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3つの言葉

3つの言葉「千日紅」@丹羽庭子

作者: 丹羽庭子



 「本気ですか?」


 「冗談言ってると思う? だったらもっとマシなセリフ使うわ。イメージ降りてこない限り書けません」


 ――時間ないんだよ! いつもいつもいつも!!

 


 堀池――堀池達也、二十三歳。駆け出しの編集者。それが達也の肩書きだ。

 まだ先輩のパシリ程度、それこそ『体で覚えろ』というまさに体育会系の職場だとは、募集要項を読んだ際も面接の際もついぞ思わなかった。名の知れた出版社に就職できるとあって、郷里の親は肩の荷が下りた、好きにしろと東京に行くのも簡単に許可が下りた。達也が次男だったせいもある。

 実家は商売をしていて、兄の修也が稼業を継いで嫁も貰って孫もいるから、別に達也がいてもいなくても実家はすべてが成立している。


 首都の家賃で魂が抜け、同程度の金額の月極駐車場に心が折れ、都会に住むという浮ついた心はぺしゃんこに潰れて、一ミクロンの薄さになり風に飛ばされどこかへと消えていった。

 現実は、厳しい。

 幸い都会では電車もバスも交通機関が充実してるので、車は必要ではない。どうしてもの時はレンタカーを借りれば事足りる。そして大学時代に使う暇の無かったバイト貯金と、修也からの纏まったお金があったからアパート契約と引越しはすんなりと終わった。給料日は月末だが、当面の生活資金はこれで充分賄える。

 「追い出したようで悪いな」と、厚みのある茶封筒を達也に渡した修也は、そんな言葉を乗せた。修也は修也なりに弟の事を気遣っていたようだ。だが「利子はつけないから、早めにな」というのは鬼ではないだろうかと達也は思う。つまりキッチリ耳を揃えて返せということだ。

 別に嫁さんが怖いとか修也がケチとかいうのではなく、商売人として金には綺麗でありたいそうだ。兄が継いで正解だと達也はしみじみと思った。


 


 「いつまで待てば良い?」


 「すすすすすみません! すぐ、今すぐに取りに行ってきますから!」


 泣く子も黙る鬼の編集長が、禁煙をしてからずっと手放せない棒付き飴を手でクルクル弄びながら、苛立ちを隠そうともせず不機嫌に達也へせっついたのは昼下がりの事。

 本来ならペーペーのヒラッヒラの新米編集の達也が担当する事ではないが、ある作家担当の先輩編集者がぎっくり腰をやらかして急遽休みになったからだ。

 締め切りをとうに過ぎ、校正印刷その他考えればすでに時間単位のかなり厳しい状況で……。

 達也はその先輩に原稿引取りを一任されてしまったのだ。

 『誰にだって、初めてはあるさ』

 とのよく分からない励ましを貰い、編集長の許可も下りて達也がその作家の尻を叩きに行くという無謀ともいえる仕事の采配だ。他にも多くの編集者がいるのに何故僕なのかと達也は訝しんだが、理由を聞こうにも誰も彼もが達也と目をあわせようとしない。

 ――ひょっとして、アレな人なの……か?

 それならば、ヒヨッコの達也に振られるのも分かる。恐らく相当に個性の強い作家なのだ。


 『敵を知るにはまず作品から』

 そう思い、達也は会社の書庫にある数々の出版本から件の作家が書いた小説を探す。


 ――みやじ……みやじ……あった、みやじ涼。


 ペンネームだと思うけれど、平仮名表記の苗字は柔らかさを感じる。淡い色で装丁された本を何冊か手に取り、再び自らの机へ向かって一ページ目を捲った。




 そして、編集長の苛立ちの声を投げつけられるまで、時間を忘れて没頭していたのだ。

 椅子から飛び上がって手当たり次第ビジネスバッグに放り込み、「行ってきます!」と編集部から駆け出した。


 時間も景色も思考も、何もかも奪われるほど、面白い。


 みやじ涼という作家を、今まで知らなかったのが不思議なほど心を鷲掴みされた。

 編集という職種を選ぶほど小説が好きで、読み始めた小学三年生からずっと文字を追ってきた達也だったが、これほどまでに魅了されたのは久々だ。図書館が第二の故郷と言っていいほど通いつくし、顔なじみになった司書に進められるままありとあらゆるジャンルを制覇して。

