表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ひまわり  作者: 橘 塔子
1/3

其の一

 目の前の男は、泣きそうに顔を歪めて私に詫びていた。実際に泣いているのかもしれない。きつく眉根を寄せ唇を小刻みに震わせる。

「ごめん、本当にごめん……君には悪いと思ってる。こんなことをしでかして許してもらおうなんて、考えてない。君にどんなに罵られてもしかたがないけど……せめてできるだけの償いはする」

 テーブルを挟んで向かい合ったその男は、沈黙を恐れているのか次々と謝罪の言葉を繋いだ。

 私は唖然としてそれを聞いている。言葉の意味は分かるのだが、どうしても脳が解読してくれない。首から上の皮膚が固まって、ひたすら男を眺めることしかできなかった。

 男は動けない私に止めを刺すように、テーブルに両手をついて深く頭を下げた。

「頼む、別れてくれ。僕は……どうしても父親になりたいんだ」





 梅雨入り直前の夜気は、濃密な湿度を含んでいる。混んだバスから降りた私は、肌に貼りついたブラウスの襟元を扇いで風を通した。

 バス停から自宅のマンションが見える。三階角部屋の我が家の窓は当然暗かったが、その隣の部屋の窓に灯りが点いているのに気づき、

「あれ」

 私はそう声を出した。

 最寄駅からバスで十五分かかる便利とは言えない立地の、築二十年のマンション。中古でここを購入した一年前から、隣室はずっと空き部屋だった。もっと駅に近い所に新築物件も多く存在するので、その部屋はこの先も買い手がつかないのではないかと思っていた。それなのに何の前触れもなく住人が入ってしまって、私は意外な気がした。

 部屋の見学に来た気配もなかったのに、と怪訝に思ったが、考えてみれば私も夫も平日の昼間は仕事に出ているので、その間に不動産屋や購入希望者が来ていたとしても知るはずがないのだった。

 新しいお隣さんがいい人だといいけど――私はそう考えながら、マンションの敷地に入り、何も植えられていない花壇の傍を通ってエントランスに向かった。

 古い三階建て低層マンションのため、エレベーターはない。この辺も価格が安かった要因のひとつなのだが、疲れて帰って来た時はきつかった。金曜日の今日は帰りの電車もバスも混んでいて、座ることができなかった。

 肩に食い込むバッグの重みを感じながら、私は素っ気ないコンクリートの階段を昇っていった。やはり空気はむっとしていて、背中に汗が滲む。

 二階と三階の間の踊り場で、私は足を止めた。数段上に、小さな女の子が腰掛けていたからである。

 年の頃は四、五歳だろうか。蛍光灯の無機質な光の下で、オレンジ色のジャンバースカートが目に鮮やかだ。スニーカーを履いた小さな足をぶらぶらさせながら、手には大事そうに猫のぬいぐるみを抱えている。

 時刻はすでに夜の八時を過ぎている。こんな時間にこんな場所でこんな小さな子が何をしているのかと気になって、私は女の子の前にしゃがみ込んだ。

「こんばんは、お嬢ちゃん」

 視線を合わせて、私は話しかけた。女の子は首を傾げる。ふっくらしたまん丸い顔と少し垂れた目の、とても可愛い子だ。艶々した髪を肩の長さで切り揃えている。

「こんな所で何をしているの? お母さんは?」

 怖がらせないようなるべく優しく尋ねたが、無用の心配だったようだ。彼女は黒い瞳に明らかな好奇心を湛えて、私をまじまじと見つめ返してきた。思わず笑みが零れる。

「お名前は?」

「ひまわり。そうま、ひまわり」

 茶トラの猫のぬいぐるみをギュッと抱き締めて、彼女は愛らしい声で答えた。利発さを感じさせる明瞭な発音だった。

「ひまわりちゃん? 可愛い名前ね」

「おばちゃん、だあれ?」

「おばちゃんはねえ、すがわらみゆきといいます。ここの三階に住んでるのよ」

「だったらあたしとおんなじだ!」

 彼女は名前に相応しく、明るく弾けるような笑顔になった。

 その時、頭上で足音が湧いて、私は顔を上げた。

「ひまわり! こんな所にいたの」

 階段を上った先、三階の廊下にジャージ姿の女性が立っていた。二十歳代前半くらいの若い女性だ。少なくとも、私より十歳は下に見える。ほっそりした美人だが、蛍光灯のせいか、少し顔色が悪く見えた。

