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Invisible Notation  作者: 伝記 かんな
2/12

*Notation 2* 曽根木 莉香(そねき りか)

『・・・・・・今までとは、景色が違って見えるだろうな。』


この時彼女は、彼が零した言葉の意味が分からなかった。

“幽霊”の彼とともに過ごす、ちょっと不思議で

あり得ない出来事が始まる。


                  2



雀のさえずる声が、耳に届く。


デジタル時計の目覚まし音が鳴る前に、

晴は目を覚ました。


時刻は7時前。


あまり熟睡できておらず、

重いまぶたを何とか開けるが視界がぼやけている。

気だるい身体を起こし、

ゆっくり毛布を綺麗に畳む。


今の季節は初夏。


まだ深夜から早朝にかけて肌寒い気候で、

毛布が手放せない。


大きな欠伸をした後、

晴はローベッドから下りた。

薄桃色の遮光カーテンを開けると、

レースカーテン越しから天気を窺う。


空には黒く厚い雲が覆い、今にも雨が降りそうだった。


―・・・ここ何日か、天気良くないなぁ・・・・


そう思った後、洗面台に向かう。

洗面台のすぐ傍に設置された

木製の小さなシェルフ。

そこに置かれているヘアバンドを手に取り、装着する。

その後、洗顔フォームのチューブを取って蓋を開けた。

チューブからクリームを練り出し、

専用のネットで泡立てていく。


手のひらサイズ程のきめ細かい泡が

もっちりふんわり出来上がると、

それを顔に付けて洗顔を始めた。


―・・・・・・


 昨日の出来事って・・・・・・

 夢じゃないのよね。


 ・・・夢であってほしいけど・・・・・・


 でも・・・・・・

 それならそれで、なぜか寂しい。


 ・・・・・・あの人、生きていたら

 61歳のおじいちゃんとか、考えられない。


 『“俺たち”にとっては30年なんて、

  あっという間だ。時間の概念は存在しない。』


 ・・・って、ことは・・・・・・


 彼は永遠の31歳?!


 ・・・・・・何か混乱してきた。

 考えるの、やめよう。



晴は、蛇口ハンドルレバーを上げて水を出し、

顔に付いた泡を洗い流す。


丁寧に洗い終わると、

シェルフに畳んで置いてあったフェイスタオルを取る。

拭き取ると、ふう、と息をついた。


この瞬間、彼女は完全に目を覚ます。


洗面台の上部にある鏡を見て、

吹き出物が出来ていないか、チェックする。


―・・・よし。大丈夫。



朝のルーティンの一つだ。


化粧水を数枚のコットンにたっぷり染み込ませ、

顔全体に張り付ける。

同僚の莉香に勧められ、最近始めた簡易パック。

これをすると、化粧ノリがいい。


この間、スマホの通知を確認するのが

二つ目のルーティン。


晴はデジタル時計の横に置いていた

スマホを取ろうと、歩いていく。

その際、テーブルに置かれていた例の拳銃が目に入る。


それで、昨日の出来事が夢ではないことを自覚した。


その拳銃をショルダーバッグに直し込む。

未だに、この重みが

この世のものではない物とは信じられなかった。


―『これは、必ず傍に置く事。

  どんな時も、だ。

  何が起こるか分からないからな・・・・・・

  君と俺を繋ぐ、扉の鍵だ。』



スマホを手に取り、ローベッドに腰掛ける。


本当は夜に確認するはずだった、

地元の友人たちとのグループメール。


―・・・昨日は、

 それどころじゃなかったもんなぁ・・・・・・


 返事をしていなかったので、

 “生きとる~?”とか、

 “スルーすんなこら~”とか、

 “お疲れ様、都会人。ゆっくり休むとよ~”とか、

 様々なコメントが目に入る。


晴は笑顔になりながら、返事を送る。


友人たちは幼なじみが多い。

彼女にとって、かけがえのない存在だった。



あっという間に15分経つ。

返事を終えると立ち上がり、

簡易パックのコットンを剥がすと、

晴は朝御飯の支度を始めた。


木製の食器棚から、

ドライフルーツがゴロゴロ入ったシリアルの大袋を取り出す。

それをボールに半分くらい入れ、

冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、注ぐ。

それを直すと同時に

4パック連なったヨーグルトを一つ、

切り離して取り出した。


昨晩何も食べていなかったが、腹は減っていない。


この朝御飯メニューは、彼女にとって“手抜き”に入る。

普通ならハニートーストと目玉焼き、

そしてトマトサラダを食べるのだが、

食材も作る気力も食欲も無かった。


―・・・せめて、これだけでも食べて行こう。


木製の四角いトレーに、

スプーンとシリアルが入ったボール、ヨーグルトを乗せる。

グレープジュースを注いだグラスとともに、

それをテーブルへ運んだ。


テレビボードに置かれたリモコンを取り、

テレビの電源をオンにする。


映し出された画面は、朝の報道番組である。


自分専用の、藤色のクッションを敷いて

晴はその上に座った。

左側に、昨日のまま置かれていた向日葵の座布団を見て、

彼女は片桐 朋也の姿を頭に思い浮かべる。


―・・・昨日、呼んでみたら来たけど・・・・・・


 ・・・・・・



「・・・おはようゴザイマス・・・・・・朋也・・・さん。」


躊躇いながら、その名前を口にする。


すると、前触れもなく彼は

向日葵の座布団の上に胡坐をかいた姿で現れた。


『おはよう、晴。』


慣れない出現に、晴はびくっとする。

心臓が口から飛び出そうになった。


「・・・と、突然出てくるのって、

 どうにもならないのですか?

 ああ、違う・・・・・・えっと、どうにもならないの?

