やっこと呪い鬼
その日、授業も合唱の練習も終わった放課後、やつこは結衣香と一緒に溜息をついていた。
「なんか、今日やな感じだったね」
結衣香がしょんぼりとした声で言った。ちょっとした事件があって、クラス内の雰囲気がぎすぎすしていたからだ。
きっかけはささいなことだった。吉崎雄人を中心とするやんちゃな男子グループが、掃除中に丸めた雑巾の投げ合いを始め、それが偶然一緒に掃除をしていた宮川紗智に当たってしまったのだ。そのことに対して、同じく掃除中だった女子グループが怒って男子と大げんかを繰り広げ、その後の合唱の練習も息が合わなかったのだった。
「さっちゃんは別にいいよって言ってたのにね。合唱コンクールももうすぐなのに、タイミングが悪いよ」
やつこも結衣香も、騒ぎを収めはしたものの、男子と女子の間にできてしまった壁までは取り除くことができなかった。だから帰り道でこうして困るばかりだ。
「ゆいちゃん。わたし、このあと剣道だからさ。せめて雄人と話してみるよ。いつまでもこのままじゃ、コンクールどころじゃなくなっちゃう」
男子のリーダーである雄人は、やつこと同じ心道館の門下生だ。合間を見て話すことができれば、解決に近づくかもしれない。やつこの申し出に、結衣香はぱっと顔を上げて、嬉しそうに何度も頷いた。
「やっこちゃんなら、吉崎君も話を聞いてくれるかも! それならわたしも、お掃除してた女子のみんなとお話してみようかな」
「うん、ゆいちゃんならできるかもしれない。がんばろう、気持ちいい合唱コンクールのために!」
「合唱コンクールのために!」
二人は手を叩きあい、夜に電話で状況を報告しようと約束して別れた。やつこは駆け足で家に帰ると、日課を済ませてからすぐに荷物を持って道場へ向かった。運が良ければすぐに雄人をつかまえて、話をすることができるかもしれない。
「はじめ先生、こんにちは! 雄人来てる?」
到着して開口一番、やつこははじめ先生に尋ねた。けれども先生は「いいや」と首を振って、それから「今日は早いんだね」と笑った。
「何かあったのかい、やっこちゃん?」
「ちょっとね。先生、海にいもまだ?」
「まだだよ。今日はやっこちゃんが一番乗りだからね」
はじめ先生が優しく微笑むと、やつこの「クラスを何とかしなきゃ」という緊張がするするとほどけていくようだった。一番乗りならあとは雄人が来るのを待っているだけでいいという余裕も生まれた。
「そうだよね、焦って話なんかできないもんね」
やつこはそう思い直して、はじめ先生とたわいもない話をしながら雄人が現れるのを待つことにした。
けれども、海が来て、他の門下生が来て、鬼たちが集まっても、雄人はなかなか道場に姿を見せなかった。そうしてやっとその不機嫌そうな顔を見たのは、稽古が始まる直前のことだった。もちろん話す時間などない。
休憩のときを見計らって話しかけようとしても、雄人はまるでやつこを避けるようにどこかへ行ったり、他の誰かと話したりしてしまう。稽古が終わった後は、そそくさと逃げるように帰ってしまった。
「わたしと話すのも気まずいのかな……」
やつこがうなりながら悩んでいると、海が肩を叩いて「どうした?」と尋ねてくれた。
「やっこちゃん、今日は雄人のことばっかり気にしてたけど。何かあった?」
海は稽古の間、様子のおかしかったやつこを心配していてくれたらしい。クラスでのいざこざに海は関係ないので、やつこはなんでもないふりをしようとしていたが、やはり思い直して事情を話すことにした。
「実は、クラスでけんかになっちゃって……」
やつこの話を、海は黙って頷きながら聞いてくれた。やつこがクラスで何もできなかったことも、雄人と話そうと思ったけれどそれも結局かなわなかったことも。全部話し終わったときには、はじめ先生の笑顔を見たときと同じくらいホッとした気持ちになっていた。
「大丈夫だよ、やっこちゃん。雄人はあれで頭は悪くないから、きっと自分たちが悪いことをしてしまったなって思ってる。女の子たちだってたぶんそうだ。だから焦らなくても、きっといいようになるよ」
海がさらにそう言ってくれたおかげで、やつこはいつもの元気を取り戻した。顔を上げて、とびっきり笑顔で、海に礼を言う。
