*Notation 5* 佐川 学(させん まなぶ)
晴は心の内を、朋也にぶつけようと決意する。
そして彼は、彼女と深く繋がるにつれて
失われていた記憶が蘇っていく。
・・・・・・二人の表記法が、創られる。
5
深夜を過ぎた頃。
すぐに眠れる準備をして、
晴はローベッドの側にある窓を開けた。
涼しい風が、
心に湧き上がる熱を冷ましてくれる。
この部屋に住もうと決めたのは、
この窓が気に入ったからだった。
何の変哲もない、普通の窓。
周りの景色はコンクリートの壁なので、
人目を気にせず窓を開けられて
空を存分に見ることが出来る。
朝陽と夕陽が、この窓を通して
部屋に差し込むのが綺麗だった。
東京の街並みは、空間に無駄がない。
それは、晴が上京して初めて思った事だ。
ひしめき合うように建物が並び、
道路の幅も狭いが、車がきちんと通る。
息苦しいくらいに、密集している。
部屋の灯りは、わざと消していた。
こうすると
夜空に浮かぶ星を目視できる数が増える。
小さな星が、ちかちかと瞬いている。
今夜の空に
月は確認できない。
そのお陰で、普段よりも多く
星を見る事が出来た。
深夜を迎える前、
莉香からメールが届いていた。
“Calando”に来てほしい、という誘いだった。
今夜は行かないと決めていた晴は、
明日なら良いと返事を送る。
莉香は、それでいいと言ってくれた。
優しい同僚に、感謝している。
今夜は、彼と過ごしたい。
「・・・・・・朋也さん。」
窓の縁に両手で頬杖をつきながら
夜空を見上げ、
彼女は彼の名前を呼ぶ。
ここ一週間で、
この名前を口に出し、
心の中で紡いだ回数は多い。
7日間。
今まで短い時間だと思っていた
その7日間が、
とても濃くて長いと感じている。
『今夜はもう、呼んでもらえないかと
思ったが・・・・・・』
深夜になるまで呼ばれなかった彼は、
苦笑しながら
彼女の隣に姿を現す。
「・・・だって・・・・・・」
その事に、晴は口ごもる。
ようやく決心がついたのだ。
自分の気持ちを吐き出し、伝えることに。
その事に、自分でも驚いている。
「話しづらい事やもん・・・・・・」
自然と地元の言葉が出る。
彼女の、素心が表れている証拠だった。
『・・・無理に話す必要はないが。』
彼女が伝えようとしている気持ちを、
もう悟っているかのように。
彼も窓越しから、
彼女と同じように夜空を見上げた。
「・・・・・・」
『・・・・・・』
言葉を交わさない時間が過ぎる。
見つめる程、今夜の空はとても綺麗だった。
部屋の照明がなくても、
外の電灯が生きているので、真っ暗ではない。
朋也の顔を見ることが出来ず、
晴は夜空から目を逸らせなかった。
『・・・・・・俺が命を落とさなければ、
君と出逢うことはなかった。』
ぽつりと、紡がれる言葉。
それに晴は耳を傾ける。
『正直な話だが・・・・・・
この時間は、成立するのか戸惑う。
生きている君と、
止まっている自分と。
・・・・・・過ごしている、この時間が。』
彼の言葉に、彼女は共感する。
「・・・・・・うん。それは私も思う。」
鼓動が、煩い。
必死でなだめて、
彼女は勇気を振り絞って言葉を紡ぐ。
「・・・私ね。朋也さんと過ごす時間を・・・・・・
すごく大切に思っているの。」
『・・・・・・』
「すごく、すてきです。」
自分のヘタレさに、嫌気が差す。
―あー・・・・・・噛んじゃった。
恥ずかしすぎて、死にそう。
頬杖をついた両腕を組み、晴は
その中に顔を埋めて自己嫌悪に陥る。
そんな彼女を、朋也は
可笑しくて堪らない様子で眺めた。
『・・・すごく、“すてき”か。』
「・・・・・・」
―うう。もういやだ。
『少なくとも、同じ気持ちだが。』
「・・・・・・」
―・・・えっ?
『ふはは。
・・・・・・大丈夫。
今後君が誰かを想い、
人生をともにする相手が現れたとしても・・・・・・
俺は君を見守る。どんな時も。』
「・・・!」
晴はその言葉に、顔を上げる。
そして、真っ直ぐに向けられる
彼の目を捉えた。
「・・・朋也さん・・・・・・」
『だから、君は自由だ。
自由に想って、好きになればいい。
君が想いを向ける相手は、
俺にとっても大切な人だ。
君が生きて、
楽しく時間を過ごせるなら・・・・・・
それでいいと思う。』
胸が、強く締め付けられる。
晴は堪らなかった。
「・・・・・・もう。」
『?』
「・・・何なん、それ。」
『・・・どうした?』
「教科書みたいやん。」
『・・・何か、俺は変な事言ったか?』
「・・・・・・言ってない・・・・・・」
―・・・正論過ぎて、本心が見えない。
再び夜空を見上げて、晴は
深呼吸した後に言葉を絞り出す。
「・・・・・・今、
私が一緒に過ごしたいのは・・・・・・
朋也さんなの。」
『・・・・・・』
「理屈とか、常識とか・・・・・・関係ないの。
好きになっちゃったものは。」
『・・・・・・』
「どうしたらいいか、わかりません。
・・・・・・どうしたらいいの?」
素直に言えた。
自分の気持ちを、隠さず。
晴は、それだけで満足だった。
―・・・頑張った、私。うん。頑張った。
自分を褒めちぎる。
晴は静まり返る空間に耐えつつ、
煌めく星をひたすら見つめた。
―この後の返事なんて、
聞けないよぉ・・・・・・
もう、分かってるもん・・・・・・
『・・・・・・晴。』
自分の名前を呼ぶ彼の声音は、囁きに近い。
その微量な振動が、鼓膜をくすぐる。
彼女は構えるように、目を固く瞑った。
『・・・・・・ありがとう。』
「・・・・・・」
『君は本当に最初から、俺の事を
生きている人間として見てくれている。
それが、とても嬉しい。』
―・・・・・・やっぱり。
『俺と過ごす時間を、
大切にしてくれてありがとう。』
綴られる言葉に、
さらに強く締め付けられる。
―・・・・・・朋也さんは、最初から・・・・・・
線を引いている。
それが、とても切ない。
「・・・・・・教科書みたい。」
『・・・ふはは。またか。』
「何も分かってない。」
『・・・?』
晴は自分を奮い立たせて、朋也の方を向く。
「・・・・・・
今から、朋也って呼ぶけんね。」
その断言に、彼は笑う。
『俺は最初から、それでいいと言っているが。』
「段階というものがあるやん?」
『ああ・・・・・・
生きている内は、それを大事にする。』
「生きとるんよ。」
『君はね。』
「朋也も。」
―私の中で。
晴は、朋也に歩み寄る。
触れないと思ったが、手を伸ばした。
その行動を、彼は優しく見守る。
伸ばした手は、空を切る。
彼女自身、分かってはいたが・・・・・・
それがとても悩ましかった。
『・・・・・・言った通りだっただろう?』
触れないから安心しろ、と。
そう言葉が続くような余韻を残し、
朋也は晴を見据えた。
表情に浮かぶ色は、深い情念を彩る。
『それでも・・・・・・君は、
俺と一緒にいたいと言えるのか?』
向けられた、情念の色。
その深い色が、彼女の心に書き殴られていく。
見たかった、彼の本心。
それに触れた瞬間、
彼女の情念が溢れ出す。
「・・・・・・言える。好き。朋也が好き。
あなたが、どんな姿でも・・・・・・
関係ない。朋也だから。
朋也がいい。
・・・だって、分かったんやもん。
あなたは、他人のために
自分を犠牲にする人だって。」
彼女の言葉と情念に、彼は目を見開く。
「・・・・・・
心から愛していた彼女さんを
置いてまで行くなんて・・・・・・
よほどの事があったんよね?
