*Notation 8* risoluto
“彼”と出逢って約一ヶ月が過ぎた頃。
晴は新たな道へ踏み出す。
その表記は見えないが、なくてはならない歯車である。
8
“生きたかった”。
唯一、その意思だけが残っていた。
あとは、分からない。
左腕には火傷の痕があった。
これは何の傷なのか。
身体にも変なアザがあった。
これは何のアザなのか。
どんな生き方をして、
どんな考えを持って、
何を思ったのか。
両親はいたのか。
兄弟(姉妹)はいたのか。
記憶は、何も残っていなかった。
『来い。』
黒い風が、私に呼び掛けた。
生きる為には、手を取るしかなかった。
生きようと思ったのは、
“生きたかった”という意思が残っていたから。
だから、痛い事も面倒な事も、
非常識であるだろう事も引き受けた。
不思議と、何も感じなかった。
苦しいとか、楽しいとか。
嬉しいとか、悲しいとか。
腹立たしいことも。
仕事だから。
生きる為にする事なのだからと。
正しいとか、間違っているとか・・・・・・
誰の匙加減だ?
答えが分からない。
最近、“アート”と呼ばれるものにハマっている。
これに向き合うと、
あっという間に時間が過ぎる。
何も感じない現実を、忘れさせてくれる。
何かを、感じさせる。
その何かが分からないが、答えがある気がしている。
ただ、それだけだ。
それなりに生きていた中、『あいつ』に出逢った。
初めて、何かを感じた。
何かが、湧き上がってきた。
初めて、任務に失敗した。
『あいつ』に、邪魔された。
私の生き方を否定された気分だった。
あれから、『あいつ』に会っていない。
『あいつ』は姿を消してしまった。
勝ち逃げかよ。
いつか会ったら、必ず消してやる。
その為に、毎日トレーニングを積んでいる。
反則技使いやがって。
『あいつ』を捕まえられる手段があったら、知りたい。
こんな感情を持ったのは初めてだった。
湧き上がる、不快な何か。
これは何なのか。
確かなことは、『あいつ』もろとも
吹き飛ばしたいということだけ。
・・・まぁ、それだけなんだけど。
・・・・・・調査の任務、だるい。
調査なんて、『情報屋』に任せればいいのに。
・・・・・・
・・・・・・私に任せるという事は・・・・・・
あれか。だるい。やだ。
無期限。極秘事項。
代価が付けられない調査。
黒い風の私情が入っているという事。
・・・気が遠くなる。
終わりが見えない任務は、疲れる。
だが、やるしかない。
生きる為には。
黒い風は、何を考えているのか分からない。
だから、立ち入らない。
黒い風も、私に干渉しない。
私の力を、紛れなく必要としてくれる。
その距離感がちょうどいい。
だから、要求に応えられる。
“生きたかった”という意思を、満たしてくれる。
報酬は何にしよう。
空を掴むような調査だからな・・・・・・
多少高額でも受け入れてくれるだろう。
・・・・・・あ、そうだ。
ジュースの試飲頼まれてたな。
エナジードリンクだって聞いたから、
これからの調査に最適だ。
“アンテナを張る”のは酷使する。
ちょうどいい。
・・・・・・ある意味、私的には気楽な任務だ。
久しぶりに、『本業』を休める。
ぶらついてみようかな。
*
七月下旬。
梅雨が明け、東京の空には
八分立てにした生クリームのような
入道雲が浮かんでいた。
朝7時前だというのに、ぎらぎらした太陽の光が
アスファルトを照りつけている。
熱した鉄板のように温度を上昇させ、
ゆらゆらと陽炎が立ち昇っていた。
ジージーと、アブラゼミの鳴き声が
熱波とともに押し寄せている。
都内は、猛暑日を迎えていた。
カフェバー・“Calando”の、
出入り扉の前に立つ女性がいた。
白い半袖のカッターシャツに、
黒のタイトスカート。
自然のうねりがある赤褐色の髪は、後頭部の辺りで
ふわりとまとめられていた。
乳白色のうなじには、汗の粒が滲んでいる。
彼女はふと、扉の側に目を向けた。
鉢に植えられたユーカリが、
挨拶するように
たおやかな枝を揺らす。
一呼吸をした後、再び扉に向き直ると、
手を置いて踏み込むように押した。
開けた瞬間、香ばしい匂いが
彼女の鼻腔をくすぐる。
その香りで、緊張が一気に解けた。
それとともに冷房で冷やされた空気が、
外気を遮断する。
藤色のショルダーバッグから、
向日葵が刺繍されたハンドタオルを取り出し、
滲んだ汗を拭き取った。
ふぅ、と息をつき、女性―晴は
カウンターに向かって声を発する。
「おはようございまーす。拓馬さーん。」
すると、バックヤードに繋がるドアがすぐ開いた。
「おはよう、晴ちゃん。」
開いたドアから出てきた
細身の中年男性は、整えた口髭と
ツーブロックスタイルが印象強い。
爽やかなサファイアブルーのTシャツには、
白いペンキが散らされたような模様が走っている。
男性―拓馬は晴の前に歩いていくと、
明るい笑顔で向かい合った。
「いよいよ今日からだね。よろしくお願いします。」
晴も笑みを浮かべて、
頭を深々と下げた後に言葉を紡いだ。
「改めまして、今日からよろしくお願い致します。
拓馬さん。」
言った後、はっとして口を押さえる。
「あっ、えっと・・・・・・
店長って呼んだ方がいいですか?
