*Notation 11* Lycoris
樹が入院している病院へお見舞いに向かう、晴と学。
互いに芯を通し、道を見据えて歩き出す。
明也と出会い、手を取り合ったのは・・・・・・
11
晴が都営地下鉄線の某駅に到着したのは、
待ち合わせしている時間の10分前である。
外は炎天下なので、
スマホを片手にして構内に留まった。
藤色のショルダーバッグの中には、
折り畳みの日傘が入っている。
―年々、暑さが酷くなるよね・・・・・・
ハンドタオルで首筋の汗を拭き取りながら、
スマホに視線を落とす。
莉香からメールが届いている事に気づいて、
内容を確認した。
《気をつけて行ってらっしゃい(*^。^*)》
晴は頬を緩ませ、返事を送る。
《行ってきます(*^_^*)》
今日、学と待ち合わせして
病院へお見舞いに行く事を、莉香は知っている。
晴と学が懸念したこと。
それは自分たちの関係性だった。
ずっと莉香に知らせず、共に行動するのはどうか、と。
何も知らせずその事がバレたら、
誤解を与えるのではないか?
その懸念を明也と和装の紳士に相談すると、
二人は穏やかに告げた。
―『お嬢さんたちの世界で
儂らがどう語られようと構わぬ。
じゃが、当代の事は秘密にしておいておくれ。』
―『俺みたいにはなるなよ。学。』
明也の言葉は苦笑いだったが、晴は
学と“彼ら”の解放を共にしている事を
莉香に打ち明けた。
経緯を話すのは難しかったが、
出来る限り言葉にして伝えた。
すると、彼女は驚くよりも納得した様子だった。
―「そうだったんだ!
だからあの時・・・・・・あっ、ごめん。
こっちの話。
なるほどね。マナの人見知りって
それが原因なのね。
・・・・・・でも、私には普通だけど?」
その問い掛けの答えに迷っていると、
学が代わりに答えた。
―「莉穂さんのお陰っす。
・・・・・・“彼らの世界”を遮断する事で、
莉香さんを護っています。」”
それに対し、莉香は寂しそうだった。
―「・・・・・・二人は見えるのに・・・・・・
私は見ることが出来ないなんて、
神さまって意地悪よね。
・・・でもそのお陰で、私は
護られているわけよね・・・・・・」
同調して二人が表情を暗くしていると、
莉香は気を取り直すように笑った。
―「確かに、二人が隠れて
会ったりしているのを知ったら、
ちょっと疑ったかも。
・・・ふふっ。
正直に話してくれてありがとう。
二人とも真面目ね。
そういうところが大好きよ。」
莉香が“彼ら”に寛容なのは、
莉穂が共に生きている証拠かもしれない。
その事を以前から薄々感じていた
晴は、彼女に打ち明けて
本当に良かったと思った。
それは学も同様だったようだ。
莉香に送る眼差しが、さらに増して
愛情に溢れていた。
「・・・・・・待たせました。」
ぼそ、と声が掛けられる。
晴は顔を上げて声の主を確認し、笑顔になった。
「こんにちは。そんなに待ってないよ。」
視線を合わせずに、学は会釈をする。
彼の出で立ちは、爽やかな萌黄色のTシャツに
膝下のハーフジーンズ。
右肩に掛けたボディバッグが、
背中を守るように張り付いていた。
「・・・・・・大丈夫っすか?」
何を訊かれているのか理解した晴は、
小さく頷いた。
「うん。大丈夫。」
“黒い風”に操られた“彼”に遭遇して
以来、音沙汰もなく
穏やかな日常を送れていた。
出逢うのは、“黒い風”に操られていない
“彼ら”ばかりである。
放った試作品の銃弾が効いたのか。
定かではないが、もし違っていたら
この沈黙は不気味だった。
今度は、どんな手を使って接触してくるのか。
明也はそれに関して、何も話さない。
ただ、“充分に警戒するように”と
一言伝えるだけだった。
「行こう。」
晴の呼びかけに、学は頷く。
二人は外に向かって、並んで静かに歩き出した。
「・・・・・・それ、何っすか?」
腕に下がった紙袋が気になったのか、
ぼそ、と言葉が投げられる。
彼女は紙袋に目を向けながら、微笑んで答えた。
「お見舞いのお花。
プリザーブドフラワーなら大丈夫だって聞いてね。
少しでも、和んでほしいから。」
彼は、口角を上げる。
―ささやかだけど・・・・・・
支えになれたら。
それを口にしない晴の思いも
学は理解したのか、言葉を返さなかった。
構内から出ると、容赦なく
日差しが二人に降り注いだ。
晴は眩しさで目を細め、
ショルダーバッグから日傘を取り出す。
それを広げると、日差しを遮るように
かざして踏み出した。
学は、彼女と距離を保ちながら
歩幅を合わせ、並んで進んでいく。
病院へのアクセスは、某駅から徒歩11分程度。
事前にルートを調べていたので、
頭の中にある目印を辿りながら歩いていった。
移動する際、“彼ら”と遭遇する確率は高い。
二人はそれに備えつつ、言葉を交わす。
「・・・・・・佐川くん、大学卒業したら
博多に戻るって聞いたけど・・・・・・」
拓馬と莉香、双方から聞いていた事である。
本人に尋ねる機会がなくて、
詳しい事情を知らなかった。
視線を前に向けたまま、学は答える。
「・・・・・・親との約束もあるっすけど、
マスターが薦めてくれた店が
運良く地元にありまして・・・・・・
そこで腕を磨きつつ金貯めて・・・・・・
自分の店開こうと・・・・・・
本当は、このまま“Calando”で
働きたかったんっすけど・・・・・・
断られました。」
「えっ?そうなの?」
「・・・・・・ノウハウを教え尽くしたって言われて。
他の、高い技術を持った人に
指導してもらうのも良い経験だと・・・・・・」
「・・・・・・そっか・・・・・・」
「・・・・・・離れたとしても、
“Calando”の一員には
変わりないって言ってくれて・・・・・・」
―・・・・・・すごいなぁ。
「・・・・・・嬉しいっす。
いつかマスターと、同じ目線で
話せるようになりたいっす。」
「・・・・・・うん。」
―拓馬さんも、それを望んでいると思う。
「・・・・・・莉香さんとは・・・・・・
遠距離になるっすけど・・・・・・」
ぽつりと漏らした学の言葉に、晴は俯いた。
「・・・・・・そうだね。」
沈黙する二人の間を取り持つように、
蝉の声が響く。
「・・・・・・二年、と決めています。」
その一言で、晴は察した。
「・・・・・・佐川くんなら、実現できると思う。
莉香もそう思っているはずだよ。」
「・・・・・・だと、いいんっすけど・・・・・・」
そこで、彼の言葉は途切れた。
彼女は穏やかに語りかける。
「・・・・・・話し合っているんでしょ?」
「・・・・・・」
「二人なら、乗り越えられるよ。」
「・・・・・・俺の夢に、
彼女を付き合わせていいのか・・・・・・」
その懸念は、彼女を想う故の事だ。
莉香は真っ直ぐ仕事に向き合っていて、
今軌道に乗ろうとしている。
これから彼女と、
同じ方向を見据える事ができるのか。
付き合いが深くなればなる程、
現実の壁が立ちはだかる。
莉香の方からも、懸念の声を聞いていた。
仕事を続けたい気持ちと、
彼を応援したい気持ち。
この二つが、うまく釣り合っていくのか。
二人は相思相愛だ。
互いに、将来を見据えて考えている。
現実の壁が立ちはだかるのは、
それを考えれば考える程である。
「・・・・・・
先の事を考えれば考えるほど、
泥沼にはまっていくっていうか・・・・・・
心が折れそうになるっす。」
「・・・・・・うん・・・・・・」
「・・・・・・でも、悩んでも仕方ないっすよね。」
「そうだよ。手探りでもいいと思う。
二人なら、大丈夫。」
晴と学は、揺らめく陽炎を見つめた。
熱波が容赦なく押し寄せてくる。
励ましの言葉に、彼は
自分自身を鼓舞するように何度も頷く。
彼女は、ふわりと笑って
明るい声音を響かせた。
「莉香のお仕事は知っているでしょ?