絶対、そうやもん。」
彼女は、気づいていない。
自分がどんな表情で、
その言葉を綴ったのか。
彼を見つめているのか。
彼の情念に負けない色を、強く纏って言葉を放つ。
「朋也と一緒にいたい。
だから、距離を置かんで・・・・・・
そばにいてほしいと。
・・・・・・朋也がいない日常には、
もう戻れない。いやなんよ。
寂しいし、楽しくない。」
二人の間に流れる、濃い時空。
次元を超えて、確かに存在した。
見えない底に、転がり落ちるような感覚。
情念を通じて今、
二人は強く響き合い、共鳴している。
「・・・・・・朋也は、私が嫌い?」
その問い掛けに、彼は首を横に振る。
『・・・・・・嫌いなわけがない。』
「好き?」
『・・・晴。』
「私のこと、好き?」
『・・・・・・』
「・・・・・・ねぇ・・・・・・」
胸に込み上げる熱いもの。
それが、涙となって頬に伝う。
「・・・・・・」
『・・・・・・』
視線を重ねる時が、続く。
互いの、情念の色が混ざり合っていった。
その時間を無理矢理切るように
パーカーの袖で涙を拭うと、
晴は言葉を投げる。
「・・・・・・もう寝る。」
強がってみたが、
襲い掛かる切なさが辛すぎて
涙が止まらない。
窓を閉め、カーテンを滑らせる。
遮光加工なので、
部屋は真っ暗になった。
しかし、晴は日常の記憶を辿るように
ローベッドへ向かう。
今は、何も見えない方がいい。
そう思いながら、彼女は
暗闇の中を歩いていく。
背後に彼の気配を感じ、
晴はベッドの前で立ち止まった。
その距離は、触れるか触れないか。
抱きしめられるかと、思う程だった。
鼓動が、大きく振れる。
『・・・・・・俺は、君を泣かせてばかりいる。』
「・・・・・・」
『・・・・・・すまない。』
「・・・・・・」
ぐすっと鼻をすする晴。
そんな彼女を、朋也は
限りなく優しい声音で包み込む。
『・・・・・・朝、呼んでくれ。
一緒にテレビを観よう。』
「・・・・・・」
『そうだ。スマホも見せてくれ。
とても興味がある。』
「・・・・・・」
『・・・・・・これから楽しもう。二人の時間を。』
その言葉で充分だった。
晴は、嗚咽しそうになるのを堪えて
ベッドに上がり、横たわる。
手探りで毛布を取り、
ばふっと被って身体全体を隠した。
しばらく、静寂の時間が過ぎる。
毛布の中で、彼女は声を殺して泣いた。
ただ一言、欲しかった。
欲しがった。
それを求めてしまった代償だった。
切なさに打ちのめされ、ひたすら泣いた。
ふと気づく。
結構な時間泣き続けたが、
彼の気配はまだ消えていない。
まだ、彼は部屋にいる。
「・・・・・・明日、“Calando”に行くから。」
返事が来るか分からなかったが、
晴は話し掛けてみた。
『・・・・・・そうか。
君のピアノが聴けるのか。それはいいな。』
嬉しそうな彼の声が、返ってくる。
「・・・まだ、弾けるか分からんよ。」
『・・・弾けるだろう。きっと。』
「・・・・・・おやすみなさい。」
『・・・おやすみ。』
―涙が止まらない。
溢れて止まらない。
・・・どうしよう・・・・・・
『・・・・・・晴。』
低い声が、小さく届く。
『すまない。』
謝るその一言が、深く、胸に刺さる。
『楽しもう。笑っていられるように。
君が・・・笑っている方がいい。
・・・・・・いつでもいい。
俺を切り離すのは。
いつか、それができるように。』
―・・・・・・どうして、そんな事言うの?
