを蹴っているのが見える。ついこのあいだまでは、剣道のない日には、やつこもああして人間の友だちと遊んでいた。結衣香たちのような女の子だけではなく、雄人たちのようなやんちゃな男の子とも。
最近はいつも一人で自転車に乗り、鬼たちに話しかけてまわっている。これといった変化がない日々を過ごしている。けれども、これもやつこにしかできない「使命」のためだと思ってしていることだ。
「わたしは、鬼の子なんだから……」
そう呟いたのと同時に、やつこの肩に何かが触れた。振り向くと、よく家に遊びに来るおかっぱ頭の子鬼の姿があった。
『やっこ、元気か?』
子鬼はにかっと笑って尋ねた。やつこは頷いて、それから「がんばってるよ」と言った。
「礼陣のために、鬼とお喋りしたり、つらい思いをしてないかどうか見たりしてる。呪い鬼が出たら、大変だもんね」
『なるほど、愛の手伝いに全力を尽くしているというわけか』
うんうんと頷いて、子鬼はやつこの隣にちょこりと座った。それからやつこをじっと見て、でも、と言った。
『そんなに頻繁には、呪い鬼は出ないぞ。悲しんでいる鬼だってそんなにいない。礼陣の鬼は、みんなこの町が大好きだからな』
それは他の鬼たちも言っていたことだった。やつこが話しかけると、鬼たちは嬉しそうに笑うのだ。
『やっこちゃんが話しかけてくれるから、いつものように元気だよ』
そう言って、自分がこの瞬間どんなに幸せかを語りだす。そのたびにやつこは、こんなにいい鬼たちの中から呪い鬼を出すわけにはいかないと、よりはりきって見回りに勤しむのだった。
「わたしだって、この町が大好きだよ。だから、呪い鬼が出ないようにしたいの。わたしにしかできないことをやりたいの」
やつこは子鬼にそう言って、立ち上がった。こうして休んでいる間にも、どこかで鬼が心を痛めているかもしれない。行って、声をかけてあげなければ。そして愛さんに報せて、つらい気持ちを拭い去ってもらわなければ。
子鬼にじゃあねと別れを告げて、自転車にまたがろうとしたとき、やつこはふといやな感じを覚えた。胸のあたりが急にざわつきはじめる。空気が冷たくなった気がする。こんなことが、前にもあった。
「もしかして、呪い鬼?」
やつこは自転車のペダルに足をかけ、思い切り踏み込んだ。後ろから子鬼が何か言っている声が聞こえたような気がしたが、耳はそれをとらえきれなかった。やつこの頭の中は、近くに呪い鬼がいるかもしれないという思いでいっぱいだった。目も耳も、その姿を見つけるためだけにはたらいていた。
空気がどんどん冷たくなるほうへ自転車を走らせていると、その途中、突然ぷつりと音が消えた。この経験が二度目のやつこには、呪い鬼の空間に入ったのだとすぐにわかった。姿はまだ見えないけれど、確実にいるとわかる。
やつこはジーンズのポケットに手を突っ込み、中に入っていた石をぎゅっと握りしめた。この石は愛さんが、鬼追いの話をしてくれた日にくれたものだった。
「強く握って、私の名前を呼んで。そうしたら、私はやっこちゃんのところに駆けつけることができるから」
愛さんはそう言ってやつこに、真っ赤でつるつるした石を渡した。まるで魔法のようだとやつこは思ったが、そんな魔法があってもおかしくないようなことが礼陣ではたくさん起こっているので、疑うことはなかった。
「愛さん、早く来て……!」
やつこの胸はどきどきしていた。呪い鬼の空間に入ったということは、いつ主が現れてもおかしくないのだ。そして今のやつこには、戦う力はない。せめて竹刀を持ち歩けば良かったと後悔した。そうすれば、海のようにうまくはできなくても、ほんのちょっとの抵抗ならできたかもしれないのに。
石を手が痛くなるくらい握っているうちに、やつこの耳には不穏な音が届いていた。他に何も聞こえない中、ざり、ざり、とすり足で歩いてくるような音だけが少しずつ近づいてきていた。
その音はどこから? 前には何も見えない。じゃあ、右? それとも、左?
