*Notation 10* con fuoco
この兄妹の絆は、深ければ深いほど距離を置く。
それは、他者が決して理解できない領域である。
晴と明也に襲い掛かる、禍々しい風。
積み重ねた時間を信じて、二人は立ち向かう。
10
エアコン、効いているよな・・・・・・?
暑い。汗がハンパねぇ。
いや待て、冷や汗、かもしれない・・・・・・
ゆり。
お前急に何を言い出すんだ?
隠していること?
それは・・・・・・もしかして、
俺の“特殊な見え方”の事か?
そうだよな・・・・・・
それしか、心当たりがない。
あと、隠していることっていったら・・・・・・
莉香さんと旅行する計画くらい・・・・・・
「教えて、兄貴。」
うぅ・・・・・・
「兄貴の力になりたい。
それが原因で、兄貴が変わったんやったら・・・・・・
ううん。そうだ。きっと。」
・・・・・・
「隠さなければいけなかった?」
・・・・・・
「そうやろ?」
・・・・・・
「それで、苦しんどったっちゃろ?
変わらんといかんかったっちゃろ?」
・・・・・・ゆり。
「お願い、兄貴。話して。
私には話してよ。」
・・・・・・ごめん。
俺は、自分の事で
いつも誰かに苦しい思いをさせている。
「・・・・・・ばぁちゃんには、話した。」
「おばあちゃん?」
沈黙が重い。
「・・・・・・そっか。そうなんやね。
おばあちゃんは、ずっと
兄貴の支えになってくれていたんやね。」
・・・・・・ごめん。
「色々見えてきた。」
・・・・・・色々、見えてきた?
「兄貴。」
うわ。
目を合わせようとするな。
「目を見て、兄貴。」
やめろ。
「兄貴が目を合わせなくなったのも、
名前を呼ばなくなったのも・・・・・・
隠していることのせいなんよね?」
お前に嫌われたくない。
「私も、支えになりたい。」
お前を傷つけたくない。
「変わってからも、変わらないことも、
全部、兄貴の根本がしっかりしとるから、
今がある。」
・・・・・・ゆり。
「彼女さんに出逢えたことも。
兄貴がしっかり前を向いて歩いてきたから。
それが見えたんよ。
・・・・・・おばあちゃんに比べたら、
私は頼りないね・・・・・・」
そんなことない。
お前は充分、支えになっている。
「・・・・・・兄貴が、どんな姿でも・・・・・・
私のお兄ちゃんには変わりない。」
・・・・・・ああ。
お兄ちゃんって響き、懐かしいなぁ。
お前の口からまた、
聞ける日がくるなんて。
いつから、兄貴って
呼ばれるようになったんだろうなぁ・・・・・・
「・・・・・・
やっぱりお風呂、先に入る。」
・・・・・・
おい。いいのか、俺。
このままで。
ここまで、ゆりは言ってくれているのに。
「今日も暑かったね・・・・・・」
・・・・・・いい、わけがない。
「ゆり。」
俺の声に振り向く、お前の顔。
・・・・・・びっくりしたか?
久しぶりに、真正面から見たよ。
「ばぁちゃんには確かに話したけど・・・・・・
話を聞いてくれただけなんだ。
・・・・・・けど、お前には全部晒すよ。」
*
視界が急に落ちる。
ブレーカーが落ちたのかと、最初は思った。
停電?
・・・違う。意識を失った?
・・・・・・でも、意識はしっかりしている。
「本当に厄介なんだ。」
淀みない、馴染みの声。
しっかりした声を聞くのは、何年ぶりだろうか。
「見たくないと思っても、見えてしまう。」
・・・・・・?
・・・・・・外にいる・・・・・・?
部屋の中にいたはずなのに。
しかも、おばあちゃん家の近所にある
小さな公園だ。
「・・・・・・?」
ベンチに座っているのって・・・・・・
「俊?!」
どうして俊がここに?!
「ここは、お前の心の世界だよ。
その少年は実物じゃない。
・・・・・・って、そいつ誰だ?」
!
「・・・・・・兄貴、これって・・・・・・」
「相手と目を合わせ、俺が名前を呼ぶと
世界に踏み入ってしまう。
・・・・・・詳しく話せば、長くなる。」
兄貴と、目が合っている。
・・・・・・そうか。
そうやったんやね。
「ゆり。そいつは誰だ?
どーしても気になる。」
「・・・・・・
誰だって、いいやん・・・・・・
原因は、これやったんやね。」
私とは違う、“見え方”。
これは、たまらない。
「・・・・・・ごめんな。」
「・・・・・何で謝ると?
教えてくれて、ありがとう・・・・・・」
「・・・・・・あまり、
驚いてないみたいやけど・・・・・・」
「・・・・・・充分、驚いた。」
「・・・・・・なぁ、ゆり。」
「・・・・・・ん?」
「嫌いになっただろ?俺のこと。」
「・・・・・・馬鹿やないと?」
「え?」
「何でもっと早く教えてくれんと?!馬鹿!!」
「ゆ、ゆり・・・・・・?」
「私だって、見え方は違うけど・・・・・・
兄貴と同じなのに!!」
「・・・・・・!」
*
「・・・・・・ごめん・・・・・・」
学は、謝ることしか出来なかった。
誰も傷つけたくないから、
誰にも触れないように虚勢を張って。
身近に、自分と同じ思いをしている
妹がいたのに。
「・・・・・・ゆり。」
ゆりは、俯いて泣いている。
こんな弱々しい妹の姿は、記憶にない。
心の中で、いつも泣いていたのだろうか。
強がりになったのは、いつからなのか。
いつから・・・・・・
自分と同じように歩いてきたのだろう。
触れていいものか迷ったが、学は
そっと、ゆりの頭に手を置く。
泣くばかりで、何の反応も示さない。
ふと、彼女の背後にいる少年に目を向けた。
応えるように、少年も視線を合わせる。
妹の心の中に根付く、この少年。
この瞳の模様は、誰かに似ていた。
深海のような
闇に漂うゆらめき。
「・・・・・・こいつの事、好きなのか?」
思わず尋ねた言葉は、ゆりの顔を上げさせる。
その拍子に、置いていた手が離れた。
真っ赤に染まった表情は、
答えを言っているようなものだ。
学は、うーんと唸る。
「かなり年下に見えるけど・・・・・・」
少年を隠すように立ち、ゆりは睨む。
「・・・・・・事情があると。」
そこは話してくれないのか。
内心、しょんぼりした。
「うまくいくといいな。」
「・・・・・・ほっといて。」
ゆりは、ぐす、と鼻をすすって涙を拭う。
「・・・・・・兄貴の彼女さんに、
すごく会いたくなった。」
「ばりっばりかわいい。心しておけ。」
「・・・・・・泣かせたら駄目やけんね。」
それは最初にしてしまった。
学は苦笑いをする。
「これからいっぱい、笑顔にしたいと思っている。」
「何で、写メ送ってくれんかったと?」