『・・・君は生きている。
俺の為に、足を止めるな。』
晴は被っていた毛布を取る。
顔は涙で、くしゃくしゃだった。
髪も毛布を被っていたせいで、
ぼさぼさに乱れている。
真っ暗で見えないはずの朋也の姿を、
はっきり目で捉えることが出来た。
彼はベッドに座っている。
その横顔を見据えて、彼女は訴えた。
「それ以上言わないで!やめて・・・・・・!」
―耐えられない。
『・・・・・・すまない。』
「謝るのも、やめてよ。
切り離すとか・・・・・・お願いだから、
言わんでよ。」
『分かった。もう言わない。
だから・・・・・・泣かないでくれ。』
「・・・・・・」
『・・・・・・』
涙を流し、鼻をすすりながら
晴は朋也の横顔を見つめる。
彼は彼女の視線を感じていたが、
それに合わせていなかった。
「・・・・・・」
『・・・・・・』
「・・・・・・私たち、心で、繋がって、いるんよね。」
泣きじゃくりながら、言葉を紡ぐ。
『・・・ああ。』
彼女が紡いだ言葉を、彼は柔らかく受け止める。
「・・・それって、すごく、ない?」
『・・・生きている者同士で実感するのは、
難しいだろうな。』
「すごい、よね。」
『・・・ああ。』
「拾われたのが、私で、良かった?」
その問いに、朋也は苦笑する。
『それはどういう意味だ?』
「男の人でも、繋がれた?」
『・・・晴。』
「他の、女の人でも、繋がれた?」
『・・・・・・一体、何を言っている?』
「・・・・・・ふふっ。もういいや。」
晴は、涙を流しながら笑う。
「考えすぎて、頭痛いっちゃけど。」
『・・・・・・ふはは。』
朋也は、ようやく晴に目を向ける。
彼女の笑いに、彼はつられて顔を綻ばせた。
『もう少し・・・気楽でいい。』
「うん、そうやね。そう思った。」
今、素直に想うこと。
それが大切だと、二人は結論を出す。
沢山泣いて涙を拭いたので、
スズランが描かれたバケツ型のゴミ箱には、
半分以上ティッシュが埋まっている。
ぼさぼさでうねった髪の毛を両手で直した後、
晴は話し掛けた。
「・・・・・・朋也。聞いてくれる?」
『・・・ん?』
朋也は、優しく聞き返す。
「私・・・・・・ピアノが弾きたい。」
『・・・君のピアノは最高だ。また聴きたい。』
直球で応えてくれる彼の言葉に、
彼女は素直に受け止めて喜ぶ。
「聴きたい?」
『ああ。』
「・・・・・・お仕事、辞めようかな。」
『・・・“Calando”で働くのか?』
「・・・・・・現実的じゃないよね。」
『君のピアノなら、充分値する。』
「・・・・・・奏者の人、
もういるよね・・・・・・きっと。」
朋也は告げる。
『・・・君は分かってないな。
あの時、君のピアノが
どれだけその場にいた者たちを感動させたか。』
「・・・?」
『同僚の彼女に、店に来てほしいと
言われたのだろう?』
「・・・うん。でも理由は何も・・・・・・」
『この三日間。
店の御主人は悩んでいたと思う。
君が今勤めている企業に見合う給料を、
用意してやれないかもしれない。保障も。
それでも・・・・・・君のピアノが良いと。
そう切り出したのだと思う。』
「・・・えっ・・・・・?」
『明日・・・もう今日になるが、
“Calando”に行けば分かるだろう。
・・・後は、君の覚悟次第。
俺は、君がどんな道を選んでもいいと思う。
君が選んだ道は、
必ず良い方向に行く。
・・・優しくて、人思いの君だから。
・・・・・・心の思うままに。』
意味深な、言い分だった。
晴は俯いてしばらく考えた後、
朋也に目を向ける。
「・・・うん。分かった。」
『・・・・・・もう寝た方がいい。』
「うん。ありがとう。」
『おやすみ、晴。』
「おやすみなさい、朋也。」
そう言った後、晴は朋也を
じっと見つめる。
彼は微笑んで、行方を見守る。
彼女は、静かにまぶたを閉じた。
彼はその意味を理解する。
「・・・・・・」
『・・・・・・』
この二人が、触れ合う事は出来ない。
だが、想いを紡ぐことはできる。
晴は、ゆっくりまぶたを上げる。
すると、朋也の顔が
かなり間近にあって、どきっとした。
しかし逃げはせず、そのまま見つめ合う。
「・・・・・・終わった?」
『ふはは。そう聞くのは可笑しいな。』
「・・・・・・」
―・・・ちょっと、大胆だったかも・・・・・・
じわじわと恥ずかしさに襲われ、
彼女は彼から目を逸らして
俯き、顔を真っ赤に染めていく。
―やばい。これは流石に・・・・・・恥ずかしい。
限りない切なさを埋めるように。
欲しがる自分に、歯止めが効かない。
晴が極限に照れているのに対して
朋也は、さらりと言葉を放つ。
『キスは挨拶だ。何も構う事はない。』
「・・・言っちゃったこの人っ!
・・・・・・言わんでいいのにっ!」
恥かしさが爆発して、
彼女は隠れるように毛布へ潜り込む。
鼓動が激しく打って、苦しい。
切なさで支配されていた心が、
羞恥心にかき消された。
彼は、毛布の塊となった晴に
笑みを湛えたまま、そっと紡ぐ。
『・・・・・・君だからだ。繋がれたのは。
他の誰でもなく・・・・・・
君としか繋がれなかった。
そんな気がする。
・・・・・・根拠もない事を言うのは、
自分らしくないと思うが。』
今の彼女にとって、
その彼の言葉は破壊力を持っていた。
晴は、ぎゅっと目を瞑る。
心臓が胸を突き破って、飛び出しそうだった。
「・・・・・・オヤスミナサイ。」
返事をするのが、やっとである。
『・・・おやすみ。』
優しい、低い声。
少し笑いを含めたように、響く。
しん、と静まり返る部屋。
彼の気配が、消えていた。
“席を外した”のを把握し、
晴は膝を抱え込んで丸くなる。
嬉しさと恥ずかしさが、身体中
駆け巡るのを耐えるように、小さくなる。
―・・・・・・私だから。
私だから、繋がれた。
・・・・・・やばい。
嬉しすぎる。
顏が、否応なしに綻ぶ。
―ほんの先程まで、
切なくて泣いていたのに。
・・・欲しかった言葉。
それを、彼からもらえた。
それだけで、もう何もかも
どうでもよくなった。
何でも出来そうな気がする。
晴は自覚した。
―私は、恋に落ちている。
それが、どんな結末になっても・・・・・・
後悔はしない。
だって・・・・・・
こんなに、想える相手に出逢えた。
それだけで、幸せ。
二人が、心を紡いだ夜。
それは、絆を結んだ最初の刻。
強く共鳴し、
表記法が創られた瞬間である。
*