それとも、マスター?」
「ははっ。呼び方は何とでもどうぞ。
僕としては、今まで通りでいいけどね。」
「じゃあ・・・・・・拓馬さんで。
これから御指導、御指南を
よろしくお願い致します。」
互いに、笑顔で顔を見合わせた。
あれから約一ヶ月半、
晴は時間の許す限り“Calando”に通い続けた。
その中の二週間は、有給を活用して
事前研修としての時間を費やしている。
ピアノを弾く為の練習も、心構えも申し分ない。
今日という日を無事迎えられて、
彼女自身ほっとしていた。
転職する事を両親に話すのは
勇気が必要だったが、正直に心の内を話した。
自分の熱意が伝わったのか、
反対される事はなかった。
“心残りのないように、頑張りなさい。”
その一言だった。
地元の友人にはメールで知らせた。
彼女たちも、快く背中を押してくれた。
こんなにスムーズに事が運んで、
拍子抜けした部分もある。
前職場の同僚と上司は、
自分を引き止めることはなかった。
代わりはいくらでもいる。
そう言いたいのか。
以前の彼女なら、そう考えただけで
気持ちが沈んでいた。
だが、快く送り出してくれたのだと、
切り替えられるようになった。
彼女を成長させた大きな存在。
それは、朋也である。
“彼ら”の解放は、順調だった。
色々な事情を抱える“彼ら”と出逢い、話をする時間は
彼女の価値観を大きく変えた。
“彼”と心を重ねたあの日以来、晴は
一日一回、和装の紳士に提供された
“干渉を受けない空間”で
朋也との時間を過ごしている。
義務ではなく、自然に。
周りに干渉されない二人だけの時間は、
“彼”を想う彼女にとって
かけがえのないものになっていた。
語り合う時もあれば、
ただ寄り添うだけの時もある。
この空間の時間だけは、
“彼”が幽霊である事を完全に忘れる。
彼の懐に寄り添った、あの日。
そのまま眠りについてしまったのか、
気づけば朝を迎えていた。
安堵感。充実感。
何と言葉を当てはめても当てはまらない程、
心が満たされていた。
あの日は、彼女にとって
忘れられない時間になった。
全てが、満たされた日。
朋也の記憶は、あれから何の変化もない。
その事に彼は、焦ることはなかった。
“黒い風”も、あれから音沙汰がない。
それを喜んでいいのか、複雑な気持ちだった。
“黒い風”を討つ為の銃弾は、
試作品が3発できた。
作成する工程はシンプルで、
手を取り合うだけだった。
彼女の生命力を借り、彼がイメージして形にする。
形はできているが、試し撃ちができないので
何とも言えない。
正直に言うと、彼女は
“黒い風”に遭うのが怖かった。
本能的に、ひどく警戒している。
その本心を、彼は充分理解していた。
だからこそ、二人は
その時に向けて備えていた。
いつ、遭ってもいいように。
「・・・とてもいい香り・・・・・・」
店内に充満する香ばしい匂いを、
晴は幸せそうに微笑みながら鼻で吸い込む。
「ははっ。ご存知、朝限定メニュー
“Calando”特製、天然酵母のチャバタ!
焼き上げている最中だからね~。」
「とーってもいいにおいです!」
「焼きたてを、是非食べてほしいなぁ。」
「えっ?いいんですか?!」
「勿論!従業員特権だよ~。」
「嬉しい!
・・・・・・あっ、でもちょっとだけで・・・・・・
拓馬さんの作る料理、全部すっごく美味しいから
つい食べ過ぎちゃうんですよね・・・・・・
少し太っちゃって・・・・・・」
「そうかなぁ?全然太ってないよ~。
今までが細すぎたと思うけど・・・・・・」
「あ~でもでも・・・・・・
焼きたてのチャバタは、すっごく食べたいです。」
「是非是非。
食べてもらえると嬉しいよ。
これを、食べに来てくださるお客さんもいるんだよ~。
食べなきゃ損だよ~。
何なら、従業員特権で食べ放題にしてもいいよ~。」
晴が店に通い出してから気づいたのは、
拓馬はかなりの世話好きだという事。
店に訪れたら、必ず無償で
料理を作って食べさせてくれた。
流石に悪いと思い、無理矢理
代金を置いて帰った事があったが、
翌日の料理とともに丁寧に返された。
彼には深い感謝とともに、
尊敬の意を持っている。
「食べ放題?!
あ、あの、拓馬さん・・・・・・
従業員特権を乱用していると思いますが・・・・・・」
「あははっ。従業員っていっても、今まで雇ったのは
妻とマナくらいなんだけどね。
正式に働いてくれるのは
晴ちゃんが初めてなんだよ。
嬉しくってね~。ついね~。」
「・・・ふふっ。」
―食べ放題は魅力的だけど・・・・・・
このままだと、本当にやばい。
「今焼いているところだから、その間に
外回りの掃除を頼もうかな。
箒と塵取りは、バックヤード入って
すぐ左側にあるからね。」
「はい!」
「・・・・・・やっぱり何か変な感じだね。
仕事を頼むにしろ、
今までと変わりないからなぁ・・・・・・」
「そうですね。仕事って感じじゃないです。」
「でも、厳しくいくところはいくよ。」
晴は、姿勢を正す。
「はい。よろしくお願い致します。」
拓馬は真面目な表情をして言ったが、
すぐに緩ませる。
「・・・・・・ゆっくり覚えていくといいよ。」
姿勢を正したが、晴も
すぐに肩の力を抜いて微笑む。
「・・・・・・ふふっ。はい。」
―いいのかなぁ。こんなにゆるゆるで。
事前研修と題して、
朝の開店時間に訪れたのは三回だけ。
その時間に提供する天然酵母のチャバタは、
実のところ彼女は一度しか食べられていない。
朝の常連客と、テイクアウトする出勤時の客で
すぐに売り切れてしまうからだ。
「ああ、晴ちゃん。私物は
ロッカーに入れていいからね。
一番右を使ってくれ。」
「はーい。」
晴は鼻歌交じりにバックヤードへ行くと、
設置された4人用のスチールロッカーが
すぐ目に入った。
ちら、と左側を見ると、
掃除道具入れのロッカーがある。
バックヤードに入るのは、
倒れたあの日以来だった。
―・・・・・・数年前の出来事みたい。
ハンドタオルをスカートのポケットに入れ、
ショルダーバッグをロッカーの中に入れる。
その後、掃除道具入れのロッカーから
箒と塵取りを取り出した。
朝の開店時間は8時。
昼の3時で一旦閉めて、
夕方の5時から夜の開店時間となる。
「今日、とても暑いですね。」
「ほんと。
・・・年々酷くなっているよね。
僕に構わず、こまめに水分補給してくれ。
冷蔵庫に僕たち用のスポーツドリンクを
入れているからね。」
「はい。ありがとうございます。」
会釈をして、晴は扉を開けて外に出た。
朝陽の光が、ダイレクトに降り注ぐ。
引いた汗が一瞬で滲み出した。
そんな中でも、彼女の表情はとても明るい。
自然に笑みが零れていた。
あの日から、笑顔が増えた。
憂鬱だった時間を忘れる程に。
しかし、その時間があったから
彼女は今を大切にしている。
この時、この瞬間が、
とても貴重であることを知っているからだ。
“彼ら”に出逢い、踏み込み、通わせることで学んだ。
生きている実感。
その自覚が、彼女を強くさせた。
「おはようございます!」
がらがらがら、という音と共に
元気な声が掛けられる。
台車でP箱に入ったビール瓶を運ぶ
50代後半の男性が、晴に明るい笑顔を向けている。
その男性を見て、彼女も笑顔になった。
「田辺さん、おはようございます!」
「そうか、今日からだったね。
よろしくお願いします!」
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
「んー、いいねぇ!元気だね!