 霧が出て、しゅわーっとかにしてほしいけど・・・・・・」


敬語が抜けない。

何とか頑張って喋る晴に、

朋也は温かい眼差しを送る。


『出せるなら出したいが、難しいな。』


「・・・そのトレンチコート、脱げないの?暑くない?」


『・・・・・・その概念も除外してくれ。』


そう言って頬杖をつき、テレビを眺める。

その仕草と、のんびりした雰囲気に

晴は調子を狂わせる。


―・・・言われなければ、

 幽霊とは思えない・・・・・・

 普通に会話しているのが、不思議・・・・・・・


騒がしくなった鼓動を落ち着かせるように、

グレープジュースを口に含む。

そしてヨーグルトの蓋を開けると、

スプーンを手に取った。


「・・・勿論、お腹は空かないのよね?」


『ああ。』


「・・・眠たくも、ならない?」


『ああ。』


「席を外すって、どうやってるの?」


容赦ない質問攻めに、

朋也はテレビに向けていた目を晴に向ける。


じっと、注がれる視線。

その視線に、晴はどきどきしながら見つめ返した。

彼から、小さくため息が漏れる。


『疑問に思った事は、

 極力答えてやるつもりだが・・・・・・

 説明しても、理解するには難しいだろうな。』


そう言われて、晴は少し傷ついた。

抗議するように言葉を返す。


「だって・・・・・・分からない事だらけだし。

 聞きたくなるじゃない?」


『“言葉で理解するのは難しい”と、

 そう言っているだけだ。

 頭の良し悪しではない。』


「・・・・・・」


『・・・君はまだ、“俺たち”の世界に触れていない。』


朋也は再びテレビに目を向ける。

納得がいかない様子の晴だったが、

それ以上聞かずに

黙々とヨーグルトを食べ始める。



【・・・・・・今日、

 東京全域のお天気は下り坂で、曇りのち雨。

 降水確率は、午前中80%、午後から90%になります。

 発達した雨雲が覆い、

 雷雨を伴う激しい雨が降るでしょう。

 お出かけの際には、充分に注意してください。】



―・・・・・・やっぱり雨かぁ・・・・・・


晴は小さく息をついて、

食べ終わったヨーグルトの容器をトレーの上に置く。

次にその手は、シリアルが入ったボールを取る。



『テレビ観るの、久しぶりだな・・・・・・』


ぽつりと呟く朋也。


それを晴は、すかさず拾って問い掛けた。


「もしかして30年ぶりとか言わない・・・・・・よね?」


『御名答。』


彼女は驚きの色を隠せなかった。


「・・・久しぶり過ぎるでしょ・・・・・・」


『今のテレビって相当薄型だな。画面も綺麗だし。』


「・・・う・・・・・・うん・・・・・・」


『その小さなテレビ画面みたいなものも、相当な技術だな。』


朋也の視線の先には、晴のスマホがある。


「スマホも・・・・・・知らないんだ。」


『すまほ、というのか。』


「スマートフォン。略してスマホ。」


『・・・スマートフォン?!これが?』


「・・・・・・うん。」


朋也の熱い視線が、スマホに注がれる。


『・・・・・・すごいな。

 30年で、ここまで進化したのか。』


感嘆する朋也の様子に、

晴はなぜか勝った気分になった。


「扱わせてあげたいけど・・・・・・

 幽霊じゃ触れないよね。」


『晴が何かして見せてくれたら、それでいい。』


「え?」


その申し出に、晴は浮き立つ。

だが、テレビ画面の左上に映る時刻を見て、

かなり慌てた。


「うそ!もうこんな時間!!

 ごめんなさい、

 会社に行く準備しなくちゃ!」


素晴らしい速さでシリアルを掻き込むと、

彼女は立ち上がる。


「朋也さん、席を外してくれる?」


『?なぜだ?』


「・・・着替えるから、席を外してください!」


『ああ、そうか。気づかずにすまない。』


朋也は素直に謝った直後、姿を消す。

そんな彼を見届けて、晴は小さく笑った。


―時間を忘れちゃうなんて・・・・・・

 久しぶりかもね。


 幽霊は怖いけど・・・・・・

 彼は怖くない。

 変なの。


 ・・・一人暮らしで寂しかったし・・・・・・


 話し相手が出来たみたいで、ちょっと嬉しいかも。



この時、彼女はまだ知らなかった。


これから待ち受ける現実は、

想像を絶する出来事だらけだということを。




空には、どんよりとした厚い雲。


窓から見た時よりも、黒くて禍々しく思えた。

幸い、まだ雨は降っていない。


折りたたみ傘をショルダーバッグに入れて

家を出ると、

晴はパンプスのヒール音を鳴らして足早に歩いていく。


周りには、彼女と同様に通勤するサラリーマンや、

学生の姿が見受けられた。


―今日は時間ないし、いつもの通勤ルートで・・・・・・


歩く先にある角を右に曲がり、

真っ直ぐ歩いていけば最寄りの駅に辿り着く。


ふと、晴は目線を左側にある電信柱に向けた。


気になる影があったのだ。



「・・・・・・?」


急いでいたが、それがどうしても気になった。


晴は足を止める。


すると、その電信柱に寄り掛かってしゃがみ込む、

一人の女子学生がいた。


晴からの視点だと、後ろ姿である。



『晴。』


突然の、低い声。


呼んでいないのに朋也が横に現れ、

晴はびっくりして思わず目を向ける。


「え?どうしたの?」


彼は、しゃがみ込む女子学生を

真っ直ぐに見据えている。


『・・・いいか、晴。

 “意念”を持たない“幽霊”に遭遇し、認識した時。

 空間は時間の概念から外され、止まる。』


「・・・??どういう事?」


『君はあの子を認識した。

 もう既に、あの子の空間に足を踏み入れたという事だ。』


「・・・・・・え?」


『あの子は、“意念”を持たない“幽霊”だ。』



いきなりの遭遇に、晴は身体を強張らせる。

再び、恐る恐る女子学生に目を向ける。


少女は、動かない。



「・・・・・・と、と、ともやさん・・・・・・

 ど、ど・・・どうしたらいい?」


『・・・話し掛けてみてくれ。』


「ええ?!」


『彼女がどうしてここにいるのか、尋ねてみよう。』


「・・・・・・」


―・・・・・・こ、怖いんだけど・・・・・・


 すっっっごく怖いんだけど!!



声にならず、晴は朋也に目で訴える。

彼は彼女に目を向け、背中を押すように言葉を掛けた。


『彼女の未練を解放しない限り・・・・・・

 俺たちはこの空間から出られない。』


「・・・・・・うそでしょ・・・・・・」


『・・・ほら、早く。』


「と、朋也さんが話し掛けてよ。幽霊同士でしょ?」


『彼女の様子から見て・・・・・・

 男の俺よりも、女である君の方が

 話を聞いてくれそうな気がする。』


「えぇ・・・・・?」


『大丈夫。いざとなれば銃がある。

 まぁ・・・未練を引き出さない限り、効果は薄いと思うが。』


「・・・何言っているのか、さっぱりなんだけど!」


『さぁ。晴。』


埒が明かないぞ。


朋也はそんな目で、晴を促す。


怖い。

こうして話をする彼は怖くないのに、

得体の知れないあの女子学生は、とても怖く感じた。


幽霊に対する先入観が、彼女に襲い掛かる。



―・・・・・・


 ・・・・・・


 うう。

 怖いけど・・・・・・


 朋也さんがいるし・・・・・・


 このまま何もしなければ、

 ここから出られないとか・・・・・・


 一体どういう事?