翌日。
晴と莉香は仕事を終えて、会社を後にする。
その足は、“Calando”に向かっていた。
晴はこの日、
“意念を持たない”幽霊とは遭遇せず
穏やかな日常を過ごしていた。
余韻が残ったまま朝を迎え、
気恥ずかしいながらも朋也を呼び、
朝食の時間をともにする。
晴にとって、とても楽しい時間だった。
これが日常で過ごせるなら・・・・・・
幸せだと彼女は感じていた。
悩んでいた一週間が、遠い時間のように。
会社に出勤する時の憂鬱な気持ちも、
朋也のお陰で紛れていた。
彼とともにいる。
それが、彼女の支えとなりつつあった。
街灯が夜の帳を照らす中、
晴と莉香は街路を歩いていく。
昨日、莉香が
“Calando”に来てほしいという
メールを送った理由を、晴は聞けずにいた。
そして、
莉香もその理由を言わなかった。
考えてみれば、わざわざメールで
“店に来てほしい”というのもおかしい。
ただ店に行って楽しむだけなら、
会社で会って誘えばいい話である。
あの時間、あのタイミング。
莉香の意思ではないのかもしれない。
晴はそう考えていた。
「楽しみだなぁ。
お店が開いている時の雰囲気って
どうなのかな。
素敵なのは間違いないと思うけど・・・・・・」
「ふふっ、そうだね。間違いない。
身内が言うのもアレだけど、素敵よ。」
莉香は自慢げに語る。
「店が開いている時の方が、良さが分かると思う。
拓叔父さんのこだわりがハンパない。
照明一つ、手抜きナシだから。」
「・・・・・・あっ。そうだ。」
思い出したように、晴は尋ねる。
「この前、聞こうと思って忘れてたけど・・・・・・
学生バイトの代行くん。」
「・・・代行くん?・・・・・・ああ、ヤツが何?」
“代行くん”の話題を振られたと同時に、
莉香の機嫌が悪くなる。
態度を一変させる程
気になっている人物の事を、
晴は聞かずにはいられなかった。
「・・・莉香。その代行くんの事、どう思ってる?」
「どうって?」
「・・・・・・ちょっと、気になっているとか。」
そう聞かれて、莉香は
はーっと深いため息をつく。
「この前、拓叔父さんに話した通り。
ほんと、何考えているか分からないヤツ。
気になるとか、あり得ない。
4つも年下なんて、恋愛対象外よ。理解不能。」
「・・・・・・」
「・・・・・・えっ。なにその目。」
「いや、だって。
あきらかに莉香、その人のこと気にしてるでしょ。
分かるよ。」
「・・・・・・」
「何で隠すの?」
「か、隠してないし。」
「人に恋愛、勧めるくせに。」
「・・・・・・」
口をつぐむ莉香の反応に、晴は確信する。
―気にしてる。確実に。
莉香の足元で一緒に歩く莉穂に目を向けると、
彼女が目を合わせてきた。
その表情に浮かぶ微笑みは、
5歳の幼女が纏うものではなかった。
その大人びた微笑を見て、
晴は小さく頷く。
「莉香は、年上好みかと思っていたけどなぁ・・・・・・」
「ちょ、ちょっと。勝手に話を進めないでよ。」
「お店で飲んだ後、いつも家まで代行して
送ってくれるんでしょ?優しいね。
・・・その人と、住んでるとこ近いの?」
「・・・・・・三駅分くらい、かな。」
「・・・えっ?莉香を送った後、まさか・・・
代行くんは歩いて帰ってないよね?」
「・・・バイクに乗って帰っているみたいよ。
私が住むアパートの、最寄り駅の駐輪場に
いつも置いているみたい。」
「うそっ?わざわざ?」
「し、知らないし。」
「代行するのを想定して、置いてるんでしょ?
拓馬さん、ほぼ毎日って言ってたもんね・・・・・・
それって、かなり優しすぎない?」
「だ、だから・・・・・・
私が拓叔父さんの姪っ子だから
仕方なく・・・・・・」
「仕方なく?そこまでする?
拓馬さんの言った通り、莉香の事
大切に想っているからじゃないの?」
「・・・・・・」
晴の言い分に、
莉香は言葉を返せなくなる。
―自分の事になると、臆病になるものよね。
晴は、鏡に映った自分を
見ている様だった。
「・・・・・・文句一つ、言わないの。
ほんとに。・・・・・・少しくらい、
愚痴ってもよさそうなのに。」
莉香は、遠い目をして呟く。
彼女の表情に浮かぶ色は、
とても複雑だったが輝いて見えた。
晴は、温かくそれを見守る。
「・・・何考えているのか、ほんっとに
分かんないのよね・・・・・・
あーっもう。ヤツの事はどーでもいいのよ。」
話を強引に終わらせて、莉香は息をつく。
「・・・晴。真面目な話だけど、
今日お店に呼んだのは・・・拓叔父さんの要望なの。
・・・・・・私も、同じ気持ちで。」
「・・・・・・」
晴は、朋也の言葉を思い出す。
―『・・・・・・“Calando”に行けば分かる。
・・・後は、君の覚悟次第。・・・・・・』
「・・・私の、覚悟次第・・・・・・」
「ん?」
「ううん。何でもない。」
―お店に行って、拓馬さんと話せば・・・・・・
はっきりする。
何事もなく、
晴と莉香は“Calando”に着いた。
日曜日に訪れた時と同様、
ランタン風の電灯に明かりが灯っていた。
出迎えるユーカリの木も変わらない。
だが、立て看板に掛けられている
札の文字は“OPEN”になっている。
扉の向こうから、人の温かさを感じた。
莉香が率先して扉を開ける。
「いらっしゃいませ。」
短く、静かに声が掛けられた。
入ったと同時に、
控え目に流れるBGMが耳に届く。
ピアノ主体のジャズ演奏だった。
音源は、ステージに置かれている
ピアノからではない。
テーブル席は、満席状態だった。
晴たちのように、
スーツを着た仕事帰りのサラリーマン。
楽しそうに話す、若いカップル。
これから、夜の街に出向く前の女性たち。
様々な人間模様が、
店の淡い照明に溶け込んでいる。
この熱気溢れた空間は、外とは別世界に思えた。
さり気ない演出、配慮。
壁の色や照明の光、テーブルや椅子。
一見したら地味だが、実はそこに
店主のこだわりが籠められている。
主役は、ここに訪れる者たち。
浮世を忘れて、心を和らげる場所。
“Calando”という名前の由来は、そこにある。
晴はグランドピアノに目を向けた。
ニーナの姿は、見当たらない。
シャカシャカと、音が響く。
その音に目を向けると、
小気味良くシェーカーを振る青年がいた。
「どーも。」
莉香は短く、その青年に声を掛ける。
それに目を向けることなく、
彼は会釈するだけだった。
