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Invisible Notation  作者: 伝記 かんな
12/12

*Notation 12* 藤波 晴

黒い風が仕掛けた“記憶の檻”。

捕らわれた明也を救うために、晴は

禁忌とされる“心理の記憶”を辿っていく。



最終話です。





                 12




彼女が姿を消してから、

どのくらい時間が経っただろうか。


晴が気を失って倒れた場所を、学は

白い床に腰を下ろして

じっと見据えていた。

黒石目塗の鞘に納まった刀を、

立てるように左手で持っている。


彼の背後には、和装の紳士が

同じく状況を見守っていた。


見据えて微動もしない二人の後ろ姿を、

病室の白いベッドの上にいる樹は

何も言わずに窺っている。



「・・・・・・なぁ、爺さん。」


均衡を破るように、学は尋ねた。


「大丈夫なのか?」


―長い時間、このままだけど。


そう余韻を残す問い掛けに、

和装の紳士は荒げることなく告げる。


『大事ない。』


「現実の俺たちも、ヤバくねぇか?」


『当代が動いておる。心配無用じゃ。』


「・・・・・・“管理人”って、何者?」


『・・・・・・一存では語れぬ。』


「爺さんが初代なんだろ?」


『・・・・・・』


「俺のばぁちゃんは、

その“管理人”の元で動いているんだろ?

 その、“グループ”みたいなのって」


『すまぬ。お前と儂の仲でも、

 それを口にすることは禁忌じゃ。』


「・・・・・・爺さんが名前を語れないのも、

 それが関係してるとか?」


『・・・・・・勘繰るな。』


「俺も“その一員”になったら、話してくれるのか?」


『学。』


「もう俺、立派な一員だよな。

 爺さんの刀使ってるし。

・・・・・・ずっと言えずにいたけど、

俺も“一員”になりたい。」



その言葉に、和装の紳士は

学に目を向ける。


『お前には感謝しておる。

 ・・・・・・これ以上、踏み込むな。』


白い床に視線を向けたまま、

彼は言葉を吐き出す。


「・・・・・・何なんだよ、一体。

これ以上、他人事のままじゃ

いられなくなったんだよ。

 片桐兄さんも、ばぁちゃんも、

 じいちゃんも・・・・・・

知らない所で命懸けて動いてる。

 そんなの知ったら、俺は・・・・・・」


『・・・・・・』


「俺は、役に立てないか?」


『・・・・・・お前は、優しすぎるのじゃ。』


そう告げられた声音は、

諭すような響きを含んでいた。


『その優しさは、命を落とす原因になる。

 ・・・・・・今まで通りでいいのじゃ。

 大切にするべきものを

見失うな、学。お前には、

お前にしかできない事がある。』


「・・・・・・」


学は黙り込む。


再び沈黙の時間が訪れようとする中、

後ろから声が掛かる。


「・・・あ、あの・・・・・・」


その控えめな呼び掛けに、二人は振り返った。


「晴さんと明也さんは・・・・・・

 大丈夫なんですか?」


そう尋ねる彼は、とても不安げだ。

落ち着かせるように、

学は笑みを浮かべて応える。


「大丈夫・・・とは

完全に言い切れないけど、

 問題ないっす。

もう少しの辛抱っすよ。」


「え?あ、えっと・・・・・・

敬語やなくてええですよ。」


「そうっすか?ならお言葉に甘えて・・・・・・

 ごめん、樹くん。

俺と爺さんだけど、もうちょっと

ここにいさせてくれ。

大事な役目があるんだ。」


「は、はい。それは構いません。

いてくれるだけで、何ていうか・・・・・・

安心しますし、嬉しいです!」


「ははっ。いい笑顔。

俺も嬉しくなっちゃうな~。」


「えへへ。僕もです。

・・・・・・えっと、聞いてもええですか?」


「どーぞ。」


「僕の名前は、ご存知の通りですけど・・・・・・

お兄さんのお名前は何ですか?」


「・・・ああ!そうだった!

自己紹介、後回しにしてたんだっけ。

佐川 学。

“さがわ”って書いて、“させん”ね。」


「珍しいお名前ですね!

 学さんって呼んでもええです?」


「うぇるかむ。」


「学さんって、何してる人ですか?」


「大学生だよ。・・・って言っても

4年生だから、もう卒業するけどさ。」


「そうですかぁ。大学生さんかぁ・・・・・・

憧れだなぁ・・・・・・」


「樹くんって、

写真撮るのが好きなんだよな?」


「はい!

兄ちゃんからカメラもらったのが

きっかけで、撮るのが趣味になってます!

 たくさん撮ったフィルムを、

是非後で見てもらいたいです!」


「へぇ~。是非見たい。

 ・・・・・・兄ちゃんって、何歳?」


「20です。・・・・・・ほんまなら、

 兄ちゃんもまともに

進学したかったやろうけど・・・・・・

 僕の為に、朝晩働いています。」


そう言った後、樹は目を伏せた。

表情の陰りを把握しつつ、学は尋ねる。


「・・・・・・兄ちゃんって、どんな人?」


「明るくて元気で、

いつも僕を励ましてくれる

ええ兄ちゃんです。

落ち込むとこなんて、

今まで見たことありません。

・・・・・・僕の前では、

なのかもしれへんけど・・・・・・

僕のせいで、好きなことも

できひんから・・・・・・ほんまは、

きっと、苦しいはずなんです・・・・・・」


「・・・・・・」


「正直、僕がいなくなればええって

・・・・・・何度も思いました。」


「じゃあ良くならないと、な。」


「・・・・・・?」


「良くなることだけを考えよう。

 気持ちだけは、しっかり

元気でいられるようにするんだ。」


「・・・・・・」


「いなくなればなんて考えるよりも、

 いなくなったら悲しむ人の事を、

大切に思うべきだ。

 好きなこと、楽しいこと、

喜ぶこと、何でもいい。

 笑顔になれることをする。

 ・・・・・・生きる様だったり、事情なり、

 人それぞれあるけど・・・・・・

 今在ることに意味があると思う。

 会って間もない俺だって、

 樹くんがいなくなるとか考えたくないし、

 すげぇ悲しい。

 だったら、樹くんの兄ちゃんは

 俺の何倍も何十倍も悲しいはずだ。」


「・・・・・・」


「樹くんの笑顔、最高だし。

 俺は会えて良かったよ。

 今日お見舞いに来れてよかった。

 逆に俺の方が元気もらってる。

 ・・・・・・ほら、こんなもんだって。

 なぁ、爺さん。そうだろ?」



まるで自分に言い聞かせるような

学の意見に、和装の紳士は

ふぉ、ふぉ、と笑う。


『よう言った。

 ・・・・・・その通りじゃ、少年。

 お主のお陰で、最善の状態に繋げられておる。

 感謝してもしつくせぬ。』


「・・・・・・そ、そうですか?」


「ああ。そうだよ。」


「・・・えへへ。」


ぱぁ、と表情を明るくして、樹は微笑む。

その屈託ない笑顔を見て、

学も顔を綻ばせた。


「・・・あっ、そうだ。

 先に言っておくけど、現実の俺は

 こんな風に目を合わせて話せないんだ。

 言葉では説明しづらいけど・・・・・・

 特殊な見え方するんだ。

 困るくらいに。」


「そうなんですね!了解しました!

 今の学さんが、

 ほんまもんってことですよね?

 かっこええなぁ~。」


「え?か、かっこいい?どして?

 ・・・・・・ま、まぁそんなとこかな。

 ははっ。樹くんは心広いな~。」


「晴さんもかっこええですよね!

 お二人ともすごいなぁ~!」


「・・・な、何か勘違いしてないかな・・・・・・

 ま、いっか。」



少年と青年は、互いに笑い合う。

その光景を、孫を見るような眼差しで

和装の紳士は温かく見守っていた。




                  *




私の真ん中には、真っ黒い海があった。


満たされていると感じていても、

その闇に飲み込まれ、空っぽになる。



そうか。私は自分が嫌いなんだ。


それに気づいて、

生きることが苦しくなった。


消えてしまいたい。

そう思うようになった。



死と向かい合った時、

その海の中から誰かが叫んだ。



―“だめ!まだ、あの人に会ってない!”



あの人?

あなたは誰?


―“死んだらだめ。あの人をかなしませないで。”


・・・・・・

私がいなくなっても、

この世界は変わらないよ。


―“ちがうの。せかいをつくるの。”


・・・・・・世界を、作る?


―“あなたはせかいにひとりだけ。

  あなたのつくるせかいは、

  ひとつだけ。”


・・・・・・


―“せかいに、あなたの色をつけるの。

  あなたの色を、

  すきになってくれる人がいる。”


・・・・・・私の、色?