佐川くんがお店を開いたら、
莉香に宣伝してもらうのはどう?
いいと思うなぁ。」
晴の妙案に、学の口元が緩む。
「・・・・・・それ、いいっすね。」
「ふふっ。いいでしょ?」
「・・・・・・その時は、彼女に相談してみます。」
「うんうん。」
―道は、険しいかもしれない。
でも、芯をしっかり通して歩いていけば。
二人なら、きっと。
ううん。必ず。
病院の外観が見えてくる。
二人はそれを確認した後、
自然の流れで前方に目を向けた。
その矢先、強制的に立ち止まる。
現れた光景に、釘付けになった。
黒い蔦のようなものに巻き付かれた
少女が、宙に浮かんでいる。
うごめくその蔦は
締め上げるように絡み付いていき、
少女を苦悶の表情にさせていた。
『・・・たすけて・・・・・・たすけて・・・・・・』
呪文のように口にする、哀願の言葉。
少女の目には、涙が溢れている。
『辿られている。』
立ち尽くす二人の背後から、明也の声が響く。
「辿られているって・・・・・・?」
好ましくない状況だと、言わずとも分かった。
晴は気持ちを落ち着かせるように
息をつき、彼に目を向けて尋ねる。
『この前“奴”の網に掛かった時、
君の風を知られたのではないかと
検討はしていた。
・・・・・・隔たりのない空間では、
居場所を辿られる確率が上がる。』
「そんな・・・・・・」
「悪質なストーカーじゃないっすかっ!」
“彼らの世界”に踏み入れている事を
把握した学は、嫌悪して言葉を吐く。
「ってことは、どこにいても
藤波さんの元へ繋がるってことっすよね?」
『最悪の事態を想定していたが・・・・・・
その通りだ。あの黒い蔦から、
“奴”の風を感じる。』
重い空気が、のしかかった。
“たすけて・・・・・・たすけて・・・・・・”、と
哀願する“少女”を見兼ねて、晴は訴える。
「ね、ねぇ。とりあえず、この“子”は
操られていないみたいだし・・・・・・
助けられるかも。」
『罠じゃ。』
三人のすぐ後方に、和装の紳士が現れていた。
『迂闊に手を出すのは、賢明ではない。』
吊り上がった目をさらに鋭くして、
学は振り返る。
「そうだとしても、助けないと始まらないだろ?」
『あやつの懐に入るとしても、か?』
しわがれた声は、警告の響きを含む。
それに続くように、明也は
“少女”を見据えたまま告げた。
『何が起こるか分からない。』
「でも、もう足を踏み入れているんっすよ?
やるしかないっす。」
三人の意見が行き交う中、
晴は押し黙って“少女”を見据えていた。
操られていない“彼女”。
だが、“黒い風”に囚われている。
どんな理由があっても。
目の前で救いを求める声から
背くことはできない。
「・・・・・・助けよう。」
凛と放った晴に、三人は目を向ける。
怯えて震える彼女の姿は、そこにはない。
「みんなが一緒なら、乗り切れる。」
日傘を折り畳んで
ショルダーバッグの中に直した後、
代わりに拳銃を取り出す。
手荷物を地面に置いて“少女”と向き合う
晴の姿を、明也は真っ直ぐに見つめた。
彼女は今、変わろうとしている。
受け入れて立ち向かう準備は、整っている。
『・・・・・・分かった。』
承諾する明也の声が、短く響いた。
和装の紳士は眉間に皺を寄せていたが、
ふむ、と唸って
挙手するように肩の所まで右手を上げる。
その掌に風が発生し、黒石目塗の鞘に納められた刀が
姿を現した。
それを、学の方へ投げる。
彼は当然のように受け取り、
柄に手を掛けて抜刀した。
『長丁場になるや知れぬ。心してかかれ。』
「りょーかい。」
明也は寄り添うように
晴の背後に立つと、耳打ちする。
『・・・・・・やむを得ないと判断した場合は、
病院内へ駆け込む。』
紡がれた低音の囁きが、身体を刻む。
彼女は静かに頷いた。
“少女”を見据える4人。
息を整え、学は一歩踏み込んで駆け出す。
目に留められない程素早く刀を振るい、
“少女”に巻き付いていた
黒い蔦を断った。
それは簡単に分断され、散り散りに弾け飛ぶ。
宙に浮いていた“少女”は、
その拍子に地面へ崩れ落ちた。
共にぼとぼと落ちた禍々しいそれは、
うごめいて形を変える。
個々が学くらいの背丈まで肥大して
人の姿に成形するが、完全には至らない。
所々爛れ、その肌の色も黒い。
だらりと腕を下げて項垂れている。
その数は、十にも及んだ。
「うへぇぇぇ・・・・・・キモい・・・・・・」
黒い“それら”が成形する一部始終を
目の当たりにした学は、
顔をしかめて言葉を吐く。
「数が多い・・・・・・」
異形の“それら”を見据えながら
拳銃を構えて、晴は言葉を漏らす。
『お嬢さんは
遠方から学の援護をしておくれ。』
彼女の横に並び、和装の紳士は声を掛ける。
『頃合いを見て、お主らは
キャメラ少年のいる病院へ行くのじゃ。
呼び掛け、応えたら
その少年に繋ぐことができる。
儂が“脱出の鍵”を作ろう。』
『心得ました。』
和装の紳士の提案を読んでいたのか、
明也の同意は早かった。
晴も、すぐに理解して頷く。
地面に崩れ落ちた“少女”は怯えた様子で
異形の“それら”を見回している。
晴が強い視線を送ると、
“少女”はすぐに気づいて目を合わせた。
「今のうちに逃げて!」
声を張ると、“少女”はびくっとして
立ち上がった。
涙を流しながら、その場から駆け出す。
同時に、ふっ、と姿が消えた。
それを確認して、晴は息をつく。
―良かった。影響はないみたい。
・・・・・・終わったら行くからね。
「おりゃあぁっ!!」
学は掛け声とともに、
“それら”を素早く薙ぎ払う。
その刃は5体一気に届き、分断されて真二つになるが
動きは止まらずに成形を始める。
その5体が10体に増えた光景に
信じられず、学は目を見張った。
「はあぁっ?!」
『ただ薙ぎ払うだけでは駄目じゃ!
