*Notation 3* “Calando(和らいで)”
晴が東京に来てから、いつも助けてくれた同僚の莉香。
その彼女と自分の部屋で女子会をする。
不思議な出来事を伝える為に。
そして、晴の言葉に朋也は・・・・・・
3
「かんぱーい!!」
かちん、と、二人は楽しそうに
ビールを注いだグラスを軽く合わせる。
その後グラスに口をつけ、
勢いよく一気飲みした莉香は
至福の息をついた。
「ヤバい。ちょー美味しい。」
晴も一気飲みしようと頑張るが、
それに至らず
半分くらいまで飲み干した後に
ぷはぁ、と息を吐く。
「・・・うん!美味しいね!」
「おっ。頑張るね~。ふふっ。
私に合わせなくていいからね。」
莉香は笑いながら、既に用意していた
二缶目の缶ビールの蓋を開ける。
そして空のグラスに手酌でビールを注いだ後、
スーパーで購入した総菜パックの
胡瓜と蛸の酢の物に箸をつけていく。
「今度から家飲みもアリだね。
心ゆくまで飲めて、寝れるし。」
「うん。気を遣う事もないしね。」
晴が目を輝かせながら見つめる
その先には、
最近気になっていたスイーツがある。
コンビニの棚に並んだ新発売の時から、
想像の範囲内かそれ以上か葛藤して
なかなか手が出せなかったものだった。
“上質な卵をたっぷり使った
ふわもち生地で優しくサンドした
イチゴと生クリームの幸せ方程式!
麗しき極上のロンドをご堪能あれ・・・・・・♪
【癒しのふわもちロンド】 ”
“幸せ方程式”と断言した
この謳い文句が、
本当に合っているのか?
想像の範囲内だったら少し残念だし、
想像以上だったら
心からこの謳い文句を褒めたい。
晴はスイーツを購入する時、
目で楽しみ、どんな味か想像して
吟味するのが好きだった。
なので、いつの間にか期間が過ぎて
購入出来なかった事が多い。
自分の想像を超えるのか。
ついにその時が。
晴は麗しきスイーツが入った
カップの上蓋を開け、
デザートスプーンを手に取る。
羽毛のような
純白ホイップ生クリームと、
黄金比を秘めたスライス苺。
そして、それを受け止める
繊細な気泡が入ったスポンジ。
極上のロンド全てを、
スプーンですくって均等に乗せた。
それを慈しむように口に運んだ瞬間、
幸せ方程式が
晴の中で解明されていく。
「美味し~い・・・・・・」
美味しい物を食べると、
笑みがこぼれるのはなぜだろう。
晴は目を閉じて、至福の時を味わう。
幸せそうな彼女を眺めて、莉香は思わず微笑む。
「晴のスイーツ愛って、深いよね~。
すぐ買って食べずに、
想像して楽しむなんて・・・・・・普通出来ないよ。」
「莉香、買ってきてくれて本当にありがとう。」
―想像を、遥かに超えました・・・・・・
「ふふっ。良かった。」
莉香は、グラス三杯目のビールを注ぐ。
それを見て、晴は目を丸くした。
「ペース速くない?」
「そう?普通よ。」
「・・・私、まだ一杯目も飲んでないのに・・・・・・」
そう言っている間に、
グラス三杯目がすぐ空になった。
「確かに今日は速いかもね。楽しいからつい進んじゃう。」
「・・・私も楽しい!」
「ふふ!」
互いに笑い合う。
晴と莉香が楽しそうに話している傍ら、
朋也と女の子は相変わらず
ローベッドに腰掛けて、女子会の行方を見守っている。
その“彼ら”が気になる晴だったが、
話し出すタイミングを掴めずにいた。
「ビールはもういいかな~。
・・・そうだ、晴。
叔父さんが作った梅酒を持ってきてるから
飲んでみない?
ちょー美味しいよ。」
「え?すごい!飲んでみたい!」
「サワー作ってあげる。
炭酸水と氷持ってきてくれる?」
「はーい!」
麗しきスイーツを食べ終わって
ほっこりした晴は、
足取り軽やかに冷蔵庫に向かった。
扉を開けると、総菜にスイーツ、
そして多種多様な酒が
隙間なく埋め尽くされている。
こんな冷蔵庫の状態は、東京に来てから初めてだった。
開ける度に、嬉しくなる。
炭酸水のペットボトルと、
冷凍庫から氷の大袋を取り出す。
普段家で酒を嗜まない晴は、
アイスペールを持っていなかった。
「・・・氷はボウルに入れてもいい?」
「ステンレスの容器だったら、何でもいいよ。」
「グラスも、今使っている物くらいしかないけど・・・・・・」
「これで充分だよ。」
莉香は空のグラスを持ち上げて、軽く振る。
「え?まだ全部飲んでないよ~?」
「早く飲んじゃいなさい。」
「・・・・・・マイペースでいいって、
言ってたのに・・・・・・」
調理用のステンレスボウルに氷を入れた後、
晴はそれと一緒に
炭酸水とトングをテーブルへ持ち運ぶ。
テーブルには、既に30㎝くらいの
水筒のようなガラス瓶に入った梅酒が置かれていた。
綺麗な琥珀色をした梅酒の中には、
大きな梅の実が二つ入っている。
テーブルに戻った晴は、渋々
グラスに残っていたビールを飲み干す。
「・・・うう。酔いが早く回りそう。」
「いいの。それで。晴はセーブし過ぎなのよ。
少しは羽目外しちゃえ。」
「無理。すぐ寝ちゃうってば。」
―肝心な話を、しないといけない。
莉香は空になった晴のグラスを取り、
トングで氷を入れて
梅酒をグラスの三分の一入れる。
その後、炭酸水をグラスぎりぎりまで注いだ。
「少し薄めに作ったからね。それだと飲めるでしょ?」
「・・・うん・・・・・・」
未使用の割り箸を袋から取り出し、
それで軽くかき混ぜて
グラスを晴の前に置いた。
「はい。どーぞ。」
「・・・ありがとう。」
作られた梅酒サワーのグラスを、晴は見つめた。
しゅわしゅわという音とともに、
炭酸の気泡の粒が上っていく。
「私はロックで飲みたい気分。」
莉香は自分のグラスに沢山氷を入れ、
梅酒を半分注ぐ。
晴は見つめていた梅酒サワーを手に取り、
少し口に含んだ。
すると、目を見開く。
「・・・すっごく美味しい!」
「でしょー!」
「これなら、飲めるかも。」
「よし!持ってきてよかった!」
晴の反応に、莉香は満足げだ。
「・・・いろいろありがとう、莉香。」
「ふふっ。どういたしまして。
・・・で、込み入った話って何?」
梅酒ロックを口に含み、彼女は尋ねる。
晴はグラスをテーブルに置き、深呼吸をした。
―・・・・・・何て言えばいいの?