 この作家は三年前にデビューしたまだまだ新人と言ってもいい位置におり、特に賞を取ったとか知名度があるわけではない。現に達也は知らなかった。

 これから原稿を取りにいくにあたってどんな人物かを知る為に、小説をザッと目に通そうと思ったのに最初の一行目から目が離せなくなってしまい……。


 達也は悔しかった。何故この作家を知らなかったのか。

 早く会いたい、この作品を産みだした人物に。

 早く会いたい、読了したばかりの興奮した僕が感想を直接作者に伝えるために。

 そう思った達也は、我知らず小走りになって目的地へと急いだ。


 

 みやじは、ホテルに缶詰されていた。

 そりゃそうだ。もう本当に時間が無いのだから。編集部に程近く印刷所も徒歩圏内だから缶詰作家への好立地なこのホテルは、本来使いたくはないがほぼ日常的に会社御用達として使われている。

 作家のタイプによるが、喫茶店、ファミレス、自宅の方が進むのならそうしている。しかしここに詰められるのは、生活全ての雑音があったり、集中力散漫タイプだったり、本当に時間が厳しかったり……まれだと思いたいが逃亡癖があったりする作家だけだ。

 さて、みやじ先生はどのタイプだろうか。できるならば時間が厳しいだけであって欲しいと願いながら、達也はビジネスホテル十七階、角部屋の呼び出しボタンを押す。

 程なくして、チェーンを掛けた状態で内側へ開けられたドアから覗いたのは……。


 「……だれ?」


 ちょ、まって。

 

 「――みやじ、先生ですか」


 辛うじて喉から滑り落ちた達也の声は少し上擦っていた。


 「あ、はい、そうですけど。――それよりも質問に答えて頂けませんか? あなた、だれ?」


 「はっ、す、すみません。僕は山鳩出版の堀池と申しますっ。担当者の代理で原稿を受け取りに参りました!」


 完全に混乱した脳内だけれど、ここまで来る途中何度も復唱した台詞は辛うじて搾り出せた。なんだ、僕、思いっきり勘違いしてた……。


 「あー……はい。まだ出来てませんが……もし待たれるなら適当にどうぞ。でも邪魔だけはしないでくださいね?」


 怪しんだ割にアッサリとチェーンを外して室内に通された。達也は初っ端の衝撃から未だ立ち直れないまま、よくあるシングルルームの奥へと歩を進める。

 缶詰目的なので、机、椅子、ベッド。そして出入り口付近のドアにはユニットバスがある、最低限の機能だけが備えられた部屋だ。

 余分な椅子は一つもないのでベッドに座ろうかと思ったけれど、作家本人を知った今時分アッサリと腰掛けるには気が引ける。仕方なしに窓際に立ち、景色を眺めた。ここからは達也の会社がよく見える。ある意味作家に対してプレッシャーになるかもな、と達也は思った。


 ――みやじ涼は、女。

 

 しかも、超が付いて差し支えないレベルの美人だった。

 青山、代官山、表参道、白金……その辺りのハイソな雰囲気が滲み出る、まるでこの場所に似つかわしくない洗練された格好の女性。達也が思わず二度見したほどに。

 扉を入り横をすり抜けた時にふわりと香る柑橘系の香りが鼻腔を擽って、達也はこの女性があの『みやじ涼』だとはどうしても思えなかった。

 

 「原稿ですけど、あとどのくらいで仕上がりますか?」


 「ええっと……? 御免なさい、全く読めません」


 サラサラと紙の上を滑るペンの音だけが響く室内。しかし仕上がり時間が気になり尋ねると、能天気とも取れる軽い返事が返ってきた。


 「目処も立っていないのですか?」


 「はい。どうにもイメージが湧かない箇所がありまして……」


 「イメージ、ですか」

 

 「正直、落ちるかもしれませんね。ふふっ」


 「困ります!」


 椅子に腰掛け今時珍しい手書きの原稿用紙を前にして、まるで他人事のように笑うみやじへ達也は思わず声を荒げた。

 ついさっきまで、この人のえがく世界観にどっぷりと浸っていたからかもしれない。初対面で、しかも作家の先生へ感情を露わにするなど――いち編集者の、更に代理の達也には出すぎた事なのに。