―“そう。あなただけの色。

  あの人が、あなたを見つけてくれるから。”



不思議な声だった。


懐かしい。

そう感じた瞬間、涙が溢れた。


この涙は何だろう。

分からないけど・・・・・・

もう少しだけ、生きてみようか。


そう思ったら、

急にお母さんの声が聞きたくなって

電話していた。



今思えば、その声は“私”だったんだ。


私が生まれる前の、“私”。


この黒い海は、“私”がいた世界だ。


とても苦しくて、悲しくて、

寂しかった。

ずっとお腹が空いていて。

見えているものが全部、

“私”に背中を向けているみたいだった。

息ができる場所なんて、

どこにもなかった。

誰にも助けを求められなくて。

自分の事で、迷惑をかけないように。


ずっと我慢して、閉じこもって、

ふと気づいたら・・・・・・

“私”は幽霊になっていた。

そして、あの怖い人に捕まった。


ずっと暗くて、

ずっと寂しい世界だった。



“私”のような子どもたちは、

たくさんいた。

苦しくて、悲しい思いをしている

みんなを、助けたいと

思うようになった。

気づけば、願っていた。


・・・・・・今なら分かる。

“私”は、自分を助けたかったんだ。


黒い海の中から上がりたくて、

温かい毛布を手にしたくて。

温まって、お腹を満たしたくて。

“私”を包んでくれる所に行きたくて。


そんな“私を”、黒い海から

引き上げてくれた人がいる。


“私”の願いを、ともにしてくれる人。


“私”が会いたいと願っていた、

その人は・・・・・・・



あなただった。

明也。


・・・・・・明也。


ありがとう。

あなたに出逢えて、“私”は救われた。

“私”を、

真っ直ぐ見つめてくれた人。

温かく包んでくれた人。

何もかも手放しで、

“私”の存在を認めてくれた人。



「明也・・・・・・」


好き。大好き。


「明也。」


応えて。


「・・・・・・“私”ね、

 あの時言えなかったんだけど・・・・・・

 大人になってから、

 あなたに会おうと思ったのよ。

 だって・・・・・・

 子どもだったら、

 お嫁さんになれないと思ったから。」


あなたの隣にいても、

おかしくないように。


「だから、会うのが

 遅くなっちゃったのかな・・・・・・

 随分待たせてごめんなさい。」


・・・・・・


お願い。


明也。明也。

何回呼んでも、足りない。


どれだけあなたを好きなのか、分かる?

止まらないの。



「大好きよ、明也。お願い。

 抱きしめて。」




                  *




“彼女”は、真っ白な世界にいた。

“彼女”以外、何も見当たらない

白い世界。


その中で立ち尽くし、涙を流し、

彼の拳銃を両手で覆うように持ち、

ひたすら彼の名前を呼んでいた。


彼と繋がる唯一のそれは、

自分と出逢うきっかけになったもの。

語り掛けるように

彼の名前を連呼し、懇願し、

彼の存在を求める。


そんな時間が、

どれだけ経ったのかも分からない。



その中、ようやく変化が訪れる。

空間に漣が起こったのだ。


本当に僅かだったが、“彼女”は

それに気づいてすぐに顔を上げる。


「明也!」


迷わず呼び掛ける。

それに呼応し、再び漣が広がった。


すぅ、と一筋の風が吹き込む。

それは、“彼女”に注がれた。


紛れもない、愛しい彼の気配。


「明也・・・!」


嬉しさのあまり呼び掛けると、

彼は姿を現した。


彼の目は“彼女”を捉えたが、虚ろで

まだ“彼女”の存在を

認識していない様子だった。


「明也っ。」


正気を取り戻させるように、

今度はしっかり彼の名前を呼ぶ。


彼は、おもむろに右手を上げた。

状況を把握したいのか、

“彼女”の方にその手を伸ばす。


“彼女”は両手に持っていた拳銃を

空間にそっと委ね、彼の懐へ駆け寄った。


在ることを確かめるように、互いに腕を回す。


彼の温かさが包み、自然に顔が綻んだ。


“彼女の歓喜を受けて、

彼の瞳に光が灯る。



『・・・・・・晴・・・・・・』


紡いで、彼は笑みを浮かべた。


「明也・・・・・・」


会いたくて堪らなかった気持ちを

その名前に乗せ、“彼女”は微笑む。



しばらくの間、互いの温かさに浸った。

隅々まで、互いを満たすように。


白い世界に、

二人の存在だけが生きていた。



『・・・・・・ありがとう。』


感謝の言葉を紡ぐ彼の腕に、力が籠る。

力強く抱擁された“彼女”は、

涙を溜めて小さく首を振る。


「お礼を言うのは“私”の方だよ・・・・・・

 ありがとう・・・・・・・明也・・・・・・」


―ずっと、会いたかったよ。


その心の囁きは、もれなく彼に届く。


“彼女”の身体をゆっくり離すと、彼は

至近距離で“彼女”の顔を覗き込む。

降り注ぐ情念が零れないように、

“彼女”は笑顔で受け止めた。


彼の瞳には、温かい光が浮かんでいる。

向けられる情念は、とても深い。


脆い刹那が、愛おしい。


真っ直ぐ自分に向けられる

眼差しも、声も、

彼から紡がれるものは、全部尊い。


互いに、微笑み合う。

再び、二人は重なった。


今度は、互いの存在を愛しむように。





                  *




どこに消えた?

確かに檻へ入れたはずなのだが・・・・・・


あの娘の元へ、戻ったのか?


・・・・・・それならば、

少々見誤っていたか。


共鳴など、

自殺行為だと認識していたが・・・・・・


それ程までに互いを尊重し、求め合うのか。


私には理解できんな。


どうする気だ?

私を消すのか?


あの拳銃。

研究の一部を持ち去った者の仕業だな。


・・・・・・面白い。


持つ者が違えば、

こうも変わるものなのか。

新たな発見だ。

今後の参考にさせてもらおう。


見せてもらおうか。

君たちが、私をどうする気なのかを。


・・・・・・君たちの存在は興味深い。





                  *





“彼女”は、白い空間に委ねた拳銃を

再び両手に持ち、

それに視線を落としている。

彼は、それを見守るように

背後に寄り添っていた。


語り掛けるように、言葉を紡ぐ。


『この拳銃の銃身となる素材が、

 佐倉井の研究に繋がる。

 “ある施設”の第一人者が苦難の際、

 持ち出せた唯一のものだ。

 君の目になっていたものも、

 同じ素材で出来ている。

 意念体と実物の融合を可能にする

 この素材の有無は、

 佐倉井のみが知るところだ。』


優しく響く声音は、とても心地好い。

伝わる彼の温かさで

“彼女”は落ち着きを取り戻し、

彼の胸板に背中を預けている。


『“奴”の姿を目の当たりにした時、

 言い様のない違和感を覚えた。

 当時のままの姿だった事だ。

 本来なら年老いた姿のはず。

 そのせいで“君”は、恐怖を感じたと思う。

 恐らく“奴”は、“君”が当時の記憶を

 辿れるようにしていたのだろう。

 ・・・・・・“奴”の異様な“力”は、

 この素材と関係あるのではないかと

 俺にこれを託した彼も同様、考えている。

 ・・・・・・見解は難しい。

 俺たちが認識している“奴”の姿も、

 定かではないような気がしている。』


「・・・・・・」


“彼女”は、とある疑問を口にする。


「今まで作ってきた試作の弾って、

 あの怖い人の“風”を

 消すためのものだったのよね?」


『ああ。それが、“奴”の身動きを封じる事に

 繋がると考えていた。

 ・・・・・・だが、その考えは

 改めるべきだと感じている。』


同意するように、“彼女”は頷いた。


「・・・・・・うん。それは賛成かも。」


『消すのではなく、

 “黒い風”の身動きを封じる。

 俺たちを近くで見守っている御仁も、

 それに同意しているようだ。

 “黒い風”を制圧する。

 後はそれに伴い、“管理人”が

 現実での“奴”本体の追跡に繋げる。』


「・・・・・・じゃあ、

 銃弾に籠めるものって?」


『・・・・・・“君”の声だ。』


「“私”の、声・・・・・・?」


『この拳銃は、

 意念体の振動数を飛躍的に促す。

 ・・・・・・素材の性質なのだろう。

 “管理人”は“君”の“声”を聞いた時、

 その強さは“黒い風”の振動数を

 制圧できると考えた。』


―“私”の“声”に、そんな力があるの?