「駄目よ、勝手に出て行っちゃ。お母さん心配したじゃない」

 女性は安堵の表情を浮かべ、階段を降りてくる。この女の子の母親らしい。

 女の子はぴょこんと立ち上がって母親を迎え、母親は私に頭を下げる。長い茶髪のギャルママっぽいルックスだが、その仕草は意外ときちんとしていた。

「うちの子がご迷惑おかけしちゃったみたいで……」

「いいえ、賢いお嬢さんですね。ええと、もしかして三〇二号室に越してきた方?」

「はい……あ、お隣の方ですか?」

 彼女は纏わりついてくる娘と手を繋いで、もう一度頭を下げた。

「今日引っ越して来ました、相馬といいます。昼間にご挨拶に行ったんですけど、お留守だったので」

「私も旦那も仕事をしているから、留守にしてることが多いの。三○一の菅原です。よろしくお願いします」

 私も立ち上がって挨拶をした。

「お子さん、ひまわりちゃんっていうのね。何歳?」

「四歳なの。人見知りで……初めて会った人に名前が言えるなんて、本当に珍しいです。ねえ、ひまわり」

 頭を撫でられて、ひまわりははにかんだ笑みを浮かべる。今さらのように恥ずかしそうに母親の背中に隠れ、それでも興味深げにこちらを眺めた。

 その子供らしい姿と表情に、私の胸の中がほんわかと温まった。

「主人と三人暮らしなんですけど、荷物が片付くまでしばらくうるさくしてしまうかもしれません。音が響くようだったら言って下さい」

「気にしなくていいのよ。うちは主人と二人。何かあったら相談してね」

 話しながら階段を上る。廊下の突き当たりが私の自宅で、隣の部屋の玄関前には大量の段ボールが積んであった。昼間のうちに荷解きを終えたのだろう。

 その玄関ドアが少し開いて、中から若い男性が顔を覗かせた。白いTシャツとジャージの、日焼けした精悍な印象の男性――相馬家のご主人らしい。

「隣の菅原です」

 私が挨拶すると、彼は、ああどうも、とだけ言って小さく頭を下げる。それから、

「何やってんだよ、綾香。早く手伝えよ」

 と、不機嫌そうに告げてさっさと引っ込んだ。

「ごめんなさい、挨拶とか苦手な人で……ひまわり、帰ろうね」

 彼女――相馬綾香は申し訳なさそうに私に詫びて、娘の手を引いて部屋に入っていった。

「おばちゃん、またね」

 ひまわりは片手にぬいぐるみを抱えたまま、小さく手を振った。





 私は男に向かって泣き叫んでいいる。

 私を裏切ったの!? ずっと一緒にいようと約束したのは嘘なの!? 

 男は激高する私を辛そうに見詰めるが、その表情は本心ではなく意識的に作られたものだと、私はすぐに気づいた。彼の優しさと言えるかもしれない。それがかえって私を傷つける。

 嘘吐き! 最低! 死ねばいい!

 どうして私じゃなくてあの女なの!?

