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やっこと謎の鬼

 合唱コンクールまで、とうとうあと二日となった。やつこがこれまで以上に結衣香たちクラスメイトと会話をして仲を深めたこと、そこに紗智が加わるようになったことで、五年二組はいっそう盛り上がっていた。

「さっちゃん、声大きくなったよね。歌うの上手だし!」

「ありがとう。やっこちゃんが練習を手伝ってくれたおかげなの」

 そんな言葉も交わされるようになって、朝と休み時間、そして放課後の合唱練習は最高の雰囲気で行われていた。

「やっぱり、やっこちゃんがいてくれると、わたしもクラスのみんなも楽しいな」

「ゆいちゃんにそう言ってもらえると嬉しいよ。この調子なら、六年生をおさえてわたしたちが優勝できるかもって気がする!」

 放課後の練習の後も、やつこは少しだけ残って結衣香や紗智とお喋りを楽しんでから、家に帰ってきた。いつものように「鬼さん」にただいまを言って、ランドセルを自分の部屋に置いてから、もう一度「鬼さん」の部屋の前に来た。戸の前の床にひざを抱えて座り、向こう側に語りかけるように、やつこは話し始めた。

「鬼さん。今ね、クラスがとってもいい感じなんだ」

 先週末は何もかもがうまくいかなくて、この場所で泣き言をこぼした。けれども今はいろいろなことがいい方向に解決していて、心が晴れ晴れしている。もしも前の話を聞いてくれていたのなら、そのことを「鬼さん」に報告しなければならないと思った。

「わたし、もう大丈夫だよ。この数日で、さっちゃんとも仲良くなれたし、ゆいちゃんともたくさんお喋りしてるの。鬼追いとしても、ちょっとは認めてもらえたかもしれないんだ。……もちろん、危ないことはしないって約束した上でだけど」

 相変わらず、「鬼さん」の姿は見えない。この部屋からは出てこない。けれどもきっとそこにいて、話を聞いてくれている。今のやつこに、本当に戸の向こうに「鬼さん」がいるのかどうかという疑いはなかった。

 明るい話ばかりを一通りして、そろそろ部屋に戻ろうと立ち上がったときだった。ふと戸の上の方へ目を向けると、そこに見たことのあるものがあった。

「あれ、今まで気付かなかった……」

 戸には、札が貼ってあった。鬼追いのときに見た、鬼を神社へ帰すときに使う札とよく似ている。しかし、描かれている模様が少し違う気もする。

 もっとよく見てみようと、やつこは踏み台を持ってきて、その上にのぼった。それでもまだ模様の細かなところは見えないが、やはりこれまで鬼追いで見てきたどの札とも違うもののようだ。なんとなく手を伸ばして、そっと札に触れてみた。

「あっ」

 指先が少し触れただけだった。それにもかかわらず、札は端から裂けてしまった。完全に千切れてしまったわけではない。けれどもこれが由緒のある、たしかな力を持った札だと知っているやつこには、それだけでもとてもまずいことのように思われた。

「どうしよう……。セロハンテープでくっつけるわけにはいかないだろうなあ……」

 悩んだ末に、やつこは一つの答えを導き出した。「鬼さん」の部屋の戸に貼ってあった札なのだから、鬼に関係するものであることには間違いないだろう。それなら、神社で神主さんに相談してみたほうがいい。

「おばあちゃんは出かけてるみたいだし……あとでちゃんと謝っておこう」

 やつこは踏み台を片付けてから、「鬼さん」にごめんなさいといってきますを言って家を出た。


 自転車に乗って、神社を目指す。住宅街を抜けて、大通りを渡り、商店街の端まで行けばすぐに辿り着く。日曜日に掃除に行くときと同じコースを進めばいい。通いなれた道を特に意識することなく走っていたやつこだったが、不意に違和感を覚えて自転車を止めた。そしてあたりを見回し、首を傾げる。

「あれ、違う道に来ちゃったかな?」

 掃除に向かうときには通らない道。大通りへ行くのとは逆の、心道館がある方向に来てしまったようだった。剣道の稽古がある日には通るので、無意識のうちにこちらへと向かってしまったのかもしれない。ぼうっとしていて間違えたかなと思い、やつこは再び大通りを目指して自転車を走らせた。