「ありがとう、海にい! なんとかなりそうな気がしてきたよ
「それは良かった。……さあ、早く帰って休みなよ。遅くなるとお母さんとおばあちゃんが心配するんじゃない?」
窓から見える空が、夕焼けのオレンジ色から夜の群青色に変わろうとしているのが見えた。やつこは夕飯を用意して待っているおばあちゃんと、仕事から帰って一息ついているお母さんの顔を思い出して、家に帰ることにした。
明日はクラスが元のようにまとまるといいな、と考えながら歩いていると、やつこは前方に見慣れた姿を見つけた。
「あれ、雄人? とっくに帰ったんじゃなかったの?」
少し寝癖のついた後ろ頭は、間違いなく吉崎雄人だ。随分前に家に帰ったはずなのに、まだ外をうろうろしている。きょろきょろと周りを見回しながら小走りするその姿は、なぜか焦っているようにも見えた。
「雄人、何してるの?」
やつこが声をかけてみても聞こえていないらしく、慌てた様子で角を曲がっていった。けれどもその方向は、雄人の家がある場所とはまるっきり違う。どこへ行こうとしているのか気になって、やつこは雄人の後を追いかけてみた。
雄人の向かった方へ角を曲がり、姿を捜そうと立ち止まったとき。やつこは不思議な感覚に襲われた。
「なにこれ……知ってる道なのに、違う感じがする」
生まれたときから住んでいてよく知っているはずの、遠川地区の家並み。景色は寸分違わぬはずなのに、どこか違和感がある。理由が何なのかはわからないけれども、やつこの直感が告げる。ここにいてはいけない、と。
「雄人! どこにいるの?」
どこかにいるはずの名前を呼んでみるが、返事がない。それどころか、自分の声以外の物音が一切しないことに気付いて、やつこは違和感の正体を知った。
この場所には家が並んでいるのに、人の気配が一切ない。みんな忽然と消えてしまったようだ。草木が風で揺れる音すらも聞こえない。やつこ自身の声だけが耳に届いている。
「ここ、どこ……?」
引き返したほうがいい。きっと、雄人の姿も何かを見間違えたんだ。そう自分に言い聞かせて、やつこがあとずさりしたそのときだった。
「うわあああああっ!」
どこかから男の子の悲鳴が聞こえた。
「雄人!」
聞き間違いではなく、たしかにあれは雄人の声だ。この異様に静かな住宅街に、自分の声以外で唯一響いたものを、間違えるはずはない。そう確信したとたん、やつこの足は前へ駆け出していた。声のした方、前方にある丁字路の左側へ。
そうして角を曲がったところに、それはいた。腰が抜けたのか、しりもちをついている雄人と、その向こうに大きな人。普通の人間の倍はあろうかという体には、長い手足がついている。ぎらぎらと光る目のそのまた上、頭には天へ向かってのびているようなつのが二本。雄人は初めて見たかもしれないが、やつこには見慣れたその姿。けれどもいつも見ているものが持っている、包み込むような温かさは少しも感じられない。むしろそこだけ冬のように冷たい空気が漂っている。
その大きな鬼は、呆然と立ち尽くすやつこの目の前で腕を振り上げた。鋭い爪の先は、雄人に向けられている。人間に危害を加えるはずのない鬼が、今まさに人間の子どもを襲おうとしていた。
そうか、とやつこはぼうっとする頭で思う。これが、おばあちゃんや神主さんの言っていたものだ。
「呪い鬼……」
呟いたやつこの目に、振り下ろされる長い腕が映る。身を屈めた雄人が、「ひっ」と短い悲鳴をあげた。
「やめろ!」
鬼の爪が雄人に触れるか触れないかのところだった。背後から突然響いた声で、やつこは我に返った。それはさっきまで優しい響きで、自分を励ましてくれていたものと同じ。しかしながら、今は鋭く、怒りの込められた声だった。こんな声は、初めて聞いた。
その声に鬼が動きを止めたその隙に、彼はやつこの脇を走り抜け、雄人へと伸ばされていた手を竹刀で力いっぱい叩いた。ぱん、という激しい音のあと、鬼は手をゆっくりと引っ込める。その間に、彼は雄人と、そしてやつこに言った。
「早く下がって。もう一撃来る」