カクテルのシェーキングに集中している。
金色に近い茶髪。
左目が隠れるように流れ、右耳が見えるツーブロック。
目尻が吊り上がった一重の目は、
冷たくきつい印象を与える。
シェーキングをゆっくり終わらせ、
出来たカクテルを二つのグラスに注ぐ
青年の姿を、晴は眺めた。
―・・・・・・この人かな?代行くんって。
カクテルを注ぎ終え、視線に気づいた青年は
晴に目を向ける。
すると、細い目が見開いた。
明らかに、自分を見て驚いている。
青年の驚いた様子に、
晴は首を傾げた。
「やぁ。ようこそ、晴ちゃん。」
カウンターの裏手にある厨房から
拓馬が姿を見せて、にこやかに出迎える。
その声で我に返ったのか、
青年はカクテルグラスをトレーに乗せて
テーブル席の方に運んでいった。
晴は疑問に思いながらも
拓馬に目を移し、お辞儀をする。
「こんばんは、拓馬さん。」
「ははっ。今日は大盛況だよ。
二人とも、そこの席に座って。」
「はーい。さ、晴。ここにどーぞ。」
莉香が促すように背中を押す。
晴は促されるまま、
空いているカウンター席に腰を下ろした。
そのすぐ隣の席に、莉香も座る。
ハイカウンター席は5席で、
拓馬に指定された2席以外は満席だった。
彼は自分たちの為に、この2席を
空けてくれていたのだと気づく。
拓馬は晴に真っ直ぐ目を向けて、言葉を掛ける。
「また、ここに来てくれてありがとう。」
「こちらこそ、招待して頂いて
ありがとうございます。」
「・・・・・・晴ちゃんにお願いがあってね。
昨日莉香ちゃんに連絡してもらったんだが・・・・・・
閉店まで、お店にいてもらえるかい?」
晴は背筋を伸ばし、首を縦に振る。
「・・・はい。そのつもりです。」
その返事に、拓馬は表情を和らげて頷いた。
「助かるよ。・・・・・・今夜は、
お店の空気を充分味わってくれ。」
カクテルを運び終え、
空いた皿を回収してきた青年が戻ってくる。
拓馬は青年に手招きして、自分のすぐ横に並ばせた。
「そうだ、晴ちゃん。
我が弟子を紹介するよ。・・・マナ。自己紹介。」
莉香は、青年を横目で見守っている。
青年は晴に目を向けると、じっと見据えた。
彼の眼光鋭い視線に、晴はたじろぐ。
―・・・・・・な、何だろう。
さっきも、私を見て驚いていたし・・・・・・
・・・すごく、観察されているような・・・・・・
「マナ?」
拓馬は、青年の様子に首を傾げる。
横目で見ていた莉香も
変だと思ったのか、顔を彼に向けた。
青年は小さく息をつき、
晴に軽く頭を下げて口を開く。
「・・・・・・
佐川 学です。」
晴は状況に戸惑ったが、会釈して言葉を返す。
「初めまして、藤波 晴です。
・・・・・・“させん”?」
ようやく自己紹介した青年に安心し、
改めるように拓馬は微笑む。
「珍しいだろう?
にんべんにひだりの“佐”に
三本川で、“さがわ”と読むのが普通だが、
“させん”と読むらしい。」
『・・・佐川・・・・・・?!』
急な朋也の声に、晴は
びくっ、と身体を震わせる。
その後。
がつん、と殴られたような頭痛が襲う。
「・・・っ!!」
晴の異変に、莉香は気づく。
「・・・晴?」
「・・・どうした?晴ちゃん?」
拓馬も、それに気づいた。
―・・・・・・なに、これっ・・・・・・
尋常じゃない痛みに、冷や汗がどっと浮き出る。
吐き気も伴う。
大きな眩暈を起こし、
身体を支えきれなくなった晴は
ぐらりと崩れ落ちる。
「晴!!」
「晴ちゃん!!」
呼び掛ける声。
二人の声は、彼女の耳に届かない。
彼女の異変に、
一早く気づいた者がいる。
地面に倒れ込みそうになった彼女の身体を、
寸前で受け止める腕。
その腕に支えられた後に、
晴は意識を失った。
―・・・・・・
・・・・・・?
・・・雪?
目の前に広がる景色は、小さな公園。
その公園を囲む、閑静な住宅街。
夜の暗闇に、白い雪が・・・・・・
しんしんと降っている。
―・・・・・・ここは、どこ?
公園には、白いペンキで塗られたベンチが二基と
ブランコか二台。そして滑り台がある。
とても狭い空間だけど
ここだけ、別世界みたいに思える。
ベンチを照らす、淡い電灯。
照らされた片方のベンチに座る、
一人の男性。
後ろ姿を見て、すぐ分かった。
―・・・・・・朋也。
深草色のトレンチコートの襟を立て、
寒さを受け入れるように・・・・・・
彼の吐く白い息が、ちらつく雪と重なり合って
溶け込んでいる。
彼が、生きている証拠。
―・・・・・・もしかして、これは・・・・・・
朋也の記憶?
・・・何か、思い出したの?
誰かが、朋也の所にゆっくり歩いてくる。
黒いチェスターコートに紺色のスーツ。
年齢は、朋也と変わらないように見えた。
―でも、雰囲気が・・・・・・
朋也よりも、ずっと洗練されたような。
“隙が無い”。
その言葉が、合うかもしれない。
その男性は彼の隣に、間隔を空けて座る。
雪は積もることなく、
砂の地面に落ちた瞬間消えていく。
濡れた跡が、波紋のように広がっていた。
二人は、何も言葉を交わさず
ちらつく雪を眺めている。
挨拶も、会釈もなく、
互いに目を合わせることもなく。
―・・・・・・誰だろう?
・・・これって、
真弓さんと別れた後の続きかな?
繋がっているとしたら・・・・・・
朋也は真弓さんの所から出て、
この人と会っているってことよね?
【・・・・・・居所の目星は付いた。】
朋也が、語り始める。
【先日、電話で話した通りだ。
・・・・・・今からその場所に向かう。】
【・・・・・・無理はするな。】
男性は、念を押すように言った。
【あいつは用心深い。恐ろしく頭が切れる。
お前が嗅ぎ回っている事も、
もう把握しているかもしれない。】
【・・・ああ。分かっている。
分かっているからこそ、動く。誘い出す。】
【・・・・・・】
【俺が戻ってこない場合、当たりだと思え。】
【片桐。】
【ふはは。・・・心配してくれるのか?
俺の身に何かあっても、お前に迷惑は掛からない。
むしろ有益だ。
あいつの尻尾を、引き摺り出す。】
【・・・何を言っている?
死に逝くような口振りはよせ。
お前には、婚約者がいただろう?】
【つい先ほど、フラれてきた。】
―・・・やっぱり、あの続きなんだ。
【これでもう、誰も悲しませる事はない。】
【・・・・・・】
【・・・佐川。後はお前次第だ。】
―・・・・・・“佐川”。
この男の人、“佐川”っていうの?
