*Notation 7* 相沢 樹(あいざわ いつき)
大きな一歩。
彼の瞳に宿る小さな灯火を目の当たりにして、晴は気づく。
先が見えない程暗闇に閉ざされた道を、照らす光。
ゆっくり、進んでいく。
7
今朝の東京は雨。
厚い雲が覆い、一帯が暗かった。
梅雨前線の影響である。
ワンルームマンションの玄関から、
淡く染まる桜色の傘を片手に持った
スーツ姿の女性が出てくる。
藤色のショルダーバッグを肩に掛け、
同色のパンプスを
ゆっくりのリズムで鳴り響かせ、
屋根のあるぎりぎりの所で立ち止まった。
天然のうねりを加えた赤褐色の髪は
側面を後頭部に流し、楕円形の髪留めで
ボリュームを抑えている。
彼女は、真っ直ぐな髪に憧れていた。
その憧憬の為に、
ストレートパーマや縮毛矯正など
何度も施している。
だが、ある日諦めた。
心が折れてしまった。
この天然のうねりは、真っ直ぐになれと
何度も何度も言い聞かせても、聞いてくれない。
なので、今はこのままでいいと、
自分に言い聞かせている。
彼女の長いまつ毛は
その憂鬱な気持ちと反比例し、
マスカラで上に向かっている。
瞳は、曇天を映していた。
―・・・・・・この時期って、ほんと嫌。
髪も爆発しちゃうし、
気持ちも沈んじゃう。
小さくため息をつき、
意を決するように傘を開いて踏み出す。
同時に、雨音が
ぱらぱらと傘の上を弾いた。
―・・・・・・でも、この憂鬱な気持ちも・・・・・・
もうすぐ無くなる。
アスファルトには所々水溜まりが
出来ており、歩く度に水が跳ねて
ふくらはぎを濡らす。
―今日人事部に、退職の相談に行かなきゃ。
・・・・・・一年間、
あっという間に過ぎた感じだなぁ。
何となく。
これって、とても怖い。
初めは、都会に出て生活するという
嬉しい気持ちが強くて、楽しかった。
仕事も。
広告代理業界って人気が高い職業だし、
内定をもらえて本当に嬉しかった。
著名人に会えるし、自分が携わった企画が
世間に出たらと思うと・・・・・・
頑張れる気がしていた。
・・・でも、理想と現実のギャップを
埋めるのが・・・・・・難しかった。私は。
クライアントの意見を第一にしつつ、
売り上げに比例させる企画を練り上げる。
これは結構シビア。
比例しないとすぐクレーム来るし・・・・・・
地味な作業を淡々と、こなしていく毎日。
自分の意見も、日を追う毎に埋もれていく。
自分が本当にやりたい事は?
やりたかった事は?
それを考えるようになった。
自分の意思は?
このまま、消えて
なくなっちゃうのかな・・・・・・って。
横断歩道の信号が赤になっているのを確認し、
女性―晴は立ち止まる。
―・・・・・・
お母さん。お父さん。ごめんね。
心配かけるけど、またちょっと頑張りたい。
ピアノから距離を置いて、気づいた。
私には、ピアノが必要だった。
喉の渇きを潤す水のように。
弾きたい。
こんなに自分が、
ピアノを求めるとは思わなかった。
それに、気づいてしまった。
“Calando”でピアノを弾かせてもらって、
本当に良かった。
生き返った気がする。
やっと、息を吸えたっていうのかな。
莉香には、本当に感謝しかない。
莉香はすごい。
今関わっている企画がうまくいけば、
昇進できるかもしれない。
ごめんね。迷惑かけて。
いつも私を引っ張ってくれて、
今まで本当にありがとう。
これからもね。
同僚ではなくなるけど・・・・・・
応援するから。
莉穂。
拓馬さん。
“Calando”というお店。
ニーナさん。
佐川くんとお爺さん。
短い時間で、
すごく素敵な出逢いがあった。
・・・・・・朋也から、始まって。
信号が青になり、
同じく駅に向かう人波とともに
再び歩き出す。
―・・・・・・朋也の事も、
朋也が失くしている記憶も、
少しずつ分かってきて。
お爺さんが力になってくれるって
言うし・・・・・・心強いかも。
佐川くんとお爺さんに感謝しないと。
この二人がいなかったら、
朋也と私はどうなっていたんだろう。
・・・あの怖い、黒い風に
飲み込まれていたかもしれない。
・・・・・・今夜また、“Calando”に行こう。
佐川くんと話をしなければ。
・・・普通に話せないのよ、ね?
また、“あの世界”で話す事になるのかな?
・・・・・・
お祖父さんが行方不明、かぁ。
穏やかじゃないよね。
表向きは、亡くなったことに
なっているみたいだし・・・・・・
朋也は、佐川くんのお祖父さんと
知り合いみたい。
・・・・・・偶然が、奇跡過ぎる。
ある事を思い出し、晴は頬を
ほんのり赤らめる。
―・・・・・・朋也から、ハグされちゃった。
多分、この言い方は
正しくないかもしれないけど。
でも、ハグよね。
うん。
あの後すぐ自分の部屋に戻っちゃって、
ちょっと残念だったけど。
・・・・・・もう少し、
あのままでいたかったな・・・・・・
お爺さん、ありがとう。
一回きりなのかなって思ったけど、
まだあの鍵は消えずに残っているから・・・・・・
使えるのよね。
うふふ。
今度使った時は、私からハグしようっと。
・・・・・・朋也、困るかな?
いいや。困っても。
・・・・・・
キスは・・・・・・?
出来ると?
“キスは挨拶だ。何も構う事はない。”
そんな事、さらっと言ったよね。
・・・・・・出来るのかな?
・・・・・・
ダメよね。ごめんなさい。
調子に乗りました。
あの時は、エアだったから
乗ってくれたんだと思う。
あれは、流石に恥ずかしかった。
ごめんなさい。やばい。
・・・・・・
朋也の心には、真弓さんがいる。
当時の想いが、止まったまま。
・・・・・・
・・・・・・切ないなぁ。
最寄りの駅に辿り着いた晴は、
傘を閉じて水滴を軽く払うと
改札口に向かう。
通勤、通学時間なので、構内は
彼女のようにスーツ姿の会社員たちや、
制服を着た学生たちが行き交っていた。
ショルダーバッグから
ケースに入れたICカードを取り出し、
慣れた手つきで自動改札機にかざす。
人波が途切れることなく、
ピッという快音が連続して響いている。
―・・・朋也って、何でも深く掘り下げて
物事を考えているというか・・・・・・
朋也の言葉って、重みがあるのよね。
理屈だけじゃないというか。
階段を上り、ホームに向かうと
乗車を待って並ぶ列に後続する。
―彼といる時間って、とても濃い。
好き。
どうしようもなく好き。
かなわない想いなのに、
どうして頑張っちゃうのかな。
分かんない。
ほんと不思議。
自分でもおかしいと思う。
・・・・・・
一緒にいるだけで、嬉しい。
楽しい。好き。好き過ぎる。
うーん。無限ループ。
ずーっと彼のこと考えとぉなぁ。
病気やん。
《まもなく、通過電車が参ります。
危ないですから、
黄色い線までお下がりください。》
アナウンスの後、
接近メロディーが鳴り響く。
ホームに電車が入ってくる姿を、
晴は目で確認した。
すると、ホームから通過電車に向かって
飛び込む影を捉える。
―えっ?!
電車のスピードは落ちない。
その影は、電車の先端部分に衝突した。
―うそでしょっ?!