 「僕、先生の作品がとても好きなんです! つい先程、先生の著作物である『千日(せんにち)()う』読みました! 冒頭一行目からこんなにも目を奪われる小説だなんて素晴らしい。僕にとっては一生モノの宝になりました。もし僕が死んだらこの小説を一緒に棺桶に入れて天国へ持って行かせてと遺言書きたいほどに、思いっきりもってかれました! だからそんな軽く落ちるって言わないで下さい。落ちるってつまりそのお話が世に出ないんですよ? 僕は我慢なりませんから絶対に仕上げて下さい!」


 興奮しすぎて荒く息をついて、ハッと我に返った。僕、いま何を言った……?

 達也は一瞬ギュッと目を瞑り、大きく息を吸い込んで恐る恐るみやじを窺うと、こちらをぽかんとした表情で呆けていた。


 「あ、の……先生?」


 うわ、引かれたかな。達也は感情が高ぶるとついペラペラと余計なことまで喋るきらいがある。これで相手に引かれたことは何度もあるから自重していたのに、つい直近の胸が弾む小説を読んだがために箍が外れてしまった。

 みやじは口をぱかっとあけて、こちらを目が点になりながら達也をぽやっとみていたけれど、やがてみるみる間に顔が赤く染め上がり「きゃああああっ」っと叫んでベッドの掛布に頭から突っ込んだ。


 「やだやだっ! ちょっと、悶え死させるつもり?!」


 「ちょ、先生?」


 「ばか!」


 「ばかって!」


 手で掛布を押さえているけどその手すら赤くなって、こう言ってはなんだけれどやけに可愛らしい。巻末のプロフィールには達也より三年前の誕生年が書かれていた。つまり今現在二十五歳。

 初心な態度に、少し余裕を取り戻した達也はひとまずみやじを落ち着かせる事にした。


 「先生、すみませんでした。目の前で言われるのって好意的でも恥ずかしいものですよね。僕が悪かったです。本心からの言葉でしたが、これからはちゃんと手紙かメールで伝えさせて下さい」


 力の限り掛布を握っていたみやじの手が、すこし緩んだ。


 「しかし先生は大人ですよね? 悶えるのもいいですが、仕事してください」


 「――――――鬼っ!」


 布で覆われた先生の声は、くぐもって聞こえた。



 

 あれから達也は『みやじ涼』専属の担当となった。


 ――どこへ行かれるんですか。

 ――ちょっとそこのコンビニへ……?

 ――なぜ疑問形なんですか。何を買いに……糊? 持ってますよ。はい、なんでも揃えてますのでチャッチャと書いてしまいなさい。


 ――お風呂に入りたいです。

 ――はいどうぞ。

 ――いえ、恥ずかしいので外して欲しいのですが……。

 ――僕は恥ずかしくありませんからどうぞ。ていうか、その手は二度もくいません。どうせまたその隙に脱走するのでしょう? くだらない事やってないで机に向かって下さい。


 ――眠い……。

 ――いくらでも寝ていいですよ。ただし書き上げたらですが。


 

 みやじは逃亡癖のある作家だった。故に缶詰を余儀なくされたらしいのだが、当初達也には全く知らされていなかった。しかし代理の原稿取立てが意外にもうまくいったため、鬼編集長が配置換えを決めて、正式に達也の初担当作家が『みやじ涼』と任命された。


 ――ファンならば直接伝えればいいだろう?


