*Notation 4* 曽根木 拓馬(そねき たくま)
“Calando”は、莉香の叔父である曽根木 拓馬の店。
そこに佇むグランドピアノを一目見た瞬間、
晴は目を奪われた。
ピアノ椅子に座る、優美な“彼女”とともに・・・・・・
4
「やぁ、いらっしゃい。」
軽快な声が、彼女たちを迎え入れる。
その声の主は店のカウンター内に立ち、
晴と莉香に笑顔を向けていた。
彼は40代前半の男性だが、実年齢よりも若い印象だった。
短く綺麗に整えられた口髭。
その髭と同様に
茶褐色に染められた髪は、ツーブロックスタイル。
胸の辺りにアルトサックスのイラストが描かれた
黒のTシャツは、羽織った
赤と白のタータンチェックシャツから見え隠れしている。
「拓叔父さん、髪どうしたの?!」
その男性の髪型を見て、莉香は目を丸くしている。
彼は、莉香の反応を受けて満足げに笑った。
「ははっ。ちょっと気分転換してみた。似合うか?」
「ま、まぁ・・・変じゃないけど・・・・・・
びっくりした~・・・・・・」
グランドピアノの方を向いたまま
立ち尽くす晴に目を移し、
男性は声を掛ける。
「・・・やぁ、初めまして。藤波 晴さん。
曽根木 拓馬です。よろしく。」
挨拶の言葉に気づき、晴は
はっと我に返って
男性―拓馬に目を向けた。
慌てて頭を下げ、挨拶を返す。
「す、すみません・・・・・・
藤波 晴です。よろしくお願いします。
・・・・・・あの、梅酒・・・
とても美味しかったです。」
晴の言葉に、拓馬は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「それは良かった!
そう言ってもらえて嬉しいよ。
昨日急遽莉香ちゃんがここに来て、
君と女子会するって言うから・・・・・・
持たせたんだ。
君の事は、前々から聞いているよ。」
「えっ?」
晴は驚いて莉香に目を向ける。
莉香はその視線に、笑顔で返した。
「いつか晴をここに
連れてこようって思っててね。
叶ってよかった~。」
「はははっ。
念願叶って良かったな、莉香ちゃん。
・・・さて、二人とも。
何が食べたいかな?
初来店を祝して、御馳走するよ。」
その言葉に、二人は顔を見合わせて喜んだ。
「やった~!ありがと、叔父さん!
それならお酒飲みたいけど~・・・
昨日沢っ山飲んだから控えとこ。
今日は代行くんを
呼ぶわけにはいかないし。」
「・・・代行、“くん”?」
「大学生バイトの子。飲んだ時は送ってもらってるの。」
「ほぼ、毎日だけどな。」
拓馬は苦笑して、嗜めるように言う。
「あまりこき使わないでくれよ。
大事な時期だし、大事な弟子なんだ。」
それに悪びれる様子もなく、莉香は言葉を返した。
「いーのよ。何にも文句言わないし。」
「・・・言えないだけだろう。」
「拓叔父さんが弟子って言うなら、
ほぼ私の弟じゃない?」
「あのなぁ・・・そんな勝手な事言って・・・・・・
あいつは、感情と言葉を出さない奴なんだ。
・・・もし、莉香ちゃんに
好意があったらどうする?」
「あはは。拓叔父さん、本気で言ってる?
あいつ、私の事
女として扱ってないもん。
本当に男か?って、思うくらいだし。
絶対飲んだくれとしか見てない。」
「・・・・・・全く・・・莉香ちゃんは
無防備すぎるなぁ・・・・・・僕は心配だよ。」
叔父の悩む様子に、
彼女は屈託ない笑いを向ける。
「だーいじょうぶ。心配ありがとう。
拓叔父さんは優しいね。
本当にあいつからそんな視線感じた事、
いちっどもないから。安心して。
・・・っていうか、
アラサー間近の私よりも、
同世代の可愛い女子の方がいいに
決まってるってば。」
二人のやり取りを、
晴は微笑ましく見守っている。
それ気づき、拓馬は咳払いをした。
「ほら、お客様を立たせたままじゃないか。」
「・・・あっ。ごめん、晴!さ。ここにどーぞ。」
「ふふっ。ありがとう。」
―“代行くん”・・・・・・ねぇ。
これは後で聞かないとね。
あやしいなぁ。
晴は莉香の様子にそう思いながら、
促されたカウンターのバーチェアに座る。
その後に続くように、莉香も
晴のすぐ隣のバーチェアに腰を下ろした。
カウンターテーブルは、
木目の綺麗な琥珀色をした一枚板。
テーブル席には、飴色のカフェテーブルと
レザー製のヴィンテージソファーが
対面して置かれている。
拓馬の後ろには、
種類豊富なウイスキーのボトルが並んでいた。
店内を見渡し、晴は拓馬に声を掛ける。
「・・・とても素敵なお店ですね。」
「ははっ。そう言ってもらえて嬉しいよ。
若い子にはちょっと
地味に感じるかもしれないが・・・・・・」
「・・・そんな事ありません。
年齢関係なく、素敵だと思います。」
―・・・・・・あの綺麗な人・・・・・・
ニーナさんで間違いないよね。
莉穂が懐くように
金髪の女性の足元にくっつき、
その彼女の小さな頭を
女性は愛でるように優しく撫でている。
『彼女は、“意念を持つ”幽霊だ。』
朋也がいつの間にか、
莉香とは反対側の隣の席に座っている。
『彼女の意念は、この店のようだな。』
彼の出現に、ほんの少し胸が波打つ。
それを気づかれないように、
晴は心の中で問い掛けた。
―・・・・・・朋也さん。
ニーナさんの事、
拓馬さんに話してみようと思うけど・・・・・・
『君が良いと思うなら、
俺は止めない。好きにするといい。』
「・・・・・・」
無言のままグランドピアノの方向を
見つめている晴に、莉香は耳打ちする。
「・・・ねぇ。ニーナさん、いた?」
「・・・・・・うん。」
「ほんと?!いるんだ!!」
「・・・うん。」
「・・・?