大惨事が目の前で起こるとは、
少しも予想していなかった。
一歩も動けず、晴は言葉を失う。
『しっかりしろ、晴。』
背後から、冷静沈着な低い声が掛かる。
考えて止まない、彼の声音。
絶対的安堵感と
相対的高揚感が、纏う。
『踏み込んでしまったようだ。』
その言葉の意味を、
彼女は瞬時に理解して息をつく。
ぴんと張り詰めた緊張が、少しだけ緩んだ。
その声の方向に振り向き、尋ねる。
「・・・・・・今回は、どんな“人”なの?」
―・・・自殺?
その質問に、朋也は応えることなく
通過電車と影が衝突した場所を
見据えている。
『・・・・・・何とも言えないな。』
「・・・?」
気づけば、ホームにいるのは
自分と朋也だけになっていた。
この状況に、晴は首を傾げる。
今までは、世界を作り上げた“人間”がいた。
だがその源となる主が、見当たらない。
彼は、感情の起伏もなく告げる。
『・・・・・・他殺が関与している可能性が高い。』
《まもなく、通過電車が参ります。
危ないですから、
黄色い線までお下がりください。》
先程のアナウンスが響いた。
同様に接近メロディーが鳴り、
電車がホームに入ってくる。
“他殺”という単語に、
彼女は目を見開いて口をつぐんだ。
ひゅっ、と人影が現れ、通過電車の先頭に衝突する。
分かってはいたが、目を瞑って背けた。
恐る恐る片目を開けて、様子を窺う。
先程と同様に、人影は消えて
誰もいない状態だった。
電車の姿もない。
堪らず、晴は尋ねる。
「自殺した“女性”の時と似ているけど・・・・・・
違うの?」
『・・・・・・』
朋也はそれに答えず、無言のまま
その場所を一点に見据えている。
見定めようとしている彼の真剣な表情を、
彼女は邪魔しないように見つめた。
しんとした空間に、
しばらく二人は均衡状態で立ち尽くす。
《まもなく、通過電車が参ります。
危ないですから、
黄色い線までお下がりください。》
『・・・・・・晴。あの人影を撃つ。』
ぽつりと紡がれる言葉を受け入れ、
晴は身を引き締めた。
人影は、電車がホームに入ってくると同時に飛び出し、
吸い込まれるように消えていく。
『次のタイミングで撃つぞ。』
彼女は小さく頷くと、
ショルダーバッグから拳銃を取り出した。
それを手にすると、
感触、重み、全てが
現実の物ではないかと錯覚する。
緊張感を持って、彼女は両手で
ラバー製のグリップを持つ。
『片膝を付いて腰を落とし、
その体勢から狙いを定めて構えてほしい。
撃つタイミングは俺が言う。』
的確な指示を受け、
言われるままに晴は従った。
地面に右膝を付き、両腕を伸ばして狙いを定める。
見据える先は、
人影と電車が接触した場所である。
朋也の大きな左手が、
彼女の頭に触れるように置かれた。
毎回この瞬間、
晴は大きな衝動の波にさらわれる。
しかも回を増すごとに、
度合いが強くなっている気がした。
《まもなく、通過電車が参ります。
危ないですから、
黄色い線までお下がりください。》
アナウンスが流れ、接近メロディーが鳴る。
彼の視界が彼女に投影され、
秒がゆっくりと刻まれていく。
人影が出る瞬間まで、鮮明に。
『・・・・・・撃て。』
火蓋は、短く切られた。
晴は素早く引き金に指を掛ける。
ダンッ!!!
大音響とともに、時が止まる。
人影は、電車の先頭部分に
触れるか触れないかの位置で
浮かんで止まっている。
この光景に、晴は凝視せざるを得なかった。
『渡せよ!!お前撮っただろ?!』
怒号が響く。
息を整える暇もなく、びくっとして
彼女はその方向に目を向けた。
浮かんでいる人影の近くに、二人。
怒号を響かせた男は、必死の形相で
相手に馬乗りになって睨みつけている。
スーツを着た中年男性だった。
相手の頭をホームの地面に押さえつけ、
抑圧していた。
抑制されたその相手は、
学生服を着た少年である。
うつ伏せで頭を押さえつけられ、苦しそうだった。
両腕を胸の所で組み、何かを包み隠している。
「や、やめてください・・・・・・」
『そのカメラを渡せば放してやる!』
「ぼ、僕が撮っていたのは電車ですっ・・・・・・
僕は何も・・・・・・」
『嘘つくな!!映ってんだろ?!』
「何のことか、ほんまに分かりませんっ・・・!
だ、だれか助けてっ・・・・・・」
急に、ホームに現れた二人を
晴は戸惑いながら見る。
その状況を、冷徹に見据えて朋也は告げた。
『・・・・・・紛れ込んだのか。』
「・・・?」
『押さえつけられた少年は、君のように
まだ生きている人間だ。』
「えっ?!」
『・・・・・・好ましくないな。』
『渡さないなら、酷い目に遭わせるぞ!!』
脅す声が、容赦なく少年を突く。
少年は晴と朋也に気づき、
救済を懇願する目を向けた。
男の恐喝に晴は足がすくんだが、
勇気を振り絞って一歩踏み出そうとする。
だが、朋也は彼女の肩に手を置いて
それを制した。
『危険だ。俺が行く。』
朋也は、隙のない足運びで二人の元へ歩いていく。
その彼に気づき、
スーツの男は鋭く睨みつけた。
『何だよ。向こう行け。』
『取り込み中だとは思うが、俺はその子の保護者でね。』
朋也の発言に、少年は目を見張る。
『保護者だと?』
『その子は電車が好きで、写真を撮っていただけだ。
見逃してくれないか。』
『・・・・・・デタラメ言うな!』
『尋ねるが、そこにいる彼を
ホームから突き落とした憶えはないか?』
その尋問に、スーツの男の目が
さらに鋭くなる。
『・・・・・・お前、見たのか?』
『その罪悪感で、この場所に縛られている。
あなたは耐えきれなくなって
自殺したんだろう?』
思わぬ言葉の投げ掛けに、男の表情が一変する。
『・・・・・・俺が・・・・・・自殺?』
『あれは、あなたが作り上げた残像だ。』
朋也と男のやり取りを、
息が整った晴は静かに見守っていた。
スーツの男は、
電車の先頭に浮かぶ人影に目を向けて
身体を震わせる。
少年に向かっていた憤怒が、
懺悔の色に染まっていった。
『・・・あ・・・・・・あいつが悪いんだ。
あいつが俺を脅すから・・・・・・』
『揺すられていたのか?』
『・・・・・・それだけじゃない。
俺の嫁にまで手を出そうとして・・・・・・』
『何があった?』
『・・・・・・出来心だったんだ。
万引きしたのを見られて・・・・・・
ただのガムだ。それ一つだけで、
こんなことになるなんて・・・・・・』
『・・・その罪は、重かったな。』
『・・・・・・何もかも、滅茶苦茶になった。』
『立場や地位を守りたかったのは
分かるが・・・・・・事実を歪ませ、
罪を受け入れなかった事に問題がある。』
『・・・・・・ああ。もう、遅い。』
少年の頭から手を離し、
男はふらりと立ち上がって歩き出す。
向かう先は、時が止まっている人影の元だった。
『・・・・・・晴。』
朋也に呼ばれ、晴はすぐに彼の傍へ行く。
拳銃を男に向かって構えた彼女の頭に、
彼は手を置いた。
その光景を、少年は瞬きもせず見守る。
ホームの際まで歩いていくと、
男は人影に向かって言葉を吐き出した。
『あの日から・・・・・・苦しかった。
これで・・・・・・やっと、楽になれる・・・・・・』
人影は、何も答えない。
男の発した言葉は、
悠久の時刻を終わらせる意が籠められていた。
『・・・・・・撃て。』
朋也が、声を放つ。
晴は、迷わず引き金を引いた。
ダンッ!!!!