 ・・・・・・


 ・・・・・・



恐怖心を抑えるように深呼吸し、

晴は覚悟を決めた。

ゆっくり女子学生の方に歩いていく。


綺麗なセミロングの黒髪。

制服は、某女子高校のものだった。


最低限の距離を保ち、後ろからそっと声を掛ける。


「・・・・・・大丈夫・・・・・・?」



その呼びかけに、女子学生は反応する。

ゆっくり晴の方に振り向いた。


想像していた幽霊とは全く違い、

とても綺麗な顔立ちの美少女だった。


目は虚ろだったが、

晴を見た途端、その瞳が潤む。


彼女は、首を小さく横に振った。


晴は恐怖心を緩め、

少女と同じ目線になるようにしゃがみ込んで、

優しく語り掛ける。


「・・・・・・どうしたの?」



その問い掛けに、

少女は何も答えない。

ただ、晴を見つめ返すだけだった。


「・・・・・・具合が悪いの?」


少女の様子を見て、明らかに身体の具合が悪そうだった。

見たままの素直な気持ちを、問い掛ける。


少女は晴から目を逸らし、唇を噛む。

身体が小刻みに震えていた。

俯き、目に溢れた涙が零れ落ちる。



『・・・・・・わたし・・・・・・』



小さく声が漏れた。

晴はその声を聞き取ろうと、耳を傾ける。


『・・・・・・私・・・・・・

 ここで・・・・・・

 知らない男の人に、押さえつけられて・・・・・・』



その言葉の続き。


直感的に理解する。


一瞬で虫唾が走った。


晴は、少女を包み込むように抱き締める。

それが可能か考えるよりも、本能が身体を動かした。


少女の身体は、とても冷たい。


「言わなくていいよ。分かったから。」


慰めるように、言葉を掛けた。

少女は晴の懐で、嗚咽をする。


しばらく、その時間が過ぎていった。


その二人の様子を、朋也は見守っている。


彼の表情は、変わらないように見えた。

だがその手は、何かを我慢しているかのように

強く、拳を握る。



『・・・・・・ひどい・・・・・・』


「・・・・・・そうね。」


相槌を打ったその直後、少女は顔を上げる。


すると、綺麗だったその顔に

青あざが浮き上がっていた。


晴は、はっとして目を見開く。


少女は晴に見せるように、黒髪を手でかき上げた。


その白い首元に、内出血の痕と引っ掻き傷がある。


『・・・・・・見て、これ。

 殴られた後に首を絞められたの。』


そう言った直後、

がしっ、と少女は晴の両腕を掴む。


その力は、非常に強かった。


『どうして助けてくれなかったの?!