やつこは緊張してあたりを見回す。そして不意に自分の上に大きな影ができて、やっと気がついた。
振り向くと、そこには人間の倍はある体。長い手足。視線を上に向けると、二本の長いつのが生えた頭。一度見たことのあるやつこにわからないはずはない。それは先日、雄人を襲っていた呪い鬼だった。
「……うそでしょ、また?」
あのとき、愛さんに優しく語りかけられ、姿を消したはずの鬼。愛さんいわく神社へ帰して、つらい思いを神主さんに取り去ってもらったはずの、あの鬼。それがどうして、また呪いを持って姿を現したのだろうか。
疑問はあったが、それについてじっくり考えている暇はなかった。呪い鬼はその長い手を振り上げて、あのときと同じようにやつこへ振り下ろそうとした。やつこは急いでその場から離れ、ポケットから出した、石を握りしめたままの手をもう片方の手で包んだ。祈るような格好のまま、鬼と対峙する。他に人はいない。今はやつこ一人きりだ。
「どうしよう……。もっと早く愛さんを呼べばよかった……」
あとずさりしながら、鬼が振り上げる手を見る。このままよけ続けて、愛さんが来てくれるまで待つしかないのだろうか。それとも海がまた助けにきてくれるだろうか。いずれにせよ、やつこには何もできない。できることがない。あんなに礼陣を守りたいと思って、毎日駆け回っていたのに。
「いざというとき何もできないんじゃ、何の意味もないよ……!」
悔しさと怖さで、目に涙がにじんでくる。視界がぐにゃりと歪んだ。呪い鬼の姿は、一際歪んで見えた。
「……?」
頬を涙が伝ったとき、やつこは気付いた。呪い鬼の姿は歪んで見えたのではなく、実際に体が大きく傾いていたのだ。側面に何かが当たった衝撃で、呪い鬼は横に倒れようとしていた。
何か、は人間だった。そして当たったのではなく、呪い鬼にとび蹴りをおみまいしていたのだ。それを理解したやつこは、恐怖も悔しさも忘れて驚いた。武器も持たずに、呪い鬼を攻撃する人間がいるなんて! しかも自分よりもずっと大きなその相手を、倒すくらいに強く蹴ることができるなんて!
やつこがぽかんと口を開けている間に、呪い鬼を蹴った人物は地面に着地した。背中から落ちたようで、まったくきれいな着地とはいえなかった。けれどもやつこには海のときと同じく、その人がヒーローに見えた。
見た目は高校生くらいだろうか。つり目が少しこわそうなお兄さんだ。今は呪い鬼をにらんでいるから、いっそう柄が悪そうに見える。彼はゆっくり起き上がろうとする呪い鬼より先に立ち上がって、ズボンのポケットに手を突っ込み、紙のようなものを取り出した。
「おい、チビ」
彼は低い声でそう言って、やつこの方へ歩いてきた。「チビってわたしのこと?」と口に出しかけたやつこに、紙を握りしめたこぶしを突き出して、もう片方の手でやつこの手をとった。
「俺がアイツの気を引いている間に、この札をアイツに貼り付けろ。神社へ帰れって強く思いながら叩きつけるんだ」
やつこの石を握っていない手に、彼が「札」と呼んだ紙が渡された。やつこがそれをそっと握ると、少年は飛びのくように呪い鬼のほうへ戻っていった。呪い鬼はもう起き上がって、彼の姿を見つけると長い腕を大きく振り上げた。
今なら、呪い鬼は完全に少年だけを見ている。やつこは片手に札を、片手に石を握りしめて、呪い鬼の背後にまわるために走った。
呪い鬼が腕を振り下ろすと、少年はそれを上手によけて、それから挑発するようにあごをしゃくった。呪い鬼はゆっくりとした動作で、今度は両腕を一度に上げる。少年を両手で叩き潰そうとしているのだと、やつこにもわかった。急いで呪い鬼の背後について、札を見ながら少年が言っていたことを思い出す。