男が人影に向かって身を投げた瞬間、
見えない銃弾が放たれる。
束縛していた黒い鎖が、打ち砕かれた。
残像と重なり、電車の先頭に吸い込まれる。
少年は衝動が抑えられず、
両腕で包み隠していたカメラを
二人に向けて構え、シャッターを押した。
止まっていた電車は動き出し、
ホームを通過していく。
それを見送り、
晴は息を整えるように深呼吸する。
『・・・・・・大丈夫か?』
言葉とともに送られる
朋也の眼差しは、労わりとともに
包み込むような温かさを宿していた。
先程の、冷徹で鋭い彼の姿は消えている。
「・・・・・・うん。」
晴は、笑顔で応えた。
彼の変化を、彼女は鼓動を高めながら感じ取る。
自分に向けられるものが、とても温かい。
スーツの男に押さえつけられていた
少年は、その体勢のまま
囚われたように二人を見守っていた。
地面に置いたショルダーバッグを拾って
拳銃を直すと、晴は朋也に尋ねる。
「・・・・・・あの“男の人”、突き落とした
罪悪感に耐えきれなくなって
自殺したってこと?」
過ぎ去った電車の余韻を辿るように、
朋也は線路に目を向けて頷いた。
『・・・・・・ああ。恐らく、
ホームに突き落とされた“男性”が
“彼”を引きずり込んだと思う。
君たちの世界では、
“怨念”と呼ばれるものだろうな。
・・・このケースは、残念ながら珍しくない。
死に追いやった恨みが罪悪感と繋がり、
“彼”を束縛した。』
“怨念”と聞いて、晴は震え上がる。
朋也は、ちら、と少年に目を向けた。
その視線に、はっとして
すぐさま身体を起こして立ち上がり、
深々と頭を下げる。
「・・・あ、あのっ。助けてくれて、
ありがとうございました!」
どこか嬉しそうにお礼を言う少年を、
朋也は見据えながら言葉を紡ぐ。
『・・・あまり驚いていないな。
君は生きているが・・・・・・
“俺たち”の方に近い。
紛れ込むのは今回が初めてだろうが・・・・・・
何か重い病気を抱えているのか?』
投げ掛けられた質問に、少年は
つぶらな双眸をさらに大きくした。
「ど、どうして分かったんですか?
え、えっと・・・・・・はい。
生まれつき、心臓が悪いです。」
言葉の独特なイントネーションに、晴は気づく。
―・・・・・・地方の子かな?
『“ここ”に紛れ込むのは、
あまり好ましくない状態だ。
改めて、早急に病院で診てもらう方がいい。』
「・・・・・・もしかして
ここは、“あの世”ですか?」
朋也が言うように、少年はこの状況を
あまり驚いていないようだった。
むしろ、どことなく
楽しんでいるように見える。
それを、晴も感じ取った。
朋也は、訝しげな表情を浮かべて言葉を返す。
『その認識は間違っていないが・・・・・・
俺たちがこの場にいなければ、君は二度と
現実に戻れない事態になっていた。
それを自覚してほしい。』
「・・・・・・」
はにかむように笑い、
少年は両手で持つ物に目を落とす。
それは、インスタントカメラだった。
“スーツの男”から奪われそうになり、
うつ伏せになって護っていた物である。
「すみません。
お迎えが来たんだと思って・・・・・・
喜ぶのは、おかしいですよね。」
『・・・・・・』
「・・・入院が必要なくらい、
悪くなっているのは分かっています。
でも、お金がないんです。
これ以上、兄ちゃんに負担かけたくないんです。
兄ちゃんは一言も愚痴らへんし・・・・・・
僕がいない方が、絶対いいのに。」
目線とともに、陰を落とす。
その事情を汲み取り、
朋也は穏やかに言葉を掛けた。
『そんな事を言ったら、兄さんは悲しむぞ。
君が病気なのは、君のせいじゃない。
大切な人が苦しんでいるのを、
助けたいと思うのは当然だ。』
「・・・・・・」
『・・・・・・そのカメラは、
兄さんからもらったのか?』
そう尋ねられ、少年は顔を上げて
柔らかく微笑んだ。
「はい。入学祝で、もらいました。
・・・・・・写真を撮るのが好きなんです。
おにいさんがさっき言わはった通り、
電車を撮るのが特に好きで・・・・・・あれ?
そういえばさっき撮ったフィルムが
出てきぃひんなぁ・・・・・」
その柔らかい微笑みにつられて、
朋也も笑みを浮かべる。
『そうか。宝物だな。』
「はい!」
『・・・・・・よし。君がまた、“ここ”に
迷い込む事態になったら・・・・・・
助けよう。何かの縁だ。』
少年は驚きの色を見せると同時に、
歓喜の彩りを浮かべた。
「ありがとうございます!
・・・・・・かっこええなぁ・・・・・・
おにいさんは、何者なんですか?」
『君たちの世界で言えば、“幽霊”だ。』
「ゆっ・・・・・・」
一歩後ずさり驚く少年の反応に、彼は満足そうだ。
―・・・私の時もそうやけど、
反応を楽しんどるよね・・・・・・
晴は自分の事を思い出して、苦笑する。
『俺は、片桐 朋也。君は?』
「・・・・・・」
少年は、躊躇いがちに尋ねる。
「・・・名前を言ったら、呪われるとか、ないですよね?」
『ふははっ。色々情報が飛び交っていて
難儀だな。・・・・・・多分、大丈夫だ。』
「・・・・・・僕は、
相沢 樹です。」
『・・・樹。彼女は君と同じ
生きている人間だ。安心してくれ。』
ふいに話を振られ、晴は目を丸くして
背筋をぴんと伸ばす。
少年―樹は、晴に目を向けると
にこにこしながら会釈をした。
その瞳は、とても輝いている。
「・・・あの・・・・・・さっきは、
ほんまに格好良かったです。」
彼女にとって、思いもよらない言葉だった。
「え?」
「幽霊を退治しはるんでしょ?
ほんま、かっこええです!
おにいさんみたいな
かっこええ幽霊を召喚して、
悪い幽霊をやっつけるとかですか?」
「・・・召喚?い、いや、私の方が
踏み入れちゃうというか・・・・・・
退治じゃなくて・・・・・・
解放するというか・・・・・・」
斬新過ぎる樹の発想に、
どう正しく説明しようか晴は困った。
―・・・そっか。なるほど。
朋也が言葉で説明するのに困っていた
理由が、分かった気がする。
悩んでいる彼女に対して、樹は
屈託ない笑顔を向けて語り続ける。
「さっき、おねえさんが撃つ瞬間を撮ったんですけど、
フィルムが出てきいへんのです。
カッコ可愛く写っとるはずなんですけど・・・・・・
すんません。今度また、
改めて撮らせてもらいますね!」
きらきらした目を向けられて
彼女はただ、微笑むことしか出来なかった。
それを察して、朋也は笑いながら晴に言葉を掛ける。
『晴。君の世界でも、
樹と話し相手になってやってくれ。
上手く説明しなくても、
彼は受け入れてくれるだろう。』
真っ直ぐで澄んだ眼差しに、戸惑いが強かったが
どことなく嬉しさもある。
こそばゆさを感じながらも、晴は朋也の要望に頷く。
悩む事を止め、彼女は樹に笑顔を向けた。
「・・・・・・相沢くん。
私は、藤波 晴です。」
「あっ。樹でええです。
僕も、晴さんって呼んでもええですか?