どうした、二人とも?」
晴と莉香がこそこそ話しているのを、
拓馬は首を傾げて尋ねる。
晴は拓馬と目線を合わせると、言葉を紡いだ。
「・・・お店に入った瞬間、
あのピアノに見惚れちゃって・・・・・・
このお店の雰囲気と
すごく合っていて、
とても素敵だと思いました。」
その言葉に、拓馬はこの上なく満面の笑みを浮かべた。
「ははっ。君は褒め上手だね。
とても嬉しいよ。
・・・音が囲む空間にしたいっていう、
自分の願望が強くてね・・・・・・
あのピアノは、その第一歩なんだ。
念願叶ってようやく手に入れた。
・・・・・・残念ながら自分は弾けないから、
奏者を雇っていたんだけど・・・・・・」
「・・・はい。莉香から少し聞きました。」
晴と拓馬がピアノについて
話しているのに気づき、
金髪の女性はカウンターの方に目を向ける。
「・・・・・・そうか。」
「拓叔父さん、ごめん。ちょっと話しちゃった。」
「いや、いいよ。別に隠す事じゃないからね。」
拓馬の表情に笑みは浮かんでいたものの、
明るさはなかった。
目を向けた先の漆黒の光沢と、
瞳に浮かんだ闇の波が交差する。
それを見て、晴は話すべきか迷った。
―・・・・・・少し、
様子を見る方がいいかもしれない。
「・・・・・・晴ちゃん、と呼んでも構わないかな?
莉香ちゃんから
君の話を聞いているうちに、
姪っ子みたいな感覚になっていてね。」
晴は嬉しそうに頷いた。
「構いません。そう思ってもらえて嬉しいです。」
「・・・晴ちゃんは、ピアノが弾けるそうだね。」
「・・・はい。趣味程度ですが・・・・・・」
「ピアノは調律しているから、
すぐに弾ける状態なんだが・・・・・・
弾いてみるかい?」
そう話を切り出した、彼の眼差し。
晴は、なぜか緊張する。
瞳の奥に潜む何かを、見た気がした。
朋也もそれに気づく。
「・・・・・・弾かせてもらっても、いいですか?」
「ああ。是非。」
「・・・あの、一年くらい触ってないので・・・・・・
指を慣らしたいのですが・・・・・・
出来れば、一時間欲しいです。」
その申し出に、拓馬は快く頷いた。
「勿論構わないよ。
・・・きちんと弾いてくれるんだね。
妻も喜ぶと思う。」
「・・・あっ。」
晴は自分の爪を見るなり、声を上げる。
「拓馬さん。爪切り貸してもらえますか?」
そのお願いに、拓馬は笑う。
「ああ。あるよ。」
「久しぶりで、忘れていました・・・・・・」
「妻もよく爪を切っていたよ。
ピアノを弾く人にとって、必需品だよな。」
思い出したのか、
彼は少し表情を緩めて
カウンターの奥にある裏口に姿を消す。
それを見計らい、莉香は晴に話し掛けた。
「・・・ニーナさんの事、話さないの?」
そう聞かれて、晴は頷く。
「・・・うん。今は様子見。
タイミングを見て話した方が
いいかもって思って・・・・・・」
「・・・そっか。分かった。」
拓馬がカウンターに姿を現すと、
莉香は話を止めた。
「はい。どうぞ。
・・・消毒してあるから安心してくれ。」
彼は、カバー付き爪切りを差し出す。
「ありがとうございます。」
晴は会釈をして、それを受け取った。
ピアノをやめた途端、
マニキュアを楽しむようになった。
その時は嬉しくて爪を伸ばし、
ネイルサロンで綺麗にしてもらった事がある。
ふと、彼女はそれを思い出す。
彼女は綺麗に伸ばしていた爪を、
躊躇いなく切っていった。
ぱちん。ぱちん。
店内に、その音だけが響く。
莉香と拓馬は、静かにその光景を眺めている。
何かを、思い馳せるように。
朋也は席から腰を上げて、
グランドピアノの方に歩いていく。
ピアノ椅子に座る女性は、朋也に目を向けた。
莉穂は、その女性の元に歩いてきた
彼を見上げている。
『・・・・・・Signora,
Sono Tomoya Katagiri.
Puoi lasciare il quel posto?』
彼が綴った言葉に、彼女は小さく頷いた。
『・・・Sì.
ニホンゴで、ダイジョウブです。
アリガトウ。トモヤ。』
所々片言だが、発音された日本語は
正しく聴き取れる。
女性の高い声音は、
オブラートに包まれたように
とても優しい。
朋也は、女性に手を差し出す。
自然に彼女は、白く細い手を
差し出された彼の掌に乗せた。
女性は朋也の手引きで立ち上がり、
そっとピアノ椅子から離れる。
同時に、莉穂は莉香の元へ駆け出していった。
爪を切り終わった後に、晴は
その光景を目の当たりにする。
ほんの少しだけ、胸がちくちくした。
「晴ちゃん。そのまま返してもらっていいよ。」
「あっ・・・すみません。
ありがとうございました。」
使い終えた爪切りを、丁寧に拓馬へ返す。
女性は、目線を晴に向けていた。
その視線を合わせて良いものか迷ったが、
席から腰を上げて
グランドピアノが置かれたステージに歩いていく。
莉香と拓馬は、それを静かに見送った。
朋也に会釈して離れると、
女性は晴と正面向かうように立つ。
『・・・・・・mio dio・・・・・・』
晴が自分と目線を合わせている事に、
驚きを隠せない様子だった。
鼻筋通った綺麗な顔立ち。
澄んだ青空のような碧眼に、
吸い込まれそうになる。
晴は、女性に微笑み掛けた。
その動作で、確信するように言葉を紡ぐ。
『・・・アナタは、ワタシがミえていますね・・・・・・』
莉香と拓馬に聞こえないように、
晴は声のトーンを落として話し掛けた。
「・・・・・・藤波 晴と申します。
ピアノを弾かせてもらいますね。」
驚かず自然な態度で応える晴に、
さらに驚きの色を重ねながら
女性は快く頷いた。
『・・・・・・ワタシは、
ニーナ・オルランディです。
アナタは、どうしてワタシがミエル?』
「・・・彼と私は、“共鳴”しています。」
そう言って伝わるのか疑問だったが、
一言、ありのままを伝えた。
女性―ニーナは朋也に目を向ける。
視線を通わせると、
納得するように頷いた。
『・・・・・・フタリは、ツナガっているのですね。』
晴がピアノ椅子に座らず、
グランドピアノとは全く違う方向で
立ち尽くしているのに、拓馬は首を傾げた。
莉香は何となく事情を察し、口を開く。
「・・・・・・ねぇ、拓叔父さん。
もしもの話だけど・・・・・・
ニーナさんが、今でも
このお店にいるとしたらどう思う?」
「・・・・・・」
そう尋ねられた彼の表情に、
動きはなかった。
ただ、瞳の中に漂う闇の波が少し波立つ。
「・・・・・・いるかもしれないね。」
「・・・え?」
「ニーナが、あのピアノの傍にいるかもしれないね。
僕がこの店を大事にしているのを、
彼女は知っているから。
・・・・・・彼女も、この店を好きで・・・
護りたいと思っているだろうから。」
「・・・・・・」
意味深な言葉に、莉香は押し黙る。
そして、立ち尽くして動かない
晴の後ろ姿に目を移した。
『・・・ハル。オネガイがあります。』
ニーナは澄みきった碧眼を
真っ直ぐ向けて、言葉を紡ぐ。
『あのヒトを、タスケテください。
あのヒトは、トまっています。
ワタシを・・・ずっとオイかけている。』
悲しそうな表情を浮かべる彼女から、
晴は目を逸らせなかった。
『あのヒトのココロを、タスケテください。
ワタシをオイかけずに、アルいていけるように。』
朋也は、行方を静かに見守っている。
晴は、彼女の悲痛な訴えを受け止めた。
―・・・・・・つらいと思う。
ニーナさんは、拓馬さんを
見守ることしか出来ない。
何も、出来ない。
拓馬さんに、ニーナさんがいる事を
伝えるべきか。
迷ったのは、
今ニーナさんが言ったことに
引っ掛かったから。
拓馬さんは、もがき続けている。
それを、感じ取ってしまった。
いる事を伝えたら、逆に苦しめるのでは・・・と。
『トモヤのオカゲで、ワかります。
アナタのピアノなら、
カレをタスけられる。』
―・・・・・・私の、ピアノ?