『“君”の、心の強さだ。

 俺も、“君”に触れて分かった。

 理不尽な目に遭っていたのに、

“君”は誰も憎んでいなかった。

 反対に、人を救おうと願っていた。

 芯を通し、

 立ち向かう強さがある証拠だ。』


“彼女”は俯く。


「・・・・・・“私”は、ただ・・・・・・」


―みんなの幸せが、

 自分の幸せになると思っただけ。


口をつぐみ、心で紡いだ言葉は

もれなく彼に届く。


『“君”の強さは、それに繋がる。』


“彼女”の両肩に

自分の両手を添え、彼は囁いた。


『“君”の心は、全てを包み込む。

 何もかも・・・・・・優しく温かく。』


愛の言葉を掛けられているような

気がして、“彼女”は頬を赤らめて

鼓動を高める。


「・・・そ、そんなふうに

 思ってくれているなんて・・・・・・」


―ただ、あなたがとっても

 大好きなだけだよ。


『ふはは。』


筒抜けになる“彼女”の声を受け、彼は

背後からふわりと抱きしめる。


『好きになってもらえるなんて、

 実のところ思わなかった。』


―『俺の、どこが良かったのか

  分からないが・・・・・・』


“彼女”の元に、口にしなかった

彼の声が届く。

これは初めての事だった。


心が触れ合っているせいなのか。


“彼女”は、思わず微笑む。


「全部好き。」


『それは、すごいな。』


「明也は?」


―うふふ。思いきって、聞いちゃおう。


『・・・・・・言葉では、足りない。』


「?」


『ふはは。聞かない方がいい。』


はぐらかすのも、狂おしい。


「・・・・・・教えてほしいのに。」


答えが返ってこない事に、“彼女”は

少しだけしょんぼりする。


現状の“彼女”は、とても複雑だった。

今の自分と、前の“自分”が

絡み合っている。


「“潜入屋”って、心にも潜入できちゃうの?」


『・・・・・・さぁ、どうだろう。』


「生まれ変わった私が、

 明也を受け入れなかったら・・・・・・

 どうしてたの?」


『そうだな・・・・・・

 受け入れてもらうまで、

 説得していただろうな。』


「それでも、受け入れられなかったら?」


『・・・・・・ふはは。』


彼の笑う声が、とても近い。

くすぐったくて、どきどきする。


『その時は、

 消えるしかなかっただろうな。』


「・・・・・・」


『確かに“潜入屋”を語るには、何にでも

 潜入できなければならない。

 だが・・・・・・』


彼のウィスパーは、

“彼女”の為に紡がれていく。


『“君”なら分かると思っていた。

 それだけだ。』


「・・・・・・」


『たとえ“君”が、俺の事を忘れても。

 俺が、“君”を忘れていても。

 ・・・・・・願ったことに、嘘はない。』


「・・・・・・うん。」


『分かるだろう?』


「・・・・・・分かります・・・・・・」


『分かればいい。』



片頬に、彼の息が触れたような気がした。

いや、これは・・・・・・


「・・・・・・」


“彼女”は顔を紅潮させて、俯く。

そんな様子を、間近で

愛しげに眺める彼がいる。


『言葉では、とても足りない。』


「・・・・・・!

 えっ・・・と・・・・・・」


はぐらかした彼の言葉の意味が分かり、

鼓動を跳ね上げる。


『ふはは。

 ここから先、仲良くするのは・・・・・・

 “君”が眠ってからにしよう。』


“彼女”にとって、とても意味深だった。

彼女にとっては、

動悸が激しくなる事態だった。


「えっ・・・だって・・・その・・・・・・」


―現実的に、それは難しいのでは・・・・・・


『ふはは。真面目だな、君は。

 ただの戯れ言だから、聞き流してくれ。』


―・・・・・・た、ただの戯れ言には、

 聞こえませんでしたが・・・・・・


彼は小さく笑って、

包み込む力を強くする。


『・・・・・・これが終わったら、“君”はまた

 眠りにつかなければならない。』


「・・・・・・うん。」


―“私”は今、“藤波 晴”だから。


『俺もまた、“君”の事を忘れなければならない。』


「・・・・・・うん。」


―・・・・・・寂しいけど、大丈夫。

 “私”も、私も、

 あなたを同じくらい愛しているから。


『だが、この拳銃と“君”は繋がっている。

 そして、“藤波 晴”である君は、

 これからもずっと生きていく。』


「・・・・・・明也とともに。

 そうじゃなきゃ、やだ。」


―他の誰も、入れたくないの。

 忘れても、ずっと明也がいい。


『・・・・・・ありがとう。』


“彼女”の強い想いに、彼は微笑む。


『・・・・・・準備はいいか?』



合図のように掛けられた言葉に、

“彼女”は力強く頷いた。


『今の俺たちなら造作もない。

 “奴”を捕まえる鎖を錬成する。

 銃を放った後、学が御仁の名刀で

 “奴”の記憶の檻を破壊する。

 佐倉井の記憶から、俺たちを抹消するためだ。

 そうすれば、追跡は不可能になるし

“君”を護ることに繋がる。』


「・・・・・・佐川くんが?」


『姿は見えないが、待機している。』


彼は片腕で抱擁したまま、

もう一方の手を“彼女”の頭上に

そっと置く。


すると、片方の目が姿を変えた。


その変化を、“彼女”は受け入れる。


―とても嫌だった、

 不格好なレンズの目。


 でもこれは、“私”の証。

 ともに生きるための、繋ぐ架け橋。


 今となっては、大切な欠片だ。



『ゆっくり時間を掛けて、“管理人”が

“奴”を追い詰めていく。

 現実では、それに向けて整えている。

 ・・・・・・その手助けをする為に

 この拳銃を使って、

 これからも俺たちは変わらず

 過ごすことになる。』


―『願いを叶えるために。』


口にしなかった彼の言葉は、

温かくて優しくもあり、心強かった。


「・・・・・・また、

 いつもの日常に戻れるのね。」


『・・・・・・勿論。』


「うれしい・・・・・・」


彼と、一日を始められる。

その事が、

自分にとってどれだけ大きな幸せか。


「お家に帰ったら・・・・・・

 たくさん甘えていい?」


『ふはは。好きなだけ一緒にいよう。』


「忘れているだろうけど・・・・・・」


『忘れていても、変わらない。』



二人は顔を綻ばせた。


ともに、新たな一歩を踏み出すために。



世界は、相変わらず真っ白だった。

周りは何も見えない。何も映らない。


しかし、二人は見据える。


目を向ける所に、狙うべき標的がいる。


“彼女”は深く息を吸った。

自分の頭に置かれる

彼の大きな手は、とても熱い。


―彼の怒り。

 でもこれは、

 憎しみからくるものじゃない。


 護ろうとする想い。


 “私”のように、放り出された者を

 救いたいと願う心。


 それは、“私”も同じだ。



しっかりと、両手で拳銃を握り締める。

“彼女”の片目に光る

異形のレンズは、黒い風を捉えていた。


身体が熱い。

彼の熱が、自分の中で駆け巡っている。

この熱を受け止め、飲み込み、

強靭な鎖を紡いだ。


この生み出す感覚は、今までにない。


二人が紡いだ鎖は一点に集結し、

凝縮され、唯一無二の銃弾となる。

標的から目を逸らさずに、

それを“彼女”は手際よく装填した。


拳銃を構えると、再度

背後から支えるように彼の片腕が包む。

頭に添えられた大きな手は、

脈を打つように熱い。



見据える標的は、

笑っているように見えた。


自分たちを嘲笑うように。


だが、“彼女”は動じなかった。


―“私”の目に埋まる“これ”がある限り、

 この人との因縁は切れない。

 忘れたとしても。


 だけど。


 明也がいる。


 彼と一緒なら何も怖くない。



「・・・・・・彼と会わせてくれて

 ありがとう・・・・・・」



別れを告げる言葉ではなく。

感謝の言葉を残す“彼女”らしさに、

彼は笑みを浮かべた。


二人を包む風は、穏やかである。


“彼女”の白い指が、引き金に掛かる。



それが引かれた瞬間、

白い世界の均衡は崩れた。





                  *




晴の視界に入ってきたものは、

助手席の裏側だった。


車内の後部座席に

座っている事に気づき、周辺を見回す。

自分の隣側に座っていたのは、学である。

自分と同時に気づいたのか、

彼も状況把握をしようと見回している。



「お目覚めのようですね。」



優しい声音だった。

梔子の香りとともに届けられた方向へ、

二人は目を向ける。


運転席から紡いだその声の主は、

前方を見据えている。

二人の視点からは

その人物の表情を窺えなかったが、

ルームミラーに映る双眸は

穏やかで優しかった。


「私は“ことり”と申します。

今後、お見知りおきください。」


“ことり”と名乗った人物の、さらりと伸びた

綺麗な栗色の髪が目に入る。

柔らかい雰囲気に、晴は幾分和らいだ。


『・・・・・・もしかして、

“管理人”のグループの・・・・・・』


ぼそ、と呟いた学の視線は、誰とも合わない。

現実に戻ったのだと把握した為だ。


「はい。私は、

“管理人”の下で動く者です。」



車は、緩やかに動いている。

学と自分に挟まれた形で置かれた

ショルダーバッグと紙袋に気づき、

晴は“ことり”に尋ねる。


「あの・・・・・・

私たちはどうなったのですか?」


ハンドルを丁寧に切った後、

“ことり”は柔らかく言葉を紡ぐ。


「心配ありません。

 お二人が“世界”へ行かれてから、

 こちらでは数十分経っているだけです。

 お二人が事故に遭われないように、

 この車に保護致しました。

 病院の前で降ろしますので、

 もうしばらく

 ごゆるりとお待ちください。」



落ち着いた声音に諭され、二人は

ようやく胸を撫でおろす。


―・・・長いこと

 “彼らの世界”にいたのに・・・・・・

 数十分しか経っていないなんて。


そう思って、晴は首を傾げる。


―・・・・・・あれ?