それは、ごめん。
先を見通すお前に、良くない事が見えたら
立ち直れないと思ったから。
そう言葉を紡ごうと思ったが、飲み込む。
「会ってからのお楽しみってことで。」
でも、それももう気にしない。
彼女を想う気持ちは、変わらないから。
「・・・・・・そうやね。」
学の飲み込んだ言葉が
聞こえた気がして、ゆりは笑う。
何も取り繕わない、自然な笑顔だった。
学は、思い出す。
あの頃は、いつも笑顔だった妹。
そうか。お前も心の中で
変わらずにいたんだな。
そのままで。
俺と、同じじゃないか。
ありがとう。ゆり。
お陰で、救われたよ。
「・・・そうだ。隠していることは、まだある。」
ばぁちゃんとのミッション。
爺さんのこと。“彼ら”のこと。
藤波さんと片桐兄さんのこと。
全部晒すとか格好良く言ったけど・・・・・・
これは話せない。
「私だってそう。」
ゆりは理解するように、相槌を打つ。
「相手を思って隠していることは、
いつか必ず形になって伝わる。
・・・・・・話せる時になったら、兄貴に話すね。」
学は目を見開き、感心するように息をつく。
「大人になったなぁ・・・・・・」
「子どものままでいられんと。」
ちら、とゆりの背後にいる少年を見た。
「じゃあ、そいつのこと
いつか話してもらえるんだな?」
頬を赤く染め、学を見据えてゆりは頷く。
「いつになるか分らんけどね・・・・・・」
その姿が可愛らしくて、思わず微笑んだ。
「いーよいーよ。いっつでも。」
いつの間にか、景色は部屋に戻っていた。
ゆりはそれに気づいて見渡す。
そして、学を捉えた。
視線が合わず、横顔なのは相変わらずだ。
だが事情を知らない時と、
知った後では見え方が違う。
視線を合わせようとしないのは、
兄が必死で考えた苦肉の策なのだと。
「・・・・・・その展示コーナーみたいな
テーブルのやつって、彼女さんとの記念品?」
特設した卓上テーブルに目を向け、
ゆりは小さく笑って尋ねた。
そのテーブルの上には、
映画の半券や水族館のパンフレット、
ストーンブレスレットなど
綺麗に間隔を空けて置かれていた。
学は小さく頷く。
その横顔は、少し笑っているように見えた。
「・・・・・・このテーブルを見て、
彼女も笑ってたよ。」
「明日の誕生日デートは、どこに行くと?」
「・・・・・・秘密。」
「ふふっ。どうせそこに飾るやろうけん、バレるよ。」
図星で、吹き出す。
その拍子に、二人は堰を切ったように笑い出す。
同時に、胸につかえていたものが
とれた気がした。
ゆりは、テーブルの上に本を置いて立ち上がる。
「お風呂入ってくる。」
「・・・・・・お湯炊き機能ないけど。」
「シャワーで充分。」
「・・・・・・ベッドで、寝なさいね。」
「彼女さんとの馴れ初め、
聞かせてくれたらいいよ。」
「・・・・・・長くなるぞ。」
「ふふっ。いーよ。」
笑いながらキャリーバッグに向かって
歩いていくゆりに、
学は優しい眼差しを送る。
二人が眠りに落ちたのは、深夜を回った頃だった。
*
土曜日午前11時頃。
“Calando”店内は、
チャバタを買い求める常連客も去り、
客一人いない状態だった。
穏やかな時間が訪れる。
「晴ちゃん。一曲お願いしようかな。」
その時は大抵、
拓馬からリクエストが掛かっていた。
「はい!」
それを断ったことは、一度もない。
晴は元気よく返事をすると、
グランドピアノへ歩いていく。
今日も、東京は猛暑日を迎えていた。
この店内はエアコンで涼しいが、外に出ると
蝉の大合唱とともに熱波が押し寄せる。
ピアノ椅子に座り、鍵盤と向き合った。
―・・・・・・そうだなぁ・・・・・・
・・・・・・よし。彼の力を借りよう。
選んだ曲は、とある作曲家の独奏曲。
ここ何日か、“涼”を感じさせようと
リクエストに応えて弾いてきた。
その中の一曲。
あらかじめ譜面台に準備しておいた
楽譜を手にする。
難解の為、昼休憩時間に
こっそり練習を重ねていた。
晴は楽しみながら、この曲に向き合っている。
すぅ、と息を吸い、吐くと同時に
ふわりと鍵盤に両手を置いた。
冒頭部分を崩さず弾く事は、
作曲家への敬意と、
曲に籠められた魂を受け継ぐ為の儀式。
そして、聴く者を和ませる心の準備。
拓馬は流れる音の粒を吟味し、自然に微笑む。
昼休憩時間に届いてくる曲だと、
彼は気づいた。
たおやかな水しぶきに、身を委ねる。
心地好い清涼な空気が店内を纏うと、
夜の開店時間に使う
食材の下ごしらえを始めた。
晴は、ふと風を感じる。
限りなく優しくて、陽だまりのような温かさ。
姿は見えないが、寄り添っている。
彼女は微笑んで、調べを紡いでいく。
店の出入り口ドアが、控えめに開いた。
来客に気づき、拓馬は
“いらっしゃいませ”、と声を掛ける。
少し鍔のある白いハットには、
朱色のリボンが巻かれている。
ノースリーブのオレンジ色ワンピースに、
白のサンダル。
赤縁の眼鏡を掛けたその少女は、
店に足を踏み入れた瞬間
グランドピアノに目を向ける。
溢れる清涼な空気の源が
そこから湧き出ている事に気づくと、
大きく見開いた。
魅入られたように、立ち尽くす。
「・・・・・・お客様。お好きな席へどうぞ。」
ピアノの音色に囚われた少女を、
拓馬は優しく促した。
「!・・・は、はい・・・・・・」
少女は、はっとして返事をすると、
窓際のテーブル席に足を運び、腰を下ろす。
少し吊り上がった目元が
誰かに似ているなと、拓馬は
さり気なく様子を窺う。
少女の視線は、未だに真っ直ぐ
ピアノの方へ向けられていた。
当の晴は、少女が来店したことに気づかない。
演じている最中の彼女は、ピアノ一点に集中する。
その事を把握している拓馬は、いつも
演奏を止めることはしなかった。
こうして彼女が演じている時間に
訪れる客は、ほぼ同じ反応をする。
拓馬はカウンターを出て、
少女が座るテーブル席へ歩いていく。
「今日も暑いですね。」
「・・・・・・」
声が届いていないのか、少女は微動もしない。
その様子を察して、やんわり言葉を紡いだ。
「オレンジジュースでもお持ちしましょうか?」
何気なく掛けられた言葉は、
晴の世界に囚われていた少女を呼び戻す。
驚愕して拓馬をじっと見据えた後、
小さく、“はい”、と答えた。
微笑んで会釈をした後、
拓馬は静かに去っていく。
入店してから、少女は驚いてばかりだった。
ピアノの音色。
晴の演じる姿。
拓馬の洞察力。
オレンジジュースが好きなことを、
どうして見抜いたのか?
