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やっこと「鬼さん」

 意識を取り戻したやつこには、いったい何が起こっているのかわからなかった。呪い鬼に首を絞められたり、過去のことらしい光景を見たりしていたのが、いつのまにか床に倒れていたのだ。

 さっきやつこの首を絞めていた呪い鬼は、変わらずそこに存在している。けれども、もうやつこからは離れていた。離れるしかなかったのだろう。今、やつこと呪い鬼の間には、その身に光をまとったもう一人の鬼がいた。

 頭につのが見えるのだから、鬼であることには間違いない。衣服は白い着物のようだ。やつこから見たその後ろ姿は人間の男の人とよく似ていて、そしてどこか懐かしい感じがした。それがどうしてなのかはっきりとはわからなかったが、気がつけばやつこはもうその言葉を口にしていた。

「……お父さん?」

 自分の言葉にはっとする。お父さんはもう死んでしまって、この世にはいない。けれども、その背中はまだ小さいやつこがしがみついて離れようとしなかった、あの温かな背中だという思いが頭から離れなかった。

『邪魔をしないで』

 呪い鬼が、もう一人の、男の鬼に恨めしそうな声で言った。男の鬼は首を横に振って、低くしっかりとした声で返した。

『この子に手を出すことは許さない。私は根代の鬼だ。根代の子を守る義務がある』

 その声を、言葉を、やつこの耳は一字一句漏らすことなくとらえた。懐かしい声色で語られたそれは、この鬼が根代家を守る「鬼さん」であるという証明だ。彼こそが、やつこが毎日挨拶をし、悩みも嬉しかったことも話した、開かない戸の向こうの住人だった。

『どうして? あなたは死んでも根代の家に縛りつけられて、家を守る義務を負わされている。それをどうして受け入れられるの? 自分を鬼にした根代が憎くないの?』

 呪い鬼は男の鬼に問う。その声はやつこが過去の光景の中で聞いた、少女の叫びと同じだった。悲しい思いをひたすらに人にぶつける、あの響きだった。男の鬼はそれを受け止め、静かに『違う』と答えた。

『私が根代の家に留まり続けるのは、根代の家を守りたいと自ら願ったからだ。根代の鬼は代々そうして、大切な家族を陰ながら守り続けてきた。縛りつけられているのではない。憎いと思ったことなんか一度もない』

 男の鬼が語る一言一言が、やつこの胸に沁み入っていく。ときどき夢で励ましてくれた声が、今ここにあって、やつこたち根代の人間を家族だと言ってくれている。守りたいと願ってくれている。これまで姿は見えなかったけれど、いつかの言葉どおり、彼はいつもそばにいて、見守ってくれていた。やつこを助けに、駆けつけてくれた。

「お父さん」

 今度は、確信を持ってそう呼んだ。男の鬼は、やつこの大好きなお父さんは、昔と変わらない優しい笑顔で振り向いてくれた。

『安心しなさい、やっこ。もうすぐ君のことを大切に思ってくれている人たちが助けに来てくれる。それまではお父さんが力の限り、やっこを守るよ』

「うん、お父さんがいるなら大丈夫だね。みんなが来てくれるなら怖くないね」

 やつこは立ち上がって、お父さんの後ろについた。目を閉じて、先ほどまで見ていた過去の光景を思い出しながら、深呼吸した。そしておそるおそるではあったけれど、呪い鬼の名前を呼んでみた。

「あなた、あおいさん、っていうの?」

 呪い鬼ははっとした顔をして、やつこを見た。その真っ赤な瞳と目が合ったけれど、やつこは逸らすことなく、まっすぐに呪い鬼を見つめて言った。

「あおいさん。お母さんが亡くなって、とてもつらい思いをしたんだね。鬼や他の人のせいにしたくなるくらい、とっても心が痛かったんだよね。わたしもわかるよ。お父さんが死んでしまったとき、そうだったから」

 お父さんが事故にあって死んでしまったあのとき、やつこは小学校の入学式の前日まで、毎日泣いていた。どうしてお父さんが死ななくちゃならなかったのと、おばあちゃんやお母さんに何度も尋ねた。やつこの周りに見えはじめた鬼にさえも、同じことをきいた。

 おばあちゃんたちのような大人には絶対に言えなかったけれど、お父さんが死んで鬼が見えるようになったことを、つらく思ったこともあった。お父さんが生きていて鬼が見えない生活のほうが幸せだったと、心の中で叫んでいた。