 純粋にみやじのファンだと公言を憚らず、しかし作家本人には読了後に手紙をしたためて手渡すという達也の行動は、同僚の編集には不思議に思われていた。

 しかし達也は初対面の折に、今時の女性としては珍しくスレてない態度がとても新鮮に感じられていた。みやじ先生の意に沿わぬことはしたくない。その一心で自分でもどうしてそこまで傾倒しているのか分からない程、雑誌掲載の連載を読んだ、新刊を読んだ、と毎度毎度便箋に何枚にも渡って感想を綴った。

 決して見目の美しさに心奪われたからではない。いや……それは多少上乗せされているかもしれないが、達也の『みやじ涼』への敬慕は、まさにあの一冊から始まったのだ。




 ツー、ツー、ツー……。


 またか。

 達也は耳に当てていた携帯電話をパチンと閉じてバッグにしまい、一速にギヤを入れた。社用車を借りたのは、電車やバスで向かうには時間がかかりすぎる潜伏先への奇襲の為だ。

 今達也がいる場所はみやじの住まうマンション駐車場。居留守かどうか確認する為にとりあえず寄ったのだ。住宅街から大通りに抜け、郊外へ向かい次々とギアチェンジしながら車を走らせ、首都高に乗り東名高速道路へ入る。特に渋滞もなく順調だったけれど、海老名サービスエリアで一旦休憩を入れた。

 車を降りるとやはり久々の運転のせいか、首がガチガチに凝っていた。あーもー、僕何してんだろな。

 自動販売機で缶コーヒーを買い、ベンチに軽く腰を掛けてプルトップを倒す。ひっきりなしに車が出たり入ったりする駐車場を、達也はボンヤリと眺めた。


 ――先生がまた消えた?

 ――そうだ、また、だ。お前居場所わかるか?

 ――は、あ……。心当たりは、あるにはあります。

 ――じゃ、行ってこい。

 ――へ?


 達也を呼び出した鬼編集長は、ポイと社用車のキーを放り投げ、イライラしながら棒付き飴のセロハンパッケージを外す。しかしうまく外す事ができずに「くそっ!」と言い捨て飴は机に叩きつけられた。

 二年前から禁煙したり失敗したりの繰り返しで、結局煙草を止められない編集長。そんな機嫌の悪さを周囲に当り散らすならいっそ吸えばいいのに――なんて地雷を踏んで集中砲火を受ける趣味を達也は持っていない。触らぬ神に祟りなしとばかりに「じゃあ行ってきます!」と、山鳩出版に勤める人間の動向が一覧できる、ホワイトボードの自らの名前の横に『作家捜索のちに直帰』と書きなぐって社を後にした。


 ――あれから、二年か。


 再びハンドルを握り、サービスエリアから下り方面の本線へ合流を果たす。

 あれから二年。

 達也は二十五歳になり、そこそこ仕事ができるようになっていた。達也はみやじ涼の担当をしていたけれど、この二年の間にみやじは様々な賞を取った。それこそ売れっ子作家の仲間入りを果たしたみやじには、ベテランの編集者が付くことになった。それだけが理由ではないが、達也は『みやじ涼』専属担当のお役御免となったのだ。

 しかし変わらず続けているのは、感想を書き連ねた手紙。

 一ファンとして、みやじの連載や書籍、そしてどこかに対談が載った、またはだれかの作家へコメントを書いたなどと耳にすれば、それについても手紙に毎回したためた。

 返事は一度もないが、こればっかりは正直自己満足な塊を送りつけている自覚がある為、達也はそこまで求めていない。


 大井町田のジャンクションから小田原厚木道路へ入る。オフシーズンで平日の為か、渋滞が無いのは大変ありがたい。空気を入れ替えようと窓を開ければ、ふわりと潮の香りが漂ってきた。

 半島を南へ海岸線をクネクネと道なりに走らせ、見えてくるのは――。


 静岡県伊東市。

 静岡県東部の伊豆半島の東に位置し、相模灘に面した静岡県有数の温泉観光都市である。別荘も数多く点在し、首都圏に住まう人達なども余暇を楽しむ温暖な気候の地域だ。

 国道135号を右に折れ、山に向かって車を走らせる。達也にとって約一年振りとなるこの道のりは、未だに体が覚えている。

 そして鬱蒼とした木々に囲まれたある一軒の家の前で車を止め、サイドブレーキをかけた。東京を出たのが昼過ぎだったが、オレンジ色が濃くなった夕焼け空に時間を教えられる。おそらくこれからつきっきりで執筆作業を見守らねばならないだろう今夜を思って、少し前の自分の様にありとあらゆる準備はしてきたつもりだ。