ものごっつええ名前ですね!」
地方の言葉で難解だが、
べた褒めされていることを強く感じ、
彼女は頬を赤く染めて言葉を述べる。
「・・・“ここ”が消えたら、
元に戻るから安心してください。
樹くんは、今から学校よね?」
「・・・・・・学校、行かなあかんですか?」
「ふふっ。そうね。
私も今からお仕事だから・・・・・・
行かなくちゃ。」
「じゃあ、メルアド教えてください!
色々話を聞きたいです!・・・・・・あっ、
これって、ナンパになりますか?」
顔色を窺う少年に、
優しく微笑みと声を返そうとした時。
気づけば、行列を作っていた人波に流されて
電車に乗り込んでいた。
はっとして周りを見回すが、
樹の姿を確認できないまま電車の扉が閉まる。
―思ったよりも、戻るのが早かったなぁ・・・・・・
『多分また、会えると思う。
彼は・・・・・・ほぼ、“俺たち側”にいる。』
朋也の声が響く。
晴は電車のドア付近に身を寄せ、
心の中で彼に語り掛けた。
―・・・・・・樹くん、死んじゃうの?
『・・・・・・このままだと、な。』
―・・・・・・どうにもならないの?
『早期の施術が必要だろう。
だが、それも厳しいかもしれない。』
―・・・・・・
信じられない。あんなに明るく、
元気そうにしていたのに。
『彼には、複雑な事情があるようだ。
明るく振る舞うのは、
それを気取らせないようにしているからだ。』
―・・・・・・出来る限りのことをしよう。
『ああ。』
二人は、そう誓った。
この少年との出逢いは、彼らの特異点となる。
あれから何事もなく会社に着き、
オフィスに入っていくと、
晴は莉香のデスクに目を向けた。
彼女の後ろ姿と同時に、その足元で
飛び抜けて明るい笑顔で手を振る
莉穂が目に入った。
晴は、つられるように微笑む。
「おはよう、莉香。」
莉香の近くまで歩いていき
声を掛けると、彼女は
はっとして顔を向ける。
その流れで、傍まで来た晴の両手を、
自分の両手で掴んだ。
「えっ。どうしたの?」
半ば強制的に引き留められ、
その行動にびっくりして尋ねるが、
莉香は俯いたまま何も言わない。
「・・・・・・莉香?」
「・・・・・・おはよ、晴。」
「・・・・・・うん。おはよ。」
莉香が顔を上げる。
彼女の表情に、晴はどきっとした。
目が充血している。
潤んで、今にも涙が溢れそうだった。
晴は慌てて、莉香の目線に合わせて腰を落とす。
「どうしたの?」
今の彼女は、普段オフィスで見せる顔ではない。
弱々しく、しおらしい。
「・・・・・・あのね、今日、
仕事休もうかと思ったけど・・・・・・
晴に、どうしても会って話をしたくて・・・・・・」
「・・・・・・うん・・・・・・」
胸が騒いで、仕方がない。
「・・・・・・実はね、さっきまで・・・・・・
マナと一緒にいたの。」
「・・・・・・えっ?!」
「車の中で、ずーっと話をして・・・・・・
流石に帰らなきゃ、ってなって、
お別れして・・・・・・
お風呂に入って、着替えて・・・・・・」
「えっ?車の中で?ずーっと?
えっ、なに?どういうこと?」
―私を送った後、何があったの?
ドキドキしながら、晴は話の続きを待った。
莉香は深いため息をついた後、
堰を切ったように話し出す。
「・・・・・・あまりにも、あいつの反応が無さすぎて
イラっとしたからさ。私からね、仕掛けたの。
気がなかったら、諦めようと
思っていたんだけど・・・・・・
私の事、好きだって言ってくれて。
でもね。あいつ、なんなの?ほんと・・・・・・
勢いってもんがあるじゃない?
押し倒したんなら、
普通は成り行きっていうか・・・・・・」
「ええっ?!押し倒っ・・・・・・」
急展開過ぎて声が上がりそうになり、
晴は両手で口を抑える。
「でもね、私を丁寧に起き上がらせて、
話し始めたのよ。どう思う?
普通はキスとか、するじゃない?
好きだって言った後よ?
押し倒して気持ちを伝えた後よ?
・・・抑えられなく、ならないの?
イチャつかずに話し明かすなんて・・・・・・
可愛すぎない?普通に話せて、
そりゃあ嬉しかったけどさ。
大事に想ってくれているからだって、思ったけどさ。
・・・でもよ?
私って、そんなに魅力ない?」
心の内をぶちまける莉香が可愛すぎて、
晴は抱き締めたくなった。
慰めるように、言葉を掛ける。
「夜が明けるまで
語り合ったって事でしょ?
素敵だと思うよ。
本当に、大切に想ってくれている証拠だね。
・・・・・・急展開で、びっくりしたよぉ。
で?付き合う事になったの?」
「・・・・・・分からない。」
「えっ?」
「付き合うとか、
そういう話はなくて・・・・・・分かんない。
あいつが分からないよぉっ」
両手で顔を覆う莉香。
晴は、顔を緩ませて見守る。
「どうしよう・・・・・・これから。
私から付き合おうって、言うしかないの?」
「・・・ふふっ。」
「もう結構、頑張ったのに・・・・・・」
「うん。そうだよね。仕掛けるとか、びっくりしたよ。」
「お酒の力を借りたのよ。場の雰囲気も借りて。」
「うんうん。」
「お互いに好きですってなったら・・・・・・
普通は、付き合うとかになるよね?」
「なるよね。」
「・・・・・・はぁ・・・・・・」
意気消沈している莉香の頭に、晴は
そっと手を置く。
「これからゆっくり進めばいいよ。
大きな一歩を踏み出したんだから。」
「・・・・・・」
「ふふっ。進展したら教えてね。」
顔を覆っていた両手をゆっくり外し、
莉香は晴を見上げる。
温かく優しい眼差しを受け、
はにかむように笑みを零した。
「・・・・・・うん。ありがとぉ。晴。」
その可愛らしい笑顔に、満面の笑みで応える。
―佐川くんに、
ちょっと聞いてみようかな・・・・・・
普通に話せたってことだよね。
莉香の様子だと、“特殊な見え方”の事を
話してなさそうだし・・・・・・
晴は、莉香の傍にいた莉穂に
ちらっと目を向ける。
彼女は晴の疑問に答えるように、
とびっきりの明るい笑顔を返した。
小さな、グッドサインと一緒に。
―そっか。
佐川くんが“特殊な見え方”に気にせず
普通に話せたのは、
莉穂のお陰かな・・・・・・?