 長い長い私の罵詈雑言をすべて受け止め、しばしの沈黙の後、男は疲労の籠った溜息をついた。

「彼女は、僕の子供を産んでくれる――君と違って」





 肩に温かい掌が触れて、私は浅い眠りから醒めた。

「ただいま。こんな所で寝てると風邪ひくよ」

 リビングのソファでうたた寝をしていた私を揺り起こして、祐一は優しい笑みを浮かべる。ストライプのシャツと濃紺のスラックス姿――今帰宅したところなのだと分かって、私は慌てて身を起こした。

 時計を見ると二十三時前だった。つけっぱなしにしていたテレビの画面では、二時間ドラマのエンドクレジットが流れている。

「ごめん、寝ちゃってた。おかえりなさい」

「遅くなってごめんな。あれ、ごはん待っててくれたの?」

 祐一はダイニングテーブルを見て嬉しそうに言う。

「お、うまそうな茶碗蒸し!」

「電子レンジで簡単に作れるのよ。冷凍だけど海老を入れたの。食べる? 着替えて」

 少しくたびれた彼の襟元を見て、そろそろ新しいシャツを下ろしてあげないとな、などと考えながら私は味噌汁の鍋に火を入れた。

「隣、人が入ったみたいだな。電気が点いてた」

 緩い部屋着の上下に着替えた祐一は、テレビを消してからテーブルについた。

 お隣はずいぶん頑張って荷物を片づけていたようだ。食事を作っている間ずっと、壁の向こうからガタガタと音が響いてきていた。さすがにこの時間は静かになっているが、人の気配が近くにあるのは意外に悪くなかった。

 このマンションに引っ越してきてから、隣室に人が入ったことはなかった。だから、静けさに慣れた自分は他人の生活音に神経質になっているのではと心配していたのだ。

「うん、相馬さんって人。賃貸なんだって」

「へえ、なかなか買い手がつかないから、賃貸で出したんだね。会ったの?」

「私が帰って来た時にちょうど奥さんが廊下に出ててね。若いご夫婦と、女の子が一人。向日葵ちゃんっていう」

「うわ、イマドキな名前だなあ」

「可愛い子なのよ。四歳だから幼稚園児かなあ。ちょっと甘えんぼさんでね。ああいう子がいたら楽しいだろうな」

 何気なく口を突いて出た言葉に、特別な響きが混じってしまったのかもしれない。祐一は食べかけた茶碗蒸しから箸を離して、切れ長の目を穏やかに細めた。

「あ、ごめん、気にしないで」

 急いで首を振った私に、

「美由紀――ずっと二人で仲良くしような」

 と、何度目か分からない言葉を告げる。優しく、真摯に。

 この人は本当に優しい。結婚して十年間ずっと、変わらぬ愛情を私に注いでくれる。仕事が忙しくて毎日帰りが遅くても愚痴ひとつ零さず、反対に私が寂しい思いをしていないか気遣ってくれる。

 私もまた彼が大好きだった。生活の一部どころか、まるで自分の一部のようにその存在を受け入れているけれど、こうした思いやりに触れる度、胸の奥が甘く震える。

「何言ってんのよ、三十六にもなって」

 私は照れて、湯気の立つご飯を口に運んだ。長く保温した白米は多少味が落ちていたが、こうして二人で摂る食事は楽しく美味しい。

「明日は映画に行こうか。美由紀が観たいって言ってたの、明日から公開だろ?」

「ほんとに!? じゃあお昼はイタリアンがいいな」

「えー、僕はラーメンがいい」

 祐一はわざとらしく私の提案に反対する。

 土曜日はいつも二人で外出するのだが、昼食がなかなか決まらないことが多かった。今夜中に、明日の計画を練らなければならないだろう。

 優しい夫がいて、中古とはいえ我が家があって、仕事ができて、私は本当に幸せだ。これ以上、何を望むことがある?