 私・・・・・・なんで、

 “彼らの世界”に行ったんだっけ?

 それに・・・・・・えっ?

 何しに行ったんだっけ・・・・・・?

 ・・・・・・


そのきっかけもだが、内容も思い出せない。


動揺して学に視線を送ると、

彼は俯き加減のまま微動もしない。


「・・・・・・ねぇ、佐川くん。」


「・・・・・・」


「どうして私たち、

 “彼らの”世界“に行ったんだっけ?」



その答えを、学は勿論知っていた。

だがそれに関しては

触れないように、ぽつりと呟く。


「・・・・・・かくれんぼっすよ。」


「・・・・・・かくれんぼ?」


「・・・・・・俺たちを引き込んだ女の子が、

 遊びたいって言って。それに、

 付き合う必要があってっすね・・・・・・

 それで時間が掛かったんっす。」


―・・・・・・

 そうだっけ?


 あ。でも・・・・・・

 確かに、小学生くらいの女の子に

 会った気がする。


「・・・・・・片桐兄さんの隠れ方が

 ハンパなくって。プロでしたよ・・・・・・」



―・・・・・・明也も?



彼の名前を心の中で紡いだ途端、

とくん、と鼓動が波打つ。


名前を呟いただけで、

この気持ちは何だろう。


―・・・・・・明也に、会いたい。

 朝も会ったのに、もう会いたい。


 ・・・・・・



彼は、すぐ傍にいる。


それは感じるが、二人きりで会いたい。

彼の笑顔が見たい。


こんなに強く思うのは、なぜだろう。




二人を乗せた車は、

病院の乗降場に停車する。

車のドアを開けると、息苦しい程の

熱波と蝉の声が押し寄せてきた。


その実感が、二人を現実に引き戻す。


晴は、歩き出さずに

病院の正面玄関前で止まっていた。


何かを思い出そうとするが、思い出せない。


彼女が歩き出すのを待つように、

学は並んで立っている。


まもなく午前の外来時間が

終わるせいか、人の気配は少ない。



「・・・・・・行きましょう。」


ぼそ、と、促すように学の声が漏れる。


「・・・・・・うん。」


晴はそれに応えて、一歩踏み出した。




施設内に入ると、

吹き抜けのエントランスには

診察を待つ者や待ち合いの家族など、

まばらに見受けられた。


面会時間は15分と限られているが、

直に顔を合わせて話せることは

とても嬉しかった。


晴は事前に面会予約をしていたので、

受付で問い合わせると

すみやかに対応してくれた。


学とともに、樹がいる病室へ向かう。



病室のドアを軽くノックすると、

「はい!」と元気な声が返ってきた。


スライドさせて開け、晴は笑顔で伺う。


「こんにちは、樹くん!」


「わぁっ、晴さんやぁ!ほんまもんやぁ!」


ぱぁ、と明るい笑顔で晴を迎え、

樹はベッドから身体を起こす。


一か月前に比べると少し痩せたが、

顔色はとてもいい。

晴は樹の満面の笑顔につられて

嬉しそうに笑うと、

ゆっくり歩み寄りながら声を掛ける。


「顔色とてもいいみたい。

 会えてすごくうれしい!」


「僕もです!」


「・・・・・・あ。さっき、会ったかな?

 い、いや、そんなわけないよね・・・・・・」


「えへへ。僕は夢に見るまで

 この日を待ってましたよ~!」


「・・・うふふっ」


二人が笑い合うのを、後方に少し離れて

学は見守っている。

それに気づき、樹は目を向けた。


「学さん!」


初対面のはずの樹が、学の事を

知っているのに違和感を覚える。

晴は首を傾げて考えていると、学が

ぼそぼそと告げる。


「・・・・・・実は、樹くんも

 かくれんぼに参加したっす。」


「えっ?そうなの?」


「・・・・・・その時に、自己紹介しました。」


「・・・・・・そう・・・・・・」


「会えて、ほんま嬉しいなぁ。」


幸せそうに笑う樹と

視線を合わせないが、学は頬を緩める。



間で会った時間の事を、樹は憶えていた。

しかし経緯に至った理由は、

和装の紳士と相談して伏せている。

そして、間の事を秘密にするように

樹と口裏合わせしていた。



疑問に思いながらも、晴は気を取り直して

紙袋からプリザーブドフラワーの

ガラスドームを出す。


「これ、良かったらどうぞ。」


「うわぁ・・・・・・きれいやぁ・・・・・・

 えっ?僕に?」


「うん。もちろん。」


「嬉しいです!ありがとうございます!」


ガラスドームを受け取り、樹は

目を輝かせながら花たちを見つめる。

その様子に、晴は顔を綻ばせた。


「あっ、

 その椅子に座ってくださいね。」


事前に準備されていた二脚の丸椅子に

促され、晴と学はそれを動かして

樹のいるベッドの近くに座る。


「もうお昼ご飯の時間だよね・・・・・・

 ちょっと遅くなってごめんなさい。」


「構いません!」


「えっと・・・・・・」



“彼らの世界”で、樹が

晴と明也を撮ったフィルム。

その詳細も、晴の記憶の中から消えていた。

そして、樹もそれは同様である。



―何かを、見せてもらうはずなのよね・・・・・・


「?」


考え込む晴に、樹は首を傾げた。

どう言おうか学が悩んでいると、

助け舟のように声が掛かる。


『樹。そこにあるのは

 今まで撮ったフィルムか?』


その声にびっくりして、晴は振り向く。


「明也さん!」


晴の背後に現れた明也の姿を見て、

樹は、ぱぁっと表情を明るくさせた。


何か言いたそうに、

彼女は彼を見上げている。

それを受け、明也は晴に視線を落とす。


『どうした?』


「・・・・・・ねぇ、明也。何か忘れてない?」


『・・・・・・』


彼女の問い掛けに

彼はしばらく止まるが、

思い当たったのか口を開いた。


『・・・・・・忘れているとすれば、今朝

 君が体重計に乗ることだろう。』


「あっ。ちょっ。それっ。何でそれをっ。」


彼が席を外している所で行っていた

日課を、なぜ知っているのか

晴は慌てる。


『全然大丈夫だから、心配する必要はない。』


「ね、ねぇ、ちょっと。何で知ってるの?」


何かを思い出すよりも、

その事の方が気になって追及する。


『出会った当初の君は細すぎた。』


「明也。正直に答えて。見たのね?」


『今の方がいい。』


「明也。」


「あはは。」


二人のやり取りに、樹は笑っている。

学も、ほっとした様子で微笑む。


「ええですねぇ。仲良しですねぇ。」


「もう・・・・・・」


笑みを浮かべて

ずれた答えしか言わない明也に、

晴は観念気味で視線を送る。


「ほんまのところどうなんです?

