やっこの大好きな・・・
いよいよ明日は合唱コンクールだ。朝も昼も、そして放課後も、五年二組は学校中に響くような声できれいなハーモニーを奏でていた。歌い終えるごとにみんなで励ましあって、教室には笑顔が溢れていた。
「やっこちゃん、さっちゃん。明日は絶対優勝しようね!」
結衣香がやつこと紗智にとびついて、肩を抱いた。紗智が照れて赤くなり、けれども明るい声で「うん」と返事をした。
男子たちは、雄人の「優勝するぞー!」という掛け声に「おー!」と威勢よくこたえていた。そこへ女子が「わたしたちも混ぜて」と加わっていく。やつこと結衣香、そして紗智も、顔を見合わせて頷いてから、その輪に入っていった。
明日はそれぞれの家族も見に来る。やつこの視点でいうと、たくさんの鬼たちも合唱を聴きに来る。礼陣の親たちが学校に集まって、子どもたちの成長を見る日なのだ。やつこの家も、おばあちゃんはもちろんのこと、お母さんも仕事を休んで見に来てくれることになっている。緊張はするけれど、大きな声で歌って、楽しい学校生活を送っていることを教えてあげたい。
「やっこ、今日の稽古だけどさ」
練習を終えて帰る直前に、雄人に呼び止められた。
「俺たちが優勝するって、みんなに宣言しておこうぜ!」
「そんなことしたら、六年生に生意気だって言われない?」
「ちょっとぐらい良いだろ。志野原と宮川もそう思わないか?」
話をふられた結衣香と紗智も「やってきちゃえ」と乗ってきた。それなら宣戦布告してきちゃおうと盛り上がりながら、やつこは海のことを思っていた。
今日の稽古で、海のことをいつもどおりに爽やかで笑顔の素敵な、憧れの先輩としてみられるだろうか。鬼追いをしていく中で、彼の素顔をたくさん見てきた。人間にも鬼にも優しいと思っていた彼だが、本当は呪い鬼とそれを生み出してしまうような人間が好きではないと言っていた。今までずっと、それをやつこたちに覚られないようにしてきたのだ。
「ううん、そんなこと考えない。海にいは海にいだ。わたしたち心道館門下生のヒーローであることにはかわりない」
やつこは余計なことを頭から吹き飛ばそうと、首を横にぶんぶんと振った。結衣香たちに「どうしたの」と尋ねられたけれど、笑ってごまかした。
心道館道場はいつものとおり、窓から入ってくる太陽の光が気持ちいい。やつこははじめ先生に挨拶をしたあと、「昨日はありがとうございました」とお礼を言った。
「はじめ先生たちのおかげで、今日も元気に来ることができました」
「そう。僕もやっこちゃんが来てくれて安心したよ」
微笑むはじめ先生に照れ笑いを返してから、やつこはきょろきょろと周りを見渡した。何人か集まっている門下生の中に、捜す姿は見当たらない。まだ帰ってきてないのかもしれないと思い、はじめ先生に尋ねようともう一度正面を向いた。
「やっこちゃん、こんにちは」
もうはじめ先生はもう他の門下生のところに行っていて、いなかった。かわりに先生に似た中学生の男の子が、目の前に立っていた。
「海にい……」
挨拶を忘れてしまうほど驚いたのは、海がいつもどおりだったからだ。爽やかな笑顔で、剣道着が良く似合っている、かっこいいお兄さん。やつこの、そして門下生みんなの憧れの先輩が、そこにいた。
「ほら、先輩にはすぐ挨拶!」
「あ、こ、こんにちは!」
「よし!」
満足そうににっこりと笑う、鬼追いをする前、そして今もやつこが大好きな海。その表情につらい思いや苦しい気持ちは見えなかった。もしかすると、隠すのが上手なだけかもしれない。本当は今でも心が痛んでいるのかもしれない。それでも、海が笑っているというだけで、やつこはホッとしていた。
「それでやっこちゃん、今日も子鬼連れてきたの?」
「え? あ、また!」
海に言われて、やつこは腰のまわりにまとわりつくおかっぱの子鬼に気付いた。子鬼のほうは『ずっといたぞ』とニヤニヤしていた。
「気配消して人に近づくの、得意だもんな。俺はそういうとこ、結構好きだけど」
子鬼の額を指でつつきながら海は言った。彼は鬼の全てが嫌いなわけではない。こうしてコミュニケーションをごく普通にとるくらいには、人間も鬼も好きなのだ。忘れかけていたけれども、やつこはそれを海に出会ったときから知っていた。ただ、最近になって別の一面を少しばかり見てしまっただけだ。
礼陣の子どもたちと、それを見守る鬼たち。人間の子どもたちに混ざり、遊んでまわる子鬼たち。いつもとかわらないその光景の中、やつこと海は顔を見合わせて笑った。
その日の稽古が終わり、門下生たちが帰っていくのを見送りながら、やつこは海のそばに来て、改めて宣言した。
「海にい、わたし、鬼追い続けるから」
海は一瞬目を丸くしたけれど、すぐに笑顔で返した。