「わたしも、もしかしたらあおいさんみたいになってたかもしれない。だけど、鬼たちは本当にわたしたちを守ってくれているの。人間と同じように泣いたり笑ったりしながら、人間のことを大好きだと思ってくれているの。それで、わたしは、そんな鬼たちも人間も大好きなの」

 やつこはお父さんの後ろから出て、あおいさんに手を伸ばした。にっこりと微笑んで、あおいさんに語りかけた。

「あおいさんのことも、好きになりたい。あなたはきっと、お母さん想いの優しい人なんだよね。そうでなくちゃ、そんなに悲しんだりしないもの」

 あおいさんは黙って、やつこの伸ばした手を見つめていた。しばらくはそうして、動かなかった。

 やがて、あおいさんはゆっくりと首を横に振り、『駄目』と呟いた。

『恨みを捨てられない。まだたくさん恨みがあるわ。私は根代だけじゃなくて、鬼を神様みたいに崇め続ける、礼陣という土地の全てが嫌いなの。だからこそ死後に、呪い鬼なんかになったのよ』

 真っ赤で冷たい眼差しで、あおいさんはやつことお父さんを見ていた。見つめながら、あおいさんは手の爪をだんだん鋭く伸ばしていった。お父さんはやつこを守るように身構え、やつこはお父さんにしがみつく。あおいさんは伸びた爪の先をやつことお父さんに向け、悲しげに笑って言った。

『根代八子。あなたは許してあげようかとも思ったけど、やっぱり駄目。だってあなたには、死んでもあなたを守ってくれるお父さんがいるんだもの。私のことは誰も守ってくれなかったのに!』

 襲い来る爪を、お父さんはやつこを抱きかかえて、間一髪でよけた。けれども次の瞬間、黒い煙がお父さんの足を取り巻いて、身動きが取れないように絡みついてしまった。あおいさんがもう一度襲ってきたら、もう逃げられない。

 お父さんはやつこを守るように抱きしめた。あおいさんの攻撃を全てその身で受け止めるために、やつこには指一本触れさせないように、強く強く抱きしめていた。

「お父さん、けがしちゃうよ!」

 やつこが言うと、お父さんは微笑んだ。

『大丈夫。お父さんはもう鬼なんだ。根代家を守るために鬼になったんだ。けがなんて心配しなくてもいいんだよ』

 それはうそだと、やつこは知っている。鬼だって大けがをすれば、痛くて苦しい。あまりにひどい傷を負った鬼は消えてしまうこともあると、神主さんから聞いたことがある。せっかく会えたのに、お父さんが傷ついて消えてしまうかもしれないなんて、考えたくはなかった。

 あおいさんが腕を振りかぶるのが見えた。お父さんの背中を狙っていた。やつこが「やめて」と声にする前に、その爪はお父さんに深い傷をつけた。うう、とうめいたお父さんを助けようとやつこは離れようとしたけれど、力いっぱい抱きしめる腕からは抜けられなかった。

「もういい。もういいよお父さん。わたしが戦うから」

『駄目だよ。やつこを守るのが、お父さんの仕事なんだ』

 また、あおいさんがお父さんに爪を向けた。涙の溢れてくる目を、やつこはぎゅっとつむった。お父さんを消さないで。それだけを願って。

「やっこ、どこだ!」

「やっこちゃん、返事をして!」

 その願いが、まるで通じたかのようだった。分厚くあたりを取り巻く黒い煙の向こうから、男の子の声が聞こえた。

「ここだよ! 海にい、大助兄ちゃん!」

 これ以上の声は出ないくらいに、やつこは大きく返事をした。あおいさんはそれに怯んだのか、お父さんを攻撃する手を止めた。そしてちょうどその隙を狙ったかのように、煙の中から海と大助が飛び込んできた。

 鬼であるお父さんに抱きしめられたやつこを見て、二人は驚いたようだった。けれどもすぐにお父さんは味方だと判断できたのか、あおいさんとお父さんの間に入ってこちらを守るように立ってくれた。

「やっこ、けがはねえな?」

「大丈夫、お父さんが守ってくれたから!」

 大助の確認に、やつこは元気に答えた。助けが来てホッとしたのか、少し緩んだお父さんの腕から抜けて、自分を守ってくれていた背中を撫でた。

「お父さん、ひどいけが」

『このくらい平気だよ。やっこを守るためなら、何だってするさ』

 お父さんが微笑むので、やつこもつられて笑みを浮かべた。それから大助と海の背中と、その向こうのあおいさんに目を向けた。

 あおいさんの表情は、やつこたちに襲いかかってきたときよりも、さらにおそろしさを感じさせた。彼女は凍えてしまいそうなほど冷たい眼で海を見ていた。そして海も、やつこからは表情がよく見えなかったが、ただならぬ雰囲気を持っていた。