私は、人の為に
ピアノを弾いたことがない。
プロじゃない。
しかもその時間を、
手放してしまっていたのに。
今の私に、それが出来る?
『出来る。』
淀みない低い声。
『君なら出来る。』
―・・・なぜ、そんなに強く言えるの?
晴はその声に目を向けることなく、
漆黒の光沢と向き合った。
そっと、蓋を開ける。
白黒並んだ88鍵盤が、目に飛び込んできた。
その瞬間、彼女は周りの状況を忘れ去る。
ピアノ椅子に座ると鍵盤に手を置き、
椅子のハンドルを回して高さを調整した。
その後立ち上がり、
屋根を開けて突上棒で支える。
椅子に座り直すと、
晴は綺麗に並ぶ鍵盤と向き合った。
す、と両手を鍵盤に置き、弾き始める。
指の練習曲。
1番から30番まである、一般的な練習曲だ。
指を慣らす時間は、これを必ず弾いていた。
楽譜がなくても、指が憶えている。
だが、一年のブランクは大きい。
鍵盤が重い。
こんなに、重かったのか。
ピアノを、5才の頃から習っていた。
上達は早い方で、
よく先生から褒められていた。
でも、楽しい時は小学5年生まで。
それからクラシックを本格的に習う事になり、
先生が変わると
途端に楽しい時間が
苦痛の時間に変わった。
基礎の基礎から見直された。
手は卵を持つように、手首を下げない。
姿勢は正しく。
足はぶらぶらしない。
音は正確に。
メトロノームを使う。
粒を揃えて。
クレッシェンド、デクレッシェンド・・・・・・
全てが、機械仕掛けのようになった。
ピアノを弾くのは好きだったから、
何とか我慢した。
頑張った。
でも、その時間はとても苦痛だった。
そんな時だった。
ジャズという世界。
即興で、自分の思うままに
好きなように弾ける。
とてもお洒落で格好いい音。
その世界に、とても惹かれた。
そこに逃げ道をこっそり作り、
表で何とかクラシックを頑張った。
親の希望でもあったから。
でも、駄目だった。
高校生まで頑張ったけど、
大学生になってからは
もう続けられなかった。
ピアニストは憧れだったけど、
職業にすることは出来なかった。
才能がなかった。
そこまでの、情熱がなかった。
そう言ってしまえば、楽になった。
クラシックから離れ、
習ってきた教室を離れ、
ふとある日、ジャズを弾いた。
楽しかった。
とても楽しかった。
独学だから、胸を張って披露は出来ない。
でも、とても好きで大好きで。
記憶を振り返りながら、
晴は練習曲を弾き続ける。
店内には、淡々と音の粒が流れていた。
それを拓馬は、微動せずに聴き入っている。
莉香は縛られたように動かず、
晴の姿を目で捉えながら
その音に耳を傾けている。
莉穂も、同じだった。
『・・・・・・スバらしいです。』
ニーナは、ぽつりと呟く。
『・・・・・・ああ。』
朋也は、それに相槌を打った。
音の粒は、とても正確に奏でられている。
しかしその音色に、感情は籠められていない。
一年越しに弾いて、指の重さを感じたが
調べを語るのに問題はなかった。
指が、思う以上に覚えていた。
それだけこの練習曲と
向き合った時間は長く、濃い。
その時間が、あって良かったと今は思う。
ピアノを弾く事が、こんなにも
愛おしく感じる。
技術と情熱。
それが真に伴う者は、ごく僅かで
その中でもクラシックは崇高だ。
足がすくむような高所を
綱渡りしていく感覚。
バランスを崩せば、地に落ちる。
自分は、その場所に
身を置く事が出来なかった。
クラシックが、
嫌いになったというわけじゃない。
技術は重ねることが出来たが、
重ねる度に情熱が失われていく。
その矛盾に耐えられず、
クラシックから距離を置いた。
ジャズ。
自由な世界。
自分をさらけ出せる、表記法(Notation)。
それを、自分は求めるようになっていた。
―自分が弾いたピアノが、
人の心を助けるなんて・・・・・・
そんなこと出来るなんて思わない。
ただ私は、ピアノを弾くのが大好き。
その気持ちだけ。
その気持ちを今、ようやく取り戻した。
・・・それを、全力で・・・・・・
出そうと思う。
指の練習曲30番まで弾き終わると、
丁度1時間が経過していた。
晴は一息つくと、ようやく周りに目を向ける。
すると、いつの間にか
拓馬と莉香はテーブル席に座っていた。
二人は、輝かせた目を
晴に向けている。
「・・・すみません。お待たせしました。」
晴が声を掛けると、
莉香は堰を切ったように言葉を吐き出す。
「・・・すごい!!晴すごい!!
全然趣味レベルじゃないし!!」
「え?いや、これは指の練習で・・・・・・」
「すごいってば!!」
拓馬も感嘆の言葉を漏らす。
「・・・驚いたよ。
料理するどころじゃなくなっちゃったよ。」
二人の感激ぶりに、晴は戸惑う。
「あの、まだ曲っていう曲を
弾いていませんが・・・・・・」
「ああ。分かっているよ。
でも、指の練習を聴くだけでも分かった。
何を弾いてくれるのか、楽しみで仕方ないよ。」
目を輝かせる二人の傍で、
莉穂もきちんとお座りしている。
にこにこと、癒しの微笑みを向けながら。
晴は堪らず、ニーナを見た。
彼女の表情は、とても和らいでいる。
『・・・ハル。
richiestaがあります。
オネガイできますか?』
―・・・リ・・・?