・・・代行くんと同じ苗字って・・・・・・
男性は、ようやく朋也に目を向ける。
それに応えるように、朋也は男性と目を合わせた。
【・・・・・・馬鹿なこと言うな。
なぜそこまで、犠牲を払う?】
【・・・俺は自分の命を、いつも天秤に掛けている。
犠牲とも思わない。】
【・・・・・・死ぬのは許さん。】
【出来る限り、努めよう。】
【命を落としたら、終わりだぞ。】
【・・・そうだな。その通りだ。】
【絶対に、死ぬなよ。】
【・・・・・・ふはは。
この世の中に、絶対はない。
それは、お前がよく分かっているはずだが。】
【・・・片桐。】
【お前の方が死ぬなよ、佐川。
お前には家族がいる。
後世に残す者がいる。
・・・・・・誰も、悲しませるな。】
―・・・・・・
・・・・・・
晴は、ゆっくり目を開けた。
「・・・・・・晴?」
心配そうな、優しい声が耳元に届く。
「・・・晴・・・・・・!良かったぁ・・・・・・」
右手が温かい。
莉香は木製の丸椅子に座り、すぐ傍で
自分の右手を握っている。
晴は、莉香に目を向けた。
その彼女の隣に、莉穂もいる。
心配そうな大きな双眸は、莉香と同様に潤んでいた。
その二人の後ろには、
自分の顔を窺うように立つニーナの姿。
目が合うと、
彼女は労わるような表情をして微笑んだ。
「・・・・・・私・・・・・・何で寝てるの?」
その返事を、莉香は優しく紡ぐ。
「意識を失ったのよ。
救急車を呼ぼうとしたけど、
応急手当したら大丈夫だって・・・・・・
あいつが言って。ここに運んだの。」
―・・・・・・全然、覚えてない・・・・・・
自分が倒れる前の状況を、晴は覚えていなかった。
スーツの上着はなく、
スカートのファスナーが緩めてある。
腹部に毛布が掛けられ、両足は
厚手のタオルで少し高く上げられていた。
「ここは拓叔父さんが普段使っている
お店の休憩室よ。
カウンターの裏にある
バックヤードに繋がっているの。
・・・ここで寝泊まりする事もあるみたいでさ。
ここなら簡易ベッドもあるし、
寝かせられると思って。」
「・・・・・・」
「・・・・・・お水飲む?」
「・・・・・・うん。」
「待っててね。」
握っていた晴の手を、そっと離して
莉香は部屋のドアから出て行く。
晴は、ぼんやりしながら
莉穂とニーナに目を向けた。
彼女たちは、自分を真摯な眼差しで見つめている。
―・・・・・・朋也。
心の呼び掛けに、応える声は返ってこない。
―・・・・・・少しずつ、
朋也の事が分かっていく。
嬉しいけど・・・・・・
何だか、とても怖い。
彼は、あの後どこに行ったの?
水が入ったグラスを手に持ち、
莉香が部屋に戻ってくる。
「起き上がれる?」
「・・・うん・・・・・・」
晴は、ゆっくり身体を起こした。
莉香は再び丸椅子に座り、グラスを差し出す。
「・・・大丈夫?」
「・・・うん。」
差し出されたグラスを受け取り、
水をゆっくり口に含む。
冷た過ぎず、程よい温度の水は
とても美味しく感じた。
間隔を置かずに、一気に飲み干す。
ふーっと息をつき、晴は莉香に微笑み掛けた。
「ありがとう。生き返った。」
「ふふっ。いい飲みっぷり。」
晴の笑顔を見て、莉香は安堵して微笑んだ。
空になったグラスを受け取り、言葉を掛ける。
「・・・晴。閉店まで寝ていてもいいよ。」
気遣ってくれる莉香に、
晴は感謝しつつ首を横に振る。
「大丈夫。もう少し休んだら戻れるから。」
「・・・そう。」
「拓馬さんと佐川くんに、
迷惑かけちゃったね・・・・・・」
晴の心配を吹き飛ばすように、
莉香は笑顔で応える。
「全然気にすることないよ。
・・・自分がいいって時に戻ってきて。
そのドアを出たらすぐバックヤードだから。
お店に繋がっているドアは一つだから
迷わずに済むと思う。」
「うん。ありがとう。」
晴は一呼吸置いて、言葉を紡ぐ。
「・・・・・・ねぇ、莉香。」
「ん?」
「・・・・・・拓馬さん、
ピアノの奏者を雇ったのかな?」
その質問対し、莉香は真っ直ぐ晴を見据える。
「・・・まだだよ。」
「・・・・・・」
「拓叔父さんは、
ずっと悩んでいたけど・・・・・・
ダメ元で頼んでみようと思う人がいるらしいよ。
その人以外考えられないって。」
真っ直ぐ向けられる視線を、晴は受け止める。
「私もね、その人のピアノなら
毎日聴きたいし、毎日お店に通っちゃう。」
「・・・そんなに?」
「うん。ガチで。」
「・・・・・・私ね、仕事、辞めようと思っているの。」
「・・・次の所は決めているの?」
「・・・・・・うん。まだ、希望だけど。」
「きっとね、叶うと思うよ。」
「・・・叶うかな?」
「うん。きっとね・・・・・・
そこは晴のこと、とても大切にしてくれると思う。」
言葉が続くにつれて、莉香は笑顔になっていく。
晴も、それに釣られて表情を和ませていった。
「・・・莉香、私が職場にいなかったら寂しい?」
「それは寂しい。
可愛い同僚がいなくなるのは、とても悲しい。」
「・・・・・・」
「でも、晴とはずっと
友だちでいたいから・・・・・・
連絡するからね。遊びに行ったりしようよ。
それができるようになるもの。だから嬉しい。
晴のこと、応援するよ。次の職場に行っても。」
「・・・莉香・・・・・・」
二人は、涙声になる。
涙が溢れそうになるのを堪えながら、
莉香は元気に振る舞う。
「ふふっ。まだ決まったわけじゃないのに、
なに泣いてんのよ~!」
「莉香だってぇ。」
晴の頬には、既に涙が零れている。
「・・・・・・私、頑張るね。」
「・・・あははっ。あんまり頑張らなくていいよ。
もう充分、頑張ってるじゃない。」
「・・・本当にありがとう。莉香。」
莉香は笑って、ぽんぽん、と晴の頭に手を置いた後、
涙を隠すように部屋から出て行く。
それを、晴は涙を流しながら
微笑んで見送った。
莉穂は満面の笑みを晴に向けた後、
莉香の後を追って歩いていく。
涙を袖で拭い、晴は部屋を見渡した。
“仮眠するだけの部屋”と言っていいかもしれない。
部屋の半分は、簡易ベッドで埋まっている。
莉香が座っていた丸椅子が壁につく程、
通路は狭い。
丸椅子の側にあるサイドテーブルに目を向けると、
自分のショルダーバッグが置かれていた。
1mくらいの手製ウォールハンガーには、
スーツの上着が掛けられている。
部屋の片隅で自分たちを見守っていたニーナが、
そっと丸椅子に座って顔を向けた。
優しく包み込むような風が、晴を取り巻く。
「・・・ニーナさん・・・・・・」
声を掛けると、彼女は
陽だまりのような温かい笑顔を浮かべる。
『・・・ミセがアいているトキ、いつもここにいます。』