圧倒されつつ、ハットを脱ぐ。
この店には何かある。
ここは、別世界だ。
兄を変えたのは・・・・・・
付き合っている彼女だけでは、ないのかもしれない。
そう捉えて、息を整える。
しばらくして拓馬は、
オレンジジュースが注がれたグラスと
コースターをトレーに持って現れる。
手際よく少女の前に置いた後、
今度は会釈するだけで
何も言わずに去っていった。
グラスに触れると、ひんやり冷たい。
普段家で飲んでいるものとは違って見えた。
ストローに口をつけ、吸い込むと
フレッシュな甘酸っぱさが広がる。
とても美味しい。
一気に、滲んでいた汗が引いた。
外の熱波を忘れる程、清涼に満たされる。
今日、兄と彼女は
江の島まで出掛けている。
今頃、絶景を楽しんでいるだろうか。
身体と心が充分落ち着いた後、
少女は肩に掛けていたショルダーバッグを
膝の上に置き、
その中から一冊の小説を取り出す。
厚さ3cm程の長編である。
最高の読書タイムになりそう。
少女の予感は、的中する。
晴は演奏を終えて息をつくと、
窓際のテーブル席に座る少女に気づいた。
思わずカウンターを見ると、
微笑んでいる拓馬と目が合った。
“続けて。”
そう合図するように、片目を瞑る。
この曲を、朝の開店時間で披露するのは
これが初めてだった。
晴は再度、読書に集中する少女に視線を移す。
見たところ、学生に見える。
可愛らしい出で立ちの少女に、
自然と笑みを浮かべる。
―可愛いお客さまに、何を送ろうかな。
視線を鍵盤に戻し、向かい合う。
―・・・・・・そうだなぁ。
あの子の読んでいる本、分厚いよね。
長く滞在してくれるのかもしれない。
・・・・・・珍しいお客さまだし、
ちょっと頑張ってみようかな。
下りてきた曲は、思い出の曲集。
大好きで弾き込んでいた、夜想曲。
背伸びをした後、息を整える。
よろしくお願いします。
小さく呟いて、鍵盤に手を置いた。
晴が弾き始めて数分後に、別の客が一組訪れた。
夫婦の常連客である。
店内に充満する調べに、穏やかな笑みを浮かべて
拓馬と会話をする。
ピアノの音色に感心しながら
テーブル席に腰を下ろし、耳を傾けていた。
この夫婦はいつも、コーヒーと
チャバタを使った
紫キャベツとトマトのハムサンドを頼む。
次には、中高年のサラリーマン。
休日出勤だろうか。
疲れた様子で店に訪れたが、
ピアノの調べに少し表情を和らげて
カウンターに座る。
酒を飲みたくなったが、
炭酸入りのレモン水で気持ちを抑えて
ポークピカタを頼んだ。
その後に、30代前半のカップル。
初めて来店したのか、
店内の雰囲気に浮き立ちながらテーブル席に座る。
バーじゃないよね?
カフェだよね?
そう囁きながら、音色を堪能しつつ
アイスコーヒーを頼んだ。
この後も、様々な客層が“Calando”に訪れた。
土曜日のこの時間にしては、大入りである。
忙しくなっていたが、拓馬は
ピアノに向かう晴を止めなかった。
彼女の音色が、皆を癒していると感じたからだ。
訪れる客の表情が、和らいでいる。
全集を弾き終え、晴は達成感のあまり
笑みを零して息をつく。
すると、小さな女神の誕生を祝福するように
温かい拍手が彼女を包んだ。
それに驚いて店内を見渡すと、
ほぼ満席で埋め尽くされていた。
この状況に戸惑いながらも
拍手に応えて立ち上がり、一礼する。
演奏の最中に訪れた客の殆どが、
去らずに留まっていた。
夜想曲を弾き始めた頃に訪れた
夫婦の常連客は、
にこやかに拍手をしながら声を掛ける。
「とっても素晴らしかったよ~。」
既に顔見知りになっていた晴は、
笑顔で応えて頭を下げた。
「聴いてくださって、ありがとうございます!」
夫婦は、うんうんと頷いている。
―あの子に届けようと
弾いていたけど・・・・・・
いつの間にか、お客さまが増えちゃったみたい。
晴は、窓際に座る少女が気になって
目を向けた。
曲が終わったことに気づき、少女は
ふと本から目を離す。
すると拍手が起こり、席が
ほぼ埋まっている状況に驚いた。
彼女もまた、本に集中していた為
客がこんなに増えている事に
気づいていなかったのだ。
きょろきょろと見回していると、
晴と目が合った。
彼女から、ふわりと微笑み返されて
少女は思わず視線を逸らす。
見えなかった事にして本に移し、読むふりをした。
彼女は。
彼女の笑顔は。音色は。
大勢の人を、覚醒させる。
鼓動が大きく鳴る。
少女は、それを抑えるのに必死だった。
深呼吸をして整えようとするが、難しい。
なぜなら。
自分も、それに触れたからだ。
晴の演奏が終わると同時に、客が引いていく。
拓馬が冷蔵庫付近にある
デジタル時計に目を向けると、
もう15時前になっていた。
再びぽつんと、少女だけになる。
晴は、ゆっくり少女の所へ足を運んだ。
「お客さま。申し訳ありません。
15時で一旦お店が閉まります。」
本に視線を落としていた少女は、
見上げるように目を合わせた。
その瞬間、晴は気づく。
―・・・・・・あれ?
目元が・・・・・・
どこかで見たような・・・・・・
『学の妹だ。』
不意に、明也の声が届く。
―・・・えっ?!
少女に、彼の声が聞こえるはずもない。
自分を直視してくる晴を
不思議に思いながらも会釈すると、
本を閉じてショルダーバッグの中に入れた。
ハットを被り、
ショルダーバッグの紐を肩に掛けた後、
立ち上がってレジに向かう。
その少女の後ろ姿を、晴は眺める。
―・・・何で、隠しているのかな?
『名乗らないところ・・・・・・
学がバイトしている店を、干渉されずに
見てみたかったのだろう。』
―・・・・・・
可愛い妹さんだね。
『最初、玉玲かと思って驚いた。』
―?
『学の祖母だ。』
そういえば。
晴は、この間“Calando”で
明也が話した事を思い出す。
―『俺には、情報を共有していた人物がいた。
・・・・・・学。君のお祖母さんだ。』―
どんな女性だったのだろう。
そう思いながら、
会計を済ませる少女を見守った。
少女は出入り口のドアに手を掛けたが、
動きを止める。
見送ろうとした晴と拓馬は、
出ていこうとしない少女に首を傾げた。
思い立ったように、少女は晴の方へ振り返る。
じっと見据えてくるその瞳は、
強い光を灯していた。
「あの、夜の開店時間は何時ですか?」
鈴の音が鳴るような、凛とした声だった。
晴は、笑顔で答える。
「17時です。」
「・・・・・・その時間に、また来ます。」
「お客様。」
言って出ていこうとする少女を、
拓馬は呼び止めた。
「お食事まだですよね?食べていきませんか?
料金は頂きません。」
「・・・・・・えっ?」
少女は目を見開く。
その申し出に、晴も驚いた。
―・・・拓馬さん、もしかして気づいてる?