『リクエストだ。』
朋也が、合いの手を入れるように翻訳する。
『タクマとワタシの、オモイデのキョクです。』
言葉が出せないので、晴は小さく頷く。
『・・・“Stella Splendente”』
「・・・?」
『・・・“きらきら星”』
―・・・・・・“きらきら星”・・・・・・
『アナタの、“Stella Splendente”でいいです。
よろしくオネガイします。』
この曲は、世界で愛されている童謡だ。
世間では、
偉大な作曲家の変奏曲が広く知られている。
偶然にも、晴が初めてのピアノ発表会で
披露した曲だった。
ジャズに、アレンジして。
当時を思い出し、晴の胸は高鳴る。
「・・・私も、大好きな曲です。」
ぽつりと零れた晴の言葉に、
拓馬は引っ掛かった。
「・・・・・・私“も”?」
その疑問に答えることなく
晴は鍵盤に向かい合い、深呼吸をする。
―・・・あの時作ったものから、
またさらにアレンジしてみよう。
・・・ふふっ。夢みたい。
こんな素敵なお店で、
素敵なステージで、
素敵な観客がいて。
何て、贅沢なんだろう。
晴は知らずに微笑んでいた。
その微笑みに、誰もが目を奪われた。
それだけ彼女は今、輝いている。
鍵盤に両手を置く。
すぅ、と息を吸い、静かに吐くと同時に
指先で優しい旋律を奏でる。
―“きらきら星”の基本となるフレーズ。
小節に同じ音が二つ並ぶ音符は、
仲良く歩いていく恋人同士みたい。
私はそんな風に思えて。
だから、初回崩さない。
このフレーズが全てだから。
丁寧に流れるフレーズを聴き入れた瞬間、
拓馬は大きく目を見開いた。
優しく流れる音色に、
莉香は顔を明るくさせる。
その一粒一粒に合わせて、莉穂は
振り子のように身体を揺らす。
静かに、瞬く星のフレーズを弾き終わると、
晴は一呼吸置いて弾き出した。
二回目からは、世界を広げるように。
このフレーズに、自分のだけ表記法を書き加えて。
店内は、晴が奏でるピアノの音色で溢れる。
瞬きから、踊り輝く
きらきら星がいっぱいに広がった。
星たちは、聴く者たちの周りを包み込む。
晴自身も、その星たちの一部になって
輝いていった。
優雅な微笑みを湛えながら、ニーナは
拓馬を見つめている。
彼の目には、記憶の波が押し寄せていた。
見えない彼女が、
全身隙間なく満たしていく。
やがて溢れ、頬に伝った。
旋風の目になっている彼女の姿を、
朋也は優しく見守っている。
その彼の表情を、
彼女が目にしたらどう思うだろうか。
奏でられた時間は、3分程度だった。
誰もが短いと感じていた。
もっと聴きたいと、願うほどに。
それは彼女自身も、
もっと弾きたいと思うほどだった。
―楽しい。
楽しい。
ずっと弾いていたい。
終わりたくない。
余韻に浸るように、演奏を終わらせた。
大きな拍手が上がると同時に、晴は
はっとした。
それだけ、夢中で弾いていのだ。
「はるぅ~っ!!ステキ!!
サイコー!!!
カッコ良すぎ~!!!」
大絶賛しながら、
莉香はスタンディングオベーションで
大きな拍手を送る。
「晴すごーい!!!」
莉香の感激ぶりに、
晴は縮こまって恥ずかしそうに言う。
「莉香、大げさだよぉ・・・・・・」
「何言ってるの!カッコ良すぎた!!」
晴は拓馬に目を向ける。
彼は晴の視線に気づき、
頬に伝った涙を慌てて拭うと
立ち上がって拍手を送った。
「素晴らしい演奏だったよ。
・・・ははっ。最近涙腺が緩くてね。」
ピアノ椅子から立ち上がり、
晴は拓馬に深々と頭を下げた後
微笑んで言葉を掛ける。
「・・・弾かせて頂いて、
本当にありがとうございました。
とても楽しかったです。」
「いやいや!こちらこそ本当に・・・・・・
・・・・・・参ったな・・・・・
そんな風に言われると、
申し訳なさすぎて・・・・・・」
「・・・?」
「・・・・・・晴ちゃん。
正直に言うとね、
僕はそのピアノを完全に
飾り物にしようと思っていたんだ。
奏者を雇わず、
鑑賞するだけにしようとね。」
莉香は、拓馬が語った事実に目を見開く。
「拓叔父さん・・・・・・」
「君を、最後の奏者にしようと考えていたんだ。
・・・だけど・・・・・・」
奥に潜ませていた想いが、
目に浮かんでいる。
それは、きらきらと瞬く
星屑のようだった。
「気が変わった。君のお陰だよ。
奏者を雇おうと思う。
妻も・・・・・・その方が嬉しいだろう。
ピアノが、
生きている方がいい。
こんなに、素晴らしい音を奏でるのに・・・・・・
もったいないよな。」
彼の言葉に、ニーナの表情は
悲哀と歓びが
入り混じった色に染まる。
『・・・タクマ・・・・・・』
「・・・晴ちゃんが弾いた
きらきら星は、
妻との思い出が詰まった曲なんだ。
開店する前に、妻が必ず弾いていた曲。
この曲を聴くと・・・・・・
いつでも思い出せるんだ。
ニーナと過ごした、大事な時間を。」
語られた言葉に、
全ての想いが籠められていた。
それを感じた晴は、静かに告げる。
「・・・・・・拓馬さん。実は、
ニーナさんのリクエストなんです。」
「・・・・・・えっ?」
―拓馬さんには、事実だけを伝えよう。
「このピアノの傍に、
ニーナさんがいます。
理由があって私は、
見えない“彼ら”と会話が出来ます。」
「・・・!!」
普通の状態なら、受け入れられなかっただろう。
しかし今の彼に、
晴が告げた事実を
疑う気持ちはなかった。
「大好きなお店を護る為に・・・・・・
拓馬さんを護る為に・・・・・・
ニーナさんは、ずっと見守っています。」
「・・・・・・」
彼の、計り知れない想いが
押し寄せる。
「・・・ニーナ・・・・・・」
拓馬はピアノの傍に歩いていった。
愛おしい彼女の姿を、追い求めるように。
ニーナはその姿を見つめ、
目に涙を溢れさせて泣き崩れる。
晴は二人の邪魔をしないように、
そっとピアノから離れた。
『タクマ・・・・・・
ゴメンなさい・・・・・・
ありがとう・・・・・・』
何に対する謝罪なのか。
感謝なのか。
彼女の言葉は、彼の耳に届かない。
「ニーナ・・・・・・ごめんな。
君の大好きなピアノを、
眠らせようとしていた・・・・・・
許してくれ・・・・・・
これから、もっと頑張るから。
心配しないで、見守っていてくれ。」
拓馬は漆黒の光沢に優しく触れ、指を滑らせる。
頭を項垂れ、込み上げる感情を抑えきれずに
涙を落とした。
その後ろ姿を、
莉香は影を落として見守る。
彼女の足元で、莉穂も
悲しそうな表情を浮かべていた。
『・・・素晴らしかったよ。』
晴の隣から、ぽつりと掛けられる朋也の声。
彼女は、ほんのり頬を赤く染めた。
―・・・・・・お世辞でも、嬉しいです。
『お世辞じゃない。最高だった。』
褒められ、恥ずかしさを隠すように
晴は心の中で尋ねる。
―・・・・・・何で、イタリア語話せるの?