 お二人の関係は?」


「え?そ、それは・・・・・・」


『好き合っている。』


「!」


「・・・・・・最上級っすね。」


「・・・・・・」


どう言葉を出していいのか分からず、

晴は顔を真っ赤にするしかなかった。

その様子を、樹は

にこにこしながら見守る。


「そうなんですねぇ。

 ええなぁ。うらやましいなぁ。」


「・・・・・・そ、そうだっ。樹くんは、

 いいなぁって思う人はいないの?」


「残念ながら~・・・・・・あっ。」



何かに気づき、樹は

ベッドテーブルに置いていた

フォトブックを手に取る。

開いて、ごそごそと

一枚のフィルムを取ると、それを

布団の下に隠した。


『明らかに怪しい行動だが。』


あからさまな樹の行動に、明也は笑う。


「な、なんでもあらしませんよ~。」


『晴。見せてもらうものは、

 そのフォトブックだ。』


少し慌て気味の樹に、晴も

ふふっ、と笑った。


「隠したフィルム、とても気になるなぁ。」


「し、失敗したやつなので、気になさらず~。

 はい、どうぞ~。」


分かりやすく動揺している樹に

和みながら、晴は手渡された

フォトブックを広げた。

明也と学は、彼女の膝上で広げられた

それを、覗き込むようにして観覧する。


『・・・・・・いい腕だ。』


「ほんと。素敵。」


「・・・・・・プロ級っすね。」


「えへへ・・・・・・嬉しいです・・・・・・」


三人に褒められて、樹は

照れながらも嬉しそうに笑う。


「これ、お兄さん?目元似てるね。」


「はいっ。」


『良く撮れている。』


「えへへ。僕もそう思います!」


和んだ雰囲気の中、晴は思いつく。


「ねぇ、樹くん。

 みんなの写真撮ってくれないかな?」


「あっ。それ是非お願いしようと

 思っとりました!」


『俺は映るだろうか。』


「・・・・・・写ったら、心霊写真っすね。」


明也と学の会話に彼女は苦笑するが、

二人とも乗り気な様子なので

嬉しい気持ちになった。


「樹くんが入った写真も

 撮りたいから、私のスマホで

 看護師さんにお願いして撮ってもらおう。

 後でみんなに送るからね。」


「はい!」


楽しそうに笑って返事をする樹を見て、

晴は嬉しそうに微笑んだ。




15分という限られた時間を、

噛みしめるように過ごす。


この時間は、二度と来ない。

同じような時間が訪れたとしても、

その日の状況は変わっている。


だから、今を大切に。


彼女は心に刻む。




病院を後にした晴と学の表情は、

とても穏やかだった。

真上にある太陽は照りつけるが、暑さも

押し寄せる蝉の声も、風情に思う。


日傘のシャフトを肩に預けて

手元を持ち、ハンドタオルで

首筋の汗を拭き取りながら

晴は歩道を歩いていく。


それに対し、学は流れる汗を気にせず

彼女と間隔を保ちながら歩いていた。


駅に向かう二人は、

何も言葉を交わさなかった。


互いに、思い巡らせながら

歩を進めていく。



辿り着き、構内の入り口手前で

晴は日傘を畳むと、

ふぅ、と息をついて学に目を向けた。


「佐川くん。今日は本当にありがとう。」


学は、視線を下に向けたまま

会釈をする。


「・・・・・・お腹空いたね。」


ぽつりと零れた晴の言葉の後、

しばらく間が空いた。


二人の頭の中に浮かんだのは、同じである。


「“Calando”行こっか。」


その誘いに、

学は同意するように頷いた。


今日の事は、拓馬も知っている。

詳しい事情は話していないが、

彼は疑問を持たずに送り出してくれた。


莉香だけではなく、拓馬にも

感謝の一言しかない。


「・・・・・・今夜、莉香さんが来る予定です。」


口元を緩ませてそう告げた学は、

とても嬉しそうに見える。

それを感じ取り、晴も幸せになった。


「じゃあ・・・・・・私は

 ピアノを弾かせてもらおうかな。」



今日は二人とも、休みをもらっていた。


普段は仕事で過ごす時間も、今日は

“Calando”の客として過ごすことができる。

それは、二人にとって

嬉しくもあり、楽しい時間だった。


「莉香と、たくさんお話できるね。」


「・・・・・・はい。」


「曲を送らせてもらうね。」


「・・・・・・ありがとうございます。」



丁寧にお礼の言葉を返す彼は、

とても頼もしく見えた。


今後の事も、話すのだろうか。

そうだとしたら、背中を押したい。


どんな曲がいいだろう。


考えたら、とてもわくわくした。





                  *





今日の仕事は、幸い早く終わりそう。

案件のトラブルもないし、

部長のダメ出しも、なぜか

なかったし・・・・・・

まぁこんな日、あっていいよね。


早く“Calando”行って、

美味しいお酒飲みたい。

仕事終わりのお酒って、本当格別よね。


マナに会いたい。

付き合出して、

彼の事深く知っていくにつれて、

さらにそれが強くなった。


こんな優しい人、いない。

ちょっとキョドってるとこあるけど・・・・・・

それもかわいい。ふふっ。


・・・・・・


彼氏彼女なら、これで幸せなのかな。

もっと先を見据えると、どうなのかな。


彼は、まだ学生。

私はもう、社会に出ている。

痛いところも、苦しいところも、

身に染みて理解するようになった。


彼は、まだ知らない。

彼の夢は、現実的じゃない。

後押ししたい気持ちはある。

だけど、厳しい道になるだろう。

・・・・・・

私が彼と同じ学生なら、

素直に応援していたのかな。



・・・・・・最近、これの繰り返し。


夢を追う彼を、どこかで否定してる。


私って、こんなにつまらない

人間だったっけ?


