9話「覚悟」
電車に揺られ、自宅のアパートへの道を進む。その間僕らは特に言葉を交わすことはなかった。それは単に会話の種がなくて距離感をはかりかねているのではなく、無言を是としてよい一種の信頼関係があるからだ。
塗装がひび割れて、間から蔦がしぶとく繁茂するアパートの裏側に出る。そこで久々に長島くんが口を開いた。
「先輩の家ってここなんですね」
「見せるもんじゃないよ。こんな酷いところ」
そのアパートは往年の貧困層が住むにふさわしい、十五平米のワンルームの部屋が埋め込んである立て付けの悪い扉が、コピーペーストしたように画一に並んでいる。この収容所のようなアパートの唯一良いところは、僕みたいな人間でも暮らせる程度にしか家賃を請求されないところだ。
「そんなのもう関係ないじゃないですか。──おや、アパートの前に見慣れた顔がありますね」
「え?」
アパートの横から正面を覗いてみると、アパートの大家(こっちは長島くんは知らないだろう)と話す主任の姿があった。中老くらいの大家は、薄くなった黒髪に生命力を感じさせないしなびた白髪が目立ち、女性らしい輝きを失って老婆への過渡期を表す風貌だ。
「いやな予感がする。隠れよう」
僕は長島くんと共に主任の視界に入らないよう移動し、遠巻きに二人を観察する。
「マスターキーで笹本さんの部屋に入ってみたけど、財布や携帯どころか、家の有り金全部なくなってるよ。あなたの言うとおり夜逃げというか、失踪したみたいだね」
大家は抑揚なく語る。人間一人の失踪は、大家にとっては面倒な事務作業でしかないようだ。
「いやはや、うちの者が急に失踪だなんて迷惑をかけて申し訳ない」
主任は誠意の篭もってそうに錯覚させることのできる、慇懃無礼な態度で大家に謝罪する。誰がうちの者だ。
「いやいや、お互い様ですよ。顔を上げてください」
大家は手慣れた風に主任に対応する。
「なにせ27歳にもなって定職に就けず、近所付き合いもできない男。こうなる未来は見えてましたよ」
大家は俺を知った風に語る。
こいつらに何が見えているのか。失望を通り越して、失笑すら浮かんでくる。能力もなく人を束ねる立場に立った人間は、その下にいる人間を蔑むことで己の安寧を図る。いつか自分の無力がばれてしまわないように、上を見ることを恐れている。
「とはいえ、失踪したのに変わりはないでしょう。素直に警察を呼ぶべきですね」
「警察! ほう、警察ですか……。いや、いいんですが、案外しばらくしたらふっと戻ってくるかもしれません。あまり大事にしたくないのはそちらも同じでしょう?」
警察という単語を聞いて主任の目の色が変わった。何かやましいことがなければあの目にはならない。狼狽する主任と対照的に、大家はどっしりと構えてあけすけに物を言う。
「ええ。確かに大事にしたくないのはこちらもそうですが、万が一もあるでしょう。あなたも笹本さんの上司なら、きっと心配でたまらないでしょう。ここは素直に警察に頼った方がいいと思いますよ」
「や、はい、そうですね。笹本君のためです。そうしましょうか」
主任は事大主義を体現したような情けない表情でぺこぺと礼をする。それもそうだ。警察に事情聴取されて、僕にしてきた仕打ちをバラされると考えたら、易々と屈託するしかないだろう。
しかしまずいことになった。警察が来るまで二人がここに留まるとしたら自宅へ戻る隙がない。警察が到着したら何か手がかりがないかと自宅を荒らされてしまうだろう。そうなったらもう手遅れだ。
「じゃあ、もしかしたら笹本さんがひょっこり戻ってくるかも知れませんから、私はここで待ってます。貴方はお仕事に戻った良いですよ」
大家はかつて輝いていた女性らしさを忍ばせた顔を、しわくちゃにしてそう言った。主任はどきっと身みじろぎしながらも、「ええ、そうですね。ではこれで。笹本君の無事を祈ってます」と月並みな感謝を述べた。
興ざめだ。元から分かっていたことだが、悪の象徴は小役人程度の浅薄さしか持ち得ていなかった。それより、充電器を取りに行けなそうなのが困る。
「先輩、どうしますか」
長島くんが小声で尋ねる。
「残念だが、充電器は取れそうにない。とすればどうしようか。たぶんこの型の携帯はもう販売してないから、携帯ショップに行っても売ってるか分からない」
携帯が改めて反応しないことを確かめる。電源の付かない携帯は使い切った木炭のようだ。
「ふぅむ、じゃあこうしましょう」と長島くんは言った。
「僕のノートパソコンからあのサイトにアクセスして、再びメールを送りましょう。こちらが笹本圭だと伝えればメールアドレスが変わっても問題でしょう」
「妙案だな、それ」
思いたったが吉日、僕たちは長島くんの家へ踵を返そうとする。たが、その前に、主任がこっちへ迫ってくるのが見えた。
「おい、長島くん。主任がこっちへ来るぞ。早く身を隠さなきゃ」