『ああ。最初見た時から
彼は気づいていたようだ。』
拓馬の言葉に、少女は戸惑った様子だった。
意外な申し出だったのだろう。
同時に、自分が何者なのか
気づいているのではと考える。
深く頭を下げ、申し訳なさそうに告げた。
「・・・・・・えっと、隠していたことを
謝ります。ごめんなさい。」
「ははっ。謝らなくてもいいよ。
ご来店ありがとうございます。
・・・・・・君は、学の妹さんで間違いないね?」
「・・・・・・はい。」
「実はね、学から君が
オレンジジュースが好きなことを
ちらっと聞いたことがあって・・・・・・
ちょっと試しに言ってみたんだよ。」
少女は小さく笑う。
「そうだったんですね。
何で知ってるのか、本当にびっくりしました。」
「僕こそ試すような事を言って、
申し訳なかったよ。
・・・・・・学には、ここに来ることを
伝えてないみたいだね。」
拓馬の鋭い洞察力に、少女は素直に感服する。
「・・・・・・はい。」
「分かった。
この事は、僕らの秘密にしよう。
改めて、“Calando”へようこそ。
僕は店主の、曽根木 拓馬です。
一日早い紹介になったけど、会えて嬉しいよ。」
丁寧に言葉を返され、
少女はハットを脱いで頭を下げる。
「佐川ゆりです。
兄がいつもお世話になっています。
話に聞いていたこのお店に、是非
客として行ってみたかったんです。
明日だと、その雰囲気を
味わえないなと思いまして・・・・・・」
礼儀正しい姿勢と
しっかりした受け答えに、拓馬は
感心して顔を綻ばせる。
「ははっ。確かに。
・・・・・・気に入って頂けたかな?」
「はい。とても。」
「それは嬉しいなぁ~。」
拓馬と少女―ゆりの間に、和やかな空気が流れる。
晴は安堵して、行方を窺っていた。
「学には、いつも助けてもらっている。
彼はとても働き者で、勉強熱心だ。
このお店に欠かせない一員だよ。」
実感の籠った言葉が、ゆりの緊張を解していく。
「ご存じとは思いますが、
兄はちょっと、人見知りが激しくて。
ご迷惑をお掛けしていないか、
心配だったんです。」
「迷惑だなんて、とんでもない。
君のお兄さんは立派だよ。自慢していい。
僕の姪っ子が惚れ込むだけあるよ。」
それを聞いたゆりの表情に、
柔らかい笑みが浮かんでいる。
笑顔が可愛らしい。
それにつられて、晴も微笑む。
「ここに来る時、迷わなかったかい?」
「ふふっ。大丈夫です。
散策できて楽しかったです。
時間に追われず気ままに歩けるって、
幸せですよね。」
堂々としたゆりの姿に、晴は深く感心する。
―ゆりちゃん、しっかりしてるなぁ・・・・・・
ゆりは晴に視線を移し、微笑む。
「とても素敵なピアノでした。
まだずっと、聴いていたいです。」
紛れない誉め言葉に、
晴は頬を紅潮させて頭を下げる。
「あ、ありがとうございます・・・・・・」
「ははっ。良かったね、晴ちゃん。」
「は、はい。」
「良ければ、お名前教えてください。」
「ふ、藤波 晴です。」
「よろしくお願いします。」
「こちらこそっ。」
互いに深々と頭を下げ合う
彼女たちを、拓馬は保護者のように
温かく見守る。
「二人とも。明日は初対面のふりをするんだよ。
僕もそうする。」
晴とゆりは、笑顔で
“はい”、と相槌を打った。
「好きなだけいてもらいたいけど・・・・・・
内緒だったら長居させられないか・・・・・・」
「大丈夫です。兄は、今日の内に
家には帰ってきません。」
奇妙な口振りだった。
晴と拓馬は顔を見合わせる。
「今日の内に帰ってこない?」
「はい。日付が変わった後に帰ってきます。」
まるで、知っているかのような発言だ。
二人に、疑問符が浮かんでいる。
それに気づいて、ゆりは
はっとして言い直す。
「あ・・・・・・えっと・・・・・・
帰ってくるの、遅くなると思います。はい。」
『なるほど。玉玲に似ているのは、
容姿だけじゃないようだ。』
明也の言葉に、晴は首を傾げる。
―・・・どういうこと?
『彼女は、未来を読む。』
―・・・・・・えっ?それって・・・・・・・
未来が分かるってこと?!
『ニュアンスが少し違うが、そういうことだ。
無数に広がる事象を読み取り、
最優先される行方を見据える。』
―・・・・・・難しいけど。
『ふはは。だが、道筋は見えても
歩むのは本人次第だ。』
―・・・・・・ますます分かんない。
『未来は決まっていない、ということだ。』
疑問符だらけになる晴の傍らで、
拓馬は気を取り直すように笑う。
「あまり遅くならない程度にね。」
「はい。また帰りも
気ままに散策したいので・・・・・・
18時頃には帰ります。」
「よし。食べたい飲みたいものがあったら、
遠慮せず言ってくれ。従業員特権だよ。」
―拓馬さん。それはちょっと違う気が・・・・・・
特権を濫用する拓馬に、晴は苦笑いをする。
「お言葉に甘えます。
兄からマスターの料理は美味しいって
聞いていたので、是非堪能したいです。」
「おお。あいつめ。嬉しいことを。
そこまで言ってくれるのなら、
腕を振るおうじゃないか。
よし。是非堪能してくれ。」
「とても楽しみです。」
ゆりは、嬉しそうに笑った。
柔らかい笑顔が、学と似ている。
そう思いながら晴は、
可愛い来客を温かく見守った。
午後9時を過ぎた頃。
晴は自宅の最寄り駅を降り、歩道を歩いていた。
彼女と同じように、帰路につく者が疎らにいる。
まとめていた髪を下ろし、既にオフ状態だった。
ゆりとはあの後、
一緒に拓馬のまかない料理を堪能し、
地元・博多の話で盛り上がった。
故郷の事を思い出し、晴は少しだけ
帰りたいという気持ちになった。
退職の有休消化中に帰ろうと考えていたのだが、
その余裕もなく時間が過ぎ、今に至る。
―・・・・・・落ち着いたら、
お休みもらって帰ろうかなぁ。
そしてゆりは宣言通り、
18時頃に店を後にした。
“藤波さんのピアノは、
多くの人に力を与えます。
これからも、心の赴くままに弾いてください。”
宣託のような、啓示のような、
不思議な言葉を残して。
―『彼女は、未来を読む。』―
明也の言葉が本当なら、もしかして彼女は
自分の未来が見えたのだろうか。
晴は、まだ掴めずにいる
ゆりの言葉を心に刻んだ。
学にせよ、ゆりにせよ、
自分をしっかり認めてくれている。
それが真っ直ぐに伝わり、感謝でいっぱいになる。
熱帯夜の風も心地好い。
帰路の足も軽かった。
その中、すぅ、と冷たい風が
腕を吹き抜けた気がした。
晴は自然に、吹き抜けた方向へ視線を移す。
コンクリートの壁沿いに背を向け、
うずくまり顔を伏せている人影。
小学生くらいの子どものように見えた。
空間の変化を、肌で把握する。
「・・・・・・あの子、幽霊よね?」
“彼らの世界”に踏み入れている証として、
明也の姿を目で捉えた。
自分の横に並ぶようにして立つ彼に尋ねると、
しばらく間を置いて頷く。
何か様子がおかしい。
「どうしたの?」
『・・・・・・』
返事がない。
うずくまる子どもの姿を、黙って見捉えている。
「明也?」
『・・・・・・話し掛けてみてくれ。
充分に、用心しろ。』
明也は告げた。
『何かあったら、すぐに俺が引き寄せる。』
無表情の彼は、隙がない。
尋ねたかったが、それも許さない程
人影から視線を逸らさなかった。
言われた通りに、晴は慎重に近づく。
距離を保って人影に、優しく声を掛ける。
「・・・・・・大丈夫?」
“彼”は、ゆっくり顔を上げた。
不敵な笑み。
その不気味な程吊り上がった口の端に、
見覚えがあった。
思い出す瞬間、晴は
後ろに引っ張られる感覚に襲われる。
視界はすぐに、
明也の胸元を映した。
『やはり、か。』
確信の響きに近い。
『“奴”が仕掛けてきたようだ。』
“奴”。
その一言で、背筋が凍る。
晴は明也の腕の中で、その姿を確認した。
“彼”は、ゆっくり立ち上がる。
容姿は子どもに違いない。
だが、纏う風に違和感があった。
黒い風。
その禍々しさは、忘れもしない。
「でも、どうして・・・・・・」
―今まで、こんなことはなかった。
『刺客の網にも引っ掛からず、
痺れを切らしたのだろう。
・・・・・・駄目であれば、“奴”なら
新しい策を考える。』
纏っている漆黒の風は
知る限りであるが、
その子ども自体が違和感を拭えない。
『“彼”は、操られている。』
耳を疑った。
「そんなことが・・・・・・」
できるの?