これから晴ちゃんに
いつも会えるのは嬉しいなぁ~。」
「ふふっ。私も嬉しいです!」
「今度晴ちゃんのピアノ聴きに行くからね。
楽しみにしているよ~!」
「わっ。ありがとうございます!
お待ちしています!」
男性は目を細めて晴に手を振り、
台車ごと店内に入っていく。
この田辺という男性は、
“Calando”が取引している酒屋の店主である。
拓馬とは、店舗開業前からの長い付き合いで、
晴が店に通っている期間の中で紹介された。
笑顔が素敵で家族思いのおじさん。
彼女は、そう認識している。
仕事のこだわりに関して
拓馬と意気投合するところがあり、
店の演出を彼がアドバイスした箇所も多いらしい。
一目置く存在である。
ピアノはあの日以来、
客の前で披露する事を封印していた。
きちんと練習して、納得がいくまで
感覚を取り戻してからと、
彼女自身決めていたのだ。
店に通っている期間中、
閉店してからピアノを拝借し、指を動かしていた。
拓馬が帰宅する準備を
整えるまでの時間内である。
日によってその時間は違ったが、
平均二時間触れる事ができた。
演奏は、夜の開店時間だけ。
慣れたら朝の開店時間でも披露しようかと、
拓馬と相談していた。
フォン!
聞き慣れない音が、周辺に響く。
晴は首を傾げ、周辺を見回すが変化はない。
―裏手・・・・・・?
駐車場の方から聞こえた気がする。
箒と塵取りをユーカリの鉢植え付近に置き、
店の裏手にある駐車場に足を運んだ。
拓馬のワゴン車の横は
常に空いており、その場所に
見慣れない大型バイクが停まっていた。
それに跨がる、
フルフェイスヘルメットを被った青年。
その彼の事を、彼女はよく知っていた。
エンジンを止め、バイクから降りると
ヘルメットを脱ぐ。
その拍子に、染めた金髪が零れた。
汗を飛ばすように頭を振ると、青年は
それを脇に抱えて
ふぅ、と一息漏らした。
「・・・・・・おはようございます。」
ぼそっと、挨拶の言葉が流れる。
「おはよう、佐川くん。
・・・この時間に珍しいね。」
晴はにこやかに、その青年に向かって声を掛けた。
彼は、夏用ライダースジャケットの
ファスナーを開けて会釈をする。
「・・・・・・初出勤、おめでとうございます。」
ぼそ、と呟くように
言葉を発する青年―学の目線は、
相変わらず合わない。
だが会った当初と違うのは、
格段に会話が増えた事である。
彼の“特殊な見え方”を理解している晴は、
受け答えが噛み合わなくても
気にならなくなっていた。
“黒い風”に遭って以来、学とは
和装の紳士を交えて、“彼ら”の解放を
協力し合うようになっていた。
晴と朋也にとって、彼は弟的存在になっている。
「わざわざ来てくれたの?
ありがとう!
・・・・・・いつもの原付じゃないね。
買ったの?」
「・・・・・・いつものやつは・・・・・・
セカンドバイクっす。」
「えっ?2台持っていたの?!」
間を置いて、学は頷く。
「・・・・・・大型乗ってる人は、普通っすよ。
譲ってもらったやつなんで・・・・・・
こいつを走らせるのは、春先と秋頃の
涼しい時だけっす。
・・・・・・梅雨明けしたんで、
どうしても一回走らせたくて・・・・・・」
“でも、この中走るのは地獄っすね。”
ぼそっと、そんな呟きも付け加えられた。
いつもより喋っている彼に、晴は
笑顔になりながらバイクを眺める。
「へぇ~・・・・・・すごいなぁ・・・・・・」
駐車場は建物の影で日が当たらないが、
銀色のカウルは輝いている。
「・・・・・・莉香さんからも、
よろしく伝えてくれって言われまして・・・・・・」
ぼそぼそ言うそんな彼は、
どことなく照れているように見えた。
晴は、満面の笑みを浮かべる。
「莉香からメール来てたよ。今夜お店に行くって。」
晴の後押しもあって、
学と莉香は現在恋人同士である。
両者からたくさん惚気話を聞かされ、
挟まれた彼女はいつも
胸いっぱいにさせられている。
「・・・・・・今度、
彼女の誕生日なんっすよね・・・・・・
俺、プレゼントとか・・・・・・そういうの
選んだ事なくて・・・・・・
どうしたら・・・・・・」
学の俯き加減の角度が、いつもよりさらに深くなる。
「ふふっ。気持ちでいいんだよ。
佐川くんが選んで、贈る物なら
莉香は何もらっても嬉しいと思う。」
「・・・・・・」
彼の口元が緩む。
その様子を窺うだけでも、晴は
『ごちそうさまです』と言いたかった。
「佐川くん、これから大学でしょ?
気をつけて行ってらっしゃい。」
「・・・・・・マスターにも
挨拶していきたかったんっすけど・・・・・・
多分、こいつの音で気づいていると思います。」
「そうだね。一応伝えておきます。」
「・・・・・・じゃあ、また夜に。」
「はい。夜にね。」
会釈をすると、学は再び
ジャケットのファスナー上げ、
ヘルメットを被る。
半袖でも暑いのに、その姿はかなり暑そうに見えた。
そうしてまでも、彼らはバイクに跨がる。
走るのは勿論、気筒エンジン、エンジンオイル、プラグ、
サスペンション、カウル、チェーンなど、
細かい部品まで愛情を注ぐ。
バイク愛を熱く語る学の事を、
晴は莉香から聞かされていた。
―こだわりを持って乗れるのは、うらやましいなぁ。
彼が愛情を注ぐバイクは
排気量1100㏄の年代物で、放置すると
機嫌を損ねる気分屋。
常に手を掛けてやらないと、走りに影響する。
そんな難しいバイクを、彼は好んで乗っていた。
セルを回すと、勝鬨のような声を上げ、
すぐにエンジンがかかる。
走ってきた直後なので、暖機は充分である。
あっという間に走り去っていった学を、
晴は温かく見送った。
店の前に戻り、
箒と塵取りを手に取って掃除を始める。
温い風が通り抜けた後、ふと浮かぶ明るい笑顔。
―・・・・・・樹くん、どうしているかな・・・・・・
あれ以来、あの少年とは会っていない。
通学時間で同じ電車に乗るなら
すぐに会えると思っていたが、
彼の姿を見つけることは出来なかった。
メールアドレスを聞けていたら・・・・・・
思い浮かべる度に晴は思う。
順調に歩き出している中、
その事が彼女の心残りだった。
もしかして、もう・・・・・・
そう考えた時があったが、
―『その見解はない・・・・・・だが、
不測の事態が発生したのかもしれない。
俺も気になるところだ。』―
そう朋也に言われた。
―・・・・・・
不測の事態・・・・・・
そう言われると、ますます気になってしまう。
・・・・・・会いたいけど・・・・・・
どうしたらいいの?