「しかし、即座に身を隠せる場所なんてありませんよ」
狼狽える僕と、冷静に現象を把握する長島くん。いかん、僕も落ち着かなくては。
「どうするんだ? 僕の足で主任に勝てるとは思えないし、逆側に逃げたら大家に見つかってしまう
「では、逃げなきゃいいんですよ」
普段無表情な彼が、この時は無邪気な子供のように、口が弧状に曲がる。それにいくらかの不気味さを覚えたが、同時に頼もしくも思えた。
「どういう意味だ?」
「先輩、彼女を殺す練習をしましょう」
長島くんが僕の肩を叩く。──やるしかないんだ。
誰にも気づかれずに血飛沫が宙に舞い、ナイフに付いた鮮血が放物線に揺れる。
コイツの死体はじきに大家が見つけるだろう。警察の能力なら2、3日で僕らを見つけ出すかもしれない。しかし、その前に全て終わっているはずだ。最後に喉が裂け掠れ声しか出せなくなった主任が、憎悪に満ちたおどろおどろしい瞳で僕を睨んでいた。その表情が、路上にうち捨てられたガムのように僕の脳裏にこびりついた。
*
「……あれ!?」
僕は思わず胴間声を上げた。長島くんも声を上げるとまではいかなくても、驚愕の色を浮かべた。それもそのはず、昨日まで「四辻楓」と検索すれば存在したそのサイトが、ネットのどこを探しても存在しないのだ。念のためワードを変えて検索しても同様だ。
「まさか、今になってサイトを消したのか!?」
「いや、ありえると思いますよ。向こうは四辻楓を探す手がかりを見つけたとありましたから、先輩の連絡でこのサイトのことを思い出して、もうサイトは必要ないと判断したのかもしれません」
「あて推量だけど、それが一番しっくりくるな。──じゃあ、連絡を交わす手段が途絶えてしまった訳か」
僕は丸めた拳を顎に添えて考え込むが、彼はそこまで深刻ではなさそうに、俯瞰している風な態度を見せる。
「まぁ、集合場所と時間はわかっている訳ですから、指定された店にいればきっと互いに気づきますよ」
「それもそうだが、大丈夫かな……」
結局その不安感を拭えないまま、退屈で緩慢な時間がずるずると過ぎていった。何もできないもどかしさを抱えながらも、おぼろげな期待に胸を膨らませるしかなかった。
──このままでいいのか。今やっていることは間違っていないのか。答えのない悩みが沸々と湧き上がる。もう何度目の問いか分からない。
十年前、彼女の瞳を見てから僕の心は彼女にあって、今の僕は抜け殻でしかない。精力的な汗が額から垂らしてしなやかな弓を引く姿を追いかけて、十七歳の時に通じ合った。それ以来毎日が夢見心地で、彼女が自身の人生を放棄して幽霊となりはてた(それは確定ではないが)その日を超えて、つい数日前、夢を通して彼女を思い出すまで己の精神は身体と隔絶していた。この肉体労働を繰り返した割に細い腕は27年の蓄積で、この疲労で瘦せこけた頬は無精髭をだらしなく伸ばし、双眼を埋め込む瞼の下には沈鬱な隈が弧状に広がっている。
それでもこのくたびれた体を頼って生きてきた。弓道をしていた頃は確かに日々の身体の成長を実感して、己を信頼していた。失ってしまったものの多さに今になって気がつく。これ以上失うものはないのだから──そうだ、ここが終着点だ。楓を殺そうと意気込む僕は僕だし、長島くんの話を聞いて怯える僕も僕だ。何を迷っている。自分の小ささには気づいている。これは、小さな存在の僕が成し遂げられる、唯一の大きな行為だ。
もしかしたら、17歳のその日から、既にこの運命が決まってたのかも知れない。日比谷、天坂、楓。おのおのの意識が僕の体内に進入し、僕を形作った。いくら孤独を恋願い、未来に絶望しても、人間は決して一人になれないし、過去に縋ったままでは生きられない。未来のない僕みたいな人間の生きた道跡は他人の道に寄り添っている。今だって、長島くんに寄り添っている。
いくら孤立しても結局孤独にはなれない。ああ、弱い。僕は弱い。人間は弱い。過去は弱い。長島くんは強い。楓は強かった。では、彼女は……分からない。
考えれば考えるほど洞察は的を外れる。まるで考えすぎて弓矢が的に当たらなかった十七歳の僕を綴じ込めた、人生フィルムの再上映だ。
僕の心は17歳に縛られている。それは確かだ。しかし、27歳の僕がないことにはならない。過去の、楓を盲目的に恋していた僕が殺すのではない。今の、昔を噛み砕いて取り込んだ僕が殺すのだ。この恐怖と興奮で震える手を持つ、弓の持ち方すら忘れたこの僕が。
窓の外は青の空と緑の木。粘つく夏の熱、蝉がホロリと木から堕落してベランダに不時着した。蝉は間もなく息絶えるだろう。あの蝉は他の蝉と子孫を残せたのだろうか、暗く長い地中生活は過去に捨て去り、繁栄の一瞬の毎日を輝かしく謳歌したのだろうか。仰向けで横目にその蝉を眺めていると、長島くんが窓を開けて、その蝉を外に投げ捨てた。
──このままでいいんだ。そう思えた、最後の昼べだった。




