やっこの誓い
やつこたちは愛さんに進道家の茶の間へ連れていかれ、そこではじめ先生のいれてくれた熱いお茶を飲んだ。やつこの頭の中はまだ混乱していて、涙がやっと止まったところだったけれど、体はぽかぽかと温まった。
ほう、と息をつきながら、そこにいる一人ひとりの顔を見る。はじめ先生は穏やかな笑顔だった。愛さんは少し疲れているようだったけれど、安心したような表情でみんなを見ていた。大助はなんだかそわそわしていて、海は目をふせたまま黙り込んでいる。自分はどんな顔をしているんだろうと思ったとき、やつこははっとして頬に手をあてた。さっきまでぼろぼろ泣いていたのだから、きっと目が腫れたり、涙のあとがついたりしている。ひどい顔をしているであろう自分が恥ずかしくなって、うつむいた。
それを落ち込んでしまっていると思ったのか、大助がやつこの頭をぐしゃぐしゃとなでた。びっくりして顔を上げると、愛さんとそっくりな笑顔があった。
「そうしょんぼりするなよ。たぶん、お前の父さんは消えたわけじゃねぇから」
「どういうこと?」
髪を直しながら首を傾げるやつこに、大助はただただ笑うだけだった。そうしているうちに、玄関から「おじゃまします」と聞きなれた声が二人分聞こえた。一人は神主さんで、もう一人は、
「おばあちゃん!」
心配そうな顔をした、やつこのおばあちゃんだった。
「やっこ、あなたって子は……」
おばあちゃんはやつこの姿を見るなり、すたすたとこちらへ向かってきた。そしてやつこを強く抱きしめた。おばあちゃんは温かくて、鬼のお父さんと同じにおいがした。
「鬼追いなんてしてたのね。おばあちゃんにも内緒で、そんなに危ないことをしてたのね。それで、よく、よく無事で戻ったね……!」
おばあちゃんの震える声が、やつこの心にしんと沁みた。鬼のことをよく知っているおばあちゃんのことだから、何があったのかも全部わかっているのだろう。そうして随分やつこを心配して、ここに来てくれたのだろう。やつこはおばあちゃんをぎゅっと抱きしめ返して、真っ先に心に浮かんだ言葉を一つだけ口にした。
「ただいま、おばあちゃん」
もっともっと、話したいことはたくさんある。呪い鬼に出会ったことも、あおいさんの過去を見たことも、鬼になったお父さんに会えたことも。だけど、今は言葉にならなくて、ただおばあちゃんの温かさに身をまかせていた。
神主さんははじめ先生に勧められて座り、やつこが落ち着くのを待ってくれた。ちゃぶ台の上に湯飲みが二つ増え、その中身がそれぞれ半分ほどになった頃、ようやく「今回のことなのですが」と話し始めた。
「葵鬼が目覚めたのは、根代家の封じ札が破れてしまったためだと思われます」
その言葉で、やつこは思い出した。そもそも、何のために自分は出かけようとしたのか。
「それ、わたしがやっちゃったんです。気になって触ってみたら、破れちゃったの。それで神主さんに相談しに行こうと思ったら、鬼の空間に入り込んじゃって……」
ごめんなさい、とやつこが謝ると、神主さんは微笑んで、いいんですよ、と言った。
神主さんの話によると、根代家の「鬼さん」の部屋に貼ってあった札は、礼陣でもっとも大きな力を持つ呪い鬼「葵鬼」を封じておくためのものだったのだという。もともと鬼と深い関わりを持つ根代家で札を預かることによって、力を抑えることが難しい葵鬼を進道家に封じておく手伝いをしていたということだった。
「葵鬼を封じておくには、根代家を守る強い鬼の力を借りなければならなかったんです。そのための札が破れたことによって、葵鬼、そして根代家の守り鬼の力が解放されたのでしょう」
葵鬼と同時に根代家の「鬼さん」も解放されたことは、結果的にやつこを助けることにつながった。「鬼さん」は篭っていた部屋から出て、葵鬼に襲われたやつこを守ろうと駆けつけたのだ。
「私が破れた札を新しいものに換え、愛さんに葵鬼を再び封じてもらいました。次の定期の鬼封じまでは大丈夫でしょう」