意思を籠めなくては
さらに増えていくぞ!』
「そんなの、今までやらなかっただろぉ?!
どうやるんだよっ?!」
『言われてやるものではない。
保身の為に
力任せに振るってきたからじゃ。
真の力を、米粒すらも発揮しておらぬ。
それに気づけば、紛い物を消すなど
造作もない。』
「それは、その・・・・・・くそっ!!」
襲い掛かってくる異形の“それら”を
かろうじて避けた瞬間。
ダァン!!!
ダァン!!!
後方から銃声が響いた。
晴が放った銃弾が、
異形の“それら”を捕らえる。
光に包まれた後、悲鳴のような呻き声を上げて
消え去った。
肩で息をしながら、晴は言葉を放つ。
「佐川くんならできる!!頑張って!!」
“それら”は次々に学目掛けて襲い掛かるが、
晴の放つ銃弾が食い止める。
それは、十回以上を超えていた。
「ふ、藤波さん!!それ以上は・・・・・・!」
「私は大丈夫!!」
声を荒げながら
彼女は次の射撃に備えている。
その背後に寄り添い、
彼女の頭に手を置く明也と目が合った。
『学。お前の意思を示せ。今のお前は最強だ。』
自分の意思とは。
意思を示せ?
分からない。
言われた通りだ。
今まで、保身する為に
刀を振るってきた。
だが、今は違う。
二人を護れる、唯一の刃。
彼は、はっとする。
“特殊な見え方”。
忌み嫌ってきた、コンプレックス。
歩む人生を変えてしまったもの。
しかし、今は違う。
“彼ら”を救える力。
正面から向き合える、時間。
「・・・・・・今の俺は、
本当に最強なのか・・・・・・」
独り言のように呟いた後、細く息を吸い込む。
「確かめる必要があるな。」
学は、差し出すように刀を構える。
その彼の雰囲気を感じ取り、
和装の紳士は、ふぉ、と笑った。
『思う存分、振るえ。若輩者。』
たん、と軽やかに駆け出した流動は、
一筋の風が吹くようだった。
彼が通り過ぎた後、異形の“それら”は
ふわりと宙を舞う。
呻く時間も与えなかった。
断面が見える頃には、
跡形もなく消え去っていた。
彼が起こした風を、晴は
呼吸を整えながら目の当たりにする。
―すごい・・・・・・!
その一撃で、“それら”は僅か2体になった。
「・・・・・・なんだこれ、すげぇ。」
振るった本人も、びっくりしている。
『ほんの一片しか露見しておらぬぞ。
お前の力は、
まだまだそんなものではない。』
「これなら、いけるかも。」
『油断禁物じゃ。まだくるぞ。』
和装の紳士が言った矢先、
2体になった“それら”は
呻きながら黒い何かを吐き出した。
成形もままならず、“それ”は
スライムのように地面を這う。
「もう、ホラーだよぉ~・・・・・・」
身の毛がよだつ有様に、学は
泣きそうになりながら刀を構える。
『どこまでも規格外の奴じゃ・・・・・・
無限に産み出していくのぅ。』
「感心してる場合じゃないって・・・・・・」
地面を這う“それ”は、学の足元に迫る。
『きりがないな・・・・・・』
明也は話を切り出す。
『ここは学と御仁に任せた方がいい。
俺たちは病院へ行こう。』
気が気じゃなかったが、その意見に一理ある。
先程連発した銃弾は、
全て命中というわけではなかった。
撃った数と比例していない。
これでは、一掃する前に力尽きてしまう。
二人の考えが伝わったのか、学は笑顔で応える。
「ここは俺にまかせてください、藤波さん。
余裕で踏ん張れます。
今の俺は最強っすから。」
続くように和装の紳士も告げる。
『キャメラ少年に会ったら呼んでおくれ。
すぐに向かおう。』
晴は腹を決め、頷く。
「・・・・・・はい!」
地面に置いていた手荷物を取り、
拳銃をショルダーバッグの中に直した。
―どうか、無事でありますように・・・・・・
祈る思いで学に視線を送った後、
晴は病院に向かって駆け出す。
その後を、明也も追った。
病院の施設内に入ると、
外の淀んだ空気が遮断される。
静寂な空間だった。
“彼らの世界”内で、
別の空間に移動するのは初めてである。
誰もいないロビー。受付カウンター。
清潔な白い廊下。
歩くと、
パンプスとウイングチップの足音が
混ざり合う。
その反響が、静けさを強調した。
明也は、壁に記された
フロアマップの前に立ち止まって目を通す。
『3F西病棟だったか。
・・・・・・近くまで行こう。』
横に並び、晴もフロアマップに目を向ける。
「・・・・・・会えたとして・・・・・・
このまま戻ったら、どうなるの?」
物理的な疑問がよぎった。
“彼らの世界”で深く渡り歩き、
いざ現実に戻った場合、
自分たちはどんな状態なのか?