すっかり目の覚めたやつこは、その言葉の意味を理解するとすぐに雄人に駆け寄り、その腕を引いて立たせた。雄人の手は離さないまま走ってそこから離れると、今ここで起こっていることの全体がはっきりと見えた。
海が竹刀を握りしめ、大きな呪い鬼と対峙している。中学生の男の子が、巨大な相手を睨みつけている。
呪い鬼は引っ込めた腕を再び構え直そうとしていた。今度は目の前にいる海に爪を向けている。しかし海は一瞬たりとも怯まず、もう一度呪い鬼の腕を叩くつもりのようだ。やつこから見れば、海に勝ち目があるとはとても思えない。けれど、そんなことを言っている場合ではない。雄人が動けず、やつこ自身も足がすくんでいるこの状況で、頼れるのはあの大きな鬼に毅然と立ち向かっている海だけなのだから。
海の予告したとおり、呪い鬼はまた長い腕を振り下ろす。それを海は完全に見切り、腕がぶつかるより先に自分の竹刀を呪い鬼に当てた。静寂の空間に竹刀の音が響き渡る。気がつけばやつこは恐怖を忘れ、海と呪い鬼に見入っていた。鬼がよろけながら腕を引っ込め、低くうなる。海が次の攻撃に備え、再び竹刀を構え直した。と、そのとき。
「海君、お疲れ様。あとは私に任せて」
やつこたちが来た方向から、女の人の声がした。やつこはこの声も知っている。日曜日に神社で聞いた、あの明るい声だった。
「愛さん、お願いします」
海が竹刀を下ろして言うと、愛さんは柔らかく微笑んで、呪い鬼の正面に立った。みるからに危険な位置なのだが、彼女はそこで呪い鬼に手を伸ばし、語りかけ始めた。
「どうしたの? 悲しいの? 何かつらくなってしまうことがあったのね」
呪い鬼は低くうなるだけで、腕を振り上げたりはしなかった。まるで愛さんの言葉を、返事をしながら聞いているようだ。
「つらいことは、大鬼様に持っていってもらいましょう。だから、あなたはもう苦しまなくて大丈夫。神社に帰りましょう」
心にじんわりと響く、優しい声。それに応えるように、呪い鬼の眼光から鋭さが消えていく。そうしてとうとう呪い鬼が目を閉じたとき、愛さんは持っていた鞄から紙のようなものを取り出して、それを鬼に触れさせた。するととたんに鬼は小さくなっていき、ついにはあとかたもなく消えてしまった。
それと同時に、あたりに漂っていた冷たい空気は消え、どこかの家から夕飯の匂いまでしてきた。人の気配が戻ってきたのだ。思わずほうっと息をはいたやつこに、愛さんが振り返ってにっこりと笑いかけた。
愛さんと海に、雄人は無事に家まで送り届けられた。別れ際に何か言いたそうだったが、海の「今日のことは誰にも言うな」という台詞に負けて黙っていた。
そのあとでやつこも愛さんに送ってもらい、同じことを言われた。けれども、雄人のときと違って言葉に続きがあった。
「誰にも言っちゃ駄目だけど、もし何があったのか詳しく知りたいなら、土曜日に神社へいらっしゃい。もちろん、やっこちゃん一人でね」
じゃあね、と手を振って去っていく愛さんに、やつこはぺこりと頭を下げた。まだ頭はちゃんと働いていないけれど、目にした出来事は鮮明に覚えている。呪い鬼も、それを相手に戦ったり、語りかけたりする人間も、生まれて初めて見た。
「……どきどきしてる」
胸をぎゅっと押さえつけて、やつこは何度もまぶたに焼きついた光景を見た。おそろしい呪い鬼の姿。それに立ち向かう海と、手を差し出し優しく微笑む愛さん。何の気配もなく、ひやりと冷たかった住宅街に、本来持っていた温かさが戻ってくる瞬間。これまでにやつこが知らなかった鬼と人間の世界のかたちに、今日、触れてしまった。
もし何があったのか詳しく知りたいなら、土曜日に神社へいらっしゃい。
愛さんの優しい声で紡がれた言葉がやつこの耳に、まるで触れられたあとのように残っていた。
翌日、やつこが学校に着いてみると、男子と女子のわだかまりはすっかりなくなっていた。昨日の大げんかが夢か幻だったかのように、クラスのみんなは合唱練習の準備を和気あいあいと進めていた。
「吉崎君が、学校に来てすぐにさっちゃんに謝ったの。やっこちゃん、昨日の電話では吉崎君と話せなかったって言ってたけど、心配なかったみたいだね」