 どうしてよ!!!』



悲痛の叫び。


少女の形相が、歪む。

その歪みを目の当たりにした晴は、

大きな眩暈と言いようのない罪悪感に襲われた。



―助けられなかった。


 この子を救えなかった。


 せめて、一緒にいてやらないと・・・・・・


 私が傍にいてやらないと・・・・・・



『晴!!』



がつん、と、朋也の声が晴の頭の中に響く。


それで、彼女は我に返った。



「・・・・・・え・・・・・・?!」


『危なかったな。

 初めての試みだったから、

 ぎりぎりのところまで我慢したが・・・・・・

 生きている君が無防備で“彼ら”に触れたら、呑まれるぞ。

 二度と現実に帰れない。』


「・・・・・・」


『まさか君が、彼女を抱き締めるなんて思わなかった。

 かなり驚いたし・・・・・・

 かなり冷や汗かいた。』


「・・・あ・・・・・・あの・・・・・・」



晴は状況に戸惑う。


自分は今、彼の腕の中にいる。

自分に触れられないはずの、彼に。


後ろから抱き込まれている。


そして、血が通っていないはずの彼なのに・・・・・・

温かさを感じた。



『タスケテ・・・・・・』


悲痛な声が、耳に届く。


自分が抱き締めていたはずの少女が、

少し離れた前方で這いつくばっていた。

制服は乱れ、黒髪は絡まり、

顔は土気色に染まっている。


少女は呻きながら、二人を見つめている。



『晴が身体を張ったお陰で、大分手間が省けた。

 ・・・だが、もう二度としないように。

 今彼女は、

 自分がこの場所に縛られている事を自覚した。

 彼女が最期、命を落とす原因になった首元・・・・・・

 そこを狙って撃つ。』


「えっ・・・?!」


『そうすれば、彼女の・・・

 この世に対する未練は解放される。』


朋也の左手に握られた拳銃。

それが、晴の目の前に差し出される。



『タスケテヨ!!ハヤク!!』



悲痛の叫びは、空間を震わせた。


少女は二人の方に向かって、苦しそうに手を伸ばしている。



「あの子を撃てっていうの?!」


『この銃は、命を奪う為の物じゃない。

 未練を解放する為の物だ。先入観を捨てろ。』


「でもっ・・・・・・」


朋也は拳銃を晴の左手に握らせ、その腕を水平に上げさせる。

彼女の背後から支えるように。


『最初は俺が援護する。

 左利きなんでな・・・・・・

 悪いが、合わせてもらう。』


晴にとって彼の利き手よりも、

もっと気になる事があった。


『心を平静に。』


耳元で囁かれる声。

平静になど、とてもなれなかった。


「・・・無理・・・・・・」


『君なら出来る。』


「・・・・・・嘘つき・・・・・・」


『嘘つき?』


「触れる事は難しいって、言ったやん・・・・・・」


思わず、博多弁が出てしまう。

朋也は微笑んで、言葉を返した。


『・・・すまない。

 “君たちの世界では”、と

 付け加えるのを忘れていた。』


晴のもう片方の腕を取り、

拳銃を支えるように手を添えさせる。


『本来は右手で撃つ方がいい。

 拳銃の規格は右利き仕様だから。

 次からはそれを勧める。

 ・・・実際の拳銃なら、スコープがないと

 素人が正確に命中させるのは皆無。

 だが、この銃の仕様は言った通り・・・・・・

 “意念”を持たない幽霊の未練を解放する為の物。

 この銃の弾となるのは、生命力だ。

 “彼ら”が最期命を落とす原因になった箇所・・・・・・

 そこに狙いを定めて、撃つ。

 銃のこの部分、照星と照門が重なるように目標を狙う。

 この二つの部分を結んだライン、照準線というが、

 それがおよそ合っていればいい。

 ・・・銃の反動は、思っている以上に大きいからな。

 片手で撃つのは、お勧めしない。』


彼の的確な説明とアドバイスなんて、

晴の耳には届いていなかった。


『・・・平静に。』


「・・・・・・なれない。」


―非常事態です。


『大丈夫。君なら出来る。

 思い出せ。ピアノを奏でる時を。

 ・・・共鳴した時、俺も君の事を知る事が出来た。』


その言葉に、晴は目を大きく見開く。


『君が奏でるピアノを、今度聴かせてくれないか。』


―・・・・・・なぜ、それを・・・・・・


『ピアノを奏でる時のように。

 心を、穏やかな水面のように。』


詩のような言葉を紡ぐ彼の声音は、

催眠術をかけるような優しい振動で

彼女の耳に届く。


―・・・・・・ピアノを奏でる・・・・・・時のように。


大きく波打つ鼓動を鎮めるように、深呼吸する。



「・・・この子を、救えるのよね?」


最終確認のように、晴は尋ねた。


『勿論。』


それに、朋也は揺らぐことなく答える。



『・・・・・・オネガイ・・・・・・

 タスケテ・・・・・・』


少女の苦悶に満ちた表情。

小刻みに震える、白くて細い手が晴に向かって伸びる。



彼女は覚悟を決め、拳銃を強く握り締めた。

苦しそうに呻いている少女を、しっかり見据える。


『引きトリガーには、撃つ直前に指を掛ける事。

 軽く引けてしまうからな・・・・・・』


今は、彼の言葉が素直に入ってくる。

彼女は小さく頷いた。



―・・・・・こんな悲しい終わり方なんて、忘れてほしい。


 私には、何も出来ないけれど・・・・・・


 本当に、救われるのなら。



 ・・・・・・どうか・・・・・・


 どうか、

 幸せに生まれ変わりますように。



そう思った瞬間。


彼女の背後にいた、彼の姿が消える。


“消える”という表現で合っているのか。


彼女の身体に取り巻く、優しい風。

この風は、彼だ。


そう自覚する。



晴は少女の首元に目を向け、集中した。

普段よりも、視力が増しているような感覚がある。

少女の首元にある、痛々しい内出血。

そこを、一点に捉えた。



『撃て。』



頭の中に響く声。


それが合図のように、引き金に指が掛けられる。

その指が、直ぐにトリガーを引いた。


彼の言っていた通り、引き金はとても軽く引けた。



ダン!!!



