やっこと礼陣の町
やっこ、やっこ。お前はどんな女の子に育つんだろう。元気で優しい、みんなの人気者になるんだろうか。
お父さんは、やっこが大きくなるのが、楽しみでしかたないよ。
「お母さん、いま何時?」
赤いランドセルを背負いながら、やつこは台所に向かって大きな声で言った。すると、すぐに元気な答えが返ってくる。
「七時五十分だよ! 急がないと遅刻だね」
「うそ、もうそんな時間なの?」
家から学校までは、やつこが走って十五分。いつもなら教室には八時半までに入っていれば良いのだが、今日から合唱の練習が始まるので、もっと早くに行かなければならない。
「練習は十五分からなのに……」
ぶつぶつと呟きながらも、やつこは部屋を出てから、玄関とは反対の方向へ行く。どんなに遅刻しそうな日でも、忘れてはいけない日課があるのだ。
廊下のつきあたりにある、戸の閉められた部屋。その前に立って、手をぱんぱんっと二回合わせ打つ。それから、こう言うのだ。
「鬼さん、いってきます!」
いつもの挨拶が済んでから、やつこはどたどたと廊下を戻って、家を飛び出して行くのだった。
根代八子、というのがやつこの本名だ。普段あまり話さない人や学校の先生たちは、根代さん、と呼ぶ。けれどもクラスのみんなはやつこのことを、やっこちゃんとかやっことか、そういうふうに呼んでいる。
やつこが五年二組の教室に辿り着くと、合唱の練習が始まろうとしているところだった。飛び込んできたやつこを見て、クラスメイトは一斉に笑い出す。
「やっこ、遅いぞ!」
「おはよう、やっこちゃん」
次々と投げかけられる言葉を全部受け取って、やつこはにっこり笑って「おはよう!」と返事した。
練習には間に合ったものの、教室に着くまでずっと走りっぱなしだったやつこは、息が切れて上手く歌えなかった。
やつこの通う遠川小学校では、年に数回、合唱のコンクールがある。全校生徒の投票によって一番良かったと評価されたクラスには、賞状とトロフィー、それから全員分のノートが贈られるのだ。学校中がこれを楽しみに、コンクール前には猛練習をしている。
「やっこちゃん、本番は息切れしないようにね」
「ごめんごめん。今日はちょっと寝坊しちゃって」
今日のようなことがなければ、やつこはとても上手に歌えるのだ。だからクラスのみんなもやつこに期待しているし、やつこ自身それに応えたいと思っている。それなのに寝坊して練習に遅刻しそうになったのは、夢を見てしまったせいだった。
「昨日の夜、お父さんが夢に出てきたんだ」
やつこがそう言うと、周りの友だちは「そういうことだったのか」とすぐに納得する。みんな、やつこにお父さんがいないことを知っているからだ。
やつこのお父さんは、やつこが小学校にあがる直前に事故で亡くなってしまった。入学式でぴかぴかのランドセルを背負ったやつこを写真におさめるのだと、とても楽しみにしていたのに。もちろんやつこだって、少しだけお姉さんになった自分をお父さんに見てもらいたかった。
高学年になって、周りのおしゃれな子はランドセルを背負わなくなった。かわいいリュックサックや、大人っぽい手提げのバッグを使う子が増えた。けれどもやつこは小学校を卒業するまでランドセルを使い続けると決めていた。お父さんが買ってくれた、最後のものだからだ。
「やっこちゃんのお父さん、夢の中でもかっこよかった?」
一番の仲良しである志野原結衣香が言った。以前やつこの家に遊びに来たときに、お父さんが小さいやつこを抱いている写真を見せたことがあったのだが、そのときから彼女はやつこのお父さんの大ファンなのだ。たしかにお父さんは、テレビで見る俳優くらいにはかっこいい人だった。
「夢のお父さんは、あのときのままだよ。ゆいちゃんお気に入りの、あのお父さん」
「わぁ、いいなぁ! やっこちゃんのお父さんが生きてたら、参観日には絶対来るように言ってって頼んでたのに」
もしもそうなら、やつこは結衣香に頼まれるまでもなく、お父さんを行事に引っ張ってきていただろう。そしてみんなに、お父さんのかっこよさを自慢していたに違いない。今度の合唱コンクールだって見に来てもらって、上手だよと褒めてもらいたかった。
「でも、しかたないよ。お父さんはいないんだもん。その代わり、うちには鬼さんがいるからね」
「鬼さんは参観日に来られないじゃない。来てたってわたしには見えないもの」
結衣香はそう言って、ぷうと頬をふくらませた。それからすぐにもとのかわいい顔に戻ると、「でも」と続けた。
「鬼さんも、学校に来られれば良いのにね。わたしには見えなくても、やっこちゃんには見えるんだもの」
「そうだね。……でも、うちの鬼さんは他の鬼と違うから無理かな」