 車内からちらりと建物の様子を窺うと人の気配が感じられた。二階の大きく開いた窓には、ゆらりとカーテンが潮風に揺れていた。あの二階から望む景色はとても素晴らしい。朝日が昇る相模灘が一望でき、海から山へ駆け上がる潮風も心地いいのだ。

 達也は懐かしくも少しチクリと心が痛みながら、車を降りた。そして勝手知ったる様子で玄関脇の鉢植えの、奥から二番目を持ち上げ隠されていた鍵を取り出す。一戸建ての別荘は、『みやじ涼』としてデビューして五作品目で手に入れた中古物件だった。そしてそれを知っているのは、みやじ本人と――――達也だけ。


 この時代ついぞみない回転式の鍵穴に鍵を回しいれ開錠し、千本格子の引戸をカラカラと戸車の音を立てながら横へと滑らせる。おそらくここにみやじが来たのは三日前。『書けない』自分から逃亡する為にこの別荘へとたどり着き、そして机に向かう事ができず掃除に明け暮れたのだろう。そう読み取れるほど玄関や廊下のどこもかしこも掃除が行き届いていた。玄関で靴を脱ぎ、框を上がった所で飴色の廊下がギシ、と音を立て相手の存在を知らしめる。


 「どう……して……?」


 信じられない。その言葉を顔に張り付かせ、口に手をあて目を見張るのは……。


 「お久し振りです、先生。また脱走ですか?」


 複雑な胸中は心の隅に押し込め、ニッコリと笑って挨拶をした。


 「いけませんね。担当だけには所在を明らかにしていただかないと」


 「……」


 「ただでさえ、先生は担当をちょくちょく変えると有名なんですから。先月変わったばかりの同僚も、先生はたまにふらっといな――」


 「何で来たの」


 達也の言葉を遮るように声をあげたのはみやじだった。鋭く切るような声に、達也は思わず口を閉ざした。


 「どうして。何で今更あなたが来るの」


 「ですから……。逃げる先生が悪いでしょう? この別荘を知っているのは僕だけですから、僕が来たんです」



 達也はみやじの担当を外れていた。正確には一年前に、達也は編集者から広告営業へと移動したのだ。これは急に決まったわけではなく、社の考えとしてまず一番大事な作家との関わりを持ち、そこからどう営業を展開していくかという社内教育制度の一環でもあった。

 だから、みやじの担当になれたのは非常に嬉しかった反面、この関係が遠からず崩れるのが非常に辛かった。あの一年で、声には出さずともみやじと信頼関係が結ばれていたと思う。しかし思ったより早く広告営業に移動したのには訳があり、あちらに一人欠員が出てしまい、急遽そこそこ仕事に結果を出していた達也に白羽の矢がたったのだった。

 言葉少なに新担当への引継ぎをしたあの日。達也はみやじの顔を見られなかった。どんな表情で達也の言葉を聞いていたのだろうか。しかしそれは思い上がりなのかもしれない。達也がそうであったらいいのにと思うような都合のいい展開があったと思えないほど、淡々と引き継ぎが終わった。

 

 ――みやじから、連絡はない。

 ――達也から、連絡はしない。


 単なる作家と元担当。仕事上の付き合いで成り立つ関係は、こうもあっさりと切れるものなのか。今、達也とみやじを繋ぐ物といったら、一つだけある。

 それは、手紙。

 この二年の間に送った手紙の数は、相当な量になるだろう。返事はないものの会社へクレームはないし、受け取り拒否された覚えもないから、受け取ってはもらえているようだ。

 

 みやじの担当者は、もって三ヶ月、早ければ二週間で変わっていた。イメージが湧かないと言っては担当を追い出し、締め切りが迫れば雲隠れをする。みやじを上手く扱えた達也には編集部から何度も配置換えを望まれたが、達也にも思う所があり毎回心が痛みながらも断りを入れていた。


 達也が担当していた頃、みやじに付き合って参考資料を探した。平日も休日も関係なく締め切りに間に合わせる為、一緒に図書館や書店、イメージに合う観光地などを巡ったり。この別荘にも達也は車を何度も走らせた。助手席にみやじを乗せることも時折あった。

 もう会うことはないと思っていた。会えば、なにかが変わってしまう予感がしていたから。


 