難しいなぁ・・・・・・
「・・・・・・あのね。」
「・・・・・・うん。」
何て話そうか、考え込む。
そんな晴の様子を、莉香は急かさずに待っていた。
彼女が梅酒ロックを、
あと一口飲み干すところで言葉を紡ぐ。
「・・・・・・莉香は、幽霊って信じる?」
ようやく切り出した言葉。
もうこれしか、浮かばなかった。
考え抜いてようやく出した晴の質問に、
莉香はさらりと答えを返す。
「信じないかも。」
「・・・・・・」
莉香らしい。
その答えに、晴は納得する。
「でも・・・・・・
“莉穂”は、私の傍にいると思う。」
“莉穂”。
莉香が紡いだその名前に、女の子は反応する。
「“莉穂”って・・・・・・?」
女の子の反応に気づき、
その様子を窺いながら晴は尋ねる。
「双子のお姉ちゃん。
5歳の頃、原因不明の高熱を出して死んじゃったの。」
莉香はグラスを空け、二杯目の梅酒を注ぐ。
「その時はびっくりしたなぁ。
いつも一緒だと思っていたのにね。
いなくなったんだって、
今でも全然実感がなくて。
・・・実は、この“想ちゃん”はね・・・・・・
莉穂のぬいぐるみなの。
この子と一緒にいると、莉穂といるみたいでさ。
不思議と寂しくないんだよね。」
莉香は、向日葵の座布団にお座りする
“想ちゃん”の頭を優しく撫でる。
「・・・・・・信じたくないのよね、きっと。
莉穂がいないなんて。
でも、傍にいるのよ。莉穂は。
私には分かるの。」
朋也は、女の子に目を向けた。
語る莉香を、女の子―莉穂は見つめている。
その眼差しは、慈愛に近い。
晴は、莉香と莉穂の様子を見て理解した。
―・・・・・・そっか。
二人は、一緒に生きている。
強く、繋がっている。
互いに、存在を認めているんだ。
『そう。』
応えるように、朋也は告げる。
『“曽根木 莉穂”は、
“曽根木 莉香”とともに
生きる意念を持っている。
彼女を護ることも兼ねて。』
告げられた言葉に、莉穂は微笑んで頷いた。
「・・・・・・」
「・・・・・・ちょっと、晴。
私の話じゃなくて、晴の話を聞きに来たのよ。
いきなり幽霊を信じるとか
何とかって、どうしたの?
・・・え?まさか、とり憑かれたとか言わないでよ?」
ほぼ、当たっている。
莉香の勘が鋭いことに、晴は感心する。
「・・・うん。そのまさか。」
「えーっ?!!」
莉香は若干、晴から身を引く素振りを見せる。
「・・・・・・まさか、イケメンの幽霊?」
“イケメン”の単語が出てくるとは思わなかった為、噴き出す。
「・・・何でイケメンなのよ?」
「そんな気がする!
晴に憑いてる男、カッコいいでしょ?
そんな気がしたのよね~。
おめでと~!」
晴は気が抜けた。
どうやら莉香は、自分に彼氏が出来たと
勘違いしているようだった。
朋也は二人のやり取りを、可笑しそうに眺めている。
晴はなぜか鼓動が騒がしくなり、
顏を真っ赤にして否定する。
「・・・違う!!そうじゃないの!!
もしそうなら、
こんなに改まって話さないってば!」
「えー?なんか怪しいんですけど~。その反応~。」
「もう!・・・本当なの!」
「・・・え?・・・・・・まさか、本当に?」
「・・・・・・」
「・・・・・・ちょっと。」
「・・・・・・うん。」
莉香は、梅酒ロックを一気に飲み干す。
落ち着かせるように。
「・・・・・・マジで?」
「マジで。」
「・・・・・・真面目に、ヤバくない?」
「・・・・・・でもね、違うの。」
「どっち?!」
「うーっ・・・難しい~!何て言ったらいいの~??」
頭を抱え込む晴を、
莉香は冗談抜きで、真剣に見守る。
「・・・悩み過ぎて、ちょっとおかしくなったんじゃない?」
「・・・・・・」
晴は堪らず、朋也に視線を送る。
それに対し、
彼は微笑を浮かべて視線を返した。
“君の言葉でいい。”
眼差しが、そう言っているように思えた。
―・・・・・・うう。
しっかりしなきゃ。
私の言葉で、伝えないと。
素直に、全部、一から話そう。
「・・・莉香。何も口を挟まずに聞いてくれる?
昨日から起こった出来事を、話していくから。」
―・・・それしかない。
真剣に訴える晴を、莉香は受け入れるように頷いた。
交差点で拳銃を拾った事。
そしてそれは、
誰にも気づかれなかった事。
・・・“片桐 朋也”という、
“幽霊”の持ち物だった事。
それを聞いた時点で、
莉香はかなり驚いた様子だった。
“片桐 朋也”はその拳銃で、
この世界に縛られている
“幽霊”の未練を解放する使命を持っている事。
そして、それを実現するには
“共鳴”する生きた人間の生命力が必要だという事。
拳銃を拾った人間と“共鳴”する事で、
その生命力を借りて拳銃の弾として籠める事。
実際それを実行し、今朝
女子学生の“幽霊”を解放した事。
晴は、そこで話を止めた。
「・・・私の話、理解できた?」
黙って話を聞いていた莉香は、そう訊かれて口を開く。
「・・・・・・イマイチ。」
「・・・・・・だよね・・・・・・」
「まるで、ゲームの話みたい。」
「・・・信じられないよね。」
「・・・正直、そうね。あり得ないかも。
でも、晴が作り話をしているとも思えないんだよね。」
「・・・・・・」
莉香はしばらく考え込んだ後、真面目に言葉を返す。
「だから、百歩譲って話を信じるとして・・・・・・
要するに晴は、その彼に協力するって事?」
「・・・そうなるかな。」
「それって、いつまで?」
「え?」
「まさか、ずっと・・・って、わけじゃないよね?」
莉香にそう訊かれて、
晴は黙り込む。
その質問の答えが、見つからなかった。
―・・・・・・それは、考えなかった。
晴は再び、朋也に目を向ける。
彼の表情は、何も変わらなかった。
ただ、彼女に向ける瞳の中には
複雑な光が浮かんでいる。
その光に、晴は戸惑う。
―・・・・・・いつまで?
自分が・・・・・・死ぬまで?
答えない晴に、
莉香は容赦なく意見を突きつける。
「・・・晴。どこまでお人好しなの?
その“幽霊”に騙されてない?
それで手助けして、
身体を悪くしないの?
とり憑かれるって、そういう事じゃないの?
晴の生活はどうなるの?
・・・それで、普通に日常を送れるの?
都合が良い事だけ言われて、
利用されているだけじゃないの?」
莉香の意見は、正論だった。
―正しい。
それは分かっている。
私も同じ事を考えた。
・・・でも・・・・・・
・・・・・・いつまでとか、そんな次元じゃない。
「・・・・・・違うの。」
「何が?」
―彼に出逢った直後の自分は、
莉香と同じだったかもしれない。
「・・・彼はね、本当に
助けが必要だっただけなの。」
―“彼ら”の世界に触れて、
自分は何かが変わった気がする。
「彼はただ・・・・・・助けたいだけなの。
この世界に縛られている悲しい人たちを。」
その彼女の言葉に、彼は目を見開いた。
「はぁ?」
莉香は、晴の言葉に首を傾げる。
「だからそれが、騙されているって事じゃない?」
「本当なの。」
晴は、莉香が突きつける常識に
怯むことなく言い返す。
「私には分かるの。
彼は騙していない。
“彼ら”の世界は、言葉で説明するのが難しいの。
・・・触れるまで分からなかった。
彼が言っていた事が、
ほんの少しだけ分かってきたの。
だから・・・私は出来る限りの事をしたい。
今はまだ、慣れなくて
疲れちゃうけど・・・・・・大丈夫。
美味しい物食べたら元気出たもん。」
「・・・晴・・・・・・」
「莉香。双子のお姉さんの莉穂。
今、その彼とここにいるのよ。」
「・・・・・・え?」
「そのベッドに並んで座っているよ。
ツインテールの女の子。」
「・・・!」
「莉穂は、あなたと一緒に生きている。
そして、あなたを護るために。」
「・・・・・・」
「私もね、最初莉香と同じだった。
えっ、うそ、幽霊?!怖い!
・・・みたいな。
でも、世間で言われている幽霊の姿って、本当なの?