やつこはちらりと、窓の外を見る。グラウンドと、ボールを追いかけながら走る男の子たちの姿が目に入った。その中にはつのの生えた子どもが数人混じっているのだが、誰もその子らには気を留めていないようだった。当然だ、男の子たちにはつののある子たちが見えていないのだから。
やつこの住む礼陣という土地には、昔から二種類の人が住んでいた。「人間」と、頭に二本のつのを持つ「鬼」だ。遠い昔、この地につののある人々がやってきて、そこにいた人間たちと生活を共にするようになったのだという。人間にとっては鬼が存在することが、鬼にとっては人間が存在することが、この町では当たり前のことだった。
けれども、他の土地には礼陣にいるような鬼はいないらしい。よそから来た人が鬼や、鬼と自然に付き合うこの土地の人間に驚いたり、怖がったりしないよう、いつからか鬼は姿を消すようになったという。ただ普通の人には見えなくなっただけで、今でもこの町には鬼たちが暮らしている。
そしてやつこには、姿を消しているはずの鬼たちが見える。ある日突然、自分たちとは違う形をした人たちがいるのだとわかるようになったのだ。大人たちにそれを言うと、みんな口々にこう言った。
「やっこちゃんは、『鬼の子』になったんだよ」と。
やつこのおばあちゃんが話してくれたことによると、礼陣の鬼は不思議な力を持っていて、その力で町を、町の子どもたちを守っているという。そして「鬼の子」というのは、中でも特別に守られている子どものことらしかった。
「親の片方、または両方がいなくなってしまった子は、鬼が親代わりになるんだよ。そうするとね、子どもには鬼が見えるようになるの」
おばあちゃんの話は、その頃まだ小さかったやつこにはよくわからなかった。ただ、自分に鬼が見えるのは悪いことではないのだと教えられた。
そして大きくなった今、やつこはこう理解している。お父さんが死んでしまったから、自分には鬼が見えるようになったのだと。
友だちとお喋りを楽しんだり、合唱の練習をしているうちに、学校での時間はあっという間に過ぎる。放課後の合唱練習が終わったあと、やつこは家に帰ってきた。
「ただいまー」
家の鍵を開けて、呼びかけてみる。返事はないが、それは当然のことだ。お母さんは仕事に行っているし、おばあちゃんは町内会の集まりがあると昨日言っていた。今この家にいるのは、やっこだけだ。
いや、違う。もう一人いる。玄関からまっすぐにのびる廊下の、そのつきあたりの部屋に、鬼がいるのだ。
「鬼さん、ただいま帰りました」
朝、出かける前にしたように、やつこは手を二回合わせ打って挨拶をする。根代家では代々、こうして鬼のいる部屋に挨拶をする決まりがあった。
やつこの目から見ると、この町には鬼がたくさんいて、普通に外を歩き回っている。しかし、家にいるこの鬼は彼らとは違うと教えられてきた。だから挨拶のときは「鬼さん」と呼ばなければならないし、声をかけるときは手を叩かなければならないのだ。
やつこの住む家の、この部屋にいる鬼は、どうやら根代家の守り神らしい。鬼が持っている不思議な力を、この「鬼さん」は根代家のために使っているのだという。おばあちゃんがそう言うのだから、そういうことになっているのだろうとやつこは思ってきた。
実を言うと、やつこはこの部屋に本当に「鬼さん」がいるのかどうか、ほんの少し疑っていた。鬼が見えるはずのやつこだが、「鬼さん」だけは一度も見たことがなかったのだ。そもそもこの部屋の戸が開けられていたことも、やつこの記憶では一度もない。この戸には鍵がついていて、おばあちゃんしか開けられないようになっているのだ。
一度も見たことのない「鬼さん」に毎日欠かさず挨拶をするのは、おばあちゃんに言われているからというだけではない。「鬼さん」は存在しているのだと、他の鬼たちも言うからだ。
『私たちも見たことはないが、気配は感じるからな。いるのは間違いないだろう』
突然聞こえた声に、やつこはちょっと驚いて振り返った。ちょっと、というのはこれがよくあることだからだ。
「子鬼ちゃん、またうちに勝手に入ってきたの?」
『玄関の戸が開きっぱなしだったぞ。無用心だな、やっこ』
いたずらをして喜んでいる子どものように、声の主は笑った。見た目は五、六歳の女の子なのだが、おかっぱの頭には二本のつのが生えている。着ている服は白くてすその短い着物だ。その正体は、本人いわく百五十年ほども生きている鬼なのである。それにしても見た目に威厳がないため、やつこは気軽に「子鬼ちゃん」と呼んでいた。
『そんなことより、やっこ。時間はきちんと確認した方がいいぞ』
「時間?」
子鬼に言われて、数秒考える。それから、やつこは大変なことを思い出した。
「しまった、道場行かなきゃ!」