「神社へ帰れって強く思いながら叩きつけるんだ」
前に、愛さんが優しく触れるようにやっていたことだと思う。本当はこんなふうにするべきではないのだろう、しかし今はそうするしかないのだ。
「神社へ、帰って!」
やつこは叫びながら、両腕を今にも少年へ向かって叩きつけようとしていた呪い鬼の背中に、札を貼り付けた。
呪い鬼の姿が消えて、その空間も消える。周囲に音と暖かい空気が戻って、やつこはその場にぺたりと座り込んでしまった。怖かったり、悔しかったり、びっくりしたり、緊張したり。色々な感情が混ざって、まだ頭がぐらぐらしているような気がする。
「大丈夫か、チビ」
そんなやつこに手を伸ばした少年は、しかたないな、と言いたげに笑っていた。その表情がどこか愛さんに似ているなと思ったとき、後ろから誰かが走ってくる音が聞こえた。
「やっこちゃん、大丈夫?」
焦ったような愛さんの声に、やつこは座ったまま振り向いた。「大丈夫です」と答える前に、少年が口を開いた。
「姉ちゃん、もう終わったぜ」
そしてやつこの腕を引っ張り、立たせてくれた。愛さんは少年の言葉と行動に、安心したように息をはいて言った。
「ありがとう、大助。あなたが近くにいてくれて、本当に助かったよ」
「ちょうど河川敷に友だちといたんだ。そうでなきゃ今頃もっと疲れてたかもな、チビ」
チビ、チビと失礼ではあるが、彼は愛さんの弟で中学三年生、名は大助というそうだ。つまりは、愛さんの鬼追いを手伝う、もう一人にあたる。正直なところ、やつこはもっと優しくて穏やかな、まさに愛さんの弟という感じの人を想像していた。しかし「チビ」発言も重なって、期待が大きく外れていたことにがっかりしていた。
「……でも、すごいな」
印象にがっかりはした。けれども、大助がたしかに愛さんを手伝い、今回のように愛さんの代わりに鬼追いができることは事実のようだ。なんとか逃げるだけで精一杯だった自分とは違うな、とやつこはうつむく。
「海にいも、大助兄ちゃんも、ちゃんと呪い鬼に立ち向かえる。わたし、愛さんの手伝いがしたくて一生懸命になってたのに、いざというときには何もできなかった」
ただ、必死に愛さんを呼んでいた。大助が来るまで、泣いていた。礼陣を守るどころか、やつこのほうが守られている。情けなくて、また涙がじわりとにじんできた。
すると急に頭に圧力がかかって、それからがしがしとこすられた。髪がぐちゃぐちゃになってしまったのを感じて顔を上げると、大助が笑っていた。
「ばか、お前も鬼追いやっただろ。俺から札受け取ってさ」
やつこの頭を乱暴に撫でる彼の表情は、やっぱり愛さんに少し似ている。大助に言われて、やつこは自分の手を見た。くしゃくしゃになった札が、たしかにここにある。大助から札を受け取ったときの感触と、呪い鬼に叩きつけたときの感覚が残っている。愛さんがやったことを、やつこもやったのだ。
「そう、やっこちゃんが鬼を帰してくれたの。よくがんばったね」
大助にかき混ぜられた髪を直してくれながら、愛さんが微笑んだ。それはとてもホッとする笑顔で、見たとたんに、やつこの目ににじんでいた涙がぼろぼろと溢れ出した。
「でも危ないから、今度は無理しちゃ駄目よ」
「はい。ごめんなさい。ごめんなさい……!」
やつこは愛さんに抱きついて、泣きじゃくりながら謝った。謝らなくてもいいのよ、と愛さんはやつこを抱きしめてくれた。
今度はもっとうまくやろう。愛さんがいなくても逃げるばかりにならないように、大助や海から、ちゃんと呪い鬼との戦い方を教わろう。やつこは心の中で、そう決めた。