『・・・海外メディアを取材して、
身についた言語の一つだ。
とりあえず、大きな国の言語は話せる。』
―・・・そ、それって、すごくない?
『君のピアノの方が、何倍も凄い。』
絶賛されることに慣れていない彼女は、
彼に目を向けることなく
泣き崩れる夫婦を見守る。
もう触れることも、
声を聞くことも、
時間をともに出来ないと
分かっていても・・・・・・
生きている者は、前に進むことが出来る。
しかし、傍で見守る事しかできない
“彼ら”は・・・・・・
もうその時間を手にすることが出来ない。
でも。
ともにした時間を、想うことはできる。
それを晴は胸が痛い程感じ、
彼らとともに涙を流した。
この日の出来事は、
彼女の心に
かけがえのない傷跡となって刻まれる。
*
あれから、三日が過ぎた。
晴は特に何も変わらず、
普段の日常生活を送っていた。
変わっている事と言えば、
朋也と関わる時間である。
彼はあれから、晴に呼ばれる時と、
“意念を持たない幽霊”に
遭遇する時以外は姿を現さなかった。
晴の方も、用事がないのに
彼を呼ぶのに対して
少し躊躇いを感じていた為、
関わる時間は
“彼ら”を解放する時だけだった。
この三日間、
“意念を持たない幽霊”に遭遇したのは二人。
通勤時間に遭遇したせいか、
どちらともサラリーマンだった。
一人目は、
通勤途中で心筋梗塞を引き起こして
亡くなった50代男性。
シングルファザーで、
一人娘の事をとても気にしていた。
二人目は、
信号が赤になっているのに気づかず、
横断歩道に踏み出して
車に轢かれた20代男性。
歩きスマホをしていたのが原因だった。
いずれも、無事に解放できた。
最初に比べ、拳銃を撃った後の
息切れも疲労感も若干軽くなっていた。
慣れなのか、“共鳴”が強くなったのか・・・・・・
彼女が知る由もない。
あれから変わったことが、もう一つある。
“ピアノが弾きたい”。
その願望が、彼女の中で大きくなっていた。
今夜仕事帰りに、莉香を誘って
“Calando”へ寄ってみようか。
彼女はそう考えていた。
開店している時の雰囲気を、
見てみたいと思った。
もしかしたら、もう
奏者はいるかもしれないが・・・・・・
それでも良かった。
あのピアノが、生きているのなら。
このまま大きくなる願望を、
放置したくなかった。
閉店した後弾かせてもらえるか、頼んでみようか。
実現の可能性を考えていた。
*
この日の朝。
東京は快晴で、
既にカーテン越しの窓から
穏やかな朝日が差し込んでいた。
玄関の鍵を閉め、晴は
パンプスのヒール音を鳴らして歩いていく。
今朝も、部屋で朋也を呼ぶことはなかった。
それは、彼女自身
自覚している事がある。
男性として見ている意識だ。
自分が一人でいる時間、呼ぶ事は
彼と一緒の時間を重ねる事になる。
重ねれば重ねる程、想いは強くなってしまう。
それを避けていた。
避ける理由は、よく分かっている。
“生きている人間と、幽霊”。
その事実は、変えることが出来ない。
それを言い聞かせれば言い聞かせる程、
彼女は怖くなった。
“この恋愛に、未来はない”。
だから、歯止めをかけている。
だが、強制的に
歯止めをかければかける程・・・・・・
自覚せざるを得なかった。
自分は、彼の事を
好きになっているのだと。
電車が停止し、扉が開くと
人波が駅のホームに雪崩込む。
いつもと変わらない風景。
朋也と関わらない時間は、本当に
ごく普通の日常だ。
でもこれが今は、
言いようのない寂しさで
いっぱいになる。
人波に乗って駅の改札口を抜け、
晴は街路を歩いていく。
彼女は、いつもより思いふけっていた。
―・・・出会ってまだ間もないのに、
何だろう。この感じ。
分からないのよね・・・・・・
朋也さんとの時間は、
どの時間よりも濃く感じる。
その時間を・・・・・・
過ごしていたいっていう私がいる。
困ったなぁ・・・・・・
・・・・・・私も、莉香のように
考えられたらいいけど・・・・・・
“次元を超えた恋愛”・・・・・・かぁ。
いろいろ考えすぎなのかな・・・・・・
普通に、このまま
好きになってもいいのかな・・・・・・
・・・・・・。
想像できない。
“幽霊も、恋愛できるの?”
