其の二
「カズくん……和志とはデキ婚だったんです」
リビングのソファに腰かけた彼女――綾香は、頬に濡れたタオルを押し当ててぽつぽつと話した。
綾香の身体には、肩と背中にもいくつも痣があった。しかも今つけられた新しい痕ではない。以前から暴力を受けていたのだと分かって、私は改めて怒りが込み上げてくる。
「あの人、本当は音楽で食べていきたかったんです。私が妊娠したからそれを諦めたの。籍を入れて、私のために就職してくれて……でもうまくいかなくて。この間また転職してここに引っ越してきたんだけど、勤め先でもう何かあったのね……ストレスが溜まるといつもこんな感じ。向日葵のことも無視してばかりだし」
「酷いご主人! よく我慢してられるわね」
「我慢してるのはカズくんの方なんです……夢を諦めさせて縛りつけたのは私なの」
「そんなの男の責任なんだから当たり前でしょ!」
私はつい声が大きくなってしまって、急いで口を押える。マンションの住人は私たちだけではないのだ。
綾香に対しても、だんだん腹が立ってきた。合意の上の行為であった以上、妊娠したらそれは男女両方の責任だ。生まれた子供を育てるために働くのは当然のことで、我慢してるとかさせてるとか、見当違いも甚だしいと思った。
向日葵はカーペットの上にぺたりと座り、猫のぬいぐるみを大事そうに膝に乗せたままオレンジジュースを飲んでいる。私は不憫で堪らなくなった。父親には無視されて、母親には罪悪感を持たれて――向日葵自身には何の責もないのに。
「あのね、綾香さん」
私は彼女に向き直り、痛々しく腫れた顔を正面から見据えた。
「どんな理由があっても、ご主人のあれは暴力なの。今度あなたを殴ったら通報すべきよ」
「で、でも普段は本当にいい人なんです。優しいし浮気はしないし……」
「どんなに優しくても、あんな男信用できないわ!」
またつい語気が荒くなった。怒りを通り越して、自分でも不思議なほど激しい憎しみが胸で渦巻いている。
「あなたがしなくても私が通報します。いい? 綾香さん、向日葵ちゃんを守れるのはあなただけなのよ」
私の迫力に押されたのか、綾香は一瞬怯えに似た表情を浮かべたが、やがて弱々しく肯いた。その動作こそ頼りないが、切れた唇は決意を表すように強く引き結ばれていて、私はとりあえす安心した。
「ねえ、あれおばちゃん?」
ショッキングな出来事の直後とは思えぬほど無邪気な声で、向日葵が問いかける。彼女はその小さな手を、壁側に置かれたローチェストに向けていた。
チェストの上には、ガラス瓶入りのブリザーブドフラワーと並んで写真立てがある。真鍮とビーズでできたアンティークなフレームの中では、今より少しだけ若い私と祐一の笑顔。腕を組んだ私たちの背景は黄金色の花畑だ。
向日葵はチェストに歩み寄って、写真立てを手に取る。
「駄目よ、大事な物を」
「いいのよ。こっち持ってきて」
注意する綾香を制して私がそう言うと、向日葵は私に写真立てを渡してソファの隣に腰かけた。二人用のソファだからちょっと窮屈だったが、気にはならなかった。
「これ、美由紀さんとご主人ですか?」
「そう。二年前にスペイン旅行に行った時の」
二人で予定を合せ、二週間ほど休みを取ってスペインを旅した。写真に写っているのはアンダルシアのヒマワリ畑だった。
焼けつく日差しと乾いた風と、見渡す限り一面に揺れる金色の花――あそこで、私たちは再生を誓ったのだ。
二人で生きていこうと。
「優しそうなご主人ですね……羨ましい」
「私はあなたが羨ましいわ。うちは子供ができなくて……長いこと治療もしてみたんだけどね」
私は写真から目を離し、向日葵の髪を撫でた。
「でもやっぱり無理で、二年前に諦めたの。もう自然に任せようって。子供ができなくても、夫婦二人で仲良く生きていこうって。この旅行はその区切りなのね」
「そうだったんですか……」
綾香は口をつぐんで、新しい涙の溜まった目で写真を眺めた。
子供はいなくても平穏な幸福を得た私たちに対し、子供に恵まれても夫から暴力を振るわれる彼女がどんな思いを抱くのか、私は想像もつかなかった。羨望だろうか、同情だろうか、それとも別の感情だろうか――。
しばし落ちた沈黙を、無機質な電子音が破った。インターフォンの呼び出し音だ。
受話器を取ると、モニターの向こうで相馬和志が項垂れていた。
「あの……さっきはすいませんでした。綾香……いますか?」