 しかし、行けども行けども大通りが見えない。何度も心道館の前に来てしまう。まるで道の端と端がつながって、輪になっているようだった。それに、もう一度立ち止まって、気がついてしまった。周りにあるはずの一切の音が、誰かが取り去ったように消えている。

「これ、呪い鬼の空間に入っちゃってる……?」

 やつこはごくりとつばを飲みこんだ。神社に行くだけのつもりだったので、竹刀は持ってきていない。とりあえずはポケットに手をつっこみ、例の赤い石を握りしめて愛さんを呼んでみた。

 もし愛さんが来られなくても、ここは心道館前だ。運が良ければ、竹刀を調達してしのぎきることができるかもしれない。もっと運が良ければ、すぐに海が来て助けてくれるかもしれない。やつこは自転車を停めて、あたりをゆっくりと見回した。人間の姿もなければ、鬼の姿もなかった。見えるのは通い慣れた道場と、その周辺の景色だけ。

 やつこは緊張したまま、赤い石をさらに力を込めて握った。すると、ぎし、という砂をこすり合わせたような音が聞こえた。不思議に思い、石を握っていた手をそっと開いて、やつこはぎくりとした。

「石に、ヒビが……!」

 赤くてつるりとした石に、深く亀裂が入っていた。もっと強く握れば、真っ二つに割れてしまうのではないかと思った。昨日までは、こんなヒビは少しも入っていなかったはずなのに。

「これ、割れたらどうなるの?」

 愛さんがやつこにこの石を渡すとき、握って呼んでくれればいいと言った。壊れたときにどうなるかまでは聞いていなかった。もしも割れてしまうことで、石がその力を失ってしまうものならば、愛さんは来てくれないのだろうか。

 不安を募らせるやつこの目の前で、石にはさらにヒビが刻まれた。ただ手のひらに乗せているだけなのに、ぴしり、という音を立てて亀裂が広がっていく。どうして、という言葉がやつこの頭を埋めていった。心臓のどきどきという音が、耳に響いてくるような感じがする。その間にも石は、どんどん壊れようとしていた。

「やだ……壊れないで……」

 亀裂を塞ぐように、そっと石を握ってみた。けれども、手から石の割れる感覚が伝わってきて、それが意味のないことなのだとわかってしまった。小さな石は、じきに壊れてしまうだろう。

「そうだ、海にいなら何かわかるかな」

 目の前には心道館、つまりは海の家がある。鬼追いについてやつこよりも詳しいはずの海なら、この石の異変についても何かわかるかもしれない。もっとも、呪い鬼の空間に入ってしまったこの家に、海がいるかどうかはわからない。それでも他に方法がないなら、行ってみるしかない。

 やつこは剣道の稽古がある日にいつもそうしているように、心道館道場の敷地内に足を踏み入れた。そっと道場の入り口の引き戸に手をかけると、するすると開いた。中に誰かいるかもしれない。いてほしい。希望を持って、壊れかけた石を力を込めずに握りしめたまま、やつこは屋内へと進んだ。

 道場内はしんと静まり返っていた。ここが呪い鬼の空間になってしまっているのなら、音がするはずはないので当然のことなのだが、やつこはこれまでで一番の恐怖を感じていた。見知った場所なのに、全く違う世界のようで、思わず身が縮こまってしまう。

「誰かいないの? はじめ先生! 海にい!」

 叫んだつもりの声が震える。しかも、どこからも返事はない。ただ聞こえていないだけかもしれない、というわずかな希望を胸に、やつこは道場を通り抜け、玄関とは反対方向にある扉にたどり着いた。

 この先は、はじめ先生と海の住む進道邸につながっている。先生と海はいつもここから出入りしていた。心道館の門下生たちは、ときどきこの扉の向こうに招かれ、はじめ先生と海が作る美味しいぜんざいなどを食べさせてもらうことがあった。

 やつこはそっと扉を開け、その奥を見た。長い廊下がのびていて、その右側にはガラス戸が、左側には壁と襖がある。ガラス戸の向こうには進道家の立派な庭が見えたが、外から聞こえるはずの音はない。人の気配もないようだった。