・・・・・・。
・・・こんな事、聞けないし・・・・・・
「・・・はぁ・・・・・・」
深いため息をついた、その矢先だった。
『・・・・・・晴!!』
「・・・?!」
不意に、自分を呼ぶ朋也の声がした。
どきっとして晴は立ち止まる。
上空に、影が差した。
えっ、と声をあげて見上げた瞬間、
視界がブラックアウトした。
「・・・・・・?」
晴は首を傾げる。
視界が戻ると、自分は
街路の真ん中に立ち尽くしていた。
周りに、人の気配はない。
この感覚。
これは、“彼ら”の世界に
足を踏み入れている。
晴は、それが分かるようになっていた。
しかし、それは
自分が“彼ら”の存在を認識した時。
姿を確認した時に発生する。
今回、その兆候はなかった。
「・・・何で・・・・・・?」
『このケースが来たか・・・・・・』
気づくと、朋也が隣にいた。
“彼ら”の世界に足を踏み入れた時、
彼は必ず自分の傍にいる。
「・・・・・・一体、何が起こったの?」
煩くなる鼓動を抑えながら、
晴は朋也に尋ねる。
彼は難しい表情を浮かべていた。
『いずれは遭遇すると思っていたが・・・・・・
晴。このビルの屋上を見ろ。』
「屋上・・・?」
晴は言われるままに、その方向へ目を向けた。
とある高層ビルの屋上。
目視では難しい程の、小さな人影。
視力が良い彼女は、
何とかそれを確認する事が出来た。
「・・・人がいる・・・・・・」
その、豆粒に見える人影が
ぐらりと揺れる。
「えっ・・・?!うそっ!!」
飛び降りた。
そう思った。
その豆粒は、大きな人影となって
地面に近づく。
「きゃああああっ!!」
地面に叩きつけられると思った瞬間、
晴は悲鳴を上げて目を背けた。
しかし、音がしない。
無音の時間が過ぎる。
恐る恐る目を開け、状況を確認すると
地面には何もなかった。
予想していた大惨事の光景は、広がっていない。
「・・・どういう事・・・?」
『自殺した幽霊だ。』
―自殺。
その単語に、晴は身体を強張らせる。
『天寿を全うしない“彼ら”は、
命を絶つ最期の瞬間をずっと繰り返す。』
「えっ・・・?」
『その瞬間に、縛られてしまう。』
晴は再び、ビルの屋上に目を向けた。
すると、先程と同じ位置に
豆粒程度の人影が見える。
「・・・同じ時間を、繰り返すってこと?」
『・・・・・・ああ、そうだ。』
ぞっとした。
―・・・死ぬ瞬間を、
ずっと繰り返しているってことよね?
「どうしたら・・・・・・止められるの?」
『・・・“彼女”と話すしかない。』
人影は、再び身を投げる。
晴は、とても見ていられなくて
目を背けた。
「・・・・・・屋上に行かないと。」
堪らない気持ちになって
ビルに向かおうとする彼女を、
朋也は前に立ちはだかって制する。
行く手を阻まれる理由が、晴には分からなかった。
「・・・何で止めるの?」
朋也は晴と目線を合わせ、静かに答える。
『・・・この中には入れない。
普通の感覚ではそうだろうが、
この中に入るのは危険だ。
“彼女”の元へ辿り着く前に、
違う“彼ら”の世界に足を踏み入れてしまう。
・・・・・・この世界で
違う空間に移動するという事は、
現実に戻る事を難しくさせる。』
彼の言っている事は、今回何となく理解できた。
このケースの解放は、
今までよりも難しいということを。
「・・・じゃあ、どうしたらいいの?」
当然の疑問だった。
『風になる。』
彼は、当然のように答えた。
―風に・・・なる?
「あの・・・いつも以上に、さっぱりなんだけど。」
『だろうな。』
素っ気ない言い方だった。
それが、かちんときた。
「・・・何か、冷たくない?」
『・・・何が?』
「“風になる”って、急に言われて納得できる?
哲学的に言われても分からないでしょ?」
『俺は哲学なんて、1ミリも論じていない。』
―・・・・・・何なん?機嫌悪くない?
「・・・ねぇ、どうしたの?」
『喋っている暇はない。早く解放するぞ。』
朋也は右手を肩の所まで上げ、
掌を晴に向ける。
「・・・?何?」
『手を繋げ。』
―・・・は?
言い方も素っ気ないし、感情もない。
だが、その謎の所望に
晴の鼓動は急上昇する。
「な、何言ってるの?」
『早く。』
「い、いや、あのね。
全然意味分かんないけど。」
『・・・・・・』
答えない朋也に、
晴は我慢できなかった。
「ねぇ。何で機嫌悪いの?」
『機嫌悪いわけじゃない。
・・・君は、嫌だろう?
俺に付き合わされて。』
「・・・・・・」
『早く、終わらせたいだろう?』
自分が避けていることを、
彼は把握していたのだ。
だが、それは違う形として伝わっている。
晴は困った。
自分の考えている事が
100%彼に伝わらない事に安心はしたが、
どう理解してもらうか。
そこの悩みは、
生きている人間と変わりない事に。
―・・・心で会話できるのに。
でも、隠している気持ちは
伝わらなくて良かった。
・・・・・・それは、本当に良かったけど。
晴は大きくため息をついて、言葉を紡ぐ。
「・・・・・・朋也さん。違うの。
嫌々付き合っているわけじゃないから。
だから、機嫌直して。」
『・・・・・・』
「・・・朋也さん。」
『・・・・・・』
「・・・ねぇ。」
『手を繋げ。』
朋也は再度、晴に言葉を投げる。
問答無用。
彼女は押し黙った。
従う以外、なかった。
小刻みに震える手を、
彼女はそろそろと彼の掌に近づける。
焦れたように、その手を彼は掴んだ。
―・・・?!
繋がった瞬間、視界が青空を映す。
気づいたら、自分の身体は
高層ビルの屋上よりも
さらに上にあった。
―えっ?!飛んでる??!
かなり動揺したが、
不思議と浮遊感はない為
手足をばたつかせる事はなかった。
彼の姿は、どこにも見当たらない。
自分の身体だけが、空中を漂っていた。
見下ろすと、
捉えていた人影を発見する。
ジェットコースターに乗った時の
落ちる感覚もなく、その人影の近くに
晴の身体はゆっくりと降下した。
気づけば、
肩に掛けていたショルダーバッグは
どこかに消え失せている。
手ぶらの状態で
屋上の地面に足をつけると、
晴は安堵の息を漏らした。
『“彼女”と話すぞ。』
朋也が隣に姿を現す。
何事もなかったように告げる言葉は、
とても冷たく感じた。
その冷たさに、胸が苦しくなる。
もう、堪らなかった。
「・・・・・・ねぇ。」
『・・・・・・』
彼女は決意する。
「・・・・・・今夜、きちんと話すから。
だから、機嫌直してよ。」
お願いに近かった。
切なそうに訴える晴を一瞥し、
朋也は口調を和らげて言葉を紡ぐ。
『・・・再度言うが、
機嫌が悪いわけじゃない。
冷たくしている気もない。
そう感じたのなら、すまない。
・・・・・・君が、俺との干渉を避けるのは
当然だと思っている。
どんな理由があっても、だ。
俺も、手探りの状態だ。
生きている君と、どう接したらいいのか。
どこまで干渉していいのか。
・・・だから、距離を置いた。』
彼の言い分が自分の考えに近いものを感じて、
彼女は胸が苦しくなった。
「・・・・・・うん。
私の方こそごめんなさい。
私も同じこと考えて、
朋也さんを呼ばなかったの。
・・・でも・・・・・・」
―・・・つらい。
距離を置いたら、
こんなに切なくなるなんて。
朋也は、同意するように頷いた。
『話し合おう。今後の為に。
俺が原因で、君に悪影響を及ぼすのは
一番避けたい。
・・・・・・だが、正直俺にとって
君と一緒に過ごす時間は・・・
とても楽しい。
その時間を過ごせないのは、耐え難い。』
―・・・・・・えっ?