 週末は隣室の家族も外出していたらしく、顔を合せることはなかった。

 あの利発で可愛らしい少女が廊下やエントランスで遊んでいるのではないかと期待したが、姿は見られなかった。早く友達ができればいいけれど、このマンションに同じ年頃の子供はいただろうか、などと余計な心配をしてしまう。

 梅雨入りが発表された月曜日、しとしとと細い雨が降る中、私はいつもと同じ時刻に帰宅した。濡れたパンプスを気にしながら階段を上る。帰ったら水分を拭き取って乾かしておかないと。

 三階まで上りきった途端、人の声が耳に届いた。

 男性の、怒鳴るような荒々しい声。ひどくくぐもっていて、途切れ途切れにしか聞こえない。外ではなくどこかの部屋の中から聞こえてきているのだろう。

 異様な雰囲気を感じて足を止めた私は、廊下を見回してさらにぎょっとした。

 三〇二号室、相馬家の玄関の前で、向日葵が立ち尽くしていたのだ。

 ピンクのTシャツと白いキュロットスカートを着た彼女は、先日と同じ猫のぬいぐるみを腕に抱いて、数歩離れた位置から閉じられたドアをじっと眺めている。

「向日葵ちゃん……どうしたの? お家に入らないの?」

 私が近づいて声をかけると、勢いよく振り向いて、

「みゆきおばちゃん……たすけて!」

 と、私の腰の辺りにしがみついてきた。

 私のスカートを握り締める小さな手は震え、細い肩は強張っている。全身で怯えた感情を表す向日葵を、私は反射的に抱き締めた。

「ふざけ……なよ! おまえ……そつき……やがって……!」

 予想通り、怒声は三○二号室から聞こえてきた。

「……めて、……くん、違う……」

 泣くように訴える女性の声に続けて、バタンガタンと重い物のぶつかる音。ガラスか磁器が割れる音――か細い声は悲鳴に変わる。

 ドアの向こうで行われていることはたやすく想像できた。私はぶるぶる震える向日葵の頭を腰に押しつけたまま、その場から動けなかった。

 だしぬけにドアがこちらに向かって開いた。飛び出してきたのは相馬家の奥さんだった。長い茶髪は乱れに乱れ、ボーダー柄のカットソーの胸元が大きくはだけられていている。

 彼女は裸足のままつんのめりそうな勢いで外に出てきて、私に気づいて驚愕の表情を浮かべる。髪の毛の貼りついた頬は赤く腫れて、唇の端には血が滲んでいるようだった。

 母親の方へ行こうとする向日葵を引き止め、私は咄嗟に彼女の手首を掴んだ。

「菅原さん……!」

「早く、こっちへ」

 私は母子を引き摺るようにして自分の部屋の前へ連れて行って、急いで鍵を開けた。

「おい! 綾香! 待てよコラ!」

 怒鳴り声とともに彼女の夫が姿を現したが、私は強引に二人を中へ押し込んだ。

「何してんだよオバサン! あんたに関係ねえだろ!」

「あっ、あなたのやってることは暴力です! これ以上何かしたら警察呼ぶわよ!」

「ふざけんなよ、おいっ……!」

「子供にまで怖い思いさせて、恥を知りなさい!」

 夫が大股でこちらに近づいてきたので、私は急いでドアを閉めて鍵とチェーンをかけた。

 ドアが激しく殴られ、荒々しく振動する。私は、玄関ホールで立ち竦む母子と身を寄り添わせる。

「帰ってこい! 綾香コラ! 何が子供だ! おい!」

 彼は喚きながらドアを殴り、蹴飛ばしてもいるようだった。私たちは電気も点けずに、暗い玄関でじっと息を潜めていた。向日葵は母親に抱きついて震えていたが、母親もまた震えていたので、その小さな存在感は薄闇のなかでひどく弱々しかった。呼吸すら、自分のものか彼女らのものか分からなくなる。

 気が遠くなるほど長い時間に思えたが、実際は数分で終わったのだろう。やがてドアは鳴らなくなった。諦めたのか、彼がぶつぶつと毒づきながら立ち去る気配がした。

 それでもしばらく様子を窺ってから、私は大きく息を吐いた。照明のスイッチを押す指が滑稽なほど震えている。

「……もう大丈夫よ。上がって」

 彼女は向日葵の肩を擦り、小さく肯いた。その目元には涙が溜まっていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