ほとんどが興味本位と妄想でしょ?
“彼ら”の事を理解もせず、
先入観だけで判断するとか・・・・・・
私にはもうできない。」
「・・・・・・」
しばらく、部屋内は沈黙する。
晴は本心を、包み隠さず言った。
―私は生きている。
生きている限り、何でも出来る。
でも、“彼ら”はもう・・・・・・
この世界で出来る事は限られている。
だから、助けたい。
そう思った。
ただ、それだけ。
莉香は俯く。
その視線の先には、“想ちゃん”がいた。
オレンジ色をした
うさぎのぬいぐるみは、
頭を垂れ、静かに座っている。
「・・・・・・ねぇ、晴・・・・・・」
「・・・ん?」
「・・・・・・本当に・・・・・・
そこに、莉穂がいるの?」
「・・・うん。」
「・・・本当に・・・・・・見えるんだ。」
「うん。」
莉香はローベッドの方に目を向ける。
「・・・・・・私にも、見えるかな?」
彼女の視界には、“彼ら”の姿は映らない。
晴は“彼ら”の姿を捉える。
莉穂は、目線の合わない莉香を、
今にも泣きそうな表情で見つめていた。
妹は、自分の姿を捉えていない。
それは、自分が願った事。
大事な、大事な妹を護る為に。
自分が、障害にならないように。
妹と、一緒に生きる為に。
晴は、朋也に目を向ける。
初めて見る彼の表情に、胸が騒いだ。
彼の目は一点を見つめている。
それは自分に向けられていない。
何かに、囚われているかのようだった。
―・・・・・・朋也さん?
「・・・・・・朋也さん。」
彼女はその彼を、
呼び戻すように声を掛けた。
「莉香に、莉穂を見せる事は出来ないの?」
その呼び掛けに、彼はようやく我に返る。
「もし、出来るなら・・・・・・会わせてあげて。」
ベッドに向かって言葉を掛ける晴は、
莉香にとって
独り言を喋っているようにしか見えなかった。
しかし、それを変に思わなかった。
その行方を、莉香は静かに見守る。
『・・・・・・申し訳ないが、出来ない。』
絞り出すような、彼の低い声。
彼女はその答えに、肩を落とす。
「・・・・・・ごめん、出来ないみたい。」
「・・・・・・そっか。」
残念そうに息をついた後、莉香は微笑んだ。
「でも、莉穂は本当にいるんだね。私の傍に。
それが分かっただけで充分よ。
・・・あはは。そっか。
ずっと一緒にいてくれたんだ・・・・・・」
語尾が震える。
莉香の頬に、伝う涙。
溢れ出したら、もう止まらない。
「・・・ありがとぉ・・・晴・・・・・・
それが分かっただけで、嬉しい・・・・・・」
「・・・莉香・・・・・・」
「えへへ、ごめん・・・・・・
泣き上戸、入ったかな・・・・・・?」
ぐすっ、と鼻をすすり、指で涙を拭う莉香。
止め処なく涙を流す莉香と同じように、
莉穂も顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
二人は、繋がっている。
見えなくても、話さなくても・・・・・・
互いの存在を感じている。
晴が訴えた言葉。
それは結果として、
長年固められていた莉香の心を
溶かしたのだ。
「・・・莉香、これ使って。」
「ありがとぉ・・・・・・」
晴は棚の上のティッシュ箱を莉香の傍に置いた。
促されるまま、莉香はそのティッシュを二、三枚取って
溢れる涙を拭き取る。
莉香と莉穂を見守り、晴も涙を頬に伝わせる。
その彼女の横顔を、
朋也は真っ直ぐに見つめていた。
彼の瞳に揺れる、闇の波。
その波間に浮かぶものを、蘇らせながら。
莉香は、ぐすっ、と鼻をすすった後
泣いている晴を見て、くしゃっと笑う。
「晴は優しいね!
もらい泣きしてくれるの?
・・・・・・いいよ、分かった!
晴がその彼を助けるって決めたのなら、
否定する事はもう言わない。
・・・けど!無理しないでよ?」
「・・・うん。ありがとう。」
パーカーの袖で涙を拭い、晴も笑みを浮かべる。
「話して良かった・・・・・・
莉香がいてくれて、本当に良かった。
これからも相談していい?」
「勿論!・・・っていうか、話してよね。
私も何かあれば協力するから。」
晴と莉香は、互いに笑い合った。
「ねぇ、晴。
さっき言った叔父さんのお店、明日行こうよ。
晴の話を聞いて、行きたくなった。」
「え?明日?」
「うん。日曜日はお昼までで、
夜はお店閉めているの。
叔父さんに連絡しとくからさ。」
―・・・心の準備がなかったけど・・・・・・
断る理由もない。
「・・・うん。いいよ。」
「良かった!・・・あのね。
事情があって、奏者を雇っていないって言ったでしょ?
その事情を、叔父さんから聞いてもらいたいの。」
「うん・・・でも、どうして?」
「晴なら・・・もしかして、見えるかもって。」
「え?」
「とにかく、行こう。
何だか、晴がピアノを弾けるって
偶然じゃない気がしてさ。
何よりも、晴のピアノを聴きたい!
えへへ。そっちが本命ね。
・・・さぁ!飲もう!
晴!そのサワー早く飲んで!」
「えぇ?また急かす~。」
「気が変わった。晴を酔わすって決めた。」
「えーっ?!」
「晴の無謀なお人好し作戦に・・・・・・
私も助けになれるといいな。」
「・・・無謀、だよね。やっぱり。」
「一人で悩んでいたら、もたないよ。
何でも相談して。
私も幽霊の彼と話せたらいいけど・・・・・・
・・・おーい!片桐 朋也~!
聞いてる~?!
晴に無茶させたら、私と莉穂が許さないからね~!!
困らせるようなことしたら、
お祓いに行かせるから覚悟してよ~!!」
莉香の主張に、晴は目を丸くした。
朋也は苦笑しながら呟く。
『・・・祓えないと思うが・・・・・・心得ました。』
彼の言葉に、晴は小さく笑った。
彼の傍らで、莉穂も微笑む。
酒宴は、これから始まる。
深夜。
晴の部屋には、空けた酒の残骸が大量に置かれていた。
莉香の為せる技である。
テーブルには、少しずつ残った
おつまみと総菜、お菓子が散乱している。
そのテーブルの近くで、仰向けになって
幸せそうに寝息を立てる莉香。
それを、傍で寝転がって
温かい眼差しで見守る莉穂。
散らかったテーブルの空いている場所に、
両腕を乗せて顔を伏せている晴。
彼女も、酒の力で眠りに落ちていた。
その中、朋也は相変わらず
ローベッドに腰を下ろしている。
その視線の先には、何も映らない。
ただ浮かぶのは、
光が差し込まない
深い海底のような闇。
彼は、その海に漂っていた。
【悪いな。今から仕事に行く。】
【・・・また?今来たばかりじゃない。】
【大事なクライアントと
急遽会う事になったんだ。
すまない。また今度来るから・・・・・・】
【・・・・・・いつもそう。】
―・・・・・・?
・・・・・・あれ?
【仕事の方が、大事なのよね。】
【・・・・・・それを言われると、きついが。】
―・・・・・・朋也さん?
・・・・・・と、誰?
【だってそうでしょ?
私との時間はいつも後回し。】
【・・・そうじゃない。
何度言ったら分かる?
こうして、顔を見せに来ているじゃないか。
これからずっと、
俺たちは一緒にいられるんだ。我慢してくれ。】
【・・・・・・】
―・・・・・・なに、この状況。
・・・夢?
・・・私の部屋じゃないみたいだし・・・・・・
一緒にいられるって・・・・・・
話している女の人って・・・・・・
もしかして、朋也さんの彼女さん?