「・・・・・・そうなんですね。
ピアノの所にいなかったから、心配しました。」
『・・・フフッ。ハルはとてもヤサシイですね。』
晴は改まるように、真剣な表情で彼女を見据えた。
「・・・・・・ニーナさん。
私、このお店で働きたいと思います。
・・・まだ、希望ですが。」
淀みなく発した晴の言葉に、
ニーナは真っ直ぐ向かい合う。
『ワタシは、ハルがいいです。
ハルじゃないと、ダメです。
この“Calando”には、アナタがヒツヨウです。』
優しい声音に乗った、力強い意思。
紛れなく晴の心に伝わった。
『タクマも、そうです。
・・・だから、ここにキてください。ハル。』
涙腺が、崩壊する。
彼女の言葉に心を打たれ、晴は泣き崩れた。
意識を取り戻して、約一時間後。
晴は身なりを整えて、休憩室から出た。
店の資材やグラスが並んだ棚が目に入る。
バックヤードに足を踏み入れると、
学と鉢合わせした。
互いに身体を制止させるように、立ち止まる。
晴は学の様子を窺いながら、恐る恐る
会釈をして話し掛けた。
「・・・あの。ご迷惑をお掛けしました。
少し休んだら、良くなりました。
・・・ありがとうございます。」
学は黙ったまま、晴をじっと見据える。
その目の奥には、
力強さを秘めた光が灯っていた。
その鋭い視線に、晴は身を固くする。
「・・・・・・」
何も言葉を返すことなく、学は晴から視線を外して
資材が並ぶ棚に身体を向けた。
「・・・・・・」
晴はそのまま行こうと思ったが、
自分に向けられる視線の強さといい、
先程彼が自分を見て驚いた事が
とても気になった。
「・・・・・・あ、あの・・・・・・」
「・・・・・・」
呼び掛けても、彼は振り向かない。
「・・・・・・何で、私を見て
びっくりしたんですか?」
「・・・・・・」
「どこかで、会ったことがあるとか・・・・・・?」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
―・・・・・・うう。
莉香の気持ち、分かった気がする。
全然言葉が返ってこない。
「・・・・・・繋がって、平気にしてる人・・・・・・
初めて会ったっす。」
「・・・・・・えっ?」
諦めて行こうとした晴だったが、
ぼそっと、小さな声が耳に届いた。
学は再び晴の方を向き、見据える。
その表情には、
何かを伝えようとする決意が窺えた。
「・・・・・・晴ちゃん?」
店に通じるドアから、拓馬が姿を現す。
互いに、はっとして
視線を拓馬に移した。
「もう大丈夫なのか?」
心配そうに声を掛けられ、晴は深々と頭を下げる。
「はい。大丈夫です。
・・・ご迷惑をお掛けしました。」
「気にすることはないよ。
大事に至らなくて良かった。
・・・・・・マナ。いろいろありがとう。」
学は会釈をすると、
紙おしぼりが大量に入った袋を持って
店に戻っていく。
その後ろ姿を見送った後、拓馬は晴に尋ねた。
「・・・あいつと話していたのか?」
「え?・・・はい。
お礼を言いたかったので・・・・・・
話し掛けました。」
「言葉を返してくれたか?」
「・・・えっと・・・・・・返してもらえたのか、
ちょっと疑問ですけど・・・・・・一言だけ。」
―本当は、ちょっと聞き取れなかったのよね・・・・・・
何て言ったのかな・・・・・・
「・・・・・・そうか。
僕があいつに最初会った時、
全然言葉を返してくれなくて会話にならなかったよ。
・・・今は何とか、
必要最小限の会話は
してくれるようになったけど・・・・・・」
「そうなんですね・・・・・・」
拓馬は感心した様子で、小さく息をつく。
「今回の事で、あいつの意外な一面を見たよ。
・・・君が意識を失った時、冷静に対処してくれた。
あんなに、機敏に動く奴とは思わなかったよ。」
「・・・・・・彼は、いつからこのお店に?」
「・・・一年前になるかな。
最初お客で、ふらっと現れて・・・・・・
“働かせてください”って言ってきてな。
その時ちょうど夜の方で店が忙しくなって、
人手が欲しかったから雇ったんだ。
・・・・・・よく考えると、自然に一員になっていたね。
本当に不思議な奴だけど、
真面目によく働いてくれて
とても助かっているよ。
・・・・・・晴ちゃん。食欲あるかい?
何か作るよ。」
「わっ。嬉しいです!
ありがとうございます。とてもお腹空いてます。」
日曜日に来た時、
拓馬が作ってくれた料理の全てが
とても美味だったのを思い出して、
晴は急に食欲が湧いた。
「・・・流石に今日は、
きちんとお代を払いますよ。」
「・・・ははっ。固いことはナシだ。
僕の中で君はもう、一員だから。」
拓馬は真正面から晴を見据える。
その雰囲気に、晴は背筋を正して向かい合った。
「・・・店が終わってから
言おうと思っていたけど・・・・・・
今申し出て、閉店した後に答えを聞こうと思う。」
一呼吸置いて、
拓馬は晴の目を真っ直ぐに見て告げる。
「・・・・・・
藤波 晴さん。
この“Calando”に来てほしい。
あなたのピアノは、これから先
この店に不可欠だ。」
彼の、はっきりとした強い意思。
晴は瞬きを忘れて、拓馬を見張る。
「・・・・・・三日間、ずっと悩んでいた。
夜間だけ来てもらって、ピアノを弾いてもらうか。
副業としてね。
それが一番、経済的にいいだろうと思った。
・・・だけど、それだと君への負担が大きい。
出来るなら、楽しんでもらいたいと僕は思う。
だから、終日
“Calando”で働いてもらいつつ、
好きなだけピアノを弾いてもらう方がいい。
その方が、楽しんでもらえると思ってね。
・・・・・・安心してくれ。
防音完備だから、思いっきり弾いて構わないよ。
勿論食事付き。
保障も出来るだけ付ける。
君がこの店に関わる時間を、出来るだけ長く、楽しく
・・・・・・和らいで。
君に過ごしてほしい。」
拓馬の意思が、
ニーナの意思と重なって伝わる。
―莉香。莉穂。ニーナさん。
・・・佐川くんは、分からないけど。
みんなにお墨付きをもらって。
晴は感動して泣きそうになったが、
涙を堪えて頭を深く下げた後
背筋を伸ばす。
その表情は、強い意思が窺えた。
「この“Calando”で働きたいです。
ここで、思う存分ピアノを弾きたい。
・・・・・・接客は初めてなので、
御指南をよろしくお願い致します。
精一杯、頑張ります。
私を必要として頂けるのが、本当に嬉しいです。
ありがとうございます。」
その返事を聞いて、
拓馬は表情を明るくさせた。
高揚して屈託なく笑う。
「おおっ、もう返事をくれるのか?!