根代家の「鬼さん」の力まで借りていても、葵鬼を封じ続けることは難しいのだという。そこで、鬼封じという儀式を毎年一度は行なっているのだった。なにもかもやつこの初めて聞くことばかりだ。けれども、まったくわからない話ではなかった。
力が強すぎて神社に帰せない呪い鬼は、鬼封じをもって力を抑えられる。しかし、それでは呪い鬼の持つ悲しみや苦しみを取り去ることはできないと神主さんはいう。やつこの脳裏に過去の光景が浮かんだ。葵鬼はどれほどの時間、つらい思いをそのままにして封じられてきたのだろう。
「神主さん。葵鬼……あおいさんって、もとは人間だったんですか?」
やつこがずっと抱いていた疑問を口にすると、神主さんは困った顔をしてはじめ先生に目配せした。これはきいてはいけないことだったのかもしれない。やつこが慌てて質問を取り消そうとすると、その前にはじめ先生がゆっくりと頷いて答えた。
「そうですよ。葵は人間で、僕の妹でした」
やつこは心の中で、「やっぱり」と呟いた。あの過去の光景はまぎれもなく真実だったのだ。それと同時に、海が苦々しそうな表情をした。けれども何も言い返すことはなかったので、はじめ先生は海を気にしながらも、その続きを語った。
「葵は礼陣が嫌いでした。鬼の伝承を信じる人も鬼そのものも、葵にとっては憎むべきものだったようです。僕が兄として何もしてやれないまま、大人になった彼女は礼陣を出て行きました」
はじめ先生の話は、やつこが見た過去の光景と重なる。あのあと、母親を亡くした悲しみが癒されないままに葵という少女は育ち、礼陣を出たのだ。「誰も私を守ってくれなかった」と絶望しながら。
「それから時が流れて……ある年の初夏のことでした。葵が事故で命を落としたという報せがあったんです。遺体はうちで引き取り、供養もしましたが……それからというもの、この家には呪い鬼となった葵が現れました。この家の人間に手を出そうとすることもあったので、以来、神主さんに鬼封じをしてもらっているんです」
はじめ先生がそう言ってから、ややあって神主さんが再び口を開いた。
「強い未練を残して亡くなると、この世に霊魂が留まってしまうといいます。葵さんの場合、礼陣に対する強い恨みの念によって、呪い鬼となって留まってしまったのでしょう」
やつこは、一言も発することなくうつむいていた海を見た。思い出すのは、鬼追いのために強くなりたいと、やつこが海に言ったあの日のこと。「同じ鬼の子だ」と言ったやつこに、海は「同じじゃないよ」と呟いた。それはきっと、このことだったのだ。この家の人間であった葵は、礼陣を恨んだまま命を落とし、呪い鬼となった。海は鬼に守られているといわれる他の鬼の子とは違い、呪い鬼が家にいるという事実を負って生きてきたのだった。「この家の人間に手を出そうとすることもあった」というはじめ先生の言葉どおり、きっと葵鬼が彼を襲ったこともあったのだろう。
やつこのお父さんも鬼になっていた。けれどもそれは、「根代の家を守りたい」という一心でのことだ。呪い鬼とは正反対の性質を持つ、根代家の守り神だ。
「俺はやっこちゃんが鬼追いをすることに反対だった」
やっと発した海の一言は、いつかも聞いた言葉だった。
「やっこちゃんの家は鬼に守られながら、呪い鬼を封じてもいる。ただそれだけで、礼陣では大きな役割を持っているんだ。呪い鬼を止めるために攻撃することもあるような、鬼追いにわざわざ関わる必要はない。その点、俺は呪い鬼が家にいて、呪い鬼も鬼に呪いを与えるような人間も大嫌いだから、なんの躊躇もなく呪い鬼に立ち向かえる」
だからこれは俺の役目なんだよ、と海は吐き捨てる。君はもう関わるなと、言葉にせずに訴えてくる。