彼は、拓叔父さんの背中を

追っているだけではないのか。


優しすぎる彼は、

厳しい現実に耐えられるのか。


こんな不安な気持ちで、これから先

真っ直ぐ見据えることがきるのか。


夢が実現することを、

私は信じて待つことができるのか。



・・・・・・彼の、綺麗な目を見ていたら・・・・・・

自分の黒い部分が浮き彫りになる。


・・・・・・苦しいの。


こんなに、好きなのに。





                  *





“Calando”の扉が開く。

訪れた客の姿を見て、拓馬は微笑んだ。


「お疲れさま、莉香ちゃん。

 いらっしゃい。」


「・・・・・・こんばんは、拓叔父さん。

 お疲れさま。」


「・・・・・・どうした?元気ないなぁ。」



自分の変化に、

いつも気づいてくれる叔父には

頭が上がらない。


彼女は、取り繕うように笑う。


「少し疲れちゃっただけ。大丈夫。」


「・・・・・・先に、お二人来ているよ。」



その言葉で、ようやく

莉香の耳にピアノの音色が届く。

グランドピアノがあるステージへ

目を向けると、演じる晴の姿を捉えた。


その姿は、優しく温かい。

その存在に、ほっとする。


ほんの少し前まで、

共に仕事をしていた彼女。

彼女は、とても優しすぎた。


厳しい社会の中で生き残るには、弱すぎる。

だけど彼女の存在は、とても美しい。

ピアノに向かう晴を見て、

莉香はいつも思う。


叔父に紹介して良かった。

今では、亡くなった叔母が

彼女をここに繋げてくれたのではと

考えている。


彼女を、護ることが出来たと。



しばらく、優しいピアノの旋律に

耳を傾けて立ち尽くしていると、

カウンター席から視線を感じた。


真っ直ぐに、彼が自分を見つめている。


学は、浮かない彼女の様子を

窺っているようだった。


見透かさないで。

そう告げそうになる。


「莉香ちゃん。」


拓馬が、カウンター席へ促すように

名前を呼ぶ。


逃げるな。

そう言われた気がした。



客の姿は、二組。

一組は、会社帰りのサラリーマン男性二人。

一組は中高年の男女二人。


酒を嗜み、会話を弾ませながらも、

晴の自由なピアノに耳を傾けている。



莉香は、静かに

学の隣の席に座った。

ここまで彼女は、彼に目を向けてはいない。


拓馬はそれを見届けると、

カウンターに入らず厨房へ姿を消した。


2wayのハンドバッグを

反対側の席に置き、彼女は尚も向けずに

棚に並ぶウィスキーボトルを見据えた。



しばらく学は

莉香の横顔を見つめていたが、

何も口を開かずに視線を外し、

タンブラーグラスを手にする。


自分から逸れたのに気づき、彼女は

そのグラスに目を向けた。


グラス内の透明な液体と気泡が、

彼の口の中に流れていく。


そのまま一気に飲み干された後、

からん、と氷がぶつかる音が鳴った。



「・・・・・・お疲れさま。」


小さく、彼の声が届く。


ピアノの音色が一瞬、かき消された。



「・・・・・・こんばんは。」


彼女は、小さく挨拶の言葉を口にする。



それが精一杯だった。


何を話そうか。

言葉が見つからない。



そう考えていると、自分の手を

ぎゅっと握る彼の手があった。


「・・・・・・二年で、戻ってきます。」



莉香は、握られた強さと

力強い彼の言葉に、はっとする。



「待っていてもらえますか。」



短い言葉だった。

でも、それは自分の心に届く。

深く、突き刺さる。



充分だった。

不安で考え込んでいたことも、

悩んでいたことも、

全てその彼の言葉で吹き飛んだ。


それ程、彼は力強かった。

今までの優しすぎる彼の姿は、

ここにはない。



彼女の視界が緩む。

涙が、あふれた。


自分の中で

いっぱいになっていたものが

堰を切り、どんどんあふれ出す。



彼は、彼女の不安を感じ取っていた。


自分はまだ若い。彼女を包む力も弱い。

だけど。

彼女を想う気持ちは、

誰にも負ける気がしない。

その強さは、信頼してもいいと思った。



「・・・・・・はい・・・・・・」



莉香は、小さな嗚咽と共に返事をする。


自分の手を握る学の手を、

指を絡めてしっかり握り返すと、

彼の肩に頭を預ける。

そんな彼女の頬に流れる涙を、

彼は親指で優しく拭った。


「・・・・・・不安ばかりだとは

 思いますけど・・・・・・」


「・・・・・・大丈夫・・・・・・」


「いつでも飛んできますから。」


「・・・・・・うん・・・・・・」


「愚痴でもなんでもいいっすから、

 メールしてください。

 ・・・っていうか、俺がするかもっす。

 すんません。」


「・・・・・・ふふっ。うん・・・・・・」


「行くまでまだ時間ありますから、

 泣かないでください。俺も泣きそうっす。」


「・・・・・・うん。そうね。ふふっ。

 ごめんね。違うの。これは嬉し泣き。」


「嬉し泣き?あぁ・・・・・・そうっすね。

 へへっ・・・・・・」


「二年なんて、あっという間よ。大丈夫?」


「ダメだったら、腹を切ります。」


「いつの時代の人?」


「・・・・・・そのくらいの覚悟でいます。」


「・・・・・・いつまで敬語でいるつもり?」


「えっ?・・・・・・そ、それは・・・・・・」


「さっきの、

 “お疲れさま”みたいに言ってよ。」


「え~っと・・・・・・その・・・・・・」


「何で照れるの?・・・名前も。

 “さん”はいらないの。」


「・・・・・・はい。」


「マナ。」


「・・・・・・莉香。」


「ふふっ。はい。」


「・・・・・・思ってること、構わず

 話してくれていいから。」


「・・・・・・うん。」


「どんな莉香も好きだよ。」


「わわっ・・・・・・

 破壊力ある・・・・・・」


「言えた~。ははっ。やべっ。

 うれしい。」


「なにそれっ。ふふっ。私もうれしいっ。」




寄り添う二人の姿を、

晴はピアノを弾きながら確認する。


仲良く話している。

いつもそうだけど、今日は

さらに距離が近づいた気がする。

それを見られて、

とても幸せな気持ちになった。



二人は歩き出した。

同じ方向へ。

手を取り合い、支え合いながら。



演じる彼女の近くで、

莉穂も二人を温かく見守っていた。

互いに目を見合わせて、微笑み合う。


ステージの近くのテーブル席では、

明也と和装の紳士が

和やかな表情を浮かべて見守っていた。


晴の視線に気づき、明也は

ちらっと目を合わせて

笑みを浮かべる。


良かったね。


ああ。


声にせずとも、会話が成立してしまう。



―何て素敵な夜だろう。

 あの二人に、何を送ろうかな。



考えていると、後ろから

ニーナの優しい声音が響いた。


その曲名を聞き、晴は微笑んで頷く。



“stella splendente”