・・・そうか!やった!!
本当に、来てくれるのか?!」
少年のようにはしゃぐ拓馬の姿に、
晴は笑わずにはいられなかった。
「はいっ。よろしくお願いします!」
「よっしゃあ!
・・・・・・ありがとう、晴ちゃん。
本当にありがとう。」
互いに抱える闇を乗り越え、
笑顔を浮かべる二人。
一筋の道に、導かれるように。
手を取り合い、歩き出す。
その、ほんの一方で。
カウンター席で一人、
莉香は白のスパークリングワインを
一本空ける程飲んでいた。
頬杖をつき、時折微笑みながら
紙おしぼりが入っていた袋を弄んでいる。
彼女は一足先に、
同僚の門出を祝う酒を嗜んでいた。
約一年間、見守ってきた
時間の経過を振り返りながら。
カウンター内では、
洗ったグラスを拭いている学の姿があった。
少し、とろんとした目で
莉香は学に言葉を投げる。
「何か一杯作って。」
その要望に応えるように、
彼はカウンター下にある冷蔵庫から
ライムを一個取り出す。
その果実を見て、彼女は感心した。
店に来た時は、いつも彼に一杯だけ
カクテルをリクエストする。
腕を確かめるのと、口数少ない彼との
唯一の会話手段でもあった。
「すっきりするやつ、よろしくね~。」
彼は静かに頷く。
作り出す準備をする彼を、彼女は眺めた。
その視線は、
いつも彼に向けているものとは少し違った。
同僚が倒れそうになった時、彼は
叔父と自分よりも先に異変に気づいていた。
それからの冷静な判断と行動。
その時の彼は、とても心強かった。
普段自分が向けていた彼に対する目は、
それで少し変わってしまった。
彼女が彼に対する視線は・・・・・・
叔父の店で働く弟子ではなく、
学生バイトではなく、
代行役ではなく。
一人の男性として見る、女性の目だった。
店内は今、テーブル席が所々空いて
客足が落ち着いた状態である。
カウンターには、莉香の姿しかいない。
BGMも比例するように、
落ち着いたビートを刻むドラムと
ベースラインに乗るピアノの音色が
静けさを演出している。
空間は、モノクローム。
彼女は普段、酒を嗜んで酔う事があまりない。
だが、この空間と情緒が、
身体と心を狂わせる。
空間の心地好さと、
自分の為にカクテルを作ってくれる彼の姿に、
彼女は酔いしれた。
それから数十分後、
バックヤードから、晴と拓馬が姿を見せる。
学の作った、モヒート(ライムとミントのカクテル)を
飲み干した後、莉香はそれに気づいて
ぴん、と背筋を伸ばした。
「晴!」
「ごめんね、莉香。もう大丈夫よ。」
「良かった~!さ、こっちに座って!」
莉香は満面の笑みを浮かべて、晴を手招きした。
そして、自分の隣の席に座るように促す。
晴は応えるように微笑んで、促された席に座った。
自分を迎えた莉香の目が
いつもよりとろけていたので、
晴は苦笑しながら尋ねる。
「莉香、たくさん飲んでるでしょ?」
「ごめ~ん。だってぇ~。
飲まずにいられなかったんだも~ん」
えへへ、と莉香は幸せそうに笑う。
「マナ、これ美味しい!最高!」
空のグラスを掲げて、莉香が声を上げる。
普段はっきり面と向かって
褒められたことがなかったので、
学は目を見張って莉香に目を向けた。
「莉香ちゃん。」
拓馬は笑って、ご機嫌の莉香に目配せさせる。
その意味を感じ取り、莉香は
さらに表情を明るくさせて両腕を上げた。
「わ~い!今日はおめでたい日だぁ~!」
莉香の声が大きくて、
店内の客たちが彼女に目を向ける。
こんなハイテンションな彼女の姿は
先日の女子会でもなかったので、晴は目を丸くさせた。
「ちょ、莉香っ。」
「いーじゃん。おめでたいからいーの!」
ケラケラ笑って自分に抱きつく莉香に、
晴は大きく戸惑う。
「わっ。ね、ねぇ、
すごく酔っぱらってない?大丈夫??」
「えへへ~。酔わずにいられましぇんよ~。
はる大好き~。」
「きゃあっ。」
じゃれ合う晴と莉香を見て、拓馬は顔を綻ばせた。
その光景を、学は少し頬を緩ませて見守っている。
彼もまた、未だかつて
こんな彼女の姿を目にしたことはない。
自分の作った酒で、彼女を
楽しく酔わせることが出来たのは、
彼にとって大きな一歩だった。
学の和らいだ表情を目にして、
拓馬は笑みを浮かべて声を掛ける。
「・・・ようやく合格をもらったな。おめでとう。」
労いの言葉に、彼は会釈で応える。
「マナ。伝えておくよ。
藤波 晴さんを、
店の一員として迎え入れる事になった。
下準備で、正式には一ヶ月後になると思うが・・・・・・
よろしく頼むよ。」
「・・・・・・」
学は、晴に目を向ける。
視線を感じ、晴は彼と目を合わせた。
先程自分に向けられた強い眼光は、見受けられない。
水光接天を思わせる、深い意思の光。
その彼の意思を、
彼女はまだ捉えることが出来なかった。
「・・・・・・よろしくお願いします。」
小さく言葉を紡いで、学は丁寧に頭を下げる。
晴は立ち上がって、それに応えた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
頭を下げ合う二人に、
拓馬は明るい笑顔で声を掛けた。
「・・・よしっ!
二人とも、これからよろしく頼むよ!」
新たな出逢いと、蘇る記憶。
それに比例するように、動き出す闇。
導かれる表記法は、これからまた
さらに深く綴られていく。
深い、深い海へ。