 再び合間見えた二人。

 達也は幾分穏やかな気持ちをもって。

 みやじは怯えが入り混じった瞳で後ずさりをして。


 「私は……わた、しは……」


 震えた声でじりじりと廊下を後ずさるみやじ。背後の階段を上れば、鍵付きの小部屋があるのを達也は知っていた。おそらくみやじはそこに駆け込み篭城する気だ。達也が諦めて帰るまで――。

 くるりと身を翻し、みやじが階段を三段上がった所で達也は声をあげた。


 「逃げるのですか」


 「……」


 「駄目」


 ぴた、とみやじの足が止まる。今まで達也は、みやじに対してこのような冷たい声をあげたことはない。決して大きくはない低い声だけど、心の奥まで直撃されたようにみやじは立ちすくんだ。

 一歩、達也は近づく。


 「駄目です。そうしてまた逃げるのですか? 作品から、締切から、そして……僕から」


 弾かれたように振り返ったみやじは、達也を凝視する。どうして達也から逃げるのかという意味を尋ねるように。


 「僕から逃げていますよ先生。担当外れる時、僕に理由聞きませんでしたよね? 先生が正面からぶつかるの怖いってのは分かりますけれど。それに僕が毎回手紙を送ってますが、それについて一度も触れなかった。それだって別に僕はファンレターとして送っている物だから構わないけれど、担当と作家の近しい間柄で一度も話題に出ないのも不自然です。怖いのでしょう? 目前で評されるのが」


 もう一歩、間を詰める。

 これで、二人の間は手を伸ばせば届く距離になった。


 「先生? どうしてそんなに僕を警戒しているのですか。そんなにも怖がって……」


 「だっ……だって!」


 みやじは、ぎゅうっと胸の前で手を組み階段へ座り込んだ。じわりと涙を浮かべながら、強い視線で達也を見る。


 「私……勘違いしそうだったんだもの」


 「勘違い?」


 「そうなの。だって、私が困っていたら同じ視点に立って手伝ってくれたり、どこかへ二人で出かけたり……こんなのって、まるで、まるで……」


 ――まるで、恋人みたいじゃない。


 みやじが言えなかった台詞は、達也の中で形を成した。

 ああ、そうか。そういう……。


 「先生」


 「だから、堀池さんとは距離を持たないとと思って……」


 達也はもう一歩距離を縮めて、しゃがみこむ。みやじより若干視線が下がり、自然見上げる格好となった。小さく息を吐き、達也の持つ最も最強の秘密を打ち明けた。


 「先生。僕、ここの押入れにあるダンボールの中身、知ってますから」


 「……っ!!」


 「あれを見つけたとき、僕は心臓が潰れるかと思いましたよ。ずっと大事に取って置いてくれたんですね。どんな返事よりも嬉しいです」


 担当だった頃、みやじに頼まれて押入れの一番奥にある火鉢を取り出そうとしたときの事だった。丁度みやじは散歩に出ており留守を預かれる程信頼されていた達也は、待っている間やってしまおうと、ゴソゴソ押入れの手前の物から外に出していたら、ダンボールの箱を倒してしまったのだ。

 ガムテープで止められておらず、中身が出てしまったので慌ててしまおうと手を出して……固まった。あれ? これ見覚えが――。


 「うそ……あれ、見たの?」


 「はい。あれを見て、僕は先生の気持ちが分かりました。だから、勘違いではありませんよ」


 「勘違いって……」


 「僕は、おそらく初めて会ったときから惹かれています。文章に惚れて、本人に惚れた。――好きです、先生」


 みやじの顔はもうすでに赤く熟れた林檎の様に染まっている。口元をぎゅっと結び、潤む瞳は一筋の涙を零していた。


 「……本気なの、それ」


 「ええ、本気ですよ」


 「作家と担当よ?」


 「元、です。問題ありません」


 「私の方が二歳年上よ」


 「逆に僕は二歳年下ですけどいいですか。……他に懸案事項、あります?」


 「――ないわ」


 達也は壊れ物を扱うように、そっとみやじの背中に手を回した。その温もりが二人の間にあった壁を溶かす。

 達也はその幸福加減に酔いしれた。







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