そ、それは・・・・・・
言われて困るやつやん。
高波のようにうねる鼓動を
必死で抑えながら、
晴は相槌を打つ。
「・・・・・・うん。」
『・・・今夜、話そう。』
そう一言漏らして
自分に向ける朋也の表情と雰囲気。
包み込む風は、深く温かい。
彼女の高鳴る鼓動は、さらに激しさを増す。
平静に保つのを、必死で頑張って頷いた。
「・・・・・・無事に帰ろうね。」
彼女の言葉に、彼は微笑む。
『・・・ああ。』
心が、温まる。
切ない気持ちが、一瞬でなくなった。
自然に、彼女も微笑む。
―・・・あはは。
ほんと困っちゃうね・・・・・・
・・・・・・
お店に行くのは、明日にしよう。
・・・・・・
大事に、したい。
晴は改めるように息を整え、
“彼女”の後ろ姿を見据えた。
真っ黒で真っ直ぐの髪は、
高層ビルに吹き荒れる強風で
舞い上がっている。
それは、青空へ這うように見えた。
細い身体は、今にも
空中に押し出されそうになっている。
金網のネットフェンスを背にして、
女性は下を見つめていた。
「・・・あの・・・・・・」
晴は女性に呼び掛けてみる。
しかしその声に、何も反応しない。
『そこから飛び降りるのか?』
朋也が、強く言葉を投げる。
今までの解放で
彼が話し掛ける事はなかった為、
晴は驚いた。
朋也の言葉に、女性は
ぴく、と反応する。
『飛び降りたら、楽になるのか?』
彼が発する言葉は、いずれも強い。
『・・・・・・なる。』
女性は、ぽつりと呟く。
『・・・・・・もういや・・・・・・
生きていても、意味ないし・・・・・・』
響いた声音は、とても弱々しい。
『それで楽になると思うなら、そうするといい。』
「・・・ちょ、ちょっと朋也さん!」
『命を投げ出すことで楽になるとは、
到底思えないが。』
女性は、朋也の方を振り返る。
その表情は、疲弊して
暗い影を落としていた。
『・・・あんたに何が分かるのよ・・・・・・』
『分からない。自分だけが
一番苦しいと思っているのか?』
彼が紡ぐ言葉は、煽りだった。
晴はなぜ彼がそう言葉を綴るのか、
理解できなかった。
『・・・・・・何よ・・・・・・
・・・ケンカ売ってるの?!』
朋也の煽りに、
女性は引き込まれていく。
『ああ。そうだな。
君が今からやろうとしている事は、
一番の親不孝だ。
それが分からないのか?』
『・・・・・・ほっといてよ・・・・・・!
もういいんだってば、そんなの・・・・・・』
『誰かに相談したのか?』
『・・・・・・出来るわけない・・・・・・
誰も私の事なんて、
知りたいと思わないってば・・・・・・』
『聞いてやる。話してみろ。』
どう捉えていいのか分からず、
晴は戸惑いながら
二人のやり取りを見守っている。
『・・・・・・私のこと、知らないのに?』
『知らないからだろう?
何の先入観もなく聞くことが出来る。
君も、知らない俺に吐き出せる。
話してから飛び降りても問題ない。』
『・・・・・・何なの、こいつ・・・・・・』
飛び降りようとしている自分を
止める気がない朋也に、
女性は眉をひそめる。
『・・・君はここの会社員だろう?
ここは昭和から続く大企業だ。
優秀なんだな。』
『・・・・・・』
『だが、俺は知っている。
ここの事を調べてくれと頼まれてな。
・・・平社員に過酷な労働をさせ、
過労死を引き起こしている事実があった。
それと同時に、君のように
自殺する者も。
その事実を、遺族に
多額な金を渡して口止めしている。
弱い立場の者を踏みにじる行為だ。
最近は、その行いも明るみに出始めているが。
時代が変わったんだな。
死ぬ程働くことを良きとしていた
時代だったが、
現代では狂気に思われる。』
『・・・・・・なに、言っているの・・・・・・?』
『まだ、繰り返すのか?飛び降りるのを。』
朋也の目が、射抜くように向けられる。
その真摯な眼差しに、女性は震えた。
『・・・話して、楽になれ。
君はもう、そこから飛び降りたんだ。』
『・・・!!』
女性の表情は、苦悶で歪む。
『・・・じゃあ、私は・・・・・・』
『君はずっと、それを繰り返している。』
女性は、その場にしゃがみ込む。
その拍子に黒髪がふわりと舞った。
『生きているからこそ、
苦しいと感じる。
逆も同じだ。
生きているからこそ、
楽しいと感じる。
・・・その時間を、君は手放した。
君を大切に思う者は、いたはずだ。
いないと思い込んだら、
ずっとその殻から抜け出せない。
相談したら、変わっていたはずだ。』
『・・・・・・・・・・・・』
女性は膝を抱え込み、項垂れた。
肩が震え、沈んだ目に涙が溢れ出す。
『・・・・・・晴。』
急に呼ばれて、はっとする。
彼女は朋也に目を向けた。
『ここから先は、君の出番だ。
・・・君の方が、彼女も落ち着くだろう。』
柔らかい口調。
本来の彼を感じ、
彼女は安堵の息を漏らした。
同時に先程の彼の煽りは、
彼女の関心を促す為のものだと理解する。
怒りの感情は、生の執着に繋がる。
死の無限ループを断ち切る
“きっかけ”を作ったのだ。
晴は、うずくまって泣き崩れる女性に
そっと話し掛ける。
「・・・あの。
私も最近悩んでいたのですが、
優しい同僚が自分の事を
とても気にしてくれていて。
その人に話すだけで、
とても気持ちが楽になりました。」
女性は項垂れていた頭を、少し上げる。
「私で良かったら・・・・・・
話してみませんか?」
『・・・・・・』
女性は、ぽつぽつと語り始める。
その語る内容は、
ほとんど上司に対する不満。
自分の頑張りが評価されず、
認められなかった事。
それどころか、罵られ、挙句には
セクハラを受けるようになる。
同僚たちも見て見ぬふりで、助けてくれなかった。
周りには同性がいなかった。
頼れる者がいなかった。
両親に相談しようと思ったが、
努力して、念願叶って入社できた大企業だ。
喜んでくれた事を、
裏切るわけにはいかなかった。
我慢して頑張ったら、きっと・・・・・・
そんな思いで、働き続けた。
だが、日々課せられる業務と
セクハラはエスカレートしていく。
自分は何の為に働いているのか?