―二人が、しっかり

 歩いていけますように・・・・・・






午後8時を過ぎた頃。


電車を降りた晴は、帰路を歩いていた。

この時間は、決まりごとのように

一日を振り返っていく。



樹のお見舞いに行き、その足で

学と“Calando”に寄った。


拓馬が振る舞ってくれた、

特製ケッカソースを和えたカッペリーニは、

格別に美味しかった。

炎天下で火照った身体を、

酸味の効いたトマトが冷やしてくれた。


彼の料理は、心まで癒してくれる。


会話をしながら食事をして、

朝の開店時間が終わると

ピアノに向かい、指の練習を始めた。


その中、学はテーブル席で

卒業論文の構想をしていた。

ピアノの音が邪魔にならないか気になったが、

聞きながらの方が捗ると言われた。


拓馬は、いつものように

休憩室に戻って仮眠を取っていた。


思い思いの時間を過ごせるのは、

“Calando”という場があってだろう。

至福の時間である。


莉香が訪れたのは、夜の開店時間を迎えた

約一時間後だった。


学と莉香の雰囲気を見守る

拓馬の表情は、とても優しかった。


娘の幸せそうな姿を、

温かく見守る父親のようだった。




街灯で埋もれた都会の夜に、

星は見えづらい。

だが晴は、そんな夜空を見上げて

目を凝らすのが好きだった。


見えなくても、そこに在る。


その中で一生懸命輝き、

目に留まる星は、とても綺麗だった。


夜風が気持ちいい。

今夜は特にそう思う。

昼の熱がこもって温いが、

汗ばむ首筋を通っていく風は

とても涼しく感じた。


自宅に近づくにつれて、彼女の心は躍る。


彼と、ゆったり過ごせる時間。

一日を締めくくる為の、

大切なひととき。


会いたい。

今日は、いつもよりも増して思う。


マンションの玄関を抜け、階段を上がる。

いつもよりも、足が軽い。


ショルダーバッグから、家の鍵を取り出す。

きちんと二つあることに、安心した。


これがいつか、消えてしまうのではと

不安になる。

自分の将来を考えて、彼は

自分の元から去るのではないかと

何度も思った。


それだけは、本当に嫌だった。


―普通なら、結婚して、

 家庭を築いて・・・・・・それが

 自然なのだろうと分かっている。

 それが、望んでいるものなら。


 神さまがいるとしたら、どうか・・・・・・


 彼は、幽霊です。

 普通の幸せが、

 手にすることができないのは

 分かっています。


 でも、そばにいたいです。

 彼とともに、生きていきたい。


 幸いにも、理解してくれる人がいる。

 強くなれる。

 それだけで温かいし、幸せです。


 彼と、一緒にいたいです。

 彼とともに、“彼ら”と話をしたい。

 私たちしかできないことを・・・・・・

 これからも、ずっと。



迷わず晴は、“灰色の空間”の鍵を手にする。


解錠してドアを開けると、部屋の中には

いつものように彼がいた。

笑みを浮かべて、迎えてくれる。


『おかえり、晴。』


そう言って、明也は両腕を広げる。

晴はショルダーバッグを床に置き、

笑顔でその懐へ駆け出す。


「ただいま、明也!」


躊躇うことなく飛び込んできた彼女を、

彼は優しく受け止めた。


『よく頑張ったな。』


労いの言葉は、とても温かい。


「・・・・・・何か頑張った?」


何の心当たりもなく、彼女は首を傾げる。


『ふはは。』


「え?ふふっ、何?つられちゃう。」


顔を綻ばせて笑う彼を見上げて、

彼女も笑う。


『これが、幸せというものなのだろう。

 ・・・・・・幽霊になってから、

 知ることになるなんて、思わなかった。』


「・・・ふふっ。明也どうしたの?変なの。」


『君は本当にすごい。』


明也は、自分の大きな手を

彼女の頭に置いて、優しく撫でる。

晴は、そんな彼を

不思議そうに見つめながらも

嬉しそうに笑う。


「なんだか、

 褒められてるみたいだけど・・・・・・」


『今在るのは、君のお陰だ。

 ありがとう。』


「何か分からないけど・・・・・・

 私もありがとう。」


『ふはは。』


「うふふっ。一体何?」


『俺にも分からない。』


「なにそれ?」



込み上げてくる嬉しさ。

互いにそれを感じ、笑い、包み合う。


互いに、何かを忘れていると

気づきながらも。


今、触れ合える時間を噛み締める。




長い一日の締めくくりは、

それで過ぎていった。


この日を境に、物事は動き出す。



時間の流れも、穏やかに。







                エピローグ





三年後、12月。



“Calando”は、都内でも有名な

飲食店になっていた。


穏やかにもてなしてくれる、佇まい。

マスターが振るうイタリア料理と、

客に合わせたオリジナルカクテル。

彼の気質と、寄り添う接客が

根強いファンを作り、話題を呼んだ。

オフィス街の近い所にある為、

“都会の隠れ家”と言われている。


客が増え、繁盛し多忙になったが、

マスターは店の名の通り

“和やかに”というスタイルを崩さず、

過剰な宣伝をしなかった。

“Calando”の従業員になりたいと

申し出る者も、多数いた。

しかしマスターは、一人増やしただけで

ほとんどの業務は自ら率先していた。

賛否両論あったが、そのこだわりも

受け入れられていく。


彼は、とある雑誌の取材で

こう語っている。



“Calando”そのものが、生き甲斐。

人と出会い、心を通わせる。

それを大切に過ごしたい。

芯を通せるのは、

心に住む妻の存在だ、と。



そんな彼の店で、気ままに

ピアノを奏でる一人の女性がいた。


彼女の演奏は、訪れる客の心を癒し、

ある時は励まし、力をくれる。


それがじわじわと、口コミで世間に広がった。


弾くのは夜が主で、朝の開店時間に

聴けるのは稀だという事も。

彼女自身、店の従業員でもあった為、

指を充分に温められるのが

休憩時間だった事もある。

最高のステージを提供したいという

思いも、勿論あった。


とある日、ライブを終えた

ジャズバンドの客たちが、

打ち上げを兼ねて“Calando”に立ち寄った。

口コミを聞き、

彼女の演奏がどんなものか

聴いてみたくなったそうだ。


すると、その演じる姿と力強さに

惹きつけられ、全員惚れ込んだ。

その場でセッションを申し出ると、

彼女は恥ずかしそうにしながらも

快く承諾する。


これが、始まりだった。


兎の登り坂。

彼女のピアノは、瞬く間に輝いて

有名になる。


マスターは、彼女がようやく得た翼を

羽ばたかせたいと考え、

店に留める事をしなかった。



“店のピアノは君のステージだから、

 いつでも空けておくよ。

 だから、気が向いたら弾きにおいで。

 その時は、まかないも付けよう。“



そう言い残し、彼女の背中を押した。


マスターの心遣いと、

“Calando”の一員でいられるということに、

彼女は深く感銘し、感謝した。


温かい応援を受け、世に出る。


今も活躍する彼女は、前触れなく

“Calando”に訪れ、自由なピアノを

弾いているそうだ。


その姿を見ることができた客は、

彼女の事を“女神”だと語る。

そしてマスターは、彼女の事を

“最愛の娘”だと思っている。


心に住む、妻との間に生まれた娘だと。





                  *





東京の天気予報では、

初雪が降ると観測されていた。


その予報は確実だと思わせる程

気温は下がり、行き交う者たちの息を

白くさせている。


日が沈み、夜空が広がるにつれて、

散りばめられたイルミネーションが

鮮やかに浮かび上がる。

所々でクリスマスソングが流れ、

街全体がそれに向けて染まっていく

時期だった。


そんな中、白い息を吐きながら

颯爽と街路を歩く、一人の女性がいた。


腰の辺りまである栗色の髪は

ふわりと波打ち、白い頬は

外気温の低さを示すように

赤く染まっている。


寒さを凌ぐように巻かれた

藤色のマフラーと、

マゼンタのショルダーバッグ。

手触りの良い灰色のウールコートに

身を包み、ヒールのある

黒のショートブーツを鳴らしていく。


彼女の目には、大きいパープルフレームの

度なしメガネが掛けられていた。


これがないと、

彼女は外を自由に歩けない。

行き交う人々の内、

彼女が何者かに気づく確率が

高くなるからだ。


そして、外出している時の彼女は

一人でいられる方が少ない。

だから今、こうして一人で歩くことは

珍しい事だった。



彼女は、とある店に向かっている。


その店は“Calando”ではない。

主にプライベートで行く所であり、

秘密を共にする、彼らとの会合だった。


今夜は特別なゲストがいる。

彼女は、会えるのを

とても楽しみにしていた。

背後にいる彼も、同じ気持ちでいる。


目の前に、ちらつく白い結晶。


彼女は足を止め、夜空を見上げた。

突然立ち止まる彼女に、

通行していた者たちは

訝しげに見やりながらすり抜けていく。



濃い灰色の雲から、粉雪が

ひらひらと舞い降りてくる。


彼女は微笑んだ。



きれい。


小さく呟く。


その呟きに、彼は反応する。


綺麗だ。


心地好く響く。



彼女が立ち止まった時間は、

ほんの僅かだった。

再び歩き出す。



雪の結晶は、行き交う人々の元へ

舞い降りていく。


きらきらと、輝くように。





暖かいニット手袋に覆われた

彼女の手が、とある店の扉を開ける。



その店の名前は、

Glitterグリッター”。

一年前に開店した、小さなバーである。


路地に入った目立たない所にあるが、

店の名前を綴る

明るいLEDが目を引く。


時期というのもあって、扉のすぐ近くに

飾られた小さなクリスマスツリーが

佇んでいた。



「・・・・・・いらっしゃいませ。」


控えめなトーンで掛ける声の主は、

馴染みの人物である。


「こんばんは、佐川くん。」


カウンターに立つ青年に向けて、

彼女は微笑んで挨拶した。



内装はシンプルだが、黒を基調とした

革のソファーやガラスのテーブルなど、

細やかなこだわりが窺える。



暗闇の中に光るのは、訪れた客自身。

内に秘める心の光に気づき、

向き合える空間。



演出する彼の意思は、

少しずつ伝わり始めている。


店主である彼は、厳しい道を乗り越えて

今に至っている。


その道を支え、今も手を取り合う

彼の伴侶は、一か月前に無事出産して

育児休暇中である。

彼女もよく知る、

かけがえのない親友だ。


店内の暖かさに、彼女は息をつく。


「・・・・・・今夜は、

 貸し切りにしています。」


相変わらず、

店主―学との視線は合わない。

だが、言葉はしっかりと発音されて

返ってくる。

経験を積み、夢を実現させた

自信の表れなのかもしれない。


届いた言葉の意味を、

彼女―晴は理解していた。


三つあるテーブル席の内、

店の奥にある場所から気配を感じた。

目を向けると、

静かに腰を下ろしている淑女がいる。

晴からは後ろ姿で

細いシルエットだったが、

取り巻く雰囲気の存在感は強い。

それに、彼女は背筋を伸ばす。


「こんばんは。初めまして。

 藤波 晴と申します。」


顔を合わせるように

正面まで歩いていき、声を掛けると

淑女は晴を見上げた。


刻まれた顔の皺は、

樹齢のように鮮やかである。

それが老いであることを

感じさせないのは、

淑女から生み出される空気のせいだろう。


目を合わせ、頬を緩ませる。


「こんばんは。あなたのことは

 かねがね聞いております。

 ・・・・・・私は“佐川 とき”と申します。」


声音も、若々しい。

そしてその響きに、懐かしさを覚える。

そう感じていると、

傍にいた明也が言葉を紡いだ。


『変わりないな。』


淑女―ときの姿を見据え、

笑みを浮かべる。


明也の声も姿も

分かるはずがないのだが、ときは

晴をじっと見据えてさらに笑う。


「ほっほっ。

 つかみどころのない人に、

 よくお付き合いなさる。

 それができるのも、あなただけなのでしょう。

 ・・・・・・彼はようやく、

 落ち着ける場所に出会えたようだ。」



とても意味深な言葉を告げらたが、

的を射ているような気がして

晴は目を見開く。

ときの言葉に、明也は苦笑しながらも

嬉しそうだった。


『見抜かれている。』


―明也が見えているかもよ?


