虚像
「あの子、いいべ……」
――え?
夜中の交差点。信号が変わるのを横断歩道の端で待っていたとき、隣に立った男がぽつりと呟いた。
ちらりと横目をやる。中年の男が正面をじっと見据えていた。無理やり整えたような茶髪に、若作りの服装。耳にはイヤホンもなく、スマホも持っていない。連れの姿もなく、どうやらただの独り言のようだ。
「あの子、いいべ……」
また言った。男の視線を追うと、向かい側に一人の女がスマホを見つめながら立っていた。肩まで伸びた黒髪が夜風にそよぎ、白いスカートがふわりと舞った。男が言っているのは彼女のことだろう。暗がりに包まれていて、はっきりとは見えないが確かに美人そうだ。
「いいべ……」
今度はおれのほうを振り向いて言った。肯定を求めているのか。無視しようと思ったが、おれは思わず息を呑んだ。痩せこけた頬、骨に貼りついたような皮膚。その大きな目は信号と外灯の光を反射して、ぎらりと光っていた。浅黒い肌は不自然に湿っていて、じっとりと照り返している。
おれは反射的に、「そうですね」と相槌を打ってしまった。
「でも、やめたほうがいいかな……」
男は苦笑しながら、後頭部をガシガシと掻いた。「この前、警察沙汰になりそうになってさあ……」
「それは……よくないんじゃないですかね……」
「でも、やっぱりあの子いいなあ……」
また前を向いた。おれもつられて視線を動かした。
「噛みてえな……」
「噛む……?」
「そう。もう、めちゃくちゃにしたいべ……」
「いや、それは……どうかと思いますけど……」
「肉を噛み千切ってさあ……」
その声に冗談めいた軽さは一切なかった。ぞわりと背筋を氷でなぞられたような感覚が走った。相当危ない男だ。薬でもやってるんじゃないのか。おれは無意識に半歩、後ずさった。
だが、同時にあの女のことが心配になった。
「したいべ?」
男がまたこちらを見てきた。
「いや、自分はそういうのは……」
車道の信号が赤に変わった。じきに歩行者信号が青になる。胸の奥で嫌な予感がじわじわと膨らんでいった。
「いい……」
男が軽く肩を回した。まるで、スタートの合図を待っているかのようだった。
「食べちゃいたいべ……」
「な、何言ってんすか……」
再び怖気が走る。このままだと、まずいことが起きる。
「あー、ほ、ほら、あの人、たぶん煙草とか喫ってるんじゃないですかね」
なんとかしなければと思い、おれはとっさに嘘をついた。印象を下げれば、興味をなくすかもしれない――そう考えたのだ。
「それくらい、どうってことないべ……」
「それはまあ……あ、それに、元ヤンっぽいですよ」
「若気の至りだべ……」
「休日は一人で、テレビで野球とか観てそうだし……」
おれは、自分でも何を言っているのかわからなくなった。見知らぬ人間の評価なんて、そう簡単に下げられるものじゃないのだ。案の定、男は意に介さず、体を左右に揺らして酔いしれるように彼女を見続けていた。
「隣に座って、一緒に見たいべ……のんびりと……」
「なんか……どうせ、裏で悪いことやってるんじゃないですかね……」
「そんなことないべ。好きでもファンでもないくせに、勝手なこと言うもんじゃないべ」
男がおれを睨んだ。その血走った眼光は狂信者のそれだった。おれはただ、息を呑むことしか――あっ。
「いいべ? なあ、いいべ!」
信号が青に変わった。その瞬間、男が地面を蹴り、飛び出した。おれも反射的に背中を追った。
彼女は一歩を踏み出したところで硬直し、スマホから顔を上げた。迫る脅威を感じ取ったのだろう。次の瞬間には踵を返した。しかし、遅かった。男はその無防備な背中へ一直線に飛びかかった。
「きゃあああ!」
悲鳴が響き渡る。だが、無防備なのは男も同じだった。
「やめろ!」
おれは全力で体当たりを食らわせ、男を彼女から引き剥がし、地面に叩きつけた。
「みん――べ!」
男が叫んだ。何を言ったのかは聞き取れなかったが、捨て台詞だったのだろう。おれを睨みつけると、外灯のない路地の闇へと逃げていった。
「大丈夫ですか……?」
おれは彼女に手を差し伸べた。しかし、彼女は首に手をやったまま動かそうとしない。白い指の隙間から赤いものが滲んでいる。なんてことだ。あの男に噛まれたのだ。恐怖に足がすくみ、座り込んだまま震えている。
「あの、赤に変わると危ないから……」
おれはそっと彼女を抱きかかえ、横断歩道を渡った。
渡りきっても、彼女はおれの首にすがりつき、離れようとしない。濡れた瞳は怯えを宿しながらも、それだけではない熱を帯びていた。だが、おれには応じるつもりはなかった。おれは優しく彼女の腕を振り解こうとした。
「――べ」
「え?」
彼女が何かを囁いた。そして、おれの服をめくり、唇を肌に這わせた。
「ああ、いいべ……」
甘く囁いた刹那、彼女はおれの乳首を噛み千切った。
化物に好かれていたのも、また化物だったのだ――。