言葉にならず、晴は恐怖で息を漏らす。
『可能にする。“奴”なら。』
“彼”の目は虚ろで、何も映さない。
口元だけが笑っているその表情は、
ひどく不気味に見える。
「・・・・・・助けなきゃ。」
ぽつりと言葉を漏らした。
それは、勇気を振り絞る為だ。
奮い立たせるような響きを持っている。
『ああ。』
明也は相槌を打った。
二人は、怒りに近い感情を抱く。
何の罪もない、子どもの幽霊。
恐らく不慮の事故で亡くなり、さまよう魂。
力のない“彼”の隙間に入って
意のままに操る、その忌々しい風。
許せない。
強い共鳴が起こる。
『晴。いい機会だ。試弾しよう。』
試弾。
ピアノでもその言葉は使われる。
だが彼の言葉が示すのは、本来の意味の方だ。
晴は言われるままに、
ショルダーバッグの中から拳銃を取り出す。
『準備はいいか?』
「いつでも。」
銃弾の試作品。
生命力を練り、形と成したものである。
日々二人が手を取り合い、
念を籠めて錬成したものだ。
それは、彼が持っている。
晴が左手を差し出すと、その手を
明也は同じ左手で握った。
繋がった手の間に、風が集まっていく。
出現した弾倉の中には、既に3発装填されている。
晴はそれをセットしようとするが、
練習のようにはうまくいかない。
スライドが引けず、手間取る。
その間に、黒い風と化した“彼”が
襲い掛かってきた。
明也が晴の身体を包んで避ける。
二人は風となってコンクリートの壁を越し、
“彼”の目に触れない物陰に潜めた。
「ごめん、うまくいかなくて・・・・・・」
彼女は、即座にできなかった事を悔やむ。
黒い風の様子を窺いながら、
明也は冷静に言葉を掛ける。
『いや、いい。
思った以上に“奴”の動きが速い。
あのままセットして
アクションを起こせたとしても、
命中は難しかっただろう。
・・・・・・“奴”を固定した方が良さそうだ。
とりあえず弾倉をセットせずに撃ち、
“奴”の動きを止める。』
「・・・・・・この前のように?」
以前黒い風と対峙した時、
銃を撃って動きを止めた事を思い出す。
彼は頷いた。
『足止めできる時間が知りたい。』
あの時は、学が囮になって引き付けてくれた。
今は、自分たちしかいない。
「・・・・・・分かった。」
いつもなら弱気になっていたが、
気持ちが後押ししてくれている。
―“あの子”を助けなきゃ。
苦しんでいる。
『きつい思いをさせるが、踏ん張れ。』
力強い言葉。
その言霊に、彼女は頷く。
『出るぞ。』
黒い風を纏った“彼”は、再び目の前に現れた
晴と明也へ目掛けて駆け出す。
怯まずに見据えて、晴は拳銃を素早く構えた。
同時に明也が彼女の頭の上に手を置く。
ダァン!!!!
見えない軌道が、“彼”にぶつかり命中する。
黒い風は動きを一時的に止めるが、
すぐに駆け出す。
明也は再び風となり、晴を連れて物陰に潜めた。
「はぁ、はぁ・・・・・・」
息切れする晴を、明也は労うように見守る。
『・・・・・・足止めできる時間は、10秒か。』
「思ったよりも・・・足止めできないね。
どうしよう・・・・・・」
―どんなに素早くしても、
10秒を軽く超えてしまう。
息を整える暇がない。
『充分だ。』
「えっ?」
『風になれば問題ない。
・・・・・・積み重ねた時間を信じろ。』
切迫した状況の中で、晴は戸惑う。
「どういう事?風になるって・・・・・・
『風の状態のまま撃つ。
そうすれば君の負担は少ない。』
「意味が分か・・・・・・」
急に、口を塞がれる。
彼の唇で。
考える間もなく、風と化す。
黒い風を纏った“彼”が、二人の風に気づいた瞬間。
ダァン!!!
二人の渦巻く風の中心から、銃声が響いた。
軌道が命中し、黒い風は動きを止める。
1.
二人は姿を現す。
2.
手を取り合い、弾倉を出現させる。
3.4.5.
弾倉をセットし、スライドさせて充填完了。
6.
銃を構える。
7.
明也が晴の頭の上に手を置く。
8.
狙いを定める。
9・・・・・・
ダァン!!!
いつもよりも、反動が大きい。
晴は後方に仰け反る。
それを背後から明也が支え、受け止めた。
強い光が放たれ、“彼”の周囲を包む。
その光に、
“彼”は驚愕しているように見えた。
一瞬にして、黒い風は跡形もなく消え去る。
同時に、解放された“彼”が
その場に崩れ落ちた。
瞼を落とし眠るその表情には、ようやく
本来のあどけなさが浮かぶ。
晴は、ひどい脱力感に見舞われた。
立っていることができない。
足が崩れ落ちて、その場に座り込む。
動悸も激しい。
息を整えるのに必死だった。
『よくやった。』
彼の囁きが、いつもよりも近く感じる。
支えるように後ろから抱き留める
彼の腕も、いつもより温かい。
「うまく、いった・・・の?」
途切れ途切れに伝える彼女の息遣いは、
ひどく苦しそうだ。
『ああ。試作品は充分適応する。
・・・・・・その場しのぎかもしれないが、
“奴”に与えた衝撃は大きい。』
「良かっ、た・・・・・・」
明也の言葉を聞いて安心したのか、
晴は微笑む。
―“あの子”を、
黒い風から開放することができた。
横たわる“彼”は動かない。
だが、完全に違和感はなくなった。
寝顔を見守り、ふと明也に尋ねる。
「このまま・・・・・・
“この子”は、消えちゃうの・・・・・・?」
どんな子だったのか。
話も聞けずに見送ることになるのか。
『・・・・・・残念だが・・・・・・』
なだめるような響きを持った、彼の声。
視界が緩んだ。
涙が溢れ、頬に伝う。
「・・・お話したいな・・・・・・」
話しかけても、“彼”は答えない。
晴が流すその涙を、
明也は大きな手で優しく拭う。
「話したかったなぁ・・・・・・」
嗚咽するのもきついだろう。
彼は、彼女を包む腕に力を籠める。
『見送ることが、精一杯だ。』
彼の言葉は、包み隠さない。
つらかったが、
受け入れるしかなかった。
“彼”の身体が、さらさらと粒子になって天に舞う。
その行方を、二人は最期まで見送った。
晴は、歩いていく。
うねった髪が、ねっとりした風に舞う。
零れ落ちる涙を拭い、夜空を仰いだ。
少し欠けた月が、暗闇に滲む。
止まらない涙を、どうすることもできない。
彼女の周りを包む風。
彼はずっと、離れずにいてくれる。
自宅のマンションに辿り着き、階段を上がる。
その足は、とても重い。
引きずるように歩き、やっと玄関まで来た。
迷わず、彼女はショルダーバッグから
“灰色の空間の鍵”を出す。
『晴。今日はもう休め。』
制するように、彼が声を掛ける。
彼女は首を横に振った。
『・・・・・・晴。』
「休みたくない。」
発した声音は小さいが、籠った気持ちは強い。
「備えておかないと。」
―いつ、何が起こってもいいように。
晴は、“鍵”を差し込む。
明也はそれを、もう止めなかった。
*
日曜日の午前11時頃。
晴は、自分の鉛のように重い身体を
起こすことが出来ずにいた。
先程何とか這いつくばって
トイレには行けたが、足に力が入らず
歩くことが困難だった。
寝たきりの状態で、ベッドにいる。
もう準備をして家を出ないと、間に合わない。
―どうしよう・・・・・・
力が入らない・・・・・・
『無理をするからだ。』
仰向けの状態で動けない晴を、
明也はベッドの際に座って見下ろしている。
『休めと言ったのに。』
「だって・・・・・・」
『君は意外に頑固なところがある。
悪いとは言わないが・・・・・・
身体を壊すまでになっては、元も子もない。』
「・・・・・・」
何も言い返せず、晴は眉尻を下げて
ため息をつく。
発熱はないのが幸いだが、足の踏ん張りがきかない。
かろうじて手は動かせるので、
スマホを操作する事はできそうだった。
『マスターに連絡した方がいい。』
「うん・・・・・・」
晴は仕方なく操作して、通話を押す。
相手は、3コールした後に応答した。
《おはよう。どうした?》
「おはようございます・・・・・・
えーっと・・・・・・あの・・・・・・」
―・・・・・・
何て言えばいいの?