【また連絡する。】
【・・・・・・もう、来ないで。】
―女の人の言葉で、
行こうとしていた朋也さんは振り返る。
【・・・・・・真弓。】
【別れる。】
―・・・えっ。
【二度と、ここに来ないで。】
【・・・・・・】
【・・・・・・ねぇ、朋也。
これからずっと一緒にいられるって
・・・・・・契約みたいに言わないでよ。】
―・・・・・・
【真弓。】
【ずっと考えていたけど・・・
もう駄目。
あなたは私がいなくても、大丈夫なのよ。】
【・・・どうした?
そんな冗談言うなんて・・・・・・
いつもの君じゃない。】
【いつもの私?何それ。
私の一部しか知らないくせに。】
【・・・・・・】
【同じ時が、
同じように来ると思わないで。
今、一緒にいたいって思う時間が違うなら・・・・・・
これから先、不安しかないわ。
最近のあなたは、何か隠しているし・・・・・・
私が尋ねても答えてくれない。
何かと仕事だって言うし・・・・・・
一緒にいても、遠く感じるの。
私はね、大事に想う人と・・・
一緒に居られる空間が欲しい。
あなたはそんな考え、持ってないでしょ?】
【・・・誤解だ。俺だって君と同じだ。】
【嘘よ。そんなの。
・・・私は、
あなたの足枷になるだけだわ。】
―朋也さんは、ため息をつく。
【どうしてそうなる?意味が分からない。】
【朋也は、本当に私の事想ってる?
・・・・・・最近、そればかり考える。】
―・・・・・・
これって・・・・・・朋也さんの記憶?
【・・・・・・何よ。】
―・・・!!!
【放して。】
【愛している、真弓。】
―ちょ・・・
えっ・・・・・・
ちょーっと待って!!!
ひゃあぁぁっ!!!
ちゅんちゅん。
雀の声が耳に届く。
伏せていた顔を勢い良く上げた晴は、
太鼓のように鳴り響く
鼓動とともに目を覚ます。
部屋をきょろきょろ見渡して
状況を把握すると、落ち着かせるように
はーっと大きく息を吐いた。
―・・・・・・ふわぁ~・・・・・・
びっくりしたぁ~・・・・・・
火照る両頬に、両手を置いて
一生懸命熱を冷まそうとする。
―・・・・・・・・・・・・
うわーっ・・・・・・
見てはいけないものを、
見てしまったような・・・・・・
部屋に、朋也の姿はない。
今彼がいなくて、晴は心底からほっとした。
―・・・今、合わせる顔がないよぉ・・・・・・
「むにゃむにゃ・・・・・・」
テーブルの傍には、
平和な顔して眠る莉香がいる。
その姿を見て、晴は救われた気持ちになった。
眠っている莉香の隣で、
足をぷらぷらさせて寝転がる莉穂。
彼女と目が合い、晴は微笑んで優しく声を掛ける。
「・・・おはよう。莉穂。」
莉穂は、目が覚めるような
明るい笑顔を返した。
そのお陰で、激しく打っていた鼓動が鎮まっていく。
頭が重い。
まだ、酒が抜けていない。
うつ伏せて寝ていたせいか、まだ両腕が痺れている。
背筋を伸ばすように両腕を広げた後、
ゆっくり立ち上がった。
ベッドの上にあった毛布を手に取り、莉香に掛けた。
本当はベッドに運んであげたかったが、
気持ち良さそうに寝ているところを起こすのは
申し訳ないと思い、やめた。
毛布は一つしかないので、
タオルケットをクローゼットから持ち出す。
部屋のシーリングライトが点いていたので、
壁にあるスイッチをオフにした。
晴も二人と同じように床に転がり、
タオルケットに包まる。
―・・・まだ朝早いし・・・・・・
このまま寝直そう。
・・・・・・
ふふ。
何か変なの。
自分の部屋に、莉香が寝ているなんて。
・・・・・・
朋也さんと出逢ってから、
いろんな事があるなぁ・・・・・・
晴はまぶたを閉じ、先程の夢を思い浮かべる。
少し、鼓動を高めながら。
―・・・不思議な感じ。
夢っていうより、朋也さんの記憶だよね?
かなり、リアルだったし・・・・・・
・・・・・・彼女さん、
真弓さんって名前なのかぁ。
とっても綺麗な人だったなぁ・・・・・・
・・・でも何で、夢で見ちゃったんだろう?
・・・詳しく聞いてみようかな・・・・・・
・・・うーん、
でも、何か聞きづらい・・・・・・
びっくりして、飛び起きちゃったから
見られなかったけど・・・・・・
あの後、どうなったんだろう?
・・・いや、ううん。
見なくて良かった。
きっと、仲直りしたのよね。
・・・よね・・・・・・?
・・・・・・
・・・・・・
これからも、朋也さんの記憶を・・・・・・
夢という形で見ちゃうのかな・・・・・・?
・・・・・・
・・・・・・
・・・それ、ばり困るっちゃけど・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・
次第に鼓動も落ち着き、
眠気で、自然にまぶたが閉じていく。
そのまま、誘われるように
晴は眠りに落ちた。
晴と莉香が完全に目を覚ましたのは、
太陽が空の真上に昇った頃である。
黒々しい雨雲は去り、
今朝方から綺麗な青空が広がっていた。
ビールに梅酒にワインに・・・・・・
あれだけ沢山飲んだにも拘わらず、
莉香は二日酔いをしていない。
それに晴は驚いた。
自分はというと、
まだ少し頭痛がするというのに。
普段、嗜んでいる差なのか。
各々シャワーを浴び、歯磨きをすると
気を遣うことなくスマホを扱う。
気ままにテレビを観ながら寛ぎ、
互いに自然体で時間を過ごした。
昨日いろいろ飲み食いしたせいか、
腹は空いていなかった。
冷蔵庫にある物も、あまり減っていない。
二人は、思いつくまま
互いの事を心行くまで話した。
昨晩からずっと話しているが、
不思議と話は尽きない。
その空間が、晴はとても懐かしいと思った。
地元にいる、かけがえのない友人たち。
気兼ねなく、
自分が存在できる時間。
社会人になった今、それがとても
貴重な時間だったのだと実感する。
そう思える事は、とても幸せなのだと。
目を覚ましてから、
朋也と莉穂の姿を見ていない。
“席を外して”いるのだろうか。
そのせいか、“彼ら”の存在を忘れて時間が過ぎた。
あっという間に夕方になる。
カーテン越しから、赤く焼けた夕陽が差し込む。
こんなに和やかで、充実した休日は
東京に来てから初めてだった。
昨日沈んでいた気持ちも、今は
嘘のように晴れやかになっていた。
「もうこんな時間?・・・そろそろ出掛けよっか。」
「うん。」
「実はお店がある場所って、会社から近いのよ。
新橋駅の近く。」
「えっ。そうなの?」
「・・・ごめんね。隠してたの。
身内がやっているって事もあったし、
隠れ家みたいなものがあったから・・・・・・
でも、これでようやく晴に紹介できるかな。」
「楽しみだなぁ~。」
「ちょーレトロだから、
お洒落なやつ期待しないでね。
でも、叔父さんの作る料理は本当に美味しい。
だからほぼ毎日、
ご飯食べに行っている感じかな。」
“お酒と一緒にね”。
そう付け加えて、笑う莉香。
晴もつられるように微笑んだ後、
ふと昨日莉香が
意味深に話していた事を思い出す。
「・・・・・・そういえば、
“見えるかも”って言ったのはどうして?」
尋ねられた莉香は、神妙な面持ちになる。
躊躇いながらも、小さく息をついて語り出した。
「・・・少しだけならいいかな。
開店したばかりの頃、
まだピアノは置いていなかったんだけどね。
音が溢れる空間を演出したいっていう、
叔父さんの念願が叶って
ようやく一年前に置いたのよ。
その時奏者として雇ったのが、
“ニーナ”っていうイタリア人の女性でね。
お客さまとして来たのが最初の出会い。
その人柄と優しいピアノに
叔父さんは惹かれて・・・・・・
出会って僅か二ヶ月で電撃結婚。
流石に驚いた~。
恋愛に目もくれずお店一筋だった叔父さんが。
まぁ身内は、ようやく落ち着くかなぁと
安心していたんだけど・・・・・・
結婚して一ヶ月後に、
ニーナさんが持病の発作で倒れて・・・・・・
そのまま亡くなったの。」
「・・・えっ・・・・・・」
―・・・そんな・・・・・・
「まだそのショックで、
叔父さんは奏者を雇えないみたい。
・・・でも、
理由はそれ以外にもあるみたいでさ。
私にもそれは教えてくれないのよ。
・・・・・・ニーナさんのピアノの音色、
とっても優しくて癒されたな~。
それを聴きに来るのが目的の
お客さまもいたくらい。」
俯く晴に、莉香は真っ直ぐ目を向けて言う。
「・・・・・・もしかしたら、
ニーナさんがお店にいるかもって
思っちゃっただけ。
それだけ、叔父さんのお店を
大好きでいてくれたの。
ねぇ、晴。
もしも、ニーナさんがいたら・・・・・・
教えてほしいの。
私に莉穂の事話してくれたように・・・
叔父さんにも。
・・・・・・心配なんだ。
叔父さん、かなり落ち込んでいたから。
今は持ち直しているように見えるけど・・・・・・
きっと、ずっとつらいと思う。
前よりさらに、お店に
打ち込むようになっちゃったし・・・・・・」
表情に陰を落とす莉香を、
晴は顔を上げて見つめる。
「・・・・・・うん。勿論。」
―力になりたい。
朋也さんも・・・きっと、いいと言ってくれる。
その思いが伝わったのか、
気を取り直すように、莉香は笑う。
「・・・ありがとう、晴。
お店には、電車で行く方がいいと思う。
車はここに置いていってもいい?