鬼達に気をとられていて、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。今日は大切な習い事のある日だった。やつこは大慌てで支度をし、それからもちろん、鬼さんにいってきますを言って家を飛び出していった。
そんなやつこを見て子鬼は、変わらんなあ、としみじみ言った。
この礼陣の町で、心道館道場を知らない人はいない。昔からある剣道の道場で、礼陣の少年少女剣士はみんなここで鍛えられている。高校生になると学校の剣道部に所属するようになるため、道場に通うのは小中学生が多い。やつこもその一人だ。
「先生、こんにちは!」
やつこが大きな声で挨拶をすると、道場にいる男の人がふんわりと笑った。
「こんにちは、やっこちゃん。今日も元気で、なによりなにより」
のんびりしていて優しげな、でも少し弱そうにも見えるこの人が、剣道の先生だ。この町の人々から「はじめ先生」と呼ばれている人気者なのである。
やつこもはじめ先生が大好きで、一昨年に入門してから一度も休まず道場に通っている。おかげで小学生の門下生の中でも特に強くなり、町の男の子たちからも一目おかれるようになった。
でも、やつこには他のどの男の子よりも認めてほしい人がいる。剣道の先輩として、男の子として憧れている人がいるのだ。ここに来るといつも、はじめ先生に挨拶をしたあとで、まずその人の姿をさがしてしまう。
「先生、海にいはまだ学校?」
「いや、帰ってきているよ。……ほら、来た」
はじめ先生の指差す方向に、憧れの人はいた。誰よりも剣道着が似合っていて、誰よりも竹刀を持つ姿がさまになっている……ように、やつこには見える。彼はこちらに気付くと、爽やかに微笑みながらやってきた。
「やっこちゃん、こんにちは。今日も元気だね」
「こんにちは! 海にいは今日もかっこいいね!」
憧れの先輩、進道海。中学二年生で、はじめ先生の一人息子。女の子たちからの人気も高いが、男の子たちからの信頼がとにかくあつい。文武両道でみんなに好かれる、ほぼ完璧といっていい人物像。
それに加えて、彼はやつこを理解できる一人でもあった。
「……で、やっこちゃん。子鬼連れてきたの?」
「え? ……あ、いつの間にかついてきてた!」
気がつけばやつこのそばでにこにこしている子鬼を、海も見ることができるのだ。彼は子鬼ともハイタッチで挨拶し、それからどんどんやってくる門下生ひとりひとりに声をかけていた。その中に時折混ざる鬼にも、もちろん同じように接している。海には母親がおらず、物心ついたときにはすでに鬼が見えていたというので、そういった意味でもやつこの大先輩だった。
実のところ、鬼が見える子どもは珍しくない。この町には、親の片方、あるいは両方を早くにうしなってしまった子どもが、やつこたちの他にも何人かいる。事故や病気で親がいなくなった子どもは、やはりやつこと同じく「鬼の子」と呼ばれているのであった。
「全員集まりましたね。それでは、稽古を始めましょう」
親がいる子もいない子も、つのの生えた子鬼たちまで、みんながはじめ先生の声に元気な返事をする。なんと呼ばれていても、姿が違っていても、そもそも見えなくったって。この道場では、みんなが一緒に学び、同じ時間を過ごしている。やつこはこの場所が大好きだった。
厳しい稽古を終えて、一息ついた頃には、空が群青色に染まり始めている。今日もいい汗をかいたなと思いながら、やつこは人が少なくなった道場を見渡した。まだ残って練習をしている何人かの人間の子どもと、それを応援したり、温かく見守る鬼たちが目に入る。人間のほうは鬼に気付いていないけれども、たしかに種類の異なる人々が同じ場所にいて、泣いたり笑ったりしている。その景色を見ることができるようになったのは、「鬼の子」としての得かもしれない。やつこは鬼と人間が一緒にいる光景を目にするたび、そう思う。
「やっこちゃん、まだ帰らないの?」
道場を眺めていたところへ、不意に声がかかった。やつこは慌てて振り向いて、声の主、つまりは憧れの海に向き直った。
「ええと、そろそろ帰ろうかなって思ってたの。でも、鬼たちからなんだか目が離せなくなっちゃって……」
「そうか」
やつこの返答に、海はくすりと笑って頷く。それから、「俺も」と言った。
「鬼を見てたら、そのままぼうっとしちゃうことはあるよ。あいつら、人間より自由に見えるから、ときどき羨ましく思うんだ」
「そうだね。テストとか宿題とか、鬼は関係ないもんね」
おどけて言うやつこに、海が笑う。憧れの人の隣で好きな光景を見られるなんて、とても幸せだとやつこは心の中で呟いた。
お父さんがいなくても、鬼がそばにいて守ってくれて、しかもそれが目に見えてわかる。そしてその感覚を、共有できる人間もいる。だから寂しくなんかない。いつも元気で、明るい自分でいられる。やつこは毎日、そう考えて過ごしていた。