だが、予想以上に拳銃の反動が大きくて、よろけそうになる。

動揺したが、体制を崩す事はなかった。


風になっている彼が、支えてくれたのだ。



見えない実弾は、少女の首に命中する。

少女は身体を大きく後ろに逸らせた。


その光景は、スローモーションのように流れる。


綺麗な暗黒の糸が、宙に舞う。

その後、白く細い手が天を仰いだ。


少女は、仰向けに倒れる。



晴の心臓は、胸を突き破りそうな勢いで鳴っていた。

痛いくらいに。

苦しさを感じる程に。


その大きな拍動に縛られて、彼女は

しばらくその場に立ち尽くした。



―・・・・・・苦しい。


 身体がとても重い。


大きく深呼吸をする。

拍動が穏やかになるまで、それを何回も繰り返した。



ようやく動けるようになり、

晴は倒れた少女の元にゆっくり歩み寄った。


すると、驚くべきことが目に入る。


乱れていた制服も、髪も、元通りになっていた。

顔に浮かんでいた青あざも、首元の内出血も、消えている。


少女の表情は、とても安らかだった。


とても良い夢を見ているような、優しい寝顔。



『お見事。

 俺の援護があったとはいえ、

 良い感覚と集中力を持っている。

 ・・・お疲れさま。』


その声に、せっかく落ち着かせた鼓動がざわめく。


気づくと彼は、自分の横に並ぶように立っていた。


何か言いたそうに視線を送る晴に、

朋也は悟って小さく頭を下げる。


『やむを得ずとはいえ・・・・・・

 触れてすまなかった。

 呑まれそうになった君を、正気に戻す為だった。』


素直に謝る彼だったが、

それを彼女は素直に受け入れられなかった。

依然として、問いただすような視線を送る。


「“付け加えるのを忘れていた”、っていうのは・・・嘘よね?」


彼は、何食わぬ顔で言葉を返す。


『まさか。』


「素直に答えたら、怒らないから。」


『・・・・・・それは、怒るパターンだな。』


「朋也さん。」


『・・・・・・説明するのに、困っただけだ。

 すまない。許してくれ。』


朋也は、そう言って笑う。


晴はまだ納得いかなかったが、

その気持ちを抑えて問い掛ける。


「・・・・・・この子は、もう大丈夫なの?」


安らかに眠る少女に目を向け、彼は頷いた。


『ああ。

 彼女の姿が消えればこの空間は無くなり、

 彼女は生まれ変わる。』


「・・・・・・この空間って、何?」


『彼女が作り出した未練の塊。

 “意念”を持たない幽霊が作り出す世界ともいえる。

 ・・・・・・“俺たちの世界”の一部だ。

 君は初めて、その世界に触れた。』


「・・・・・・」


『俺と共鳴する君は、これからも

 足を踏み入れる事になる。』


「足を踏み入れる事になる・・・って・・・・・・」


晴は、深いため息をつく。


―・・・・・・全然区別つかなかった。

 普通に、生身の人間だと思ったし・・・・・・


「・・・・・・もしかして、これから

 こんな風に出会っていくの・・・・・・?」


独り言のように呟く彼女に、朋也は告げる。


『君が“彼ら”を認識すれば、な。

 ・・・・・・景色が変わるというのは、こういう事だ。

 ・・・理解してもらえたか?』




その後、晴は極力周りを見ないように会社へ向かった。


それが功を奏したのか、何事もなく

会社に辿り着く事が出来たのだった。


この出来事のせいか、体力も精神力も疲労していた。

もし、このまままた別の“彼ら”に遭遇したら・・・・・・

同じように集中して撃てるか不安だった。


そう考えるのは、

“彼ら”に対する恐怖心が薄れた為だ。


彼女の中で、“彼ら”の見方が変わっていた。


―とにかく、会社に行かなくては・・・・・・


晴はその思いだけで、歩いていく。


そして不思議な事に、あの少女と費やした時間が

実際全く経過していなかった事。

これには驚かざるを得なかった。


少女の姿が消えるのを見届けた後、

朝の時間のままだった。

周りにいた学生やサラリーマンにも、気づかれていない。


彼女自身、半日過ぎたような感覚だというのに。



晴は大きなため息をつき、オフィスへ足を踏み入れる。


「晴~。おはよ~。」


いつものように声を掛けてくる、同僚の莉香。

優しい声音が耳に届き、晴は

ほっとして彼女に目を向けた矢先。


―・・・・・・えっ?!


拳銃の時と同様、晴は目を疑った。


自分に笑顔を向けている莉香の足元。

彼女を盾にして、じっとこちらを窺っている気配。


その正体は、5歳くらいの

とても可愛らしい女の子だった。


目は大きく、ツインテールにした髪の毛が

くるん、と渦巻きになっている。

オレンジ色のワンピースが、とてもよく似合っていた。



「・・・・・・晴?」


フリーズする晴を見て、莉香は首を傾げる。

晴は今すぐに、朋也を呼びたかった。


―・・・・・・絶対この子、幽霊よね?


 オフィスに子どもがいる事なんて、今までにない。

 誰かの娘さんを、やむを得ない事情があって

 今日限りオフィスで預かる事になったとか・・・・・・

 そんな話も聞いていない。



 と・・・朋也さん!!



緊急事態なので、心の中で叫んだ。



『驚いたな・・・・・・』


朋也の声が聞こえたが、姿は見えない。

だが、心の声が届いた事を確信して、

晴は心の中で問い掛けてみる。


―この子・・・幽霊よね?!


『・・・ああ。だが・・・・・・』


「ちょっと、晴?」


全然動かなくなった晴を、

莉香は本気で心配そうに声を掛ける。


「本当に大丈夫?昨日といい、絶対おかしいってば。

 ・・・・・・ねぇ、お願い。話してみて。」


晴は、莉香の足に引っ付く

その女の子から目が離せなかった。

女の子も、瞬きもせず晴を見つめている。



『晴。』


―・・・どうしたらいいの・・・・・・?


「晴?」


―・・・・・・一体今、どういう状況なのぉ・・・・・・?



女子学生の時は、時間の経過がなく

日常に干渉していなかった。


だが、今は・・・・・・


莉香が普通に、話し掛けてくる。


晴は混乱していた。


助け舟を出すように、朋也は言う。


『その子は、俺と同じだ。“意念”を持つ幽霊。』


―・・・・・・え?!

 この子も、朋也さんと同じ?


『ああ・・・だが、俺とは違う使命を持っているようだが。』


―・・・・・・


『・・・考えがある。

 同僚の彼女に、俺たちの事を話してみてはどうだろう?

 君たちの世界で、どう解釈されるか見てみたい。』



「晴。顔色悪いよ。」


莉香は、ひたすら心配そうに窺っている。


これ以上、優しい同僚に心配をかけてはいけない。

彼の考えを、彼女は受け入れてみようと思った。


「・・・・・・莉香。

 仕事終わった後、時間ある?」


もうすぐ始業時間で、

オフィス内にいる同僚たちは各自デスクに向かい始める。


声のトーンを落として、晴は尋ねた。

それに莉香は、表情を明るくさせて答える。


「うんうん。私はいつでも暇よ。

 良かった!

 頼ってくれて本当に安心した!

 ・・・場所はどうしよっか?」


晴は少し悩んだが、緊急事態なのを自覚して申し出る。


「私の家に来ない?込み入った話をしたいの。」


「え?晴のお家に?!」


「うん。是非。」


目を輝かせて、莉香はとても嬉しそうに笑う。


「急展開!ついに同僚の壁を乗り越える時が来た!」


「え?」


「お泊りしてもいい?

 明日お仕事休みでしょ?飲み明かそう!」


「・・・・・・うん。」


「やった!」



あまりにも嬉しそうな莉香の反応が、

晴にはちょっと意外だった。

冷静に対処されると思ったからだ。


晴は、ちらっと女の子に目を向ける。

相変わらず、晴を直視していた。

真っ直ぐで揺らがない眼差しを受け、内心ため息をつく。


―・・・・・・


 どう話したらいいのだろう?


 ・・・・・・信じてもらえるのかな・・・・・・?




昨日同様、気が気じゃない時間を過ごす晴。

女の子は、莉香の周りを片時も離れなかった。

時折その様子を窺うと、

女の子は大きな瞳を真っ直ぐに向けてきた。


観察するように。

晴を、じっと窺っていた。


その視線が気になり、仕事でミスをしてしまう。


上司に説教される晴を、莉香は心配そうに見守っていた。




仕事は、幸い定時に近い時間で終わる。

神経がすり減る時間が過ぎ、晴は大きくため息をついた。


今朝出会った女子学生。

莉香にとり憑いている女の子の存在。

仕事のミス。


今日だけで、

数日分の濃さを味わった気がした。



莉香は、一旦家に帰宅してから

準備を整えていくと晴に伝える。


彼女は自家用車で会社に通勤していた。


「乗っていかない?

 雨がかなり降っているみたいだし・・・・・」


莉香は身支度を整えながら、声を掛ける。

晴はその心遣いに感謝しつつ、丁寧に断った。


「ごめん。急にお泊りってなったから・・・・・・

 少し掃除したいなって思って。

 20時頃来てもらえると助かるかな。

 ・・・家の道順分かった?」


「うん。ナビに入れたから大丈夫。

 ・・・駐車場代浮くからいいけど・・・・・・

 月極で払っているんでしょ?