《・・・・・・?》
『素直に言うべきだろう。』
《何かあったのかい?》
―・・・・・・それしかないよね・・・・・・
「・・・・・・すみません・・・・・・」
一生懸命、頭の中で言葉を探す。
「えっと・・・・・・その・・・・・・
寝ていれば、治ると思います・・・・・・」
《体調が優れないんだね?熱は?》
拙い言葉でも拾ってくれる拓馬に、
晴は唯々感謝する。
「発熱はありません。ただ、その・・・・・・
足に力が入らなくて・・・・・・」
《・・・・・・疲労かな・・・・・・
慣れない立ち仕事で
ずっと頑張っていたからだろうね。》
「・・・・・・行きたかったですが・・・・・・」
《・・・・・・うん。分かったよ。
何かあったら、必ず連絡してくれ。》
「はい・・・・・・
ありがとうございます・・・・・・」
《・・・・・・
莉香ちゃんとマナには、僕から伝えておくよ。》
「はい・・・・・・失礼します・・・・・・」
《お大事に。》
見えない相手に
頭を何度も下げながら、通話を切る。
はぁ、と深いため息をついた。
―莉香には、後でメールしておこう・・・・・・
『学の妹は、君と会えなくなることを
見越していたのかもしれないな。』
「え・・・?」
『君に話し掛けたのも、
言葉を残したのも、合点がいく。』
―・・・・・・言われてみれば、
そんな感じだったかも・・・・・・
・・・・・・ゆりちゃんに、
もう一度会いたかったな・・・・・・
しゅんとする晴を、明也は見つめている。
その視線を受け、彼女も彼に目を向けた。
『・・・・・・』
「・・・・・・」
手探りでタオルケットを取り、
身体と顔の下半分を隠すように被る。
「・・・・・・今から、寝るから。」
『・・・・・・ああ。おやすみ。』
表情からは読み取れない。
明也は“席を外す”事なく、視線を注いでいる。
それを受け続け、晴の鼓動が騒ぎ出す。
「・・・・・・そんなに見つめられたら・・・・・・
眠れないですけど・・・・・・」
『君が眠るまで見届ける。』
「えっ。な、何で?」
『恥ずかしがる意味が分からない。』
「見届ける意味も分かりません・・・・・・」
『昨日あれだけ顔を近づけて
くっついておいて、今は恥ずかしいのか?』
―うぅ。
ストレートにそんな。
容赦ない明也の言葉に、晴は頬を紅潮させる。
風となる手段がキスなんて、おとぎ話ですか?
そう尋ねたくなる。
昨日、ようやく把握した。
初めて心を重ねた時も。
樹に会いに行った時も、
昨日の黒い風の動きを止める時も。
それが、発端となっている。
「昨日は昨日でしょ・・・・・・」
『変わらない。』
「熱が出るかも・・・・・・」
『見たところ、それは大丈夫だ。』
「・・・・・・」
―真面目に答えないでよ・・・・・・・
彼の視線を遮るように、
頭まですっぽりタオルケットを被る。
煩い鼓動を鎮めるように、瞼をぎゅっと閉じた。
『それで抵抗したつもりか?』
その言葉が気になって
そっと目を開けると、
明也の顔が視界にクローズアップする。
「ひゃあっ!」
『ふはは。』
「もう!」
もはやタオルケットの壁は無意味なので、
顔だけ出して明也を睨む。
だが、その顔は笑っていた。
彼女の笑顔を見て、彼も笑う。
『やっと笑顔が見られた。』
「驚かすの、ほんと好きよね。」
『幽霊の性だろう。』
「明也そのものでしょ・・・・・・」
『生身じゃ出来ない事をしたくなる。』
「・・・・・・」
―その気持ちは、分からなくもない。
『とにかく、たくさん寝ることだ。』
「たくさん寝れば、治るかなぁ・・・・・・」
『寝ることが、最も有効だ。』
「・・・・・・はい。」
素直に受け入れて、晴は瞼を閉じる。
―・・・・・・見守られながら眠るとか・・・・・・
子どもみたい・・・・・・
『たまにはいいだろう。』
「・・・・・・うん。」
―・・・・・・安心する、かも。
『今日は一緒に過ごそう。』
自分の日常生活に支障が出ないよう、
彼は普段気を遣って
姿を見せることを控えている。
それを理解していた晴は、口元を緩めた。
「ほとんど寝るかもしれないけど・・・・・・
いいの?」
『寝顔を見るだけで、充分過ごせる。』
―・・・・・・
思わず瞼を上げて、明也に視線を送る。
「・・・・・・私が寝ている時も、いるの?」
『君の寝顔は、ずっと見ていられる。』
そう言ってのけた彼の表情には、
穏やかな笑みが浮かんでいる。
これを、平然と受け入れられる彼女ではない。
「・・・・・・」
言葉が出てこない。
頭の中が真っ白になって、
顔は赤くなるばかりである。
『だから気にするな。安心して寝ていい。』
どう返したらいいか分からなくなった晴は、
半ば強制的に瞼を下ろした。
そんな彼女に、
明也は優しい眼差しを送る。
リビングは、静かになった。
いつもと違う静けさ。
彼が、自分を見守っている。
視界は閉ざされていても、温かい安堵に包まれる。
勿論、寂しさはなかった。
晴が眠りについて、数時間後。
プルルルル・・・・・・
プルルルル・・・・・
枕元に置いていたスマホの着信音で、
彼女は目を覚ました。
それを手に取り、まだぼやける目で画面を確認する。
―・・・・・・莉香?
身体を起こし、すぐに応答した。
「・・・・・・ごめんね、莉香。
行くことができなくて・・・・・・」
《それはいいよ。大丈夫?》
「うん・・・・・・」
棚の上に置かれているデジタル時計に
目を向けると、時刻は18時32分を表示している。
―うわ。爆睡したなぁ。
《動けないって聞いたけど・・・・・・》
「・・・・・・今は、歩けそう。」
身体を起こして、
スマホを宛がえるようになっている。
足を動かしてみると、
踏ん張れそうな気がした。
視線を感じて目を向けると、
眠る前座っていた場所に明也がいた。
目が合うと、彼は微笑み返す。
本当に、あれからずっと
自分の寝顔を見ていたのか?