『ふはは。それはないようだが。

 ・・・・・・やんわりと

 核心をつくところも、変わらない。

 この感覚は久しぶりだ。』


心の中で彼と会話をした後、

晴はときに促されるまま

対面するようにソファーへ腰を下ろした。

それを見計らい、学は

グリューワインが注がれたグラスを

トレーに乗せ、二人のいるテーブル席へ

歩いていく。


ときの前に置かれたグラスから

小さく湯気が昇るのを見て、

手袋とマフラーを外しながら

晴は学に声を掛ける。


「私も、同じものをお願いします。」


彼は会釈をして、カウンターに戻る。


コートを脱ぎ、

温度差で曇って既に外していたメガネを

ショルダーバッグに直すと、

彼女は改めてときと顔を合わせた。


吊り上がった目から垣間見る

焦げた茶色の瞳は、どことなく

深い海を思わせた。

明也も、この雰囲気を持っている。


「多忙の中、よくおいでくださりました。

 感謝致します。」


丁寧に頭を垂れて言われ、

晴も頭を下げながら言葉を返す。


「いえ、私の方こそ・・・・・・

 お会いできて嬉しいです。」



今目の前に座るのは、

学の祖母という身の上だけではない。


“管理人”二代に渡り専属する、

現役の“易者”。


陰ながら支え、

未来を見据えて動いている。

その事情を、明也からも

和装の紳士からも聞いていた。


今夜こうして顔を合わせているのは、

ときの方から話がしたいと

申し出てきた為である。


晴は、“Migratory Bards”の

一員ではない。

そして、和装の紳士の刀を振るう

学も。

二人は特例として、

“管理人”に公認されている存在なのである。

それは、二人の素質が

“管理人”の力の源と同じところへ

繋がる所以だからだ。


個々として力を発揮し、

共有する仲間ともいえる。



学は、晴の前にグラスを置いた。

対に並ぶグリューワインから、

同じように湯気が昇っている。


「学。お前もここに座りなさい。」


ときは、ぽんぽん、と

隣に座るようソファーを叩く。

言葉を返すことなく、学は静かに

ときの隣へ座った。


ときがグラスを持つと、

晴も続くように手にする。

互いに微笑み、軽くグラスを上げた。


「今夜は冷えますねぇ。」


ときは、やんわりと言って口に含む。


「はい。今、雪が降り始めました。」


冷えた指を温めるように

両手でグラスを持つと、晴は

小さく息を吹きかけて口にする。


―・・・・・・ハーブが程よく効いて、

 とても美味しい。温まりそう。



しばらくグリューワインを

堪能した後、グラスを置いて

ときは言葉を紡ぐ。


「二人の活躍は、“管理人”から聞いているよ。

 日の目を見ない働きを

 見返りなく続けていることに、

 甚く感謝なされていた。

 私も同じだよ。」



思いも寄らない

労いの言葉を掛けられ、晴と学は

そわそわした。


二人は、“彼らの世界”での出来事を

義務だとは思っていない。

自分たちが出来る、唯一の事だと

認識している。

それを感じ取ったのか、ときの表情は

さらに穏やかになった。


「今日は“管理人”の頼みも兼ねて、

 私からも二人に

 お願いしたいことがある。

 ・・・・・・言葉を崩して話すのを

 許しておくれ。」


親しみを籠めて。

そんな声が聞こえた気がして、

晴は快く頷いた。


「・・・・・・二人とも知ってはいると思うが、

 私は未来を読む。

 それを理解してもらった上での頼み事だ。

 ・・・・・・少し先の話になるが、

 二人を、“Migratory Bards”の

 ゲストルームに招待したい。」


「・・・・・・ゲストルーム?」


学が、首を傾げて尋ねる。


「簡単に言えば、このお店のような所だよ。

 依頼の情報交換をする者もいる。」


いつの間にか、晴の隣に姿を現していた

明也が補足する。


『何者も平等にくつろげる空間だ。

 “Migratory Bards”の者であれば、

 いつでも開放している。』


「・・・・・・招待したいというのは?」


その補足を聞いて理解し、晴は尋ねた。


「私には孫娘がいる。

 学は勿論、知っているね。」


ときが確認のように聞くと、彼は小さく頷く。

晴も知ってはいたが、

それを口にはしなかった。


「孫娘はこれから先、

 大きな力に目覚める。それは、

 大きな脅威に立ち向かうという前触れだ。

 私は、彼女が存分に力を

 発揮できるように支えていきたい。

 ・・・・・・私が辿り着けないものも、

 彼女なら見据えることが出来る。」



語る淑女の表情は、

優しくもあり、陰りも窺える。

見据えている未来が、

幾多にも広がっているのだろうか。



「彼女だけではなく、関わる“我ら”の事も。

 ・・・・・・二人には、

 心の癒しと心構えが出来る空間を

 創ってもらいたい。

 身元が分からないように、

 仮装という形でね。」


言われている事が分からず、

晴は素直に質問する。


「・・・・・・えっと・・・・・・

 私たちは、何をしたらいいのですか?」


自分は、ピアノを弾くだけだ。

そして彼も、酒を提供する店主である。


その考えは間違いないと

答えを返すように、ときは微笑んだ。


「あなたは好きなように

 ピアノを弾き、学は訪れた“我ら”に

 潤いを提供してもらいたい。

 仮装のテーマは決まっているが、

 姿は好きなように決めておくれ。

 私の知り合いにその道のプロがいるから、

 彼に頼もうと思っているよ。

 勿論、なりたい姿は何なりと。」


“仮装”という響きに、少し浮き立った。


―仮装パーティーみたいな感じかな・・・・・・

 ちょっと楽しそうだけど・・・・・・


そう考えている晴に対し、

学の表情は神妙になっている。


「・・・・・・ばぁちゃん。

 もしかして、ゆりは・・・・・・」


何か心当たりがあったのか、

終わりまで言わなかった。

その彼の言葉を飲み、ときは頷く。


「お前は、ゆりの心を

 覗いた事があるようだね。」


「・・・・・・」


「ゆりの心の中には、

 “我ら”に属する者が住んでいる。」


「・・・・・・!」



その言葉の意味を、

学は理解していた。


話が見えず、晴は口を挟まず見守る。



「“彼”はね、

 重く悲しい道を歩いている。

 ゆりは、そんな“彼”の道を辿っているんだ。

 自ずと、“我ら”に属する道を

 歩き出している。

 そして、私の道をも。」


「・・・・・・」


項垂れる彼に、ときは

真摯な視線を注いで告げる。


「ゆりを支えてやっておくれ、学。

 見えないだろうが、あの子は

 お前を心の拠り所にしている。

 さりげなく、そばにいてやっておくれ。」


「・・・・・・」



顔を上げる彼の目には、

決意を示す光が灯っている。


「・・・・・・勿論だ。

 何があっても、支えになる。」


揺るがない言葉を聞き、

ときは安堵したように顔を綻ばせた。


「ありがとう、学。

 ・・・・・・そして晴さん。」


名前を呼ばれ、背筋を正す。


笑みを浮かべたときの表情は、

真摯でもあり、優美だった。


「あなたが奏でる音には、聴く者を

 奮い立たせるものがある。

 心の力は無限大だと、

 気づかせてくれる。

 これからも、

 心の赴くままに進みなさい。

 ・・・・・・彼と共にね。」


晴は、笑顔で応えた。


「・・・・・・はい。

 私にできることがあれば、

 全力を尽くします。」


淑女の言葉は、彼女の心に深く刺さる。

励まされ、鼓舞された気がした。


自分のピアノも、こうであればと思う。





この出会いの数カ月後、晴と学は

“Migratory Bards”のゲストルームに

姿を見せるようになる。


この事実を知る者は、彼女たちと

ごく僅かの関係者だけだった。


だが。


ゲストルームに初めて訪れた

淑女の孫娘は、仮装した彼女たちが

誰なのか気づいてしまう。


しかし、それを

問いただすことはしなかった。


彼女たちの意志を、

心でしっかり受け止めたからだ。


後に、その意志が支えとなり

原動力になるのを見据えて。





                  *





CCU(冠疾患集中治療室)で措置を受け、

眠り続けている一人の少年。

その姿を、晴は見守っていた。



少年の保護者である唯一の肉親は、

医療費を稼ぐために身を挺して

渡ってはならない架け橋に

足を踏み入れ、戻れなくなっていた。


その事実を知った時、

彼女は重い衝撃を受けた。



“管理人”は“一員”のルールとして、

志願した者たちの干渉はしない。

世間で善だとされることも、

悪だとされることも、

その者の意志を尊重する。

止める事は、理に反するとして

禁忌としている。


“一員”となった者の行く末に寄り添い、

その一生を共有する。



自分にできる事はないか。

彼女はそれを考えていた。

少年との繋がりを、

とても大切に思っていた。


そして、彼女と共に見守る彼も。



改めて明也に尋ねた。


―樹くんは、どうなるの?


彼が助かる可能性は、もうないの?

お兄さんは樹くんと、もう会えないの?



その問いに、彼は

真っ直ぐに眼差しを向け、

揺るがずに答えてくれた。


『“Migratory Bards”の高度技術を

 駆使しても、現段階では

 助かる見通しは持てないだろう。

 だが、バックアップする者がいて

 延命し、病に関する研究を

 進められれば・・・・・・

 無きにしもあらず、だ。

 可能性は、ゼロじゃない。

 ・・・・・・樹の兄に関しては、

 何とも言えない。

 彼が、目を覚まさない限りは。』



瞼を上げる気配がない樹を、

晴は真っ直ぐに見つめる。


―・・・・・・樹くん・・・・・・


 私は、あなたの笑顔を・・・・・・

 もう一度見たい。


 もう充分、頑張っているけど、

 もう少し、待っていて。



彼女の心に灯る、小さな種火。


それは、彼の命を再び燃やす為の

原動力として生まれる。



晴は、樹にかかる医療費と

病理に関する研究を進める為の資金を、

全面的にバックアップする

決意を固める。


目を覚ます光へ、導かれるように。



彼女は願った。



―どうか。


 届きますように。



晴を支えるように、

明也が背後に寄り添い、手を重ねる。


二人は願った。




彼の笑顔を、もう一度見られますように。























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― 新着の感想 ―
[良い点] 余韻がすごくって。 ずっとずっとそうなのですけど、もう止まらず読み進めちゃって。 このまま浸らせてください。本当に本当に、紡いでくださりありがとうございます。
[良い点] はじめに遅くなりましたが 完結おめでとうございますᐠ( ᐢ ᵕ ᐢ )ᐟ 主人公の晴ちゃんが幽霊の朋也さん出会い 様々な幽霊に遭遇していく…… 最初から最後まで かんなさんらしい優しい…
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