普段お店に行く時は、いつも
会社の駐車場に置いているの。
・・・勿論、帰りは
代行してもらっているんだけどね。
あっ。今日はお酒なしだから安心して。
自分で乗って帰るから。」
「うん。勿論いいよ。」
「うふふ。嬉しい。晴と、
叔父さんのお店に行けるとか。」
嬉しそうに笑みを浮かべる莉香を見て、晴も微笑む。
その反面、懸念する事があった。
―・・・・・・もし、
お店にニーナさんがいたら・・・・・・
“どっち”だろう?
・・・銃を向けないといけなかったら・・・・・・
莉香の叔父さんには、何て話そう。
そして、晴はようやく朋也の存在を気にした。
―・・・今日は、一回も見ていない。
・・・・・・気配も感じない。
どうしたんだろう?
新橋駅に着いた頃には、
街灯と飲食店の灯りが夜を照らしていた。
晴と莉香は人が行き交う広場を抜け、
街路地を歩いていく。
「“想ちゃん”と離れる時はね、
いつもブレスレットを持ち歩いているの。
ほら、耳に付けていたやつ。」
亜麻色のデザインチュニックと
デニムパンツコーデの莉香は、
柘榴石のブレスレットを掌に乗せて
晴に見せる。
「御守りみたいなものでさ。誕生石。
親がくれたやつなんだけど・・・・・・
これは莉穂の分。
自分の分はバッグに入ってる。」
晴のコーデは、
白いラウンドネックのカットソーに
藤色のプリーツスカート。
莉香の掌に乗せられたそれを見て、
柔らかく微笑む。
「・・・莉穂も寂しくないね。」
「うん。いつも一緒にいるよ。」
その言葉の後、
莉香の足元に気配を感じた。
晴は、莉穂のツインテールの渦巻きを見て
ほっと息をつく。
―・・・不思議。
幽霊の姿を見て、安心するなんて。
お出掛け用のハンドバッグには
例の拳銃が入っている為、
とても重たく感じた。
―・・・朋也さん、どうしちゃったんだろう。
「・・・晴。」
「・・・ん?」
「・・・ウワサの彼、傍にいるの?」
不意に尋ねる莉香の言葉に、
晴はなぜか胸が苦しくなった。
「・・・・・・いない。」
「やっぱり。」
「え?」
「急に元気なくなったから。」
「・・・・・・そ、そうかなぁ?」
「晴、その彼の事好きになってない?」
思わぬ質問が来た。
晴は大きく慌てて否定する。
「そ、そんなわけないでしょ?
相手は幽霊だよ?あり得ないって。」
「あり得ないって、
幽霊の手助けする晴が言うのはおかしくない?」
にやにやする莉香。
晴は、首を力強く横に振る。
「・・・恋愛なんて、出来ないってば。」
「そうかな~。」
「そうですっ。」
「恋愛は自由だと思うよ~。
次元を超えた恋愛って、素敵じゃない?
誰にも真似出来ない事を、
晴は出来るかもしれないよ~。」
「・・・・・・」
晴は大きく、ため息をつく。
冷静でいようと思うのに、
騒がしい鼓動は治まらない。
「ねっ。晴ちゃん。」
「・・・・・・」
大きく息を吸って、吐き出すように言葉を紡ぐ。
「彼には彼女さんがいたの。
その人の事、彼はまだ好きなの。
ずっと想っているの。
私の夢に出てくるくらい。
入る余地なんてないの・・・
・・・って!入ろうとも思わないし!」
晴の過敏な反応に、莉香は寛大である。
「・・・いいよ、晴。実にいい。
そうやって恋は始まるのよ・・・・・
いや、もう始まっている!」
―・・・事態はそんなに、ロマンティックじゃない。
「いつでも話してくれていいから。
進展したら教えてね~!」
「莉香・・・・・・」
「あ、ほら!着いたよ!」
莉香が指を向ける方向に、目を向けようとした時。
とある街路樹に寄りかかる
人影が気になった。
フルフェイスのヘルメットを被る男。
シールドが加工されていて、表情は窺えなかった。
見るからにバイクに乗る風貌だが、
肝心のバイクがどこにも見当たらない。
『・・・おはよう。』
横から低い声が、晴の耳に届く。
その声が聞きたいと思っていた反面、
今朝の夢の事もあって
彼女は彼から少し離れた。
今朝から姿を見せていなかった朋也が、
晴の横に並んで立っている。
莉香の妙な鼓舞が、鼓動と連動して騒がしい。
「・・・・・・調子悪いの?」
ちらっと彼の様子を窺い、晴は尋ねる。
朋也の表情が優れないように見えた。
元々彼の表情は無に近いが、陰を落としている。
小さく息をつき、朋也は相槌を打った。
『・・・ああ。ちょっとな。
・・・・・・晴。出掛け中だとは思うが、
“彼”の世界に踏み入れてしまったようだな。』
「・・・え?」
そういえば、莉香の姿がない。
莉穂も同じくだった。
通行人も、いない。
恐る恐る、晴は改めて
ヘルメットの男に目を向ける。
街路樹に背を預け、腕を組んでいる。
加工されたシールドのせいで
顔を見ることは出来ないが、
遠くを見つめている様子だった。
“途方に暮れている”。
この言葉が合うかもしれない。
『・・・・・・』
朋也は、その彼を
表情変えずに見据えている。
しかし、晴は異変に気付いていた。
明らかに、おかしい。
「・・・・・・ねぇ、大丈夫?」
『・・・・・・ああ。』
「・・・今回も、私が話し掛ける方がいい?」
『・・・・・・そうだな。お願いしようか。』
圧を感じさせる、あの独特な覇気がない。
「・・・・・・朋也さん。」
『・・・・・・』
「聞いてもいい?」
『・・・・・・何だ?』
「・・・・・・
朋也さんの彼女さんの名前って、
“真弓”さん?」
紡がれた名前を聞き、
朋也は目を見開く。
その表情に、動揺が窺えた。
核心に突いた事を把握して、晴はさらに追求する。
「私ね・・・・・・夢で見ちゃったの。
あれって、夢っていうか・・・・・・
朋也さんの記憶じゃないかって
思ったんだけど・・・・・・」
『・・・・・・やっぱり。』
朋也は頭を抱えるように左手を置き、
大きくため息をつく。
『・・・・・・見たんだな。』
「・・・・・・見ました。」
彼はさらに、もう一回息をつく。
『・・・・・・どこまで?』
「ど、どこまで?」
そう訊かれると思わなかった晴は、
頬を赤く染めながら口籠る。
「ど・・・・・・どこまでって・・・・・・
・・・朋也さんが彼女さんに・・・・・・
愛しているって言って・・・・・・き、
す・・・しようとしたところまで、です。
びっくりしたので・・・・・・