朋也が眠ってしまった時も、
お爺さんが驚いていたもんね。
莉穂って、すごいのかもしれない。
・・・・・・でも、このままだと
ちょっと莉香が・・・かわいそう。
莉穂の力のこと、佐川くんに
伝えたほうがいいのかも・・・・・・
「・・・晴。今日もお店に行くの?」
尋ねられて、晴は躊躇いなく頷く。
「うん。行くつもり。」
「私は流石に、今日は無理かも・・・・・・
おとなしく帰って、寝ようと思う。」
眠そうに欠伸をする莉香を見て、
くすっと笑った。
「これからに備えて、ゆっくりね。」
「・・・・・・何か、晴がすごくおねえさんに見える。」
「え?」
「イケメン幽霊の彼と、何かあった?」
「・・・な、なにもないよ。」
―あのハグは、違うもん。
「ほんと?」
「ほんとだって。」
「じゃあその落ち着きは何?」
「・・・え、えっと・・・・・・」
「教えてよ。」
「・・・・・・ハグされた。」
「できるの?!」
「・・・・・・できるみたい。」
「じゃあ、キスは?」
「し、してないよ。」
―出来るか、分かりません。
「・・・・・・いいなぁ。晴の方が進んでる。」
「・・・・・・進んでるっていうのか、
分からないけどね。」
「幽霊の彼、絶対晴のこと好きだよ。
じゃないとハグしないって。」
「・・・・・・彼には、
複雑な事情があったんだと思う。」
―そんな、ハグだった。
「それこそ、大きな一歩じゃない?」
「・・・・・・一歩って、言えるのかどうか。」
莉香の頭に触れていた手を引き、
晴は目線をフロアに落とす。
その表情を見つめ、莉香は微笑んだ。
「晴の方が、難しい恋愛してるよね。
すごいね。
短期間で変わるもんだね。」
「・・・・・・変わった?」
「うん。すごくいい女になった。」
「な、何それ?」
「私も頑張る。ふふっ。
・・・・・・そうそう。
マナって、すごく喋るのよ。
そのギャップがたまらなくて。
とてもいい笑顔で話すの。可愛くって。
何か、母性本能くすぐられちゃって。」
「・・・ふふっ。」
「晴。聞いてくれてありがとう。」
「またお昼にね。」
互いに笑い合った後、晴は自分のデスクに歩いていく。
小さくため息をついて、
デスクチェアに腰を下ろした。
―・・・・・・難しい恋愛、かぁ。
確かに、生きている人間同士の恋愛なら・・・・・・
悩む必要はないよね。
・・・・・・
心は、繋がっているのに。
分かることが、つらいなんて。
切ない。
勤務が終了した時刻は、
定時より一時間過ぎた頃だった。
晴は会社を出て、“Calando”に向かう。
この時も空には雲が覆い、雨が
しとしと降っていた。
“Calando”の扉の前を照らす
ランタン風の灯りは、湿気を含んで
ぼんやりしている。
扉の前で傘を閉じ、軽く水滴を払うと
傍に設置されている陶器の傘立てに入れた。
小さく息をついた後、扉を開ける。
すると、落ち着いたBGMの音色が
ふわりと彼女を出迎えた。
「おお、いらっしゃい。晴ちゃん。」
カウンター越しに、明るい声が掛けられる。
笑顔で迎えてくれた拓馬に、
晴は会釈をして微笑んだ。
「こんばんは、拓馬さん。」
「今日も来てくれて嬉しいよ。
さぁ、好きな所へどうぞ。」
そう促され、店内を見渡す。
淡いセピア色の照明が彩る中、
客の姿は疎らだった。
昨日の、満席だったあの熱気はない。
「雨の日はこんな感じだよ。憂鬱な時期に入ったね。」
晴が一人で店に来たのを察して、
拓馬は、ふふ、と息を漏らした。
「・・・流石に、莉香ちゃんは来ないか。」
その含み笑いに、なぜか緊張する。
「・・・・・・そうですね。今日一日中、
眠そうに仕事していましたから。」
―・・・・・・佐川くんと
一夜明かしたって知ったら・・・・・・
拓馬さんはどんな反応するのかな?
「マナも、眠そうにしているんだよな・・・・・・」
晴は、さらに緊張する。
「へぇ~・・・・・・そうなんですね~・・・・・・」
「晴ちゃんはどう思う?」
「えっ?な、何がですか?」
「莉香ちゃんとマナだよ。
昨日、何かあったと思うかい?」
―す、鋭い。
「さ、さぁ~・・・・・・
送ってくれた後の事は・・・・・・
分かりません。」
「だよなぁ・・・・・・知るわけないよなぁ。」
「・・・・・・はい・・・・・・」
「・・・・・・晴ちゃんだから話すけど、
実は、マナの背中を押したつもりで
車の鍵を渡したんだ。昨日はね。
酔いつぶれて寝てしまった
無防備な莉香ちゃんを、普通なら託さないよ。
僕が送るところだ。」
―・・・えっ?!
拓馬は、腕を組んで述べる。
「どう見ても二人、両思いだしさ。
場とタイミングが合えば
うまくいくと思ってね。
ちょっと野暮だったかもしれないけど・・・・・・
マナは奥手だし、莉香ちゃんは意地っ張りだし。
このまま平行線よりはいいかなと。」
そんな店主に、晴は尊敬の眼差しを送った。
―そうだったんだ!
二人の事、気づいていたんだ・・・・・・
すごい。さすが拓馬さん。
・・・良かったね、二人とも。公認だよぉ。
「お仕事お疲れさま。
お腹空いているだろう?何か作るよ。
座って待っていてくれ。」
温かい笑顔を向けられ、晴は自然に笑みを浮かべた。
「今日は払いますから。」
「ははっ。気にしなくていいよ。」
「気にしますよぉ。」
「とりあえず、座ってお寛ぎください。お客様。」
「・・・・・・はい。」
拓馬は満足げに頷く。
―・・・・・・このやり取りは、
これからも続きそうやね。
感謝しつつ頭を下げ、改めて店内を見渡した。
グランドピアノが置かれている
すぐ近くのテーブル席が空いていたので、
そこに歩いていく。
―・・・今日は、いいよね。
もし混んできたら席を変わろう。
席に座ると同時に、
バックヤードから学が姿を現す。
その姿を目で捉え、視線を送った。
彼はそれに気づき、動きを一瞬止める。
その微妙なフリーズを、晴は感じ取った。
目線は、相変わらず合わない。
だが、真っ直ぐこちらに向かって
歩いてくるのが分かった。
「・・・・・・藤波さん。」
淀まず、はっきりその声が掛けられる。
相槌を打とうとした矢先、
視界がブラックアウトした。
いきなり視界が遮断され、晴は驚く。
しかし数秒で戻った為、
あまり違和感を覚えることはなかった。
あるとすれば、疎らの客と拓馬の姿が
BGMとともに消えている事である。
「・・・・・・やっぱり。」
ため息混じりに零れた声が、耳に届く。
「あの時だけだったのか・・・・・・くそぉっ」
学は頭を抱えて、しゃがみ込んだ。
彼の様子を窺い、晴は悟る。
今この空間は、“あちらの世界”であることを。
「・・・・・・こんばんは、佐川くん。」
把握した上で、しゃがみ込んでいる学に
晴は微笑んで声を掛ける。
彼は即座に顔を上げたが、
すぐ詫びるように土下座した。
「すんません!これには
込み入った事情がありまして・・・・・・!