「どうやってやっこちゃんをここに連れてきた?」

 海が低い声色で、あおいさんを問い詰めた。あおいさんは、海よりは高く、けれどもよく似た声で答えた。

『勝手に封印が解けてくれて、その子が誘われてくれただけ』

「ふざけるな!」

 声を荒げ、海はこぶしをあおいさんへと繰り出す。しかしあおいさんを守るように取り巻いた黒い煙に弾かれた。舌打ちをしてあおいさんを睨む海を見て、やつこは胸が強くしめつけられて苦しくなった。

 あおいさんは進道家にいた鬼なのだから、二人の間に因縁があることは確かだ。海が鬼追いや呪い鬼に対して、愛さんや大助とは違う特別な思いを抱いているのは、あおいさんが原因なのだろう。

 やつこは過去の光景を思い出す。あおいさんがはじめ先生の身内であるとすれば、その子どもである海にとっても同じであるはずだ。身内同士で傷つけあうのは、海とあおいさんの両方にとってつらいことなのではないか。

「海にい、あおいさん」

 対峙する二人の名前を呼ぶ。けれども、どちらもやつこを見ようとはしなかった。かわりに大助がやつこに振り返り、首を横に振った。何も言わなかったけれど、「止めようとしても無駄だ」という意味であることはわかった。

 海がもう一度あおいさんに向かっていこうと、足に力を込めた。まだ戦おうとするのか。同じ家に住んでいて、きっと同じ血が流れているであろう二人なのに。やつこはお父さんにしがみついて、泣きそうな声を絞り出した。

「もうやめてよ。これじゃ二人とも、ずっとつらいままだよ!」

 やつこの目から溢れた涙が、お父さんの肩を濡らした。お父さんがやつこを優しく抱きしめてくれる。「やっこ」と呼びかけながら、温かく包んでくれた。

 空間が静かになる。海が地面を蹴る音も、あおいさんの声も、何も聞こえなくなった。

「おい、やっこ」

 大助の声だけが響くのを、やつこは不思議に思って顔を上げた。ほんの数秒までとは違う景色が、そこにあった。

 空間を満たしていた黒い煙が晴れていく。あおいさんの姿が透けていく。それを呆然と見ている海がいる。それに、やつこを抱きしめてくれているお父さんの体が、柔らかく目に痛くない光に包まれていた。

「まるでお前の願いが届いたみたいだな。……鬼封じが始まったんだ」

「鬼封じ?」

 大助が口にしたその言葉は、やつこが初めて聞くものだった。けれどもそれが何なのか問う前に、やつこにとってはもっと重要なことが起こっていた。ぼんやりとした光に包まれたお父さんの体が、あおいさんと同じように透けている。やつこの体から、少しずつお父さんの体温が離れていた。

「お父さん、どうしたの?」

 やつこが尋ねても、お父さんは微笑むだけで答えなかった。ただやつこの頭を撫でて、歌うように言った。

『やっこ、やっこ。君は元気で優しい、みんなの人気者だ。お父さんはこれから先も、ずっとやっこを見守っている。やっこがもっと大きくなるのを、楽しみにしているよ』

「わかったよ。わかってるよ。でも、どうして消えちゃうの? せっかく会えたのに!」

 もう頭を撫でる大きな手を感じることもできなくなってきた。お父さんの笑顔がだんだん見えなくなってくる。ただでさえ、涙をいっぱいにためたやつこの目には、全てがゆらゆらと揺れて映っているのに。

 お父さんと同じように、いや、こちらはただ暗い闇に溶けていくようだったが、あおいさんの姿も消えかけていた。その表情は恨めしそうなまま、海を見ていた。

『また私を消すことができなくて、残念だったわね』

 あおいさんの最後の言葉を、海はこぶしを痛そうなくらいに強く握りしめて聞いていた。海が鬼追いをする理由、「葵鬼を自分の手で消し去る」という最終目的は、今回も果たされなかった。これまでと同じように、彼女は進道家の「開かずの間」に封印されるのだ。

 黒い煙が完全に晴れたとき、そこには三人の人間だけが残っていた。立ちつくす海と、小さく息をついた大助と、こぼれる涙を拭いもせず座り込んでいるやつこ。部屋の襖の向こうには、彼らを見つめる愛さんの姿があった。

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