結衣香がやっこの隣へやってきて、嬉しそうに言った。雄人と紗智のほうへ目をやると、練習で使う電子ピアノのそばで仲良く話している。五年二組の男女分裂危機は無事に解決したようだ。
「おっす、やっこ」
こちらに気付いた雄人が声をかけてくる。やつこも元気に、「おはよう」と返した。昨日の、あの路地での出来事はなかったというように、いつもどおりのやりとりだ。海に誰にも言ってはいけないと念押しされてはいた。けれども、普通にふるまっている雄人を見ていると、あれはやつこだけが見た夢だったのかとも思ってしまう。
しかし昼休みになってから、あれはたしかに現実だったのだと思い知らされた。やつこが給食を食べ終えて友だちと数人と話しているところへ、雄人がやってきて「話がある」というのだ。
「昨日のことで。……やっこじゃないとわかんないだろうし」
これだけ聞けば、やつこ以外の友だちは剣道の話だろうと思う。同じ道場に通っている二人は、こうして話をすることがよくあったからだ。でも、今日の話はそうではないことを、やつこはわかっていた。
あまり使われることのない、普段から人気のない階段の踊場で、やつこと雄人は向かい合った。窓が高い位置にあるせいで、その真下にあるこの場所は少し暗く肌寒い。そのせいか、それとも昨日のことを思い出してなのか、雄人の顔色は良くなかった。
「やっこ、昨日の……あれが、鬼なのか?」
声をひそめて、雄人が尋ねた。たぶん、雄人は昨日初めて鬼を見たのだ。彼にはちゃんと両親がいるから「鬼の子」ではない。あの出来事があるまでは、鬼を見ることなく過ごしていたはずだった。
やつこはどう答えるべきか迷った。あれはたしかに鬼なのだが、礼陣で平和に暮らしている鬼たちとは別のものだ。「鬼の子」としていつも鬼を見て接しているやつこだって、あんなことになった鬼は初めて見たのだ。あれが鬼だと言ってしまえば、雄人は他の害のない鬼のことも怖がってしまうかもしれない。しばらく考えてやつこが出した結論は、知っていることをできるだけ話すということだった。
「あれは、鬼だけど……他の鬼とは違うんだ。呪い鬼っていって、鬼が悲しかったりつらかったりすると、ああいうふうになってしまうことがあるんだって」
「呪い鬼? じゃあ、やっこがいつも見てる鬼は違うのか」
「違うよ。わたしだって、あんなに怖い鬼は初めて見た。礼陣にいる鬼は、いい子ばっかりだよ」
鬼は怖くないこと、あの呪い鬼が特別だということを、やつこは必死に訴えたつもりだった。日曜日に神社で掃除を手伝ってくれる鬼たちや、礼陣の町を歩いていて出会う鬼たちは、人間と姿形は違っても、陽気で頼もしいものたちばかりだ。呪い鬼となって人を傷つけてしまうものは、ごくまれにしか現れないとおばあちゃんや神主さんも言っていた。
雄人はやつこの話を何も言わずに聞いていた。伝わったかな、とやつこは小さな不安を抱く。雄人が気のいい人物であることは、学校と道場での付き合いで知っている。鬼に対しての考えのせいで、仲違いはしたくない。
「……わかったよ」
やがて、雄人がぽつりと言った。
「やっこの言うこと、信じるよ。昨日のあれは特別なんだな」
「そう! そうなの! だから、鬼を嫌わないでね……?」
「嫌わないよ。……昨日のは怖かったけどさ、あんなにでっかいのと戦う海にいがかっこよくて、そっちのほうが印象に残ってるんだ」
雄人はにかっと笑って、やつこが思っていたことと同じことを言った。
呪い鬼に初めて出会ってしまった衝撃は強かったが、それよりも竹刀をふるって大きな相手と戦う海の姿が、今までに見たどんな試合よりもかっこよかった。そして愛さんも、あの凶暴な呪い鬼におびえることもせず優しく語りかけていた。そのあと鬼が消えてしまったことも含め、あの場所でいったい何が起こっていたのか気になる。
もし何があったのか詳しく知りたいなら……。
愛さんの言葉を思い出し、やつこは決心した。これまで知らなかったことに、きっと平和なだけじゃなかった鬼の世界に、踏み込んでみたいと思った。こんなに狭い礼陣の町なのに、生まれたときから住んでいるのに、やつこがこれまで見てきたものはそのほんの一部だったのかもしれないと思うと、なんだかわくわくしてきたのだった。