「誰か、いませんか?」

 廊下の向こうと、左側の襖に向かって呼びかける。音も声も、返ってこない。この家には、やつこ一人しかいないようだった。

 本来なら、勝手に人の家の中を歩き回ることはいけないことだ。けれども、ここが鬼の空間になってしまっているなら仕方がないと自分に言い聞かせ、やつこは廊下に足を踏み出した。手の中の石がぎりりと音をたてるのが気になるけれど、握っていなければ怖くてどうにかなりそうだった。

 一歩、二歩と進んで、最初の襖を通り過ぎた。誰かがいるような気配はしない。もう少し進んで、二番目の襖を通り過ぎた。ここにも、人間はいないようだった。そして三番目の襖の前にさしかかったときだった。背後から、すう、と音がした。引き戸を開ける音だ。

「誰?」

 静寂の中に響いたその音に、やつこはすぐに反応した。振り向いてあたりを見渡すと、先ほどとは違う光景に気がついた。

 二番目の襖が、開いている。さっきまではぴったりと閉まっていて、何の気配もなかったのに。さらにはその開いた隙間から、黒い煙のようなものが漏れていた。やつこは襖にそっと近づき、手をかけた。そしてゆっくり息を吐いてから、一気にその襖を開けた。

 襖の向こうは、部屋になっていた。畳の床が黒い煙の下に見える。足元から正面へと、少しずつ視線を上げていくと、煙の向こうに影が見えた。人影だった。

「誰? ……海にい?」

 身長は、海に似ていた。けれども少しだけ高いようにも見えた。じっと見つめてみると、人影は線が細く、はじめ先生や海とは違うように思えた。おそらくは、女性だ。

 進道家には、女の人はいないはずだった。海には母親がおらず、この家にははじめ先生と二人暮らしをしていると、このあたりの人なら誰でも知っている。だからやつこには、その人影が誰なのかわからなかった。黒い煙が少しだけ晴れて、影の頭に長いつのが見えるまでは。

「……鬼?」

 やつこの呟きに応えるように、影はゆらりと動いた。そうしてゆっくり、こちらへ近づいてきた。やつこは思わずあとずさりしようとしたが、まるで黒い煙が足にまとわりついて邪魔をしているかのように、足がいうことをきかなかった。影から目をはなすこともできず、ただ鬼が向かってくるのを待つことしかできない。

 煙の中を進んできたその鬼の姿がようやくわかったとき、やつこは息をのんだ。女性の体に、整った顔。黒くつややかな、長い髪。頭にはやはりつのがある。人間に限りなく近い形をした、女の鬼だ。しかもその顔は、どこかはじめ先生や海に似ていた。

「あなたが、この空間をつくったの?」

 やつこは声を絞り出し、鬼に尋ねた。鬼は無表情のまま頷いた。

『そう。……あなたに会いたくてつくったのよ、根代の子』

 鬼の真っ赤な目が、やつこをじっと見つめていた。その視線に射抜かれてしまったやつこは、少しも体を動かせなかった。声を漏らすことさえできない。ただ、手の中にあった赤い石がとうとう砕けたことだけが、触覚でわかった。

『根代の子。いつもいつも近くまで来るのに、ここまで呼び出せなかった。でも、やっと、やっと連れてこられた』

 耳ではなく、頭の中に直接響いてくるような鬼の声。まるで笛の音のように美しい声だったけれど、やつこにはただただおそろしかった。人間に近い形をしていて、意味のわかる言葉を話していても、この鬼はやつこの周りにいるような鬼たちとは違った。

『やっと、根代に復讐できる』

 鬼は、うっとりとした、しかしおそろしい目をして笑った。このとき、やつこにははっきりわかっていた。暴れてはいないけれど、この鬼は強い呪いを持っている。彼女は根代八子を狙い、この場所へ誘い込んだ呪い鬼だ。

 呪い鬼は動けないやつこに手を伸ばし、その首に触れた。両手でやつこの首から肩にかけてさわさわと撫でたあと、突然力を込めて、やつこの首を絞めはじめた。

 声をあげることもできず、首にかかる手をはずそうともがくこともできず、やつこの意識は遠くなっていく。たぶんこのまま死んじゃうんだな、という思いが頭の中にぼんやりと浮かんでいた。手から砕けた石の破片がこぼれていった。