今会わなければ、後悔しそうな気がする。
『会いに行こうか。』
―・・・・・・朋也?
姿は見えない。
だが、彼はいつも自分の傍にいる。
日常生活を過ごしている時、
彼は滅多に話し掛けてこない。
だから、珍しかった。
『君の思うところは、俺も同じだ。』
その言葉に、彼女は頷く。
―でも・・・・・・どうやって?
『・・・・・・前にも言ったが、彼は
“俺たち”に近い。それは、
繋がりやすいことを意味する。
彼の“思念”を掴めれば、
現実で会う事は難しくても・・・・・・
“彼の世界”で会う事が可能だ。』
―・・・・・・?
よく分かんないけど・・・・・・
それが出来たら・・・・・・会えるってこと?
『・・・やったことはない。
俺一人では不可能だからだ。
・・・・・・今の俺たちなら、出来ると思う。』
―・・・・・・やってみよう。
出来る事があるなら、試してみたい。
でもそれって、どうやるの?
『“干渉を受けない空間”で、彼の“思念”を辿る。
・・・・・・言葉では難しい。』
―・・・・・・分かった。今夜試してみよう。
『ああ。
・・・・・・仕事頑張れよ。』
―・・・うん。
彼からの、さりげない労い。
その一言だけで嬉しかった。
何でも頑張れる。
開店10分前。
晴は、焼きたてのチャバタと
拓馬のこだわり珈琲豆を焙煎して抽出された
カフェ・ラッテを堪能して、意気込み十分だった。
―これが毎回味わえたら・・・・・・
本当に贅沢やね。
幸せな気持ちのまま、彼女は
グランドピアノの蓋を開けた。
事前にピアノクロスで
丁寧に一鍵盤ずつ拭いていたので、準備万端だ。
「晴ちゃーん。一曲お願いしまーす。」
カウンター越しから、声が掛けられた。
「はーい。」
それに躊躇せず、ピアノ椅子に座る。
拓馬からのリクエストは、定番になっていた。
晴の意思を汲み取って
開店時では控えてくれたが、訪れたら
ほぼ声が掛かっていた。
最初は戸惑いの方が強かったが、今では
難なく受け入れられている。
『おはようございます。ハル。』
気づけば自分の後ろには、ニーナが立っている。
「・・・ニーナさん。おはようございます。」
拓馬に聞こえないように、
晴は小声で挨拶を返した。
彼女の優しい気配が、そっと寄り添う。
木漏れ日のような
穏やかな笑顔を向ける彼女は、
晴がピアノを弾く時
必ず傍にいてくれた。
支えてくれている安心感で、和やかになる。
弾く曲は決めていた。
二人の、深い絆を紡いでくれた曲。
拓馬とニーナに捧げる表記。
開店前に必ずそれを弾こうと、
晴は考えていた。
その曲に、日々降りてくる
音の粒を捉えて奏でようと。
1日1日違う表記が、
この店に生まれて紡がれる事になる。
二人が、歩いてきた道のように。
その音色を聴いたニーナの表情は、
さらに優しくなった。
拓馬は、おぉ、と小さく声を漏らし、
顔を綻ばせた。
二人は、同じ表情を浮かべている。
その様子を目にしなくても、晴は感じ取っていた。
思わず微笑む。
この曲を弾けることが、とても幸せだった。
この時だけは、二人の時間を止められる。
二人だけの思い出を、繋げられる。
刹那であっても。
*
今日も、あかん。
身体が言うこと聞いてくれへん。
こんなに外に出たいと思うたことは、
一度もないのに。
晴さんと朋也さんに、また会いたい。
そう思うていたのに・・・・・・
発作を起こしてしもうた。
強制的に、入院せなあかんようになった。
入院しとる場合やないのに・・・・・・
会うて、
このフィルムを見てもらわなあかんのに。
“あの世”で、思わず撮ってしもうた
あの瞬間。
二人の写真。
フィルムが出てきぃひんやったのに、
今頃になって出てきた。
目を疑うた。
こんな、絵みたいな
やばいフィルム・・・・・・初めてや。
何度見ても、どうなっとるのか
分からへん。
しかも、これ・・・・・・
・・・・・・
何て言うたらええんやろう?
とりあえず、見てもらわなあかん。
二人なら、分かるかもしれへん。
メールアドレスが聞けとったら、
すぐ会えたはずなのに・・・・・・
元気になりたいと、
こんなに思うたことはない。
コンコンコン。
「おはよ~樹~。入るで~。」
あっ、兄ちゃんや。
これは隠さんと・・・・・・
「・・・・・・
・・・・・・入ってええよ。」
“あの世”の出来事は、秘密にせんと。
死にたがっていたのが、バレてしまう。
「・・・・・・おはよう、兄ちゃん。」
「おお。いつもより顔色ええんちゃうか?
朝メシちゃんと食えたか~?」
「・・・・・・うん。少し残してしもうたけど。」
「食えたんならええ。よしよし。
・・・今から仕事に行ってくるで。
何か欲しいもんないか?」
「・・・・・・うん。大丈夫。」
「そうか。今日も遅くなりそうなんや。
もし何かいるもんあったら、篤に預けるさかい。」
「・・・・・・おおきに、兄ちゃん。
・・・・・・ごめん。」
「・・・・・・何を謝っとるんや?」
兄ちゃん、
朝から晩まで働いとるやないか。
「・・・・・・何でもない。」
いつも元気に笑っとるけど、
ほんまはきついんやろ?
「何や。変なやつやなぁ。どないしたん?」
・・・・・・兄ちゃんに迷惑かけんで、
僕は生きたいんや。
「・・・・・・」
「・・・・・・あ、そうや。この間話した、
ええ女の事なんやけどな。見事にフラれたわ。」
「・・・・・・フラれたん?」
「何でやろなぁ~。
こんなええ男おらへんのに。
まぁ、大丈夫や。くじけてへんで~。
フラれてなんぼや。
ええ女は、まだまだぎょうさんおる。」
「・・・あははっ。
そうや。兄ちゃんはええ男や。
いつか、ごっつええ女の人と出逢うと思うで。」
「おおっ!
樹からそう言うてもらえるのは嬉しいわ~!
兄ちゃん頑張るで~!
それに備えて男磨いたるわ~!!