『・・・・・・予測だが、少しずつ
時間が過ぎているはずだ。
恐らく今、無意識状態のまま移動している。』
「えっ・・・・・・?」
―それって、危ない状態じゃ・・・・・・
『だから、時間は掛けられない。
早めに抜け出さなければ・・・・・・』
彼は、ゆっくり彼女と間合いを詰める。
晴はどきっとして背中を壁に付けると、
明也と向かい合った。
視線が、ぶつかる。
『すまない。この前もだが、
こんな状況の中で・・・・・・』
申し訳なさそうに言う明也が
可笑しくて、晴は顔を綻ばせる。
「謝らなくていいよ・・・・・・」
『樹に呼び掛けながら、移動するのが最善だ。』
「私も、それが最善だと思う。」
緊迫している状況には変わりない。
だが静けさの効果で、不思議と
それを受け入れられる気持ちになる。
この前は、有無を言わずに奪われた。
今は、幾分落ち着いて迎えられる。
彼女の頬に、彼は
触れる程度に手を置いた。
晴は、瞼を閉じる。
合図のように、明也は顔を近づけた。
「お楽しみのところ悪いね。」
急な声だった。
二人は、はっとして
その方向に目を向ける。
ロビーの待合ソファーに足を組んで座り、
可笑しそうに自分たちを眺める男がいた。
吊り上がった口端。
人を品定めするような、冷酷な光を放つ瞳。
羽織る白衣が、その男の雰囲気とは
似つかわしくなかった。
その男には、見覚えがある。
いや。言わずとも忘れはしない。
明也は一瞬にして、鋭い目つきに変わった。
『・・・・・・佐倉井。』
短く告げる彼の表情は、冷たい。
鋭く纏う明也の姿を、
晴は初めて目の当たりにした。
「ここに、飛び込んでくるとはね。」
喉を鳴らし、その男は立ち上がる。
白衣のポケットに両手を入れ、二人に向き合った。
「偶然というべきか、天意か。
・・・・・・いずれにせよ、歓迎しよう。」
鋭く直視してくる明也と視線を合わせ、
白衣の男―佐倉井は笑う。
「そんな姿になってまで、私を追いかけるとは。
『潜入屋』とは、理解不能だな。
犠牲を払ってまで得られるものは何だ?
偽善で成り立つ正義か?
・・・・・・従順な『君たち』には、
頭が下がるよ。」
『・・・・・・』
自分を隠すように前に出る
彼の背中を、晴は黙って見つめる。
―・・・・・・“潜入屋”・・・・・・?
『命を玩具にするお前には、理解不能だろうな。』
「はっはっはっ・・・・・・失敬な。
玩具だとは思っていない。勘違いされては困る。
私のやっている事は、
未来を見据えての大切な礎なのだよ。
それも分からず、私を止めようとは
・・・・・・甚だしい。」
言った矢先、纏うように黒い風が発生する。
晴は、肌に刺さるような感覚に耐え、
ショルダーバッグの紐を握り締めた。
「あの青年は、健闘しているようだが・・・・・・
可哀想に。英雄になった気でいる。」
佐倉井は、明也が盾になって
よく窺えない晴の姿を見ようと、
覗き込むように首を傾けた。
嘲るように、乾いた息を漏らす。
「・・・・・・君は面白いね。
その男に惑わされ、わざわざ
命を投げ出すような真似をして・・・・・・
何のメリットがある?興味は尽きないよ。
その男に執着する理由は何だね?」
その場に、座り込みそうになる。
佐倉井の声が響く度、恐怖で
身体が震えた。
いや、心なのか。
威圧的ではなく、むしろ
優しさを帯びる声なのだが、
束縛され、支配されるような感覚に
見舞われるのはなぜか?
佐倉井がポケットから右手を出すと、
黒い風が掌に集結して、形を成した。
それは、拳銃だった。
「これは真似事で作ってみたのだが、
こんなものかな?非常に興味深い。
・・・・・・君の持つ拳銃。
微かだが、
“リコリス”の気配を感じる。
彼女が姿を消した時期と、
意念体になった君との時期が重なる。
気になるところだ・・・・・・
それは、偶然ではない気がしてね。
もしそうだとしたら、
かなりの収穫だと見解する。」
―・・・・・・“リコリス”・・・・・・?
慣れない単語だった。
その言葉が紡がれた瞬間、晴は
明也の異変を感じた。
自分の視点からは、様子を窺えない。
彼の広い背中を
見つめる事しかできなかった。
―これは。
この感情は。
・・・・・・怒っているの?
彼の身体から、湧き上がる熱。
今、どんな表情を
浮かべているのだろうか。
拳銃を弄びながら、佐倉井はその様子を
楽しそうに眺めている。
「その感情は肯定かな?
計り知れないね・・・・・・
私は君が、“リコリス”と接触した
可能性を問いたい。
記憶の檻に縛るのも、その為だよ。
・・・・・・彼女は、どこに消えた?」
銃口は、明也へと向けられた。
返事もせず睨み続ける彼に対し、
佐倉井は可笑しそうに息を漏らす。
「くっくっくっ・・・・・・
隠しても何のメリットもないよ。
苦しい思いをするだけだが・・・・・・」
引き金に、指が掛かる。
その瞬間、明也は振り返って
晴の身体を包んだ。
ダァン!!!
放った銃弾は、空を裂く。
二人の姿は既に消えていた。
佐倉井は笑いを堪えきれずに、喉を鳴らす。
「くっくっくっ・・・・・・悪あがきを。
捕らえてから、
じっくり調べるとしようか。」
瞼を上げると、彼の白いシャツが映り込む。
晴は明也の懐にいる事を把握し、
顔を上げた。
横目で周囲を窺うと、白い壁と
整頓されている白いベッドがある。
どこかの病室内か。
照明は暗く、誰もいない。
移動したせいか、肌を刺すような空気も
佐倉井の姿も消えている。
『・・・・・・来たか。』
吐き捨てるように呟く、乱れた低い声。
項垂れている彼の顔が、目に飛び込む。
怒りの感情を露にしていた
彼は今、苦悶の表情に変わっていた。
「明也?どうしたの?」
晴は思わず声を掛ける。
先程の怒りもだが、
こんなに苦しそうな彼も初めてだ。
『・・・・・・晴・・・・・・』
大きな両手が、
晴の顔を包むように置かれる。
指先から伝わる温もり。眼差し。
力を振り絞るように、全てを
自分へ注いでいるかのようだった。
『・・・・・・今から俺は、
“奴”が仕掛けた記憶の檻に・・・・・・
閉じ込められてしまう・・・・・・』
「えっ・・・・・・?どういうこと?