その事が巡り、顔が火照りそうになった。
《実は今ね、玄関前にいるの。》
「・・・・・・えっ?!」
莉香の言葉に驚いて、すぐに
ベッドから降りて床に足をつける。
急に立ち上がったせいで眩暈を起こすが、
何とか持ちこたえた。
『まだ本調子じゃない。ゆっくり歩け。』
彼の言う通りに、彼女は
フローリングの上をゆっくり歩いて
玄関に向かう。
まだ少しふらつくが、歩けている事に
晴は安堵した。
ドアを開ける際、生温い風が吹き込む。
エアコンを効かせていたので分からなかったが、
外の気温は高いようだった。
莉香が、スマホを耳に宛がって立っている。
心配している彼女の表情は、以前
自分が塞ぎ込んでいた時の事を思い出させた。
かつて、大きなエコバックに
大量の酒と総菜、お菓子を詰めて
泊まりにきた時の彼女と重なる。
そして足元には、
同じ表情を浮かべている莉穂がいた。
耳に宛がっていたスマホを下ろして
通話を切ると、晴は
二人を交互に見ながら尋ねる。
「わざわざ来てくれたの・・・・・・?」
莉香もスマホの通話を切り、
それをハンドバッグに入れながら言う。
「当り前でしょ。
動けないっていうから、行くしかないと思って。」
彼女は本当に、行動力がある。
それが羨ましいと、晴はいつも思う。
「下にマナを待たせてあるから、
家には上がれないけど・・・・・・」
「ううん。来てくれてありがとう・・・・・・」
「本当は心配で、誕生日会どころじゃなかったよ。
でもゆりちゃんが来てるからと思ってさ。
・・・あっ。マナの妹さんの名前ね。」
「・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」
しゅんとする晴を見て、莉香は顔を綻ばせる。
「何で謝るのよ?変なの。
ゆりちゃんが新幹線で帰るのを、
マナと一緒に見送ってさ。その帰り道に寄ったの。
・・・・・・思ったより大丈夫そうで安心した。
顔色もいいし。」
「うん・・・・・・今はね。
朝は身体も起こせなくて、足が踏ん張れなかったの。」
「えっ。結構重症じゃない。」
「でもね、爆睡したら
歩けるようにはなったよ。」
「・・・・・・病院で診てもらったら?」
「多分、大丈夫。
エネルギー切れだと思う。」
「・・・・・・もしかして、彼絡み?」
「・・・・・・うん。」
「頑張り過ぎたわけね。」
―莉香って、どうして分かっちゃうんだろう?
莉穂が、晴に向かって
とことこ歩いてくる。
ぽす、と彼女の足にくっついた。
抱きつく小さな腕から、温かさが伝わる。
癒してくれているのだろうか。
だるさが、少し軽くなるような気がした。
晴が足元に目を向けていると、
莉香は首を傾げて尋ねる。
「どうしたの?」
「・・・莉穂も、心配してくれているみたい。」
「・・・・・・だよね。」
莉香は驚くことなく、笑みを浮かべる。
そして肩に掛けていた
大きなエコバックを、晴に手渡した。
「拓叔父さんの手料理。
誕生会のやつだけど、パックに
出来るだけたくさん詰めてもらったの。
あと、お土産のお菓子も入っているから食べて。」
彼女は軽々と持っていたのだが、
渡されたエコバックは
かなり重く感じた。
肩に抱えることが出来ず、足の甲で支える。
「ありがとう・・・・・・」
じんとくるものがあった。
とても有り難くて、たまらない。
「・・・・・・誕生日デート、楽しかった?」
その問いに、莉香は
満面の笑みを浮かべて答える。
「も~ね。最高だった!楽しかったよ!
とっても素敵で幸せな誕生日迎えたのって、
歴代トップかも!はしゃいじゃった!」
晴も嬉しくなって、笑顔になった。
彼女を見ているだけで、幸せになる。
―佐川くん、
念入りに準備してたもんなぁ・・・・・・
うまくいったみたいね。良かったぁ。
「話聞きたいなぁ。」
「うふふ。今度ゆっくりね。
たっぷり聞いてもらうから覚悟しといて。」
「ふふっ。うん。」
「じゃあまた近いうちに。」
「うん。」
「あっ、そうだ。
拓叔父さんからなんだけど、
良くなるまで休みなさいとのことでした。」
「えっと・・・・・・
明日はもう大丈夫だと思う。」
「そうなの?良かった~!
明日お店行きたいけどさ~。仕事でいけないかも。」
「莉香こそ身体に気をつけてね。」
「大丈夫!今の私は最強!」
「ふふっ。」
「えへへ。」
互いに笑い合う。
足元にいた莉穂も、満面の笑みを浮かべていた。
「・・・あっ、莉香。本当は誕生日会で
プレゼント渡すつもりだったの。
今渡してもいい?」
「えっ?ほんと?嬉しい!」
「ちょっと待っててね。」
一旦晴は、大きなエコバッグを
引き摺るように持ってリビングへ戻っていく。
帰ってきた彼女を、
明也は顔を緩ませて迎えた。
彼に目を向けて笑顔を返すと、
エコバッグをテーブルの近くに置く。
そしてクローゼットの中から、
綺麗に包装された小さな箱を取り出した。
それを持って再び玄関へ戻っていく晴を、
明也は温かく見送る。
「こんな形でごめんね。
誕生日おめでとう。莉香。莉穂。」
それぞれに声を掛けて、プレゼントを差し出した。
「ありがとう!」
莉香は、それを嬉しそうに受け取る。
言葉を掛けられた莉穂も、
この上ない笑顔で応えた。
手を振って帰っていく莉香と莉穂を、晴は
姿が見えなくなるまで見送る。
生温かった風は、いつの間にか
夕暮れとともに
穏やかな風へと変わっていた。
リビングに戻ってきた晴の表情は、
灯された電灯のように明るい。
『いい友人だな。』
そんな彼女を、
明也は柔らかい表情で見守る。
「うん。元気出た。」
大きなエコバックの傍に座ると、
ほくほくしながら中身を覗く。
『すごいな。』
「うん。こんなにたくさん・・・・・・」
晴は、幸せそうに息をつく。
中身を取り出さずに眺めている
彼女の様子を、彼は可笑しそうに尋ねる。
『中身出さないのか?』
「うふふ。もう少し浸らせて。」
―だって、宝箱みたいなんやもん。
穏やかな時間が過ぎていく。
この日曜日は、二人にとって
貴重な休息の日となった。
気づいていた。
明日を迎える事。
それは、これから起こる事象に
立ち向かう事なのだと。
今を噛みしめて、過ごそうと。
*
翌日、午後17時を過ぎた頃。
“Calando”のフロア内で、
会議のように顔を合わせる4人がいた。
和装の紳士を交えての集会は、
定期的に行われている。
開始の頃合いは、学が出勤して
夜の開店時間を迎えた後、
晴と示し合わせる時である。
『なんと・・・・・・それは大問題じゃ。』
話の内容は今、
晴と明也が土曜日に遭った、
“黒い風”に操られた“彼”の事についてである。
『それを可能にする輩は、史上最悪じゃ。
当代から話は聞いておったが・・・・・・
極まりない奴じゃのぅ。』
『彼女と錬成した銃弾は、“奴”に効いたようです。』
『それは良かった。
賭けに近かったからのぅ・・・・・・
連発は、お嬢さんの負担も大きかったじゃろう。
よう耐えなさった。』
「何とか追い払えて
良かったのですが・・・・・・」
思い出したのか、晴は顔を曇らせる。
それを察した学は、眉間にしわを寄せた。
「マジ許せないっすね。」
『掛かりやすいように
子どもの“彼ら”を使うところ・・・・・・
“奴”は、彼女の方に強く