「本当に、そうと決めたら揺るがないんだな。やっこちゃんは」
呆れたような口調だったけれど、温かさがあった。内心でまだ反対しているのかもしれないが、それを口にする気は海にはないようだった。道場の隅に座り、ちらほらと残っている人間の子どもと子鬼たちを眺めながら、海はぽつりと言った。
「鬼は人間より自由に見えて、羨ましい」
それはいつかも聞いた台詞だったけれど、やつこはあのときとは違う答えを持っていた。
「同じだよ。人間も鬼も、楽しかったり悩んだりする」
「そうだね。……そのとおりだ」
人間が楽しいことがあると笑うように、鬼も楽しければ笑顔を咲かせる。鬼がつらさをどうにもできなくなると呪い鬼になってしまうように、人間も感情をうまく処理できず、爆発させてしまうことがある。見た目が違って、不思議な力を持っていても、鬼と人間は同じようにこの町で生きている。それぞれの生活を、自然に営んでいる。どちらのほうが自由だとか、おそろしいとか、そんな差別は本来はない。
「海にい、前に言ってたよね。好きな人のことで頭がいっぱいになって、後先考えないで行動するってことが理解できないって」
大助が言ったことを、海がそう否定したときのことだ。機嫌の悪かった海が、呪い鬼の話題がいやで、なげやりに返事をしただけだったのかもしれない。けれどもあの短いやりとりは、やつこの中でずっと引っかかっていた。
「言ったっけ。……恨みや怒りで我を忘れるのはわかるんだけど、好きだからっていうのがわからないんだ。ずっと呪い鬼のそばにいたからか、俺は性格が歪んでるみたいだ」
乾いた笑いを洩らして、海はやつこから目をそらした。ここ最近で何度も見た、あの苦しそうな表情をしている。そんな顔はさせたくない。だからやつこは、首を横に振って言った。あのときも昨日も、ずっと探し続けて、やっと見つけた伝えたい言葉を。
「そんなのうそだよ。海にいはわたしが危ない目にあったら、自分の危険を顧みずに助けにきてくれた。愛さんや大助兄ちゃん、はじめ先生たちに大変なことが起こっても、きっと海にいはすぐに駆けつける。……理解できないって言いながら、海にいは行動してる。わたしは、そんな海にいに憧れてるんだよ」
きっとやつこだけではなく、海のことを好きなみんながそう思っている。海は門下生がいじめられていたら、助けてくれる。一生懸命がんばっている仲間に、優しく声をかけてくれる。人間にも鬼にも、明るく挨拶をしてくれる。そんな彼の性格を、誰も歪んでいるなんて言わないだろう。
やつこが面と向かって言うと、海の顔が少し赤くなった気がした。憧れの先輩の少しかわいい一面が見えて、思わずくすりと笑いがもれた。
『青春してるな、二人とも!』
そこへ突然割り込んでくる、おかっぱ頭の子鬼。それに続くように、ぞろぞろと二人を取り囲む鬼たち。みんなで笑って、お喋りをして。ときどきは悲しいこともあるけれど、それは互いに手を差し伸べあって、癒していこう。
「やっこちゃん、明日合唱コンクールなんだよね。がんばっておいで」
『そうだぞ、やっこ。みんなついてるからな!』
「うん、優勝してくるね!」
それがやつこの、やつこたちの、礼陣での暮らしだ。
今朝も根代家は忙しい。お母さんは仕事を休んだけれど、やつこの通う小学校に行くのでお化粧に余念がない。おばあちゃんもいつもより少しだけおしゃれをしている。そしてやつこは、いつもと同じようにお父さんが買ってくれたランドセルを背負い、愛用の竹刀袋を持って、本番前最後の朝練習に参加するために急いで支度を終えたところだった。
「やっこ、忘れ物はないわね?」
お母さんが確認する声に、やつこは元気に答える。
「大丈夫! それじゃ、先に行くね!」
そう言いながら、玄関とは反対の方向へ廊下を走る。そのつきあたりには新しい札が貼られた、戸の閉められた部屋があって、やつこはその前で立ち止まった。そして手をぱんぱんっと二回合わせ打って、いつもの挨拶をした。
「鬼さん、……お父さん、いってきます!」
根代家を守護する鬼は、先日、葵鬼を封じたときに同時にこの部屋に戻ってきたと神主さんは言っていた。そして再び、鬼封じに力を貸しているのだという。「鬼さん」は、やつこの大好きなお父さんは、いつだってここにいるのだ。
日課の挨拶を終えて、やつこはくるりと戸に背を向ける。けれども一旦振り返って、もう一度戸の向こうへ笑いかけた。
「わたしたちの合唱、聴いててね! ここまで届くくらい、大きな声で歌うから!」
やつこの、礼陣での一日が始まった。今日は待ちに待った、遠川小学校合唱コンクール当日。きっと人間だけでなく、町中の鬼が子どもたちの歌を聴きにやってくる。そして幸せそうな笑顔で会場を、いや、礼陣という土地を埋めるはずだ。