藤波さんで確かめてみるしかなくて・・・・・・!」
必死で言い訳をする学に、
晴は苦笑しながら優しく言葉を掛ける。
「そ、そんなに謝らなくてもいいよ。
分かっているから。
その事情は・・・・・・莉香から聞いたよ。」
“莉香”という単語に反応し、
学はゆっくり顔を上げる。
そんな彼は、隅々まで赤く染まっていた。
晴は、顔を綻ばせながら見守る。
「・・・・・・知ってるんっすか?」
「うん、ごめん。全部。」
「全部?!うおぉぉぉっ!!」
学は、地面にひれ伏して頭を抱えた。
『・・・・・・難儀だな。』
可笑しそうに、低い声が響く。
晴はどきっとして、その方向に目を向ける。
自分と対面するように、朋也が
席に足を組んで座っていた。
その切れ長の目は、
地面と一体化している青年に向けられている。
「・・・いや、もうほんと奇跡で・・・・・・
普通に莉香さんと話せて、
嬉しくって嬉しくって、
気づいたら朝になってて・・・・・・
俺、マジ空気読めねぇヤツだ・・・・・・
付き合いましょうとか、
気の利いた言葉一つ言えてねぇし・・・・・・
連絡先も聞くのを忘れたし・・・・・・
あぁ・・・・・馬鹿だ、俺・・・・・・」
自己嫌悪に陥り、もがき苦しむ学を
二人は温かく見守る。
「・・・・・・朋也。
莉穂の事、伝えてもいいよね?」
学に目を向けたまま、晴は尋ねる。
朋也も、彼を目で捉えたまま答えた。
『・・・・・・そうだな。彼女には、
莉穂の“意念”を尊重して
伏せておいた方が良さそうだが。』
ずっと嘆きながら頭を抱える学に、
晴は慰めの言葉を紡ぐ。
「・・・・・・佐川くん。実はね、
その奇跡は・・・・・・莉穂・・・
莉香のお姉さんが
働いてくれた力のお陰なの。」
「・・・・・・」
彼は、ちら、と片目だけ晴に向けた。
「・・・・・・莉香さんの、お姉さん?」
「うん。」
「・・・・・・もしかして、
“ツインテールの女の子”の事っすか?」
―・・・・・・そっか。佐川くん、日常で
莉穂の姿は見えていたんだ。
「・・・・・・そう。」
「莉香さんの・・・双子のお姉さん。」
「そうそう。」
彼は、やっと顔を上げる。
「・・・・・・昨日、聞きました。そうか。
あの“子”は、お姉さんだったのか。
・・・でも、そのお姉さんが
働いてくれたというのは?」
「“彼女”はね、莉香を護る為にいるの。
・・・自分自身を含めて、“この世界”から。
お爺さんも知っていたと思うけど、
“彼女”の“意念”を尊重して、
佐川くんには伝えていないはずよ。
・・・・・・“彼女”の力の事は、
私たちも知ったばかりで
まだ手探りなんだけど・・・・・・」
晴の話で光が差したのか、
学の表情は明るくなっていった。
「・・・・・・“彼女”の“意念”っすか。
なるほど。そうか。
それで俺、すげぇ警戒されていたのか。
莉香さんを護る為に。
俺が話し掛けると大変だから・・・・・・
やっと、すっきりしました。」
彼の様子に、晴は微笑む。
「多分、これからも普通に
莉香とお話しできると思うよ。
・・・莉穂のお許しが出てるから。」
「・・・・・・!マジっすか?!」
「だから・・・・・・早めに、佐川くんから
付き合おうって言ってあげてね。お願いします。」
しゃき、と立ち上がり、学は
力強く頷いて何度も頭を下げる。
「はい!あざっす!!ありがとうございます!
恩に切ります、藤波さん!」
「ふふっ。・・・本当は、お礼は莉穂に
言ってあげたいけどね。」
『・・・・・・デートする場所に困ったら聞いてくれ。』
「うおぉぉっ!片桐兄さん!あざっす!!」
学は、きらきらした目で朋也を崇拝する。
「・・・えっ。何で詳しいの?」
朋也の妙な申し出に、晴は思わず目を向けて尋ねた。
彼は、ちらっと彼女に視線を向けて
小さく笑う。
『君に拾われる前、いろいろ
ぶらついていたからな・・・・・・』
―・・・・・・“ぶらつく”って・・・・・・
“さまよう”の間違いじゃ・・・・・・
・・・え。なにその目。
・・・・・・デート?・・・・・・えっ?
『何やら楽しそうじゃのぉ。儂も混ぜておくれ。』
いつの間にか、カウンター席に
和装の紳士が腰を下ろしていた。
「じいさん!やったぞ!運命の人だ!
奇跡だ!ついにカノジョがっ!!」
全身で喜びを表して
はしゃぐ学に、ふぉ、と一笑する。
『まぁ頑張りなさい。』
その反応に、彼は不満げだ。
「・・・・・・そっけなっ」
『何を言う。慕情とは、人間である以上
永遠に掌握できぬものじゃ。
儂からは何の助言もできぬ。』
「んなこと言って。実はじいさんも
俺みたいにヘタレなんだろ?」
『何とでも言いなさい。
お前にとっては大きな前進じゃ。祝福するぞ。』
「・・・お・・・・・・おお。」
『儂を唸らせる立派な男になれ。
・・・まぁ、おなごを泣かせるお前は、
既に罪深いがのぉ。』
「そうそう。それだよ。一言多いやつね。
それがないと落ち着かねーよ。」
『ふぉ、ふぉ。物好きじゃのぉ。変態め。』
「変態?!」
和装の紳士は、晴と朋也に顔を向ける。
白い前髪が覆って眼差しが窺えないが、
その眼光は二人を捉えている。
『今晩は、お嬢さん。
・・・・・・渡した鍵は使用したかのぉ?』
しわがれた静かな声に、
晴は背筋を伸ばして会釈をした。
「こんばんは、お爺さん。
・・・・・・はい。」
朋也は口を開かず、和装の紳士を見据える。
『あの場所は、“干渉を受けない空間”じゃ。
そなたたちだけの部屋だと言っていい。
・・・今後必要になると思ってのぉ。』
不可解な言葉に、彼女は首を傾げた。
―・・・・・・“干渉を受けない空間”・・・・・・?
『・・・・・・有難うございます。
貴方に出逢えたのも、必然だと考えています。』
『うむ。そなたたちだからこそ、
あの空間を委ねたのじゃ。
儂はそれを提供したに過ぎぬ。』
冷静に言葉を交わす二人を、
彼女は首を傾げながら見守る。
―・・・・・・どういう事?