一体どうしたの?」
明也の、苦悶の表情につられて
晴は眉を下げる。
そして、彼の顔を挟むように
両手を添え、額が触れ合うくらいに近づいた。
いつも深海のように静かだった
彼の瞳は、荒れ狂う波のように揺れている。
『・・・・・・すまない・・・・・・
・・・御仁・・・・・・
後を、頼みます・・・・・・
・・・・・・君は・・・・・・』
「明也っ!!」
明也は、その場に崩れ落ちる。
晴は支えようとしたが、
感じるはずがない身体の重みを受けて
一緒に白い床へと倒れ込んだ。
すぐさま起き上がって、彼の身体を揺らす。
「明也!!しっかりして!!」
泣きそうになる気持ちを抑え、
明也の身体を仰向けにさせた。
瞼はもう、落ちている。
「明也っ!!!」
必死に呼び掛けるが、何の反応もない。
「いやっ・・・・・・とも、やっ・・・・・・」
どくん、と鼓動が大きく波打った。
―『・・・・・・おねがいします・・・・・・』
「・・・・・・っ?!」
―『・・・・・・かなえてください・・・・・・・』
「藤波さんっ!!!」
その声に、はっとする。
「・・・・・・佐川・・・くん・・・・・・?」
「大丈夫っすか?!」
自分の肩を揺すり、心配そうに窺う
学の顔が映った。
晴は、自分の状況に戸惑う。
彼と目が合っている。
まだ、ここは“彼らの世界”の中だ。
「片桐兄さんの声を
辿ってきたんっすけど・・・・・・」
その言葉で、すかさず目線を落とす。
明也の姿が、どこにもない。
「・・・・・・えっ・・・・・・」
「片桐兄さんはどこっすか?」
「・・・・・・うそっ・・・・・・」
『檻に囚われた。』
冷静な、しわがれた声が響く。
晴は涙目で訴えた。
「彼はどうなったのですか・・・っ!!」
その悲痛な声に、和装の紳士は
言い聞かせるように答える。
『片桐は、“黒い風”の記憶と繋がっておる。
お嬢さんと出会う前から、
掌握された状態なのじゃ。
“黒い風”が仕掛けた記憶の牢獄に、
ずっと縛られたまま抜け出せずにいる。』
語られた事実に、学は表情を暗くする。
「なんだよそれ・・・・・・きつすぎるだろ。」
『片桐はそれに気づき、自らに鍵を掛けて
お前たちを護るように申し出てきた。
・・・・・・そして、“灰色の空間”で
初めてお嬢さんと繋がった時、
失くした記憶を取り戻しておる。』
「・・・・・・えっ・・・・・・?」
「なんだって?」
新事実に、二人は驚愕した。
和装の紳士は交互に顔を向け、
言葉を紡いでいく。
『儂はそれに鍵を掛け、“黒い風”から遮断した。
時が来るのを待っていたのじゃ。
“黒い風”本人に接触する機会を。』
言葉を失う二人に、彼は語り続ける。
『お前たちに伝えなかったのは、
この機会を逃さない為だったのじゃ。
万全の体制で臨む為と、
支障をきたさない為の、
苦肉の策だと理解しておくれ。』
それで、腑に落ちる。
―明也は。
もう、思い出していたんだ。
その記憶を、お爺さんに預けていた。
“思い出せない”のではなく、
“思い出せないようにしていた”。
心理の記憶にいる私を、護ろうとしたから。
和装の紳士は、俯く晴に寄り添う。
『一刻を争う。
キャメラ少年を呼んでおくれ。
一旦“ここ”から脱出する。』
「えっ、爺さん。片桐兄さん置いて、
このまま抜け出して大丈夫なのか?」
『お嬢さんがいる限り大丈夫じゃ。
“黒い風”が片桐に目を向けている隙に、
お嬢さんの心理の記憶を
呼び起こすのじゃ。
“奴”を封じる為手立ても、その中にある。』
その言葉に反応して、晴は顔を上げた。
―落ち着いて。
明也を、助けないと。
目に溜まった涙を拭い、和装の紳士を見据える。
「・・・・・・呼び掛けます。」
彼女の思いを尊重するように、
彼は深く頷いた。
『苦しいとは思うが、辛抱じゃ。
お嬢さんの心理の記憶は、片桐とも、
“黒い風”とも強い繋がりがある。
このままでは“奴”に知られてしまう。
そうなれば、絶望じゃ。
・・・・・・キャメラ少年のフィルムとやらは、
今のお主らに繋がっておる。
“奴”の仕掛けた檻を抜け出す、
唯一の鍵を作れるのじゃ。』
「・・・・・・」
ぎゅっと瞼を閉じ、鼓動を確かめる。
弱いが、彼の風を感じる。
彼は、自分の中にいる。
繋がっている。
―・・・・・・待っていて、明也。
助けに行くからね。
「・・・・・・樹くん。応えて・・・・・・」
*
変や。
いつもより身体の調子はええ。
朝ごはんも全部食べられたし、
兄ちゃんにも会えた。
歩いても苦しくならへん。
もうすぐ晴さんたちも来る。
嬉しすぎて踊れそうや。
絶好調やのに・・・・・・
何やろう。
こう、モヤモヤするような感じ・・・・・・
病気のせいやなくて・・・・・・
『・・・・・・樹くん・・・・・・』
えっ?
晴さん?
晴さんの声がする。
『・・・・・・応えて・・・・・・お願い・・・・・・』
困ってる声や。
どないしたんやろ?
道に迷ったんやろか?
「・・・・・・ここです!晴さん!」
*
樹の声を聞き入れた瞬間、
晴の視界に白い彩りが飛び込む。
そして、大きく目を見開いている
彼の姿を捉えた。
「晴さん!」
「樹くん・・・・・・!」
「ど、どないなってます?