次第に、自分はなぜ
ここにいるのかと考え始めた。
どうしたら、
自分の存在を認めてもらえるのか。
考えていく内に、
足がこの屋上に向いていたという。
『・・・・・・誰にも、言えなかった。』
ぽつりと、女性は呟く。
「・・・・・・つらかったですね。」
晴の頬には、涙が伝っている。
女性はそれに首を傾げた。
『・・・何で、知らない私の為に泣けるの?』
その疑問に、晴は答える。
「・・・私も以前、
死のうと考えた事があります。
それを思い出して・・・・・・
いろいろ考えて、
どうしようもなくて。
気づいたらお母さんに電話していました。
隠していた気持ちを全部話したら、
“話してくれてありがとう”って言ってくれて。
その時、大切な人を
傷つけずに済んだと思いました。
自分が思っている以上に、
私の事を認めてくれるお母さんがいる。
・・・お母さんには
迷惑を掛けてしまったけど・・・・・・
私を全力で護ってくれました。
・・・お母さんのお陰で、
私は今ここにいる。生きていける。
・・・・・・誰か一人、
自分を認めてくれる人がいたら・・・・・・
それだけで、生きていける。
それを知りました。」
同情ではなく、
実感した過去から溢れる涙。
それに、女性は気づいた。
「誰も信じられないと、
殻に閉じ籠って話さないのは、
大切な人を傷つけることに繋がります。
・・・私は、
それに気づけて良かった。
自分が思っている以上に、
かけがえのない人は、
自分のことを
大切に思ってくれているって。」
『・・・・・・』
「もう、遅いかもしれませんが・・・・・・
私はあなたの話が聞けて
良かったと思います。
その事を、思い出せたから。」
しばらく沈黙した後、
女性の口から言葉が漏れる。
止め処なく流れる涙とともに。
『・・・・・・あなたも、つらい思いをしたのね。』
呼応するように、晴は涙を流す。
「私は幸せ者です。
今、こうして・・・・・・
生きていられるから。」
『・・・・・・あなたと、話せて良かった。』
涙に埋もれた女性に浮かぶ、小さな笑み。
それは、大きな一歩だった。
『・・・・・・晴。』
目の前に差し出される、彼の拳銃。
今がその時だという、啓示である。
何も言わず、晴はその拳銃を手に取る。
―・・・・・・死に直面して、
生きることを渇望できた私は
幸せ者だ。
彼女のように
誰も信じることが出来ず、
何も頼れないまま
命を投げ出す人がいる。
「・・・私は、信じます。」
―自分を大切に想ってくれる、
かけがえのない人たちを。
「こうしてあなたと出逢えたのも、
縁だと思います。
だから・・・・・・
私はあなたの幸せを願います。
新しく生まれ変わって、
思うままに・・・生きていけるように。」
晴は拳銃を構える。
しっかりと、女性を見据えて。
女性の表情は穏やかだった。
向けられる意味を、理解するように。
『・・・“彼女”の髪を狙え。』
彼の大きな手が、自分の頭に触れる。
『“彼女”を縛り付けている連鎖の糸を、断ち切る。』
女性の長い黒髪。
風に吹かれて舞っているのではなく、
生き物ようにうごめいて見えた。
『・・・・・・ありがとう。』
ダンッ!!!!
大音響とともに、女性の身体はぐらりと揺れた。
その反動で、ビルから落ちる。
ともに、“彼女”が流した涙も宙を舞った。
“彼女”の身体を縛っていた連鎖の糸が切れ、
風に乗って消え去る。
澄んだ青空へ、溶け込むように。
発砲が原因で起こる激しい動悸を、
晴は受け入れるように深呼吸する。
痛みも、苦しさも、彼女は落ち着いて
対処できるようになっていた。
その彼女を労うように、傍に立つ朋也。
この光景は、解放した後に流れる時間。
その刹那が、とても深くて濃かった。
燦々と、太陽の光が二人に降り注いでいる。
温かく、和やかに。
晴の呼吸が整った後に、
すっ、と差しのべられる大きな手。
『・・・・・・街路に戻ろう。』
その彼の手に、躊躇いながらも
彼女は頷いて自分の手を重ねた。
先程繋がれた時は一瞬で、
感じなかった温もり。
その温かさが、鼓動を高める。
この温もりは、心に染みた。
“彼女”が抱えた痛みと苦しみ。
自分抱えた心の傷跡。
それを癒すように。
同情では、“彼女”を切り離せなかった。
自分の傷跡を抉り、
抱えた痛みと苦しみを共有したことで
“彼女”の心をこの場所から
解き放つことができたのだ。
街路に戻ると、女性の姿はなかった。
だが、“彼女”の世界は消えていない。
悠久の中で悶え苦しんでいた“彼女”が、
二人の為に残した刹那の時間だった。
晴は地面に落ちていたショルダーバッグを拾い、
握り締めていた拳銃をその中に直す。
『・・・・・・』
朋也は、じっと晴を見つめていた。
その事に、彼女は首を傾げる。
「・・・?」
『・・・まだ、止まらないみたいだな。』
―・・・??
「・・・何が?」
『・・・・・・気づかないくらい、深く抉ったのか。』
―・・・何の話?
朋也は晴に歩み寄る。
その近づく距離に、普段の彼女なら
激しく鳴る鼓動とともに
身構えただろう。
しかし、この時は自然と
それを受け入れることが出来た。
彼の手が、すっと彼女の頬に伸びる。
真摯な眼差しは、
晴の目を捉えて離さない。
彼女の目には、止まらない涙。
彼女自身が、
それに気づいていなかった。
傷痕から流れる血潮のように、
それは止まらない。
『・・・すまない。』
申し訳なさそうに、彼は言う。
「・・・何で、謝るの?」
彼女は、不思議そうに問う。
止まらない彼女の涙を、拭いきれない。
そう感じた彼は、ふわりと彼女に腕を回した。
彼女の傷口を、塞ぐように。
その温かさに、晴は小さく息をついた。
静かにまぶたを閉じ、彼の腕にそっと寄り添う。
胸の奥が、ズキズキしていた。
彼の温かさが、
それを癒してくれている。
そう感じたと同時に、
抱えていた不安や悩みが
綺麗に消え去っていた。
そして、晴の心に小さな火が灯る。
この日の夜。
その灯火は、
静かに迎えた夜空を照らしていく。
深く、濃い暗闇を。