意味が分からない・・・・・・
『そなたの記憶が完全に戻る事は、
あの“黒い風”を退ける絶対条件。
それを踏まえて、討つ手が必要じゃ。
それには、そなたの時間を進めなくてはならぬ。
共鳴を錬成し、“黒い風”を確実に討つ
銃弾を作るのじゃ。』
和装の紳士が告げる内容を、
晴は半分以上理解できなかった。
だが朋也は、話を飲み込んだ様子で
頷き、言葉を紡ぐ。
『心得ました。』
晴の様子を察して、和装の紳士は声を掛ける。
『・・・・・・お嬢さん。心配ご無用じゃ。
ゆっくり進めばよい。
もう、その一歩を踏み出しておる。』
朋也は彼女に、眼差しを送る。
『・・・・・・言ったはずだ。俺はもう引かないと。』
深くて温かい。
小さい灯火だが、しっかりと佇む。
それを感じて、晴は鼓動を早める。
―・・・・・・でも・・・・・・だって・・・・・・
あのハグは・・・・・・
『意地悪だったかもしれないが・・・・・・
真弓への想いは、
俺が生きていた頃の証だ。
それを、君に預けておきたかった。
・・・・・・俺の全てを、受け入れてもらう為に。』
その瞳は、真っ直ぐに向けられている。
『・・・・・・これから、君を想う為に。』
紛れもなく、ぶつけられている。
自分に。
それを自覚するのは、造作もなかった。
「・・・・・・かっこいい・・・・・・」
学は憧憬の眼差しを送り、ぽつりと漏らす。
「・・・邪魔して、ほんとに、
大変申し訳ないんっすけど・・・・・・
この流れで、昨日の続きをしてもいいっすか?」
晴に向けていた視線を彼に向け、
朋也は静かに頷いた。
『君が知りたい情報があるか分からないが・・・・・・
関わる可能性が大きい情報を話そう。
事情を一部伏せて話すが、
俺は佐川に情報を提供していた。
・・・“黒い風”の中心に浮かんでいた、男の事だ。』
「・・・・・・あれは誰なんっすか?」
『・・・・・・“佐倉井 要”。
生物学のオーソリティ。
当時、学会で発表された遺伝子工学に関する論文が、
研究者達の間で話題になっていた。
しかしそれの為に、彼は国の重要人物を巻き込んで
臨床実験を繰り返していると・・・・・・
黒い噂も流れていた。
それに目を光らせていたのが、佐川だ。
もう一人の協力者とともに、彼の動向を追っていた。
命を尊いものとして扱わない、
非人道的で気儘な思考と行動に、
心から賛同する者はごく僅かだったが・・・・・・
彼は揺るがない人脈を支配し、
最小限の協力者とともに研究を繰り返していた。
その事実を、俺は掴んでいた。』
「・・・・・・じゃあ片桐兄さんは、
もしかして、その人に・・・・・・?」
学の推測に、朋也は首を縦に振らなかった。
『関わった事で命を落としたのは
ほぼ間違いないが・・・・・・
記憶が戻らないと何とも言えない。』
「・・・・・」
『佐川が佐倉井を押さえる為に、
追っていた事件がある。』
「・・・・・・それは?」
『“神隠し”。』
朋也が短く告げた言葉に、和装の紳士は反応する。
『・・・・・・恐るべき輩じゃのぅ・・・・・・』
『今思えば・・・・・・彼は、“この世界”と
通じていたのかもしれません。』
『それが事実ならば、軽視できぬ。』
『・・・・・・はい。
それともう一つ、伝えておく。
俺には、情報を共有していた人物がいた。
・・・・・・学。君のお祖母さんだ。』
「ばぁちゃん?!」
『・・・・・・佐川が亡くなったとされている
事件の内容を、教えてくれ。』
吊り上がっている目尻を、さらに上げて
学は言葉を紡ぐ。
「・・・児童養護施設の放火事故っす。
ガス漏れが原因らしいんっすけど・・・・・・
細工された跡があって、
事件じゃないかと騒がれました。
じいちゃんは重要参考人にされて、メディアに叩かれて。
・・・・・・詳しい事を
知りたかったんっすけど・・・・・・
ばぁちゃんに止められて。」
『・・・・・・そうか。
つらいだろうが、彼女は正しい。
深く立ち入る事は・・・・・・やめろ。』
「なぜっすか?!」
『もし、遺体をすり替えられ、
死亡とされているなら尚更だ。
踏み込むのは危険だと・・・・・・彼女が判断したのなら。
命に関わるからだ。』
「・・・・・・」
『彼女と俺の関係を詮索するのは、控えてほしい。
語れずに悪いが、君を護る為だ。
君の家族を。
・・・・・・だから、
君は表向き静かにしていればいい。
君には、君にしか出来ない事がある。』
警告に近い言葉だった。
それを受けても、
学の眼光が揺らぐことはなかった。
しばらく、沈黙する。
朋也と学が視線をぶつけ合うのを、
晴と和装の紳士は口を挟まず行方を見守った。
激昂することなく、感情を抑えながら
学は声を絞り出す。
「・・・・・・あの“黒い風”を突き止めたら、
何か分かるかもっすよね?」
その言葉の意味を、朋也は汲み取る。
『その通りだ。』
「・・・・・・
分かりました。
言われた通りにします。
それが、家族を護る為なら。
・・・・・・ばぁちゃんの助けになるなら。」
力強い声音と眼差しを見据えて、
朋也は笑みを浮かべた。
『よろしく頼む。』
「何でも言ってください。俺、何でもしますから。」
『そのつもりだ。
今後、君の力は必ず必要になる。
実際助けられている。』
その彼の言葉に、晴も頷く。
『ふぉ、ふぉ。
勿論、儂も尽力するつもりじゃ。
話はまとまったようじゃのぉ。』
和装の紳士は、晴に目を向けて
やんわり言葉を掛ける。
『仕事で疲れているところ
かたじけないが・・・・・・
儂は、お嬢さんの演奏が聴きたいのぅ。』
その申し出に、彼女は目を見開いた。
『俺からもお願いする。
聴きそびれたからな・・・・・・』
朋也も賛成の声を上げる。
それに学も便乗して、笑顔になった。
「いいっすね!俺からもお願いします!
昨日聴きましたけど、
藤波さんのピアノって、なんか、
癒しももちろんっすけど・・・・・・
力もらえるんっすよね。
うまく言えないんっすけど。」
皆が、注目している。
晴はその要望に、はにかんで口を開く。
BGMが、耳に届いた。
それに気づいて店内を見渡すと、客の姿が目に入る。
近くにいたはずの学は、
カウンター席の机を拭いていた。
その後ろ姿を目にして、戻ったのだと晴は確認した。
そして彼のすぐ傍の席で、和装の紳士が
こちらを向いて手を振っている。
『楽しみだな。』
期待を持った低い声が、彼女の心に届く。
テーブルを挟んだ向かい側に目を向けると、
微笑んでいる朋也と目が合った。
優しい眼差し。
自分に向けられるそれは、今までと変わらない。
だが、彼の瞳に浮かぶ小さな灯火を見て、鼓動が
いつもよりもさらに高鳴った。
実のところ、彼女は半ば放心状態のまま
朋也と学の会話を聞き入れていた。
彼の発した、ある言葉がずっと
彼女を支配していたのだ。
“・・・・・・これから、君を想う為に。”
素直に喜んでいいのか、
言葉のまま受け入れていいのか、
彼女自身分からなかった。
しばらく、その灯火を見つめる。
小さな光が、しっかりと映った。
―・・・・・・
高揚感でふわふわするのを覚えながら、
晴は立ち上がる。
カウンター越しにいた拓馬の所に歩いていくと、
躊躇いがちに声を掛けた。
「・・・拓馬さん。
ピアノを弾いてもいいですか?」
願ってもない彼女の申し出に、
拓馬は表情を明るくして顔を綻ばせる。
「披露してくれるのかい?それはかなり嬉しいよ!
勿論オッケーだ。」
晴は頬を赤く染めながら頷き、
グランドピアノの方に振り向いた。
スポットライトに照らされる、漆黒の光沢。
その光は、反射して
綺麗な星のように浮かんでいる。
その姿に、目が釘付けになった。
彼女はスーツのジャケットを脱いで
テーブル席に置いた後、
誘われるように歩いていく。
未踏領域。
来店していた客たちは、その域に踏み入れる
一人の女性に気づき始める。
囁く声。
それは、期待を抱かせるように。
拓馬は、店内に流れていたBGMを止める。
晴がピアノ椅子に座ったと同時に、
店内は、しんと静まり返った。
―・・・・・・何を弾こう?