これって・・・・・・現実ですか?」
一見、現実の病室内のようだが
違和感があった。
空間は、“彼らの世界”に近いものを感じる。
『間じゃ。
現実と“意念体の世界”の谷ともいえる場所。
媒介として、儂が長年かけて設けた
安全地帯じゃ。
ここに、“黒い風”が立ち入ることはできぬ。
勿論、部外者も。
意に関係ない情報は、遮断する。』
気づけば、手荷物がない。
和装の紳士が言うように、ここは
視界に映り込む情報が少ない気がした。
「こ・・・このお爺さんとお兄さんは
誰です?」
晴の後ろにいた和装の紳士と
学が気になったのか、
樹は恐々と尋ねた。
「えっと・・・・・・この二人は・・・・・・」
晴が目を向けると、二人は樹に
微笑みかけて答える。
『慌ただしくてかたじけない、少年。
儂は通りすがりの幽霊じゃ。』
「初めまして、樹くん。
俺は生きてます。
藤波さんとは仕事仲間っす。
自己紹介は、後でゆっくり。」
「ごめんね、樹くん。
いきなりこんな形でお見舞いして・・・・・・
後で、落ち着いて行くから・・・・・・」
状況に驚きながらも、樹は
笑みを浮かべて二人に会釈する。
「ええですよ。大歓迎です。
今日はほんまにありが・・・・・・
あれ?そうや。
明也さんはどこです?
いないみたいですけど・・・・・・」
明也の名前を聞き、晴は
泣きそうになりながらも笑顔を作る。
「・・・・・・詳しい話はできないけど・・・・・・
ちょっと席を外しているの。」
「・・・・・・そうですか・・・・・・」
ただならない雰囲気を感じ取り、
樹は晴を窺いながら声を掛ける。
「・・・・・・どないしたんです?
何かあったんですか?」
その気遣いが、心苦しい。
「・・・・・・大丈夫よ。今日の具合はどう?」
「今日は調子ええんですよ~!
どこが悪いのか分からへんくらい!」
「・・・・・・ふふっ。」
樹の心遣いと明るい笑顔に救われ、
晴は幾分落ち着くことができた。
深呼吸をして、言葉を紡ぐ。
「直ぐで申し訳ないんだけど・・・・・・
私と明也を撮ったフィルムを
見せてほしいの。」
「ああ!やっと渡せますね。よかったぁ。
早く見せたかったんですよ。
ちょっと待ってくださいね。」
準備していたのか、
ベッドテーブルの上に置かれていた
分厚いフォトブックを手に取る。
かなりの量だ。
後でゆっくり見せてもらいたい。
晴は、そう思いながら行方を見守った。
とあるページを開いて
1枚のフィルムを取り出すと、樹は
それを差し出す。
「これです。撮った画と全然違って、
めっちゃ驚きました。」
そっと受け取り、彼女は
そのフィルムに視線を落とす。
「・・・逆、というか・・・・・・
晴さんが撃っていたはずなんやけど
・・・・・・明也さんが撃ってますよね。
晴さんが、どこにもいないんです。
しかも、写り込んでいる子がいて・・・・・・」
樹の説明が、遠のいていく。
フィルム全体を把握した瞬間、
彼女は震え出す。
持っていたフィルムを離し、
震える両手で双眸を覆った。
「・・・・・・晴さん?」
その異変に気づき、樹は呼び掛ける。
学も呼び掛けようとするが、
和装の紳士はそれを止めた。
『・・・・・・扉が開く。』
*
おなかすいた。
青いお空を見るのはすき。
うかんでいるまっ白な雲は、
わたがしみたいでおいしそう。
落ちてこないかな。
食べたいな。
おなかすいたなぁ。
パパとママは、どこにいったの?
おうちに、ずっと帰ってこない。
お空を見るのはすき。
おなかがふくれるから。
赤くて大きなお花がさいてる。
きれい。
おいしそう。
・・・・・・食べたいな。
がまんできない。
パパ、ママ、ごめんなさい。
おいしい。
そのきれいなお花の下には、
ふっくらしたものがついていた。
おいしそう。
これも食べてみよう。
おなかがいたい。
からだがうごかない。
ねむたくなかったのに、ねちゃった。
パパ、ママ、ごめんなさい・・・・・・
おきたら、
知らないおとこの人がいた。
やさしそうだけど、こわい。
わたしを見る目が、こわい。
【可哀想に。
お腹を空かせていたのだね。
栄養失調の上に毒を摂取するとは。
苦しかっただろう。
・・・・・・だが、もう大丈夫だよ。
人間としての生は終わっているが、
こうして、意念体で生きている。
飢えも、しがらみも、もう
君を縛るものは何もない。
素晴らしい身体を手に入れたのだ。
・・・・・・君が初めてだよ。
私の研究に光を与えてくれた。
珍しく、高揚している。】
こわい。
パパとママは?
たすけて。
【君の目におけるN/C比は、とても
興味深い数値を示していてね。
貴重なサンプルとして、
今後も調べさせてもらうよ。
お礼と言っては何だが、
新しい目を提供させてもらった。
意念体でも、目は必要だろうからね。】
・・・・・・目?
【この鏡で見てごらん。
君の目に付いているものは、
我々を繋ぐ架け橋となる結晶だ。
まだ試作品で少々不格好だが、
素晴らしい安定だ・・・・・・
データを取らせてもらうよ。
君の非凡な可能性には、震える。
経過を見て、さらに別のものを
提供しようと思っている。】
なに、これ・・・・・・いや・・・・・・
わたしの目はどこ?
【君の名前は今後、“リコリス”だ。
人間だった時の事は忘れて、
私とともに生きよう。】
・・・・・・
わたしの、名前?
わたしの名前、なんだっけ?
・・・・・・
“リコリス”。
・・・・・・“リコリス”。
わたしが“リコリス”になってから、
いろんなことが分かった。
ことばにするのはむずかしいけど、
なんとなく分かった。
わたしは、“ゆうれい”になったんだ。
でも、あのこわい人は
わたしをつかまえて、とじこめている。
“リコリス”になってから、
わたしと同じくらいの子どもたちと
いっぱい会った。
みんな、泣いていた。
たすけて。
おなかすいた。
かえりたい。
わたしがみんなとちがうのは、なんでだろう?
あのこわい人は、
みんなをどこかへつれていく。
たすけて。
おなかすいた。
かえりたい。
“リコリス”になって、それが変わった。
みんなをたすけたい。
おなかいっぱいにさせたい。
パパとママのところへ、かえらせたい。
そう思うようになった。
なにができるだろう。
わたしは、なにかできるのかな?
かみさま。
みんなをたすけてください。
わたしのねがいをかなえてください。
おねがいします。
ずっとおねがいしていると、
声がふってきた。
【・・・・・・君の願い、叶えよう。】
かみさま?
かみさまですか?
【・・・・・・残念ながら、神じゃない。
だが、君を護ることができる。】
・・・・・・
【・・・・・・みんなを、助けよう。】
はい。たすけたいです。
【君も、助けたい。】
わたしは、むずかしいです。
【・・・・・・俺が、君を隠そう。】
・・・・・・かくれる?