 普段使ってないなんて、もったいないよ。」


「役に立つ時がきて良かった。

 本当は車を買う予定だったけど・・・・・・

 私の運転じゃ危ないからって、

 お母さんに止められて。

 急な訪問があった時用にしてたの。

 ・・・・・・私の部屋、かなり狭いけど大丈夫?」


相変わらず莉香を盾にして

こちらを窺ってくる女の子を気にしながら、

晴は言葉を返した。

莉香は笑顔で応える。


「私の部屋も同じようなものよ!全然構わないから。」


彼女の楽しそうな雰囲気に、晴は救われた気持ちで微笑む。


「だいぶん深い話をするけど・・・・・・本当に大丈夫?」


「それがお泊りの醍醐味じゃない。

 ・・・今までお互いに、そこまで自分の事話さなかったでしょ?

 その妙な線引きが、私にはちょっと悲しかったの。

 ・・・・・・晴とは、見せかけで繋がりたくなかったし。」


その言葉に、晴は目を見開いた。


「それじゃあ、また後でね!」


小さく手を振って、足に羽根がついたように

莉香は軽やかにオフィスを去っていく。

その後を追うように、ちょこちょこと

女の子は付いていった。


それを見送り、晴は気持ちが軽くなった気がした。


―・・・莉香、そんな風に思っていたんだ。


本当に意外だった。


冷静で、いつも自分を支えるように

声を掛けてくれる同僚の女性。

頼りない自分の事なんて、

仕事内だけの関係でしかないだろうと思っていた。


そう、思い込んでいた。


嬉しそうな彼女の笑顔。

その心に、偽りは感じない。


莉香の本音を知る事が出来て、

晴は心の底から救われたのだった。




会社から帰宅するその時間。


視界不良になるくらい、雨が土砂降りだった。


小間に、激しく打ち付ける雨粒の音。


折りたたみ傘のハンドルを

すがるように持ち、足早に歩いていく。


歩く度に、溜まった水が足に飛び跳ねたが、

気にしなかった。


早く家に帰りたい。

今、その気持ちが強かった。



今朝、例の女子学生がいた場所に差し掛かる。

晴は、彼女がしゃがみ込んで寄りかかっていた

電信柱の傍で足を止めた。


朝と違うのは、彼女の姿がない事。


大きく深呼吸した後、

ハンドルを持つ両手を胸元で合わせた。


慰霊の祈りを込め、ゆっくりまぶたを下ろす。



その時間だけ、雨音はレクイエムのようだった。




昨日と同様、晴は帰り着くと

玄関のドアに背を預け、拍動を整えるように深呼吸をする。


落ち着いてきた頃に、彼女は言葉を紡いだ。


「・・・・・・朋也さん。どういう事か説明してくれる?」


それに応えるように、朋也は姿を現す。

呼ばれた彼は、

晴に対面するように立っていた。


『俺にも詳しく分からない。

 自分以外の“意念”を持つ幽霊に会うのは、

 初めてだからな・・・・・・』


今朝出会った女子学生と、

莉香の傍にいた女の子を思い浮かべる。


「莉香に憑いているあの子は・・・・・・何ていうか・・・

 生きているというか。温かい感じがした。」


―・・・朋也さんのように。


『・・・とにかく、話をしてみる事だ。』


「・・・・・・」


『・・・・・・どうした?

 何か言いたそうな顔をしているが。』


彼女はまだ、触れられた事を許していない。


「今度から、半径1m以内に近づかないでください。」


その言葉に対し、彼は笑みを浮かべる。


『君が危険な時は、聞き入れられない。』


「私が危険になる前に、防いでください。

 ・・・・・・別の方法で。」


彼は、笑みを絶やさない。


『やむを得ない時は、これから必ずある。』


「やむを得ない時でも。」


『・・・努力しよう。』


「私にとっては、一大事なんです。」


―心臓が、あんなに騒ぐなんて。



彼の眼差しは、とても優しい。


『安心してくれ。・・・今この空間では、

 触れることが難しい。』


「・・・・・・」


『本当だ。』


「・・・・・・信じられない。」


『・・・試してみるか?』



その一言で、晴は止まる。

そして、一気に顔を真っ赤に染めた。


「・・・・・・結構です。」


現に彼の言う事が本当で、触れられないと分かっても。

その試そうとする行動が、彼女にとって一大事だった。


目を逸らし、俯く彼女を

彼は限りなく優しく見守る。


『ありがとう。』



「・・・え?」


お礼を言われた意味が分からなかった。


『君は俺の事を、最初から

 生きている人間として見てくれている。

 それが、嬉しい。』


「・・・・・・」


『だから、君には感謝している。』



この人の事を、

ほんの少しだけ知ることが出来た

昨日の夜。


―そうだ。

 この人は・・・・・・もう。



「・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」


『ふはは。何を謝っている?

 俺は感謝しているって言ったのだが。』



―・・・人の温かさに、触れる事が出来ないんだ。


晴は、背けていた目を朋也に向けた。

その瞳に、小さな、小さな光が灯っている。


「・・・・・・今度から・・・・・・

 私が危険な時は、助けてください。

 その代わり、あなたのやろうとしている事・・・・・・

 私はこれからも協力します。全力で。」


―忘れないでおこう。

 昨日の夜の事。


 これからも。



その小さな明かりを、朋也は見つめる。

それに応えるように頷き、彼は彼女に言霊を届けた。



『その言葉、必ず実行する。

 君がこれからも、真っ直ぐ歩いていけるように。』



とても、強い言葉だった。


心をまるごと包み込むような、優しさも兼ね備えて。



晴は、自然に微笑んでいた。

安心からなのか、

彼の微笑みにつられたのか分からない。


「・・・はい。お願いします。」


『君はもっと、自信を持つべきだ。』


朋也は、揺るがない強さで言葉を紡ぐ。


『誰にも負けない、芯の強さと優しさがある。

 自分に、もっと素直になるべきだ。

 君が今、求めている事にも。』


意味深な響きだった。

晴はそれに、首を傾げる。


「・・・求めている事?」


『心から今、実現したい事に。』


ますます首を傾げる。


「・・・・・・どういう事?」


『・・・自覚していないな。

 これは俺から言う事じゃない。

 君自身が気づかないと意味がない。』


「・・・・・・?」


―彼は、何の事を言っているのだろう?


考え込む晴に、

朋也は、現実に戻る言葉を掛ける。


『・・・呑気に話していていいのか?

 掃除するのだろう?』


晴は何かに気づいて慌てた。


「どうしようっ!」


『ん?』


「買い物するの忘れた!