彼は精悍な顔を歪めて苦しそうにカメラを見詰める。今にも泣き出しそうな表情に私は既視感を覚え、腹の底がムカムカとした。
「何のご用ですか? 奥さん、そちらに帰せると思いますか?」
「ほんとにすいません。もうこんなことは絶対にしませんから……綾香、帰ってきてくれ。許してくれ」
和志は一歩下がって、いきなり膝を折った。廊下に両手をつき、額を摺りつけて土下座をする。後頭部と背中が小刻みに震えているのが映し出されていた。
モニターを覗き込んでいた綾香は、向日葵を呼び寄せた。
「美由紀さん、ご迷惑をおかけしました。私帰ります」
「駄目よ、あんなのに騙されちゃ駄目。まだどうせやるわよ」
「それでも帰らなくちゃ。私のダンナでこの子の父親なんです」
綾香は思いがけず強い眼差しを私に返して、硬い微笑みを浮かべた。
「大丈夫です、向日葵は私が守りますから」
彼女が玄関ドアを開けると、土下座をしたままだった和志は弾かれたように立ち上がり、妻を抱き締めた。つい一時間前、自分がその手で殴った女を。
「ごめんな、綾香……ごめん! もう二度としない」
泣きながら詫びる彼の背中を綾香はあやすように撫でて、私に目礼した。彼女の手を握り締めた向日葵は、彼女を父親と私を交互に眺めて、笑顔になった。
寄り添って隣室に戻ってゆく親子の姿を見送りながら、私はやるせない気持ちになった。
あの男はきっとまたやる――その度に彼女は許してきたのだから。大切な娘を、彼女は守れるだろうか。
金色の花のようなあの子の笑顔が失われる、そのことだけを、私は恐れた。
「どっちが幸せなんだろうね、私たちとお隣さん」
私がそう呟くと、祐一の溜息が睫毛にかかった。
暗闇の中、彼の腕が私を抱き締めている。私は彼の胸に頭を乗せて、その鼓動を聞いている。刻まれるリズムは私と同じだった。
「綾香さん……だっけ? 彼女もたぶん幸せなんだと思うよ」
「どうして? あんな乱暴なご主人なのに」
「でも彼女にはいい人に見えてるんじゃないかな。他人がどう言おうと、自分の見たいようにしか見ないものだからね。だから許せるんだろ」
彼の温かな掌が私の髪を撫でた。闇の中だからこそ、体温と匂いが彼の存在をはっきりと伝えてくる。何とも言えない安堵感と満足感が私を包む。
「じゃあ私も、祐一のことだいぶ美化して見てるのかな」
「そうかもしれないね――もう寝よう。明日起きられないよ」
私は祐一に身を寄せたまま、目を閉じた。少し暑かったが、離れたくなかった。
「愛してるわ」
おやすみの代わりに告げて、答えを聞かぬまま、私は眠りに落ちた。
殺してやればよかった。別れるくらいなら殺してやればよかった。
私を裏切って、他の女の所へ去ってしまったあの男。
息の根を止めて、誓いを守らせればよかったのだ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――捨てられるなんて嫌だ。彼がもういないなんて嫌だ。帰ってこないなんて嫌だ。
それなのに私ひとりで生きていかなくちゃいけないなんて絶対に嫌だ。
どうすればいい? 私はどうすればいい?
相馬家が隣室に引っ越してきてちょうど一週間経った金曜日の夜は、激しい雨が降っていた。
帰りに祐一のワイシャツを買ってきたので、いつもより帰宅が遅くなってしまった。私が濡れたジャケットをハンガーにかけ、バッグの水滴を拭き取り、ようやく食事の支度に取りかかろうとした時、壁の向こうから荒々しい物音が聞こえてきた。
私は米を研ぐ手を止め、キッチンの壁に耳をつける。しのつく雨がガラスを叩く音で、声までは分からない。ただ音というより何かが叩きつけられる衝撃が伝わってきた。
尋常ではない、と私は直感した。分譲マンションの分厚いコンクリート壁を通して響いてくるなんて、相当の力が加わっている証拠だ。
音と衝撃は断続的に何度も伝わってきた。床を踏み鳴らすような音もする。
私はしばし逡巡したが、つけたばかりのエプロンを外して、玄関から外に出た。
廊下に出ると、物音はいっそう大きく聞こえてきた。もちろん三○二号室――相馬家からだ。重量のある家具が倒れる音、食器の割れる音、床に何かが打ちつけられる音。すべてが先日の騒動の時よりも激しかった。
「おまえのせいで俺は……! 何が俺の子だ! 嘘ばっか吐きやがって!」