【そう。・・・・・・大丈夫。
奴には見つからない。】
・・・・・・
【今から、君の元へ行く。】
・・・・・・だめです。
あのこわい人に見つかります。
【大丈夫。】
・・・・・・やさしい声。
わたしは、しんぱいになった。
この声の人が、
あのこわい人に見つかったら・・・・・・
わたしと同じになるかもしれない。
そのあと、本当にだれかが来た。
声の人かな。
やさしそう。
でもこの人は、わたしが見えないみたい。
どうしたら、わたしのことを
見つけてくれるのかな?
【しつこく嗅ぎ回っている犬がいると
思ったら・・・・・・『潜入屋』か。】
こわい人が来た。
どうしよう。
つかまっちゃう。
【『君たち』には、うんざりする。
そんなに死にたいのなら、
望み通りにしてあげるよ。】
「・・・・・・」
【君は役に立ってくれるかな?
気になるところだね・・・・・・】
「お前のやっている事は、正気じゃない。」
【くっくっくっ・・・・・・
正気の定義は何だね?
君はもっと、世界を知るべきだ。】
ああ。
こわい人から、黒い風が出てる。
みんな、あの風につれていかれる。
【研究の礎になってもらおう。】
「・・・・・・?!」
【眠れ。安らかに。】
・・・・・・
やさしい人が、眠る。
【・・・・・・“リコリス”。残念だったね。
君の美しい姿を見たら、この男も
少しは理解できただろうが・・・・・・】
・・・・・・
こわい人が、
でんわをしてどこかへ行った。
・・・・・・
話しかけても、おきないかな・・・・・・
もう、だめなのかな・・・・・・
『・・・・・・おきてください・・・・・・』
「・・・・・・」
『・・・・・・おねがいします・・・・・・』
わたしの声は、とどかないのかな・・・・・・
『・・・・・・わたしは、“リコリス”です。
あなたのお名前はなんですか?』
「・・・・・・」
あっ。
うごいた。
おきて。おねがい。
『おにいさんのおしごとは、なんですか?
とってもかっこいいので、テレビに出る人ですか?
その着ているもの、すてきですね。
おにいさんのすきな食べものは、なんですか?
わたしはあまいものがすきです。』
「・・・・・・」
おきてください。
『おにいさんにすきな人はいますか?
わたしはいません。
・・・・・・わたしの、
すきな人になってください。』
「・・・・・・ん・・・・・・」
目がひらいた!
『にげてください!』
「・・・・・・きみ、は・・・・・・」
『わたしが見えますか?』
「・・・・・・ああ・・・・・・」
うれしい。
『あの人が来る前に、
にげてください。おねがいです。』
「・・・・・・そうか、君が・・・・・・
うっ・・・・・・」
くるしそう。
かみさま。どうか、この人を
たすけてください。
・・・・・・つなげるかな。
手を、つなげるかな。
・・・・・・つなげた!
「・・・・・・君の、名前は・・・・・・?」
『“リコリス”です。』
「・・・・・・“リコリス”・・・・・・
俺は、片桐、明也だ・・・・・・」
くるしいのに、わらってくれている。
でも、なんでだろう?
会ったこともないのに、
わたしのことを知らないのに、
わたしの目はおかしいのに、どうして
やさしい目で見てくれるの?
『・・・・・・かたぎりともやさん。』
「・・・・・・明也でいい・・・・・・」
『今なら、にげられます。』
「・・・・・・いや、これでいい・・・・・・」
これでいい・・・・・・?
『よくありません。』
「・・・・・・君を、助けたい。」
『わたしは、むずかしいです。』
「・・・・・・助けられる。」
『・・・・・・?』
「・・・・・・それは、全部、ある人から
教えてもらっている・・・・・・」
『このままだと、ともやさんは・・・・・・』
「君と、繋がって・・・・・・
俺が、命を落とせば・・・・・・
君は新たに、生きることができる・・・・・・
奴の目に、届かない所へ行ける・・・・・・
そして・・・・・・みんなを・・・・・・」
・・・・・・
どうして?
この人は・・・・・・
死ぬために、ここに来たの?
わたしをかくすために?
みんなを、たすけるために?
・・・・・・分かりません。
「・・・・・・その為には、お互いに、
お互いのことを、
忘れなければいけない・・・・・・」
『わたしは、わすれたくありません。』
「・・・・・・忘れなければ、叶わない・・・・・・」
『いやです・・・・・・わすれたくありません。
わたしは、あなたのおよめさんに
なりたいです。
どうしたら、なれますか?』
「・・・・・・ふ、ふははっ・・・・・・
まさか、死ぬ間際に・・・・・・
プロポーズされるとは・・・・・・」
『ともやさんがすきです。
たすけたいです。』
「・・・・・・ありがとう・・・・・・嬉しいが、
“リコリス”・・・・・・君は自由でいい・・・・・・
たくさんの人と、出会って・・・・・・
たくさんの人と、話して・・・・・・
その中で、どうしても俺がいいと、
思うなら・・・・・・一緒になろうか・・・・・・」
すてきな人。
やさしい人。
会えて、うれしいです。
だから・・・・・・
『しなないでください・・・・・・』
「・・・・・・“リコリス”・・・・・・
今までずっと、
苦しい思いをしているだろう・・・・・・
苦しいと、言っていいんだ・・・・・・」
・・・・・・くるしい・・・・・・?