 冷蔵庫に何もないやん・・・・・・」


―うどん麺しか入ってない・・・・・・


 お買い物・・・これから行くのも・・・・・・


 ・・・・・・


 ・・・・・・莉香に頼むしかないか・・・・・・


申し訳なく思いながら、

ショルダーバッグの中にあるスマホを取り出す。

すると、莉香からメールが来ていた。



“雨土砂降りだし、家に居てね!

 食べ物飲み物はまかせなさい!

 期待して待ってて♪♪♪

 今夜は飲み明かすぞ~!ヽ(^o^)丿”



こんなハイなメールを、

今まで彼女から受け取った事がない。


思わず笑顔になり、晴は返事をする。



“ありがとう!助かる~!

 冷蔵庫何も入ってないの忘れてて・・・・・・

 買い物どうしようか困ってた(*_*;”



すると、すぐに莉香から返事がきた。



“冷蔵庫いっぱいにしてやる!( *´艸`)”



噴き出して笑う晴を見て、朋也は首を傾げて尋ねた。


『・・・買い物大丈夫なのか?』


晴は笑みを浮かべ、スマホを操作しながら答える。


「うん。莉香が買ってきてくれるみたい。」


楽しそうな彼女の様子に、彼も笑顔になった。


『・・・良かったな。』


―こうしちゃいられない。


「朋也さん!今から掃除するので、席を外して。」


『・・・別に俺がいるの、気にする事ないと思うが。』


「気にします!」


『・・・はいはい。』


渋々、朋也は姿を消す。


晴はショルダーバッグを所定の棚に置き、

洗面台で手を洗う。

その後、髪を後方で一つ結びにした。


部屋の掃除は毎日軽く済ませているが、

念入りにするのは休日の時間である。


彼女は張り切っていた。


同僚であり、支えてくれる大切な人が、

自分の部屋に来る。


こんなにわくわくするのは、久しぶりだった。




部屋の掃除を始めて、約一時間。

晴は掃除を終えて、部屋着に着替える。

藤色のゆるふわパーカーに白のショートパンツ。

一目惚れして購入したものだった。


掃除の際に、ベッドに置いていた

向日葵の座布団を手に取り、テーブルの傍にそっと置く。


―・・・これ、もう朋也さんの座布団に

 しちゃったなぁ・・・・・・


 私のクッションを莉香に使ってもらおうかな。


藤色のクッションを、向日葵の座布団の左側に置く。


『俺は別に立っていてもいいぞ。』


見計らったかのように、朋也が姿を現す。

それに、晴はびくっとした。


「・・・呼んでいないのに、急に現れないでよ。」


『勝手だな。』


彼は、ローベッドに腰を下ろしていた。


「ねぇ・・・もしかしてさ、

 莉香も幽霊が見えていたりするかな?

 あの子も朋也さんと同じなんでしょ?」


その質問に、朋也は小さく唸る。


『どうかな・・・・・・俺から見て、

 彼女は“俺たち”が見えていないように思えたが。』


「そうなの?」


『ああ。あの女の子の“意念”は、別にあると思う。』



ピーンポーン。



家のインターホンが鳴った。

晴は玄関のドアに歩いていき、覗き穴を窺う。


莉香だ。


すぐさま玄関のドアを開ける。



「晴~!」


しかし開けた先に顔を出したのは、莉香ではなかった。

それを見て、晴は目を大きく見開いて微笑む。


「“想ちゃん”だ~!可愛い~!」


全長60㎝程の、うさぎのぬいぐるみ。

オレンジ色とそのフォルムを見て、

晴は懐かしさと愛おしさが込み上げる。


そのぬいぐるみの後ろから、莉香が笑顔で顔を出す。


「うふふ。連れてきちゃった。

 ちょっと引かれるかもって思ったけど・・・・・・」


「そんなことない!私も“想ちゃん”大好き!」


“想ちゃん”とは、

桜の想いを心に秘めた、うさぎの女の子。

どんな困難も華麗に回避して平和を導く、

国民的キャラクタ―である。

絵本、アニメ、映画、グッズ・・・・・・

皆に幅広く愛されている。


晴が小さい頃、

この“想ちゃん”のぬいぐるみと一緒に過ごしていた。

当時お世話になったそのぬいぐるみは、

従姉妹の子どもたちの元でまだ活躍している。



晴の反応に、莉香は

ほっとした様子だった。


「実はこの子、いつも持ち歩いていてね。

 オフィスには流石に持っていけないから、

 普段車に乗せているの・・・・・・

 これは誰にも言えない私の秘密!

 晴に抱っこしてもらえると嬉しいなぁ。」


とても恥ずかしそうに、申し出る莉香。


自分の中の、今までの莉香像が崩れていく。

でも、不思議にそれはがっかりしなかった。

むしろ、意外過ぎて好感が持てる。


「・・・私が抱っこしていいの?」


「勿論!」


莉香は満面の笑みで、

“想ちゃん”を晴の目の前に差し出す。


小さい頃

慣れ親しんだ彼女との、ご対面。


うちの子とは違う子だけど、とても可愛い。

晴は微笑まずにはいられなかった。


両手で、そっと受け取り、ぎゅっとする。



ふんわり。



莉香がいつも手入れしているのだろう。

とても心地よかった。


ふと、足元に気配を感じる。

晴はそれに目を向けた。


オフィスで莉香の傍にいた、

例の女の子が自分を見上げている。


目が合うと、その女の子は

にこっと、笑った。


向日葵のような、とても可愛い笑顔。

晴の心に、温かい風が吹き込む。


その風が、気づかせた。


この“想ちゃん”は、この子のものだと。



「・・・ありがとう。」


「こちらこそ!」


晴は大事に“想ちゃん”を莉香に返す。


「土砂降りの中、来てくれて本当にありがとう。

 どうぞ入って。」


「お邪魔しまーす!」


莉香は、右手に“想ちゃん”、

左肩に提げた大きなエコバッグ、

花柄のリュックを背負っていた。


大荷物を抱える彼女は、笑いながら言う。


「少し迷っちゃった。結構入り組んでいる所にあるのね。」


「良かった、無事に来てくれて。」


莉香はスニーカーを脱ぎ、部屋に上がる。

ゆったりした白のカットソーに、

深い紺色のガウチョパンツ。

普段、オフィスでの姿しか見ていなかったので、

とても新鮮だった。


「見てみて~!たくさん買ってきたよ~!」


彼女は肩に提げている

大きなエコバッグを晴に見せるように、

身体を捻る。


「・・・え?!これ全部?!一体どれだけ買ってきたの?」


「いろいろ~!