関心を向けていると思います。
学の方にも及ぶ可能性はありますが、
“管理人”の目が効いているのと
御仁のお力添えもあって、容易には狙えないはず。』
『そうじゃな。“黒い風”は、
“儂ら”の存在を知っておる。
・・・・・・だが、油断禁物じゃ。
警戒しておかなければのぅ。』
「そうだよな・・・・・・これから気軽に
話し掛けられないっていうか。」
「そうなの・・・・・・」
『俺も感知できなかった。』
フロア内は、しんとする。
しばらく重い沈黙が支配したが、
それを裂くように、
和装の紳士は言葉を告げた。
『・・・・・・封じる手立てが必要じゃな。』
「封じるって?」
『その言葉通り、動けなくすることじゃ。』
『自分も見解は同じです。』
明也も、続くように言葉を紡ぐ。
『消滅させる手立てが見えない。
山を張って立ち向かうよりも、
その場に縛って
じっくり手立てを考える方が、
被害を最小限に抑えられる。』
学は、うーんと唸る。
「つまり、どうすればいいんだ?」
『それを今から考えるのじゃ。愚か者。』
「あ。それ悪口?」
『・・・・・・別の件になりますが、
話しても構いませんか?』
『苦しゅうない。申してみよ。』
「時代劇かっ。」
『重い空気じゃから、少しは上げようと思うて。』
「それで上がるのかよ?」
『以前、彼女の出勤時に出逢った
少年の事なのですが・・・・・・』
樹の事だと察した晴は、明也に目を向ける。
その詳細を話していくにつれて、
和装の紳士は考え込むように俯く。
表情は相変わらず、
豊かな白い眉と髭で隠れて見えない。
『ほう・・・・・・そんな少年がおったとは。』
「片桐兄さん。その子は今大丈夫なんっすか?」
樹の病状、術後の経過を気にしたのか、
学は神妙な面持ちで問う。
それに、明也は真摯に答える。
『とりあえず、手術は無事に終わったようだ。
・・・・・・一時的な措置しかできないのが
現状だ。彼の病は先天性心疾患で、
完治を目指すのは難しい。
最善、移植手術が必要になる。
しかし彼の体力も、ドナーも、
家庭の事情もそれに伴わない。』
晴も学も、顔を俯かせて黙り込む。
和装の紳士は、間を置いて静かに言葉を述べた。
『そのフィルムが、
お主は気になるということじゃな?』
『はい。写っているものは、恐らく
俺の記憶に関するものではないかと思います。』
初耳だった。
晴は顔を上げて、目を見張る。
彼女と視線を通わせ、明也は告げた。
『樹は、無意識に対象の本質を切り取って、
それを写真に残している。
“俺たちの世界”に踏み入ってしまった
起因は、それしか考えられない。』
『なるほどのぅ。』
「えっ、てことはつまり・・・・・・」
『俺たちを撮った
そのフィルムを目にした時、
彼女に変化があれば間違いない。
それとともに、俺の記憶も蘇る可能性が高い。』
確信を得たように、和装の紳士は唸る。
『それは大きな前進になるぞ。
お主の考えは的を射ておる。
・・・・・・それならば、
そのフィルムの使い道も多様に出てきそうじゃ。
是非とも拝借せねばのぅ。』
―樹くんが撮ったフィルムに・・・・・・
何が写っているんだろう?
晴は、改めてそれを思う。
―ちょっと怖いけど・・・・・・見てみたい。
『近々、彼女が
その少年のお見舞いに行きます。
・・・・・・その際に、学。
君も一緒に行ってほしい。』
真摯な眼差しを向けられた学は、
それに応えて力強く頷いた。
「断る理由はないっす。行きます。」
『ありがとう。』
『当代に伝えておこう。
・・・・・・“黒い風”を封じる手立てに
繋がるかもしれぬ。』
『はい。自分もそう考えています。』
この日の集会は、後に起こる
とある事象の発端となる。
明らかになる時が、迫っていた。
*
「・・・・・・ねぇ。生きてる?」
死にそうだけど。
「・・・・・・」
弱ってるあんた、見たくないんだけど。
「返事もできないの?」
「・・・・・・」
起きなさいよ。
「・・・・・・しばらく、来るな。」
やっと吐けた言葉が、それ?
「何かあったの?」
「・・・・・・」
まぁ、何かあったから
苦しそうなんだろうけど。
「自由にしていいってこと?」
「・・・・・・役立たずが。」
へぇ、そう。
減らず口叩けるなら、大丈夫だね。
あくどい事考えている証拠だ。
「じゃあ、呼ばれるまで来ないから。」
「・・・・・・」
「スタジオもらっていい?」
「・・・・・・好きにしろ。」
言ってみるもんだね。
呼ばれればすぐに戻るさ。
私の居場所は、ここ以外ないから。
*
8月中旬。
蝉時雨とともに
デジタル時計のアラームが耳に届く。
腕を伸ばしてそれを停止させると、
晴はゆっくり身体を起こした。
まだ眠たいのか、瞼を閉じたまま動かない。
エアコン設定温度は28度。
電気代節約の為だが、
少し汗ばむ程度に暑さを感じる。
うなじに手をやりながら、ようやく
ローベッドから足を下ろした。
自然な流れで、テーブルの上へ目を向ける。
そこには、ガラスドームに入れられた
プリザーブドフラワーが置かれていた。
黄色を基調にした、鮮やかな色合い。
しばらくの間それを眺める。
―お花飾るの、いいかも・・・・・・
気持ちが穏やかになると同時に、
眠気も覚めていった。
これは、お見舞いの贈り物である。
少しでも和らぐように。
立ち上がり、朝のルーティンを始めた。
軽くストレッチして、いつもの洗顔。
夏場の必需品、汗拭きシートで爽快感を得る。
この日の朝食は、
軽くトーストした食パンとハムエッグ、
お椀サイズのサラダボウルに
レタスと胡瓜を入れ、
“Calando”自家栽培のミニトマトを乗せたサラダ。
胡麻ドレッシング掛けると絶品だ。
それと、シャインマスカット。
取引先の田辺からの中元で、たくさん貰ったからと
拓馬から一房頂いた。
数粒ずつ、大事に食べている。
そしてスーパーで安売りしていた
ペットボトル1Lのアイスコーヒー。
店で堪能するものとは段違いだが、
これはこれとして好んで飲んでいた。
朝の報道番組を見ながら、食事を摂る。
この時、向日葵の座布団は
いつも傍に敷いている。
明也の特等席なので、
断らずに彼は自然と姿を現していた。
彼女と彼の、いつもの朝。
ただこの日は、予め休日を取っていた。
待ち合わせの時間は、10時。
余裕を持って、三時間前に起きて今に至る。
静かに朝食を終え、
食器を持って台所へ歩いていく。
片づけが終わり、リビングに戻ると
彼の姿は消えていた。
身支度時の配慮。
彼は意外と律儀だなと、彼女はいつも思う。
歯磨きをした後、着替えてメイクを施す。
アイシャドウは軽めにして、
ナチュラルに仕上げた。
会社員時と同じで、
ボリュームを抑えるように髪留めする。
後ろに結い上げようと思ったが、
身も心も緩めていこうと決断する。
自然体でいこう、と。
身支度が整うと、晴は
クローゼットから紙袋を取り出した。
それを広げてテーブルに置き、
両手でガラスドームを持つ。
何かを語っているような、ガーベラの顔。
彼女は柔らかく微笑んで、見つめた。
そっと、紙袋の中にガラスドームを入れて、
ショルダーバッグを肩に掛ける。
『行こうか。』
彼の声が掛けられる。
彼女は頷くと、玄関へと歩き出した。
長い一日が、始まろうとしている。