篤には負けへん!」
・・・・・・あまり頑張り過ぎんといて。
「篤兄ちゃんのモテぶりは、
神さんついとるから・・・・・・
比べたら落ち込むだけやで。」
「ちっ。それは否定せんわ。
何であいつあんなにモテるんやろ。
会うごと、付いとる女変わっとるんやで。
ごっつい男前の神さんがついとるとしか、思えへん。」
「うんうん。モテ神さまや。」
篤兄ちゃんにも、迷惑かけとうない。
「俺にも降りてきぃひんかなぁ~。」
「・・・・・・兄ちゃんは、今のままでええよ。
兄ちゃんのええところ、僕がよう知っとる。
・・・彼女さんができたら、
最初に僕の所へ連れてきてな。」
「おう!もちろんや!まかせとき!!
ええ女連れてきたるで~!」
「あははっ。うん。
・・・・・・兄ちゃん。いつもおおきに。」
兄ちゃんの弟で、ほんまに良かった。
「へ?・・・あ、改まってどうしたんや?
こそばゆいわ~。
今日のお前、おかしいで。
すぐ退院できるさかい、
よう食うて、よう寝ることや。ええな?」
「・・・・・・うん。」
分かっとるで。退院できんこと。
「ほな、行ってくるで。」
「行ってらっしゃい。」
・・・・・・
兄ちゃんは苦しそうな顏を、僕に見せようとせん。
だから、つらいんや。
やりたい事ぎょうさんあるやろうに。
僕のせいで・・・・・・
―『君が病気なのは、君のせいじゃない。
大切な人が苦しんでいるのを、
助けたいと思うのは当然だ。』―
・・・・・・朋也さんが言うた言葉、
当たっとるとは思う。
けど・・・・・・
それは僕も同じなんや。
兄ちゃんを苦しませたくない。
僕の事で
時間を使わんでええように・・・・・・
自立したいな・・・・・・
それができたらええなぁ・・・・・・
・・・・・・
入院してから、写真撮れてない。
撮る気力も、奪われてしもうとる。
・・・・・・
今まで、ぎょうさん撮ったなぁ。
アルバムに入れとるフィルム、
もう一個作らんと収まりきれへん。
・・・・・・あの写真、
他のフィルムの後ろに重ねとけば
バレへんやろ。
・・・・・・
写真、撮ろうかな・・・・・・
・・・・・・撮ろう。
何でもええ。撮りたい。
そうや。
窓開けて、外を見よう。
きついけど、何かせんと・・・・・・
心まで病気になってしまいそうや。
動けんようになる前に、
できること、しとこう。
今日は天気がええなぁ。
青空でも撮ろうか。
ええ風吹いとるなぁ。
・・・あっ。猫や。猫がおるっ。
可愛いなぁ。こっち向かへんかなぁ。
・・・・・・
あの人、髪の色が緑や。
へぇ。あんな綺麗に染まるんか。
・・・・・・歳、変わらへんくらいかな・・・・・・
高校生かな・・・・・・
・・・猫に、メンチ切っとる・・・・・・
・・・・・・・
絵になるなぁ・・・・・・
・・・・・・撮ったら、あかんかな・・・・・・
・・・・・・あかんよな・・・・・・
でも、撮りたい・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・ん?
女の人が、こっち見上げとるような・・・・・・
い、いや、手にカメラは持っとるけど、
撮っていませんよ・・・・・・
撮りたいとは、思いましたけど・・・・・・
カメラ通して見ていましたけど・・・・・・
あかん。
勘違いされたかな・・・・・・?
・・・・・・
窓閉めよう。
・・・・・・
・・・・・・はーっ・・・・・・
誤解されてなければええけど・・・・・・
・・・・・・ちょっと遠目からやったけど、
女の人、べっぴんさんやったなぁ。
猫も可愛かったなぁ。
撮りたかったなぁ・・・・・・
・・・・・・
ベッドに戻ろう・・・・・・
疲れた・・・・・・
・・・・・・
外は、暑かったなぁ。
外に出たいなぁ。
写真撮りまくりたいなぁ。
もし、元気になったら・・・・・・
カメラマンになりたいな。
そうやな。
夢は持っとかんと。
治るかもしれへんし。
諦めたらあかん。
頑張っとる兄ちゃんに失礼や。
・・・・・・
・・・・・・天井でも、撮ろうかな・・・・・・
《こんっ》
・・・!!
・・・えっ?何や?
《こんっ》
えっ、えっ?
何や?怖い。・・・・・・窓?
鳥・・・やないよな・・・・・・
《こんっ》
ど、どないしよう・・・・・・
開けてみるか?
開けんと、あかんかな・・・・・・
《中に入りたいんだけど。》
「うわぁぁっ!!」
えっ?えっ?ここ三階やけど?!
何で声がするんや?!
《早く、窓開けろ。》
・・・・・・姿見えへんけど・・・・・・
声からして、まさか、さっきの女の人?
もしそうなら・・・・・・
開けんと。
落ちたら大変や。
「!」
な、なんて身軽な人なんや。
猫みたいや。
・・・猫か?猫なんやろか。
猫なら良かったかもしれん。
やけど、間違いない。
さっきの女の人や。
部屋に入ってきてしもうた。
ど、どないして上がってきはったんか?
「・・・・・・」
メンチ、切られとる。
・・・近くで見ると、
恐ろしく顔整ってはるなぁ・・・・・・
・・・って!そうやない!
「・・・・・・そのカメラで私を撮っていただろ?」
うわ。やっぱり。
誤解されとる。
「・・・と、撮っていません。
撮ろうとはしましたけど・・・・・・」
「何で撮ろうと思った?」
「え?えっと・・・・・・
猫とあなたが絵になるなぁと思いまして・・・・・・
ほんまは景色を撮ろうと思っていたんです。
ほんまです。」
「・・・・・・」
沈黙が、怖い。
・・・・・・何やろ、この状況。
普通なら、看護師さん呼ばなあかんよな。
やけど・・・・・・
「し、信じてください。」
ちょっと、楽しいかもしれん。
「・・・そのカメラ、見せて。」
「・・・あ、はい・・・・・・
どうぞ・・・・・・」
・・・・・・
「・・・・・・お見舞いですか?」
「・・・は?」
「身内の方が、入院されているとか?」
「・・・別にいいでしょ。」
ばっさり。
「フィルムが出るやつか・・・・・・」
「は、はい。そうです。」
「・・・・・・撮ったやつ、ある?」
「へ?・・・あ、はい。
今まで撮ったやつを
アルバムにしていますが・・・・・・見ますか?」
「見せて。」
・・・・・・ほんまに、何なんやろ。この人。
「カメラは返す。」
「あ、はい・・・・・・」
良かった。返してくれた。
僕も、何なんやろ。
この状況楽しんどる。
不思議や。
さっきまでしんどかったのに・・・・・・
あっ。
あの写真入れたままや。
取り出さんと。
「ちょっと待ってくださいね・・・・・・」
これは、秘密の写真なんや。
二人に断りなく見せるわけには・・・・・・
「それ、何?」
「いや、これは、あかんやつです。
見せる程のものじゃな・・・あっ!」
取り上げられてしもうた!