 ほとんどお酒とおつまみだけどね。

 スイーツとお菓子も選び放題!」


その大量の収穫物を目の当たりにして、

晴は急にお腹が空いていることに気がついた。

昨日から、ろくに食べていないのもあって

とても嬉しくなった。


「やだ。楽しくなってきた。」


「そうでしょ?

 ・・・・・・わーっ!可愛いお部屋!

 イメージ通りかも~。」


莉香は、エコバックとリュック、

“想ちゃん”をテーブルの傍に置き、部屋内を見回す。

女の子も、莉香と同じように見渡している。


「これ、いいね!」


おもちゃのピアノを見つけ、

楽しそうに小さな鍵盤を人差し指で弾く莉香に、

晴は笑顔で応える。


「初給料で衝動買い。」


「ピアノ好きなんだ?」


「うん。小さい頃からピアノ教室でずっと習っていたんだけど、

 高校卒業したと同時にやめちゃった。

 それからずっと、趣味で弾いているの。」


「えっ、ほんとに?!」


莉香は新事実に、とても驚いている。


「すごいじゃん!」


「そんなことないよ。」


「素人からしたら、弾けるだけで格好いい!

 聴いてみたいなぁ。」


「・・・・・・そういえば、東京に来てから

 全然ピアノに触ってないなぁ。

 そんな環境もないし。

 ちょっと寂しいけど・・・・・・」


「それがね・・・・・・」


意味ありげに笑って、莉香は言う。


「私の叔父さんがカフェバーやっていてね。

 そこにグランドピアノがあるの。

 ねぇ。今度披露してよ!」


その言葉に、晴は驚く。


「えっ?お店にピアノがあるの?」


「うん。今は事情があって、

 奏者の人は雇ってないんだけど・・・・・・

 弾いてもらえると嬉しいかも。叔父さんも喜ぶと思うし。

 調律とかはしてるって言ってたよ。

 ・・・実は私、毎日のようにそこのお店通っているんだ。

 ピアノを眺めながらお酒飲んでる。」


「・・・・・・」


―・・・・・・ピアノが弾ける?

 しかも、グランドピアノで。


願ってもない申し出に、晴は浮き立つ。


「ね?今度お店に行こう!」


「・・・・・・うん。」


「やった!楽しみが増えた!」



女の子は部屋をきょろきょろしながら歩いていると、

ローベッドに腰を下ろしている朋也に気づく。

その彼と目が合い、固まった。


朋也は、ぽんぽん、と

自分の隣側を叩く。


その意味を感じ取り、彼女は糸に巻かれるように

彼の隣にちょこんと座った。


朋也の視線に、女の子は目をちらちらとしか合わせない。


彼の大きな手が、彼女の小さな頭に置かれる。

それは軽く、優しく触れた。

女の子は逃げずに、じっとしている。


『・・・俺は“片桐朋也”。君は?』


彼の問いに、女の子は少し躊躇ったが

小さく言葉を紡いだ。


『・・・・・・“そねき りほ”。』


それを聞き、朋也は女の子の頭に置いていた手を下げる。


『・・・君は、彼女の身内か。』


女の子は小さく頷いた。


『・・・“りか”は、わたしの、いもうと。』


『・・・・・・なるほど。』



彼はそれ以上、聞かなかった。

楽しそうに話している晴と莉香に、目を向ける。



「エコバッグの中身見てもいい?」


「どうぞ~。」


晴は空腹で堪らず、

たっぷり入ったエコバッグに向かう。


「莉香、そのクッションの上に座っていいからね。」


「ありがと。・・・え?晴は?」


「私はいいよ。」


「この座布団に座らないの?」


向日葵の座布団に座らない晴に、

莉香は首を傾げて尋ねる。


晴はローベッドに目を向けると、

並んで座っている朋也と女の子に、目を見開いた。

訳が分からず朋也に視線を送ると、

彼は口を開く。


『・・・ぬいぐるみを座らせたらどうだ?』


女の子はその意見に、笑顔で頷く。



「えーっと・・・・・・そう!

 これは“想ちゃん”用で!」


「マジで?この子の為に?晴、ちょ~優しい~!」


莉香は嬉しそうに、“想ちゃん”を

向日葵の座布団にお座りさせた。


晴は“彼ら”の雰囲気を不思議に思ったが、視線を外して

莉香とエコバッグの中身を確認していく。


「ビールでしょ~。梅酒でしょ~。んで~、スイーツでしょ~。」


「わっ。これ食べてみたかったやつだ!」


「この前話してたイチゴやつ~。忘れずに買ってきたよ。」


「うれしい~!」


「んで~、ワインに~、チューハイに~・・・」


「お酒多い!」


「言ったじゃん。今夜は飲み明かす!」


「こんなに飲めないよぉ・・・・・・」


「いいの。私が飲むの。

 晴はマイペースでいいから。」


「・・・相変わらずお酒強いね。」


「飲んでも酔わないんだもん。

 今夜は安心して酔っぱらえそうだから楽しみ~!

 ・・・グラスある?とりあえず乾杯のビールからね。」


テーブルは、そんなに大きくない。

エコバッグの中身を全部乗せようとする莉香を、

晴は慌てて止めた。


「ちょっと待って莉香!

 要冷蔵のやつだけ出して。冷蔵庫に入れておくから。」


「うふふ。入るかな~?ほぼ要冷蔵だよ~。」


「・・・本当に、たくさん買ってきたね。」


「楽しまないと~!」


莉香がしきりに笑って、

エコバッグから次々と取り出して

テーブルに置いていく物を、

晴は笑いながら冷蔵庫に持っていく。


その光景を、朋也は苦笑して呆れ気味に眺めていた。


『・・・・・・もう、ほぼ酒宴だな。』


女の子は、その呟きに応えるように微笑んだ。



女子会が、始まる。











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― 新着の感想 ―
[良い点] 突然の!!意念を持たない子との邂逅ーーー!!ฅ(º ロ º ฅ)✨️ そりゃ、そりゃ晴ちゃん怖いですよ。そんな急にびっくりあわあわですよ!! 晴ちゃん、よくがんばりました。とってもがんばり…
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