鬼追いは、心に痛みを抱えた鬼を神社に帰し、癒すためのもの。愛さんはそう教えてくれたし、きっと大助もその考えだ。けれども海はそうではない。呪い鬼に対して、自分の痛む心をぶつけている。海の話を聞いたやつこの頭には、紗智や葵の顔が浮かんでいた。誰かに助けてほしいと思っていた彼女たちと、きっと海は同じだ。同じだから、こんなに苦しそうに話すのだ。
「帰ろうか、やっこ」
海にかける言葉を探していたやつこの肩を、おばあちゃんがそっと引き寄せた。これ以上は何もできないよと、言葉にせず言っていた。ふと見た時計が、お母さんが仕事から帰ってくる時間を示そうとしていた。
「はじめ君。今回もごめんなさいね」
進道家の玄関を出るときにおばあちゃんが言った。はじめ先生は深く礼を返した。
すっかり暗くなった道を、やつこはおばあちゃんと二人で歩いた。自転車を押しながら、隣に立つおばあちゃんを見ていた。過去の光景で見た若いおばあちゃんの悲しげな表情と、今のおばあちゃんは同じ顔をしていた。
「おばあちゃん」
やつこが声をかけると、おばあちゃんは笑顔を作った。そうしていつものように、優しく「なあに?」と言ってくれた。やつこは少し迷って、けれども話したくて、ほんの少しの間考えてから言った。
「うちの鬼さんに、……お父さんに会ったよ」
おばあちゃんは表情を変えずに頷いた。おばあちゃんはずっと「鬼さん」の正体を知っていたのだろう。お父さんは「根代の鬼は代々大切な家族を守り続けてきた」と言っていた。だからきっと、お父さんの前にはおじいちゃんが、その前にはひいおじいちゃんが、その役割を担ってきたのだろう。そうして多くの「鬼さん」に守られてきたから、やつこは今こうしておばあちゃんと二人で歩きながら、お父さんの勇姿を語れるのだ。
「お父さんね、わたしのことを必死で守ってくれたんだよ。いつもわたしのそばにいるって、言ってくれたんだよ」
「うん、うん。わかっているよ。……帰ったら、ちゃんとお父さんにありがとうって言わなくちゃね」
いつものように、ただいまを言って。それから今日はありがとうと言おう。明日からもよろしくお願いしますと言おう。だって、やつこはこれからも、自分のがんばりをお父さんに見ていてほしいから。
「おばあちゃん、わたし、どんなに危なくても鬼追いはやめないから。人間とも鬼とも、ちゃんと向き合っていきたいんだ」
おばあちゃんの表情が曇るのが見えた。けれども、やつこは決心を曲げるつもりはなかった。おばあちゃんをどれだけ心配させたかはわかっているけれど、自分がどんなに未熟かも理解しているけれど、それでも鬼追いをしていきたいと思った。
愛さんのように、痛みを抱えた鬼に温かな言葉をかけられるような鬼追いをしたい。海たちのような心に傷を負った人間のそばにいて、いつかは元気になれるよう手を差し伸べたい。クラスメイトと笑いあう紗智や、葵鬼が一瞬見せた切なげな表情、それからさっきの海のつらそうな姿を思い出すと、そう考えずにはいられなかった。
やつこの鬼追いは、礼陣を守るためなんて大きなものじゃない。大好きな人やこれから好きになりたい人の気持ちを、ほんの少しでも分かち合い、癒したいからするのだ。いつか大人になって鬼が見えなくなってしまっても、そういう人間でいられるように、今をがんばりたくなったのだ。
明るい顔をしてそう語ったやつこに、おばあちゃんは深く頷いた。
「おばあちゃんはね、昔、小さな女の子をとても傷つけてしまったの。その子は大人になって、礼陣を嫌いになって、……ついには、誰も癒すことのできないくらい強い呪い鬼になってしまった。葵鬼を生み出してしまったのは、おばあちゃんなのよ」
おばあちゃんがやつこに呪い鬼の話をするとき、言っていたことがあった。
「根代の人間が呪い鬼を作っちゃ、いけないからね」
この言葉は、おばあちゃんの後悔からのものだったのだろう。もちろん鬼に守られている根代家の人々が呪い鬼を作るなんてことはあってはいけない。けれどもそれだけではなく、もう誰も傷つけることのないようにというおばあちゃんの思いが込められていたに違いないと、やつこは思った。