「何でそんなこと言うのよ!? カズくんやめて! 向日葵が……!」
「いい加減にしろよっ……!」
和志の罵声も綾香の悲鳴もはっきりと聞き取れる。
あまりの騒乱に、反対側の三○三号室のドアが開いて、住人が不安げな顔を覗かせた。このマンションの新築当初から入居しているという老夫婦だ。
「何なの? 凄い騒ぎ」
「相馬さんの所が喧嘩してて……旦那さんが暴力を振るってるみたいなんです」
「まあ」
奥さんは口を押さえて、険しい表情のご主人を見やる。
「すいませんが、警察に連絡してもらえませんか? 小さい子がいるのに、取り返しのつかないことになったら……」
私がそう言うと、奥さんは今度は首を傾げた。
「相馬さんのお宅にお子さんなんていたかしら? ご挨拶にみえた時も、ご夫婦二人だけだったと思うけど」
「とにかく電話しよう。菅原さんも危ないから近づくんじゃないよ」
ご主人は慌てて部屋の中に引っ込み、奥さんもそれに続いた。
近づくな、とは言われたが、私は居ても立ってもいられず相馬家の玄関ドアに手を掛けた。
その時――ドスン、と何かが床に落ちる音がして、私の心臓が大きく跳ねた。
ひときわ異様なその音を最後に、いきなりドアの向こうは静かになる。雨の音だけが薄暗い廊下に染み渡ってゆく。
何かの予感を覚えて、私の心音はどんどん大きくなった。鼓膜の奥が痛み、全身から冷たい汗が噴き出した。
握っていたノブが動いて、ドアは向こうから開いた。
「美由紀さん」
姿を見せた綾香は、私を見てうっすらと笑った。目元が切れ鼻からは血が流れ、酷い有り様だ。
しかしそれよりも、私は彼女の胸元を見て声を上げた。
胸部から腹部にかけて、花柄のTシャツが真っ赤に染まっている。生臭い鉄のような臭いが、湿度を含んだ空気に混じって鼻を突いた。
「私、あの子を守ったんですよ。俺に子供なんかいない、なんてカズくんが言うから」
「あっ、綾香さん、あなた……」
「でもどうしてだろう、あの子がいないんです。一緒に向日葵を探してもらえませんか?」
彼女は私の手を握った。その掌にもべったりと赤い液体で濡れていて、不快なぬるさに肌に粟が立った。
足が竦んで動けない私を、綾香は物凄い力で引っ張って中へと連れ込む。私はつっかけてきたサンダルを脱ぐ余裕もなく、部屋に入って行った。
短い廊下を進むと、突き当りにダイニングキッチン。うちと同じ間取りなのに、照明や家具の配置が違うとずいぶん雰囲気が異なって見えた。ただし、テーブルは倒れ、食器類は足の踏み場もないほど床に割れ、嵐が通り過ぎた後を思わせる惨状だった。
「こっち」
綾香に促され、ダイニングに入った私の目に、繋き部屋になっているリビングの光景が飛び込んだ。
八畳ほどの部屋は、ダイニングと同じくめちゃくちゃに荒らされている。ダッシュボードが斜めになってテレビが落下したフローリングの上に、和志が俯せに倒れていた。
ソファから毟り取ったらしい緑色のギンガムチェックのカバーを右手で握り締め、左手をこちらに向かって伸ばしている。その姿勢のままピクリとも動かない。彼の上半身は着ている服の色が分からないほど朱に染まり、身体の下には同じ色の水溜りができていた。
奇妙な静止画を、暖光色の蛍光灯が平坦に照らし出している。私はどうしても現実感が湧いてこなくて、はあ、と気の抜けた声を出した。
「そこ、気をつけて下さいね」
綾香の言葉に足元を見ると、サンダルを履いたままの爪先の数センチ先に、真っ赤に濡れて光る包丁が――。
それでようやく我に返って、私は後ずさった。引っ繰り返ったダイニングテーブルにふくらはぎをしたたか打ちつけ、食器の散乱する床に尻餅をつく。
「ひまわりー、ひまわりー、もう大丈夫よ、出ておいでー」
綾香は優しく呼びかけながら、動かない夫の身体を跨ぎ、ベランダへ繋がる窓を開ける。雨の音が激しく聞こえ始めた。向日葵がそこにいないと見ると、次はダイニングへ戻って、寝室らしき部屋のドアを開く。
「おかしいな……ひまわりー」
彼女は廊下の方へ戻って行った。洗面所や風呂場を探すつもりなのだろう。彼女の通った後に、赤い足跡がペタペタとついた。
まるで、外で遊んでいる子供に夕飯の時刻を告げるような明るさで、綾香は娘の名を呼び続ける。しかし向日葵は姿を現さなかった。私は呆然と座り込んだまま何もできない。
雨音を斬り裂いてパトカーのサイレンが聞こえてくるまで、私はその場を動けなかった。