「か、返してください・・・・・・」
「・・・・・・」
うわぁ・・・・・・
どない説明しよう。
二人とも、ごめんなさい・・・・・・
最初に見せるつもりやったのに・・・・・・
「・・・・・・何も映ってないけど。」
へ?
「映ってないフィルムだから、
見せられないの?」
・・・・・・映ってない?
「紛らわしいね。こんなフィルム、
大事に取っておくわけ?」
・・・・・・もしかして、僕にしか見えへんの?
「・・・あ、あはは!
それ、このカメラで初めて撮った
フィルムで・・・・・・
現像失敗したやつなんです!
記念に取っておこうと思って・・・・・・
今では御守り代わりなんです。」
「・・・・・・ふーん・・・・・・」
・・・・・・納得してくれたみたいや。
返してくれたし。ほっ。
でも・・・・・・
何でやろ?見えへんなんて。
二人に聞けば分かるやろか?
・・・会って、聞きたいなぁ・・・・・・
「どうぞ・・・・・・」
・・・・・・アルバム、
他人に見せるのは初めてや。
「・・・・・・」
・・・・・・
近くで見ると、ほんまに綺麗な人や。
不思議な雰囲気持っとるなぁ・・・・・・
わっ。
ベッドに座るんか?
僕は、どこに行ったらええんや?
丸椅子あるのに・・・・・・
ほんまに、猫みたいな人やなぁ・・・・・・
「・・・・・・ねぇ。」
「は、はい。」
「あんた、写真家なの?」
「い、いや、ちゃいます。」
「よく撮れてる。」
・・・・・・褒められた!
「あ、ありがとうございます。
高性能のやつなら、もっと繊細に
映るんですけど・・・・・・」
「これには、これの良さがある。」
「・・・は、はい。」
・・・・・・カメラに詳しい人かな?
「・・・・・・これ、誰?」
「あ、僕の兄ちゃんです。隣の人は
家族同然の友だちで・・・・・・」
えへへ。その写真、自慢の一枚です。
嬉しいなぁ。
見てもらえて、褒められるとか。
・・・・・・結構、じっくり見てくれとるなぁ。
丸椅子に座ろっと。
・・・・・・
どの角度からも、綺麗に撮れそう・・・・・・
この人、ほんまに撮りたくなってきた。
「・・・・・・返す。」
「・・・あ、あの・・・・・・」
断られてもええ。
「一枚、撮らせてもらえませんか?
そのフィルム、勿論持って帰ってええんで。」
断られるやろなぁ。
「・・・・・・さっきも思ったけど、
何で私を撮りたい?」
「・・・・・・何ででしょう・・・・・・
分からへんけど、
撮りたいって思っちゃいます。」
「・・・・・・」
「きっと、ええ写真が撮れると・・・・・・
思うからです。」
ほんまにそう。それだけ。
・・・・・・
この人の目力、ハンパない。
引き込まれる。
「・・・・・・その考えは、私も共感できる。」
おお。
撮らせてもらえるんやろか?
「撮らせてください。」
ほんまに撮りたい。
「・・・・・・撮れ。」
やった!
「ありがとうございます!」
お願いしてみるもんやなぁ。
フィルムは手元に残らんでも、
目に焼きつけられる。
一期一会や。
この人に今度、いつ会えるか分からへんし。
今、調子がええ。
さっきまでの、だるさがない。
健康な人は、これが普通なんやろか?
・・・・・・
「あの~・・・・・・
笑ってもらえると助かりますが・・・・・・」
「何で?」
「・・・・・・いや、何でもないです。」
注文はできひんね。
「撮りますよ~」
・・・・・・・
撮れた。
1ミリも笑わへんかった・・・この人。
・・・・・・フィルムが出てきた~。
・・・・・・
・・・・・・へっ?!
「見せて。」
何が、どうなっとるんや?
「・・・・・・」
笑ってなかったで。
この人、ずっと無表情やった。
せやけど・・・・・・
ごっつぅ、ええ笑顔。
なんや、これ?
「・・・・・・」
女の人も驚いとる。
「あの・・・・・・撮る直前で笑いました?」
「そんなわけない。」
・・・・・・ですよね。
「・・・・・・・・・・・・これは、私じゃない。」
え?ぼそっと何て言った?
「お前にやる。」
「へ?・・・あ、あのっ!」
・・・・・・出て行ってしもうた。
しかも、窓からまた。
・・・・・・え?
これ、もらってええの?
*
「お疲れさま~!」
朝の開店時間が終了し、
晴はカウンター席に腰を下ろして一息ついた。
労いの言葉を掛けてくれた拓馬に、
微笑みを返す。
「拓馬さんの方こそ、大変お疲れさまです。」
「今日は忙しい方だったよ~。
晴ちゃんがいてくれたお陰で楽だったよ。
ありがとう。」
確かに今日は
客の出入りが途切れることなく、
店に一人もいない状況はなかった。
こういう時を
今まで一人で対応していた拓馬に、
彼女は改めて脱帽する。
「夜の開店時間まで、ゆっくり休んでくれ。
これからが君の本領発揮だからね。」
彼は屈託なく笑いながら、
“どうぞ”という言葉を添えて
一皿とグラスを晴の目の前に置く。
ミニトマトとバジリコの冷製パスタと、
透き通った氷を浮かべた
特製レモネードである。
「わぁっ・・・・・・」
「まかないだよ~。夜からもよろしくね。」
「はーい!」
いつの間に用意したのだろう。
まかないと言われたが、
盛り合わせも丁寧で彩りも鮮やかだった。
それを目にした途端、
張っていた気が緩んで笑みを零す。
その癒しのまかないに向かって、
手を合わせた。
「いただきます・・・・・・」
「あっ。スプーンとフォーク
渡すのを忘れていたよ。はい。」
「ありがとうございます。」
紙ナプキンに包まれたスプーンとフォークを、
彼女は笑顔で受け取る。
―このミニトマトとバジルって、
裏手にあったプランターのものよね。
拓馬のこだわりと細やかさを感じ、
晴はほっこりした。
―これを頂いたら、指の練習しよう。
今まで、ピアノを弾かせてもらう時は
拓馬に断りを入れていた。
でも、これからは
それをしなくていいと言われている。
“君の、心の赴くままにどうぞ。”
演奏するタイミングは、自分次第でいいと。
―夢のような時間が・・・・・・始まるんやね。
浮き立って仕方がない。
まかないを有難く頂戴して
空いた皿とグラスを片付けた後、
晴はピアノに向かって指の練習を始めた。
そうして、30分程経った頃。
晴は雨の音に気づいて、外に目を向けた。
―・・・・・・夕立?