 学校の授業を終えて、海と大助は馴染みの駄菓子屋に寄り道をしていた。とはいえ二人で揃ってここに来たわけではない。大助はこの駄菓子屋で幼馴染と待ち合わせをしていて、そこへ偶然海が通りかかったのだった。

 二人は特に買い物をするわけでもなく、ただ店に並ぶ商品を眺めながら話していた。

「海、日曜日のことだけど」

 大助が言うと、海は「はい」とすぐに返事をした。

「やっこちゃんのことですよね。何度も言いますけど、俺はやっこちゃんが鬼追いをするのは反対です」

「でも、いざというときのために戦力は必要だ。やっこはお前のとこの道場でも強いほうなんだろ? それに鬼たちともうまくやれてるらしい。姉ちゃんが鬼追いをできなくなったとき、やっこがいたら助かると思うぜ」

 実際、鬼追いというのは大変な仕事だった。大助と海も、苦労したことは山ほどある。特に大助は大抵無茶をして素手で立ち向かおうとするので、毎回のように生傷だらけになっていた。その度に姉に手当てしてもらい、絆創膏だらけになった姿を幼馴染に見られて心配されている。海は武道をやっていることもあって、大助ほどはけがをせずに済んでいるが、絶対に無事だという保証はない。それでも鬼追いをやめないのは、それぞれに目的があるからだ。

 大助は姉を助けるために、鬼追いをしている。姉は鬼に優しい言葉をかけて癒すことはできても、我を忘れて襲いかかってくるものに対してはなすすべがない。もともとけんかが強い大助は、そんな姉をサポートするのが自分の役目だと思っていた。

 そして海は、そんな大助の後輩だ。もちろん大助の手伝いをしたいという思いもある。しかしそれ以上に、海の家が抱える事情が、彼が鬼追いを続ける理由に深く関わっていた。

「やっこちゃんは確かにがんばってくれてます。でも、鬼追いが危ないことであるのには変わりないですし、なによりあの子は根代家の子です。万が一にもあの、最悪の呪い鬼と関わるようなことになってしまったら……」

 海が言いよどんだ、そのときだった。二人の足元に強い風が吹き込んできたような感覚があった。その正体は鬼の子である彼らにしかわからない。

『海、大助、大変だ!』

 風のようにやってきて二人にとびついたのは、おかっぱ頭の子鬼だった。礼陣の鬼の子たちにもっとも馴染みのあるのは、神主さんを除いては、この少女の姿をした子鬼だった。どこにでも現れて、人間の子どもと同じようにはしゃいだりして、またどこかに行ってしまう。そんな鬼だった。

 その子鬼が、尋常じゃない様子で二人を見上げていた。

「どうした、子鬼」

 大助が屈んで尋ねる。子鬼は泣きそうな顔と焦った声で言った。

『やっこに預けていた鬼の石が割れた!』

 鬼の石というのは、やつこが愛さんにもらって持っていた、赤くてつるつるした石のことだ。あの石を握って強く念じたことは、この子鬼に届き、子鬼がその内容を鬼追いに伝えることで連絡が取れるようになっていた。

 鬼のもつ不思議な力が宿っているのだから、鬼の石がそう簡単に割れるはずがない。そんなことがあるとすれば、今の持ち主であるやつこに大きな危機が迫っている証拠に他ならなかった。

『石が割れたと感じたのは、海の家のあたりだ。もしかするとやっこは、あの鬼に会ってしまったかもしれん!』

 子鬼の言葉を聞いて、海の顔色がさっと変わった。そしてすぐに店を飛び出し、自宅へ向かって全速力で走って行った。一方、大助は眉根を寄せながらも、子鬼の肩を掴んで静かに言った。

「落ち着け、子鬼。お前は姉ちゃんと神主さんに、このことを知らせに行け。俺は海と、先に向かってるから」

『わかった。……無理はするなよ、大助』

 子鬼は頷いて、再び風のように姿を消した。大助は海を追って走りながら、姉と神主さんにこのことが一秒でも早く伝わることを願った。

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