第4話 新選組誕生
1863年。三月。清河八郎は、京都に率いた浪士組を壬生の新徳寺に集めて、
彼らを尊王攘夷を目的とする反幕府勢力に変化させようと、演説した。
この時、浪士組に参加していた近藤勇は、
「我々は将軍警護のために徴募されたのではないのか!」
と、清河に猛反発して袂を分ける。
そして近藤ら、京都残留組が、京都守護職の会津藩主・松平容保お預かりの『壬生浪士組』となり、やがて新しい隊士も加えて『新選組』と名を変えた。
新選組は、京都市中の不逞浪士の取締と治安維持の任務に就く。
その新選組の屯所には、郷士・八木家の邸宅や、前川邸及び、その周辺の邸宅が使われ、八木邸の右門柱には、
『松平肥後守御領新選組宿』
との表札が掲げられた。
土方歳三は、新選組が発足して間もない頃、壬生の屯所で、
「しかし、何で、あいつらも京都に残ってんだよ」
と、小声で吐き捨てる。その土方の視線の先には、芹沢鴨一派の姿があった。
以前、土方は江戸の練兵館で、芹沢に打ちのめされたことがある。
その芹沢鴨は一派を率いて浪士組に参加。江戸を出立した浪士組の小頭に任命されていたのだが、
浪士組に参加した土方の姿を見つけて、
「おっ、あの時の薬屋ではないか」
と、道中、散々と土方をからかい、小馬鹿にして笑い飛ばした。
さらに上洛途中の本庄宿で、宿割役の近藤の手違いにより、芹沢の宿が手配漏れしていて、
それに腹を立てた芹沢は、
「宿がないなら、野宿で結構」
一派と共に、街なかで危険な大篝火を焚いた。
この騒動は、近藤勇と浪士組・取締役の池田徳太郎が、芹沢に謝罪することで、一応は解決したのだが。
このように近藤と揉めた芹沢だが、清河八郎に猛反発した近藤に同調して、京都に残留し、結局は新選組の筆頭局長に就任する。
他には、芹沢一派の新見錦が局長職に就き、試衛館からは近藤勇が局長職。土方歳三が副長職に就いた。
四月になると、大阪の両替商に百両を提供させ、あのダンダラ模様の隊服と『誠』の文字の入った隊旗も揃え、
土方が隊規の制定に取りかかる。
「まあ、そんなに根に持つなよ、歳」
近藤は、何時までも芹沢一派を敵視する土方をなだめたが、
「俺はね、この新選組を、近藤局長と俺の二人のものにするよ」
土方は、新選組発足からは、近藤のことを『勇サン』ではなく『近藤局長』と呼ぶようになっていた。
「歳よ、新選組は、京都守護職お預かりだ。俺のモノとか誰のモノという、考えは、良くないな」
と、近藤は正論を吐く。そして、少し声をひそめて言葉を続けた。
「それより、歳。あの清河八郎が江戸で暗殺されたらしいぞ」
「えっ、本当かい?」
「ああ。策士策に溺れると言うヤツだな。清河は、かなり剣術も使えるという話だったが」
「やはり、道場剣法と殺し合いは違うということだよ」
そう言いながら土方は、芹沢鴨は道場剣法かと考えた。いや違う。芹沢の剣は殺人剣だろう。俺は奴に勝てるのか。剣で戦えば負ける。だが、殺せない人間は、この世にいないはずだ。
しかし、土方と対話している近藤は別のことを考えていたようで、
「不逞浪士を相手に市中を警備する我々も、命のやり取りになる実戦について、色々と考えていかないと、ならないようだな」
と、腕組みをして、思案した。