拓馬は既に休憩室にいる。
この休憩時間は、いつも仮眠を取ると聞いていた。
―・・・・・・お店のスタンド看板、
窓際に寄せておこう。
屋根のない所に設置している
店のスタンド看板を思い出し、
晴はピアノ椅子から立ち上がった。
バックヤードに入ってすぐ側に、
ストライプ模様が入った
陶器の傘立てが置いてある。
その中には3本の多様な傘が入っていた。
―すぐ止むかな・・・・・・
傘立ては、開店の時でいいよね。
3本の中から、ビニール傘を手に取る。
店の扉を開けると、
周りが見渡せない程の豪雨が降っていた。
―わっ!すごい雨!
ゴーッという音とともに、
豪雨は容赦なく
アスファルトを叩きつけている。
―朝は、あんなに晴れていたのに・・・・・・
傘のシャフトを首で挟み、
引き摺るようにしてスタンド看板を
屋根のある窓際に寄せた。
―うわー・・・・・・文字が・・・・・・
後で書き直さないとね。
マーカーで書かれたメニューの文字が、
雨で流れて読めない。
食材の仕入れによって
メニューが変わる為、消せるように
水性マーカーで書けるタイプの看板だ。
―夜からのメニューを
書かないといけなかったし・・・・・・
まぁ、いっか。
「・・・・・・?」
ビニール傘越しから、人影が見えた。
傘を差していない。
激しく打ち付ける雨にも動じず、
ゆっくり歩いている。
晴は思わず傘を、その人影の頭上に差そうとした。
『晴、待て。』
急な朋也の声。
晴はびくっとして、その手を止める。
『その人影に、関わるな。“黒い風”を感じる。』
その一言で、震え上がった。
声を掛けようとした口をつぐみ、目を逸らす。
人影は晴を目に留めることなく、
そのまま通り過ぎた。
―・・・・・・あの子、幽霊じゃないよね?
恐る恐る捉えた人影の後ろ姿は、少女に見える。
『・・・・・・ああ。生きている人間だ。』
緑に染まった髪が、印象深い。
『そろそろ来る頃だと思っていた。
・・・・・・“あいつ”の探りが。』
―探り・・・・・・?
『ああ。
・・・・・・大丈夫だ。気づかれていない。』
―・・・・・・あの子は、
その“黒い風に”操られているの?
『・・・・・・いや。
彼女自ら受け入れている。
こちらからは、何も触れない。』
少女の姿は、ゆっくり遠ざかっていく。
『・・・・・・正直に話そう。
君は、いや、学も。
“あいつ”に顔を知られている。
そうなってしまった事に、
俺は不本意だった。ずっとな。
・・・それを手掛かりに、“あいつ”は
必ず探りを入れてくる。
そしてそれに使う人間は、刺客。
現実でその刺客に知られてしまったら、絶望的だ。
君たちの命が危ない。
・・・・・・その対策を、この約1ヶ月間
御仁と協議していた。』
朋也の話す内容が現実とは、到底思えなかった。
言葉の意味は、そのままなのだろうか。
刺客。
彼から答えを聞かなくても、共鳴する彼女は
じわじわと実感していく。
『だから今は、迎え撃つ準備をしている。』
―・・・・・・
『・・・・・・いつか、俺の記憶は戻る。
早くも、遅くも。必ず。
その時に万全でありたい。
・・・・・・俺は、君に迷惑かけてばかりだな。』
その後、“すまない”という言葉が伝わる。
何度も聞いてきた、彼の“すまない”という言葉。
その度、どうして謝るのだろうと彼女は思う。
恐怖は感じるが、それに嫌悪する事はない。
自分が選んだ道。
それに、後悔はしない。
晴は一呼吸して、朋也に伝える。
―・・・・・・迷惑とか思ってないよ。
好きな事に気づいて、このお店で働けて、
素敵な人たちに出逢えて。
“彼ら”と話せて。
・・・それって、朋也と出逢えたからなんだよ。
それを嫌だなんて思ってない。
出逢わなかったら、私は今頃どうなっていたか。
それを考える方が、何倍も怖い。
『・・・・・・』
―幸せなの、今。
ここに、いることが。
そう思えることが。
・・・・・・だから、そばにいてね。
命を奪われる事よりも。
彼がいなくなる方が、怖い。
『・・・・・・晴。』
これが幸せの代償なら、喜んで立ち向かう。
少女の姿は、もう遠ざかっている。
―朋也と一緒なら、何も怖くないから。
素直にそう思う。
そして最近、考える事がある。
彼の記憶が戻った時、どうなるのか。
彼は、消えてしまうのだろうか。
『・・・・・・君が望むなら、傍にいる。』
―・・・・・・それじゃダメ。
その言葉に、彼は笑ったように感じた。
『じゃあ、どう言えばいい?』
―聞いてないんよ。
『?』
―朋也から。
『・・・・・・何を?』
―もう。分かってるでしょ。
『・・・ふはは。』
―聞きたい。
『・・・・・・今か?』
―うん。今、聞きたい。
聞いたら、何でも頑張れるから。
『・・・・・・何度でも言おう。
好きだ、晴。』
笑いながらの告白だったが、
彼女には大きな破壊力があった。
鼓動が、大きく波打つ。
得も言われぬ嬉しさで、自然に笑みが零れた。
―うふふっ。ありがとう。
私も朋也が好き。
『ふはは。こちらこそありがとう。』
鼓動で、共鳴している事を確かめる。
二人が紡いだ約1ヶ月という時間は、
その感覚まで掴めるようになっていた。
溶け合うのではなく、手を取り合って進む。
言葉は、それを伝える為にある。
彼女はそう理解するようになった。
気づけば、雨が止んでいる。
傘を閉じて空を仰ぐと、
綺麗な弧を描いた虹が目に飛び込んだ。
「うわぁ・・・・・・綺麗・・・・・・」
雨で冷やされた風。
湿った匂い。
空を映す水溜まり。
入道雲から垣間見る、眩しい太陽。
しばらく彼女は、
自然の奇跡を噛み締めて立ち尽くす。
そして、改めて誓った。
一瞬を心に刻みながら、
しっかり歩いていこうと。
夜の開店時間約20分前に、
学が店の扉から姿を見せた。
ピアノを弾いていた晴はそれに気づいて、
椅子から立ち上がる。
「お疲れさま。佐川くん。」
声を掛けると、彼は会釈して
背負っていた黒のリュックサックを肩に掛ける。
店の涼しい空気に触れて
安堵したのか、息をついた。
大学が終わってから一旦帰宅し、
駐輪場にバイクを置いてから
電車で来ていると、彼から聞いていた。
―大型バイクは、どこに置いているんだろう?