「・・・・・・君に、
言ってもらえるように・・・・・・
俺は、傍にいよう・・・・・・
生きる為に・・・・・・
俺と、繋がってほしい・・・・・・」
・・・・・・生きる・・・・・・
「・・・・・・君が、生きる・・・・・・
その姿を・・・・・・見たい・・・・・・
君と、俺の、願いを・・・・・・
叶えたい・・・・・・」
ともやさんが、ねむってしまう。
・・・・・・つながる・・・・・・
『つながれば、また会えますか?』
・・・・・・ともやさんは、
わらってうなずいている。
『・・・・・・ともやさんに会えないのは、
くるしいです。』
くるしい。
これが、くるしい。
ともやさんと、わたしのねがい。
それをかなえるために、つながる。
くるしいことも、かなしいことも、
たのしいことも、よろこぶことも、
ぜんぶ、このひとにぶつけたい。
「・・・・・・忘れていても・・・・・・
君と・・・・・・笑える・・・・・・・
気が、する・・・・・・な・・・・・・」
・・・・・・ともやさん。
ありがとう。
わたしも、あなたとなら、わらえます。
『かみさま・・・・・・
かなえてください・・・・・・
おねがいします・・・・・・』
この人とまた、出会えますように・・・・・・
*
家族。家庭。
普通なら揃っているものが、俺にはなかった。
気づけば、あらゆる知識と
身を護るための訓練を施され、自分は
『潜入屋』という顔を持つようになる。
世間の常識を知る為に、表向き
ジャーナリストとして職に就き、
人と関わる時間を増やした。
その頃から、意識と価値観が
変わっていったのを自覚している。
家族とは。
家庭とは。
俺を繋げる者がいない。
だから無意識に、それに対して
強い羨望を持っていたのだろう。
人の温かさ。心の触れ合い。
そして、笑顔。
人らしい感情を出し、人を好きになり、
人を愛する自分の姿を、
求めていたのかもしれない。
世間を騒がせていた、とある事件。
“神隠し”。
他人事と思えなかったのは、
自分と同じ境遇の子どもたちが
被害者だった事だ。
この事件を追っていた警察官・佐川陽一郎と、
『Migratory Bards』の仲間・『劉 玉玲』の二人と
情報を共有し、捜査に浮上した人物を追跡した。
“佐倉井 要”。
この男の事を調査すればする程、
嫌悪感と耐え難い怒りが込み上げた。
子どもを、実験動物としか思っていない扱い。
事情ありの彼らを狙うのは、
意のままに操り支配する為なのか。
隠されていた膨大な試験データを
目にした時、震えが止まらなかった。
『Migratory Bards』の施設には、
国の機密事項が集まっている。
その中でも、研究エリアと病床エリアは
ごく限られた者しか
立ち入ることが出来ない。
ある日俺は、そのエリアに携わる
第一人者に呼び出された。
その男性は当初、佐倉井の研究事項に
関心を向けていたという。
しかし、非人道的ともいえる行いと
研究に対する貪欲さを感じ、
止めなければ脅威になりかねないと
危惧していた。
佐倉井に賛同する者たちは少ないが、
国の重要人物がいる事に
懸念を抱き、彼は
ラボラトリーを立ち上げたそうだ。
『Migratory Bards』は、全面的に
彼を支援している。
佐倉井の研究を監視しつつ、
止めるための試行錯誤を続けていた。
その彼に、俺が呼ばれたのはなぜか。
【君の頭脳明晰さは聞いている。
『管理人』の元で活躍する君に、
このようなことを頼むのは・・・・・・
矛盾していると私自身思っている。
始めに言っておくが、私は
“佐倉井 要”を止める目的で
この研究を続けている。
佐倉井の研究とは似て非なるものだと
認識した上で、聞いてもらいたい。
・・・・・・君が適任だと選んだのは、他でもない、
『管理人』のご意向が含まれている。
それを踏まえて、答えを出してほしい。】
“『管理人』の意向。”
それは、俺にとって重要な意味を持つ。
“断る”という選択肢は、除外される。
『管理人』は、
俺の意思を尊重してくれる存在だ。
生きる力を育てられたのも、
『この場所』を提供してくれたお陰である。
常日頃、その恩恵を念頭に置いて行動している。
それは俺に限らず、
『管理人』に近しい者なら同じだ。
『彼』は今まで、案件を
自分に強いる事はしていない。
それと同時に、
“自分なら遂行できる”という信頼を
寄せてくれている。
だから完遂することは、
『彼』へ恩を返すことに繋がるのだ。
彼の話は最初、受け入れ難い内容だった。
“見えない彼ら”の存在。
佐倉井の異様な“力”。
そして、それを止める為の手段。
どれを取っても、現実的ではない。
佐倉井の論文に目を通してはいるが、
深い内容を理解するには
時間が必要だった。
だが、その前に。
“佐倉井 要を止められる”可能性。
それがあるという事は大きかった。
一方で、葛藤する部分もある。
それを遂行するには、自分は
死ななければならないという矛盾。
先が見えない。
前代未聞の事項だ。
【『管理人』のお力添えがなければ、成立は皆無だ。
実際に、“世界”に触れなければ
理解することも難しいだろう。
勧めるのもおかしな話だ・・・・・・
しかし、佐倉井を止めたい。
私はその思いで、時間を費やしている。】
彼の目を見て、俺は気づいた。
彼は、“世界”に触れたことがあるのだ。
そして『管理人』の“力”は、
“世界”に関係している。
そう理解したら、腑に落ちた。
まだ自分は聞いたばかりで、
“世界”に触れたことも、感じたこともない。
非常識とされる“世界”の存在を、
受け入れるか否か。
「・・・・・・“彼女の声”は、『管理人』の耳に
届いているのですね?」
【ああ。“彼女”が何者かは分からない。
だが『管理人』は、
その声の強さに注目している。
・・・・・・佐倉井は、
“共鳴”の存在を知らないようだ。
というよりも、“彼ら”を
“力”で捻じ伏せ、
支配する事しか考えていない。
・・・・・・“彼女”の“力”は未知数だが、
紛れない力となって
君の拳銃に注がれると見解する。】
見えない相手に、自分の命運を預ける。
これは、生半可では成立しない。
常識を、遥かに超えている。
・・・・・・そう考えて、笑いが出た。
俺に、常識はあったのか。
自分の人生を繋ぐものは、この現実にあるのか。
人に、与えるものは・・・・・・
「・・・・・・遂行します。」
【ありがとう。私も死力を尽くす。
今度“彼女”の声が届いた時、
君に報告しよう。
“彼女”と会話が出来るよう、
『管理人』が君の声を繋げてくれる。】
・・・・・・
佐川。
玉玲。
君たちは、俺の希望だ。
君たちが手を取り合う姿を見て、
俺は家庭が欲しいと思うようになった。
これからも、幸せに過ごしてほしい。
何も語れず遂行する事を、許してくれ。
真弓。
すまない。
君を巻き込むわけにはいかない。
君の元へ行けない俺を、憎んでも構わない。
今まで共に過ごしてくれてありがとう。
君の幸せを願う。
・・・・・・“彼女”は、ずっと苦しんでいる。
生きていても、意念体になっても、
変わらない時間を過ごしている。
自分が苦しいのに、気づいていない。
気づかせてくれる者がいないのだ。
俺が、気づかせる。
心から苦しいと、
言える存在がいるという事を。
俺が、君の心の叫びをぶつけられる
存在になろう。
もう少しだけ、待っていてくれ。
助けに行く。
*
二人の鼓動。心。
扉が開く時間は、限られている。
天意は如何に。