やつこが落ち着いたのを待って、愛さんは大助から鬼の特徴を聞き始めた。まだしゃくりあげているやつこの横で、大助が覚えている限りのことを話している。途中から愛さんは何かに気付いたのか、首を傾げながら説明を聞いていた。
「最近もそんな見た目の呪い鬼がいたような……。やっこちゃんと男の子が会ったのとよく似てないかな?」
愛さんが疑問符を浮かべたところで、やつこは、あっ、と思う。さっきの呪い鬼とこのあいだのものの両方を見たのは、やつこだけなのだ。
「似てるんじゃないよ、同じだった。雄人を襲ったやつと、さっき出たのは全く同じ呪い鬼だよ!」
さっきの呪い鬼を見たときにわかったのだから、もっと早く言えばよかった。そう思いながら発言したやつこに、愛さんは驚いた表情で、けれども声は落ち着きを保ったまま聞き返した。
「本当に? 本当に、同じ鬼だったの?」
「間違いないです。同じ顔で、たぶん同じ大きさで、腕と足が長くて……」
「……同じだとしたら、困ったなあ」
やつこが説明すると、愛さんは口もとに手を当てて考え込んでしまった。その様子に、今度はやつこが疑問符を浮かべる。同じ鬼だと、何が困るというのだろう。悩みかけたやつこを見て、大助が口を開いた。
「同じ呪い鬼が出るってことは、前のときにちゃんと神社へ帰せてなかったってことだ。神社へ帰って神主さんが呪いを祓ってくれていたなら、もう呪い鬼として現れるはずはないからな」
「あ、そうなんだ……」
鬼追いは呪い鬼を神社へ帰すもの。それは呪い鬼の持つ心の痛みやつらさを、神主さんに取り去ってもらうためにすることだ。なのにまた同じ鬼が呪い鬼として現れたということは、前回の鬼追いは失敗していたということになる。
「こんなこと、めったにないんだぜ。姉ちゃんはこれまで、ほぼ確実に鬼追いを成功させてきた。失敗したのなんか、俺の知る限り今回以外には一度だけだ」
それも初心者だったときの、と大助がつけくわえる。その間にも、愛さんは何かを考えているようで、一言も話さなかった。やつこは愛さんの様子を見ながら大助の言葉を聞いて、だんだんと不安になってきた。
さっきやつこがした鬼追いも、もしかすると失敗しているかもしれない。愛さんが失敗してしまうくらいなら、やつこができなくてもおかしくはないのだから。そうしたら、あの呪い鬼はきっとまた現れる。もう一度会って、今度こそ神社に帰してあげなくてはならない。
「大助兄ちゃん。わたしのやりかた、間違ってなかったかな……」
「一応、呪い鬼はいなくなった。そこらにいる鬼に聞いても、気配は感じないって言ってる。たとえお前が失敗してたとしても、初心者のチビにしてはうまくやったと思うぞ」
良くは聞こえない言い方だが、大助はやつこの鬼追いをうまくできたと思っているようだ。だからこそ、先日に愛さんが失敗したことを信じられないようではあったが。なにしろ大助からしてみれば、もちろんやつこからみても、愛さんは鬼追いのベテランなのだ。
「駄目ね、前回失敗してしまった原因はわからない。でも、やっこちゃんの大活躍でちゃんと神社へ帰せたなら、それでいいかな」
しばらく黙り込んでいた愛さんが、やっと明るい声を発した。それからやつこに何回目かの「ありがとう」を言って、今日はもう解散しようと告げた。気がつけば太陽も沈みかけていて、小学生が出歩くには遅い時間になろうとしていた。やつこは愛さんと大助に家まで送ってもらい、「鬼さん」にただいまを言った。それからおばあちゃんに少しだけ、帰りが遅くなったことを叱られた。