晴は、今朝初めて見た
大型バイクの行方が気になった。
―あとで聞いてみよう。
猛暑の中、駅からここまで歩くのは
体力を奪われるだろう。
自分は仕方がないが、彼には
バイクという足がある。
―・・・・・・愛の力って、すごいなぁ。
莉香が店に来て酒を飲んだ後、
車を代行運転して家に送る為だ。
彼はそれを、喜んで続けている。
「お疲れさま、マナ。何か飲むか?」
拓馬が厨房から顔を出して訊くと、
彼は間を置いて頷いた。
「・・・・・・助かります。」
ぼそ、と漏れる声に、実感がこもっている。
―今日は暑かったもんね・・・・・・
バックヤードに消えていく学を、晴は温かく見送る。
来店して飲む回数は以前より減ったものの、
その度に学が代行する事を、流石に
莉香は気に掛けて尋ねたそうだ。
付き合っているとはいえ、
それに甘えていいのか。
大事な時期だし、働いた後自分を送れば
家に帰り着くのが遅くなって、疲れないかと。
しかしそれに対して、
学は首を傾げて言ったという。
“莉香さんと一緒にいられる時間が増えるのに?”
さらっと何事もないように言い放った彼の言葉に、
彼女は衝撃を受けたそうだ。
晴が聞いた惚気話の一部である。
実際、二人は
仕事に勉強に忙しい身であって、
会える時間は限られている。
社会人と学生の価値観も違う。
だが、学と莉香に関しては
その壁を感じない。
「晴ちゃん。今夜、莉香ちゃんが来るみたいだけど・・・
一緒に飲んでいくのかい?」
「はい。そのつもりでいます。」
「じゃあ、僕が送るからね。」
「・・・ありがとうございます。
お言葉に甘えます。」
当初、拓馬が車で送る事を言っていた。
だが、自分の就業終了時間は
午後8時までである。
自分の為に店を抜け出して送ってもらうのは
流石に申し訳ないので、丁重に断った。
ただ、莉香と飲む予定の時は
閉店時間までいることが多いので、
その時は送ってもらっている。
「もうそろそろ開店だね。
晴ちゃん。よろしくお願いします。」
「はい!」
拓馬のリクエストとともに、
店の照明が淡いセピア色に変わる。
グランドピアノには、
青白いスポットライトの光が照らされた。
空間を創るこだわりが、照明に表れている。
晴は、グランドピアノの元へ歩いていった。
このステージが、
自分の為に用意されているとは
今でも信じられない。
今ニーナの姿はないが、事前に言葉をもらっていた。
『ミセに、ハルのセカイをひろげてください。
Fidati di te stessa.』
“自分を信じて。”
朋也に翻訳してもらい、晴は
その言葉を胸に刻んだ。
―何て心強い言葉。
好きな時間を、
好きなだけ楽しめばいいのよね。
そう考えたら、自然に微笑んでいた。
ゆっくりピアノ椅子に腰を下ろし、
譜面台に置いていた複数の楽譜に目を向ける。
年季の入ったその楽譜たちは、
彼女が実際使っていたものである。
実家に置いてあったあらゆる楽譜を、
母親に頼んで送ってもらった。
それが届いた時、苦しい思い出よりも
楽しかった時の記憶が蘇ってきた。
不思議だった。
見たくもないとまで思っていたのに、
愛おしく感じたのだ。
その楽譜たちを送ってもらった理由は、
頭に叩き込まれた曲だけでは、
レパートリーが少ないと考えたからだ。
復習を兼ねて、これから弾いていこうと。
勿論、楽譜通りに辿るわけではない。
その日に下りてくる表記を加えて、
演じるつもりだった。
それが楽しみで仕方ない。
―今夜は・・・・・・そうだなぁ・・・・・・
今日の出来事を頭の中で巡らせ、
楽譜を手に取って探る。
そうしていると、ぴんと来る曲があった。
―うん。これにしよう。
その曲の所で楽譜を広げ、譜面台に置く。
―少しでも、涼しくなるといいな。
これから貴重な時間をともに過ごす二人に、
労いを籠めて。
ふわりと、両手を鍵盤の上に置いた。
バックヤードから学が出てきた時には、
繊細な音の粒が
店内を満たしていた。
水の動きが目に浮かぶような、清涼の調べ。
溢れるマイナスイオン。
猛暑で疲弊していた身体が、
その粒に包まれてクールダウンしていく。
「マナ。」
拓馬は彼にグラスを差し出す。
それには、程よく冷えたレモン水が注がれていた。
会釈してそれを受け取り、
一気に飲み干して、ふぅ、と息をつく。
「・・・・・・ありがとうございます。
生き返りました。」
「ははっ。それは良かった。」
ピアノに向かう晴の姿を見て、学は
ぼそっと呟く。
「・・・・・・全開っすね。」
拓馬もその姿に目を向けて、満足そうに笑った。
「絶好調だよ。」
「・・・・・・不思議っすよね。
藤波さんの弾くピアノ。
力、もらえるんっすよね・・・・・・」
「ははっ。僕も同じこと思ったよ。」
二人はしばらく、彼女が紡ぐ音色に浸る。
漆黒の光沢と一体化する彼女の姿は、
音色に戯れる水の妖精の如く・・・・・・
しなやかに揺らめいていた。
拓馬は自然に、言葉を漏らす。
「このまま開店しよう。」
開店した直後、一台の黒い車が
店の近くで停まった。
シャープなキャラクターラインが特徴的である。
後部座席が開き、そこから
一人の男性が地面に足を降ろした。
男性が降りたら、車は走り去っていった。
ネイビーカラーのスーツを身に纏う、
優雅な出で立ち。
漆黒の髪は額から後頭部に流して整えられ、
清潔感を生み出している。
彼の雰囲気は、すぐに人目を惹きつけた。
履きこなされた革靴は、
アスファルトに溜まった水滴を弾いて
歩く度に快音を鳴らす。
周りの空気を取り込む足取りは、
“Calando”へと真っ直ぐに向かっていた。