補助輪をはずして自転車に乗れていたのなら(ウタほたるのカケラ〈US〉出張版【サイズS】第3iS片)
私は乗れるもん!(笑)
育てかたを間違えた。
成人して、大学を卒業しても、定職につくどころかまともに労働さえもせず、食事と小遣いをせびり続ける息子をかかえた父はそう思った。
思えば、その間違えのおおもとはあの時か。
息子が補助輪をはずして自転車に乗るため、練習につきあってサドルうしろの荷台を支えたときのことだ。
ころびたくないから、絶対に離さないでと懇願する我が子へ、心を鬼にすることができずに。父はいつまでも荷台を支えて走らせ続けた。
結果、息子は補助輪なしで自転車に乗れるようにはならず。補助輪つきの自転車登校は恥ずかしいという理由で、地元の中学・高校には、母が車で送り迎えをする毎日だった。
あのとき、荷台から手を離してやれていたら。
ころんだ痛みに息子は父を恨むだろうが、その痛みこそ、ひとりで自分の人生を漕ぐための最初の痛みだったはず。
それを知らずに、それを避けることだけ覚えてしまった息子は、ほかの同級生のようなおとなになることはできなかったのだろう。
息子の育てかたを間違えた以上に、親としての義務の果たしかたを間違えた。
息子の人生は、いまも補助輪付きの自転車に乗っていて、そのサドルのうしろの荷台を、父が支えていてくれるように背中で感じているのかもしれない。
だとしたら、今からでも。
今からでは遅すぎて、たとえ間に合いもせずとも。
親として息子に課すべき試練であり、親としてのあるべき姿を手に入れるための試練——つまりは、おたがいに必要なことがひとつある。
ひっぱり出してきたのは、ほこりをかぶった補助輪つきの自転車。かつてこども用から買い換えた、小学生高学年〜中学生のものなので、体格がおおきめでなければ、成人になっても乗れないことはないはず。
レンチをまわして補助輪をはずした自転車は、なぜかひどく危なげな乗り物に見えた。
それでも、息子をもう一度、これに乗せてやらなればならない。
そして今度こそ。どんな懇願されようとも、荷台から手を離して、彼の人生は父の支えを失って走らねばならないことを教えてやらなければならないのだ。
ころんで痛い想いもするだろう。
手を離した父を恨みもするだろう。
たとえがんばっても、乗りこなすことができないかもしれない。
それでも——それでもだ。
父は自転車を家の玄関口に停めると、決意の表情で息子の部屋へ声をかける。
お菓子とコーラをおともに、ゲームを楽しむ息子は、扉をあげるのさえ渋るだろうが、かまうものか。