飛び起きました。」
『・・・・・・』
「あ、あの。大丈夫です。
寸前で飛び起きたし。
その先は見てないです。
っていうか、見られなかったです。」
『・・・・・・』
朋也は目を閉じて、晴の言葉を聞き入れた。
重いため息を漏らし、呟く。
『・・・・・・見られて、平気な奴はいない。』
「・・・まぁ、そうですよね・・・・・・」
二人がしどろもどろ話しているのを、
ヘルメットの男は苛々しながら目を向けている。
『・・・・・・思い出したんだ。
忘れていたんだ、その事を。
死んでから今まで、
何で気づかなかったのか・・・・・・
君が、彼女と同じ言葉を言った事で思い出した。』
「・・・?」
『俺はあの後、彼女にひっぱたかれた。』
「・・・・・・えっ?!」
『ちょーっとそこのお二人さんっ!!』
二人の様子に、堪らずヘルメットの男は言葉を投げる。
『イチャついてないでさぁ、一緒に探してくれない?
俺、ちょー困ってんだけど。』
“彼”の方から話し掛けられるとは
思っていなかった為、
晴は目を丸くして、恐る恐る尋ねる。
「・・・ど、どうしたんですか?」
『見りゃ分かんだろ?俺、バイカー。
バイクが盗まれてさぁ。困ってんの。』
ヘルメットの男は、はぁーっと
大きく息をつく。
その男の様子を見据えて、
朋也は晴の傍に寄り、小声で伝える。
『・・・晴。
話を鵜呑みにするなよ。
昨日は君のファインプレーで
スムーズに事が運んだが・・・・・・
基本、“意念を持たない”幽霊は
自分が死んでいる事を忘れている。
だから、事実とは異なる・・・
思い込みの世界が
出来上がっている事が多い。』
「・・・って、いう事は・・・・・・?」
『バイクを盗まれたという事実は、
ないのかもしれない。
そこを踏まえて、話し掛けてみてくれ。』
いきなりの臨戦態勢に、晴は戸惑う。
―・・・・・・私が聞くのね。
・・・うぅ。怖いんだけど。
ちょっと威圧的だし・・・・・・
・・・っていうか・・・・・・
話の続きが気になる。
“彼女にひっぱたかれた”。
・・・続きが、とても気になる。
・・・とにかく・・・・・・
彼を解放してから聞いてみよう。
晴は、ヘルメットの男と距離を保ちながら話し掛ける。
「あの・・・・・・バイクは
どこに置いていたのですか?」
『ここだよ、ここ。だから、
俺はここで困っていたわけよ。』
「・・・そうですよね。
置いていたはずのバイクが、
なくなっちゃったら困りますよね。」
『おねぇさん、一緒に探してくれない?』
その申し出に、Yesを出すのは危険だと
本能的に感知した晴は、はぐらかすように尋ねる。
「・・・えっと・・・・・・聞いてもいいですか?」
『ん?』
「あなたは、
どこに行く途中だったのですか?」
その質問に、ヘルメットの男は少し止まる。
『・・・・・・えーっと・・・・・・
・・・・・・あれ?どこだったっけな。』
「急いでいました?」
『そう!急いでいたんだよ~。
で、バイクがないじゃん?困るし。』
「・・・おかしくないですか?
急いでいたのに、
ここに置いていたのですか?
こんな所にバイクなんて、
駐車できないですよね?」
『・・・・・・
・・・ん?あれ??
・・・・・・確かに、言われてみれば・・・・・・』
男がいた所は、歩道の街路樹。
ここにバイクを駐車する都会人はいない。
晴の質問が核心をついているのか、
次第にヘルメットの男は考え込む。
『・・・俺、どこに行っていたんだっけ?
えーっと・・・・・・
・・・・・・そうだ!会社だよ!
寝坊して遅刻しそうになってさ!
バイクで飛ばして・・・・・・』
空気が、ぴり、と肌に刺さる。
その空間の流れは、
ヘルメットの男と連動している気がした。
『・・・・・・あれ・・・・・・俺・・・・・それで、
どうなったんだっけ・・・・・・?』
「・・・・・・もしかして、
ここで事故に遭っていませんか?」
予測できる事態だった。
『・・・・・・ああ・・・・・・
そうだ・・・・・・
ショートカットしようと思って、
路地入り込んで・・・・・・
急に飛び出してきた奴を
避けようとして・・・・・・』
シールドに、亀裂が走った。
男の右腕が、吊られた操り人形のように下がる。
同様に力を失くした右足から
地面に膝を付き、そのまま倒れ込む。
男と接地した地面には、
血潮が広がっていった。
『・・・ああ・・・・・・そうだった・・・・・・
俺、ここで・・・・・・事故ったんだ・・・・・・』
ごほっ、と咳き込む。
『・・・・・・もう・・・・・・
あいつに会えないのか・・・・・・』
ぽつりと零れる言葉に、朋也は反応する。
『・・・あいつに、申し訳なかったなぁ・・・・・・』
晴はヘルメットの男を見据え、
ハンドバッグから拳銃を取り出す。
「朋也さん。多分もう、効くよね?」
『・・・・・・』
朋也はヘルメットの男を見据えたまま、
返事をしなかった。
男は呻きながら、言葉を吐き続ける。
『・・・もう少しで・・・・・・
指輪を買ってやれたのになぁ・・・・・・』
『・・・・・・』
「・・・朋也さん。」
『・・・・・・幸せにしてやれなくて、
ごめん・・・・・・』
『・・・・・・』
彼女は、すぅ、と息を吸った。
「・・・・・・朋也!!」
その声に彼は、はっとする。
しっかり自分の名前を
呼び捨てにした彼女を、凝視した。
「しっかりして!
あなたがしっかりせんと、彼を助けられんやろ?!」
朋也は呆然と、晴を見つめる。
「この前はテンパっちゃって、
あなたのアドバイスを
ほとんど聞いていなかったんよ。
教えて。どこで狙うと?」
昨日の彼女とは別人のように、とても凛としている。
そんな晴に、朋也は我に返って
言葉を紡いだ。
『・・・銃身の上にある、
照星と照門が重なった先に狙いを定める。』
「えっと・・・・・・ここと、ここ?」
『・・・そうだ。』
晴は朋也に目を向けず、
彼の言われた通りに
拳銃の照星と照門が重なり合う照準を見据える。
「・・・だいたいで、いいっちゃんね?」
『・・・ああ。』
「両手で支えて・・・・・・」
肩幅まで足を開き、背筋を伸ばして
晴は拳銃を構えた。
照準の先には、仰向けになっている
ヘルメットの男がいる。
―・・・あれ・・・?
