17話
ある朝のことだった。フレイはいつものように、学園に登校しようとしていた。
「そんじゃ行ってきまーす!」
「ええ、行ってらっしゃい!」
フレイの母、トリトニアはいつもフレイを見送るために、わざわざ玄関まで付いてくる。それも毎回欠かさずにだ。娘思いの優しい母だった。
……その日ばかりは、それが仇となった。
ゆらり、ゆらりと怪しい足取りで男が近付いてくる。フレイの方を見ていたトリトニアは、男に気づかなかった。
「ママ、後ろにへんなひとがいる……」
「変な人?」
トリトニアが背後を振り返って見ようとした、その瞬間。
「へへへ……死ねええええええ!!!」
トリトニアの胸から、ナイフが生えた。
「あ……」
声をまともに出す事すら出来ずに、倒れるトリトニア。芝生の上に、赤黒い液体の染みが広がっていく。
「ひ、ひひひひひひ! やったあ! これでご褒美が貰える! やったあ、やったあ!」
「ひっ……」
男のナイフが、血で真っ赤に光る。フレイは思わず後ずさりした。
フレイは剣も魔法も天才だ。そこらの大人では敵わない。そして男の目は血走っていて、体はあばら骨が浮くほどに痩せこけていた。
きっと戦おうとすれば、フレイは勝てただろう。習った通りに魔法を放つだけで、目の前の男はどうとでも出来るはずだった。
……だが、フレイは幼かった。当然だが、命のやり取りをした事なんてない。
ナイフを持つ男に立ち向かう事なんて、到底無理な話だった。
そうこうしているうちに、芝生の上の赤黒い染みはどんどん広がっていく。
「あ……あ……」
声にならない声を、苦しそうに呻く母。広がっていく血の染み。ナイフを持ってこちらに迫ってくる男。フレイはただ、怯えることしか出来なかった。
「ひひ、ひひひ……ご褒美、いっぱい……」
そんなフレイに、不気味な笑い声をあげて男がにじり寄ってくる。
「やだ……やめて、近寄らないでっ!」
「へ、へへ……嬢ちゃん、悪いけど俺のために……」
フレイの必死な訴えも、男の濁った目には届かない。遂に男はフレイの前にたどり着いた。そして、男はナイフを振り上げて──
「貴様あああああああっ!」
どぉん、と物凄い勢いの巨体が男に衝突する。男は吹っ飛ばされて、芝生の上にドサッと倒れ込んだ。
「……パパ!」
フレイを守って見せたのは、ファウルハイトだった。彼はナイフが肩に刺さっているにもかかわらず、男に果敢に飛びかかる。
「よくも妻と娘を襲ってくれたな、この狼藉者め!」
ファウルハイトが地に伏したままの男を取り押さえると、騒ぎを聞きつけた衛兵達がやっと駆けつけて来た。
「こ、これは一体……」
「ファウルハイト様、大丈夫ですか!?」
ファウルハイトは遅れて来た衛兵達に怒鳴りつけるように指示する。
「君達は何をやっていたんだ! 私は良いから妻に応急処置を!」
「は、はい!」
「そちらのお前は治癒魔法の使い手を呼んでこい!」
「了解致しました!」
指示し終えると、ファウルハイトはフレイの方を見る。怯えるフレイを安心させようとしたのか、彼は笑みを浮かべた。
「パパ、肩に傷が……!」
「私の事は大丈夫だ。それよりフレイ、君が無事で良かった……」
──自らを顧みず、他者を守る。
フレイの中でそれまで「なんとなく」だった騎士への憧れが、確固たるものになった瞬間だった。
……もっとも、ファウルハイトはその件以降変わってしまったのだが。
トリトニアの傷は深かった。ナイフで胸を貫かれたのだ、当然である。
屋敷に常駐していた治癒魔法の使い手ではどうしようもなく、治癒院に馬車で連れて行くことになった。
幸いな事に、ファウルハイトの屋敷は王都でも中心に近い位置にある。トリトニアは王都一の治癒院に運び込まれた。
聖女と呼ばれる治癒魔法使いが、トリトニアの治療を担当した。彼女は優れた使い手だったが、トリトニアが息を吹き返す事は無かった。
「せめてもう少し、もう少し早ければ……」
全てが終わった後、悔しそうに彼女は言った。
もう少し。
(あたしがあの場で、あの男を何とかしていれば……)
あの場でもう少しだけ、勇気を出せれば。トリトニアは、フレイの母は助かったかもしれない。
一度そう考えてしまうと、その事しか考えられなくなる。
(あたしが……あたしが弱かったから……あたしが強くなれれば、今度はちゃんと守れるのかな)
誰かを守る騎士になる。それはフレイにとって憧れであると同時に、一種の強迫観念でもあった。