既にピアノの蓋は開いている。
彼女は、白と黒のコントラストを眺めた。
眺めていると、次第に周囲の情報が
頭の中から消え去っていく。
その後、ふと浮かんだ楽譜を受け入れた。
すっ、と
両手を鍵盤の上に置く。
とある夜想曲。変ロ短調。
始まりの美しい旋律で、すぐに儚い世界へ引き込まれる。
この作曲家のピアニッシモに惹かれ、
夜想曲を全集弾いてみたいと思った。
楽譜を頭に叩き込み、
弾き込んだ憶えがある。
それを、彼女は思い出した。
冒涜しているかもしれない。
だが、自分の表記を入れてみたいと思った。
白い指が、鍵盤をつかんでいく。
物悲しい音色とともに、息吹が
店内に響き渡った。
旋律が流れた瞬間、何の曲か分かって頷く者。
ただ美しい音色に、まぶたを閉じる者。
様々な客の反応が窺えた。
拓馬は、その音色を聴き入れながら
冷蔵庫を開けて食材を取り出す。
その顔には、笑みが浮かんでいた。
学は、カウンターの机を
ゆっくり拭きながら聴いている。
和装の紳士の表情は窺えないが、
せせらぎに近い清らかな音色を
堪能するように小さく揺れている。
朋也は、真っ直ぐに捉えていた。
彼女の姿を。
音色を。
その、想いを。
午後9時を回った頃。
晴は自宅の玄関前で立ち尽くしていた。
じっと、ドアノブを見据えている。
あの演奏の後、快い拍手が彼女を包んだ。
言い様のない歓喜が、心を満たした。
認めてもらえたと。
充分満足し、あの1曲で演奏を終えた。
アンコールの声も上がったが、
丁寧に頭を下げてテーブル席に戻った。
戻る際、カウンター席に目を向けると
和装の紳士が頷きながら
讃えるように拍手をしていた。
その隣には、ニーナの姿もあった。
優しい微笑みを向けられ、
彼女はさらに満たされた。
テーブルへ戻ったらすぐに、学が
スプレムータと
トマトとバジルの冷製パスタを運んできた。
彼とは相変わらず目線が合わなかったが、
ぼそっと“かっこよかったっす”、と言葉を残してくれた。
彼が運んできたジュースと料理は、
本当に絶品だった。
火照った全身を、クールダウンさせてくれた。
拓馬の労う気持ちが、伝わった。
それで、満ち満ちてしまった。
ただ、向かい側に座っていたはずの
朋也の姿が消えていた。
晴は店に長居せず、電車で帰った。
雨は相変わらず降っていたが、
朝のような憂鬱さはない。
とても今、満たされている。
この状態で、この鍵を使っていいのか。
晴は迷っていた。
しかし、すぐに家に帰りたいと思ったのは、
彼に会いたいと思ったからだ。
周りに干渉されず、会いたいと。
彼女は息を整え、玄関の施錠を外す。
ドアノブに掛ける手が、少し震えた。
家の中は、灰色の世界である。
昨晩見た景色と変わらない。
そして、対面している彼も。
ドアが閉まると、緊張感が
より一層高まった。
彼女はただ、彼を見据える。
石のように固まって動かない晴を、
朋也は可笑しそうに眺める。
『・・・・・・どうした?』
彼女は只々焦って、
彼を見つめることしか出来なかった。
『君から、するのじゃなかったのか?』
その発言に、息が止まりそうになった。
―えっ?!何でそれをっ?!
『ふはは。悪いが・・・・・・
君の考えは、朝から俺に筒抜けだ。』
「・・・・・・うそっ。」
『嘘じゃなくて、申し訳ない。』
受け入れられず、晴は
押し寄せる羞恥心で震え出す。
「・・・・・・やだっ!!何で?!」
彼女が尋常じゃない程
取り乱している様子を、朋也は
笑みを浮かべて満足そうに眺めている。
『あえて、何も言わなかったが・・・・・・
昨晩この部屋を使用した時点で、
隔たりが緩和して共鳴しやすくなった。
・・・・・・これから考え込む時は
気をつけろ。
迂闊に考え込むと、筒抜けになる。』
「そ・・・・・・そんな大事な事、
何で早く言わんと?!」
『言うタイミングがなかった。すまない。』
―えっ。えっ、待って。
じゃ、じゃあっ・・・・・・
『“キスは挨拶だ。何も構う事はない。”
・・・・・・
確かに言ったが・・・・・あれは冗談だ。
誰彼構わず、するわけがない。』
「じょ、冗談に聞こえなかった!!」
『本当だと思ったのか?』
「!!!」
『そうか。ふはは。
それは悩ませてしまったな。すまない。』
隠れたいと思ったが、周りには何もない。
やむを得ず、晴は真っ赤になって座り込む。
―・・・・・・恥ずかしいっ。
消えたいっ。
身体を小さくして、うずくまる彼女を
彼は温かく見守る。
『ふはは。』
「・・・・・・うぅ~・・・・・・」
『・・・・・・素晴らしい演奏だった。
お疲れさま。
もっと聴きたいと思ったよ。
君のピアノは、繊細だが力強い。
楽しませてくれる。』
彼女は必死に羞恥心と闘いながら、
絞り出すように言葉を発する。
「・・・・・・
・・・・・・あ・・・・・・
あの・・・・・・聞きたい事がアリマス。」
『何なりと。』
「・・・・・・
できますか?」
『・・・・・・聞くのか?それを?』
「・・・・・・
できたら、すごいとオモイマス。」
『ふはは。』
朋也は笑いながら
座り込んでいる晴の所へ歩いていく。
彼の足元が目に入り、彼女は顔を上げた。
目線の高さは、ほぼ同じだった。
合わせるように、彼が跪いたからである。
当然、目が合った。
ぶつかる。
逸らせない。
「・・・・・・」
『・・・・・・できるか、できないか・・・・・・
俺にも分からない。こればかりは。』
「・・・・・・」
『試してみようか。』
どきっとした。
彼の眼差しと、言葉に。
『可能か、不可能か。』
「・・・・・・」
『・・・・・・どちらだと思う?』
心臓が口から出そう。
彼女は今、その状態だった。
あの時の、情念。
あの時よりも、深い。
あの時と違うのは、紛れもなく自分に
真っ直ぐ向けられているという事。
気圧されて、晴は立ち上がろうとする。
それを、朋也は止めた。
彼女の右手を、左手で掴む。
「・・・・・・っ!」
引き寄せられる。
バランスを崩し、彼の懐に落ちた。
腕が、彼女の肩を捉える。
逃げられない。
『今更・・・・・・逃げるのか?』
君から振っておいて。
その囁きは、彼女の耳に届いた。
身体が、動かない。
鼓動が、煩いくらいに高鳴る。
彼の大きな右手が、彼女の頬に置かれた。
『・・・・・・晴。』
優しく、呼ばれる。
その声に逆らえない。
彼女は、ゆっくり顔を上げる。
小さな灯火。
彼の瞳に宿る、揺るがない光。
可能か、不可能か。
彼に抱き留められ、
その光を目の当たりにして、
晴はその答えを知る。
強張らせていた身体の力を抜き、
身を任せるように目蓋を閉じた。
互いの心が触れて、重なる。
*
私の風が切られた。
今までにない事だな。
面白い。
あの青年は誰だ?
あの目つき。引っ掛かる。
そして、私の風を止めた・・・あの娘。
諦めが悪いあの男と繋がっている。
面白い。
「・・・・・・どうしたの?その手。」
調べてみる価値がありそうだ。
「・・・猫に引っかかれてしまって、な。」
「・・・・・・包帯巻く程?珍しいね。
あんたがそんな傷負うなんて。」
「・・・・・・『結女衣』。
お前に調べてもらいたい事がある。」
私の邪魔をするあの男を・・・・・・
完全に消さなければ。