昨日は綺麗に見えとったのに・・・・・・
昨日狙いを定めた時、
視力が増している感覚があった。
今は、それがない。
―・・・そういえば、どこを狙えばいいとかいな?
・・・・・・最期、
命を落とす原因になった所・・・・・・
『心臓を狙え。』
彼の声が、耳に届く。
それは力強い風が吹くような感覚だった。
自分の背後に、彼は在る。
朋也の左手が、晴の頭に置かれていた。
触れられ鼓動が波打ったが、
今の彼女は
それに揺らぐことはない。
「・・・・・・心臓ね。」
『・・・ああ。』
晴は拳銃を構え直し、
ヘルメットの男の胸元を見据えた。
すると、あの感覚が蘇る。
ズームアップするように、男の拍動が
視覚を通して飛び込んできた。
弱々しく鳴るそれが、手に取るように分かる。
この感覚は、彼の援護があって
成立する事に晴は気づく。
『・・・もっと、
時間を大事にすればよかった・・・・・・』
懺悔を繰り返す、ヘルメットの男。
昨日の女子学生に向ける思いとは
明らかに違うが、彼女は
握る力に確固たる意思を籠める。
―生きる事に、必死でしがみつく姿。
それがどんな姿でも、
それを否定できない。
だって、生きている事に
意味がある。
「・・・・・・今度は、安全運転でお願いします。
どんなに急いでいても。」
その独り言を乗せて、
晴は引き金に指を掛ける。
「大事な人を、悲しませないで。」
ダンッ!!!
大音響とともに、男の身体は
少し宙に浮いた後、地面に落ちる。
シールドからは、彼の表情は窺えない。
だが、懺悔を繰り返していた
彼の重い空気は、
軽やかな風に変わる。
それは、陽だまりを連想させる程だった。
その姿を目で捉えながら
晴は少し前屈みになり、肩で息をする。
昨日と同様に拍動が大きく波打ち、
しばらく動けなかった。
彼女の追い風となっていた彼が、
横に並ぶように姿を現す。
『・・・・・・今日は、君に助けられたようだ。』
ぽつりと呟く彼の声。
それは、申し訳なさそうに響いた。
晴は呼吸を整えつつ、
放り投げたハンドバッグを拾いに行く。
そのバッグに拳銃を直した後、
戻るように朋也の横に並んだ。
二人は目を合わせることなく、
ヘルメットの男の様子に目を向ける。
『・・・・・・分かった事がある。
君と共鳴するという事は、
生きていた頃の自分を
思い出す事に繋がるらしい。
・・・・・・記憶とか、感情とか。』
晴はヘルメットの男を見守りながら、
深呼吸を繰り返す。
その様子を感じ取って、朋也は
晴の息が整うのを待つように沈黙する。
どこからか、風が吹いていた。
それが少し肌寒い。
晴は何となく、
朋也に目を向けるのが気まずかった。
―・・・うわーっ・・・・・・
私、ばりばり博多弁やった・・・・・・
しかも呼び捨てに・・・・・・
彼女は必死で標準語モードに切り替え、
先程聞きそびれた事情を尋ねる。
「・・・・・・彼女さんに、ひっぱたかれたの?」
それに彼は小さく笑い、頷いた。
『・・・・・・ああ。思いっきり。』
それから表情に陰を落とし、
息を漏らすように言葉を吐く。
『・・・・・・自業自得なのだが。』
「・・・・・・仲直り、出来なかったの?」
『・・・・・・』
「・・・・・・少し、すれ違っただけよね?」
『・・・少しでもすれ違ったら・・・・・・
それから大きく逸れていく。
生きている人間は、本心を見る事が出来ない。
特に、男女間では・・・・・・難しい。』
「・・・・・・それは分かる。」
―それに悩まされたことは勿論、ある。
「その後、朋也さんはどうしたの?
誤解だって、話し合ったのよね?」
『・・・・・・』
「ねぇ、朋也さん。」
『・・・・・・晴、すまない。
言葉で説明するのは難しい。』
断りを入れるように。
ため息交じりで呟いた後。
彼の左手が、彼女の右腕を引く。
それは強引なものだった。
何が起きたのか。
晴は瞬時に把握が出来ず、
手に持っていたハンドバッグを落とす。
彼の右手は彼女の左頬に置かれ、
右腕を引いた左手が、うなじを捉える。
有無も言わさず顔を、その方向に向けさせられた。
目の前に、彼の顔。
距離は、わずか10㎝。
それは、夢で見た彼の記憶の最後。
朋也が真弓を引き寄せ、顔を近づけた場面。
それが、晴の頭の中に蘇る。
「・・・・・・っ!!」
咄嗟に自分の左手が、彼の右頬をひっぱたいた。
記憶の続きに導かれるように。
頭の中に、映像が流れ込んでくる。
今度の視点は、朋也から見たものだった。
真弓の顔が、悲しみと苦しさで歪んでいる。
今まで目にしたことがなかった、
彼女の感情と表情。
今まで・・・・・・
自分の為に抑えてきた、心の内だろう。
【・・・・・・ごまかさないでよ・・・・・・】
【・・・・・・】
【・・・あなたは、助けたいだけでしょ?
哀れな私を、あなたは助けたいだけ。】
【・・・真弓。】
【・・・・・・最初の頃に戻りたい。
でも、もう手遅れよ・・・・・・
もうあなたを信じられない。
もう、無理。
一緒にいても、あなたとの距離が遠く感じる。】
【・・・・・・】
【・・・もう来ないでいいから。
・・・・・・出て行って。】
―・・・・・・え?
うそでしょ・・・・・・
待って朋也さん。
本当に、言われるままに
部屋を出て行っちゃったの?
ここから先の映像が流れてこなかった。
「・・・何で、置いていっちゃったの?!
何も言わず、本当に行っちゃうなんて・・・・・・!」
『・・・俺は、仕事を優先した。
その時自覚せず、彼女に甘え、彼女を傷つけた。
俺にはもう、真弓を幸せにする資格はなかった。』
無意識に、晴は涙を流していた。
この涙が何を意味するのか。
彼女自身も分からなかった。
「・・・真弓さんは試したのよ・・・・・・
朋也さんが何もかも捨てて、
自分に向いてくれるか・・・賭けた。」
『・・・・・・』
「朋也さんのバカ・・・・・・!」
『・・・・・・言えれば良かった。
でも、言えなかった。
その時は・・・・・・言えなかった。』
彼の表情に浮かぶ、陰の意味。
―・・・・・・その時、朋也さんが
真弓さんを優先していたら・・・・・・
命を落とさずに済んだのかもしれない。
・・・朋也さんは、真弓さんを幸せにしたくて
仕事を頑張っていたのだろう。
それを、伝えられれば
良かったのだろうけど・・・・・・
伝えられない事情があった。
それを、朋也さんはまだ思い出していない。
涙を止め処なく流し、
目で訴える晴を
朋也は口を開くことなく見つめている。
彼女が心の中で綴った一言一句、
彼は、それを染み込ませていた。
ぶつかり合う視線。
嗚咽を繰り返す彼女に、
朋也はようやく声を掛ける。
『・・・・・・“助けたいだけ”。
君が言ったこの言葉が、俺の
忘れていた記憶を呼び起こした。
・・・その時、自覚した。
自分は、死ぬ直前の記憶を失っていると。
君が見た真弓とのやり取りの後・・・・・・
俺は命を落とした。
それは間違いない。』
「・・・・・・うん。」
『なぜ命を落としたのか、それはまだ思い出せない。
俺の意念は・・・・・・
この拳銃と繋がっている。
これからまた、君とともに過ごす事で・・・・・・
思い出すかもしれない。』
「・・・・・・」
晴は、地面に落としたハンドバッグを見つめる。
―・・・・・・“この拳銃と繋がっている”・・・・・・
この拳銃は何だろう?