「でも、やつこなら大丈夫ね。お父さんの願いどおりの、優しい子に育った。人間も鬼も大好きで、みんなが笑顔になれるように行動する子になった。あなたなら、きっと……」
おばあちゃんは浮かんだ涙を指でそっとぬぐい、やつこの大好きなふんわりとした笑顔で言った。
「きっと、つらい思いを抱えている人の力になれる」
やつこたちが帰ったあとも、海はうつむいていた。愛さんや大助、神主さん、そしてはじめが何かを話していたが、その内容はほとんど耳には入ってこなかった。
頭の中を巡っているのは、葵鬼ややつこのこと、それから自分自身のことだ。もしも海たちが葵鬼のところへ到着するのが遅れていたら、根代鬼だけでなく、やつこも大けがをしていただろう。最悪の場合、死んでしまっていたかもしれない。
こんなにも危険な存在である葵鬼を、ただ封じるだけで放っておいてしまうなんて。そのために根代鬼の力を借りなければならないなんて。やつこを、巻き込むことになってしまうなんて。そう考えれば考えるほど、やはり葵鬼は消してしまうべきだと海は思う。そしてやつこが二度と危険な目に合わないよう、彼女を呪い鬼から遠ざけるべきだとも。
けれども、海はやつこのことをよくわかっていた。剣道においても、普段の生活においても、彼女はやりかけたことを途中で投げ出すようなことは絶対にしない。だからきっと、鬼追いをやめることはないだろう。
あるいは、今回のことで呪い鬼を恐れてくれればいいのだが。あいにく、そういう性分でもなさそうだ。
そんなことを考えていたところへ、不意に大助に名前を呼ばれた。
「海、俺たちもそろそろ帰る」
「あ、はい。……いろいろ、すみませんでした」
巻き込んだのはやつこだけではない。大助は一緒に葵鬼のもとへ来てくれ、愛さんと神主さんは鬼封じをした。ただ封じるだけということにはいまだに納得できていないが、葵鬼のために手間をかけてしまったことはたしかだ。
そう思っての「すみません」だったのだが、大助はなぜか怪訝な表情で海を見た。
「どうしてお前が謝るんだ? 俺たちは一緒にやっこを助けに来たんだろ。根代鬼以外のけが人を出さなかったことに、ちょっとは胸を張れ」
「……胸を張る、ですか」
大助の言うことは、海には受け入れがたい。葵鬼がまたいつ力を振るうかわからない以上、それを負う海は堂々となんかできない。
その考えが顔に出たのか、大助は海を見たまま溜息をついた。
「お前の考えや目的を否定するつもりは、これからもない。でも、ちょっとくらいは鬼追いやってることを誇って良いと、俺は思うぜ。現に人間や鬼を救えてるんだからよ」
「誇れることだから、やっこちゃんも巻き込んでいいと言うんですか?」
「そうじゃなくてだな……」
言葉に詰まってしまったのか、大助は頭をかきながらうなった。その代わりに口を開いたのは、愛さんだった。
「海君は、本当に優しい子だね」
「優しくないですよ。愛さんみたいに、呪い鬼に笑いかけたりできませんし」
「優しいよ。やっこちゃんのこと、とても心配してるでしょう。まるで本当のお兄さんみたいに、あの子のことを考えてくれているもの」
それに、と続けたのは愛さんではなかった。神主さん、つまりは大鬼様が、見透かすような目で海を見つめて言った。
「それに海君。君は呪い鬼を苦手としていますが、鬼全てを嫌いなわけじゃないでしょう。むしろ好きだから、真剣に鬼追いをして、鬼を傷つけるものに対して憤る。私たちは心から何度でも、君を優しい子だと言えますよ。人間に対しても、鬼に対してもです」
そうして頭をなでる手は、大きくて温かかった。海は何も言い返さず、帰っていく三人を見送った。頭の中で幾度も、「優しい」という言葉を思い出しながら。自分には似つかわしくないと思いながらも、言われて嬉しくないはずのない言葉だった。