朋也さんは、“俺の拳銃”と言っているから・・・・・・
生きている時、実在した
本物を手にしていた事になる。
・・・・・・ここが日本である以上、
普通の人が手に出来ない物。
・・・今までなぜ、それに気づかなかったんだろう?
なぜ朋也さんは、そんなものを持っていたの?
彼女はようやく、その違和感に気づいた。
自分に注がれる彼の視線に気づき、目を向ける。
彼の眼差しは真摯だった。
その瞳に、囚われる。
―・・・・・・なぜ拳銃を持っていたのか、
聞いても答えてもらえない気がする。
教えてくれるなら、
最初から話してくれるはず。
・・・・・・大事な“仕事”って、何だろう?
どう考えても穏やかじゃない。
・・・・・・でも。
分かる。
朋也さんは、人を脅す為に拳銃を使っていない。
・・・“護身用”と考える方が合ってそう。
とにかく、何かの事情があったんだ。
扱いに詳しくならないといけなかった、相当の理由が。
『人生はもう、やり直せないが・・・・・・
俺は知りたい。
忘れている記憶と・・・感情を。』
「・・・・・・」
『今こうして君と行動して・・・分かる事が沢山ある。
生きている頃に分からなかったものが。
君のお陰で、俺はそれを知ることが出来る。』
―・・・・・・朋也さんは、受け入れている。
足掻いても、やり直せない事を。
自分だけに向けられている、その双眸。
他の何も、映していない。
それを受け、彼女は自覚する。
―・・・・・・私は、彼の拳銃を拾った。
その瞬間から、足を踏み入れたんだ。
“彼の世界”に。
『・・・・・・もう、あと僅かだな。』
ヘルメットの男の姿が、透けていく。
送り出すように
二人はしばらく沈黙し、見守る。
少し湿気を帯びた風が、
髪を撫でるように吹いていた。
『彼に・・・感謝しなくては。
君に、直に伝える時間を与えてくれた。』
朋也は再び、晴に目を向ける。
自然な流れのように、
彼女は視線を繋げた。
繋がった灯火は、さらに輝きを増して。
和やかに。
『・・・晴。いろいろすまない。
ありがとう。
これからも、迷惑を掛けるかもしれない。
・・・・・・俺の事を、知られていくのが・・・・・・
君で良かった。』
―・・・・・・何で、謝るの?
お礼を言うの?
・・・・・・私で良かったって、言えるの?
『・・・“朋也”、と呼んでくれて嬉しかったよ。
・・・・・・ふはは。
博多弁も、かなり良かった。』
「・・・そ、それは、その・・・・・・つい・・・・・・」
先程の剣幕を自分で思い出して、
晴は恥ずかしい気持ちになった。
『・・・君のピアノを、聴くのが楽しみだ。』
朋也は微笑んだ。
出逢ってから、まだ3日。
しかしその時間は濃い。
時折見せる、彼の優しい微笑み。
それが向けられる度、
彼女の鼓動は穏やかではなかった。
―・・・・・・
いや、あり得ないよぉ・・・・・・
あり得ないってば・・・・・・
「・・・・・・晴?」
莉香の呼び掛けに、はっとする。
「ぼーっとしちゃって・・・どうしたの?
大丈夫?」
自分の目に、心配そうな莉香の顔が飛び込んできた。
「・・・・・うん、ごめん。大丈夫。」
―・・・戻ってきたんだ。
晴は大きくため息をつく。
莉香の足元にいる莉穂が、
こちらを向いて微笑んでいた。
その癒しの微笑みに応えて、小さく呟く。
「・・・今ね。あの木の所にいた、
男性の幽霊を解放したの。」
「・・・え?!」
晴の呟きに、莉香は驚愕する。
「一瞬だったけど?!一体どうやったの?!」
「・・・私にもさっぱり。
“意念を持たない”幽霊に会ったら、
時間の概念から外される・・・・・・らしいよ。
私には、きちんと時間が過ぎている
感覚があるけど・・・・・・」
「・・・???」
「その人を認識したら、世界に踏み込むみたい。
解放しない限り・・・抜け出せないの。
戻って来れて良かった。」
「・・・・・・言ってる事、
さっぱり分かんないけど・・・・・・
でも、まぁ・・・へぇ~・・・・・・」
晴の様子を、鋭い観察眼で莉香は感じ取る。
意味ありげな笑みを浮かべながら、
やんわりと尋ねた。
「彼に会えたみたいね?」
莉香の見透かすような質問と視線に、
晴は取り繕う余裕なく動揺する。
「う・・・・・・うん。まぁ。」
「・・・何かあった?」
勘が鋭い友人は、
有難いけど、困りものだ。
「・・・・・・なんにもないよ。」
「ふふっ。隠せてないけど~?
いいよ~。
いつでも話してくれて~。
待ってる~。」
莉香はそれ以上追求せず、
すぐ引き下がる。
その心遣いに、晴は心底感謝した。
今の彼女は、胸が苦しくなる程
高鳴る鼓動を、
鎮めるのに精一杯だった。
堪らず、ため息をつく。
―・・・これじゃ、まるで本当に・・・・・・
・・・いやいや。
いやいやいや。
あり得ないんだから。
そんな悩める彼女を、
莉香は楽しそうに眺めながら言う。
「ときめいてる時に申し訳ないけど~。
お店に着きました~。
名前は“Calando”。
音楽用語らしいけど・・・どんな意味か忘れちゃった。
ねっ。渋いでしょ~。」
現実に引き戻されるように、改めて
晴はその店の外観を捉えた。
扉は外から見えないように加工され、
“Calando”と
白い文字が筆記体で記されている。
その扉の横にある立て看板には、
チェーンで繋がれた“CLOSE”の札が
下げられていた。
店の入り口を優しく照らす、
ランタン風の電灯の明かり。
客を迎えるように佇む、
鉢植えに育ったユーカリの木。
全てが、一つの世界として存在するように
調和している。
「・・・素敵。」
自然に言葉が零れる。
店を取り巻く雰囲気が、とても温かい。
自分の中に、その空気が
溶け込んでいくような感覚だった。
「でしょー?中も渋いよ~。」
まるで自分の店を紹介するように、
莉香は自慢気である。
先導するように
彼女は扉の把手に手を掛け、押して開いた。
「こんばんは~、叔父さん!」
元気よく、莉香は声を掛けた。
扉が開くと同時に、
彼女の足元にいた莉穂が
店内に駆け出していく。
その行動に驚いて、
晴は思わずその莉穂の後を目で追った。
店内の奥に置かれた、存在感のある漆黒の光沢。
店に足を踏み入れた最初に
目を向けるように、
そのステージを
スポットライトが演出している。
莉穂が真っ直ぐに駆け出していった
その先には、ピアノ椅子がある。
そこに座る、女性の影。
スポットライトの光が
陽だまりのように感じた。
莉穂は女性の足元に引っ付き、見上げて微笑む。
それに応えるように、
女性は莉穂に視線を落とした。
その拍子に、艶やかな金髪が
さらりと零れる。
ふわりと、そよ風のように笑うと
莉穂の頭に手を置いた。
晴はその光景に目を奪われ、立ち尽くてしまう。